江戸時代の外食・醤油文化

日本の醤油を世界に発信

■「ダイズは東洋ではコメ、ムギ、アワ、キビ、ダイズの神聖な五穀の一つとされ、その後もずっと肉やミルクに代わる栄養源とされてきた。「古事記』(712年)や『日本書』(720年)にはダイズが明記され、すでに普及していた。(中略)ダイスは18世紀に中国、日本から海路でヨーロッパに伝播した。1700年代に日本へ到着したオランダ宣教師たちは、醤油の魅力を発見するがその「醤油」という言葉をダイスのことと勘違いし、本国ヘダイズのサンプルを送るときに、「shouyu」「soya」と記載したため、ヨーロッパではダイズが「soya」「soyabeans」となった。
アメリカへはヨーロッパからのほか、中国、日本から19世紀に持ち込まれた。1864年には黒船のペリーも日本から種子を持ち帰った。そして、アメリカの農務省が1896年から栽培を始め、1924年から普及に務め、現在は世界一の生産地となった。ダイズは日本が原産地である数少ない農産物であり、そのため、ダイズから作る味噌、醤油、豆腐、納豆などは日本の食文化に深く関わっている。」水野一晴著「人間の営みがわかる地理学入門」より


■醤油の輸出は、江戸時代の初めの1647年にオランダ東インド会社がヨーロッパに向けて輸出したのが始まりとされています。当時の醤油の輸出は、長崎の出島の「金富良(こんぷら)社」が行い、主として現在の大阪堺市でつくられていた醤油を途中での腐敗を防ぐために醤油を加熱殺菌し、陶器製の「コンプラ醤油瓶」に密閉して海外に送っていました。
このころの日本の様子については、ドイツの植物学者ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1716)、スウェーデンの植物学者ツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)や、シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)らの3人は江戸時代の著名な日本研究者でした。彼らはいずれも鎖国中、長崎の出島に滞在したオランダ商館医で日本の醤油を世界に向かって詳しく紹介しています。
そのツェンベリーは「日本の醤油は大変良質で、多量の醤油樽が赤道直下のバタビア、インドを経て喜望峰を回り、遠くヨーロッパに運ばれている」と書いています。当時のオランダでは日本から輸入した醤油はソースの味付けに珍重され、主にヨーロッパの宮廷料理に使われていたようです。赤道を越える輸送中の変性を防ぐため火入れした醤油を陶器のコンプラ瓶に詰めて運んでいました。

(このWebではスウェーデンの植物学者名としてツンベルク(Carl Peter Thunberg,)の表記を用いる。Thunberg の日本語での姓の表記としてツンベルグツェンベリー、チュンベリーなどがある)


日本醤油と大豆を紹介

■『日本の醤油:その源流と近代工業化の研究』(横塚保 著)より一部引用して記す。
「江戸時代に日本に来ていたヨーロッパ人によって日本の醤油の美味しさが見いだされ、浮世絵や焼物と共にヨーロッパに輸出されるようになっていきました。1775年に医師として来日したカール・ツンベルクは帰国後『日本紀行』に「茶は中国のものが良いが、醤油は日本のものがはるかにいい」と書いています。



大豆そのものが最初に英語圏に紹介されたのはアメリカよりもむしろヨーロッパのほうでした。1670年代に東インド諸島からイギリス、オランダへの輸入品の中に大豆の記載が残されています。このときの大豆の名称はどうであったのか、確認出来ませんが、恐らくこれが英語圏に大豆が出現した最初であったであろうと思われます。
はじめてヨーロッパに日本の大豆が文書で紹介したのは、1691年から92年にかけて日本に滞在していたドイツの植物学者ケンペル(Engelbelt Kaempfer)でした。彼は長崎出島の医師として滞在しており、その間江戸にも出府しています。彼は日本の植物について、帰国後『廻国奇観』として出版し紹介していますが、その中で大豆及び大豆のいろいろな加工品についても詳細に記載しているといわれています。



