江戸時代の外食・醤油文化

長崎・出島と蘭学

江戸時代を通じて、わか国で学ばれた西欧語のうちで、いちぱん息が長かったのはオランダ語(蘭語)であり、慶長の初頭から幕末まで約250年もつづいた。このオランダ語を手段としてヨーロッパの学術や文化を研究することを「和蘭学」といいそれを略して、蘭学と称していた。
江戸時代の学問の一つに、オランダ語を通じて日本が受容した西洋の学問や技術と、それに対する研究である蘭学が存在した。それは、医学、天文学、本草、博物、植学、化学、地図、暦学などの自然科学を中心としている。はじめ、長崎のオランダ通詞によるオランダ語の学習が中心であった。その後、徳川吉宗のもと本草学の振興やオランダ文物の輸入が奨励され、御儒者・青木昆陽、御医師・野呂元丈は吉宗からオランダ語学習を命ぜられ、蘭学の機運が醸成されていた。
さらに、田沼意次が老中になると殖産興業政策を推し進めたこともその機運を助成した。日本最初の西洋医学書の翻訳書『解体新書』の出版(1774)を契機に、オランダ語医書の日本語翻訳は相次いで行われ、これが西洋医学の知識の普及に大きな力を示した。

長崎出島と蘭学
徳川幕府の鎖国時代において、日本との貿易を許されていたのは、オランダと清(中国)のみだった。
鎖国時代、日本唯一の自由貿易港だった出島は、寛永11年(1634)にポルトガル商人を隔離するために造られた縦70メートル、横220/190メートルの扇形で、面積が3969坪の人工島である。寛永16年(1639)の鎖国令により、カトリック系キリスト教のポルトガル人が出島から追放され、来航を禁止された。長崎出島では幕府が認めたオランダ商館のみが交易を続けた。長崎は幕府が直接に支配する直轄地である。
その後、約200年間、長崎の出島は唯一外国と日本が接する特別な土地となり、オランダはもとよりヨーロッパ各国のさまざまな新技術や知識を吸収する“新しい世界への窓”となった。



平戸オランダ商館は、1609年9月の開設から約32年後の1641年(寛永18)5月幕命によって長崎出島への移転を強いられる。この商館移転における幕府の主たる狙いは、当時、国是として進めていたキリスト教禁制の強化策であり、商館を平戸藩領内から幕府直轄の長崎に移して、居留するオランダ人を長崎奉行の直接監督下に置こうとしたものである。
オランダ商館の長崎移転によって、平戸商館時代のように日常的な日本人との自由な交流は一切禁止された。プロテスタント系のオランダ人は、目的は貿易だけであり、キリスト教布教には一切関わらない方針だった。こうして、長崎の出島はオランダ人の日本における唯一の商業基地になった。

長崎の出島に移転したオランダ商館は、幕末に至るまで幕府公認の日蘭貿易に従事した。幕府は日蘭交渉の実務に携わらせるために、長崎に配置されたオランダ通詞(通訳)の養成を開始し、オランダ人から直にオランダ語を学ばせた。享保五年(1720)、幕府のキリスト教関係以外の洋書輸入の解禁によって、オランダ語に翻訳された西洋の学術書は長崎出島のオランダ商館を通じて日本にもたらされ、“蘭学”として花開いた。


出島ではためく三色旗はオランダ国旗である

■長崎蘭学とは、江戸時代中期以降に、出島をとおしてもたらされた西洋の最新科学や文化を研究する学問のことをいう。
西洋諸国のなかでもオランダだけが通商を幕府より許されたため、西洋学術は、オランダ人または長崎のオランダ通詞(通訳)たちを介して、オランダの技術や知識の研究が始まり、1700年代には地理、科学など、さまざまな分野の蘭学書が翻訳された。出島は新しい実用の学問や技術を習得できる場所だった。
また、商館付きの医師たちは日本人医師に大きな影響を及ぼした。商館の医師の本来の職務は、商館員の健康管理にあり、館外に出て一般の日本人を診療したり、交遊することは禁じられていたが、それでもときには公に許可を得て日本人を診療したり、日本人医師たちの質問に答えたりしていた。これらの医師たちの中でもケンペル、ツュンベリー、シーボルトは「出島の三学者」として、滞在中は熱心に蘭学者を育成した。

