江戸時代の外食・醤油文化

江戸庶民の身分

■江戸庶民(町人)が住む「町民地」
江戸は享保期(1716 ~ 1736)には武家、寺社、町人を合わせて人口100 万人を超えた。江戸の町は1657年に起こる江戸市街の大半を焼いた明暦の大火以降、武家地・町人地の区切りがはっきりするようになる。

城下町においては、 それぞれ身分に応じて武家地、 寺社地 、町人地に配分された。この時代、江戸市内の土地の占有率は、60%が武家の屋敷地で、20%が町家、15%が寺で、残りの5%が神社であった。町人地の人口密度は非常に高く、1k㎡当たりに5万人もの人が住んでいた。(現在の東京23区の人口密度は1万4千人)




江戸の町人地のしくみ

江戸で“町人”といえば土地持ちの地主層で、庶民は正確には“町人”ではなかった。江戸庶民を代表する職人たちの多くは“店借(たながり)”と呼ばれる借家人で、所得税も住民税も払わなかったから“町人”ではない。彼らは「九尺二間」と呼ばれる裏長屋に住んでいた。職人には大工や左官などの「出職」と日用品や工芸品製作の「居職」があった。

では、誰が“町人”だったかというと、主に表通りに店を構える商家がそれに当たった。商家の経営者は地主であって家持(いえもち)である。所有地の間口に応じて町入用(ちょうにゅうよう)という費用を負担して町の運営にあたる有力者だけが“町人”だったのである。
いわゆる“大家”は家守(やもり)とも呼ばれ、地主から委任され、家屋敷の管理・維持や地代・店賃徴収の責任を負う者である。ほかに表に面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらも厳密に言えば町人ではなかった。


■江戸の町人地は町方(まちかた)といい、18世紀前半には50万人以上が暮らしていたと推定され、その多くは商工業で生計を立てていた。町人には、家屋をもつ家持(いえもち)のほか、土地だけを借りている者(地借-じがり)、借家住まいの者(店借-たながり)、商家等に住み込む者(奉公人)がおり、借家人の多くは裏長屋に住んでいた。

家持町人は呉服町、塩町、鍛冶町、大工町というように、職種別に居住した。町人地を統括するのは町奉行であったが、実際は町年寄や町名主とよばれる町役人が町奉行と地主・家持の間にたって町政全般をおこなった。
町名主はお触れの伝達、訴訟の取次ぎ、喧嘩の仲裁、落し物、捨て子、自殺などの処理にあたり、それを補佐する家守(大家)は、家屋の修理や借家人の世話も仕事とし、家賃の徴収もおこなった。


■町人の階級の差
江戸期の町人はいくつかの階級に分けられていて、例えば江戸では、町年寄-町名主-地主・家持-家主-店(地)借人となる。
町年寄は、お上と町人を結ぶ中間的な立場であり、市政にも参加するほど実力のある町人であった。長屋の住人たちは、このランクの最下層である店借人で、一般には店子(たなこ)といわれる。店子は正式な町人とは認めてもらえず、町内での公用出費がないかわりに、町人としての権利らしきものもほとんど持てなかった人たちである。
長屋の店子(=借家人)の面倒を見る者を大家(おおや)、あるいは家主(やぬし)や家守(やもり)とも呼ばれた。
家屋敷を所有する町人「家持(いえもち)」の雇われ代理人、つまり大家(=家主・家守)は、地主や家持から年八両から二十両の給料をもらい、長屋の全てを維持管理していた。江戸時代後期の江戸には、大家が二万人以上いたと伝えられている。

江戸庶民が住む「町民地」は、大体、表通り(大通り)と裏通り(裏路地)に仕切られた区画になっていた。町人の階級のあり方は一様ではなかった。町人は主に、二つの階級に分かれ、土地と屋敷を持つ商人・職人の旦那衆や親方衆を「町人」と呼んだ。
家屋敷を所有し表通りに店を構える町人の「旦那衆」から、裏通りに「裏店」と呼ばれる小ぢんまりとした店を構える下層町人(借家人)、没落した都市下層民(裏長屋の住人)までさまざまであった。
幕府が定めた「町人」という言葉は、家屋敷を所有する「地主(家持町人)・家持(居付地主)」のことであり、後に町屋敷の貸与・売買が多くなると、家主(家守、大家とも称す)も加えられた。広義では町に居住する地借、店借も指し、町の人別に加えられている。(大家・家守は通称で、公式の書類では家主と記録されていた)

〇江戸に住む庶民の中にも「町人(地主・家主)」「地借(じがり)」「店借(たながり)」「借家(しゃくや)」という系列身分があった。町人とは、厳密には「地主・家主として町政に参加する人々」に限られた。したがって、宅地を借りてそこに家を建てて住む地借や、家屋を借りて住む店借・借家は、町人とは見なされなかった。江戸では、住民の約70%を店借・借家が占めた。本当の意味(狭義)での町人(地主・家主)は30%しかいなかった。

