江戸時代の外食・醤油文化


江戸時代の古銭(大きさの比較)
金貨「慶長 壱両小判(レプリカ)、万延 壱両小判(レプリカ)、 二分金(万延・明治期混在)、 二朱金(万延期)」
銀貨「一分銀(天保期・安政期混在)、 一朱銀(安政・嘉永・明治期混在)」
銭貨「百文銭(天保通寳、天保・弘化期混在)、 四文銭(明和・安政期混在)、 一文銭(寛文・寛保期混在)」

江戸時代の貨幣制度

■江戸時代の貨幣は、金・銀・銭の「三貨制度」
江戸時代の貨幣には、金貨、銀貨、銭貨の3種からなる制度を「三貨制度」という。金貨は計数貨幣で、銀貨は目方を計って使用する秤量(ひょうりょう)貨幣であるが、後には定額の銀貨や金単位をもつ計数銀貨も発行された。徳川幕府は、鋳貨制度を制定し、金座、銀座、大判座、銭座において、それぞれ貨幣を鋳造させて全国通用の貨幣制度「三貨制度」を確立させた。

江戸時代には、活発な経済活動が行われることで様々な貨幣が登場した。江戸時代の貨幣は、「小判」や「一分金(いちぶきん)」といった金貨、「丁銀(ちょうぎん)」「豆板銀(まめいたぎん)」などの銀貨および一文銭などの銭貨(銅銭)という3種類の金属貨幣が並行流通(三貨制度)していた。江戸全期を通じて発行されたすべての金貨は、ひとつの例外もなく銀を雑分とす る金貨だ ったのである 。小判 ・一分判金等のすべてのものは金と銀の合金材を原料とする金貨であった。
金貨は小判1枚を1両で数える「計数貨幣」、銀貨は重さの単位である匁(1匁=3.75g)で表す「秤量貨幣」、銭貨は「寛永通宝1個を1文で数える「計数貨幣」である。(金貨と銭貨は1枚の額面が決まる「計数貨幣」ですが、銀貨は額面や重さは決まっておらず、取引のたびに秤で計量する「秤量貨幣」だった)

■三貨の交換相場
三貨制度下では銀は秤量貨幣として貨幣に含まれる銀の重さをもとに各貨幣間の交換比率が定められていた。
幕府が慶長14(1609)年に定めた公定相場は「金1両=銀50匁= 永1貫文=銭4貫文(4000文)」であった。元禄13年(1700年)の公定相場は「金1両=60匁=銭4貫文(4000文)」である。
額面価格と貨幣の枚数で価値が決まるものを「計数貨幣」、重さで価値が決まるものを「秤量貨幣」という。

○慶長年間(1603~15年):金一両 = 銀50匁 = 銭4貫文(4000文)、慶長小判(金86.28%、銀13.20%、金4.3匁)の通用期間:1601年~1695年(寛永6年~元禄8年)

○明和年間(1764~72年):金一両 = 銀60匁 = 銭5貫文(5000文)、元文小判(金65.31%、銀34.41%、金2.3匁)の通用期間:1736年~1827年(元文元年~文政10年)

○慶応年間(1865~68年):金一両 = 銀150匁 = 銭10貫文、万延小判(金57.25%、銀42.35%、金0.5匁)の通用期間:1860年~1874年(万延元年~明治7年)

●金貨(計数貨幣)…1両=4分=16朱
●銀貨(秤量貨幣)…1匁=10分、1000匁=1貫(貫目、貫匁) ※秤量貨幣(丁銀・豆板銀の切銀)の単位「匁」は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)
●銭貨(計数貨幣)…1000文=1貫文

 

金貨は4進法と10進法の組み合わせ、銀貨と銭は10進法というように三貨そえぞれの数え方が異なっていた。
金貨は、小判1両を基準にそれ以下の単位は4進法で決められた計数貨幣(両・分・朱の4進法で1両=4分=16朱、両は10進法)であり、銭貨は1枚が1文と決められた計数貨幣(10進法で単位は「貫文」、1000文が一貫文)である。

 
一貫文(一文銭を1000枚をさしに通して束ねたもの)1貫=1000匁=3.75kg

銀貨銀塊は重量を貫匁で計る秤量貨幣として流通したため、単位は重さを表す「貫・匁」(1貫=1000匁=1万分=10万厘)である。しかし、銀貨は江戸時代中期以降には、一分銀、一朱銀といった金貨体系の単位の額面をもった計数銀貨が多く発行された。

江戸時代、貨幣の種類

■江戸時代の貨幣の種類
貨幣
  大判〔10両〕:慶長,明暦,元禄,享保,天保,万延
  5両判〔5両〕:天保
  小判(1両、基準貨幣):慶長,元禄,宝永,正徳,享保,元文,文政,天保,安政,万延
  2分金:文政,安政,万延
  1分金:慶長,元禄,宝永,正徳,享保,元文,文政,天保,安政,万延
  2朱金:元禄,天保,万延
  1朱金:文政

