江戸時代の外食・醤油文化

江戸の水道(上水井戸)

江戸の水道事情
江戸の上水井戸に関し、次の記録が残っている。
「元来江戸の地は飲料水に乏しきゆゑに、三代将軍御治世の時大久保主水に命じ、武蔵国多摩郡井の頭の池水を、木樋(とゆ)にて数里の距離を江戸の井水に引用し、承応年間落成す。その後玉川上水も引用す。元禄元年 河村瑞賢計画、千川用水もなる」

江戸の町を形成した土地のほとんどが海岸に近い埋立地だったため、井戸を掘っても地下水に塩分を含んでいて飲み水(生活用水)が確保できない。
幕府は、家臣の大久保藤五郎に上水道の整備を命じ、江戸で最初の水道となる井の頭池から総延長63キロにもなる長大な上水道・神田上水をつくらせた。続いて多摩川から水を取り込む玉川上水が開削された。合わせて総延長150キロという、当時、世界最大級の上水道であった。

江戸の水道は「自然流下式」といって、高低差を利用して川のように水を流す方法であった。その後、人口が増大して、神田上水だけでは賄いきれなくなり、1653年に、さらに豊富な水量を求めて、多摩川を水源とした玉川上水(多摩川が水源)が着工された。
ところで、玉川上水開発の10年ほど後にも江戸府内に四つの上水が開発されている。亀有(本所)上水が万治2年(1659)、青山上水が万治3年、三田上水が寛文4年(1664)、千川上水が元禄9年(1696)の開設である。しかし、この四つの上水は享保7年(1722)に廃止された。


■玉川上水
玉川上水は江戸全域に供水可能で、江戸城、大名屋敷、および武家屋敷を主体に配水していた。一方、神田上水は武家屋敷と町屋を主体に配水していた。江戸の上水道は人々の生活用水とともに防火用水、江戸城堀、大名屋敷泉水、下水に水を流すなどのを多用途施設であった。
玉川上水は多摩川の上流、羽村(現在の羽村市)から取水し、武蔵野台地の地理、地形を巧みに読み取ってほぼ平坦な地面を延々約11里(約43km)、標高差は約92m、江戸の西の入口、 四谷大木戸(現在の新宿区四谷)まで導水した。
玉川上水は武蔵野台地の各所に分水され、潅漑用水や生活用水として流域の村々を潤した。幕府から工事を請け負った庄右衛門・清右衛門の兄弟(後に玉川の姓を拝命)は、1653年(承応2年)4月から同年11月までのわずか7ヶ月間で、多大な苦難を乗り越えて完成させたと伝えられている。




江戸の水道井戸の構造

■水道井戸の構造
江戸の井戸は、井の頭池から引いた神田上水や多摩川から取水した玉川上水から高低差を利用して地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の中を流れる水を溜めた大きな桶を積み重ねて設置され、そこに水が溜まる仕組みになっている。
江戸の人々は、この桶に溜まった水を地上から汲み上げて使ったのが水道井戸である。人々は、つるべや竹竿の先に桶をつけたもので井戸の水を汲んだ。
上水井戸本体は、底のない樽を重ねて作った。地上に出る樽を化粧側といい、地下にある樽を根側という。根側の一番下の樽には底がある。上水道から引いた木製の樋から、竹筒でできた呼び樋を使って井戸に水を溜める仕組みになっている。

 
水道井戸の構造


上水井戸の水、つまり、水道の上水路は地下九尺のところに幅六尺の「石樋(せきひ)」があった。石樋の構造は、上部の石蓋は長さが約1800mm、目方は約370キロという石板を両側の石に架け渡して水路を形成してずっと延びていた。
両側の石の一個の重さが約180キロ以上もあるという巨大な石樋で、内径は1500mmもあり当時の最大配水幹線である。この石樋はからは水道の樋の「木樋(もくひ)」となって、江戸西南部の武家屋敷や町々に給水した。
木樋の用材は水に強い檜で、松や杉なども用いている。これらの木樋を厚薄二つ割りにして、薄いほうを蓋にし、合わせ目には檜皮をつめ、打ち釘やかすがいなどで止めた。木樋と木樋の繋ぎ目にも檜皮をつけて漏水を防いだ。木樋管の接続や方向転換には「溜桝(継手)」を造った。こうした木樋を通って送られてくる水を、呼び樋の「竹樋(たけひ)」を用いて末端の井戸につないだ。その「上水井戸(水道井戸)」に水を呼び込んで汲みあげて使用していた。


