第6回ひこね市民手づくり第九演奏会ゆり
日時  12月14日(日) 15:00 
場所  ひこね市文化プラザグランドホール
指揮  新田ユリ            

ベートーベン 交響曲第九番「合唱付き」
ワーグナー  マイスタージンガー序曲 
シベリウス フィンランディア 合唱付き


新田ユリ 指揮者プロフィール

 国立音楽大学卒業。桐朋学園大学ディプロマコース指揮科入学。指揮を尾高忠明、小澤征爾、秋山和慶、小松一彦各氏に、又室内楽を三善晃氏に師事。  1990年第40回ブザンソン国際青年指揮者コンクールファイナリスト。1991年東京国際音楽コンクール指揮部門第2位。1991年に東京交響楽団を指 揮してデビュー。その後も東京都交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、などを指揮。また東京佼成ウィンドオーケストラ、東京吹奏楽団などを指揮する など吹奏楽での活動も行っており、キングレコードより東京佼成ウィンドオーケストラとのCDを6枚リリースしている。

 2000年秋より1年間文化庁芸術家在外研修員としてフィンランドに派遣され、音楽監督オスモ・ヴァンスカ氏のもとラハティ交響楽団で研修。同交響楽団での公
演、リハーサルを指揮。他にもフィンランド放送交響楽団ではエサ・ペッカ・サロネン、ユッカ・ペッカ・サラステ両氏のリハーサルをアシストする。2001年8月にラハティ交響楽団メンバーを中心に「アンサンブル・イリス」を結成し、フィンランドと日本の作品をレパートリーとする演奏活動を開始、 今後の活動が注目されている。近年は日本においてもフィンランドを初めとする北欧5カ国の作品の演奏に力を注ぎ その叙情的な感性は高く評価されている。 日本シベリウス協会理事。現在、国立音楽大学・相愛大学非常勤講師
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2003/10/4 10/5
2 10月の始めが新田先生の初練習でした。初練習はオーケストラにとっても指揮者にとっても、とても良い緊張があるものですね。指揮者はオーケストラの力量を試しながらも、オーケストラの性格に引きずられずに、持っている理想像を提示してもらえるように思います。 

 ここから曲づくりを進め、より良いものにしていく練習が始まるわけです。演奏効果を考え、細部をみがいて行く作業ですね。オーケストラの特色、能力に合 わせるとか、練習の過程において、やむを得ず妥協する部分も出てきます。でも初練習の感性豊かな部分は練習中も失いたくないものです。新田先生のタクト は、とても感性にあふれるものの様に感じました。
2003/10/23 10/25 10/26
 23 日木曜日、京都市交響楽団との合同練習が行われ、 25日26日両日にわたり佐渡裕氏の指揮で、滋賀銀行70周年記念ガラコンサートが開催されました。佐渡先生と、新田先生の二つの第九を平行して練習する ことは、それぞれに勉強になり、また京響のメンバーの方の演奏にも良い刺激を受けることが出来ました。解釈の異なるところではうまくついていけなくて、戸 惑うこともありました。今回は練習時間が、土曜日ということで短い3時間で細部まで繰り返し練習することが出来なかったため、「ここそのままでいいのか な」と感じるところもありました。 新田先生はできる限り要点を絞って、しかし的確に練習すべき点、全体とのバランス、フレーズの持つ曲全体の中での意味合いを、明確にしながら練習を進められたように思います。
2003/12/14
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彦根市民第九公演によせて    指揮者  新田ユリ
<シラーの詩が教えてくれる事。そしてドイツ-日本-フィンランド> 

Seid umschlungen, Millionen! 
(抱きあうがいい、千万の人よ!)

シラーのAn die Freude(歓びに寄す)の第一節後半に出てきます。この想いをベートーヴェンはきっと今深い眠りの中で世界に向かって発信しているのではないでしょう か・・。人と人の間で私達は人間となることができます。その当たり前のことが現代という社会では非常に疎かにされてきました。ベートーヴェンは作曲しませ んでしたが、シラーの原詩にはこんな一節があります。

Was den grossen Ring bewohnet, Huldige der Sympathie!
Zu den Sternen leitet sie, Wo der Unbekannte thronet.
 (大いなる環に住まうものは、心を合わせようと努めよ! 通い合う思いは星星に至る、
  かのの見知らぬ方のいますところへ)

これは今地球が必要としている大切なことなのではないでしょうか。信仰のある人も無い人も、今の我々の状況が神の審判の前にさらされているのでは という畏れを持つ必要を感じるのです。人が生きるということ、それはこの地、大地があってこそのこと。人類の知恵は何のためにあるか・・魂はどこから来て どこへ向かって行くのか・・日常思う様々な疑問が今の世界情勢を前にしてそのはっきりした答えを要求されているように私は思います。