貨幣
  1分銀:天保,安政
  2朱銀:安永南鐐,文政南鐐,安政
  1朱銀:文政,嘉永
  5匁銀:明和
  豆板銀、丁銀(秤量貨幣)
※:豆板銀は形状から俗に小粒(こつぶ)銀,小玉(こだま)銀,露銀(つゆがね)とも言われ、一個が1~10匁(1匁=3.75グラム)ぐらいである。

貨幣
  100文銭:天保通宝
  4文銭:文久永宝,寛永通宝
  1文銭:慶長通宝,元和通宝,寛永通宝
※:寛永通宝のうち4文銭に真鍮銭、鉄銭、1文銭に鉄銭がある以外、銭貨はすべて銅銭である。

■江戸時代1603-1867年 江戸庶民・商人・下級武士が使用した貨幣
江戸庶民の財布(巾着・道中財布)に入っていたのは豆板銀(小粒銀)、一文銭、四文銭、天保通宝(百文銭)などが多かったが、一朱銀、二朱銀の取引にも慣れていた。豆板銀は携帯に便利で持ち運びしやすく、銀秤により随時秤量しての支払いが可能なため、両替屋で銭に替えて使用するなど、重宝されていた。小さな1匁の豆板銀でも70~80文に相当する。
長屋暮らしの庶民たちは、一分金などの金貨や金の小判なんか見たこともないのが普通であって、富くじ(宝くじ)や賭け事でまれに小判が手に入っても、かさんだ借金の返済ですぐ無くなったので、「これ小判たった一晩居てくれろ」という川柳があるほど、庶民は小判にはめったにお目にかからなかった。

一般の小売、米・味噌・油など、その時々に売り買いの日常品を商人から買う場合は、銭貨(銅銭)が主として用いられた。銭貨は1枚が1文というのが基本単位で、10進法で計算した。食べ物屋では高額貨幣の金貨が使用できないため「文銭勘定以外の販売はいたしません」と店内に注意書きを貼ってあった。


一文銭(文銭)、1626-1869年


四文銭、1768-1869年

銭貨は寛永通宝の一文銭(銅)があり、明和期以降は四文銭(真鍮)が定着した。銭貨は江戸・上方問わず全国共通だった。
四文銭は同じ時期につくられた計数銀貨とともに、盛んな商品流通を支えた。四文銭の発行がきっかけで「四文屋(しもんや)」の屋台が流行った。「なんでも四文屋」と称して、菓子やおでん、煮魚などを四文均一で売っていた。


百文銭、1835-1869年

幕末には天保通宝という百文銭が流通の主流を占めるようになった。天保通宝は小判に似た楕円形で、表には「天保通宝」、裏上部に「当百」、裏下部は後藤家の花押がある。
当時は一文銭96枚を束ねて百文として通用している。96という数は2、3、4の各数で割り切ることができて便利なので普及した。この慣行を「九六銭(くろくせん)」、「九六百(くろくひゃく)」と称した。一文銭を100枚を束ねたものは「丁銭](百文勘定)といった。


九六銭(銭差し百文)、1670年?~


■主な金貨幣

一両小判


安政二分判金(2000文):1856~1867年
1818~1842年(文政二分判金)、1860~1868年(万延二分判金)
小判につぐ高額金貨(貨幣)として商人の支払い用として、江戸の町には欠かすことのできない存在であった貨幣。この角型金貨の製造は小判の製造を一手に引き受けてきた後藤家(金座)により管理された。


天保二朱金(500文)
1832-1866年、他に元禄二朱判金1697-1710年、万延二朱判金1860-1869年があった。
金貨の「分」の1/4の価値である「朱」に関しては、通貨としてはあまり多く流通せず、「一朱金」「二朱金」は作られたが、「両」と「分」でだいたいまかなえたようである。

■主な銀貨幣
天保八年(1837年)から金地金不足を理由に一分銀(天保一分銀)が多量に発行された。
嘉永六年(1853年)には、一朱銀(嘉永一朱銀)が発行されるにいたって、江戸時代後期は銀貨の計数貨幣化が進行し、一方で丁銀の流通は衰退し銀建取引は藩札および手形で代用されるなど名目化した。


安政一分銀(1000文):1859年~
1837 - 1854年(天保一分銀)、1859 - 1868年(安政一分銀)


嘉永一朱銀(250文):1853年~
1829(文政南鐐一朱銀) - 1869年(安政一朱銀・嘉永一朱銀)

秤量貨幣の銀貨としては「丁銀」と「豆板銀」があり、わらじ型の「丁銀」は四十三匁とされ、正しい重さの「丁銀」一枚に「豆板銀」十七匁を加えて金一両(元禄期)と交換された。豆板銀は、量目は1個1~10匁くらいであり、江戸時代を通じて流通した銀貨の一種である。


文政丁銀1820-1837年…秤量貨幣
1601-1695年(慶長丁銀) から 1859-1868年(安政丁銀) ・・・ 作られた丁銀は11種類(慶長・元禄・宝永・正徳・元文・文政・天保・安政)。
最初に作られた慶長丁銀と最後に作られた安政丁銀とを比べると、同じ重さの銀貨に含まれている銀の量は約6分の1に減った。

豆板銀は、高額の丁銀に対する補助的な少額貨幣として用いられた。豆板銀は、小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれ、当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」である。(1匁=3.75グラム)