上水井戸・石樋(せきひ)と木樋(もくひ)の構造


水道井戸の水道料金
井戸は江戸時代の中期頃には江戸市内中にほぼ20~30m四方に1ヶ所ほど設置されていた。「水銀(みずぎん)」は、給水区域の武家・町方へ割り当てられた上水の使用料であった。町方は屋敷単位ではなく一町単位で、表間口一間につき11文の割合か表間口二間で100石の換算だった。武家にしても町方にしても水銀は表屋敷を持っている者に課せられた。
この水銀は、神田、玉川両上水の水番人などの使用人の給料や、水源地 や上水の桶、枡の修理など上水の維持管理経費として徴収された。上水の武家・町方への配水管は木樋(もくひ)を埋めてものであるから腐りやすく定期的に修理普請が必要だった。
神田上水は水銀とは別に修理普請費用の「普請金(ふしんきん)」を徴収したかどうか明らかではないが、玉川上水の場合は徴収した。

庶民の住む長屋の飲み水は「水売り」から買う場合もあるが、長屋には「水道井戸」が引かれていた。江戸の町には、人工の上水道があった。そこで、江戸っ子の自幔のひとつに「水道の水で産湯をつかった」というのがある。
江戸中期から後期にかけて幕府の「公営」となった水道料金の「水銀(みずぎん)」は、武士が禄高、町人(地主、家持ち)からは敷地の表間口に応じて支払った。
長屋暮らしの住人たちの水道料金は、長屋の戸数に応じて大家が負担をしており、長屋の店賃には水道井戸の使用料金が含まれていたが、年に1度は井戸浚いをするのが決まりであった。


江戸の上水(水道)管理

七夕の井戸さらえ
水道井戸は、江戸時代の中期頃には江戸市中に、ほぼ20~30メートル四方に1か所の割合で設置されていた。
日頃使う井戸は、1年に1度(旧暦の7月7日,新暦8月中旬頃)の約一日半かけての「井戸さらえ」があり、大家の指示のもと、住人総出で水を汲みだし、井戸職人が井戸の中に入って隅々まで掃除を行なった。
この「井戸さらえ」は江戸中で一斉に行われた。すべての作業が終わると、井戸にふたをしてお神酒や塩を備えるのが習わしであった。なお、7月7日に「井戸さらえ」を行った理由は、七夕本来が、数日後にやってくる盂蘭盆会(うらぼんえ)に向けての払いの儀式だったことと、大切な飲料水を清める儀式を重ねた意義を持たせた行事であったことにある。

『絵本江戸風俗往来』東洋文庫/菊池貴一郎著から”井戸さらえ”を引用。
「七月七日は七夕の佳節(かせつ=めでたい日)、五節句の中、三月上巳・五月端午と同じ。今日は江戸中井戸浚い(さらい)」を挙行する。上は諸侯方、下は裏々の共同井戸に至るまで、皆水を汲み干して浚う。まず井戸の化粧側をはずし、車にて綱を下げ大桶を卸して、その綱は共同井戸使用の人々、残らず出て曳くの習いなり。井水七分通り汲み干すや、井戸職、井水中にくぐり、井側を洗い、底に落ちたる物を拾い出し、ことごとく汲み干すやまた化粧側を元の如くかけ、板戸を蓋にして、御酒・塩を供えること市中皆一様なり。昨日より今日よりや今日正午までに浚い終わるなり」


『絵本世都之時』/浮世絵師 北尾重政 安永四年(1775)
井戸さらえ(夏の行事、井戸掃除するために、木に滑車をつけて井戸水を汲みだしている様子が描かれている)


江戸の上水(水道)管理
幕府は江戸の町の飲み水の運営には、幕府自身が直接関与した。神田上水には「水番屋」が5ヶ所あり、番人が居住服務していた。
また、玉川上水の水番屋は、江戸外の羽村、砂川村・代田村の3ヶ所、市内の四谷大木戸・赤坂溜池の2ヶ所に設けられた。


神田川に架けた木樋「江戸名所図会・御茶ノ水懸樋(かけとい)」

幕府は上水堀を定期的に上水浚えを行い、底に溜まった土砂や水草、岸辺の雑草を除去させた。これは、飲料水としての上水が絶えず円滑に流れ、しかも正常であることが必要であった。
水番屋では「水番人」が常駐していた。水番人は江戸市中への水が安定供給できるよう、上水を見回り、塵芥の引き上げから水質・水量の調節などの責任を負った。また、水路の要所には、奉行名での高札が立てられ、「この上水道で魚を取り水をあび、塵芥を捨てたりしたものは厳罰に処す」と監視が行われていた。


