江戸時代の外食・醤油文化

江戸庶民(町人)の身分

■江戸庶民(町人)が住む「町民地」
江戸は享保期(1716 ~ 1736)には武家、寺社、町人を合わせて人口100 万人を超えた。江戸の町は1657年に起こる江戸市街の大半を焼いた明暦の大火以降、武家地・町人地の区切りがはっきりするようになる。

城下町においては、 それぞれ身分に応じて武家地、 寺社地 、町人地に配分された。この時代、江戸市内の土地の占有率は、60%が武家の屋敷地で、20%が町家、15%が寺で、残りの5%が神社であった。町人地の人口密度は非常に高く、1k㎡当たりに5万人もの人が住んでいた。(現在の東京23区の人口密度は1万4千人)




江戸の町人地のしくみ

江戸で“町人”といえば土地持ちの地主層で、庶民は正確には“町人”ではなかった。江戸庶民を代表する職人たちの多くは“店借(たながり)”と呼ばれる借家人で、所得税も住民税も払わなかったから“町人”ではない。彼らは「九尺二間」と呼ばれる裏長屋に住んでいた。職人には大工や左官などの「出職」と日用品や工芸品製作の「居職」があった。

では、誰が“町人”だったかというと、主に表通りに店を構える商家がそれに当たった。商家の経営者は地主であって家持(いえもち)である。所有地の間口に応じて町入用(ちょうにゅうよう)という費用を負担して町の運営にあたる有力者だけが“町人”だったのである。
いわゆる“大家”は家守(やもり)とも呼ばれ、地主から委任され、家屋敷の管理・維持や地代・店賃徴収の責任を負う者である。ほかに表に面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらも厳密に言えば町人ではなかった。


■江戸の町人地は町方(まちかた)といい、18世紀前半には50万人以上が暮らしていたと推定され、その多くは商工業で生計を立てていた。町人には、家屋をもつ家持(いえもち)のほか、土地だけを借りている者(地借-じがり)、借家住まいの者(店借-たながり)、商家等に住み込む者(奉公人)がおり、借家人の多くは裏長屋に住んでいた。

家持町人は呉服町、塩町、鍛冶町、大工町というように、職種別に居住した。町人地を統括するのは町奉行であったが、実際は町年寄や町名主とよばれる町役人が町奉行と地主・家持の間にたって町政全般をおこなった。
町名主はお触れの伝達、訴訟の取次ぎ、喧嘩の仲裁、落し物、捨て子、自殺などの処理にあたり、それを補佐する家守(大家)は、家屋の修理や借家人の世話も仕事とし、家賃の徴収もおこなった。


■町人の階級の差
江戸期の町人はいくつかの階級に分けられていて、例えば江戸では、町年寄-町名主-地主・家持-家主-店(地)借人となる。
町年寄は、お上と町人を結ぶ中間的な立場であり、市政にも参加するほど実力のある町人であった。長屋の住人たちは、このランクの最下層である店借人で、一般には店子(たなこ)といわれる。店子は正式な町人とは認めてもらえず、町内での公用出費がないかわりに、町人としての権利らしきものもほとんど持てなかった人たちである。
長屋の店子(=借家人)の面倒を見る者を大家(おおや)、あるいは家主(やぬし)や家守(やもり)とも呼ばれた。
家屋敷を所有する町人「家持(いえもち)」の雇われ代理人、つまり大家(=家主・家守)は、地主や家持から年八両から二十両の給料をもらい、長屋の全てを維持管理していた。江戸時代後期の江戸には、大家が二万人以上いたと伝えられている。

江戸庶民が住む「町民地」は、大体、表通り(大通り)と裏通り(裏路地)に仕切られた区画になっていた。町人の階級のあり方は一様ではなかった。町人は主に、二つの階級に分かれ、土地と屋敷を持つ商人・職人の旦那衆や親方衆を「町人」と呼んだ。
家屋敷を所有し表通りに店を構える町人の「旦那衆」から、裏通りに「裏店」と呼ばれる小ぢんまりとした店を構える下層町人(借家人)、没落した都市下層民(裏長屋の住人)までさまざまであった。
幕府が定めた「町人」という言葉は、家屋敷を所有する「地主(家持町人)・家持(居付地主)」のことであり、後に町屋敷の貸与・売買が多くなると、家主(家守、大家とも称す)も加えられた。広義では町に居住する地借、店借も指し、町の人別に加えられている。(大家・家守は通称で、公式の書類では家主と記録されていた)

