江戸時代の外食・醤油文化

黒船ペリー来航と開国

米国ペリー艦隊 初来航
幕末というのは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が日本の開国と国交樹立の使命を受けて、浦賀沖に巨大な船が来航(黒船来航)した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。巨大な黒船四隻が浦賀沖に現れ、黒煙を吐いて走る異国船の噂は日本国中をかけめぐった。ペリー来航は徳川幕藩体制に大きな動揺をきたすこととなった。

■ペリー来航と開国の概要
嘉永6年(1853年)6月3日、開国と通商(貿易)を求めたアメリカ大統領の親書を携えてペリー艦隊が浦賀沖に来航した。この当時、将軍家慶は病床にあって国家重大事を決定できる状態ではなく、老中首座・阿部正弘は幕府の基本方針「避戦」に従い「国書受領だけならやむなし」と結論、ペリーの久里浜上陸を認めた。同月9日にペリーは浦賀に隣接する久里浜に上陸して、浦賀奉行に「日本皇帝」(将軍)宛のフィルモア大統領の親書とペリー提督の書簡を渡すとともに、その回答を求めて翌年、再び来航すると予告して6月12日に日本を離れた。
 翌年の嘉永7年/安政元年(1854年)の1月16日、ペリーは軍艦7隻を率いて神奈川沖に再来日した。幕府とペリーは横浜応接所で交渉を開始し、フィルモア大統領親書への返答、通商の可否、条約内容などについて議論を交わして、ついに幕府は「日米和親条約」を結ぶ事となる。条約の内容は、下田・箱館の二港の開港、漂流民の救助、必需品の供給、アメリカへの最恵国待遇付与、18ヶ月後の米領事駐在の許可などである。
 日米和親条約の規定によってアメリカから総領事ハリスが安政3年に来日し、老中・阿部正弘や大老・井伊直弼との間で通商条約締結のため粘り強い話し合いが持たれた。その結果、安政5年(1858年)、大老・井伊直弼は、孝明天皇の許可を得ないまま「日米修好通商条約」を締結し、箱館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港(箱館・神奈川・長崎は安政6年から)を開港することとなった。また、幕府はアメリカに続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結(安政の五か国条約)した。こうして226年間に渡って続いた幕府の鎖国体制は崩壊したのである。

■ペリー初来航(黒船来航)
徳川幕府崩壊の約15 年前、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの”開国と通商を求める国書”を携えたマシュー・ペリー提督は、旗艦サスケハンナ号を中心に黒い煙を吐く2隻の蒸気軍艦と帆走軍艦2隻からなる計4隻のペリー艦隊「黒船」を率いた艦隊は江戸湾に近づく際、艦隊の各艦に信号を発し「敵と対戦する前になされる一切の準備」を行わせていた。
その後も最悪の場合を予想して大砲に弾を込め、船員たちにも銃を装備させた「臨戦態勢」に固め、江戸湾を北上して相模国(さがみのくに)、浦賀鴨居(奈川県横須賀市)沖まで侵入した。4隻の軍艦は砲門を浦賀の町に向け、浦賀沖に一列に並び投錨した。ペリー艦隊4隻が停泊した浦賀沖は、江戸湾がもっとも狭くなる観音崎-富津間のすぐ外洋側に位置する場所であった。