〇表通りに土地を持ち、家や店を構えている大商人や御用達(ごようたし)職人の棟梁といった旦那衆や親方衆が町人である。ほかに表通りに面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらは町人ではなかった。江戸時代は土地を所有するかどうかで町人の身分が決まった。したがって地主(家持)とこれに準じる家守(大家)は正式の町人として町政の構成員に席をつらね、借家人は一人前の町人として認められていなかった。町人とそれ以外の者の違いは家屋敷を保有しているか否かであった。家を持たない借家人は町人ではなかった。

〇江戸には表通りに土地を借りて、家や店を構えた中堅の商人や職人層である地借家持(じしやくいえもち)や長屋住人である店借(たながり)の店子(たなこ)と呼ばれる土地も家も持たない借家人などの様々な身分の人々がいた。店子の身分や職業もさまざまで、職人、行商人(棒手振り・他)、日雇取り(日雇い)、下級の芸人、商店の世帯持ち使用人、等々である。彼らは江戸の町に住んでいながらも町人ではなかった。


江戸庶民(町人)の支配制度

■江戸市政の町民地の支配系統
江戸市政の支配系統は、町奉行―町年寄(奈良屋・樽屋・喜多村の三家)―町名主―地主・家持―家主―地借・店借人であるが、町奉行や町年寄は、町政に直接介入することはせず、町の運営は名主・地主に委ねられていた。町の実質的な運営は、地主に代ってその土地・家を管理する家主(いえぬし)が行っていた。家主は、家守(やもり)とか大屋とも呼ばれた。
ここで注意したいのは、「大屋」こと家主・家守は、長屋の所有者ではなく、あくまでも所有者の代理人であった。家主たちは、交代で月行事(がちぎょうじ)となり、町運営の実務に携わった。彼らが日常的に詰める事務所は「自身番屋」と呼ぼれた。自身番とは、まさに町の運営はその町自身が行うという、町の自治の意味である。

〇町年寄: 家康の江戸入府に従い江戸の町を切り開いた奈良屋、樽屋、喜多屋の三家が世襲。年始三日の登城や寛永寺の将軍家の法事には将軍に謁見する。江戸町政の実務を任され、町奉行所と町民の仲介する役割だった。町年寄の役宅は本町一、二、三丁目にそれぞれあった。三家とも町の南側区画の東角屋敷で、役宅は奥の一部を使い、通りに面した箇所は商人へ貸していた。他にも拝領屋敷があり、彼らの主な収入はこれら拝領屋敷からの地代だった。

〇町名主: 町年寄の下で担当地区の町政を任され、町内の一切のことに責任を持つ。多い者は二十三町、もっとも少ない者は二町を任されている。寺社門前町では四十町以上を任されている名主もいる。平均は七、八町、約二千人の住民を担当する。町人には許されない玄関構えの家に住める特権を持っていた。

〇地主(家持): 土地の所有者。名主の下に属する。寛政三年(1791)には約一万九千人の地主がいた。所有地に住まない不在地主も多く、家主を置いた。

〇家主(大家・家守とも呼ぶ): 不在地主に雇われた土地や建物の管理人。家主株を保有する必要がある。店子(借家人)を差配し、自らは敷地内に一軒を無料で借りて住んでいる。 寛政三年(1791年)時点で約一万七千人で町入用から出す給与は五万両になった。


■町民地の自治管理と
幕府は町奉行のもとに、町年寄や町名主の上級町役人と大家(=家主・家守)などの下級町役人で町と住民の管理を行った。江戸の町人たちは税金である町入用(ちょうにゅうよう)を払う義務を果たし、その権利を認められた。このため土地や家を持たない店借人・借家人は町人に含まれず、権利も認められていなかった。
町民地の地主(じぬし)・家主(いえぬし)などの町人は、税金「町入用」などを負担する代わりに正式の町人として町政や公事に参加し、町の自治に関する権利を認められ、「町役人」を選出する選挙権を持つなど社会的身分や公的な権利と義務を持っていた。町人のなかから選ばれた町(ちょう)役人が町の代表者となり、彼らを中心に町奉行のもとで町の運営を行った。
町役人や大家で五人組を作り、月毎に当番を決め(月行事:がちぎょうじ)て町の自身番に詰め、長屋だけでなく町の管理も務めた。「町役人」の具体的な名称は、地域によって異なるが、町年寄(ちょうどしより)・町名主(ちょうなぬし)などと呼称された。


■江戸府内の町民税
長屋とその土地の所有者である地主には、現在の地方税に相当する「町入用(ちょうにゅうよう)」が課税された。
町入用から名主や地主、家主ら町役人や町内に雇われている自身番、木戸番や町火消の人件費、事務費、町内の道路工事や雑用など自治にかかる費用を賄っていた。町入用は町名主に納めた。

地主・家主は、それぞれに地借以下の町人について管理責任を負っていた。町人(地主・家主)の社会的役割の1つとして、賃貸しの長屋を格安の店賃で店子に貸すという慣習があった。大家を雇い、店子から家賃を取立てたり、生活の雑事の面倒を見るなど、長屋の管理を任せた。大家は、「町入用」の納税義務はなく、店賃を免除されるなどの見返りを得ていた。
長屋の住人や借家住まいの人たち(地借、店借、借家)には、町政の税金「町入用」の納付義務はなかった。彼らは江戸の町に住んでいながらも町人に含まれなかった。税金を納めていたのは、裕福な階層の人だけであった。



