江戸時代の外食・醤油文化

江戸庶民の暮し-長屋住い

■江戸庶民の住い長屋
江戸の都市の面積のほとんどは武家屋敷で占められていたにもかかわらず、町人地(町方とも呼ばれる)人口は武士とほぼ同数だったといわれている。
町人地には、表通りに町屋敷を持つ地主層と、土地は持たないものの表通りに土地を借り持つ地借層、表通りに面しない裏長屋に住む店借層がいた。
表通りでは商売が営まれ、裏長屋では店の奉公人や職人、行商人など江戸の大部分の庶民が生活していた。

長屋には表店と裏店かあり、表通りに面して建てられたのか「表店(おもてだな)」。こに住めるのは、高給取りの職人の頭や、大店の番頭クラスで、二階建てもめずらしくはなかった。一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが「裏店(うらだな)」。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店の「裏長屋」に住み、家賃を日払いでおさめていた。
多くの江戸庶民の住まいでは、中堅の商人や職人層(地借家持)は主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。
一方、駄菓子や小間物、荒物などを商う比較的裕福な小商人(こあきんど)などは表通りに面して建てられた「表長屋」といわれる店舗と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。
また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農(小百姓)、商家の奉公人、職人、行商人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」で暮らしていた。

 

裏長屋は棟割り形式の平屋が普通で、広さ9尺×2間/約3坪か、9尺×3間/約4.5坪が多く、「九尺二間の裏長屋」と称され、六畳一間の広さが住宅の基本となっている。その中に入り口の土間や煮炊きをする竈(へっつい,かまど)が付いているため、実際には部屋として使えるのは四畳半であった。それが居間兼寝室で、当然押し入れは無く、布団は昼間は畳んで部屋の隅に置き、ついたてで隠していた。
普段から火の用心を心掛けており、火事が起きたらまず家財道具を全て運び出し逃げるというのが前提だったので、住居の中には持って逃げることの難しい大きな家具などを置いている家は少なかった。

長屋は、戸口を開けると、すぐ小さな土間になっていて、その横には竃(かまど)があり、流し台や水桶などが置かれている。水は水桶から柄杓(ひしゃく)ですくって飲む。竃の上にあるのは、釜か鍋である。台所には包丁やしゃもじがあるし、棚には皿やざる、擂り鉢、味噌入れの壺などをのせておく、もっとも独身男は自炊する機会が少ないから、台所用具はあまり揃っていない。煮魚や煮しめ、煮豆などを売る煮売り屋を利用したので、用品が少なくても不便を感じなかった。

長屋は、防火対策から家の中の土間に「煮炊き用」の釜を設置してあるだけで、その釜で朝に1日分の飯を一度に炊き、昼と夕方は冷やご飯を食べていた。
食事の支度は、さまざまな振売行商人から朝食にあう豆腐や納豆など、買った食材で長屋の女房たちは食事を作った。長屋の食事は一汁一菜が基本である。白米、みそ汁、たくあんなどの漬物に、根菜の煮物や魚の煮つけなどのオカズを揃えた。

おかずの調理は井戸の周りで行い、外にある七輪で焼くという調理方法をとっていた。イワシやサンマなどの焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期といわれている。
それだけに調理済みの総菜を売る屋台や煮売り屋(道端で魚や野菜の煮物を売る商売)はとても重宝だった。
また、小型で移動できる七輪や長火鉢などで、お茶を沸かしたり鍋物を温めたりした。長屋の仲間2、3人が集まって鍋物をする「小鍋立て」と呼ばれる調理法も可能になった。


表長屋と裏長屋の関係

長屋の木戸とは別に、町の境には警備のための木戸(町木戸)が設けられ、その横に木戸番屋が設けられていた。木戸番がそこに住み、木戸を管理した。木戸番は町に雇われていたが、給金は少なく、それだけでは暮らしてゆけない。そこで自分で作った草履や草鞋のほか鼻紙や駄菓子、焼き芋などを売って生計の足しにした。当時、火の使用を許されていたのは、木戸番だけだ。したがって焼き芋は木戸番が独占的に売ることが出来たのである。