豆板銀…秤量貨幣、1601-1868年

■貨幣の通用は混在
金貨は、一両の「小判」のほかに、2枚で一両の「二分金」、4枚で一両の「一分金」、8枚で一両の「二朱金」、16枚で一両の「一朱金」があった。
銀貨は、12枚で金貨一両と等価とされる「五匁銀」、4個で一両の「一分銀」、8個で一両の「二朱銀」、16個で一両の「一朱銀」があり、額面の表記で使われた。
また、「切餅」(包金銀)と呼ばれた一分銀100枚(壱分銀弐拾五両=小判25両相当)を所定の紙を用いて包み封印されたものがあった。「切餅」は幕府への上納や公用取引のために用いられた。

[包金銀]
『一定額の金・銀貨を和紙で包装し、額面や包装者の署名・封印を施した形態を包金銀と言う。包封は金座・銀座で行われたほか、三都の両替商が同様の包封を行って一般に流通させる場合もあった。秤量貨幣である銀貨を包封する場合、取引毎に貨幣の重さを量る手間が省けるという意義があるが、計数貨幣である金貨にはそのような意義はなかった。』・・・「近世・近代日本貨幣史の基礎的研究」(小林延人,2015)

また、秤量貨幣の銀貨としては「丁銀」と「豆板銀」があり、わらじ型の「丁銀」は四十三匁とされ、正しい重さの「丁銀」1枚に「豆板銀」十七匁を加えて金一両(元禄期)と交換された。
豆板銀は、量目は1個1~10匁くらいであり、江戸時代を通じて流通した銀貨の一種である。豆板銀は、高額の丁銀に対する補助的な少額貨幣として用いられた。
豆板銀は、小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれ、当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」である。(1匁=3.75グラム)

しかし、天保8年(1837年)から金地金不足を理由に「一分銀」が多量に発行された。
嘉永6年(1853年)には、「一朱銀」が発行されるにいたって、江戸時代後期は銀貨の計数貨幣化が進行し、一方で丁銀の流通は衰退し銀建て取引は藩札および手形で代用されるなど名目化した。

■地域によって使われる貨幣に違いがあった
江戸では金が本位貨幣として用いられたのに対して、大坂では銀が本位貨幣として流通した。江戸時代の貨幣制度は、主に金貨・銀貨・銭貨(銅・鉄)の三種の金属貨幣「三貨制度」から成り立っていた。江戸時代の貨幣流通は複雑である。江戸では金貨が、上方(かみがた)では銀が中心に流通していた。これを「関東の金遣い、関西の銀遣い」という。

江戸を中心とした東日本(陸中から関東を経て尾張までの範囲)では「金」が主として使われ、大坂(大阪)を中心とした西日本(陸奥から日本海側の羽後、越前を経て関西以西の全ての範囲)では「銀」が主として使われていた。これは東日本には佐渡金山などの金の産地が比較的多く、西日本では石見銀山などの銀の産地が比較的多かったことによる。
また、西日本では昔からの貿易で、中国やスペインから入ってきた銀貨の影響もあった。三貨制度で使用された貨幣は、上級武士や豪商が使った金貨、商人や中級武士(※1)と庶民は銀貨、庶民や商人と下級武士(※2)・農民は銭貨を主に使っていたとされる。

(※1):禄高は200石から50石(1石は米35俵)、収入は約80両から約20両、 邸宅は建坪43坪から30坪。
(※2):禄高30石で約12両、給金支給の最下層武士は一年で三両一分。
(参考):大店の奉公人の給金が年3両(手代)、5両(番頭)、2両2分(下女)。江戸職人の上大工で年収が3両。日雇い人夫で年1両に満たない。

江戸時代の両替商

■江戸時代の両替商
両替とは「両」つまり主に東日本で使われた計数貨幣である「金」を、西日本で使われていた秤量貨幣である「銀」、もしくは小額の計数貨幣である「銭」と替えるという言葉からきている。 (「両替」の名称は、『両』(金貨)を他の貨幣に『替える』に由来する)



両替商は、徳川幕府が定めた金・銀・銭貨が基本貨幣として通用する三貨制度のなかで発生した。三貨制度が確立することになり、「東国の金遣い、西国の銀遣い」と称されるように、江戸は金貨を本位とした金建て・金遣い、これに対して上方は、銀貨を本位とする銀建て・銀遣いであった。このように、地域ごとに金銀貨の流通範囲が異なっていたほか、金銀貨という高額貨幣と小額貨幣である銭貨との価値の乖離が著しかったため、3貨間の交換業務が必要欠くべからざるものとなっていた。この金・銀・銭貨の交換や鑑定を業として行っていた商人を一般に両替商という。
江戸時代の通貨三種類(金、銀、銅)は、それぞれ独立しており、小判、銀貨、銭貨の換算が一定ではなく、常にいろいろの要素で変動していた。これらの取引を円滑に行うためには通貨間の両替が必要となる。そこで1-2%程度の手数料を徴収して両替を行う商売が成立し、金貨・銀貨・銅貨の間を両替商が取り持ち、江戸時代の三貨制度は成り立った。

