江戸時代の外食・醤油文化

江戸庶民の食事処(2)

茶漬け屋
茶漬けは、江戸時代には簡素な食事の意にも用いられ、また、簡単な食事の店を「茶漬屋」といった。
茶漬けが食べられるようになったのは、番茶や煎茶(せんちゃ)が一般に普及し、茶が庶民の嗜好品として定着した江戸時代中期以降と言われている。茶漬けは、当時商家に奉公していた多忙な使用人(奉公人)が仕事の合間に短時間で食べることのできる食事として重宝された。元禄時代(1688~1704年)の頃より町や街道沿いに茶漬けを出す店の「茶漬屋」も出現し、庶民に広く親しまれた。

団扇絵 「御茶漬」 歌川国芳

お茶をご飯にかけるよう|こなったのは江戸時代(1603年~1868年)になってからである。本来は、平安時代の水漬けや、鎌倉・戦国時代の湯漬けを元にしたもので、冷や飯に茶を炊き出した汁をかけて食べる軽便食である。
【茶漬けは、もともと冷飯に熱湯をかけて掻き込んだのが原型とされる。平安朝時代の貴族たちは、夏は「水飯」と名付けて、水をたっぷりかけて食する習わしがあった。また、鎌倉時代から戦国の末期まで、武士はもっぱら湯漬けが常食とされていた。】

江戸時代初期には、ごはんにお漬物などを乗せて、白湯(さゆ)をかける「お湯漬け」が一般的であった。江戸時代初期のレシピ集である『料理物語』に、「奈良茶」というのが出てくるが、栗や芋などを米と一緒にお茶で煮込んだ雑炊のようなものであった。当時、ご飯を炊くのは基本的に1日に1回だけで、そのため江戸では、朝にご飯を炊き、夜はお茶を沸かして冷えたご飯にかけ、お茶漬けにして食べ、庶民の手軽な料理として広まっていった。

江戸時代中期、元禄時代の頃には、お茶漬けを主として簡単な料理などを出す「茶漬屋」というお店も登場し、手軽に早く食事ができるとして庶民の間で広く親しまれた。江戸時代後期には「茶漬屋」が繁盛して、茶漬けに具材を乗せるのが広まり、梅干や漬物、山葵、昆布や貝、佃煮、塩ざけ、干物など様々な食べ物を具として乗せをのせた。具材だけでなく水にもこだわった本格料理として、豪華なお茶漬けを出していた店もあったと言われている。ただし、お茶漬け一本で商売していた店はほぼ無く、茶飯、豆腐汁、煮染や煮豆などの比較的調理が簡単な料理を扱う料理茶屋で出されたり、蕎麦屋や酒処で締めの一杯として提供されていた。
江戸時代後期に刊行された『江戸名所図会』に、当時、「八八茶漬」の値段が「64文」だったため「看板の八八(はつは)茶漬は人皆の八百八町しれる江戸桝」、「客こんで出す廣ぶたの鉢合せ八八茶漬もうれる江戸桝」がみえ、江戸では六十四文をもじった「八八」が茶漬屋の看板に記され、通称で八八茶漬と呼ばれ繁盛していたが伺える。


黄表紙『二重緞子三徳平』桜川慈悲成 作/歌川豊国 画 寛政12年(1800)
茶漬屋の看板に「御料理、御三人様 南鐐一片(二朱銀の異称のため、一朱銀が2枚)、御五人様 金百疋(一分銀が1枚)」と書かれているので、この茶漬屋は高級料理屋のようである。
一朱銀(表・裏)
1枚=250文
一分銀(表・裏)
1枚=1000文




『東都名物遊覧双六』(1861年)に“てんぷら茶漬”料理と酒の燗徳利が描かれている。飲酒のシメとして茶漬を食べたのだろうか。この頃は、居酒屋や煮売酒屋の他にも専門店化した蕎麦屋、田楽茶屋、天ぷら茶屋、うなぎ蒲焼屋などでも酒が提供されている。また、上方から江戸に天ぷらが伝わったのは天明年間(1781~1789年)といわれている。
天ぷらは屋台で材料を串に刺して揚げ、丼のたれを附けて食べる。一品4文から6文と庶民の手軽な食べ物として定着し、嘉永年間(1848~1853年)には専門店まで登場した。天ぷら蕎麦がいつ頃からあったのかは定かでないが、文政10年(1827)の川柳に「沢(たく)蔵主(ぞうす)  天麩羅そばが 御意に入り」(沢蔵主というのは澤蔵司稲荷に祀られてる狐の意味)と詠まれており、このことから、少なくとも文政10年以前から蕎麦屋で売られていたことがわかる。