  • ○アメリカ大統領の国書を受け取りの交渉は、浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄(うじよし)と浦賀奉行所与力の香山栄左衛門、中島三郎助、オランダ語通詞の堀達之助らが活躍した。堀達之助はペリー提督が乗船する旗艦・サスケハナ号に対して英語で最初に発した言葉が “I can spesk Dutch.(私はオランダ語を話すことができる)” であった。
  • 当時の浦賀奉行の職制は奉行が2人(1人が浦賀に、もう1人が江戸に在勤し、在浦賀の奉行が戸田氏栄、在江戸の奉行が井戸弘道であった)、その下には支配組組頭が2名、その下に与力が20人、その下に同心100名であった。浦賀奉行の戸田氏栄は、米艦から戻った与力中島三郎助から艦隊の強硬な態度を聞き、「不容易軍艦にて、此上之変化難計」(容易ならぬ軍艦で、これからどうなるか計り難い)と記した意見書を老中に送った。
  • ○当時、老中首座として幕府を率いていた阿部正弘がペリー艦隊の来航を知ったのは6月3日の夕刻であった。浦賀奉行は浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄から江戸に在勤している浦賀奉行の井戸弘道にペリー来航が報告され、井戸は老中首座阿部正弘にペリー浦賀来航の報告をした。
  • この時の第12代将軍徳川家慶は病床にあり、江戸城内で老中阿部正弘、三奉行、海防掛が集まり評議がなされた。黒船が浦賀に現れた6月3日、井戸弘道は江戸在府の浦賀奉行として江戸にいたが、同日夜10時過ぎに報告を受け、江戸城で協議した上で、6月8日に浦賀へ帰任した。
  • ○6月4日、ペリーは各艦から一隻ずつのボートを出して、浦賀湾と浦賀港とを測量させた。6月6日には、ペリー艦隊の測量隊と蒸気船一隻(ミシシッピ号)が、江戸湾内の品川沖にまで侵入して、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。ペリーの強硬な態度に驚愕した幕府は「鎖国」の「祖法」を堅持する方針であったが、友好的にアメリカとの交渉を進めることとなり、老中阿部正弘から「相模国久里浜で国書を受け取り一日も早く退去させよ」との命令が浦賀奉行所に下ったのは6月7日四つ時(午前10時)過ぎであった。
  • ○浦賀奉行戸田伊豆守の老中への届け(6月3日、1回目の報告)
  • 『今三日、未上刻、相模の国城ケ島沖合いに、異国船四艘相見え候趣、三崎詰めのもの注進申し出候につき、早速見届けの為、組のもの出張り仕らせ、御固め四家(井伊掃部頭、松平誠丸、松平下総守、松平肥後守)へ心得の為、早々相達し候処、只今千駄崎まで迅速に走り込み候。 之により此の段御届け申し上げ候。以上』六月三日戸田伊豆守  (この届書は、早船で浦賀より江戸へ送られ、夜十時過ぎ、在府浦賀奉行井戸方へ到来、即刻阿部伊勢守正弘邸へ届けられる)
  • ○浦賀奉行戸田伊豆守の老中への届け(6月3日、2回目の報告)
  • 『先刻、御届け申し上げ候異国船、相糺し候処、アメリカ合衆国政府仕立ての軍艦にて、2艘は大砲20挺余、2艘は惣体鉄張りの蒸気船にて、1艘は大砲3,40挺、バッテーラ7,8艘、是又鉄張りの様子に相見受く、1艘は大砲12挺据え進退自在にて、艪櫂相用いず、迅速に出没仕り、応接の者を寄せ付け申さず、漸く申し諭し、一人乗組に相い諭し候処、国王の書翰を護送したしあり、奉行へ直ちに相い渡し申すべき旨申し受け、組の者の談し等は引受け申さず、既に江戸表へもその旨通じ置き候旨これを申し、泰然自若と罷りあり。猶同様の軍艦数艘渡来いたし候段申し聞け一切の船の近辺へ近寄り候事相断り申候、御国法相い諭し申すべくは候えども、容易ならざる軍艦にて此の上の変化計り難く、ただ今、応接中に御座候へども、先ず此の段早々申し上げ候。以上』。


アメリカ合衆国のペリー艦隊の構成は、木造3本マスト・バーク型外輪式蒸気軍艦の旗艦サスケハンナ(Susquehanna 2,450t,大砲9)とミシシッピ(Mississippi 1,692t,大砲12)、および、木造3本マストの帆走軍艦のプリマウス(Plymouth 989t,大砲22)とサラトガ(Saratoga 882t,大砲22)であった 。艦隊4隻の乗員総数は988人にものぼる。