政治の中心地江戸では金貨が使用されたが、両替商が君臨する商業中心の大坂は銀貨が使用された。
江戸では金が本位貨幣として用いられたのに対して、大坂では銀が本位貨幣として流通した。金・銀・銭の交換比価が一定せず、関東と上方で本位貨幣が異なっていたことは、貨幣の交換を専業とする両替商を発展させた。両替商は金銀銭貨の両替のほか、商人や大名などを主たる取引相手として、預金の受け入れ、手形の発行・決済、金銭の貸し付け、為替の取り組み・決済という金融業務を営んでいた。


江戸時代の両替商の代表格は、大坂の『鴻池屋(鴻池家)』と江戸の『越後屋(三井家)』である。

金・銀・銅の他に「米」もまた通貨としての役割を果たしてきた。武士の年棒は「何万石」などといって米の量(出来高)で決められていた。そして、大名は「蔵」に米などを保管して、貨幣が必要になると換金して使っていた。江戸時代は大坂が「天下の台所」として、日本の経済の中心地であった。大名は自国で得た米を「米市場」がある大阪で「銀」に換金し、その銀を必要に応じて金に交換していた。そのため、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、多くの「両替屋」が存在していた。

三貨制度で使用された貨幣は、上級武士や豪商が使った「金貨」、商人や中級武士と庶民は「銀貨」、庶民や商人と下級武士・農民は「銭貨」を主に使っていたとされる。両替商には、「本両替」と「銭両替」があり、本両替は金と銀だけを、銭両替は銭と銀の両替に従事していた。

本両替は、武家や大手商人・中小問屋商人で預金・貸出および為替の取り扱いを行い、その上位の両替商は各藩のために蔵元、掛屋の業務をなし、幕府の御用達をつとめた。一般庶民の町人や職人を対象とした銀貨と銭貨との両替は、銭屋(銭両替)と呼ぱれる中小・零細の両替商や庶民と密接に繋がっていた米屋、酒屋や質屋などが副業として兼営していた。

江戸年間、貨幣の改鋳

■江戸年間の貨幣の種類と改鋳の歴史
江戸時代には、金貨や銀貨の重量や金、銀の含有量を変更する貨幣の 「改鋳」が数次にわたって行われ、金座などの貨幣鋳造機関や、両替商など商人を主体とする機関が、幕府部門と民間部門との仲立ちとなって新旧貨幣の交換業務に携わった。
(金座とは、江戸時代に金貨の鋳造ならびに発行を幕府から請け負った機関で、金座は町人の集団で、金貨の鋳造・発行だけでなく、鉱山で採掘した金や古い金貨の鑑定、金の精錬、金貨の補修など、江戸幕府の金貨に関わる ほとんどの事項を所管しており、時には貨幣の品位や発行数量などを変更する「改鋳」に際して幕府に対して意見を述べるなど、大きな影響力を持っていた)



江戸時代には、金貨や銀貨の重量や金、銀の含有量を変更する貨幣の「改鋳」が最初に制定された慶長小判から幕末の万延小判に至るまで、計8回おこなわれている貨幣改鋳は基本的には徳川政権の政治体制であった幕藩体制を経済的に支える米の価格を調整することを目的としたものと考えられる。


(1)元禄(1688~1704)・宝永(1704~1711)の改鋳
90年余り続いた慶長の制度が1695(元禄8)年に改められた。幕府始まって以来の金銀貨の改鋳が行われ(元禄の改鋳)、続いて1706~1711(宝永3~8)年にも改鋳が行われた(宝永の改鋳)。
それは貨幣流通量の増大や幕府財政の立て直しを図るためであったが、慶長の金銀貨に比べ金銀の品位・量目を下げた改鋳であった。この改鋳により幕府は多額の差益(出目)を得たが、貨幣量の膨張によって物価の上昇をもたらした。この元禄・宝永年間の改鋳は、貨幣の改悪として悪名が高い。1700(元禄13)年に公定相場が金1両=銀60匁=銭4貫文に改訂された。
改鋳の真の目的は、質の良い慶長の金銀貨を回収し、悪質なものに改鋳することで金銀が稼げる。幕府は、その差益(出目)の獲得を狙ったという解釈である。慶長小判の金品位86%を56%に落とし、慶長丁銀の銀品位80%を64%に落としたのだから、その差益(出目)は大きく、全体で500万両に及んだと試算されている。
しかし主な目的は、貨幣流通量の拡大にあったとみるべきであり、これらの改鋳後、慶長への復古策をとった新井白石は、慶長の制度による金銀貨が、いかに大量に海外へ流出したかを数字をあげて示している。それによると、1601(慶長6)年から1708(宝永5)年までの約100年間に、金貨は368万両余り、銀貨は90万貫ほどが流出し、この額はそれぞれ金貨鋳造量の4分の1、銀貨鋳造量の4分の3に当たるという。