この時代ケンペルと同じように日本の植物をヨーロッパに紹介している人物としてスウェーデンの植物学者ツェンベリーシーボルトが挙げられます。オックスフォード辞典によると、1699年に出版された本には醤油のことを"Soy"と紹介されていますが、それ以降は醤油を"soy"との表現が続いています。アメリカ大陸に最初に大豆を持ち込んだ英国人サムエル・ボーエン(Samuel Bowen)が新大陸アメリカで製造した醤油を1767年に英国政府に特許を申請した文章の中で"soy from plants"と記述しています。当時は既に日本の醤油が英国に紹介されていた可能性が高く、soyは醤油という日本語の響きから採られた可能性が高い。

そして寛文年間(1661-73)からオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されており、前出のツェンベリーは「日本の醤油は大変良質で、多量の醤油樽がバタビア、インド及びヨーロッパに運ばれている」と書いています。当時のオランダでは日本から輸入した醤油はソースの味付けに珍重され、赤道を越える輸送中の変性を防ぐため火入れした醤油を陶器の瓶に詰めて運んでいます。

大豆が海外で"Soybean"と呼ばれるようになるのには日本の醤油が関係している、と言われています。一説には、慶応3年(1867年)、パリで開かれた万国博覧会に薩摩藩士大久保利通が醤油を出品し、大豆を紹介したことが発祥とされています。大久保利通の言葉は、当然のことながら薩摩弁であり、当時の薩摩弁では「醤油」のことを発音すると「ソイ」と聞こえたというのです。
19世紀前半に初めて大豆を見たアメリカ人たちは大豆のことを"Japan pea"、"Japanese Fodder"、"Japan Bean"などと書いています。さらに、1854年にペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、アメリカの農業委員会に提出されていますが、これには"Soja bean"との表現が使われています。



SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます。1882年にsoybeanの言葉が出てきて以来、soybeanの呼び方が定着したことが想像されます。いずれにしても、英語のsoybeanは日本語の醤油がそのルーツであることは間違いないでしょう。」


○NY植物園に眠る黒船が持ち帰った日本の植物
以下は「在ニューヨーク日本国総領事館」、日米交流150周年記念 (emb-japan.go.jp)より転記した。
『ニューヨーク市のブロンクスにあるニューヨーク植物園は、世界各地の植物650万種を保存する世界で最も古くかつ最大の植物園の一つですが、ここの研究資料室にペリー提督の黒船艦隊が持ち帰った日本の植物が保存されています。
ペリー提督の日本遠征の目的は、日本を開国し、米捕鯨船の補給地を確保することにあったわけですが、その他にも様々な目的があり、その一つが日本の植物を採集して研究するということでした。そのため黒船艦隊には植物採集の専門家が同行していました。採集は2度行われ、1回目は1853年のペリー提督来航時に、S・ウェルズ・ウィリアムス博士とジェームズ・モロー博士によって、最初の上陸地であった浦賀、横浜、下田、函館の4カ所で合計350種余りの植物が採集されました。その中には横浜のツボスミレ、下田のウンゼンツツジやベニシダ、また各地のスゲなどが含まれています。2回目は1854年から55年にかけてリンゴールド隊長とロジャース隊長率いる黒船艦隊により、沖縄や奄美大島、下田、小笠原、函館などを回り、より大規模な採集が行われました。
いずれの植物標本も全てハーバード大学に運ばれ、植物学者エイサ・グレイ博士によって研究・記載されました。グレイ博士はこれらの標本を元に1859年、世界で初めて、日本を中心とするアジアの極東地方の植物分布についての論文を発表し、日本と米国は太平洋で隔てられているにもかかわらず、非常によく似た植物が離れ離れの状態で分布していることを明らかにしました。
ニューヨーク植物園には今も黒船が採集した標本が、湿度や気温が調節された保存室に収蔵されており、150年前のものと思えないほど保存状態が良いものが多くあります。1975年10月に訪米された昭和天皇は、そのうちの一部を閲覧になられました。当時、昭和天皇は伊豆須崎の植物誌を執筆されており、その関連で、黒船艦隊が下田から採集した植物標本をご覧になりました。その研究成果は、ご著書「伊豆須崎の植物」(1980年)にまとめられています。』