茶飯売り
江戸だけに見られたものとして、茶飯売りというものがあり、しょうゆ飯やあんかけ豆腐、けんちん汁などの食事そのものを売る棒手振りも存在した。幕末の風俗百科事典の『守貞漫稿』に茶飯売は茶飯とあん掛け豆腐を売ると記している。
守貞漫稿(嘉永6年,1853年)に『京阪にこれ無。 江戸に夜二更(午後10時~11時)後これ巡り売。 茶飯と餡掛豆腐を売る。 蓋この類に用ふるあんは葛粉醤油烹を云也』と記されている。棒手振りの茶飯売りのほとんどは老人で、『御前、お豆腐で御座い』と売り歩いた。


『大晦日曙草紙』香蝶楼国貞(歌川国貞) 画 天保10年(1839)

棒手振りは厳密に言えば「振売り」で魚売りだけは「棒手振り」と呼ばれる。「棒手振り」や「振売り」とは、天秤棒に商品を振り分けて担いで移動する行商人で、その商いは多種多様であった。元々は野菜や魚、貝類、豆腐や納豆、みそ・しょうゆ・塩などの調味料、のり、漬物など食材を売る商売が、次第に惣菜、飲み物などの加工品も手がけるようになり、買ったその場で食べたいとの需要に応え、焜炉に火を入れて持ち運び、焼いたり温めたりして食事を提供するようになった。そのひとつが「茶飯売り」である。江戸は男性が多く女性が少ないため男性の単身者が多い江戸だからこそ成立する商売であった。


『江戸見西行(さいぎょう)』香蝶楼国貞(歌川国貞) 画 天保9年(1838)

「あんかけとうふ 荼めし」
幕末近くの江戸では夜ふけの町を流し歩く「茶飯売り」というものがあった。茶飯とあんかけ豆腐を売り歩く「棒手振り」もいて、江戸庶民の日常の中でかなり食べられていたようである。
茶飯といっても醤油で味付けされた茶飯が江戸に登場するのは濃口醤油が普及した江戸後期の頃。お茶と同じように色がつき、味もついて手間がかからないので広まったといわれている。当時のご飯料理には、いろいろな具をのせて、汁をかけて食べるスタイルのものが多くみられる。当時は、ご飯を保温することができなかったので、温かい汁を冷えたご飯にかけて食べたとも考えられている。
また、短気な江戸っ子には素早くかき込む事のできる汁かけ飯が受け入れられた。江戸の町では、夜になると「茶飯と餡かけ豆腐」を籠に入れて、売り歩く者がいて、夜食の定番になっていた。



『守貞漫稿』にある「茶飯売」と「稲荷鮨売」には、その装いは同様であるという。
「京坂に無之江戸にて夜二更後売巡之茶飯と餡掛豆腐を売る蓋し此類に用ふるあんは葛粉醤油烹を云也 天保以来江戸にて稲荷鮨と号け油あげ豆腐を中を裂き紙の如くなして内に飯を詰めてうるを始る是も茶飯と同じ荷也」
とあり、茶飯売りも、夜に売り歩かれた食べ物の一つである。茶飯売りとはいうが、飯だけではなく、醤油味の葛餡をかけた豆腐も商うものであったようだ。


鰻屋(蒲焼屋)
江戸前という言葉を最初に使ったのはうなぎ屋だった。 徳川家康は江戸の街づくりに取り組み、石神井川の流れを付替えた。江戸城の前の浅い海を埋め立てて土地を造成した。現在の宮城前、 馬場先門の辺りが沼に変わった。その後この沼でたくさんのうなぎが取れるようになった。江戸(城)前のうなぎの蒲焼の誕生である。そのうちに、「江戸前」の呼称は江戸の前の海で捕れる魚介類の呼称となった。
「江戸前大蒲焼」を看板にして「うなぎ蒲焼」と「付け飯」を売り出している。特に人気のあったのが浅草川(隅田川の吾妻橋から下流の別称)や深川で捕れた鰻。「江戸にては浅草川・深川辺の産を江戸前と称して上品とし、他所より出たるを旅うなぎと称して下品とす」(『本草綱目啓蒙』享和3~文化3年【1803~1806年】)。「深川うなぎ 大きなるは稀なり。中小の内小多し。はなはだ好味なり」(『続江戸砂子』享保20年)。
やがて、蒲焼に飯を付ける「付けめし」を始めることで蒲焼屋はさらに繁盛し、市中いたるところ に蒲焼屋ができていった。

