江戸時代の外食・醤油文化

長崎・出島と醤油、鎖国政策

長崎の出島とは
■長崎の出島(3,969坪)は寛永13年(1636年)にキリスト教布教を阻止するために築かれ、市中に居住していたポルトガル人は、この島に収容された。
寛永14年(1637年)に「島原の乱」が起き、幕府はこの一揆をキリシタンの反乱とて鎮圧したが、この乱によってキリスト教の脅威を感じた幕府は禁教徹底のためポルトガル船の入港を禁じた。寛永16年(1639年)には第5次鎖国令(ポルトガル船の来航禁止)を発布し、ポルトガル人は日本から追放されて来航も禁止された。

南蛮諸国の中で、日本にとって最大の貿易相手国はポルトガルであったが、寛永16年(1639年)、ポルトガルとの関係悪化によりポルトガル人が追放されると出島は無人となった。寛永18年(1641年)幕府はキリシタン禁圧と貿易統制を目的として平戸オランダ商館(1609年、日本の平戸にオランダ貿易商館を開設)を閉鎖して出島にオランダ人を移住させた。
居留オランダ人(出島オランダ商館)は全て出島に隔離収容され、平戸商館時代のように日常的な日本人との自由な交流は一切禁止された。幕府はオランダがキリスト教布教の意志がないことを認め、南蛮貿易の相手をオランダ1国に限り、日本来航の継続を許した。これにより出島は約220年間の鎖国期の海外に開かれた唯一の窓口となった。



■出島のオランダ商館と貿易
「出島」のオランダ商館員たちは、わずか3,969坪(1万5000平方メートル余)、本土とは1つの石橋のみでつながった出島に押し込められ、これまでと違って厳しい監視を受けることになった。島内には60棟余の建物があり、菜園などもあった。日本人が「カピタン」と呼んだ商館長、次席(「ヘトル」と呼ばれた)、書記などの商館員や、医師、大工、料理人など10~15人くらいのオランダ人、さらにジャワなどから召使として連れてきた現地住民もいた。他に多くの通詞などが働いていた。
オランダ人たちは自由に島外へ出られず、日本人の出入りも厳しく制限されていた。オランダ船の入港は年1回、貿易品の品目や数量、価格等にも厳重な統制があった。しかし、それなりの利益は確実にあがるので、オランダ側も不自由な条件の下でも貿易の特権を放棄せず、商館長は数量等の拡大、あるいは維持を常に願い出ている。また、商館員が特定の品を個人的に売りさばくこと(脇荷)も認められていた。密かに持ち込んで売りさばかれる品もあり、出島に勤務するとかなりの副収入があったという。

自由貿易港 出島
幕府は長崎出島にオランダ東インド会社の貿易拠点「オランダ商館」を置き、長崎奉行の管轄下でオランダ貿易を行なった。また、中国からも私貿易船が多く来航したため、幕府は市中に唐人屋敷を設置するなど統制した。(長崎・出島に移されたオランダ東インド会社オランダ商館は、非常に限定された商活動とはなるものの、中国・清とともに日本の対外貿易を完全に手中に収めることになった)
こうして、幕府は貿易の利を独占することができた。貿易に関係している西国の大名が富強になるのを恐れて、貿易を幕府の統制下におこうとした。また、幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出する「オランダ風説書」によって、海外の情報を知ることができた。
鎖国下で江戸参府が許されていたオランダ商館の責任者カピタンは、有利な対日貿易を継続するため、定期的な「拝礼献上(将軍に謁見、幕府高官宅への挨拶回り、献上物の呈上)」のために、およそ三ヵ月をかけて江戸との間を往復した。

日本の醤油は、「JAPANSCH ZOYA(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)」または「JAPANSCH SOYA(ヤパンセ・ソイア)」の名で、オランダとの長崎での貿易を通じてヨーロッパに輸出されていた。「出島」とは江戸幕府の鎖国政策として長崎の海中を埋めたてて造られた扇形の人工島である。出島と江戸町とは出島の北側にある表門の出島橋(一ノ橋)で結ばれていた。



オランダ船は毎年6,7月頃に入港し、主な輸入品には砂糖,胡椒,丁子,甘草,サフラン,肉桂,ビロード,羅紗,水牛角,象牙,齊角,書籍,天球儀,地球儀があった。砂糖は、18世紀になって輸入量が増えてきた。当時オランダの植民地であったインドネシアで砂糖の生産が増大したこともあって、砂糖は幕末まで主力の輸入品であった。