〇江戸に住む庶民の中にも「町人(地主・家主)」「地借(じがり)」「店借(たながり)」「借家(しゃくや)」という系列身分があった。町人とは、厳密には「地主・家主として町政に参加する人々」に限られた。したがって、宅地を借りてそこに家を建てて住む地借や、家屋を借りて住む店借・借家は、町人とは見なされなかった。江戸では、住民の約70%を店借・借家が占めた。本当の意味(狭義)での町人(地主・家主)は30%しかいなかった。

〇表通りに土地を持ち、家や店を構えている大商人や御用達(ごようたし)職人の棟梁といった旦那衆や親方衆が町人である。ほかに表通りに面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらは町人ではなかった。江戸時代は土地を所有するかどうかで町人の身分が決まった。したがって地主(家持)とこれに準じる家守(大家)は正式の町人として町政の構成員に席をつらね、借家人は一人前の町人として認められていなかった。町人とそれ以外の者の違いは家屋敷を保有しているか否かであった。家を持たない借家人は町人ではなかった。

〇江戸には表通りに土地を借りて、家や店を構えた中堅の商人や職人層である地借家持(じしやくいえもち)や長屋住人である店借(たながり)の店子(たなこ)と呼ばれる土地も家も持たない借家人などの様々な身分の人々がいた。店子の身分や職業もさまざまで、職人、行商人(棒手振り・他)、日雇取り(日雇い)、下級の芸人、商店の世帯持ち使用人、等々である。彼らは江戸の町に住んでいながらも町人ではなかった。


江戸庶民(町人)の支配制度

■江戸市政の町民地の支配系統
江戸市政の支配系統は、町奉行―町年寄(奈良屋・樽屋・喜多村の三家)―町名主―地主・家持―家主―地借・店借人であるが、町奉行や町年寄は、町政に直接介入することはせず、町の運営は名主・地主に委ねられていた。町の実質的な運営は、地主に代ってその土地・家を管理する家主(いえぬし)が行っていた。家主は、家守(やもり)とか大屋とも呼ばれた。
ここで注意したいのは、「大屋」こと家主・家守は、長屋の所有者ではなく、あくまでも所有者の代理人であった。家主たちは、交代で月行事(がちぎょうじ)となり、町運営の実務に携わった。彼らが日常的に詰める事務所は「自身番屋」と呼ぼれた。自身番とは、まさに町の運営はその町自身が行うという、町の自治の意味である。

〇町年寄: 家康の江戸入府に従い江戸の町を切り開いた奈良屋、樽屋、喜多屋の三家が世襲。年始三日の登城や寛永寺の将軍家の法事には将軍に謁見する。江戸町政の実務を任され、町奉行所と町民の仲介する役割だった。町年寄の役宅は本町一、二、三丁目にそれぞれあった。三家とも町の南側区画の東角屋敷で、役宅は奥の一部を使い、通りに面した箇所は商人へ貸していた。他にも拝領屋敷があり、彼らの主な収入はこれら拝領屋敷からの地代だった。

〇町名主: 町年寄の下で担当地区の町政を任され、町内の一切のことに責任を持つ。多い者は二十三町、もっとも少ない者は二町を任されている。寺社門前町では四十町以上を任されている名主もいる。平均は七、八町、約二千人の住民を担当する。町人には許されない玄関構えの家に住める特権を持っていた。

〇地主(家持): 土地の所有者。名主の下に属する。寛政三年(1791)には約一万九千人の地主がいた。所有地に住まない不在地主も多く、家主を置いた。

〇家主(大家・家守とも呼ぶ): 不在地主に雇われた土地や建物の管理人。家主株を保有する必要がある。店子(借家人)を差配し、自らは敷地内に一軒を無料で借りて住んでいる。 寛政三年(1791年)時点で約一万七千人で町入用から出す給与は五万両になった。


■町民地の自治管理と
幕府は町奉行のもとに、町年寄や町名主の上級町役人と大家(=家主・家守)などの下級町役人で町と住民の管理を行った。江戸の町人たちは税金である町入用(ちょうにゅうよう)を払う義務を果たし、その権利を認められた。このため土地や家を持たない店借人・借家人は町人に含まれず、権利も認められていなかった。
町民地の地主(じぬし)・家主(いえぬし)などの町人は、税金「町入用」などを負担する代わりに正式の町人として町政や公事に参加し、町の自治に関する権利を認められ、「町役人」を選出する選挙権を持つなど社会的身分や公的な権利と義務を持っていた。町人のなかから選ばれた町(ちょう)役人が町の代表者となり、彼らを中心に町奉行のもとで町の運営を行った。
町役人や大家で五人組を作り、月毎に当番を決め(月行事:がちぎょうじ)て町の自身番に詰め、長屋だけでなく町の管理も務めた。「町役人」の具体的な名称は、地域によって異なるが、町年寄(ちょうどしより)・町名主(ちょうなぬし)などと呼称された。