(2)正徳(1711~1716)・享保(1716~1736)の改鋳
幕府は、元禄・宝永の改鋳による物価上昇に対し、新井白石の提言により1714(正徳4)年、慶長金銀と同品位に引き上げる改鋳を実施した(正徳の改鋳)。
この結果、貨幣量が急激に減少し、経済活動の停滞と物価下落をもたらした。幕府は、正徳の改鋳の翌1715(正徳5)年、小判の品位をさらに引き上げた(享保小判)。この正徳・享保の改鋳は、江戸時代を通じ、金銀の品位を上げた唯一の改鋳であったが、貨幣の品位を上げて慶長金銀に戻すという異例のものであった。
新井白石は「金銀の如き天地から生まれた大宝を人工を加えて質を落とすことは天地の理にもとるものである」、「単なる経済上の計算に基づくものではなく天下の主たるものが発行する貨幣が粗悪なものであってはならない。悪質なものを出せば天譴をうけて天災地変を生ずるおそれががある。民の信頼を失わなければ天下を治めることができる」と述べ、本来品位である慶長金銀への回帰理由としている。
宝永金2両を新金1両と引替えるというデノミネーション的性格もあったが、戦国時代に最盛期を迎えた金銀の産出量は、寛永年間を過ぎたあたりから減少を始め、元禄期にはすっかり低迷していた。加えて多額に上る生糸貿易を中心とする金銀の流出によって絶対的不足を来たし、通貨量が減少、次第にデフレ不況に陥ることになった。

(3)元文(1736~1741)の改鋳
幕府は、正徳・享保の改鋳による米価の下落に対処し、金銀貨の流通量を増やすため、1736(元文元)年、金銀貨の品位を引き下げた(元文の改鋳)。
この改鋳により、経済情勢は好転し、元文小判は、その後、約80年にわたり安定的に流通した。元文の改鋳は、良質な正徳金銀から品位を下げたものであったが、財政収入を目的としたものではなく、社会の困窮を救う目的で行われた。元文期には、短期間に大量に銭貨がつくられた。1739(元文4)年からは寛永通宝の鉄銭がつくられ、その後、鉄銭が中心になっていった。鋳銭量を統制するため、18世紀半ば以降、銭貨は原則幕府支配下の鋳銭定座でつくられた。

(4)定量銀貨・計数銀貨の登場
幕府は1765(明和2)年、公定相場(金1両=銀60匁)で金貨と交換させる定量の銀貨単位の計数貨幣「明和五匁銀」、1772(明和9)年には金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」をそれぞれ発行した。
当初、明和五匁銀12枚(60匁)=金1両に限定しようとしたが、それまで金銀相場の実際の変動で利益を得ていた両替商が強く反発した。明和南鐐二朱銀は、表面に「8枚で小判1両に換える」とい文言があり、金貨の補助貨幣となった。幕府が両替商などに利益が出るよう便宜を図ったことに加え、取扱いが秤量貨幣に比べて便利なことから流通するようになった。このように幕府の両替商への積極的な貸付など流通促進策もあって、「計数銀貨」は全国的に流通するようになった。銭貨については、1768(明和5)年、真鍮製で裏面に波紋がある「寛永通宝四文銭」が作られた。

(5)文政(1818~1830)・天保(1830~1844)の改鋳
幕府は、財政窮乏を補うために文政の改鋳、天保の改鋳を実施したが、物価の上昇を招いた。また、財政補填のため、「天保通宝百文銭」天保五両判が発行された。天保通宝百文銭(1835「天保6」年)は、寛永通宝一文銭5文半程度の原料で100文通用とされ、大量に発行されたことにより、慢性的な物価高騰を招いた。天保五両判(1837「天保8」年)は、純金量が天保小判の4枚半分しかなかったため、評判が悪く短期間で製造が中止された。

(6)嘉永(1848~1854)・安政(1854~1860)の改鋳
1858(安政5)年、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス5ヵ国との間に不平等条約として知られる修好通商条約を結び、同じ種類の貨幣は品位に関係なく同じ重さで通用することが定められた(「同種同量の原則」)。
1859(安政6)年、開港による金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日、天保一分銀より純銀量が多い「安政二朱銀」を発行し、洋銀1㌦=二朱銀2枚で交換させようとした。しかし、アメリカの反対によって、洋銀1㌦=一分銀3枚となった。洋銀は、貿易で使われた外国の銀貨で、日本には主にメキシコ銀貨が入ってきた。日米和親条約(1854年)の下で、洋銀1㌦=一分銀1枚と定められた。その後、アメリカ初代駐日総領事ハリスが「同種同量の原則」を主張し、洋銀1㌦=一分銀3枚となった。

(7)金貨の大量流出と万延(1860~1861)の改鋳
当時の金銀の価格は、日本が金1㌘≒銀5㌘、外国では金1㌘≒銀15㌘で、日本では金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出した。1860年、万延の改鋳で純金量を3分の1に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出は収束した。
金貨流出の対応策として1860(万延元)年発行された万延「二分金」は、幕府財政の補填のため大量に発行され、国内で急激なインフレをもたらした。それに加えて「銭貨(銅銭)」の海外への流出もあった。開港後の銅「一文銭」(銅1文銭大量流出:累計鋳造額253万貫文に対し、幕末期在高は63万貫文)と真鍮「四文銭」(真鍮銭四文銭には銅が7割前後含まれていたので190万貫文が流出)の「銭貨」が海外に流出したため、小額銭貨不足がさらに深刻化し、それまで真鍮製のみであった四文銭について、同年、寛永通宝「鉄製 四文銭」が大量(額面高で40万貫文)に発行された。幕府は精鉄四文銭であると強調したが、市場での受容拒絶反応などもあって普及しなかった。そのため1863(文久3)年、四文銭を銅銭に戻すことにしたが、産出量の絶対的不足から生じた銅地金の高騰などで量目を減じた真鍮「文久永宝 四文銭」を発行することになった。
(銭貨の寛永通宝一文銭・四文銭の海外流出量は、論文「徳川時代の銭貨在高/松山大学名誉教授・岩橋勝」から抜粋した)