 古来日本人はドイツ人と似たところがある、と言われています。又最近フィンランドと接するようになって強く感じるのは、フィンランド人と日本人は非常に 近い感性を持っているということ。それはフィンランド人も感じているようです。とすると、A=B, C=B,よってA=Cとなるのか否か・・・。「森の 民」という言葉、これはゲルマンという民族の名前に含まれている意味だということ、そしてスオミの国のフィンランド人もやはり森の民と言われています。国 土のほとんどは森と湖に覆われているのです。日本はどうでしょう・・日本の大昔の自然への信仰はドイツの汎神論とも共通するように思えます。そしてフィン ランドではカレワラ伝説の世界がまさに同じ自然神を描いたもの。自然界、自然のあらゆる現象を神の霊の実現であるとして畏れ敬っていたゲルマンの民、同じ 思いの北欧の地からも影響を受けながら、一神教のキリスト教の勢力が増すまで有史前後森に宿る霊を畏れ敬う日々を過ごしていました。その魂は有史以降も又 ベートーヴェンの時代にも深く宿り文学、絵画、音楽に描き出されているのです。

Freude trinken alle Wesen, An den Brusten der Natur,
Alle Guten, alle Bosen Folgen ihrer Rosenspur.
(生あるものはすべて自然の乳房に喜びを吸い、善き者 悪しき者すべて薔薇の小径に従う。)

そう、生あるものすべて同じ自然の中で生きています。
それを忘れて傲慢に振舞う人類がすべてを壊しその報いを今受けていると思います。

Kusse gab sie uns und Reben, Einen Freund, gepruft im Tod.
Wollust ward dem Wurm gegeben, Und der Cherub steht vor Gott.
(歓びは我等に口づけと葡萄と生涯変わらぬ友を授け、虫には愉楽を与えた。
そして智天使ケルビムは神の御前にある)

自然を尊び守り育てるものは、必ずご褒美があります。歓びとは努力無しに得られる ものではないと語っているように思います。慈しみ大切にすることが即ち歓びであり、そこから既に多くのものを人類は得ています。そして更に収穫の時には我 々の糧となる実を手にする事ができるのです。こんなに豊かな循環はないと思います。

狩猟牧畜の民であったゲルマン人が大地に根を降ろして農耕も始め千年もの間森と平地での生活を送っていました。その中で大自然の四季の移り変わりを身を もって体験してその神秘に触れていたようです。これはカレワラ神話にかかれたフィンランド人の魂そのものです。狩猟の神タピオ、冬と氷の精ヨウカハイネ ン、太陽の輝きを表す
ポホヨラの乙女、大気の精イルマリネン・・・それらが踊りだす躍動感のある民族叙事詩カレワラ。ゲルマン神話に繋がる北欧神話とはいくつか源流を同じくし ながらも別の文化として伝わっています。同じ森の民としての経験が生み出したものなのでしょう。そして同時にものを大事に育てる事、造る事への無骨なまで の真面目さも育まれドイツの性格を作って来たそうです。フランスやイギリスのような社交的な社会で育ってきた国家ではない。そんな質実剛健な性質がベー トーヴェンの時代にも現代にも生きているのがドイツなのでしょう。

もの造りへの姿勢は日本も似ているところがあったと思います。いまやそれが過去のことになりつつあります。それは自然からものの素材を受け取り返していく という大事なプロセスを忘れてきたからだと思うのです。森林国家であることが共通の日本とフィンランド。フィンランドはパルプの輸出をとうに止めていま す。国土が破壊され
ることへの危機感があったそうです。日本はその危機感を持ちつつも経済原理の中で目をそむけてきて、そして今のっぴきならない状況に追い込まれているのだと思います。

フィンランドの人々は今この冬に向かう季節にパンを持って、麦穂を持って通勤通学をすることがあります。まもなく越冬をする小鳥達にとって厳しい季節にな ります。巣箱を作り、木々にパンや果物をさし、麦穂を枝に置き、そんな小鳥達が困らないようにしています。半分凍りついた池や湖には必ずエサを蒔きに来る 人がいます。学校
でも自然教育は早くから熱心に行います。子供達は鳥の名前も植物の名前も結構詳しいのです。自然を壊す原因となることには、厳しい態度もとります。日本の 過剰包装に対してはこの秋来日したフィンランド人が苦言を呈していました。わざわざこんなにごみを増やしてどうするのだ・・と。全くそのとおりで何も言葉 を返せませんでし
た。