■江戸府内の町民税
長屋とその土地の所有者である地主には、現在の地方税に相当する「町入用(ちょうにゅうよう)」が課税された。
町入用から名主や地主、家主ら町役人や町内に雇われている自身番、木戸番や町火消の人件費、事務費、町内の道路工事や雑用など自治にかかる費用を賄っていた。町入用は町名主に納めた。

地主・家主は、それぞれに地借以下の町人について管理責任を負っていた。町人(地主・家主)の社会的役割の1つとして、賃貸しの長屋を格安の店賃で店子に貸すという慣習があった。大家を雇い、店子から家賃を取立てたり、生活の雑事の面倒を見るなど、長屋の管理を任せた。大家は、「町入用」の納税義務はなく、店賃を免除されるなどの見返りを得ていた。
長屋の住人や借家住まいの人たち(地借、店借、借家)には、町政の税金「町入用」の納付義務はなかった。彼らは江戸の町に住んでいながらも町人に含まれなかった。税金を納めていたのは、裕福な階層の人だけであった。



■町木戸
江戸の町には各町内の出人り口に木戸があり、夜になると門を閉めて通行できなくなった。
「町木戸」は治安のために各町内の出入り口に設置されていたもので、江戸の大通りには町境に不審者の侵入を防ぐ為の木戸があった。木戸は、幅十間(約18メートル)の大通りの場合の町木戸では幅二間(約3.6メートル)の両開きの扉と、その脇に幅三尺(約1メートル)の潜戸(くぐりど)が付いたものが設置されており、それ以外は七尺五寸(2.3メートル)の高さがある丸太の柵で仕切られていた。
町木戸の脇には間口一間(約1.8メートル)、奥行1.5問(約2.7メートル)の三畳ぐらいの木戸番屋が設置されていて、木戸の番人の木戸番(番太郎)が住込みで24時間常駐していた。


■路地木戸と長屋
江戸時代の町人地では人口稠密(ちゅうみつ)化の結果、庶民住宅にも長屋形式の住宅が発達した。表通りのものを「表長屋」、裏通りや路地にあるものを「裏長屋」といった。
しかし表通りには商店など独立家屋が多くあったので、通常、長屋といえば裏長屋のことで、裏店(うらだな)ともよんだ。江戸の場合、長屋の入口にも必ず木戸が設けられていた。表通りの「路地木戸」を入ると、狭い路地を挟んで両側に長屋が建つ。六軒長屋が多かった。


■自身番屋
各町に「自身番屋(番所)」を作りその広さは9尺2間と定められ、大家や書役(かきやく)などが詰めた。消防用の纏・ 提灯・鳶口 防犯上の突棒・刺又・袖搦み(がらみ)などを常備し、屋根には半鐘のある火の見梯子を供えた。
自身番に詰めていたのは、大きな町だと家主(家守、大家とも称す)ふたり、番人ひとり、店番ふたりの計5人、小さな町だと家主、番人、店番各ひとりの3人だったという。
自身番の機能は多岐にわたるが、主なものを列挙すると、①町奉行所から出される法令の伝達、②町奉行所へ提出される文書や土地売券などといった重要公文書などへの加判(かはん)・立合(たちあい)、③町が抱える火消人足の差配や火番などの防火対策、④夜よ廻まわりや木戸番人の差配、犯罪者の勾留などの治安維持、⑤自身番屋・木戸番屋の運営をはじめ町全体に関わる出費およびそれらの徴収など、「町入用」(町方行政費用)の出納・管理、⑥人別帳の作成、などであった。この自身番の数が、幕末の頃には994ヵ所もあったという。