W・ハイネ画(米艦隊の随行画家) 「ペリー提督 久里浜上陸の図」、アメリカの公式使節が初めて日本に上陸した歴史的瞬間

■ペリー日本初上陸・日本開国を要求
ペリー提督と幕府は、開国と通商(貿易)を求めるフィルモア大統領の国書の受け渡し場所について交渉を重ね、浦賀近くの久里浜となった。
幕府は江戸湾警備を4藩に命じた。浦賀の久里浜海岸(神奈川県)を川越藩が800余名、彦根藩が2000余名、他には会津藩・忍藩(おしはん)などの武士が陸上警護にあたり、海上では忍藩(おしはん:現在の埼玉県北部あたりに位置した藩)に雇われた船が50余隻、会津藩が130隻で海上警備にあたった。幕府は総勢5000名による警備体制であった。この中で、アメリカ側は、15隻のカッター(小型船舶)に乗って久里浜海岸へ向かった。ペリー提督は6月9日(7月14日)、久里浜を艦砲の射程内に収めたうえで、各艦の士官・水兵・海兵隊約300名を上陸させ、自らも沖合の艦隊から13発の礼砲とともに上陸した。




【嘉永六年六月久里浜陳営の図】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制

嘉永6月9日(7月14日)、浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守がペリーと会見した。ペリー提督は久里浜応接所で浦賀奉行の井戸石見守弘道に、オランダ語と中国語の翻訳が添えられたアメリカ大統領の国書とペリー書簡を収めた二箱を手渡した。(「香山栄左衛門の聞書き」には「国王の書翰二箱いずれも板三重にてねじ鋲にて留める」と記されている。) この国書捧呈の儀式は、事前の協議に基づいて「無言の授受」で行われた。これは、幕府の鎖国日本の「国法堅持」というスジを通しながら、やむなくフィルモア大統領国書の授受儀式であり、あくまでも例外措置であることを内外に示すために行われた。


  • ○浦賀奉行組与力香山栄左衛門の後日の上申書
  • 『六月九日 朝五つ時頃、異人案内の為応接掛私始め、与力中島三郎助、近藤良次、佐々倉桐太郎とも都合四人、本船へ罷り越し候処、異船四艘とも、追々脚船相卸し、都合拾三艘、人数凡そ三百人程(其の内船中へ相残り候者も有之)、四つ時頃上陸、御陣中にて応答これ無く、以心伝心の受取り渡し相済み、即刻使節を始め、士卒水夫に至るまで、一同本船へ引き取り相済み申し候。
  • 此の節書翰守護の銃陣の行装を以て相察し候処、偽りて深地へ引き入れ、生捕らる可くも計り難しと用心仕り候体にて、実に敵地に入り候心地に相見え、前後銃隊の運動、目を驚かし申し候。巨細の儀は煩わしく存じ奉り候間、相省き申し候』。


幕府は「将軍が病気のため決定できない」とし、返答に1年の猶予を要求した。ペリーは国書に対する返書への回答に時間を要すると幕府に配慮を示し、国書への即答を求めず、翌年、さらに強力な艦隊を引き連れて再び来航すると宣言して6月12日(7月17日)に浦賀沖から去っていった。ペリーが日本を去ったわずか10日後に十二代将軍・徳川家慶が死去した。
第13代大統領ミラード・フィルモアが日本国皇帝にあてた国書には、アメリカが日本の宗教や政治に干渉しないことのほか、開国と交易の開始、アメリカ漂流民の救助、中国との貿易船や、当時、灯油として利用されていた鯨油を取るためのアメリカ捕鯨船への燃料(石炭)と真水、食料の供給などの要求が記されていた。

■ペリー提督の強圧的な外交姿勢
ペリー提督は、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた ”国書” の他にも、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と「ペリー第一書簡」の「漢文本書」があって、「漢文本書」の末尾には以下のように書かれている。