「長屋」とは、一棟の細長い建物を複数の所帯で住み分ける住居のことで、2種類の長屋があった。表の大通りに面して建てられた商売を営む店舗兼住宅を一般的に表長屋(表店,おもてだな)といい、2階建てが多く、1階部分が商いのスペース、2階部分が住居になっており裕福な人が住んでいた。それに対して、表通りから表店の裏側へ入っていく三尺~ 六尺の路地に面している住宅が裏長屋(裏店,うらだな)である。一般に長屋といえば、裏長屋のことをいった。裏店に裏長屋が建てられ、一般化したのは享保期以降と言われている。

路地木戸(長屋木戸)は「明け六つ」(午前6時頃)に開けられ、「暮れ六つ」(午後6時頃)に閉じられた。裏長屋への出入り口は長屋木戸のみで、そこを閉めると出入りができなる。長屋の当番のものが、月番で錠をあずかって、木戸の戸締りの仕事をした。木戸の上には、住民の表札を兼ねた看板や貼り紙が掲げられているものもあった。


裏長屋は、江戸人口のほぼ半数を占める庶民が住み、主に、四畳半の部屋に一畳半の台所と土間がついた「九尺二間」(間口3.6m、奥行2.7m)の大きさである。
表通りとの出入口には路地木戸(長屋木戸)があった。表通りには、瓦屋根による土蔵造りや塗屋造りとする見世蔵(店)などの堅牢な町屋が並んでいたが、町裏へ入れば粗末な造りの長屋があった。

大通りに面した表店には、棟梁・鳶頭・隠居・町師匠などの町人が住んでいたが、江戸町人の大半は路地に面した裏長屋に住み、車曳き・火消人足・大工や左官・髪結(かみゆい)・畳刺し・籠かき・魚売り・浪人者・等々さまざまな人達が暮らしていた。
長屋の女性は炊事、洗濯、掃除などの家事や育児以外にも、着物の縫い目をほどく洗い張りや洗濯を専業とする商売、機織りなども女性の仕事とされていた。
長屋の家賃は、平均で月1000文、棟割り長屋で月500文程度、老朽化したもので月300文程度であった。


江戸長屋の種類

江戸の庶民は、主に裏長屋に暮らしていた。背中合わせの棟割長屋で、間取りは、九尺二間(間口約2.7m、奥行き約3.6m)と、かなり狭い(妻帯者用は、三間というところも)。トイレと井戸、ごみ捨て場は共同。四畳半の座敷と土間と台所というのが一般的なつくりだった。
裏長屋(裏店,うらだな)には、「棟割長屋」と「割長屋」があった。「棟割長屋」は屋根の棟のところで仕切り、背中合わせに部屋が作られた形で、両隣だけでなく背中合わせにも隣の住人がいる形式である。
部屋同士が背をつけている「棟割長屋」1軒の平均的な大きさは、間口が九尺(約2.7m)、奥行きが二間(約3.6m)。
入り口をくぐると三尺四方の踏み込みの土間、片隅に竈(かまど)と座り流しに水瓶(みずがめ)が置かれていた。その奥に生活空間の四畳半があった。
窓と押し入れはなく、1軒には平均2~3人が住んでいた。「割長屋」は六畳間で、梯子(はしご)をかけて上る物置のような中2階も付いていた。



 

表通りに面した表長屋(表店)に門の形をした木戸(長屋入り口)から、三~六尺(約90cm~約1.8m)程度の細い路地があり、その周りに裏長屋が建てられていた。
路地は住人の共有通路で路地の中央には溝板(どぶいた)が奥の方まで敷いてあり、その下には雨水を流す下水溝(どぶ)が通っていた。
台所の「流し台」からの排水は木樋や竹筒で家の外へ出し、長屋の路地の真ん中を流れている幅が6、7寸(約18~21cm)ほどの「溝(どぶ)」に排水した。
ここには、長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする、井戸端の共同の流し場からの排水、雨水もこの「どぶ」に流れ込んでいた。