■町木戸の木戸番
江戸時代の各町の出入り口には町の治安を守る番小屋があった。表店のある「表長屋」の間に路地があり、そこから「裏長屋」への路地の入口には「長屋木戸(ながやきど)」というものがあった。
ほかにも一町区画ごとの町境には一門ずつ防犯・防火のために各町内の入口に「町木戸」があった。木戸番が朝の明け六つ(午前6時頃)に木戸を開け、昼間は通行自由だが、夜になると宵五つ(午後8時)に一斉に戸を閉める。錠はかけずに夜四つ(午後10時)に錠をかけたという。(門限は江戸時代前期には午前零時=夜九つだったが、中期には午後十時=夜四つ、幕末には午後八時=宵五つと、次第に早くなった)
それ以降に通るためには「潜戸(くぐりど)」を通らねばならなかった。木戸は夜間通行を制限するから、江戸の町々の治安維持に大いに貢献した。木戸脇には、必ず「自身番屋」と「木戸番屋」が設置されている。町木戸に隣接して木戸番屋があり、ここに木戸番という番人「番太郎」が詰めていた。



■木戸番屋
木戸番は「番太郎」、または「番太」と呼ばれた。木戸番は町から木戸の管理を委託された人間で、木戸の番と夜警(夜回り)をおもな仕事にしていた。
仕事の手当はその町内でまかなっていたが、少額のため、ほとんどが副業を兼ねていた。「木戸番屋」に住込みで働いていた番太郎は、草履(ぞうり)・草鞋(わらじ)・鼻紙・箒(ほうき)・軟膏・ロウソクなどの日用雑貨品を販売していた。また、子供向けの飴や干菓子などの駄菓子、夏には金魚、冬には焼き芋などを売って収入を得ていた。江戸も後期になると、木戸番屋は「商い番屋」と呼ばれた。


「町木戸・長屋木戸」と「木戸番屋の副業」の様子

夜警をしながら拍子木を打って時を告げたり、将軍御成りの際に町内に触れ歩くなどの役目もした。木戸が閉まっている間は、医者と産婆以外の者が通るときには、拍子木を打って次の町の木戸番に知らせたり、木戸から次の町の木戸まで番人が送り届けたりした。
火事を見つけた時には、通りの反対側にある自身番屋の屋根に登って半鐘を鳴らして周囲に知らせた。


江戸庶民の暮し-長屋住い

■江戸庶民の住い長屋
江戸は、御城を中心に武家地、寺社地、町人地が区分けされ、その多くを武家地・寺社地が占め、20%に満たない町人地に庶民が暮らしていた。
御府内は4里(約16km)四方で、その外側は農業地帯であった。城下町の中心部に格子状に整然と並ぶ町は、通りに面した四方が商家や職人の見世(店舗)で、その内側に「裏店」があった。江戸時代の庶民は基本的に長屋(裏店)とよばれる共同住宅に住んでいた。
多くの江戸庶民の住まいでは、江戸町人といわれた中堅の商人や職人層(地借家持)は主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。
一方、表通りで、商売を営む家屋敷を保有できない駄菓子や小間物、荒物などを商う小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた「表長屋」(表店,おもてだな)といわれる見世(店舗)と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農、職人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」(裏店,うらだな)で暮らしていた。



■長屋の住人、その日稼ぎとその日暮らしの生活
江戸時代後期、文化年間に著された『世事見聞録(せじけんぶんろく)』には、「裏店(うらだな)借り、端々町家住居の族(やから)、青物売・肴(さかな)売都(すべ)て棒振りと唱るもの、日雇取り・駕籠かき・軽子・牛ひき・夜商ひ・紙屑買・諸職手間取等、惣(すべ)て我精力を練り、骨打業にて世渡る者共」とある。彼らはみな、「粉骨砕身して漸(ようや)く其日を過、明日の手当なく」という生活ぷりであった。

江戸時代、三都と称されたのは江戸・大坂・京都である。それら三都の町人(庶民)の多くを占めたのが裏店(うらだな)に住む人々であり、その代表的な職業が「其日稼」であった。一般庶民の「其日稼」とは、自分の店舗を持たず、商品を売り歩いた行商人(「振売」ふりうり、「棒手振」ぼてふり、と云う)、短期契約の肉体労働や雑務など日雇いを生業にする者たちである。

「其日稼」の者(庶民)たちは文字通り「その日」の「稼ぎ」で生活し、日々貨幣を手に入れていた。町人地の日銭稼ぎの住人にとっては、醤油・味噌と米・魚・蔬菜(そさい)などの食費や薪代などの燃料費と長屋の家賃が大きな支出費目であった。彼らは、日々の稼ぎの範囲で貨幣を使用して、その日暮らしの生活をしていた。江戸っ子の「宵越しの銭は持たない」という言葉があるように、一度の火事で何もかもが灰になってしまうことを身をもって知る長屋の住人にとっては蓄えなどはほとんど無かった。それでも、庶民たちは「金は天下の回りもの。なんとかならぁな」と金離れよく、気軽に身軽に暮らしていた。