  • ①順此誠寔立定和約、則両国免起衅端、故先坐領四小船、来近貴京、而達知其和意、本国尚 有数号大師船、特命馳来、未到日、盼陛下允準。
  • ②如若不和、来年大幇兵船必要馳来、現望、大皇帝議定各条約之後、別無緊要事務、大師船亦不来。
「漢文本書」は、幕府側によって「漢文和解(わげ)」された。「漢文和解」は、次のように日本語として訳してある。
  • ①この理に従い、真実に和約を取極め候えば、両国兵端を引き起し候ことこれなきと存じ候[和約が成れば、戦争は避けられる]。これに依りて、四艘の小船を率い、御府内近海に渡来致し、和約の趣意御達し申し候。本国このほかに数艘の大軍船これあり候間、早速渡来いたすべく候間、右着船これなき以前に、陛下御許容下され候様仕りたく候[本国の大軍船の到着以前に決断すれば、平和が保たれ、決断がなければ戦争になる]。
  • ②もし和約の儀御承知なくござ候わば、来年大軍船を取り揃え、早速渡来いたすべく候[万一、和約が成らない場合は、明年大軍船で再度渡来し、成行きでは、戦争になる]。右につき、ただいま大皇帝の御評議相願い申し候。御承知下され候いて、右条約取極め候えば、ほかに大切の用事これなく、大軍船渡来いたさず候[和約が成れば、大軍船の派遣は取りやめる]。かつまたわが国主[大統領]和約規定の書翰持参いたし候。「四隻の小船を率いて御府内(江戸)近海に渡来いたし、和約の趣意を通達する。本国にはこのほかに数隻の大軍艦があり、早速にも渡来しようとしているので、これが来ない前に陛下がご許容下さるようお願いする。もし和約をご承知されないならば、来年、大軍艦を取りそろえ、早々に渡来する」といった内容である。

このように、ペリーは “この国書の返事を受け取りに、来年の春、再びこの江戸湾に来る” と記した書簡を提出していた。
また、ペリーが帰国後監修にあたった『日本遠征記』によれば、「今回は、2,3日中に艦隊を率いて琉球、 広東方面に立ち去るが、来春の4月か5月に寄港する予定である」「今回の来航した艦艇の数は艦隊の一部に過ぎず、次回はさらに大規模な艦隊を率いて来る」とある。

ペリー艦隊 二度目の来航




「黒船来航絵詞」西村正信/誌 嘉永7年(1854)
『去る丑の年(嘉永六丑年、1853)来航せし北亜墨利加(アメリカ)合衆国といふ所…睦月(1月)…』に浦賀を通り越して武州(武蔵国)金澤(藩)の沖に、そして、神奈川本牧沖に艦隊7隻が碇をおろした(停泊)こと。また、日米和親条約の締結に携わった幕府の交渉役の大命を受けた五人が、神奈川本牧、横浜(村)の仮家(久里浜の応接所を急遽、横浜に移設)で應接又饗座(応接と饗応)したとある。
大命を受けた五人の名として、浦賀奉行/伊澤美作守(政義)、主席応接掛/林大学頭(輝)、江戸町奉行(次席応接掛)/井戸対馬守(覚弘)、外国掛目付/鵜殿民部少輔(長鋭)、幕府儒学者/松崎満太郎らが記されている。蒸気軍艦「黒船」の画は、1854年1月16日に再来航したペリー艦隊の旗艦「鮑厦旦(ポーハタン)号」と思われる。

■ペリー提督、二度目の来航で開国を迫る
当初は1年後の再来航を予定していたペリーであったが、プチャーチン率いるロシア艦隊が日本と交渉していることを知ると、予定を変更し、わずか半年後の嘉永7年/安政元年の1月16日(1854年2月13日)、ペリー艦隊が日本開国への条約締結のため、第一回を上回る大部隊の蒸気軍艦3隻・帆船軍艦4隻からなる7隻の軍艦(その後、2隻が加わり艦隊は9隻になる)が再び来航 し、浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨した。