長屋住民の共用スペースとしての路地には、厠(かわや)、掃き溜め(ゴミ捨て場)、井戸が付設されていた。路地の奥にある共同井戸は、飲料水や、洗濯用の生活用水として重宝されていた。井戸の多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸であった。
共同の井戸では、朝の洗顔から、食事の下ごしらえ、洗濯などをすべてここで行なった。長屋住人にとって重要なライフラインである井戸の掃除「井戸さらい」は、年に1度、住人総出で行われた。
共同のゴミ捨て場には、茶碗のかけらのようなもの、生ゴミや貝殻、再利用し尽くして用途のなくなった生活用品などが捨てられた。路地は通路以外として物売りの市・子供の遊び場・夏には縁台を出しての夕涼み・井戸端会議など、社交場としての役割を果たした。




長屋の大家

江戸時代の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物であった。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという構図であった。その中で、地主に代わってその土地・家を管理する家主(いえぬし)がいた。
家主は、家守(やもり)とか大家(おおや)とも呼ばれていた。大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではなかった。長屋の大家は裏木戸と呼ばれる出入り口のカギを開け閉めしていた。
明け六つ(朝6時)の鐘が鳴ると裏木戸の門が開いて、暮れ四つ(夕方10時)には戸が閉めなくてはならなかった。



長屋の大家の仕事
長屋の家主(所有者)は、地主や裕福な商人たちがほとんどであった。なお江戸時代における大家(おおや)とは、必ずしも家主ではなく、長屋の住人の家賃を集めたり、管理を任されたりしている人を指す場合が一般的で、地主や家持ちの人々に代わって店賃(たなちん)や地代を取り立て、店子(たなこ)を監督する役割を担う差配人(さはいにん)と呼ばれていた。
江戸時代には、長屋の土地・建物の所有者と、その所有者に代わって貸地・貸家を管理する大家がいた。大家について「守貞漫稿」によれば、江戸には約2万人いたと言われる。様々な人々が暮らす江戸の長屋を取りまとめていたのは大家である。
ただこの大家はほとんどか、地主ではなく、借家人の管理を地主から請け負って行う管理人的な人であった。店賃を集めた手数料(賃料の5%程度)や店子からの礼金(訴訟やお願いなどの付き添い料)の他、大きな収入となったのが、借家人たちの屎尿(しによう)。これを下肥として近郊の農家に肥料として売った。住民一人あたり1年で米一斗ほどの値になったと云う。

土地所有者・地主で無い地主の代理人「雇われ管理人」の大家は、長屋の住人から家賃[店賃(たなちん)]を徴収する役目をもっていたが、同時に、町役人として防火防犯の取り締まりの治安維持の役目も行なった。
大家の重要な仕事には次のものがあった。

①同じ町内の大家たちと組んで五人組というものを作って五人組が交代で一ヶ月ごとに月行事(がちぎょうじ)の町政に参加したり、 町内の自身番に交代で詰めるなどの町役人(ちょうやくにん)としての町内の秩序維持活動を行い、公務で多忙の町名主に代わり町政を担う。
②町政(町名主の補助業務)に関する業務 … 町触れ伝達、人別帳調査、火の番と夜回り、火消し人足の差配、訴訟や呼び出しでの奉行所への付き添い、諸願いや不動産売買の際の証人など。
③長屋管理に関する業務 … 店子の身元調査と身元保証人の確保、上下水道や井戸の保全、道路の修繕、建物の管理、賃料の集金、店子の生活の指導や扶助、病人怪我人の救済、冠婚葬祭の差配などを行う。