■4畳半の家族生活
庶民の多くが住んだ裏店(裏長屋) と呼ばれる共同住宅は、井戸・トイレ・ゴミ捨て場などが住民みんなの共用であった。江戸っ子の住まいの代表格といわれる「九尺二間の裏長屋(四畳半の畳と台所兼土間を含め約六畳)」では、ものを持たない暮らしは当たり前であった。

長屋(裏店)とは、細長い家を棟と直角に切り割って、数軒から十軒前後に分けた連棟式集合住宅で、「棟割り長屋」(一棟を縦に仕切ったもので三方が壁)とよばれる標準的な1戸の間口は九尺(約2.7m)で、奥行きは二間(約3.6m)の約3坪ほどの小さな住まいである。腰高障子と呼ばれる戸口を開けると、台所兼玄関の土間には竈(かまど)と流し、そして水瓶がある程度である。

九尺二間の裏長屋は、台所兼土間が一畳半、畳の部分が四畳半の計六畳といったところ。ここにだいたい家族3~5人で暮らしていた。文化文政(1804~1830年)頃の裏長屋の家賃(店賃)は、月300~500文程度であった。物価が上がった幕末頃は、九尺二間の店賃が500~600文だったという記録がある。

長屋の土地と建物(長屋)の所有者とは別に管理人がおり、その管理人を「大家(おおや)」といった。大家というのは、その呼名からして長屋の所有者だと思われがちだが、実は、家守(やもり)といい、土地・家屋の所有者である地主から長屋の管理を委託された使用人である。


『棟割長屋[9尺2間]、部屋の様子』

棟割長屋は、それぞれが粗末な薄い壁で仕切られ、3方は壁というもの。押入れも窓もないところで、1家族で生活した。その長屋の内部は、まず、腰高障子と呼ばれる戸を開けると、玄関と台所を兼ねた土間がある。
広さ一畳半くらいの土間には、煮炊きする竈(かまど)と木製の流しが備え付けられていて、井戸で汲んできた水を入れる瓶のほか、食器類や鍋、ざる、燃料となる薪などが置かれていた。草履を脱いで部屋に上がると、四畳半ほどしかない部屋には神棚が飾られ、壁際にはタンス、床には行灯(あんどん)が置かれている。部屋の隅っこには、布団がくるりとたたまれていた。

押し入れがないので衣類は行李(こうり)などに入れて部屋の隅に置き、布団はたたんで部屋の隅に枕屏風で隠しておく。水は共同井戸から汲んで、土間にある竈(かまど)横の水瓶に入れていた。ご飯を炊いて、味噌汁を作る以外に、おかずをこしらえる余地もなかった。
あとは表に出した七輪で魚を焼くくらい。その七輪も長屋で貸し回すのが普通で、2~3軒に1個くらいしかなかった。自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸の食器は収納兼用の箱膳(はこぜん)を使った。
長火鉢は木炭を使った暖房器具で、鉄瓶を乗せて湯を沸かしたり、鍋をしたり、お酒の燗をつけることができる便利なもの。片側に引出しが付いており、湯飲みや酒器、タバコが保管できるので、収納スペースが無い長屋では重宝した。


■表長屋と裏長屋
表通りに面して並ぶ店(表店、表長屋)の奥、路地を入った裏側にある「裏長屋」こそが一般的な庶民の住居。町人の約7割が暮らしていたと言われる。
長屋の地主は主に表通りに家を持っていた。長屋には表店(おもてだな)「表長屋」と裏店(うらだな)「裏長屋」があった。店とは家のことをいう。表通りに面して建てられたのが「表店」。表店に住めるのは、表通りに土地を借りて自分の家や店を持つ地借家持ち中堅の商人・高給取りの職人の親方衆や大店の番頭クラスが住み、二階建てもめずらしくはなかった。

一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが「裏店」である。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店に仕み、家賃を日払いで納めていた。裏店の裏通りの住人は家を持たない“借家人”で、その職種は基本的には職人や棒振商人が多く、はっきりと住みわけの状態がみられる。
江戸において土地家屋を所有しないものを店借人(たながりにん)といい、この中でも表通りに面する家に住んでいたのが表店借=地借家持で、表通りで家や店を構えた中堅の商人や職人層である。店子は土地も家も持たない借家人で、路地裏に住む裏店借「裏長屋の住人」である。
裏長屋に住む店子の身分や職業はさまざまで、店の奉公人や職人(大工や左官、鳶職)、行商人(棒手振り・他)、浪人、下級の芸人など、江戸の大部分の庶民が生活していた。