ケンペル『廻国奇観』

1712年『廻国奇観』に記している醤油の製造法(この中では、大豆は空豆と記述されている)
「ソーユ醸造には、やはり空豆を或る程度の柔らかさまで煮る。ムッギ、すなわち大麦か小麦かいずれかの麦(小麦から作るものの方がどちらかといえば黒くなる)を粗くすり潰す。
そして等量の食塩、すなわち、それぞれを一枡ずつ、空豆はすり潰した麦と混ぜ合わせたものをくるんで、温かい場所に一昼夜置き、発酵させる。ついで、その塊を甕に入れ、上述の食塩で包み、二枡半の水を注ぐ。そしてその塊に翌日まであるいは数日の間、きっちり蓋をしておき、少なくとも一回(二回とか三回であればなおのことよい)は柄杓でかき回すこの作業を二ヶ月から三ヶ月の間続けた後、塊を濾して絞り、液体を木桶に保存する。液体は古くなればなるほど返って澄んでくるので、よくわかる。こうして絞ったあとの塊に再び水を注ぎかけて、数日間かき回し、また絞るのである。」

オランダ商館付き医師ケンペルは2年間(1690~1692年)の日本滞在中、日本の地理、気候、風俗、習慣、その他、社会全般について資料収集、調査をしました。それを元に帰国後、『廻国奇観』を著します。この著書はヨーロッパで大変な影響を与えた本です。
この中では、大豆は空豆と記述されています。この時代、ヨーロッパではまだ大豆が知られていません。大豆が知られるようになったのは19世紀になってからです。


ツンベルグ『日本紀行』

『ツンベルク日本紀行』とは、「ツンベルク旅行記」 の日本紀行の部分だけを、1796年パリ出版の、同地国立図書館東洋文書係 L・ラングレ(L. Langrès)の手になった仏訳本によって、邦訳したものがこの本である。
日本調味料・醤油を初めてヨーロッパに紹介したのは、ツンベルグ(Carl Peter Thunberg)というスウェーデンの医師・植物学者であった。 安永4年8月(1775年)ツンベルグはオランダ商館医として長崎出島に赴任した。以来、彼は1年4ヶ月余りを出島商館付医師として日本で過ごした。翌1776年4月、商館長の江戸参府に随行し徳川家治に謁見し、この年の12月に日本を去った。
日本文化の鋭い観察者であったツンベルグは帰国後に、日本で採集した植物を持ち帰り、約800種の日本の植物を記載した『日本植物誌』を1784年に欧州で刊行し、西洋の地に無く、植物としても知られていなかった「大豆」を欧州に紹介した。また、日本の風俗習慣を詳しく記した『ツンベルグ日本紀行』の中で、日本の醤油について「(日本人は)非常に上質の醤油をつくる。中国の醤油に比べて極めて上質な醤油」と紹介している。

『ツンベルグ日本紀行』から「味噌」「醤油」に関する文章を紹介する。

“第20章 日本人の食物”:「味噌即ち大豆の汁は日本人の食料品の主をなすものである。あらゆる階級の人、高きも低きも、富めるも貧しきも、年中、日に数回これを食べる。その製法を書けぱ次の如くである。豆を少し柔らかくなるまで煮る。これに同量の大麦或いは小麦を交ぜる。この混合物を24時間暖かい場所に置いて、自由に発酵させる。続いてこれに同量の塩及び二倍半の水を入れ、その後数日は怠らずこれを撹拌する。一定時を経たのち、この液澄を圧搾して、これを樽に入れる。特に醤油を作ることの上手な国がある。古くなればなるほど質がよくなり、且つ澄んでくる。常に褐色をしていて、その主な味は快い䶢味(かんみ=塩辛い味)である」