大家は主なものでこれだけの仕事をこなしていた。江戸時代の御定書(おさだめがき)の中に、大家が管理する長屋敷地内に行き倒れた病人怪我人、捨て子があった場合、この面倒を見なければならないと定めがあった。
乳飲み子の捨て子が保護された場合は、養子先を探す、適当な里親が見つからなければ、奉公に出られる年齢になるまでの衣食住の世話、手跡指南所(寺子屋)の入所などの教育、奉公先の斡旋など自活するための援助など、親同然としての責務が課せられていた。

大家は江戸の町の行政を担っていた
幕府は町奉行のもとに、上級町役人(ちょうやくにん)の「町年寄」や「町名主」と下級町役人の「大家(家主)」などの3役で町と住民の管理を行なった。
江戸の町の行政の中心の「町年寄」「町名主」「大家」の3役は、武士ではなく町人階級の中から選ばれ、道路の保守管理や防犯、防火、紛争の調停などさまざまな役割を担っていた。
この3役の中でもっとも高位だったのが「町年寄」という役で、町奉行所から出された布令を受け取り、町人に伝達する役割を持っていた。
「町名主」は町年寄の下に位置し、小さく区切られた町単位での行政を任されて、平均しておよそ7〜8町を担当しており、ほかに仕事は持たず、専任で町政を行っていた。
また、「大家(家主)」はさらにその下で、町名主の指示を受けて実際の町民と接触し、実際の町の運営に当たっていた。

大家は町奉行所など行政機関の末端に位置し、裏長屋の店賃(たなちん)のやり取りだけなく、店子(たなこ)へ町触れ(広報)の読み聞かせ、店子の身元調査と身元保証人の確定、諸願や土地家屋の売買書類への連印、賃貸の管理、水道や井戸の修理、道路の修繕、喧嘩・口論の仲裁、人別帳調査をはじめとした長屋の住民の把握など、さまざまな役目があった。
また、名主や大家で「五人組」の自治組織を作り、月毎に当番を決め、月行事(がちぎょうじ)を選び、町の自身番に詰め、長屋だけでなく町の自治管理も務めた。
借家人は、表借家人(表長屋)・裏借家人(裏長屋)を問わず、町人としての町政参加が認められなかった。




裏長屋・住人の暮し

長屋住人の職業と収入
裏長屋の住人の多くは、物売りなどの独身男性たちであった。江戸の庶民である長屋住民の職業を見ても日雇稼ぎ、棒手振り等の不定期就労者が多く、住人の平均的な1日の稼ぎは、居職で350文、出職で410文程度であった。
長屋の店賃(たなちん=家賃)は月に800~1000文くらいだった。当時、真面目に働けば2~3日で稼げる程度の安い金額である。(文政時代[1818~31年]に、大工、左官、鳶(とび)といった職人の手間賃が銀で3~5匁、銭に換算すると324~540文であった)

長屋にはいろいろな職業の人たちが住み、物質的には貧しくとも、おおらかに長屋での生活を謳歌していた。
長屋では、住民同士の人情味溢れる助け合い社会が形成されており、生活必需品の貸し借りは、その代表例といえる。みそや醤油、米などの貸し借りがひんぱんに行われていたほか、食材や料理のお裾分けも日常的に行われていたようである。いわば、“個人の所有物は長屋の共有財産”という共通認識が、長屋の住民間で出来上がっていた。
裏長屋の生活は“その日暮らし”が多かったこともあり、「親も同然」といわれた大家の管理下のもと、「子」である店子たちもお互い助け合って生活していた。
大家は店子の保証人になることもあり、子供の誕生や婚礼、葬式、奉行所への訴えにかかわったりもした。


九尺二間の裏長屋の部屋

長屋の部屋と生活
江戸時代の庶民は、ほぼ長屋に住んでいた。そして、その長屋は火事で燃えることが多かったので、かなり安普請に作られていた。
平屋建て裏長屋の「棟割長屋」1軒の平均的な大きさは、九尺二間、間口が1間半(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の3坪(10平米)程度である。採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかった。入り口をくぐると1畳半の台所と土間があって、片隅に竈(へっつい)と、一段上がって居住スペースの畳敷き4畳半があった。