『明烏後正夢』蒲焼屋の二階、付け飯が櫃(上に茶碗)に入れて出されている。


『今様六夏撰 土用牛』歌川国芳 安政2年(1855)
奥には「大安売・江戸前大蒲焼」の看板。「江戸前」の看板の前で、威勢よく浴衣の袖をたくしあげた女が、目を打った鰻の背中に包丁を入れている。


稲荷鮨の屋台
■稲荷ずし
天明の大飢饉(1782-88年,天明2年-8年)のおり、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのが始まりと伝えられており、魚を使っていないから、極めて安く人気を呼んだ。稲荷寿司は江戸で大流行し、暮れから夜にかけて往来のはげしい辻々で商われた。当時の流行歌に「坊主だまして還俗させて稲荷ずしでも売らせたや」とあり、堕落した僧侶を稲荷信仰でよみがえらせるという含みがあるという。そして、稲荷ずしは天保15年(1844)頃、江戸での流行により全国に広まった。

稲荷すしの記述として、『近世商賈盡狂歌合』には「天保年中飢饉の時より初まり大いに流行す」と記述がある。江戸末期に書かれた『守貞漫稿』嘉永六年(1853)には、「天保末年(1830~44年)江戸にて/両国等の田舎人のみ専らとす鮨店に従来これあるかなり」とあって、稲荷ずしは天保末年から流行し「最も賤価」で「両国等の田舎人」相手に商われていたという。

また、『守貞漫稿』には、「天保末年江戸にて、油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きくらげ)・干瓢(かんぴょう)等を刻み交へたる飯をいれて鮨として売り巡る。日夜これを売れども夜を専らとし、行燈に華表(とりい)を画き、号して稲荷鮨あるひは篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚を好むもの故に名とす。最も賤価鮨なり。 尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。 」と記されている。
油揚の片側を切りさき袋にしてキノコ・干瓢等を混ぜた酢飯を詰めるというから、今日と製法は大きく異ならないようである。狐(野干)が油揚げを好むという話を踏まえて「稲荷鮨」。夜中に売り歩かれる、最も安価な寿司であるという。(天保時代、江戸に稲荷鮨 (篠田鮨) という最も安価な鮨を売っているが、以前から名古屋にあった。江戸でもその前から売ってる店があったかも。)

発祥が名古屋とも江戸ともいわれる稲荷寿司は稲荷信仰とからみ、また油っぽいので屋台や振り売りで売られ、わさび醤油で食された。油揚げをキツネが好むとされたことから「お稲荷さん」、「篠田鮨」の名がついた(篠田鮨は安倍晴明を生んだとされる信太(しのだ)の森の女狐「葛の葉」の伝説にちなむ)。
屋台の稲荷寿司がわさび醤油で食されたことが、『藤岡屋日記』に、弘化2年(1845)10月くらいから流行し「去る巳年十月頃より、稲荷鮓流行せり」、1つ8文で山葵醤油で食べる。日暮れから夜にかけて露店で売った、などの記述が見られる。


『新版御府内流行名物案内双六』より、一英斎芳艶(弘化4~嘉永5)

『近世商賈尽狂歌合』(1852年)の稲荷ずし売りの挿絵には、提灯に「稲荷鮨」の文字、幟に白狐の絵、詞書に「六根消浄」の祓詞と価格などの口上、そして、細長く大きな稲荷ずしを切り売りする屋台の様子が描かれている。
稲荷寿司は好みの量を切って購入することができ、腹具合にあわせてすぐに食べることができた。稲荷寿司は、「一本が十六文、半分が八文、一切れが四文」とあり、まな板の上には包丁も描かれているので、当時は大きく、細長い稲荷ずしを切り売りしていたようである。