その陣容は、蒸気軍艦のポーハタン(Powhatan 旗艦2415t、大砲9、乗員300人)、サスケハンナ(Susquehanna 2450t、大砲9)、ミシシッピ(Mississippi 1692t、大砲12)、帆船軍艦のマセドニアン(Macedonian 1341t、大砲22)、ヴァンダリア(Vandalia 770t、大砲20)、そして、帆装武装補給艦のレキシントン(Lexington 691t、大砲6)、サウサンプトン(Southampton 567t、大砲2)の7隻もの軍艦からなる世界最大級の艦隊であった。大砲の数は全部で80門。総乗員数は1500人。江戸の市中を破壊するに十分な装備を持っていた。
一回目の遠征に比して軍備がより強大なものとなっており、補給艦に燃料や食料を搭載して交渉の長期化にも備えていた。そして、艦隊は、前回の浦賀沖よりさらに江戸に近い武蔵小柴沖に停泊した。



■幕府は開国の方針を固める
交渉地として、ペリーは停泊地付近の海岸を、幕府はかつての応接場所で既に米使応接掛が赴いていた浦賀を主張した。このため、前回同様に会見場所の決定にまず時間を要することとなる。しかし、1月28日(1854年2月25日)、ペリーの江戸入府を危惧した幕府は、三浦半島に見張りを置く浦賀奉行所の与力香山栄左衛門を蒸気軍艦ポーハタンに派遣した。与力香山栄左衛門はアメリカ側で交渉に当たっていた司令官ヘンリー・アダムス(Henry A. Adams)に、浦賀に代わって、住民の少ない寒村(戸数約90)で江戸からは離れていない海辺の横浜村を候補地として提示した。アメリカ側は、これを受け入れた。

そして、交渉が行われている最中の2月6日(1854年3月4日)、将軍への献上品47点を搭載した帆走軍艦サラトガ(Saratoga 882t、大砲22)が入港した。米国艦隊は合計8隻となる。鎖国政策堅持の徳川幕府と、開国断固要求のアメリカという厳しい対立の構図の中で幕府は開国和親という方針を採り、嘉永7年2月10日(1854年3月8日)に、ペリー提督が横浜に上陸し条約交渉に入る。
第1回の日米条約交渉が武蔵国横浜村で開かれた。嘉永7年2月10日の横浜応接所での交渉は前年の親書への返答、通商の可否、条約内容などについて激しく議論が交わされ交渉は難渋を極めた。この後、全艦隊の9隻目の帆装武装補給艦のサプライ(Supply 547t、大砲4)が2月21日(1854年3月19日)に到着し、乗組員1775人が揃った。

■日米双方の寄贈品
日米条約交渉が行われる一方、嘉永7年2月15日(1854年3月14日)にアメリカ大統領から将軍(徳川家定)への献上品が横浜に荷揚げされた。
アメリカ大統領から将軍への贈り物は、4分の1スケールの蒸気機関車、炭水車、客車、レイル等一式、電信機二組、電線四束、外(ほか)電信用品一式、ホール社製ライフル銃五挺、メイナード社製小銃三挺、コルト社製ピストル二十挺、騎兵軍刀十二口(ふり)、砲兵軍刀六口、弾薬箱二個、衣裳箪笥(たんす)一個、香料二包、ウヰスキー、葡萄酒一樽、シエリー酒・シヤンペン酒各若干、台付望遠鏡一個、柱時計数個、フランス式救助船三隻、オーデユボン著「アメリカの鳥類図」四巻、同「アメリカの獣類」三巻の書籍、アイルランド馬鈴薯八籠(かご)、ストーヴ三個、合衆国の秤桝尺度(はかりますものさし)、海図、農機具、農産物の種子(たね)類などであった。