住居の炊事道具は土間にある竈と流しと水瓶(みずがめ)、そして米びつ、おひつ、鍋、釜、包丁、まな板、擂り鉢、笊と夫婦の箱膳である。箱膳は箱形になっている膳のことで、自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸を納めておき、食事をする時には箱の蓋を裏返して食器を載せた。
衣類は風呂敷に包んで、布団と一緒に隅に置き枕屏風で隠して片付けていた。家具では行灯(あんどん)、火鉢、小ぶりな箪笥(たんす)程度である。
冬になると、江戸庶民にもっとも使われた暖房具は「長火鉢」であった。木製の長方形の火鉢であり、炭火のうえで鍋を温め、灰のなかに埋め込んだ銅壺(どうこ)で湯をわかしたり、酒を温めたりした。

長屋の部屋で仕事を行う職人は、まず、朝起きると布団をたたんで片隅に積んで置き、そこで箱膳で食事をする。食事の後に、畳を外して部屋の隅に重ねて板間にする。こうして、家で仕事をする職人の作業場ができて仕事をおこなった。そして夜は畳を敷いて家族の居間に、さらに布団を敷いて寝室にと、一つの部屋を時間帯で使い分けていた。
江戸時代の長屋では、畳は長屋の大家が用意しておくものではなく、部屋を借りる店子が運び込んで使ったといわれている。このため、職人や独身者の場合は、畳を敷かず、筵(むしろ)敷きで暮らしていることもあった。
畳が一般のものとなったのは、江戸時代中期の元禄期あたりからで、 江戸時代後半には庶民の住まいにも徐々に使用され、畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が生まれた。
町屋や長屋にも畳の部屋がつくられるようになったが、まだまだ畳は高価な床材で火事になれば持って逃げるし、お金がなくなれば畳を質草に入れて工面することもあったという。

部屋の照明器具
夜の照明は「行灯(あんどん)」であったが、形や大きさはさまざまであった。受け皿の上に灯明皿(とうみょうざら)をのせて、灯芯(とうしん)を浸して火を点(とも)すもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。また、「瓦灯(かとう)」と呼ばれる照明器具もあり、行灯よりも安かったため、貧乏長屋の庶民が使つていたのは、この瓦灯だったのだろう。


行灯の明るさは、灯火の近くでやっと文字が読める程度であったようである。その薄ぼんやりとした明るさのなかで、庶民は内職をしたり、食事をしていた。行灯(あんどん)に使う油は菜種油であったが、当時はまだまだ高価だったため、貧しい人は、菜種油の半値くらいのイワシなどからとった「魚油」を使った。
トイレは、住居の外に設けられた「惣後架(そうこうか)」という共同便所[厠(かわや)]が使われ、風呂がなく、湯屋とよばれる銭湯(湯銭八文)を使い、洗濯も共同の井戸を使っていた。



長屋住人の寝具
江戸庶民にとって、布団とは敷き布団のみを意味し、掛けるものを夜着といっていた。
この時代の江戸庶民は敷き布団だけで寝るのが普通で、掛け布団は今のような形ではなく、「夜着(かいまき)」と呼ばれる綿人れを使っていた。
襟布と広袖が付いていて、着物よりもひと回り大きい綿入れの「ドテラ」のようなものを掛け布団代わりに使っていた。襟布は大きめで黒天鵞絨(くろびろーど)などの丈夫かつ、防寒性の高い布地で包まれていた。
一方、大坂や京都では、元禄年間(1688~1704)頃から、夜着ではなく現在のような掛け布団が使われていた。長さがおよそ170センチほどあり、「大ふとん」とも呼ばれた。江戸で、四角い掛け布団が使われるようになったのは江戸末期のことである。