『近世商賈尽狂歌合(きんせいあきないづくしきょうかあわせ)』1853年
提灯を灯した露天店で、稲荷ずし売りが包丁を前にしながら「一本が16文、半分が8文、ひと切れ4文」と歌う姿が描かれている。
客寄せの口上として「天清浄地清浄 六根清浄 祓いたまえ 清めたまえ、壹本(いっぽん)が十六文、ヘイ~~ ありがたひ、半ぶんが八文、ヘイ~~ ありがたひ、一ト切(ひときれ)が四もん、サア~あがれ~、うまふて大きい~~、稲なりさま~~(稲荷様様)』と記されている。
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「天保年間(1830~44年)の終わりごろには、寿司飯を詰めたいなり寿司を売り歩く行商が増えたようだ。夜には、提灯に赤で鳥居の絵を描いた屋台が、「おいなりさあん」といいながら両国界隈を中心に行商し、庶民から重宝がられた。中でも日本橋の十軒店(じっけんだな)に屋台を構えていた稲荷屋治郎右衛門のいなりずしが大評判だったという。」・・・『江戸風流「食」ばなし』(1997年3月、講談社、2000年12月、講談社文庫)より。


茶屋・茶店(水茶屋・茶見世)
■水茶屋
江戸時代には、江戸の街中に多くの茶屋・茶店があり、庶民にお茶を提供していた。江戸の町にはお茶を提供する「水茶屋」(みずぢゃや)があり、茶は庶民には欠かせない嗜好品へとなっていった。茶屋と言えば一般的に水茶屋のことを云う。水茶屋とは路傍や寺社の境内などで、湯茶、菓子、団子などを提供、往来の人を休息させた店であり「茶見世(茶店)」ともいった。
水茶屋が最も繁栄したのは寛延(1748年)~文化(1804)頃と云われている。江戸時代には、街道筋や町中にお休み処として水茶屋が多く存在していた。水茶屋は葦簀(よしず)張りで、腰掛や縁台を置いて茶を飲ませた。このため「腰掛茶屋」とも呼ばれている。明け六つ(午前6時ごろ)から暮れ六つ(午後6時ごろ)の営業である。茶代は年代によって異なるが、一杯四文から十六文くらいであった。
この頃の茶は、やかん・鍋・釜などで茶葉を煮出し、大振りの茶碗を用い点てて飲まれていました。小振りの茶碗が登場するのは18世紀中ごろで、茶せんは用いられませんでした。

薬缶(やかん)を載せた七輪風の炉が湯吞棚とともに木台の上にあって、薬缶で茶が作られている。

江戸時代18世紀後半になると、江戸では茶店の看板娘が現れる。大田南畝の随筆『半日閑話(はんにちかんわ)』(1772~80年)には「笠森 お仙其外」項があり、次のような記述がある。
「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙十八歳美なりとて、皆人見に行。家名鎰屋五兵衛といふ。錦絵の一枚絵、或は絵草紙、双六、よみ売等に出る。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日之時、人形にも作りて奉納す。明和五年五月堺町にて中島三甫蔵がせりふに云、采女が原に若紫、笠森稲荷に水茶やお仙と云々。是よりしてますます評判あり。其秋七月森田座にて中村松江おせんの狂言大あたり。浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤もまた評判あり。仇名いてう娘と称す。錦絵或は絵草紙手拭等に出。読うり歌にも出る。是より所々娘評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺屋おそで錦絵の一枚絵に出る。 童謡「なんぼ笠森お仙でもいてう娘にかなやしよまい、実は笠森の方美なり、どふりでかぼちやが唐茄子だ」といふ詞はやる。
このように笠森稲荷境内の茶店にお仙という娘が美人であると評判となり、錦絵などにも描かれ、歌舞伎で演じられ大当たりとなるまでであった。他にも浅草寺境内の茶店におよし、おそでという女性がおり、錦絵に描かれた。

『鍵屋 お仙』 鈴木春信画 明和(1764〜1772)頃、江戸の谷中(やなか)の笠森稲荷前の水茶屋「鍵屋」と看板娘「お仙」。
掛け行灯には「かぎや・御休所」とあり、店先には長い床几台が並び、その台の一つに簡素な茶棚があり、四角の木枠のへっついの上に茶釜が掛けられている。茶色の小台の上には店の名物の米団子(お仙団子)が描かれている。客に振る舞う茶は茶釜の中で作られ、柄杓で茶碗に直接注がれた。茶碗はいずれもかなり小ぶりに描かれている。