■町木戸
江戸の町には各町内の出人り口に木戸があり、夜になると門を閉めて通行できなくなった。
「町木戸」は治安のために各町内の出入り口に設置されていたもので、江戸の大通りには町境に不審者の侵入を防ぐ為の木戸があった。木戸は、幅十間(約18メートル)の大通りの場合の町木戸では幅二間(約3.6メートル)の両開きの扉と、その脇に幅三尺(約1メートル)の潜戸(くぐりど)が付いたものが設置されており、それ以外は七尺五寸(2.3メートル)の高さがある丸太の柵で仕切られていた。
町木戸の脇には間口一間(約1.8メートル)、奥行1.5問(約2.7メートル)の三畳ぐらいの木戸番屋が設置されていて、木戸の番人の木戸番(番太郎)が住込みで24時間常駐していた。


■路地木戸と長屋
江戸時代の町人地では人口稠密(ちゅうみつ)化の結果、庶民住宅にも長屋形式の住宅が発達した。表通りのものを「表長屋」、裏通りや路地にあるものを「裏長屋」といった。
しかし表通りには商店など独立家屋が多くあったので、通常、長屋といえば裏長屋のことで、裏店(うらだな)ともよんだ。江戸の場合、長屋の入口にも必ず木戸が設けられていた。表通りの「路地木戸」を入ると、狭い路地を挟んで両側に長屋が建つ。六軒長屋が多かった。


■自身番屋
各町に「自身番屋(番所)」を作りその広さは9尺2間と定められ、大家や書役(かきやく)などが詰めた。消防用の纏・ 提灯・鳶口 防犯上の突棒・刺又・袖搦み(がらみ)などを常備し、屋根には半鐘のある火の見梯子を供えた。
自身番に詰めていたのは、大きな町だと家主(家守、大家とも称す)ふたり、番人ひとり、店番ふたりの計5人、小さな町だと家主、番人、店番各ひとりの3人だったという。
自身番の機能は多岐にわたるが、主なものを列挙すると、①町奉行所から出される法令の伝達、②町奉行所へ提出される文書や土地売券などといった重要公文書などへの加判(かはん)・立合(たちあい)、③町が抱える火消人足の差配や火番などの防火対策、④夜よ廻まわりや木戸番人の差配、犯罪者の勾留などの治安維持、⑤自身番屋・木戸番屋の運営をはじめ町全体に関わる出費およびそれらの徴収など、「町入用」(町方行政費用)の出納・管理、⑥人別帳の作成、などであった。この自身番の数が、幕末の頃には994ヵ所もあったという。


■町木戸の木戸番
江戸時代の各町の出入り口には町の治安を守る番小屋があった。表店のある「表長屋」の間に路地があり、そこから「裏長屋」への路地の入口には「長屋木戸(ながやきど)」というものがあった。
ほかにも一町区画ごとの町境には一門ずつ防犯・防火のために各町内の入口に「町木戸」があった。木戸番が朝の明け六つ(午前6時頃)に木戸を開け、昼間は通行自由だが、夜になると宵五つ(午後8時)に一斉に戸を閉める。錠はかけずに夜四つ(午後10時)に錠をかけたという。(門限は江戸時代前期には午前零時=夜九つだったが、中期には午後十時=夜四つ、幕末には午後八時=宵五つと、次第に早くなった)
それ以降に通るためには「潜戸(くぐりど)」を通らねばならなかった。木戸は夜間通行を制限するから、江戸の町々の治安維持に大いに貢献した。木戸脇には、必ず「自身番屋」と「木戸番屋」が設置されている。町木戸に隣接して木戸番屋があり、ここに木戸番という番人「番太郎」が詰めていた。



■木戸番屋
木戸番は「番太郎」、または「番太」と呼ばれた。木戸番は町から木戸の管理を委託された人間で、木戸の番と夜警(夜回り)をおもな仕事にしていた。
仕事の手当はその町内でまかなっていたが、少額のため、ほとんどが副業を兼ねていた。「木戸番屋」に住込みで働いていた番太郎は、草履(ぞうり)・草鞋(わらじ)・鼻紙・箒(ほうき)・軟膏・ロウソクなどの日用雑貨品を販売していた。また、子供向けの飴や干菓子などの駄菓子、夏には金魚、冬には焼き芋などを売って収入を得ていた。江戸も後期になると、木戸番屋は「商い番屋」と呼ばれた。


「町木戸・長屋木戸」と「木戸番屋の副業」の様子

夜警をしながら拍子木を打って時を告げたり、将軍御成りの際に町内に触れ歩くなどの役目もした。木戸が閉まっている間は、医者と産婆以外の者が通るときには、拍子木を打って次の町の木戸番に知らせたり、木戸から次の町の木戸まで番人が送り届けたりした。
火事を見つけた時には、通りの反対側にある自身番屋の屋根に登って半鐘を鳴らして周囲に知らせた。

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