貧富の差によって、使っている布団には違いがあった。裕福な商人は綿がたっぷり入った敷き布団を、貧乏長屋の住人は綿のほとんど入っていない煎餅布団を使っていた。夏は汗をかくので、煎餅布団の上に「寝茣蓙(ねござ)」という茣蓙を敷いていた。また、長屋の住民は敷布団の下に「八反風呂敷(はったんふろしき)」を敷いて寝ていた。近くで火事になったとき、夜着と枕を敷布団でくるみ、この風呂敷で包み込んで運び出すための工夫であった。
近郊の農家では、こもや筵(むしろ)を敷くか、ワラぶとんで寝るのが一般的で、綿入りの敷きぶとんを使うことはめずらしかった。

長屋住人は日々、食材を購入していた
長屋の朝は早く、夜明けと共に起き、日暮れと共に寝るという暮らしをしていた。江戸庶民が暮らす長屋の路地には、毎日のように物売りたちがやってきて食材を売っていたため、おかずには事欠くことがなかった。
食材を両天秤で担いで売りに来るのが棒手振り(ぽてふり)の行商人で、彼らは店舗を持たず、天秤棒の両脇に商品を吊り下げて、庶民の住む長屋や、下級武士の住まいなどを主な商売の場所にしていた。
当時は漬け物や味噌、醤油、米といった食品以外は保存がきかないので、その日に食べる分だけを、こうした商人から買い求めた。
アサリやシジミなどの身だけを売るむきみ売り、魚売り、ドジョウ売り、納豆売り、豆腐に油揚げ売り、季節の野菜を売る青物売り、煮豆売りなどであった。その多様性から、江戸庶民は家に居ながらにして必要な食材を必要な分だけ買いそろえることができた。
酒屋や米屋、魚屋のような表店、裏店にも買いに行ったりしたが、その頃の棒手振りは、主に「一色商い(ひといろあきない)」といわれる一つの品物を専売するのが主流で、こうした物売りが安くて便利であった。



文政年間(1818-1829年)頃の食品・調味料の物価は、屋台の二八そば1杯が16文、握り鮨1個8~10文、天麩羅1個4~6文、米一升(約1.5kg)が120文、関東醤油1升/60文、下り醤油1升/108文、塩1升/20~50文、納豆1束/4文、たたき納豆が8文、蜆(しじみ)1升/10文、小蛤1升/20文、イワシ1尾/5文、このしろ1尾/3文、豆腐1/4丁(現在の豆腐1丁の大きさ)が10~15文、鶏卵1個/5~8文、卵の水煮(ゆで卵)はわりと高価で1個20文、小松菜や水菜といった季節ごとの菜売りは3~4文、大根1本/8~10文、里芋1升(約1.5kg)/36文であった。


長屋住人の生業と振売りの種類

■振売り(棒手振り)商売
『守貞謾稿』天保8年(1837)には、振売について「三都(江戸・京都・大坂)ともに小民の生業に、売物を担い、あるいは背負い、市街を呼び巡るもの」とあって、江戸市中いたるところ振売りがいた。

振売は火気を持ち歩かず、主に生の食材や調味料、調理済みの食品を売り歩くのが特徴で、食品を扱う商売のなかでも、特別な技術や知識が不要、店を構えるための権利なども不要だったので、簡単に開業する事が出来た。
そのため振売は社会的弱者のための職業とされており、幕府は振売のための開業許可を50歳以上の高齢者か15歳以下の若年者もしくは身体が不自由な人物に与える、と触れ書きを出した。


『東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景』  歌川広重 天保4-5年(1833-34)
大木戸が開かれた日本橋の早朝の景色。朝焼けを背景に日本橋を渡り国元に帰る参勤交代の大名行列が日本橋を渡り始める。手前には魚河岸で仕入れた魚とまな板を桶に入れて天秤棒を担ぐ魚売りや野菜売りの行商人たち、右端には2匹の犬の後姿が描かれている。