当時オランダは「和蘭」または「阿蘭陀」と書かれたため、「蘭学」と呼ばれるようになった。
蘭学は、医学・数学・兵学・天文学・暦学などの諸分野にわたり、最新の知識が長崎から日本中に発信された。蘭学を通して生まれた合理的思考と人間平等思想は幕末の日本にも大きな影響を与えたと言われている。
そうしたなか、文政6年(1823)に日本の動植物を研究する目的で来日したフォン・シーボルトは、医学教育のための学校を開くことを許可され、長崎の郊外にある鳴滝(なるたき)に塾を開き、診療をしながら、後の蘭学者の高野長英や幕府洋学医の伊東玄朴など多くの門人たちに西洋医学や薬学、動植物学を講義し、日本の蘭学の発展に大いに貢献した。

こうして蘭書により西洋の学術を取り入れる機運が開けた。まず、最も実用に適する医学から導入が進む。それまでも、長崎の通詞でオランダ商館の医師から医学を学び開業する者はあったが、画期となったのは、体系的な西洋解剖学書の最初の翻訳であるオランダの人体解剖書である「ターヘル=アナトミア」を日本語に訳した『解体新書』の刊行である。その翻訳事業の中心となった前野良沢は、最初青木昆陽に学び、長崎に赴いて通詞からも蘭語習得に努め、多くの著書、訳書を残した。

一方、シーボルトの来日もこの時期の特筆すべきことである。彼は日本事情調査という任務を帯びて来たのであるが、それと表裏をなす多くの日本人への学術指導は蘭学の水準向上に貢献した。しかし、文政11年(1828)の帰国に際し、その所持品には多くの禁制品を含むことが発覚、シーボルト事件を引き起こした。日本滞在中にシーボルトは、幕府禁制であった伊能忠敬の日本地図や間宮林蔵の蝦夷南千島地図などの国外持ち出しを引き起こし、シーボルトは文政12年(1829)に国外追放となった。


阿蘭陀人食事之図 (長崎県立美術博物館所蔵)

■長崎のオランダ通詞
長崎奉行所の配下にあって、出島のオランダ人たちとの交渉にあたった「阿蘭陀通詞」と呼ばれる幕府役人は、世襲制による職業だったが、彼らは先輩通詞からオランダ語を学び、それを次世代の通詞に伝えていった。また、彼ら阿蘭陀通詞はオランダ語を次世代の通詞に教えただけではなく、全国から長崎に遊学した学徒たちにも教えた。当時の長崎は日本におけるオランダ語教育の中心地だったのである。阿蘭陀通詞は、鎖国下の日本にあって数少ない「外交官」兼「通商官」であったと同時に、すぐれた「学者」でもあった。

しかし、彼らの存在意義は基本的に「外交官」兼「通商官」としてのそれにあったとすることができる。すなわち、徳川幕府の利益あるいは日本の「国益」のためにオランダ人と外交や通商に関する折衝や通訳を行うことが彼らの任務だったのであり、その業務遂行の過程において学術的な業績をあげたとしても、それは結果に過ぎない。阿蘭陀通詞は基本的に外交上あるいは通商上の「国益」のために存在したのであり、また彼らを養成するためのオランダ語教育も、一義的には日本の「国益」のために実施されていたと言うことができる。

19世紀に入ると、日本を取り巻く国際環境の変化に伴い、オランダ語以外のヨーロッパ語も日本では必要とされるようになった。1808年2月に徳川幕府は阿蘭陀通詞6名にフランス語学習を命じている。教師は阿蘭陀商館長のヘンドリック・ドゥーフが務めた。また、英国船のフェートン号が長崎港に侵入した事件を契機として、1809年10月に幕府は阿蘭陀通詞たちに英語学習も命じた。教師は阿蘭陀商館の次席館員が務めた。さらに同年中には、大黒屋光太夫を教師としてロシア語の教育も開始している。

■蘭学の発展
長崎のオランダ通詞を通しての語学の学習から、蘭学塾による蘭書の学習に進み、多くの蘭学者が海外知識の導入と普及に功績を残した。蘭学はしだいに地方にも普及した。なお、江戸時代の学問のあり方を反映して、儒学等と同様、蘭学も家の学として代々継承されることが多かった。杉田家、桂川家、宇田川家などはその代表的な例である。
オランダ語辞書の編纂も行われた。ハルマの蘭仏辞典をもとにした、稲村三伯の『波留麻和解』、ドゥーフの『ヅーフハルマ』、その改訂版『和蘭字彙』などが名高い。文法書の輸入、入門書の編纂も盛んであった。19世紀になると、ロシア船、英国船がしばしば日本近海に来航し、北辺ではロシア人と日本官憲が衝突する事件も起こった。これによりロシア事情、海外地理、軍事学への関心が高まり、蘭学は実学としての性格が濃くなった。幕府も高橋景保の首唱により、公的な翻訳機関として文化8年(1811)「蛮(蕃)書和解御用」を設立、馬場佐十郎、大槻玄沢、青地林宗らがここに出仕し、ショメールの日用百科事典による『厚生新編(こうせいしんぺん)』の翻訳事業等が行われた。