日本からは陶磁器,漆器(しっき),屏風,木材,(※)「金,銀,銅」,樟脳,煙草,そして「醤油」などが輸出された。江戸時代、記録に残るところでは、正保4年(1647)に、オランダ商人によって樽詰めされた醤油が初めて輸出されている。(これは『長崎商館仕訳帳』に記載される「本方荷物」と呼ばれる商館正式の積荷で、台湾の安平商館(ゼーランディア城)宛、10樽分の醤油が海を渡ったとされている)また、江戸時代中期の寛政2年(1790)には、オランダ東インド会社によって陶器の瓶につめた醤油が長崎から輸出されるようになった。

※:輸出品の「金・銀・銅」の初めの頃は輸出額の82%を「銀」、14%を「銅」が占めていた。江戸時代の初期、日本で採れた銀は非常に良質なもので、オランダの貿易も、銀が目当てであったと言われている。大量に「銀」が流出することを問題にした幕府は、銀に変わって輸出品を「金と銅」に切り替えた。

オランダ船の貿易品は沖に停泊している本船から小舟で出島の水門に搬入された。水門は出島の西側にあり二ノ門とも呼ばれ、この門はオランダ船入港時の荷揚げや出航時の輸出品積み出しの際に開かれるだけで通常は厳重に閉鎖されていた。出島には多くの日本人も働いていた。
出島は長崎奉行の管理下にあり、町年寄の支配のもと、出島乙名(でじまおとな)やオランダ通詞などの地役人が関与した。出島乙名の職務は貿易についての監督や出島内で働いている日本人の監督、指導、出島に出入するための門鑑(もんかん・通行許可書)の発行、公共施設の監視、商館員の使用人の割り振り、商館員の生活や行動の監視などであった。

出島からの醤油の輸出
江戸時代には、長崎・出島を通して醤油が輸出されていた。この輸出された陶器の醤油容器には「JAPANSH ZOYA」と書かれていた。オランダ船と中国船によって長崎から運ばれた醤油は、おもに中国大陸や東南アジア、インドやスリランカなどで使われた。さらに一部はオランダ本国まで運ばれ、極東の調味料としてヨーロッパでも高い評価を得ていた。
輸出された醤油は、香辛料・調味料の一種として、スープやソースに混ぜて使われた。17~18世紀のヨーロッパ人にとって、醤油は胡椒などと同じく、遥か遠くからもたらされた高価で珍しく美味しいソースだった。


コンプラ瓶

江戸時代、長崎の出島から初期には東インド会社を通じ、東南アジアや遠くヨーロッパに輸出されていた“JAPANSCHZOYA”(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)という磁器の「染付醤油瓶」であった。

この醤油瓶は「コンプラ瓶」と呼ばれるもので、長崎県の大村湾東側の東彼杵郡波佐見町で焼かれた「波佐見焼き」の徳利であった。おおよそ三合入りでバラツキはあるものの、540mlほどの内容量である。


醤油は京都産のものが堺から長崎へ樽で運ばれた。オランダ商会・東インド会社の指導で、その醤油を鉄の釜で煮て瓶に詰め、コルクで栓をして密封し、保存性を高めた。


江戸時代、ヨーロッパ諸国中で唯一日本との貿易を許されたのがオランダである。醤油の輸出はオランダ東インド会社が正保4年(1647年)にオランダ商人によって10樽分の樽詰めされた醤油が長崎の出島より、台湾の安平商館(ゼーランディア城)へ搬送したのが最初といわれ、ヨーロッパにはオランダへ1737年に35樽が初めて出荷されている。
「長崎商館仕訳帳」という資料によると輸出された醤油の単位が「樽」で記録されている。「樽」には大樽と小樽があり、それぞれ29リットル強、15リットル弱の醤油が詰められていたようである。

当時の輸出醤油は京都と大坂・堺(※)のものが主流で、ワインやリキュールを入れる四角のガラス製の「ケンデル瓶」に煮沸した醤油を詰め、栓にコールタールを塗って密閉した15本入りの専用「ケンデル箱」で送られたようである。その後「コンプラ瓶」が登場するが、これは商館がコンプラ株仲間にケンデル瓶に代わる瓶の調達を命じて生まれたものである。
当時、醤油の名産とされていた大坂・堺には4軒の醤油製造業者があった。堺から長崎までの運搬に使われたのが、中国から長崎に入ってきていた生糸を堺に運ぶために定期的に運航されていた「堺糸荷回船」の帰りの便船である。この船に大坂・堺産の「醤油」が積み込まれ、長崎・出島へと運ばれた。