長屋に住む下層の庶民は、大工・左官・畳細工・屋根葺(やねふき)・鋳掛師(鍋・釜の修理)などの職人や手習師匠のように特別な技術がなくとも、“振売り・棒手振り”などと呼ばれる、天秤(てんびん)棒を担いで魚・青物(野菜)などを売り歩く行商なら誰でも開業できた。
長屋に住む多くの人は、天秤棒を担いで多種多様な商品を小売りにまわる仕事(行商人)をしていたが、商う品物は一種類か、多くても2、3種類だったので、仕入れも簡単で素人でもその日からはじめられるほどだった。長屋に住む人々の多くが携わっていたという振売り(行商人)には、実に細かな仕事があった。

■振売の売り物
『守貞謾稿』の食に関わる振売りを挙げてみると、乾物売り、鮮魚売り、鰻蒲焼売り、鳥貝・ふか刺身売り、白魚売り、むきみ売り、しじみ売り、ゆで卵売り、鮨売り、いなご蒲焼き売り、塩辛売りなどの動物性食品。 蔬菜(そさい)売りには、瓜や茄子などを売る前菜(野菜)売り、松茸売り、生唐辛子売りなど。 加工調理品では、豆腐売り、納豆売り、漬物売り、甘酒売り、乾物売り、乾海苔売り、蒸し芋売り、揚昆布売り、麹売り、唐辛子粉売り、ゆで豆売り、嘗め物売り、ところてん売りなど。 調味料には、塩売り、醤油売り。嗜好品では、菓子売り、白玉売り、岩おこし売り、飴売り、冷や水売り(砂糖水売りと)などがある。

長屋の人々の多くは、振売りを業としながら、自らも振売りから食材を購入し、白米と漬物、季節の野菜類の煮物を中心とし、時々いわし、塩鮭など魚類を加えた食生活を営んでいた。


油売り(振売り)、『北斎漫画』葛飾北斎 画、油を柄杓(ひしゃく)を使って客の器に入れる。柄杓から長々と油が糸を引いている。


長屋「振売り住人」の一日

万治元年(1658)の幕府の調査では、振売りの数は江戸北部だけで5900人、50の職種に及んでいたという。その収入は、扱う品目にもよるが、おおよそ1日400文ほどであったという。

野菜売り(振売り)、夏の旬野菜、茄子と南瓜を売っている。

毎日の生活費を得るために日銭を稼ぐ裏長屋の野菜売り住人の1日は次のようであった。
「亭主の振売りは毎日600~700文くらいの元手を持って、早朝に家を出て市場で野菜を仕入れる。天秤棒で商品を担ぎ、売り声を上げながら町々を1日歩いて売って帰り、1日の儲けは400~500文。女房に生活費として300文くらいを渡す。これが米代や味噌、醤油、油代、子供のおやつ代などに使われ、そこから翌日の仕入れ代を引くと、せいぜい100~200文が残る生活であった。」
天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても、三人の家族を養うことができた。
(文政年間(1818~1829)の価格、米は1.3升/銭100文、味噌は6匁/銭100文、酒(上)は4合/銭100文、醤油1升は銭188文、練馬大根は銭8文、串団子・桜餅は銭4文)

■『文政年間漫録』栗原柳庵より(文政年間1818~29年)
「長屋の住人の一日」菜蔬売り(さいそうり)
夜明けとともに銭六百文から七百文を持って、かぶ菜・ダイコン・レンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。日が沈んだころ、菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが、これは明日の味噌汁の実になる。

家に帰り着き菜籠を置き、かまどに薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。二百文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また五十文が渡される。女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に十二文が消えた。

彼の手元に残ったのは百から二百文ばかりの銭だ。それを手に「さてと一杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と思案する。