『厚生新編』とは、ショメールの家庭百科事典のオランダ語訳を、大槻玄沢らの蘭学者が、江戸幕府の命で文化8年から四半世紀以上を費やして訳したもので、天文地学・鉱物・植物・動物・医学など幅広く書かれており、当時の西洋事情、文化を研究する上できわめて貴重な史料である。

■洋書の輸入
鎖国制度が続いた江戸時代、漢訳洋書の輸入は禁止されていたが、江戸中期、天文に興味を持ち、改暦を考えていた八代将軍徳川吉宗(1684-1751)によって、キリスト教以外の洋書の輸入を緩和する命令が出された (享保五年(1720)、禁書令の緩和)。西洋天文暦書の輸入の解禁に始まり、洋書の輸入は徐々に広げられた。当時、横文字を満足に読める者が少なかったため、漢訳された洋書を輸入することになった。徳川吉宗が輸入を一部緩和して許可した漢文に翻訳されたヨーロッパの書物は、その後の学問の発展にもつながったと考えられている。また、この時代、吉宗の命で青木昆陽や野呂元丈が、蘭語(オランダ語)の習得にあたった。このあと、青木昆陽に学んだ蘭学者たちの努力により西欧医学をはじめとする学問・知識の輸入が急速に進むことになった。

江戸時代にどのくらいの数のオランダ書(蘭書)が輸入されたものか。その正確な冊数は明らかではないが、文化・文政・天保年間(1804~43)から幕末期(1868)にかけて輸入されたのは数千冊、おそらく1万冊は超えるのではないかという。洋書は、自然科学系のものが大半を占めており、それらは幕府高官の注文に応じたものか、あるいは通詞たちのために輸入したものであるという。
蘭学は文化から天保(1804~1843)にかけて社会に広まって行き、文化五年(1808)には蘭学奨励の諭達(おふれ)が出るまでになり、それにともなって洋書の輸入もふえて行った。嘉永三年(1850)九月、輸入されたオランダ書籍はすべてその書名を長崎奉行に届け出、その許可を得たものだけが販売を許された。安政六年(1859)七月、神奈川・長崎・箱館が開港され、貿易が始まると、各運上所において検閲をうけ、許可を得たものが市中に出回った。

■以下は、『国立国会図書館 電子情報部情報流通係』より引用
『江戸時代の学問の一つに、オランダ語を通じて日本が受容した西洋の学問や技術と、それに対する研究である蘭学が存在した。それは、医学、天文学、本草、博物、植学、化学、地図、暦学などの自然科学を中心としている。はじめ、長崎のオランダ通詞によるオランダ語の学習が中心であった。

その後、徳川吉宗のもと本草学の振興やオランダ文物の輸入が奨励され、青木昆陽、野呂元丈は吉宗からオランダ語学習を命ぜられ、蘭学の機運が醸成されていた。さらに、田沼意次が老中になると殖産興業政策を推し進めたこともその機運を助成した。福知山藩主朽木昌綱や、薩摩藩主島津重豪といったオランダ好みである「蘭癖」の大名も現れている。
蘭学興隆の大きな画期は、安永3年(1774)の『解体新書』の翻訳刊行にみられる、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らの西洋医学の導入であるといえる。江戸時代は家によって学問が受け継がれており、蘭学もその例にもれず、優秀な弟子によって伝えられた』



「また、大槻玄沢の私塾である芝蘭堂ではオランダ語教育が行われ、寛政8年(1796)に玄沢の弟子の稲村三伯が日本で最初の蘭和辞書である『波留麻和解』(「江戸ハルマ」)を刊行するなど、蘭学の興隆が見られた。 19世紀になると、世界情勢の変動が日本にも波及し、フェートン号事件(1808年)をきっかけに、長崎の通詞たちの間ではオランダ語のみならず英語の学習も始められ、のちに日本人がオランダ語学習から英語学習に転換していく先駆けをなした」

「江戸時代後期の日本において西洋兵学の受容が始まったのは、ロシア人の択捉攻撃(1797)やイギリス軍艦フェートン号の長崎不法侵入(1808)などを契機として、東アジアにみなぎる不穏な情勢に日本人が危機感を抱いたからである。すなわち、北からロシア、南からイギリス、そして東からアメリカが日本への脅威として迫ってくるなかで、幕閣や諸大名、各地の武士たちは、それら列強と同等の力を持っていると当時考えられていたオランダから、海軍、陸軍、砲術や築城といった分野での専門知識を導入し、それによって欧米諸列強の侵略に対抗しようとしたのであった」

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