水茶屋、茶見世(茶店)について『守貞謾稿』(1853)は、京坂(京都・大坂)と江戸の茶見世を比較して要約次のように書いている。
「京坂の茶見世には粗末な服装の老婦か中年婦がいて、朝に1度茶を煮出して終日これを用いる。客1人に1椀だけ出し、茶代は5文から10文くらいである。江戸には茶見世が多く、天保の改革以前には16、7から20歳ばかりの美女が化粧をして美服で給仕をした。茶は毎客新しく茶を煮ることもあるが、多くは小ざるの中に茶を入れて熱湯をかける漉茶(こしちゃ)である。 客1人に2,3椀は出し、茶代は30文から50文くらいで100文出す人もいる」


『茶見世十景(芝)神明』 鳥居清長画 天明3~4年(1783~84)頃、前掛をした水茶屋の娘と茶屋で一服する婦人

江戸風俗大観によれば、
「水茶屋は寛保年代(1741年)までは浅草、神田明神 芝神明 愛宕山あたりにあったのみで街中には絶えてなかった。 時に出茶屋(註釈:出茶屋とは街道のよしず張りの簡単な休み所のこと)があっても、床几十二脚ほどのさみしいありさまで土窯に古い茶釜ををのせ、粗茶を煮出したものにすぎなかった。ところが芝切り通しで、一服一銭にて唐銅の茶釜を店に置いて、その美しさで人目を引く者が現れてから追々贅沢になり茶も良きものを提供するようになった。延享1747年の末ころに芝新橋に 『朝日』、『しがらき』という茶店が出店してからは街中の各所に風流に設えた茶店ができ、ますます繁盛するようになった。」とある。これによれば京坂から江戸に進出した水茶屋が各所に出店して繁栄しはじめたのは延享末1747年から寛延(1748-1750)であることが分かる。 その後も江戸の中心的風俗として発展していき、『笠森お仙』『高島屋おひさ』などを輩出し江戸の華やかな庶民文化の一端を担うことになる。

■茶屋(茶見世=茶店)
江戸時代には、江戸の市中に多くの茶店が登場している。茶屋は都会の盛り場や観光地にある「腰掛茶屋」と街道筋にある「立場茶屋」があり、道に敷物を引いただけの簡単な作りであった。茶以外は団子、餅など菓子類しか出さず人通りがある昼間のみの営業だった。建物がある茶屋は「水茶屋」と呼ばれた。江戸の名所ではその後、次々と水茶屋が建てられ、寛政年間(1789~1801年)には江戸中に二万八千軒ほどあった。江戸中期に喫茶の習慣が定着したことも繁栄の背景にある。
寛政年間(1789~1801)の出来事を記す『梅翁随筆』(享和年間1801年以降)には、「江戸中所々の道端に出せる葦簀(よしず)張りの茶見世、これ迄は運上にも及ばざりしが、此度一々吟味して、一日五文宛の運上納むるよう申渡されける。凡江戸中にて二万八千軒にあまり、九千にも近しとぞ」と記している。



文化二年(1805)頃の『熈代勝覧』絵巻に描かれている屋台の茶屋「腰掛け茶屋」
日本橋大通りに置かれた屋台の茶店(可動式店舗)では湯茶や葛湯などをふるまった。


『十二ヶ月の内 六月門涼(かどすずみ)』 渓斎英泉画、作 江戸後期(1800年代)
暑さを乗り切る江戸庶民の夕涼みの絵。当時の江戸の街頭には照明がなく暗かったので、麦湯の行燈が闇を照らしていた。

江戸後期の風俗を記した『江戸府内風俗従来』には、
「夏の夜、麦湯店の出る所、江戸市中諸所にありたり。多きは十店以上、少なきは五、六店に下がらず。大通りにも一、二店ずつ、他の夜店の間にでける。横行燈に「麦湯」とかな文字にてかく。また桜に短尺(たんざく)の画をかき、その短尺にかきしもあり。行燈の本(もと)は麦湯の釜・茶碗等あり。その廻りに涼み台を並べたり。紅粉を粧うたる少女湯を汲みて給仕す。浴衣の模様涼しく帯しどけなげに結び紅染の手襷程よく、世辞の調子愛嬌ありて人に媚びけるも猥(みだ)りに渡ることなきは名物なり。」
とあるように、江戸時代末期になると、麦湯(麦茶)は町人衆の気軽な飲み物として、今でいう喫茶店のような「麦湯店」があちこちに出来、大いに繁盛したようです。
「麦湯店」は麦湯の女と呼ばれる14~15歳の女子が一人で麦湯のみ(食事も何もなく)を4文ほどで売るものでした。また、麦湯店では麦茶以外にも、桜湯、くず湯、あられ湯などもあり、価も安く、家の中の暑苦しさを逃れて涼風を求める客で、夜おそくまで賑わっていました。