“第23章 生産物の用途及び特質”:「日本人にとって一番必要な穀物は米である。藁麦、裸麦、大麦、また小麦などは別に大事なものではない。・・・日本人は、隠元豆・豌豆〈エンドウ〉・蚕豆〈ソラマメ〉・大小各種の味豆を盛んに栽培する。ダイズ(Daiso)と云う豆の粉は、いろいろの料理に使われる。これを圧搾して出した汁は醤油となる」

“第26章 日本人の商業”:「茶の輸出は少ない。・・・その代わり(日本人は)非常に上質の醤油を造る。これは支那の醤油に比し遥かに上質である。多量の醤油樽が、バタビア(現ジャカルタ)、印度、および欧羅巴に運ばれる(輸出されている)。互いに劣らず上質の醤油を作る国々がある。和蘭(オランダ)人は醤油に暑気の影響を受けしめず、又その発酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰めとし、その栓に瀝青(れきせい=コールタール)を塗る。かくの如くにすれば醤油はよく、その力を保ち、あらゆるソースに混ぜることが出来る」


ディドロの『百科全書』としょうゆ

醤油は日本文化のエッセンス、肉の味を引き立てる調味料
ディドロ(Denis Diderot)の『百科全書』18世紀フランス啓蒙思想の集大成 に「醤油」の項目がある。この『百科全書』は1751 年から 1772 年(江戸中期)にかけてパリで出版された。



ディドロとダランベールを編集責任者とし、264人の執筆者の協力によって成立したフランス18世紀の『百科全書』(正式表題「一群の文筆家によって執筆された百科全書」本文17巻・図版11巻・補遺5巻・索引2巻の計35巻から成る)のジュネーブ版に、日本の醤油が「SUOI あるいは SOI (料理用語)」という醤油の項目に、このように記述されている。

「日本人が調理に使用し、アジア人に人気の高いソースの一種である。オランダ人もまたこのソースを高く評価し、自国に持ち帰った。あらゆる種類の肉、特にヤマウズラとハムに合うエキスあるいはジュースの一種である。原材料はきのこ類の液汁、多量の塩、胡椒、生姜などで、これらをブレンドすることによって非常に強い風味を持たせ、同時にこの液が腐敗するのを防ぐことができる。
きっちりと栓をした瓶では非常に長い年月保存がきき、この液体の少量を一般の他のジュースに混ぜると、それを引き立て、非常に快い風味を与えることができる。中国人もSOUIを製造するが、日本のものの方がより優れているとみなされている。ということは、中国よりも日本における肉料理の方が、はるかに美味であるということが言える。」

「これは日本で造られた一種のソースであってアジア各地で非常にもてはやされている。フランスにはオランダ人によってもたらされたのである。このソースにはすべての肉料理の風味を引き立たせ、特にベルドリ(ヤマウズラ)および骨付きハムには素晴らしい味をもたらす。
キノコ類の風味を持つこのソースはしろカラくてコショウとショウガの味のほかに何か特殊な風味が秘められてあり、強烈な刺激があるが、これによって腐敗を防ぐのであろう。瓶に入れて固く蓋をすれば、長期の保存ができるのである。これを少量加えることによって、料理のベースとなるソース『ルルヴェ』(肉料理)といわれるメイン・ディッシュに深い味わいを与えてくれる。 肉料理にとって、日本産の方は中国産にくらべ、深く豊かな滋味を付与してくれる」

「美食王」の名を欲しいままにした絶対君主・ルイ14世が食べたという醤油を使った料理のレシピは現存しておらず、ディドロが『百科全書』の中で記した、醤油を隠し味に使ったソースを用いる「『ルルヴェ』と呼ばれるメイン・ディッシュ」も、今では何なのか判らないのが実情である。