■「菜蔬売り(さいそうり)」
菜蔬売りは数種の野菜を売り、現在と同様に八百屋と呼ばれていた。江戸では、瓜や茄子などを一二種だけ籠に入れて天秤棒に架けて担ぎ売るのは前菜(ぜんさい)売りといい、八百屋とは分けて呼んでいた。


江戸時代には、野菜は一般に青物(あおもの)と呼ばれ、野菜は行商の野菜売りから買っていました。
『守貞謾稿』(1853)の「菜蔬売り」の項には
『三都ともに菜蔬を俗に青物と云う 因之売之買を青物売とも云う 菜蔬店菜蔬見世とも八百屋とも云う』『江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前菜売と云う 京阪にては是をもヤオヤと云う』『前菜売りは数品を携ず瓜茄子の類或いは小松菜等 一、二種を売りを云い、八百屋は数種を売るの名なり』とある。数種の前栽籠を担いで野菜を売る者を「前栽売り」、扱う品数が多くなると「八百屋」と呼び分けたようだ。

■青物(野菜)・・・ 『絵でみる江戸の食ごよみ』著者: 永山 久夫 より
「瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種類の野菜を売る者を八百屋という。京坂(京都・大坂)・江戸とも菜蔬(さいそ)を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋というと記している。
江戸が発展して人口が増え、大都市になると、料理を専門にする店はもちろん、一般家庭においても、野菜の需要は年ごとに増加。それらのほとんどは、江戸周辺の農村から供給されていました。 元禄十年(1696)の『農業全書』によって、野菜のごく一部をあげてみると。だいこん、かぶ、にんじん、ねぎ、にんにく、ごぼう、ほうれんそう、かぼちゃなどで。現在でも流通している主要野菜のほとんどは、すでに栽培され出回っていました。

江戸の町の野菜の流通は、店売りと担い売りとがあり、「守貞漫稿」によれば、「菜疏(さいそ)売り」として、「俗に三都(京・大坂・江戸)とも八百屋といい、やおやと訓む。また、江戸ではうり、なすなど一種を、もっぱら持ち歩くものを前栽(ぜんさい)売りという。京板(京・大坂)では、これも八百屋という。その服装(前栽売り)は定まりがなく、その籠は三都とも大同小異である」とあります。
さらに、「前栽売りは、数品をもたず、うり、なすのたぐい、あるいは小松菜など、一、二種を売るのをいう」。一方の八百屋については、「八百屋は数種類を売るところから、この名前になったものと思われる」としています。
「前栽売り」という呼ひ名は江戸だけのもので。三都ともに、野菜を「青物」とも呼びました。したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」で、青物見世とか八百屋という場合もあります。

江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて、売り出したようです。 一方で、近在の農家では、自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。
「前栽」には庭先で作ったものという意味があり。もともとは農家か手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって、野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。」

『守貞謾稿』(1853)と青物(江戸野菜)
『守貞謾稿』には、菜蔬(さいそ)、即ち食用になる植物を俗に「青物」と云い、これを扱う市が神田・本所・千住・品川等にあるという。神田・千住に、ここには記されていないが駒込を加えて三場所と言う。
千住・品川・駒込は、江戸への入口である。神田の青物市は江戸城御用を務めたが、江戸郊外からの流入を扱うという点では立地が劣っていた。青物は、船・歩行等で江戸の市へと運び込まれた。店を構えた八百屋以外に、天秤棒に架けた籠を用いて、瓜・茄子等、品数を限って市中で青物(江戸野菜)を販売する前菜売りがいた。

「三都ともに菜蔬(さいそ)を俗に青物と云、因之売之買を青物売とも云、菜蔬店青物見世(みせ)とも八百屋とも云・・・菜蔬も市をふること魚市に同じ、江戸も菜蔬は京坂と同く市を振る神田連雀町辺本所花街又千住駅品川駅にも菜蔬市あり」、「江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前栽(せんざい)売と云、京坂にては是をもやおやと云、其扮無定其籠も三都大同小異也・・・前栽売京坂有其業無此名也」

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