アメリカからの献上品に対する幕府の返礼品の授与が2月26日(1854年3月24日)第3回日米会談の際に行われた。返礼品の内容は次のとおり。
アメリカ大統領には、梨地松竹梅蒔絵硯箱(すずりばこ)、梨子地蒔絵塗文庫、机黒蝋色桐鳳凰蒔絵(漆塗り黒塗机)、書相同銀金昇給吉野山(漆塗り黒塗書棚)、置物金銀牛二花鰭卓子共胡蝶蒔(牝牛の香炉)、手焙黒四季折松韻並蒔絵(火鉢)、花生銀地黒竹雀蒔絵(花生け置台附) 以上 各一個。広蓋(漆塗り)花火蒔絵盆一揃え、花模様縮緬(ちりめん)、赤色模様縮緬、無地の絹布 以上 各五疋(ひき)。 大老から赤絹(もみ=緋紅色に染めた絹織物)十疋。 および、林大学頭ら五人の米使応接掛から縞絹物十疋づつを贈呈。 その他には、
 ・主席応接掛/林大学頭からは、漆塗硯箱、漆塗文庫、枝珊瑚(えださんご)と銀細工の箱、漆塗重箱 以上 各一個。
  漆塗三組(みつぐみ)台附杯一揃え。
  小箱(こばこ)二個。貝殻百個入四箱。手箱五個。猪口(ちよこ)、匙(さぢ)、螺鈿(らでん)の杯、台附杯等揃七箱。
 ・次席応接掛(江戸町奉行)/井戸対馬守からは、漆塗盆二枚入、雨傘二十本入、棕箒(しゆろばうき)三十本入 以上 各二箱。
 ・浦賀奉行/伊澤美作守からは、赤絹(もみ)、無地の絹布 以上 各一疋。 竹細工籠(かご)、竹製置台 以上 各一個。
  人形十三個(人形ナリ日本昔ヨリ秀テタル人ノ姿ヲ武者ナドニシタ細工)入八箱。
 ・外国掛目付/鵜殿民部少輔からは、磁器の猪口(ちよこ)二箱、縞(しま)縮緬三疋、「醤油」十陶入一箱。
 ・幕府儒学者/松崎満太郎からは、花莚(はなむしろ)一箱、磁器の台附猪口三箱、樫炭(かしはずみ)三十束(そく)。

ペリー提督には、幕府から漆塗硯函、漆塗文庫 各一個。無地絹布二疋。赤絹(もみ)、花模様縮緬、友禅縮緬などを、そして、日本の金貨幣二組、鉄砲 四十匁玉・三十匁玉・二十匁玉の日置流火縄銃 三挺、刀剣二振(二尺六寸三分,二尺四寸五分)を贈呈した。艦隊乗組員へ幕府からの贈呈品として白米二百俵 但し五斗入り、鶏三百羽なども用意された。


W・ハイネ画(米艦隊の随行画家) 「ペリー提督・横浜上陸の図」
嘉永7年2月10日(太陰暦1854年3月8日)、ペリー提督を先頭に約500人ものアメリカの海軍士官・水兵・海兵隊員たちを従えて武蔵国横浜村に初上陸した。湾の沖合に横一列に並ぶのはアメリカの8 艘の黒船である。 この日、ペリーは礼砲・祝砲の名目で55発の大砲を発射するなど軍事的な威圧を加えながら横浜村での歴史的な会談が開始された。上陸の図の左手に見えるのが、二日前に完成したばかりの仮設館の横浜応接所であって、浦賀の久里浜応接所を解体して移設したものである。

日米和親条約の締結

■日米和親条約の締結が「開国」を進める
嘉永7年2月10日(1854年3月8日)の昼前、ペリー提督の一行約500人が武蔵国の横浜応接所へ案内された。日米の会談は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させた五棟(約100畳分)からなる応接所の増築された「内儀所」と呼ばれる部屋で開かれた。
日米正式交渉の会談にはアメリカ全権使節ペリー提督、アダムズ参謀長、中国語・日本語通訳のウィリアムズとオランダ語通訳ポートマン、秘書のO・Hペリー(ペリーの息子)の5名と日本側交渉全権である林大学頭(はやし だいがくのかみ、林復斎)以下5名とオランダ通詞・森山栄之助、堀達之助、名村五八郎との間で「日米和親条約(神奈川条約)」に向けての会談が行なわれた。