開国と幕末日本金貨の流出

江戸時代末期、日本の鎖国体制が崩れ、欧米列強との貿易が始まり、その中で、当時の日本の主要通貨の一つであった金貨が、海外へ大量に流出していった。この金貨流出の原因は、一般に、日本国内と国外との「金銀比価の差」であると説明されている。
安政5年6月19日(1858年7月29日)の日米修好条約交渉では、外国通貨との交換比率は「同種同量」の原則(自国金貨と相手金貨の同量交換、銀貨と相手銀貨の同量交換)に基づくと合意された。国際的に当時は金も銀もそれぞれに本位貨幣であり、アジアの貿易取引に使われているのは銀貨で、銀貨の交換比率を基準にした「銀本位制度」である。

ところが、日本においては、「金本位制度」であった。日本では銀貨が計数貨幣として発行されるようになった後は、金を本位貨幣とする通貨制度で、一分銀は国内市場の素材価値でみても約二倍で通用する実質的な「補助貨幣」で、補助貨幣の銀貨に、この原則(「同種同量」の原則)の適用は不合理であった。これが、内外金銀比価格差から生ずる洋銀(メキシコドル Mexican Dollar)流入・金貨流出の原因となった。日本ではメキシコ・ドルを一般に「洋銀」と呼んだ。また、墨銀、ドル銀、ドルラルとも称された。この幕末の金貨流出額については、「通説100万両」とも言われたが、近年の研究では、少なくて「10数万両台」、多くても「50万両」といわれている。



【当時の貿易通貨は、1535年いらい世界第一の銀産出国であるメキシコで鋳造されたメキシコドルであった。日本人はこれを洋銀と呼んでいた。
洋銀(メキシコドル)は南北アメリカ両大陸はもとよりフィリピン(スペイン)、海峡植民地(イギリス)、フランス領インドシナ、中国などアジア各地に流入し、貿易通貨として使用された。洋銀は16世紀いらい数世紀の長期間にわたり、メキシコドルの品位・量目が長期にわたって安定していたことから国際通貨の役割を果たした。】


■幕末日本の金貨が流出した仕組み
○ 1858年7月29日、日米修好通商条約が結ばれた。同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだので「安政五ヶ国条約」とも言われている。
『通商条約には「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」「双方の国人互に物価を償ふに日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし」「日本人外国の貨幣に慣ざれば開港の後凡一箇年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜米利加人願次第引換渡すべし」(以上は日米修好通商条約第5条)との諸規定があり、また金貨・銀貨の輸出も認められていた。そこで運上所(税関)ではハリスとの下田以来の交渉に基づき、外国人が持ち込む洋銀(メキシコ銀)1枚につき一分銀3枚の比率で両替に応じた。ところがこれは市場での実勢(洋銀1枚に対し一分銀2枚)に比べ洋銀を持ち込む側に有利な比率であったので、外国商人のみならず外国の官吏や軍艦の乗組員までもが大量の洋銀を運上所に持ち込み、交換差益を得た。』・・・「横浜開港150年の歴史(平成19年)」より引用。

この当時、世界の金銀交換比率は1:12が一般的であった。一方日本の交換レートは1:4であった。日本では銀の価値を、国際相場より3倍も高く見積もっていた。下田米国領事タウンゼント・ハリスは、互いの金銀貨同士を地金価値で評価するよう要求し、その結果1ドル銀貨1枚=1分銀3枚となり、1ドル銀貨4枚で一分銀12枚と定められた。
当時の幕府の定めた交換レートは、金1両(天保小判)=銀4分(一分銀4枚)だったので、1ドル銀貨4枚=金3両(天保小判 3枚)となった。外国商人たちは、貿易決済手段としてアジアで広く流通していたメキシコ・ドル銀貨(洋銀)を日本に持ち込み、金貨に替えて海外に持ち出し、上海などで再び洋銀に替えるとおよそ3倍の洋銀を手にすることが可能であった。つまり、貿易そのものよりも為替による多額の利益が得られる仕組みがあった。これを繰り返せば、もうけは莫大となるために日本の金貨が大量に流出した。