江戸の一日は「明け六つの鐘」で始まった。表店のある表長屋の間に路地があり、そこから裏長屋への出入り口には「長屋木戸(ながやきど)」があった。長屋木戸は、朝の「明け六つ」(午前6時)に開けて、夜は「暮れ六つ」(午後6時)に閉めていた。
長屋木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かった。長屋は二棟で向かい合って建てられ、幅三尺(約90cm)の狭い路地の真ん中に、幅三寸(9cm)ほどの溝(どぶ)板が走り下水が流れていた。路地の突き当りには、ちょっとした空き地があって、そこに、共同井戸、掃き溜め(共同のごみ箱)、惣後架(そうごうか=共同便所)があった。また、大家は多くの場合、長屋の入り口付近の1軒に住んでいた。

(江戸の町には、町の防犯を担うための「町木戸」や 「長屋木戸」と呼ばれる門が設置されていた。表店のある表長屋の路地には、「町木戸」があって木戸番が木戸の管理を行っていた。「長屋木戸」とは違って「町木戸」の開閉時間は、朝は「明け六つ」(午前6時)に開けて、夜は「夜四つ」(午後10時)に閉めていた。このように、表店のある表通りの町木戸と裏長屋の路地にある長屋木戸の門を閉める時間が違っていた。)


長屋住人の生業と振売りの種類

■振売り(棒手振り)商売
『守貞謾稿』天保8年(1837)には、振売について「三都(江戸・京都・大坂)ともに小民の生業に、売物を担い、あるいは背負い、市街を呼び巡るもの」とあって、江戸市中いたるところ振売りがいた。

振売は火気を持ち歩かず、主に生の食材や調味料、調理済みの食品を売り歩くのが特徴で、食品を扱う商売のなかでも、特別な技術や知識が不要、店を構えるための権利なども不要だったので、簡単に開業する事が出来た。
そのため振売は社会的弱者のための職業とされており、幕府は振売のための開業許可を50歳以上の高齢者か15歳以下の若年者もしくは身体が不自由な人物に与える、と触れ書きを出した。


『東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景』  歌川広重 天保4-5年(1833-34)
大木戸が開かれた日本橋の早朝の景色。朝焼けを背景に日本橋を渡り国元に帰る参勤交代の大名行列が日本橋を渡り始める。手前には魚河岸で仕入れた魚とまな板を桶に入れて天秤棒を担ぐ魚売りや野菜売りの行商人たち、右端には2匹の犬の後姿が描かれている。

長屋に住む下層の庶民は、大工・左官・畳細工・屋根葺(やねふき)・鋳掛師(鍋・釜の修理)などの職人や手習師匠のように特別な技術がなくとも、“振売り・棒手振り”などと呼ばれる、天秤(てんびん)棒を担いで魚・青物(野菜)などを売り歩く行商なら誰でも開業できた。
長屋に住む多くの人は、天秤棒を担いで多種多様な商品を小売りにまわる仕事(行商人)をしていたが、商う品物は一種類か、多くても2、3種類だったので、仕入れも簡単で素人でもその日からはじめられるほどだった。長屋に住む人々の多くが携わっていたという振売り(行商人)には、実に細かな仕事があった。


■振売の売り物
『守貞謾稿』の食に関わる振売りを挙げてみると、乾物売り、鮮魚売り、鰻蒲焼売り、鳥貝・ふか刺身売り、白魚売り、むきみ売り、しじみ売り、ゆで卵売り、鮨売り、いなご蒲焼き売り、塩辛売りなどの動物性食品。 蔬菜(そさい)売りには、瓜や茄子などを売る前菜(野菜)売り、松茸売り、生唐辛子売りなど。 加工調理品では、豆腐売り、納豆売り、漬物売り、甘酒売り、乾物売り、乾海苔売り、蒸し芋売り、揚昆布売り、麹売り、唐辛子粉売り、ゆで豆売り、嘗め物売り、ところてん売りなど。 調味料には、塩売り、醤油売り。嗜好品では、菓子売り、白玉売り、岩おこし売り、飴売り、冷や水売り(砂糖水売りと)などがある。

長屋の人々の多くは、振売りを業としながら、自らも振売りから食材を購入し、白米と漬物、季節の野菜類の煮物を中心とし、時々いわし、塩鮭など魚類を加えた食生活を営んでいた。