:堺での醤油の生産は、江戸時代の初めの俳集『毛吹草(けふきぐさ)』(寛永15年,1638)に諸国から出る名産として、堺南組の醤油溜りが出ている。江戸時代の百科事典といわれる『和漢三才図会』(正徳2年,1712)にも名物の味噌に泉州・堺の醤油溜りがあげられ、江戸時代には醤油の生産が盛んだったことがうかがえる。

貞享4年(1687年)の『長崎商館仕訳帳』にはセイロン本社商館用に「京の醤油20樽」の記載がみられ、長崎出島から輸出される京の醤油の記載は元禄5年(1692年)まで『長崎商館仕訳帳』に見られる。また、明和元年(1764年)から安永9年(1780年)の間の『明安調方記』には、堺の醤油について記録されているが、それ以外の醤油については触れられていない。

寛政11年(1799年)前後からびん詰めの輸出醤油が出てくる。初めはオランダからブランデーやウィスキーなどを詰めてきた四角いガラス瓶で「ケルデル瓶」と呼ばれた。
その後、ケルデル瓶が足りなくなり、赤道下での変質を防ぐため、長崎の波佐見町で焼かれた白磁染付の徳利型の陶器の「コンプラ醤油瓶」と呼ばれるものが使われるようになった。江戸時代中期の寛政2年(1790年)には、オランダ東インド会社によって陶器の瓶(コンプラ瓶)につめた醤油が長崎から輸出されるようになった。

1647年に始まった醤油の輸出も幕府の鎖国政策の行き詰まりで、1854年には日米和親条約が結ばれ、そして、1855年、日蘭和親条約が締結され、オランダ人も長崎市内に出入りすることができるようになる。オランダ人の貿易独占特権は1859年に失われ、その存在意義を無くした出島のオランダ商館は閉館された。コンプラ株仲間の特権も1866年には廃止された。

鎖国政策の確立

「鎖国」という言葉は、ドイツ人医師ケンペル(1651〜1716)がその著書『日本誌』で、日本が長崎を通してオランダとのみ交渉をもつ、閉ざされた状態であることを指摘したのを1801(享和元)年、オランダ通詞 志筑忠雄(1760-1806) が邦訳して「鎖国論」と題したのに始まる。「鎖国」の言葉は、つまりヨーロッパとの関係において国を鎖(とざし)たということになる。

■鎖国政策下の「四つの口」
近年では、江戸時代の鎖国体制化の対外関係のあり方を「四つの口」または「四つの窓」と呼ぶ。鎖国下の幕府は、長崎口(オランダ・中国との貿易)、対馬口(朝鮮との国交)・薩摩口(琉球王国との国交)・松前口(アイヌとの独占交易権)の4つの外交窓口で外国と結びつき、関わりがあった。この4カ所を「四つの口」体制という。

三代将軍家光の時代に起こった島原の乱(1637年)の後、キリスト教の影響を恐れた幕府は、禁教令によるキリスト教(カトリック教)の日本への流入を食い止める宗教政策・日本人の海外渡航の禁止・キリスト教の布教に熱心なスペイン・ポルトガル船の来航を禁止し、長崎出島にオランダ商船と中国商船のみの渡来を許可するという制限的な貿易秩序(幕府による海外貿易の独占)の鎖国を完成させていく。
その後、幕府は二百年以上鎖国政策をとった。鎖国によって幕藩体制が強化・安定し、「徳川の平和=Pax Tokugawa」とよばれる天下泰平の世が続いた。しかし、幕府は日本と海外につながる「四つの窓」があり、鎖国後も直轄や大名を通じた貿易・交易が行われ、品物のやり取りや文化の交流もあり、江戸幕府は鎖国下においても海外の情報収集は続けていた。