○幕末の金流出(NICHIGIN 2009 NO.18,東京大学 武田晴人)
『1858年に日本初の通商条約「安政の五力国条約」が締結されて・・・同条約とそれに基づく翌年の開港により、海外の銀貨と引き替えに大量の金貨が流出 ・・・ アメリカが主張するやり方を強引に押し付けられたことが、巨額の金貨流出を招き、幕末の経済的な混乱を激しいものにしました。
開港時の条約交渉では、外国通貨との交換比率は「同種同量」の原則に基づくことが最終的に合意されました。当初の和親条約では(※1)洋銀1ドルは一分銀と等価とされていました。当時国際市場において洋銀1ドルで買える金の重量は、小判一両に含まれる金の約1/4で(一両=4ドル)、しかも江戸幕府の通貨制度からいうと一両は一分銀4枚と等価でしたから、これは理に適った取り決めでした。
ところが、ハリスは、国際市場では一分銀に含まれる銀素材の価値が1/3ドル分しかないことを基準にして銀貨同士の交換比率を決めるように改めることを主張しました。金に換算するのでなく、あくまでも含まれる銀を基準にしようというのが同種同量の意味です。銀貨では含有量と貨幣重量がほとんど変わりませんから、実際には洋銀1ドル貨と一分銀との交換数量が決まっていきます。
こうした基準が採られた理由は、これ以外に通貨価値の標準を求めようがなかったからです。しかし、これは本位貨幣にだけ適用されるものです。国際的には当時は金も銀もそれぞれに本位貨幣で、アジアの貿易取引に使われているのは銀貨でしたから(アジア市場の銀本位)、銀貨の交換比率を基準にしようとしました。
これに対して日本では銀貨が計数貨幣として発行されるようになった後は金を本位貨幣とする通貨制度で、一分銀は国内市場の素材価値でみても約二倍で通用する実質的な補助貨幣ですから、補助貨幣の銀貨にこの原則の適用は不合理なのです。日本側は抵抗を試みますが、結局押し切られてしまいます。こうして銀貨の交換比率は一分銀3枚と洋銀1ドルとの交換になります。ハリスの強引さの前に道理が引っ込められたことになりました。
その結果、洋銀4ドルを金貨換算で計算するとすでに説明したように、小判一両と等しく、4枚の一分銀と等価になります。しかし、銀換算では洋銀4ドルは一分銀12枚相当になり、金貨で計算した場合の3倍となります。この金銀比価の差を利用したからくりにより、下図のように洋銀と交換で金貨を日本で手に入れて海外に持ち出し、これを銀と交換する取引を繰り返すだけで、莫大な利益が外国商人たちの手に転がり込むことになりました。それが金流出の原因でした。』




※1:ペリー来航と1ドル=一分替え「欠乏品交易とその貨幣問題」/大阪経済大学 山本有造(2016年)より、
『嘉永七年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)神奈川において調印された「日米和親条約」は、その名の通り日米両国の「永世不朽の和親」を取り結ぶことを目的とする条約であり、いわゆる「通商開港」を目指すものではなかった。貨幣問題に関する談判は、「日米和親条約附録協定」の締結のために下田に入ったペリー艦隊(の主計官)と下田奉行所(の支配組頭)との間で、5月17日(6月12日)から下田・了仙寺において行われた。
幕府側は、「長崎表唐紅毛引合之銭相場」すなわち長崎における中国・オランダ交易における相場を参考とし・・・神奈川で艦隊の物資代金として受領していた350ドルの金銀貨を江戸で分析した結果を踏まえて次のように主張した「貴国銀位之義、銀目方拾匁に付、日本にては日本銀弐拾弐匁五分、一ドルラル日本銀拾六匁(1ドル銀貨=16匁)之積」。これについてはアメリカ側・・・「承知致し候」ということになって決着がついた。』
ペリーが下田で日米和親条約を結んだとき、日本からペリーの艦隊に提供した石炭などの料金支払いは、「1ドル銀貨は、銀目16匁替え」となっていた。銀目16匁は、ほぼ一分銀に相当するから、「1ドル=一分銀1枚」の交換レートが正しいとの日本側の主張でもあった。日本側の主張は「洋銀1ドル=一分銀等価」。(その3年後、安政三年、下田の玉泉寺(幕末にアメリカが日本で初の総領事館として使った寺)でアメリカ合衆国総領事の任についたタウンゼント・ハリスはこれに猛反対して「1ドル=一分銀3枚」となった)


○「近世・近代日本貨幣史の基礎的研究」/秀明大学 小林延人(2015年)
『17世紀初頭において約1:10であった国内金銀両貨の比価は、元禄期以降、貨幣改鋳の都度に変化していく。開港直前の時期に流通していた保字小判一枚 1両 と天保一分銀 四枚(= 1両は、おおよそ地金 1 :地銀 4. 6)の金銀比価であった。当時の国際比価ロンドン銀塊相場が 1:15.6 であったことを鑑みると 、国内金相場は著しく低かったと言える 。安政5年 (1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されると、第五条により同種同量交換の原則が定められた。
これは、金貨は金貨と、銀貨は銀貨と、その量目重さのみによって関連付け、自由な取引を承認するものである。当時、国際取引で主に用いられた貨幣は洋銀と呼ばれる 1ドル銀貨である。うち横浜に流入した洋銀は、量目 416.5グレイン 約7.2匁 、品位 898/1000 、純銀量 374グレインのメキシコドルであった。対して、国内銀貨の主流であった天保一分銀は、量目 2.3 匁 (133.4グレイン 、品位 989/1000 、純銀量 2.27匁であったので、洋銀 100 枚=天保一分銀 311枚 おおよそ(※)洋銀 1枚≒一分銀 3 枚と交換される取り決めとなった。
金貨で言うと、アメリカの1ドル金貨が量目 25.8グレイン (0.4匁 、品位 9/10 であったのに対し、保字小判は量目 3匁、品位 568/1000 であった。すなわち、アメリカ国内では洋銀 100 枚=100 ドル=金 40匁 地金 36匁 にしかならないが、日本で、洋銀 → 天保一分銀 → 保字小判と交換すると、 77.75両 地金 132.486匁となる。そのため、外国商社は競って洋銀を持ち込み、金貨を流出させた。これが、開港直後に金流出が起こったメカニズムである。』  《保字小判は天保小判を意味する。 流出金の価値増加=132.486匁÷36匁=3.68倍となる》  『その後、万延元年4月、新貨を鋳造し、万延の幣制改革が完了する。これによって、金銀貨の比価は 1:15.29 となり、金貨流出の根源は除去された。』