田楽茶屋
江戸時代には、浅草から吉原にかけて「田楽茶屋」が数多く軒を連ねていた。「田楽」といえば「豆腐田楽」のことをいった。江戸では先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼く豆腐田楽であった。
江戸の田楽は、長方形の豆腐に串を刺し、甘い練り味噌をつけて焼いたもの。江戸時代に豆腐田楽が流行したのは、当時の豆腐はかたくて、水切りの必要がなく、そのまま切って串にさすことが出来たのが理由と考えられる。江戸では、外で手軽に食べる料理が発達していたこともあり、串に刺さっていて食べやすい田楽料理が流行ったようである。田楽茶屋として庶民の評判を得たのが、真崎稲荷の社寺境内の「甲子屋」と「田楽屋」という店。そして、浅草雷門前広小路の「目川屋」があった。

当時は、味噌を付けて焼いた豆腐田楽に、炊いたご飯に塩もみした青菜を混ぜ込んだ菜飯(なめし)を添える「菜飯田楽」の店があって、寛政以後江戸に流行したもので、江戸では浅草に多かったという。また、葛飾北斎の浮世絵(東海道五十三次・石部(宿)/女川菜飯)に、一膳飯屋で菜飯田楽が描かれるほど「菜飯田楽」は江戸時代より東海道名物として旅人に親しまれた料理であった。


黄表紙『大食寿之為』 北尾政美画 天明3年(1783)/片手に菜飯の椀を持ち、豆腐田楽を食べる男

■『守貞漫稿』の豆腐田楽
『守貞漫稿』に「京阪の田楽串は股(また)あるを二本用ふ。江戸は股無きを一本貫く也。京阪は白味噌を用い、江戸は赤味噌を用ふ。各砂糖を加え摺る也。京阪にては山椒の嫩芽(若芽)を味噌に摺り入る。江戸は摺り入れず、上に置く也。各木(それぞれ)の芽田楽といふ。夏以後は芥子(辛子)粉を煉つて上に置く」とある。
豆腐田楽 … 『新撰豆腐百珍』著者:林春隆(中公文庫)
 普通の仕方は俎板(まないた)の上に布巾をしき、その上に豆腐、豆腐のヒに美濃紙をのせ、その上に灰をふりてなおその上に紙をしき、薄板をのせ、軽き圧(お)し石を置き、二三時間にて切るに崩るることなし。田楽味噌を付けて焼くなり。

『豆腐田楽を作る美人』 歌川豊国画 享和頃(1801-1803)
つつじの季節、屋外で女性たちが田楽を作る様子が描かれている。まな板の上の豆腐を切る人、お盆を持つ人、焼き上がった田楽を運ぶ美人を描き、棚の中には切り揃えて串を刺した木綿豆腐と、味噌を入れた壷がある。田楽用の木綿豆腐は普通の木綿より固めに作られていた。


豆腐百珍の田楽料理

■『豆腐百珍』と豆腐田楽
江戸中期の天明二年(1782)に大坂で出版された『豆腐百珍』は翌年江戸でも刊行され、ただちに続編や「豆腐百珍余録」の刊行が続いた。
『豆腐百珍』の豆腐調理法は「尋常品」「通品」「佳品」「奇品」「妙品」「絶品」の六種類にわけて100品の調理法が説明されている。『豆腐百珍』に紹介されているさまざまな豆腐料理の中で、特に流行したのが田楽である。江戸時代後期には、道中の掛茶屋で旅人に盛んに食味されており、弥次・喜多で有名な十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中にも豆腐田楽が登場する。
『豆腐百珍』で使われた調味料は、「醤油44品」、「味噌18品」、酢3品、塩3品、調味料に触れていないもの25品となっており、「醤油」が豆腐田楽の調味料の主役となっている。

 
『豆腐百珍』(1782年)(国立国会図書館蔵)
(焼き田楽の絵図と「木の芽田楽」の調理法の頁)