海外との貿易が四つの口(松前・薩摩・長崎・対馬)に限定された「四口体制」が成立されて、鎖国体制が完成された。対馬・薩摩・松前の三口は大名家(藩)による管理であったが、長崎のみ幕府の直轄地として重要視されていた。
幕府は朝鮮(窓口:対馬藩主の宗氏)・琉球王国(窓口:薩摩藩の島津氏)と国交を結んで将軍の代替わりごとに使節(朝鮮通信使・琉球の慶賀使)を迎え、中国とオランダの交易関係により生糸・絹織物や薬品が輸入され、蝦夷地(窓口:松前藩主の松前氏)からは木材や海産物などを交易で得た。
また、長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出する「オランダ風説書」によって、海外の情報を知ることができた。このように、幕府は窓口を制限することで海外からの情報と貿易を独占しようとした。



幕府はキリスト教(カトリック)の禁教と貿易の統制を目的に日本人の海外渡航を厳禁し、外国船の渡航を制限して、一方で長崎出島ではオランダ・中国との貿易を認め、来航したオランダ人が出島(1641–1860年)に、中国人が「唐人屋敷」(1689–1870年)に賃貸料を払ってそれぞれ滞在した。

■「四つの口」のなかの長崎・オランダ
荒野泰典「公益財団法人ニッポンドットコム」-近世日本の国際関係再考のために- から以下を引用する。
「近世の国際関係というと、多くの人はほとんど反射的に、「長崎・オランダ」を思い浮かべるのではなかろうか。しかし、長崎における貿易の実際を見ると、貿易量ではオランダは中国のほぼ3分の1、長崎に滞在した人数も、最盛期の17世紀には数10人規模のこともあったが、18世紀に入るとほぼ20人余りにとどまり、その中にはアフリカや東南アジアから召使などとして連れてこられた人々も交じっていた。
17世紀の後半までは日本貿易は、オランダ東インド会社にとってドル箱だったが、シナ海交易の拠点だった台湾から鄭成功に追い出され(1662年)、さらに、日本からの銀輸出が不可能になると、利益率は急速に落ち、18世紀に入ると、日本市場からの撤退を検討するようになる。オランダ商館長日記には、貿易不調に対する苦情などがあふれている。それにもかかわらず、それから約1世紀半の間オランダ人が出島に留まり続けた。その理由は実はまだ明確になっていないのだが、今、私に考えられる理由は、17世紀ほどの莫大な利益は得られないものの、断念するまでにはいたらないほど、「そこそこ」の利益が見込まれたからではなかろか。

新井白石の正徳新例の目的は、崩壊の危機に瀕した長崎貿易を、都市長崎そのものを立て直すことだった。その方法は簡単に言えば、都市長崎とそれによって成り立っている貿易体制を維持するために、貿易そのものを組み替えること、より具体的には、輸出品が調達できる範囲に貿易量を抑えるということだった。言いかえれば、貿易を持続可能なものに組みかえることによって、体制も維持するということだった。この施策の成功によって、長崎の貿易とそれによって支えられていた国際関係の管理統括の体制も、幕末まで維持されたのだった。

オランダとの関係が重要な意味を持つようになってくるのは、18・19世紀の交(こう)、いわゆる「外圧」(欧米諸国の通商要求)に入ってからのことだ。いわゆる「鎖国」という和製漢語が、志筑忠雄によって創出されるのがこの時期であることは(志筑忠雄『鎖国論』1801年)、その歴史的意義までも象徴しているように私には思える。」

■長崎貿易
長崎貿易「鎖国」により、貿易港は長崎1港に限られた。長崎に来航する貿易船は、オランダ船と中国船だけになった。オランダはバタヴィア(現ジャカルタ)においた東インド会社の一出張所として長崎の出島に商館をおき、貿易の利益を求めた。
オランダ船は生糸や毛織物・絹織物・綿織物などの織物類や薬品・時計・書籍などをもたらした。反対に日本から輸出されたものは、初期には銀と銅、中期以降には伊万里焼や薩摩藩の樟脳(しょうのう)が主であった。とくにアムステルダムで売り出された日本の磁器は人気を集め、伊万里焼や柿右衛門は貴重品とされ、王侯貴族に収集された。
幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し、オランダ船が来航するたびにオランダ商館長(甲比丹,かぴたん)が提出するオランダ風説書によって、海外の事情を知ることができた。1633(寛永10)年から毎年1回150回目くらいまで定期的に江戸参府が行われたが、1790(寛政2)年からは4,5年に1回の割合で、1850(嘉永3)年まで合計167回行われた。