江戸の水売り

■飲用の水売り
江戸市中では「水屋」が繁盛していた。山の手の良水の出る深井戸や、上水の利用できるところと契約しておいて、その水を桶に入れ、顧客のもとへと売り歩く商売であった。値段は、水元とお客の家との距離で決められた。

水売人には名水と呼ばれる井戸から銭を払って水を汲み、それを売り歩いた者や、水銭を払って神田上水・玉川上水の余水を汲み、深川の町々へ一荷いくらで売る水船業者がいた。水売り人は、天秤棒で水を入れた桶を前後に担いで売り歩き、この2桶を一荷(か)と言う。一荷は三〜四斗(約54〜72リットル)である。
江戸時代の物売りで「水売り」や「水屋」と紹介されている水を商品として売る商売があった。
同じ水売りでも、水道や井戸に遠い場所や、良質の井戸に恵まれていない所に、平時飲み水を売りに廻る行商人もいた。天候や遠近によって左右されるものの、一 荷四文程度で売っていたという。


■飲用水汲み場の図


以下の記述は「鋳鉄管 昭和48. 5 第14号」より引用したものである。
 『江戸の下町では井戸を持った家はどちらかというと富裕な階級だった。井戸もよく掘られた。しかし井水が飲用不適なところでは井水を雑用につかい、河川のきれいな水を汲んで、飲用に供していた。このために河川の所々の岸や堤には、たくさんの水汲み場がつくられた。この水汲み場ヘ重い水担桶をかついで、かなり遠くからも汲みにきた。

井戸水にも恵まれず、上水(水道)もなくて飲料水にも困るような地域では、家々にー荷いくらの値段で、飲み水を売り歩く「水売り」が、江戸時代には存在していた。一般の町家で、は水汲みは主婦の仕事になっていた。召使いのいる裕福な家では下男、下女などに水汲み仕事をさせた。
本所・深川などの町は、上水(水道)が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困る地域であった。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が登場した。

水売り、または水屋と呼ばれる稼業が発生して、水に恵まれない城下町では欠かせないものになってきた。水売りは短い天秤棒の両端ヘ細長い桶をつけ、それをになって出入りの店々へ一荷いくらで売っていたものである。遠近に応じて一荷で四文から六文の報酬をとっていた。
なお、河川の水ばかりでなく、良質の井戸水の出るところの水を汲んできて売る水屋もあった。山の手の名清水などからも冷水を汲んでは天秤棒をかついで下町へと売り歩いたもので、たいした資本もいらず、当時他の日稼ぎ仕事にくらべて割のいい稼業であった』


■冷や水売り
冷や水売りとは「年寄りの冷や水」の語源にもなった商売で深井戸の水に白玉や砂糖を入れて売る行商人である。江戸時代には、夏の間だけ「冷や水売り」という振売り商売があった。
井戸で汲んだ冷たい水をたっぷり入れた桶やら荷を担ぎ町の辻々に現れては、少しでも冷たさを感じるように真鍮(しんちゅう)や錫(すず)の椀に冷や水を汲んで、1杯4文で売った。冷や水には「白砂糖と白玉が入った冷や水」もあった。

夏に冷や水売りとして冷水に白玉と砂糖を入れて売る行商人として、洒落本(しゃれぼん)や川柳でも取り上げられ、初夏の風物詩として多く記録にも残されている。夏の暑い盛りに、江戸の町には「ひやっこい、ひやっこい」という冷や水売りの声か響いた。これは、江戸の夏の名物であった。笠をかぶり、天秤に二つの桶をかついで売り歩いた。

『守貞漫稿』の「冷や水売り」の説明には、「夏月、清冷の泉を汲み、白糖と寒晒粉(かんざらしこ)の団(団子)とを加へ、一椀4文に売る。求めに応じて8文・12文にも売るは、糖を多く加ふなり。売り詞、“ひやつこい ひやつこい”と云ふ」、「白玉は、寒晒粉(白玉粉)を水をもってこれを練り、これを丸めて湯烹(ゆに)にしたるをいふ。白糖をかけてこれを食す。あるひは冷水にこれを加ふ。また汁粉にもこれを加ふといへども、路上売りは冷水に用ふるを専らとして、夏月にこれを売る」と記している。

「冷や水売り」、井戸水をくみ上げ砂糖を混ぜ白玉を乗せて4文程度。京都や大阪では「砂糖水売り」と呼んだ。

↑ ページトップに戻る