江戸の豆腐料理本『豆腐百珍』に紹介されている豆腐田楽の料理法の説明は次のとおりです。

「尋常品」の豆腐料理

・木の芽田楽
温湯を大盤に湛え切るにもまた串に刺すも其の湯の中にてすべし。柔かなる豆腐にても危くおつるなどの憂いなし。湯よりひきあげすぐに火にかけて焼くなり。味噌に木の芽を入るるは無論なり。なお醴《あまざけ》のかた入《いれ》を二分どおりみそに摺り混ぜれば最も佳し。多く入れて甘過ぎてよろしからず。
(お湯の中で豆腐を串にさし、火にかける。木の芽を入れた味噌に少しだけ甘酒を加え、豆腐にかけて食べる)


・雉子(きじ)焼き田楽
きつね色に豆腐を焼いて、煮かえし醤油を猪口(さかずき)に入れ摺り柚子を添える。


・再炙(ふたたび)でんがく
適当な大きさに切った豆腐を醤油のつけ焼にして、少しかわかす。かわいたら味噌を付けて再度焼く。あまり焼き過ぎないようにする。



「通品」の豆腐料理
・葛(くづ)でんがく 祇園とうふ
田楽用に切った豆腐を串にさし焼き、葛あんをのせる。



「佳品」の豆腐料理

・浅茅(あさじ)でんがく
稀醤のつけ炙にして、梅醤をぬりて、ゐりたる芥子(けし)を、密とかける也(豆腐をうす醤油のつけ焼きにして梅味噌を塗り、炒った芥子をふりかける)


・海胆(うに)田楽
うにを酒にてよき加減に溶き、これを豆腐に塗りて、常の田楽の如くす。
(酒でといた雲丹をでんがくにする)



「奇品」の豆腐料理

・精進の海胆(うに)でんがく
麹、みりん、醤油を同量で混ぜ、唐辛子の粉を加える。よく熟成させて、すり合わせ、でんがくに付ける。


・繭(まゆ)でんがく
つきたての餅をうすく延ばして炙り、山椒味噌の付け焼きにしたでんがくを包む。


・簑(みの)でんがく
辛さ控えめの味噌を付けたでんがくに花かつおを味噌の上にたくさんかける。



「妙品」の豆腐料理

・高趾(こうち)でんがく
でんがくの様に串に豆腐をさし、鍋にごま油をひき、豆腐にとうがらし味噌をぬって、つけ焼きにする。


・阿漕(あこぎ)でんがく
適当な大きさに切った豆腐をさっと焼く。うす醤油で煮詰めて胡麻の油で揚げる。これに味噌を付け、でんがくにして焼き、すった柚子をつける。


・鶏卵(たまご)でんがく
鶏卵に醤油と酒を少し入れ、少し酢を加えて、よくかきまぜる。田楽にぬってふくれる程度に焼く。芥子とおろしワサビを添える。



「絶品」の豆腐料理

・礫(つぶて)でんがく
豆腐を八分角(3センチたらず)、厚さ四、五分(約1.5センチ)に切り、串に三つづつ刺して、雉子(きじ)焼き田楽のようにキツネ色に焼く。焼けると串を抜いて、楽焼きの蓋茶碗に入れ、からし酢味噌をかけ、芥子をふりかける。



江戸末期の芝居茶屋での食事


『江戸自慢三十六興 猿若街顔見せ』元治元年(1864)


芝居の興行は、明け六つ(午前6時頃)から、暮れ七つ半(午後5時頃)までが原則だったため、芝居見物に行く日は一日がかりだったという。
芝居茶屋(一般に芝居小屋と隣接した食事処)は劇場の周りの前後左右に数十件ほどあった。この座付きの専門業者を通して芝居小屋に入るのは上客で、平土間より高い左右の桟敷(さじき)席での観劇となり、一般の客は木戸から入り舞台正面の平土間(ひらどま)の枡席(ますせき)で観るのが普通だった。
芝居見物は、舞台を観る以外にも芝居茶屋での食事も楽しみのひとつであった。 芝居小屋の料金は、江戸後期で「上桟敷」で銀 30匁(銭4,000文=銀 二分)、一般席の「枡席」で銭132文くらいであった。

『東都名所 猿若町芝居』 歌川広重(天保3年,1832)


「芝居茶屋」は、1624年頃、江戸に雨風をしのいで茶を出す程度の掛茶屋(小屋がけの粗末な茶屋)であった。明和年間(1764-71)になると、幕府公認の芝居小屋として櫓【やぐら】をあげることができた江戸三座(中村座・市村座・森田座)は、中村座で大茶屋が16軒と小茶屋が15軒、市村座で大茶屋10軒と小茶屋が15軒、森田座で大茶屋7軒があった。元禄時代の江戸三座のほかに小芝居・宮地芝居が多く存在した。