人間社会が発展していくとその姿はどんどん変わっていきます。ベートーヴェンが生きた時代、ドイツも市民社会ができあがりつつあり、日々の生活のなかで恐 らく新しい価値観と実感を体験していたのでしょう。人と人との距離、人と自然との距離、そんなものへ疑問を投げかけながらベートーヴェンが筆を進めていた のではないかと思うのです。
彼の9つの交響曲。これは大きな宇宙を背景に感じます。旋律の素材は多くのものが民謡や古くから地域に広がる歌にヒントを得ている事は意外と知られていな いようです。ベートーヴェンはそれらを素材として、一つの建造物を楽譜の上に立てています。同朋が生み育ててきた旋律への愛着を忘れずに。あらゆる精神活 動、哲学、美への追求・・それらを盛り込みながら。そしてそれを丁寧に育て、音楽の時間の中に編みこみ、壮大な時間と世界観を持つ交響曲というものを造っ ていった人なのです。彼自身がそれを演奏した機会はごくわずかでした。でもこうして今200年ほども経過した時代にこれほど多くの演奏がなされている。指 揮者として今度はその作品という大いなる実りを奏でる事で自然に還していくそんな演奏をしていきたいと思うのです。

シベリウスは7曲の交響曲を書いています。彼の作品の中にも宇宙樹という言葉でよく表される自然との一体感、世界観があります。シベリウスの交響曲には人 間の感情を見つけることは難しい。大自然の神秘を直視し、ありのままに描きこんだ作品と言えるでしょう。そこに人間は自由に足を踏み入れ、考え、学び、そ して又そこから歩
き出していくのです。そんな自由な空間を許してくれるシベリウスの作品。私は作り上げた姿は異なりますが、ベートーヴェンにも同じ事を感じます。作品の世界のもつ大きさ。これは個人的感情だけではない、もっと大きな人類と自然界への大きな愛情があるからだと思います。

シベリウスは若い頃ベルリンで勉強をした時にベートーヴェンに対してこのように思っていました。「才能はたいしたことはない、自分と変わらぬ程度だ。しか しそれを不屈の努力で見事な作品に仕上げている」と。彼にとっての才能とは、当時モーツァルトやメンデルスゾーンのような天衣無縫な旋律美を生み出すこと を意味していたようです。しかしシベリウスも後々交響的世界に触れるようになりその偉大さに次第に敬服していくようになるのです。

Gram und Armut soll sich melden, Mit den Frohen sich erfreun.
 (嘆くもの 貧しきものは名乗り出て楽しいものたちと喜びをともにせよ)

Groll und Rache sei vergessen, Unserm Todfeind sei verziehn, Keine Reue nage ihn.
(恨みと仕返しは忘れ去られよ。仇敵は赦されよ。敵は涙に打ちひしがれずあれ、悔恨にさいなまれずあれ)

Unser Schuldbuch sei vernichtet!
(貸し借りの記録は捨てられよ!)

Ausgesohnt die ganze Welt!
(世界はあまねく和解せよ!)

Bruder uberm Sternenzelt Richtet Gott, wie wir gerichtet
(兄弟よ 星空の上で神が裁く、我等がどう裁いたかを)

これらもベートーヴェンは作曲しなかった分のシラーの詩にありま す。この文章に接した時思いました。なんと人は長いこと同じ過ちの中で時を過ごしてきたのか・・と。今この原稿を書いている11月、世界は又騒乱へと向か おうとしているかのように感じます。戦争は終結していない。大国の勝手な理論により地球が振り回されている。人智をつくして真剣に地球を守っていかねばい けない時代に入っていると痛感します。
毎年この時期に繰り返されるこのベートーヴェンの交響曲第9番。この作品が語るメッセージは壮大なものであり人類すべての財産である事は事実です。その本 当の意味をぜひ今日はオーケストラと合唱とソリストの皆さんすべてと分かち合い語ることができるように、タクトを持ちたいと思います。


楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲 楽曲紹介

 ワーグナーは後にも先にも、笑いのあるオペラは、たったひとつしかつくらなかった。それが、この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」である。彼がこ の楽劇を着想したのは「タンホイザー」を完成したころだが、本格的に筆を進めたのはそれからずっとあとのことで「トリスタンとイゾルデ」から3年後の 1868年6月21日、ミュンヘンで行なわれ、初演のときから大好評をもって迎えられた。

 ワーグナーの諸作品は完成から初演までのあいだに、いろいろな事情でたいてい長い期間を必要としたのだが、この「ニュルンベルクのマイスタージ ンガー」は、脱稿してからわずか数ヶ月後に初演されたのであった。つまり、劇中のワルターのように幸運の星のもとに生まれたのである。