油売り(振売り)、『北斎漫画』葛飾北斎 画、油を柄杓(ひしゃく)を使って客の器に入れる。柄杓から長々と油が糸を引いている。


長屋「振売り住人」の一日

万治元年(1658)の幕府の調査では、振売りの数は江戸北部だけで5900人、50の職種に及んでいたという。その収入は、扱う品目にもよるが、おおよそ1日400文ほどであったという。

野菜売り(振売り)、夏の旬野菜、茄子と南瓜を売っている。

毎日の生活費を得るために日銭を稼ぐ裏長屋の野菜売り住人の1日は次のようであった。
「亭主の振売りは毎日600~700文くらいの元手を持って、早朝に家を出て市場で野菜を仕入れる。天秤棒で商品を担ぎ、売り声を上げながら町々を1日歩いて売って帰り、1日の儲けは400~500文。女房に生活費として300文くらいを渡す。これが米代や味噌、醤油、油代、子供のおやつ代などに使われ、そこから翌日の仕入れ代を引くと、せいぜい100~200文が残る生活であった。」
天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても、三人の家族を養うことができた。
(文政年間(1818~1829)の価格、米は1.3升/銭100文、味噌は6匁/銭100文、酒(上)は4合/銭100文、醤油1升は銭188文、練馬大根は銭8文、串団子・桜餅は銭4文)


■『文政年間漫録』栗原柳庵より(文政年間1818~29年)
「長屋の住人の一日」菜蔬売り(さいそうり)
夜明けとともに銭六百文から七百文を持って、かぶ菜・ダイコン・レンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。日が沈んだころ、菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが、これは明日の味噌汁の実になる。

家に帰り着き菜籠を置き、かまどに薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。二百文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また五十文が渡される。女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に十二文が消えた。

彼の手元に残ったのは百から二百文ばかりの銭だ。それを手に「さてと一杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と思案する。


■「菜蔬売り(さいそうり)」
菜蔬売りは数種の野菜を売り、現在と同様に八百屋と呼ばれていた。江戸では、瓜や茄子などを一二種だけ籠に入れて天秤棒に架けて担ぎ売るのは前菜(ぜんさい)売りといい、八百屋とは分けて呼んでいた。


江戸時代には、野菜は一般に青物(あおもの)と呼ばれ、野菜は行商の野菜売りから買っていました。

『守貞謾稿』(1853)の「菜蔬売り」の項には
『三都ともに菜蔬を俗に青物と云う 因之売之買を青物売とも云う 菜蔬店菜蔬見世とも八百屋とも云う』『江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前菜売と云う 京阪にては是をもヤオヤと云う』『前菜売りは数品を携ず瓜茄子の類或いは小松菜等 一、二種を売りを云い、八百屋は数種を売るの名なり』とある。数種の前栽籠を担いで野菜を売る者を「前栽売り」、扱う品数が多くなると「八百屋」と呼び分けたようだ。


■青物(野菜)・・・ 『絵でみる江戸の食ごよみ』著者: 永山 久夫 より
「瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種類の野菜を売る者を八百屋という。京坂(京都・大坂)・江戸とも菜蔬(さいそ)を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋というと記している。

江戸が発展して人口が増え、大都市になると、料理を専門にする店はもちろん、一般家庭においても、野菜の需要は年ごとに増加。それらのほとんどは、江戸周辺の農村から供給されていました。 元禄十年(1696)の『農業全書』によって、野菜のごく一部をあげてみると。だいこん、かぶ、にんじん、ねぎ、にんにく、ごぼう、ほうれんそう、かぼちゃなどで。現在でも流通している主要野菜のほとんどは、すでに栽培され出回っていました。

江戸の町の野菜の流通は、店売りと担い売りとがあり、「守貞漫稿」によれば、「菜疏(さいそ)売り」として、「俗に三都(京・大坂・江戸)とも八百屋といい、やおやと訓む。また、江戸ではうり、なすなど一種を、もっぱら持ち歩くものを前栽(ぜんさい)売りという。京板(京・大坂)では、これも八百屋という。その服装(前栽売り)は定まりがなく、その籠は三都とも大同小異である」とあります。

さらに、「前栽売りは、数品をもたず、うり、なすのたぐい、あるいは小松菜など、一、二種を売るのをいう」。一方の八百屋については、「八百屋は数種類を売るところから、この名前になったものと思われる」としています。
「前栽売り」という呼ひ名は江戸だけのもので。三都ともに、野菜を「青物」とも呼びました。したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」で、青物見世とか八百屋という場合もあります。

江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて、売り出したようです。 一方で、近在の農家では、自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。
「前栽」には庭先で作ったものという意味があり。もともとは農家か手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって、野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。」