シーボルト『日本植物誌 Flora Japonica』

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold)
1823年日本に着いたシーボルトは、オランダ領東インド政庁の商館付き医師として長崎・出島に赴任。シーボルトは長崎で日本人に西洋医学を教えたが、1828年、禁制の日本地図(伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」)を持ち出そうとしたシーボルト事件を起こし、1829年日本を国外追放される。ペリー提督が率いる黒船来航により、1854年、日米和親条約が結ばれて日本は開国し、シーボルトの永久追放処分は解かれた。シーボルトは1859年(安政6年)に再び日本を訪れるが、それはシーボルトが追放処分を受けてから既に30年が経っていた。そして、3年後の1862年に日本を去った。シーボルトが日本に滞在した年月は2回合わせて10年たらずであった。シーボルトが最終的に日本を去った1861年の僅か6年後に徳川幕府は終焉を迎えた。


本国に帰国したシーボルトは、オランダ中部の街ライデンに居住した。持ち帰った膨大な資料を基に自費出版したのが三部作ともいわれる『日本』、『日本動物誌』、『日本植物誌』ある。
シーボルトの研究成果は『日本』Nippon、『日本動物誌』Fauna Japonica(ファウナ・ヤポニカ)、 『日本植物誌』Flora Japonica(フロラ・ヤポニカ)などの著書によってヨーロッパに紹介された。日本植物の数多くの新種を記載した植物画集である 『日本植物誌』は、シーボルトが西洋の植物学を日本人に伝える過程で、日本植物について日本の蘭学者である水谷豊文、宇田川榕菴らから得た資料・情報も『日本植物誌』の執筆に駆使されている。


日本植物の科学的分析と分類は、オランダ商館付き医師として来日した学者たちによって着手された。
なかでもケンペル(Engelbert Kaempfer)、ツュンベルク(Carl Peter Thunberg)、シーボルト(Philip Franz[Balthasar]von Siebold)は重要な貢献をした。この3人の学者は、それぞれ『フロラ・ヤポニカ(Flora Japonia)』(日本植物誌)を刊行した。
シーボルトが『日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)』中にフランス語で書いた解説は、植物の自生地、分布、生育地の状況、栽培状況、学名の由来、日本名、その由来、利用法、薬理、処方など多岐にわたっていた。そして、『日本植物誌』はミュンヘンの植物分類学者ツッカリーニ(Zuccarini)との共著として刊行されている。

大豆の英語名soy beanはツュンベルク(C.P.Thunberg )の著書の英訳に由来するという説がる。また、シーボルトは、『日本植物誌』で、大豆の原種とされる「ツルマメ」の学名をGlycine Soja(ツルマメ)と名付けた。それぞれ日本語の「醤油」を由来とする命名とも考えられている。

前述したシーボルトの「ツルマメ」の学名を Glycine Soja について説明している文献があり、参考として記載する。以下は、京都大学大学院 「特集:科学・技術の過去と未来」から一部を引用したものである。

- ダイズの先祖は蔓になる雑草(瀬戸口浩彰) -
『ダイズの野生種は、ツルマメという。学名は「グリシンソヤ」Glycine soja Sieb. et Zucc. という。ダイズの先祖は蔓になる雑草 。 「おや?」と思った方も居られよう。野生種のほうに醤油 soy(ラテン語の語尾変化の関係で soja になっている)という名前が しっかりと付けられている。しかも、名前を付けた二人のうちの片方は、その Sieb. とあるように、江戸時代末に長崎出島に出島に来ていたシーボルトである。
シーボルトは、出島に出入りする蘭学者・医学者の弟子に頼んだり、出島で飼育している牛・馬の「かいば」の中から、植物を集めた。そして日本人の画家に精緻な植物図を描かせ、標本を作製した。さらに日本人に和名を聞き出して絵画に併記している。
日本を追放されて帰国した後には、ミュンヘン大学の植物分類学者ツッカリーニ(Zuccarini)の学術的な支援を受けて新種を記載していった。 soja は醤油の醤の発音に由来している(昔のツルマメの名前は野豆など)。種小名を soja にしていることは、この植物が醤油をつくるダイズに関連をもつことを示唆している。シーボルトはこのような蔓になる野生種を、ダイズの祖先種、あるいは近縁種と認識していたのである。
ツルマメは、日本(北海道〜鹿児島の本土部) 、朝鮮半島、シベリア東部、中国東部(ロシア国境〜福建省) 、台湾などに幅広く分布する。河原などの草地に、長さ数メートルの蔓になって伸び、京都であると八月頃からピンク色の花を咲かせる。豆の莢は、枝豆の莢の六割ぐらいの大きさだが、見かけは立派な「枝豆」である。豆(種子)は小さく、小豆よりも小さい。色は黒っぽい褐色である 。これは皮に多量のアントシアニンが含まれているからで、この形質を受け継いでいるダイズの栽培品種が、いわゆる黒豆である。』