 この作品の特徴は、いままでに彼が好んで用いてきた架空的、神秘的な題材をし、実生活に基づいたけたはずれに楽しい喜劇である点で、中世のドイ ツでさかんだったマイスタージンガー(手工業を本職とする詩人兼音楽家で、とくにニュルンベルク地方に多かった)たちの生活を、面白おかしく描いている。

 組合長のかじ屋のポーグナーが、コンクールの優勝者に娘エヴァを与えるというので、かねてからエヴァと相思相愛の騎士ワルターは出場を申し込 む。三枚目役のベックメッサーは町の書記で、小才のきく男。彼は予選のときにワルターの歌に悪い点数をつけ、彼を落選させて自分がエヴァの夫になろうとい う野心をおこす。靴屋のハンス・ザックスは義侠心に富んだ心の温かい人物で、ワルターがこの町にやってくる前からエヴァを愛していたが、ワルターの才能に 惚れこんで自分の恋を捨て、ワルターを応援してコンクールに優勝させる。というのがあらましの筋である。

 この前奏曲は「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」序曲と同じように、劇の内容を暗示したもので、まず、モデラート・モルト、ハ長調、 4/4拍子のめっぽう明るい「親方歌手の動機」からはじまる。つづいて「愛の思いの動機」がヴァイオリンでやさしく歌われてから、つぎの「親方歌手の行 進」が力強く、堂々とあらわれ
る。これは管楽器のファンファーレふうに奏され、あたかも巨人の歩みを思わせる。このほかにも「情熱の動機」や「嘲笑の動機」などがつぎつぎにあらわれるが、あくまでも既出の特徴のある3つの動機が中心となって発展し、健康でユーモラスな気分をかきたてながら力強く終わる

練習日程
39月 7日  日  午後    今西正和    彦根市民会館
       日  夜     今西正和    彦根市民会館
9月28日  日  午後    今西正和    彦根市民会館
       日  夜     今西正和    彦根市民会館

10月 4日 土  夜   新田ユリ   第1,2リハーサル室 
10月 5日 日  午前  トレーナー  彦根市民会館 弦分奏
       日  午後  新田ユリ   彦根市民会館
10月12日 日  午後  加藤完二   彦根市民会館
       日  夜   加藤完二   彦根市民会館
10月19日 日  午後  加藤完二   彦根市民会館
       日  夜   佐渡 裕   彦根市民会館

10月23日 木  夜   佐渡 裕   京都市交響楽団練習場
10月25日 土  佐渡 裕  ひこね市文化プラザKEIBUN演奏会
10月26日 日  佐渡 裕  びわこホール   KEIBUN演奏会
11月 9日 日  午後  加藤完二    彦根市民会館
       日  夜   加藤完二    彦根市民会館
11月22日 土  夜   新田ユリ    第1,2リハーサル室
11月23日 日  午後  新田ユリ    メッセホール
       日  夜   新田ユリ    メッセホール   オケと合唱あわせ
11月29日 土  夜   新田ユリ    第1,2リハーサル室
12月 6日 土  夜   新田ユリ    第1,2リハーサル室
12月13日 土  夜   新田ユリ    グランドホール リハーサル 合唱
12月14日 日  新田ユリ   グランドホール    第九演奏会

2  今回も大変多くの方々にご来場いただきありがとうございました。特に今回はチケットも完売できました。おかげさまでとても印象に残る演奏会になりました。 練習時間が短かったこともあり、細部ではミスもありましたが、4楽章になり、ソリスト、合唱が入ると今までで最高の演奏ができたように感じました。先生の 第九に対する真剣な情熱と、感性が団員全体に乗りうつったようでした。聞かせどころでは、ほんとに良い響きがしていたのではないでしょうか。1楽章も、3 楽章も演奏しているととても速いテンポに感じましたが、全曲を通して聞いてみると、引き締まった構成感が得られているところが指揮者の力量だと思います。
 
  アンコールのシベリウスは、アマオケでも良く取り上げる曲です。今回のように合唱つきで演奏されるのは珍しいです。歌が入ることでより曲のメッセージ性 が明確にされました。始まりは少し足並みが乱れましたが、中間部からはどんどん盛り上がり、最後にはクライマックスを迎える演奏でした。聴衆の方々もとて も真剣に長時間演奏を聞いていただけて演奏者も会場の雰囲気に後押しされよい演奏ができたと思います。今まで5回の第九の演奏会で、いちばん静かに聞いて いただけたように思いました。