『守貞謾稿』(1853)と青物(江戸野菜)
『守貞謾稿』には、菜蔬(さいそ)、即ち食用になる植物を俗に「青物」と云い、これを扱う市が神田・本所・千住・品川等にあるという。神田・千住に、ここには記されていないが駒込を加えて三場所と言う。
千住・品川・駒込は、江戸への入口である。神田の青物市は江戸城御用を務めたが、江戸郊外からの流入を扱うという点では立地が劣っていた。青物は、船・歩行等で江戸の市へと運び込まれた。店を構えた八百屋以外に、天秤棒に架けた籠を用いて、瓜・茄子等、品数を限って市中で青物(江戸野菜)を販売する前菜売りがいた。

「三都ともに菜蔬(さいそ)を俗に青物と云、因之売之買を青物売とも云、菜蔬店青物見世(みせ)とも八百屋とも云・・・菜蔬も市をふること魚市に同じ、江戸も菜蔬は京坂と同く市を振る神田連雀町辺本所花街又千住駅品川駅にも菜蔬市あり」、「江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前栽(せんざい)売と云、京坂にては是をもやおやと云、其扮無定其籠も三都大同小異也・・・前栽売京坂有其業無此名也」

【庶民の食事を支えた江戸野菜】
江戸時代の野菜作りは、荒川流域の低湿地帯、砂村を中心とする江東地域と太田・世田谷の城南地域が盛んでネギ、カボチャ、ダイコン、ナス、キュウリ、漬け菜などの生産が行なわれていた。

江戸野菜 写真:茶堂~chadeau~/http://www.chadeau.com/16090501/

江戸の近在近郷で栽培をされていた江戸野菜には生産地の名前がついていることが多く、当時の野菜産地として名が残っているものに、亀戸大根と砂村ネギ(江東)、矢切り大根・葛西レンコン・金町コカブ(葛飾)、寺島茄子と本所ウリ(隅田)、谷中ショウガ(台東)、千住ネギ・汐入り大根・三河島菜(荒川)、小松菜(江戸川)、滝野川ニンジンとゴボウ(北)、練馬大根(練馬)、駒込茄子・巣鴨コカブ・雑子ヶ谷かぼちゃ(豊島)、四谷の唐辛子と早稲田の茗荷(新宿)、千駄ヶ谷とうもろこし(渋谷)、目黒のタケノコ(目黒)、馬込キュウリ(太田)、そして大倉大根(世田谷)などがある。

この内、練馬大根は江戸の歌人、歌学者戸田茂睡が残した紀行文『紫の一本』(天和3年〈1683〉刊)にも特筆されている。武蔵野の村々の民家が夥しく増え、「瓜・茄子を初め菜・大根などすべての野菜を毎日毎日江戸へ付け出す」とし、さらに料理屋の奥の中二階に上がると、「ねりま大根、岩槻牛蒡、笠井菜、芝海老、千住ねぎを、とりかえとりかえ馳走する」との記述がある。
17 世紀後半には、武蔵野台地上の村々において江戸への販売を前提とした商品作物の生産が本格化しており、また名産野菜として料亭などで供されていたことも明らかであった。

【地廻り経済圏と江戸野菜】
江戸の町は、当初、上方から来る商品にたよっていたが、江戸中期以降、関東周辺の村々からの地廻り物(荷物)が増加し、江戸地廻り経済圏が成立した。塩、酒、醤油、米などがその例である。野菜については、参勤交代により各地の野菜が江戸に持ち込まれ、江戸時代半ば以後、商品作物の栽培が広がって江戸各地にも野菜の産地が生まれた。
沢庵漬けに向いた練馬大根や煮物に適した亀戸大根、小松川の小松菜、千住ネギ、谷中生姜、隅田川東岸の寺島茄子などがその代表で、「江戸野菜」とよぱれている。

江戸時代において江戸に暮らす人々の食料供給の場として周辺地域では様々な野菜が作られた。江戸の近郊は、西北に武蔵野台地が広がり、東には海や利根川(現江戸川)に面して水に恵まれた低湿地が広がっていた。江戸から西北の地域では根菜類が多いのに対し、東側のエリアでは葉物やレンコンが作られた。
関東周辺の大根やサトイモ、ネギ、ゴボウなどの野菜は川の舟運(利根川、隅田川、小名木川、新川など)を使って江戸の市場に運ばれた。江戸の人々は、まさに地産地消の新鮮な野菜を毎日口にすることができた。



↑ ページトップに戻る