長崎には中国船も来航した。明代は長崎の町中に、中国人(唐人)が雑居するかたちで民間の町人との交渉をもってきた。(※)明清交替(みんしんこうたい)で明が滅び清朝が樹立したのちは、清船が自国産の生糸・絹織物、書籍のほか、ヨーロッパからの綿織物・毛織物・南洋産の砂糖・蘇木・香木などをもたらした。幕府は1685(貞享2)年に貿易統制を行って糸割符制度を再興し、貿易額もオランダ船3000貫、清船6000貫に制限したが、さらに1688(元禄元)年に清船を年に70隻と限った。また幕府は翌年、長崎の町に「唐人屋敷」を完成させ、約3万㎡の屋敷内に清国人の居住を限定し、監視できるようにした。

:明清交替(みんしんこうたい)は、それまで中国大陸を支配していた明から、中国東北部に居住していた満洲族の愛新覚羅氏が建国した清への移行を指す。 この移行は、17世紀初頭から数十年をかけて行われた。

■鎖国政策
江戸幕府初期の対外政策は、キリスト教は禁じるが、貿易は奨励するというものであり、海外貿易は活発であった。しかし、幕府がキリスト教の禁教を進めたため、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるを得なくなった。また、幕府は西国大名が貿易で利益をあげるのをおさえ、幕府のみが貿易利益を独占するために、盛んになった貿易を幕府の厳重な統制のもとにおいて管理する必要に迫られた。
そのため、1624(寛永元)年に、スペイン船の来航を禁じた。また、イギリスもオランダとの競争に敗れ、1623(元和9)年に平戸商館を閉鎖した。ついで1633(寛永10)年には、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、さらに1635(寛永12)年、日本人の海外渡航を全面的に禁止したうえに、すでに渡航していた在外日本人の帰国も禁止した。

その後、1637(寛永14)年から翌年にかけておこった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに深まり、1639(寛永16)年、ポルトガル船の来航を禁止した。さらには、平戸にあったオランダ商館を1641(寛永18)年に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止して、長崎奉行の厳しい監視のもとにおいた。



こうして東アジアを舞台に展開してきた日本の貿易船やスペイン・ポルトガル・イギリス・オランダ商人の活動を統制する一方、幕府は中国(明朝)との国交を回復させようと、朝鮮(李氏朝鮮)や琉球を介して交渉したが明(王朝)からは拒否された。しかし、中国の民間商船も活動はヨ一ロッパ勢に劣らず活発で、九州各地に訪れていた。もはや中国との正式な国交回復を断念した幕府は、中国船との私貿易を長崎に限定して統制下におき、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる「鎖国」の状態となった。

■「鎖国」 へ至る過程


■鎖国令と長崎出島
以下の「鎖国令」は、1633年から1639年の寛永期にかけて、三代将軍の徳川家光が5度にわたって発布した。この鎖国令はポルトガルの日本貿易独占の排除とキリスト教禁止を主目的としているが、貿易そのものを閉ざすものではなく、ポルトガル貿易に変って、新しいキリスト教と関係のないオランダ・中国との交易を進めることであった。
幕府はポルトガル貿易の代替物をオランダ・中国に求め、代替物の筆頭としての生糸(白糸)の輸入も安定して行われていることからも幕府の意図を解することができる。この条項によって日本船の全面渡航が禁止され、一般国民は諸外国との接触は完全に閉ざされた。

 ・寛永10年(1633年)第1次鎖国令。奉書船(幕府公認の船)以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
 ・寛永11年(1634年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達、海外渡航・長崎寄港制限。
 ・寛永12年(1635年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。日本人の海外渡航と帰国を禁じた。
 ・寛永13年(1636年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人を追放、残りのポルトガル人を長崎出島に移す。
 ・寛永16年(1639年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。 → 一般にこれをもって鎖国の完成とする。
 ・寛永18年(1641年)鎖国体制の完成。平戸のオランダ商館を出島に移す。

1859年に開国するまでの217年間、出島はオランダ人の日本における唯一の商業基地になった。出島内には60棟余の建物があり、菜園などもあった。出島は原則として日本人の関係者以外出入りが禁止されており、オランダ人もオランダ商館付医官に赴任した蘭学医シーボルトなど以外の者は出島に軟禁状態とした。江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1641年から1859年までの217年間に延べ700隻以上にものぼった。
(※シーボルトは(文政7年(1823)来日、文政12年(1829)帰国)文政7年(1824年)に、オランダ商館の働きかけもあり、長崎奉行の許可を得て出島から離れた長崎郊外の鳴滝の地に、オランダ通事中山某氏の名義で別荘を購入し、医学教育の場である『鳴滝塾(なるたきじゅく)』を開き西洋医学の講義を行なった)