以下は、「料理を変えた醤油」―長崎出島との関わりより一部を引用する。
「ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、その生涯を賭けた日本に関する著作物の一つ『日本(NIPPON)』には、「人の知る醤油(ソーヤ、soja)は大豆(sojabonen)・塩・米もやしにて作りたるソース。国人の好む酒精飲料の酒(サケ、sake)は本来、米より醸したるビールなり。」とあります。(1862年)シーボルトは簡単にふれているだけですが、「人の知る醤油」という記述は、注目されます。この時期、中国産であれ、日本産であれ、醤油はヨーロッパでは珍しい調味料ではなくなっていたということを意味しています。」


ヘンドリック・ドゥーフ

■ヘンドリック・ドゥーフ
オランダ人ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)は、オランダ商館の筆者頭として1799〔寛政11〕年に初来日した。1803〔享和3〕年には27歳でオランダ商館長の任に就き、以後1817〔文化14〕年までの長期にわたりオランダ商館長を務めた。1808(文化5)年には英国艦船フェートン号が、オランダ国旗を偽って掲げ長崎港に入港し職員を人質に交易を迫ったという事件も起きた。
ドゥーフは商館長として長崎滞在中、祖国オランダは苦難の時期を迎えていた。オランダはナポレオン戦争の影響で1795(寛政7)年からフランスに占領されていた【1810年にフランスに併合される】。フランスがイギリスと戦争状態となっていたため、オランダの船が入って来ない毎日、彼は通詞と共に蘭仏辞典を元に蘭日辞典を編集、後の蘭和辞典に大きな影響を与えたという。これらの試練を乗り越えたドゥーフは、出島和蘭商館を守り抜いたとして、オランダ政府だけでなく江戸幕府からも賞賛された。


■1833年『日本回想録』から、「予は此機会において酒及び醤油につきて一言説明すべし。前者は米を醸したる強きビールにして、蒸留せしものにはあらず。醤油は日本に水牛なければ、水牛血素にあらず。又牛肉汁にもあらず。蓋し牛肉は此国には甚だ稀にして、予はこれを試むまで数年を経過したる程なり。又腐敗せる魚にもあらず。醤油は実に小麦・塩・及味噌豆といえる白豆の一種の混合に外ならず。此等は大槽に入れて地下に貯えられ、一定時間の間発酵せしめたる後、之を煮沸し以って永く保存し得しむ。」

この頃には日本でも火入れをして醤油を保存していたことが記されています。
牛肉についての記述では、表向きは仏教の影響で江戸時代、鳥類を除いて獣肉を食さないことになっていますが、長崎では、郊外で豚の飼育が行われ、屠殺場もあって、豚肉を手に入れるのは簡単だったようです。ただ、牛は農業の生産手段として使用されたので、肉牛はいませんでした。出島の絵に登場する牛の絵は、バタビアから船で運ばれた牛です。船旅で痩せてしまった牛は、一定期間出島で飼育し、太らせてから食用にされたそうです

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