正式の会談ではオランダ語が使われ、幕府側通訳は森山栄之助ほか3名、ペリー側は若いポートマン1名であった。幕府側とペリーのやりとりは次ように行われた。 「日本語 ←→ オランダ語 ←→ 英語」、 「日本語 ←→ 漢文 ←→ 英語」。2回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に合わなかったため、中国人・羅森が英語を漢文に直して江戸幕府役人に意志の伝達をした。会談記録は日本語・漢文・オランダ語・英語の各言語で作成された。この2月10日の公式会談後に幕府は贅を凝らした「饗応の膳」を開いた。

条約の調印は、約1ヵ月の協議を経て、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、事前に双方が署名した「日本国米利堅合衆国和親条約」、通称・日米和親条約(神奈川条約)十二箇条を交換し、締結された。条約文には、下田・函館(当時は箱館)の開港と外国人遊歩区域の設定、米船に対する石炭・水・食料の補給、漂着アメリカ人の保護、片務的最恵国条款、下田に領事を駐在させる等を定めていた。
これによって、3代将軍・徳川家光以来、200年以上続いてきた鎖国時代が終わりを告げた。この年、幕府はペリーの動向を窺っていたイギリス・ロシア・オランダとも同様の和親条約を調印し、鎖国の扉はさらに大きく開かれた。(1854年11月に安政と改元)


  • 「日米和親条約」
  • 第一条 日本国と合衆国とは、其人民(そのじんみん)永世不朽の和親を取結び、場所、人柄の差別これなき事。
  • 第二条 伊豆下田・松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船、薪水(しんすい)・食料・石炭・欠乏の品を、日本人にて調候丈(ととのいそうろうたけ)は給候(きょうしそうろう)為め、渡来の儀差免(ぎさしゆる)し候。 尤(もっと)も、下田港は条約書面調印の上、即時相開き、箱館は来年三月より相始め候事。給すべき品物直段書の儀は、日本役人より相渡し申すべく、右代料は、金銀銭を以て相弁ずべく候事。
  • 第三条 合衆国の船、日本海浜漂着の時扶助いたし、其漂民を下田又は箱館に護送し、本国の者受取申すべし。所持の品物も同様に致すべく候。尤も、漂流民諸雑費は、両国たがひに同様の事故、償ひに及ばず候事。
  • <以下省略>
  • 「日米和親条約」第二条にいう「船中欠乏品」を具体的にいえば、条約にも明記される薪・水・食料・石炭であった。また食料については、米、小麦粉、大小豆類、甘藷、ねぎ類、酒、醤油、砂糖、鮮魚類、海老蟹類、鶏、卵、牛馬・猪・鹿の肉類等を供給した。供給すべき品物の値段は日本の役人から交付し、その代価は金貨または銀貨をもって支払うこと。

日露和親条約と日露間の国境の合意

1854年(嘉永7年・安政元年)は「開国の年」でもあった。3月にはペリーの再来航があって「日米和親条約」が神奈川で結ばれた。引き続き、嘉永7年8月23日にはイギリスと「日英和親条約」を締結、そして、安政元年12月21日(1855年2月7日)には、伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本(徳川幕府)とロシア帝国の間で「日露和親条約」(日露通好条約)九条、付録四則が締結されて国交が開かれた。
日露通好条約は日米和親条約に準じて、下田・箱館・長崎を開港した。この長崎は、最恵国待遇によりアメリカ・イギリスにも開かれた。国境の合意も行われ、千島は択捉・得撫島を国境、樺太は国境を定めず雑居地とした。



「日露和親条約」第一条に永世の和親、第二条で、国境についての合意がなされた。日露間の国境は千島列島の択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間(ロシア名:フリーズ海峡=択捉海峡)とすること、また、樺太(サハリン)には国境を設けずに、両国民雑居の地として境界を定めず、『カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国との間において、界(国境)を分たす、是迄仕来の通たるへし』と決められた。

日本国魯西亜国通好条約 1855年2月7日下田において調印
   1 8 5 6 年1 2 月7 日同所において
   1 8 5 6 年1 2 月7 日同所において
   本書交換