■「鎖国」下の海外情報収集
「鎖国」体制下の幕府にとって、海外情報に大きな関心が払われたのは当然である。その代表が、長崎出島から発せられる『阿蘭陀風説書』で、これはヨーロッパ・インド(ジャカルタをふくむ)・中国の各風説の3部からなるが、それ以外の世界の多岐にわたる情報もふくまれる。
近世末期には、定型化されない『別段風説書』、それに唐通詞を媒介とする『唐風説書』も書かれたが、これらは通詞仲間などを経由して幕閣のほか諸大名・公家その他にひろまった。特に西南大名などは長崎の蔵屋敷に聞役(ききやく)を配置して、国内外の情報収集に努めたが、江戸参府途中のオランダ商館長やその一行からも海外の知識や情報が知識人・民衆にもたらされ、また日本国内の諸情報がヨーロッパ諸国に伝播していった。こうした情報伝達のルートは、陸上の主要街道(長崎路~中国路~東海道・中山道)の諸飛脚のみならず、海上航路(玄界灘~瀬戸内梅)の飛脚船をも利用した。


日本の醤油を世界に発信

日本調味料・醤油を初めてヨーロッパに紹介したのは、ツンベルグ(Carl Peter Thunberg)というスウェーデンの医師・植物学者であった。 安永4年8月(1775年)ツンベルグはオランダ商館医として長崎出島に赴任した。以来、彼は一年四ヶ月余りを出島商館付医師として日本で過ごした。翌1776年4月、商館長の江戸参府に随行し徳川家治に謁見し、この年の12月に日本を去った。
日本文化の鋭い観察者であったツンベルグは帰国後に、日本で採集した植物を持ち帰り、約800種の日本の植物を記載した『Flora Japonica(日本植物誌)』をを1784年に欧州で刊行した。これは日本の植物をリンネの分類に沿ってまとめ、すべてに二名式の学名を付している。またアルファベットで大部分の種に日本名が示されている。彼が、書籍や論文で紹介した日本産植物は、計401属812種にものぼり、28属390種については、彼によって命名され、ヨーロッパに広く紹介された。そして、西洋の地に無く、植物としても知られていなかった「大豆」を欧州に紹介した。また、日本の風俗習慣を詳しく記した『ツンベルグ日本紀行』をも書いた。



■ツンベルグ日本紀行
『ツンベルグ日本紀行』から「味噌」「醤油」に関する文章を紹介する。
“第20章 日本人の食物”:「味噌即ち大豆の汁は日本人の食料品の主をなすものである。あらゆる階級の人、高きも低きも、富めるも貧しきも、年中、日に数回これを食べる。その製法を書けぱ次の如くである。豆を少し柔らかくなるまで煮る。これに同量の大麦或いは小麦を交ぜる。この混合物を24時間暖かい場所に置いて、自由に発酵させる。続いてこれに同量の塩及び二倍半の水を入れ、その後数日は怠らずこれを撹拌する。一定時を経たのち、この液澄を圧搾して、これを樽に入れる。特に醤油を作ることの上手な国がある。古くなればなるほど質がよくなり、且つ澄んでくる。常に褐色をしていて、その主な味は快い䶢味(かんみ=塩辛い味)である」

“第23章 生産物の用途及び特質”:「日本人にとって一番必要な穀物は米である。藁麦、裸麦、大麦、また小麦などは別に大事なものではない。・・・日本人は、隠元豆・豌豆〈エンドウ〉・蚕豆〈ソラマメ〉・大小各種の味豆を盛んに栽培する。ダイズ(Daiso)と云う豆の粉は、いろいろの料理に使われる。これを圧搾して出した汁は醤油となる」

“第26章 日本人の商業”:「茶の輸出は少ない。・・・その代わり(日本人は)非常に上質の醤油を造る。これは支那の醤油に比し遥かに上質である。多量の醤油樽が、バタビア(現ジャカルタ)、印度、および欧羅巴に運ばれる(輸出されている)。互いに劣らず上質の醤油を作る国々がある。和蘭(オランダ)人は醤油に暑気の影響を受けしめず、又その発酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰めとし、その栓に瀝青(れきせい=コールタール)を塗る。かくの如くにすれば醤油はよく、その力を保ち、あらゆるソースに混ぜることが出来る」