「芝居茶屋」は芝居小屋の周囲にあって、観客のために木戸札を予約したり、飲食の世話をするところであった。
芝居茶屋の料理は、当時の最高の料亭にもひけをとらなかった。当時の茶屋には等級があって「大茶屋」「小茶屋」「水茶屋」の区別があった。大茶屋は「表茶屋」ともよび、芝居小屋内の一角にあって富裕な人々に利用された。小茶屋は「出茶屋」といって、中流以下の庶民が利用した。水茶屋は主として場内の飲食物を扱うところであった。
「水茶屋」は、のちに料亭や、相撲茶屋などに発展して分かれていった。建物を持った常設の店になったのは享保九年(1724)のことで、次々と水茶屋が建てられ、寛政年間(1789~1801年)には水茶屋は、江戸中に二万八千軒ほどあったという。


醤油売り(振売り)


井原西鶴『日本永代蔵』貞享五年(1688)刊に、醤油の荷桶を担ぎ、市中を廻って計り売りをして生計を立てている醤油屋の様子を描いている。
『近江大津の真面目な醤油屋の喜平治という者は、綺麗な服を着るのが幸せだとは思わず、自分の力量に合った商売をしていた。「自分が働かないでは、銭一文にしても天から降ってくることも無いし、地から湧いてくることも無い。また正直にかまえただけでも埒はあかない。つまりは身に応じた商売をおろそかにしないことだ。」と、その日暮らしの生活を楽しんでいた。
ある年の12月30日の明け方に、季節外れの冬の雷が鳴り響く。落雷してたった一つの大事な鍋釜をこっぱみじんに砕かれて、嘆いてもしょうがないし必要なものなので、新しく買い求めたのだったが、その年の暮れにはその鍋釜を買った分だけの銀が不足したので、わずか9匁を24か所の店から少しずつ掛買して借りてしまい、借金取りのうるさい催促を受けることとなった。「これを思うと予想が必ず外れるのは世の中の常識だ。俺も雷が落ちないうちは、世の中に怖いものなどなかったのに」と喜平次は悔しがったのであった。 手に職があっても人の役に立たなければお金は入らない。“借金はするな。不測の事態は必ず発生するので、ぬかりなくお金は貯めておけ”。』という話である。

『江戸商売図絵』 三谷一馬著(中公文庫)


■振売り(棒手振り)
江戸独自の文化が花開く文化・文政(1804〜1830年)の頃になると、人々の暮らしも豊かになり、庶民も調味料として「醤油」が一般的となる。庶民の利用する屋台の蕎麦・うどんの汁、蒲焼のたれ、すし飯、惣菜としての煮物や佃煮などは塩味(塩、醤油や味噌)が強く、甘しょっぱくなるのは江戸時代の後半であった。江戸時代末になると高級料亭や庶民相手の手軽な外食店が盛んになり、鰻の蒲焼や蕎麦の汁などの調味も塩味(塩・味噌・醤油)中心のものから、甘味を加えた甘辛の味として、濃口醤油に鰹節だしや味醂または砂糖が加わった江戸独特の味に発展していった。

振り売り(ふりうり)は、天秤棒の両端に荷(商品)を振り分けにして担いで、物の名を唱えながら売り歩く小商人(こあきんど)や売り歩く人のことをいい振売り(ふれうり)ともいう。または「棒手振」(ぼてふり)ともいう。彼らの多くは裏長屋の住人たちであったが、町人にとっては便利な行商人であった。「振売り」「棒手振り」が扱ったのは、日用品だけでなく、季節の商品から古物まで幅広かった。また、各種修理屋も街を行商した。

庶民相手の商売で、幕府が振り売り商人の許可制(鑑札)としたのが万治元年(1658)で運上金を徴収した。夜間での振り売りが許可されたのが貞享三年(1686)である。
日用品のほとんどは振売り(流し)が扱っており、流しているところを呼び止めて購入した。振売りは約50種類あったといわれ、たばこ売り・塩売り・飴おこし売り・下駄足駄売り・味噌売り・酢醤油売り・紙売り・小間物売り・精米した白米の舂米(つきまい)売り・傘売り・油売り・木綿売り・薪売り・冷水(ひやみず)売り・豆腐こんにゃく売り・煎茶売りなどであった。

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