(※)「幕末・横浜洋銀相場の経済学」/東北学院大学 高橋氏 には、「メキシコ銀1ドル=一分銀 3.11個、実務的には、メキシコ銀1ドル=一分銀 3個(45匁)の固定された交換比率で貿易等が行われることとなったのであった。しかしながら、この期間においても、実際上は、洋銀の自然相場が形成され、万延元(1860)年4月には、「メキシコ銀1ドル=一分銀2枚半(37.5匁)」となっていた。』とある。「シュリーマン旅行記 清国・日本」にも、メキシコ・1ピアストル(訳注より:メキシコドル)=天保1分銀 2.2個~2.5個の兌換率、実際には1ピアストル=天保1分銀 3.1個とある。


幕末、金貨流出の防止(貨幣改鋳)

安政・万延の貨幣改鋳の目的
貨幣改鋳とは、貨幣の品位・名称を変更し、旧来の貨幣を回収して新しい貨幣に鋳直し、 市場に流通させるまでの一連の事業を指す。幕末に行なわれた二つの改鋳、安政ならびに万延の改鋳は、幕末、アメリカをはじめとして各国と修好通商条約(安政の五ヵ国条約)が結ばれて、外国との貿易が始まった時に起こった金銀比価の乖離への対応策である。
安政元年(1854)幕府は欧米諸国の圧力に屈し和親条約を結び、以来日本の金貨は大量に海外へ流出しはじめる。それら金貨の流出を阻止するために安政小判が造られた。安政6年5月25日(1859年6月25日)から鋳造が始まり同年6月1日(1859年6月30日)より通用開始された。(安政小判の発行枚数は351000枚)しかし、その攻防も結局欧米の強い反対にあい、わずか20日間という短い使用期間で幕を閉じた。
安政六年(1859)の開国以来、外国との金銀比価の違いから、日本における銀高金安を利用して、外国の貿易商会や外交官たちは洋銀(欧米の銀貨)を日本に持ち込み、日本の金貨の「小判」や「二分判金」に換えて海外に持ち出して多量の金貨が海外に流出した。
こうした金貨流出を防止するため、まず安政7年(1860)1月、幕府は天保・安政小判の銀貨に対する価値を約3倍に引き上げる「直増通用令」を発した上で、万延元年(1860)4月には、1両当たりの純金量を1/3に減らした「万延小判」を発行した。この結果、国内の金銀比価は国際基準にようやく平準化し、金貨流出は収束に向かっていった。

【万延元年(1860)4月には、金量1.87gの「万延小判」が発行された。これにより、洋銀4枚が一分銀12枚(3両)に交換されても、金1両との交換により入手できる金地金は5.61g(1.87g×3)となり、国外での金銀比価15対1で洋銀に交換しても84.15gの銀地金つまり洋銀約3064枚を得るのみとなる。こうして、金貨流出の問題は解決したのである。・・・ 2012年、松山大学「江戸時代末期における金銀比価について」/井上正夫】



幕末に実施された万延の改鋳は、江戸期の貨幣史において再三にわたってみられたような、幕府財政の立直しや財政資金の調達を主たる目的としたものでも、あるいは元文の改鋳時のような景気・物価対策を目的としたものではない。日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したものであった。つまり、この小判金は世界の荒波にさらされた時代背景を物語っており、1両あたりの金量を国際基準に近付け、海外に対抗しようという目論みがあった。

江戸時代最後の万延小判金(品位は金574/銀426、量目は3,30g)は、品位は天保小判金(品位は金568/銀432、量目は11,20g)・安政小判金(品位は金570/銀430、量目は8,97g)と同じ約57%であったが、大きさは安政小判の約1/3と著しく小型化され、純金量はわずか1.9gと最初の慶長小判金(純金量:15,19g)の約1/8まで減少した。(万延小判は、かわいらしい姿形から別名「姫小判」とも称します)
しかし、当時流通したのは「万延小判金(金一両)」より品位の低い「万延二分判金」(品位は金229/銀771、量目は3,00g)で、文久、元治、慶応年間を通し本位貨幣の万延小判の新鋳額64万両に対し5,320万両という膨大な額が発行され幕府に出目益をもたらしたと言われている。

↑ ページトップに戻る