日本国と魯西亜国と今より後懇切にして無事ならん事を欲して条約を定め
んか為め、魯西亜ケイヅルは全権アヂュダンド、ゼネラール・フィース、ア
ドミラール、エフィミュス・プチャーチンを差越し日本大君は重臣筒井肥前
守、川路左衛門尉に任して左の条々を定む

第1条 今より後両国末永く真実懇にして各其所領に於て互に保護し人命は
     勿論什物に於ても損害なかるへし
第2条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島
     との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫
     より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては
     日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし
     (以下略)

安政元年12月21日(魯暦1855年第1月26日)
  筒井肥前守         花押
  川路左衛門尉        花押
  エフィミュス・プチャーチン 手記
日露間の国境の合意文書


不平等条約・日米修好通商条約締結と鎖国の終焉

徳川幕府が「日米和親条約」を結んでから2年後の安政3年7月21日(1856年8月21日)、アメリカ大統領ピアース(Franklin Pierce)に初代駐日総領事に任命されたタウンゼント・ハリス(Tounsend Harris)を乗せたアメリカ軍艦サン・ジャシント(San Jacinto )号が下田に入港した。しかし、幕府は日米和親条約の日本側の解釈でハリスとの交渉に難航するが、幕府の老中であった堀田正睦(まさよし)は、下田奉行にハリスの駐在を認める指示を出した。安政3年8月5日、日本最初のアメリカ駐日総領事館が下田柿崎村の玉泉寺に置かれた。


  • 日米和親条約 第十一条 
  • 両国政府に於て無據(よんどころなき)儀有之候時は模樣により合衆国官吏之者下田に差置(さしおき)候儀も可有之(これあるべく)尤約定調印より十八ケ月後に無之候ては不及其儀候(そのぎにおよばず)事
  • Treaty between the United States of America and the Empire of Japan. Article Ⅺ
  • There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.
  • この条項では、領事官派遣に関して、日本側とアメリカ側で解釈の相違が見られる。条約締結18ヶ月後、両国政府が必要と認めた場合、下田に合衆国官吏を置くとする日本側に対し、アメリカ側は、日米両国政府のどちらか一方が必要と認めた場合、下田居住の領事または代理官を任命することができるとする。


日米和親条約の第11条により、アメリカの初代総領事として、"通商条約脇結"のための全権委任を与えられたタウンゼント・ハリスは、通商に後ろ向きな幕府側に国際情勢の変化や貿易による日本の利益を説いて15回も交渉を続けた。その結果、安政5年6月19日(1858年7月29日)に「日米修好通商条約」が江戸湾小柴沖に浮かぶアメリカ軍艦ポーハタン号の艦上で、幕府側全権の下田奉行の井上清直(いのうえきよなお)、幕府から派遣された海防掛目付・岩瀬忠震(いわせただなり)とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの問で結ばれた。(この時の幕府の最高権力者は大老 井伊直弼である)この条約は日本に関税自主権がなく、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約であった。(関税自主権の放棄:日本は輸入品に関税をかける権利を持たない, 領事裁判権:在留外国人の截判を本国の領事が行う権利) 

日米修好通商条約の締結により「日米和親条約」での下田と函館の開港に加えて、新たに神奈川(横浜),長崎,新潟,兵庫(神戸)の4港も開かれることとなった。そして、徳川幕府はアメリカに次いで、7月にイギリス、ロシア、オランダ、9月にフランスとも同様な条約(いわゆる「安政の五ヵ国条約」)を結び、欧米諸国と自由貿易を開始した。日米修好通商条約は大老の井伊直弼(いいなおすけ)が朝廷(当時の天皇は孝明天皇)の勅許を得ずに勝手に調印した違勅(いちょく)調印であり、安政の五ヵ国条約も無勅許調印だった。

ここに、徳川幕府は二百数十年にわたる鎖国に終止符を打ち、開国することとなった。その後、日本国内は開国による影響を受けて尊王攘夷の動きが強まり、倒幕運動が展開され、1867年に徳川幕府は朝廷に政権を返す「大政奉還」、1868年に明治維新を迎えた。

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