■『百科全書』―ディドロ編纂 醤油の項
1772年にフランスで完成したディドロ編纂の『百科全書』には「しょうゆ」の項目が設けられており、日本醤油の優れた品質が紹介されている。
「これは日本でつくられた一種のソースで、同時にアジア各地で非常にもてはやされているものである。フランスには、オランダ人によってもたらされた。このソースは、すべての肉料理の風味を引き立たせ、特にベルドリおよび骨付きハムに素晴らしい味をもたらす。キノコ類の風味を持つこのソースは、非常に塩辛く、コショウとショウガの味の他、何か特殊な風味が秘められており、強烈な刺激がある。これによって腐敗を防ぐのであろう。瓶に入れてきっちりふたをしておけば、長期のわたり保存がきく。ごく少量を加えることによって料理のベースとなるソース、またルルヴェと呼ばれるメイン・ディッシュに、深い味わいを与えてくれる。
中国産の醤油もあるが、日本産のものがはるかに優れている。肉料理にとって、日本産の方は中国産にくらべ、深く豊かな滋味を付与してくれるからである」


シーボルト著『NIPPON(日本)』

江戸時代、長崎・出島のオランダ商館医として来日したシーボルトは(在日期間1823~1829年)長崎だけでなく江戸参府などを通じて多くの日本情報を収集した。帰国後、二十年もの歳月をかけ、1852年にドイツ語版の初版本 SIEBOLD, P. F. von Nippon 『NIPPON』を出版し、ヨーロッパに日本を紹介した。シーボルトの『NIPPON』には、醤油について次のように触れている。「人の知る醤油(ソーヤ、soja)は大豆(sojabonen)・塩・米もやしにて作りたるソース。国人の好む酒精飲料の酒(サケ、sake)は本来、米より醸したるビールなり。」

シーボルト著『NIPPON』は、図版編と本文(テキスト)編からなり、伊能忠敬の調査に基づく日本地図などが紹介され、また農村や都市の風景・風習、文化や産業、そして身分のよる服装の相違などを描いた図版が数多く載せられている。



ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、1826(文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。
1828(文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(所謂シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。 しかし、1859(安政6)年に再び来日して、1861(文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。
「日本辺界略図」は、幕府天文方の高橋景保が1809(文化6)年に作成したもので、ロシアを含むヨーロッパ人にとって地理情報が不正確であったサハリン(樺太)を半島ではなく、島としてはっきり描いた、当時世界最新の日本北方図として、シーボルト『日本』に収録された地図の中でも最も重要な地図の一つとして知られている。

『NIPPON』第1冊には「名主の住まい・醤油屋・番人小屋」の図版が、第2冊には「酒・醤油・紙・漆などの製造具」が載っている。

「名主の住まい・醤油屋・番人小屋」


NIPPON』に描かれた町並みの挿図で、表通りに面した家並みと裏側である。表通りに面した家並みでは、左から「番人小屋」「醤油屋」「名主の住まい」を描いている。「名主の住まい」は、長崎の本博多町の地役人・町乙名の役宅である。「醤油屋」、「番人小屋」も長崎の町家と考えられる。

シーボルトは、日本の町家に関する記録を模型、絵画、日記などで遺している。なかでも、日本人に製作させ、オランダのライデン国立民族学博物館(Museum Volkenkunde)に所蔵されている商家や農家、町家等の精巧な模型は、19世紀初めの実際の町家を外観から室内まで含めて詳細に知ることができる。
町家の屋根は丸桟瓦葺、棟の端部を丸瓦で納めるなど、建築的特徴を正確に理解し、日本人の職人に模型を製作させ、オランダに持ち帰っている。模型は、滞在記録などから、文化14(1817)年から文政12(1829)年に収集された。


ライデン国立民族学博物館所蔵の「醤油屋」模型(瓦葺で本二階造の構造)


「醤油屋」の店先の庇(ひさし)には尾垂(おだれ)が付き、「∧に米」と書かれた短い暖簾(のれん)が下がる。


1階は、通り土間と4室からなる。店部分には、土間沿いに醤油樽や桶が置かれている。2階には、床のある12畳の部屋がある。

シーボルトの『日本』には、醤油について次のように触れている。「人の知る醤油(ソーヤ、soja)は大豆(sojabonen)・塩・米もやしにて作りたるソース。国人の好む酒精飲料の酒(サケ、sake)は本来、米より醸したるビールなり。」

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