江戸時代の外食・醤油文化

江戸時代の海運

江戸時代の海運
徳川幕府の鎖国令以後の230年間、徳川幕府の本拠地であった江戸は政治の中心地ではあっても、経済の中心は大坂・京都の上方であり、全国の商品が大坂に集められて取引され、その後、多くの加工製品が海陸両路を通じて江戸へ輸送された。食料などの日常必需品は東日本の各地から江戸ヘと運ばれた。
このうち海上交通は「鎖国」制の下、日本列島の沿岸海運が中心で、大坂・江戸の二元的海運が展開したといわれる。それは幕府城米・大名蔵米などの大坂・江戸への海上輸送を全国的規模で発達させたが、そこには陸地の中小都市(城下町・陣屋町・在町宿駅)や港湾都市と、三都(大坂・京都・江戸)とを結ぶ商品流通や情報伝達などの一大ネットワークが形成、機能するようになった。

■日本の海運
日本の海運は沿岸航行に限定されながらも江戸、京都、大坂の三都を結ぶ船舶による内航海運が盛んとなりました。大量の物資を安く運ぶために、発達したのが海運です。江戸時代には海の航路が整備されました。特に江戸と大坂を結ぶ南海路は、下りものを江戸に運ぶ重要なルートです。大坂の港は「出船千艘 入船千艘」といわれ、全国の舟が行き交いました。物資の輸送に使われたのは、廻船と呼ばれた船です。南海路には、菱垣廻船と呼ばれる定期船が運航しました。
菱垣廻船は菱形の模様が特徴です。このような廻船は最大でおよそ45㌧もの物資を運ぶことが出来ました。さらに酒樽を積んだ樽廻船も運航されるようになり、江戸に大量の酒を供給しました。海上交通の整備に力を注いだのが、江戸の商人である河村瑞賢です。
東北地方の年貢米を江戸、大坂に運送することを請け負い、東廻り航路、西廻り航路を整備しました。これによって、江戸と大坂を中心とした全国的な物資の流通網が完成したのです。(引用:NHK高校講座 近世の経済と産業)


■廻船の大型化と航法の発達
江戸時代は、海運業が大いに発展した時代でもありました。江戸、大阪の二大市場に対する大量の商品輸送を目的に、菱垣、樽廻船を中心とした全国的な海運網が発達していきました。
海運業がもっとも発達したのは、18世紀後半の田沼意次の時代になってからのことで、幕府の海外渡航禁止政策による造船上の制約はあったものの、幹線航路における廻船の大型化と耐久性の強化が図られ、五百石積みが標準であった菱垣廻船も、次第に千石積みの大型帆船へと移行して行きました。
海洋帆走技術も、江戸前期は地乗り航法と呼ばれる地上の目標物を見ながらの航法でしたが、江戸後期の田沼時代になると、大量海上輸送の強化を図る政策上の影響から、海運業と航海技術は大きな発展を遂げ、海図や磁石を利用した沖乗り航法はもとより、風上に向かって帆走する技術や、磁石を使用し星座を観測しながら夜間航行する航法も発達しました。(引用:国土交通省 東北地方整備局)



■太平洋側と日本海側の廻船航路
水運の発展に伴い、日本の各地を結ぶ航路も開発された。太平洋岸を通って大阪〜江戸間を結んだ菱垣(ひがき)廻船。そのライバルの樽(たる)廻船、日本海・瀬戸内海経由で北海道や日本海側の港と大阪を結んだ北前(きたまえ)船などが、その代表的なものだ。
これら廻船が主に運んだ貨物の中心は米だったが、酒や味噌、醤油、油、魚粉、木綿、紙などの生活必需品や人も運んだ。
幕府の大型船建造禁止令で、初期には二百石(約20㌧)〜四百石(約40㌧)積みの大きさにとどまっていたこれらの廻船も、その後、規制が緩和されると、千石船といわれる一千石(約100㌧)を超える大型の船も登場するようになる。
最盛期には、上り、下りあわせて、延べ800隻近い船が日本沿岸を往来し、風待ちのための待避港や灯台があちこちに設けられるなど、江戸時代後期には、内航海運としての廻船の発達は最盛期を迎えた。(引用:社団法人日本船主協会)

日本列島を一周する廻船航路


■商業航路の発展
日本列島沿岸の定期・商業航路は、戦国時代末期から江戸時代にかけて開設された。戦国時代末期には、日本海側の海運組織としての北前船と西廻り廻船が経済先進地域であった西国を中心に成立していた。
元和6年(1620)、大坂と江戸を定期的かつ商業的に結ぶ民営の菱垣廻船組織が成立した。正保年間(1644~48年)にはそれに対抗して民営の樽廻船組織もでき、両者は幕末まで競争を続けた。民営の廻船組織が両立できるだけの輸送需要が、上方と江戸の間に生まれたのである。

一方、江戸での天下普請を命じられた東北大名は、それぞれの持ち船で米と資材を江戸に運んだ。このルートの流通が盛んになると民間輸送が有利となり、江戸の商人である河村瑞賢により東廻り廻船組織が寛文年間(1661~73年)に成立した。
この航路は従来の日本海ルートを津軽海峡から太平洋側に延長するもので、津軽・下北半島から太平洋岸を南下し、銚子沖を経由して伊豆半島の下田で風待ちを行い、下田から江戸湾に至る。それが、従来の北前船や西廻り廻船に加わって、日本列島を一周する定期商業航路が初めて完成したのである。
菱垣、樽廻船は運賃収入を目的とした運輸業者で、北前船が海外に運送せずに大坂に持ち込んだ貨物と、畿内・西国から集荷した物資を江戸に輸送した。

一方、北前船や西回り廻船は買積船(かいづみふね)であった。これは、船主が自己資本で積荷を買って船に積み、適当な相手に売るビジネスで、積荷と販売時期の如何によっては巨利を得られるものである。
主な船荷は、鱶鰭(ふかひれ)・干鮑(ほしあわび)・煎海鼠(いりなまこ)などの俵物(たわらもの)三品と呼ばれた海産物や、秋田の阿仁鉱山の金・銀・銅などの鉱産物だった。(引用:東京都水道局「江戸商人の経営と戦略」)

江戸時代の交通路

江戸時代の主要街道は、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の5街道。いずれも起点は日本橋である。日本橋から最も近い最初の宿場は、東海道は品川宿、中山道は板橋宿、日光街道と奥州街道は千住宿、甲州街道は内藤新宿で、これらは「江戸四宿」と呼ばれて大変な賑わいだった。
中山道は木曽街道を経て京都に通じる街道で、最初の宿場か板橋宿だった。参勤交代で中山道を利用する大名が多かったことから大宿場となり、1843(天保14)年の記録では、旅籠は54軒を数え、2500人近くが住んでいたという。

五街道(東海道,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道)、主要街道(脇街道)と航路
出典:『いっきに学び直す日本史』著者: 安藤達朗

東海道と五街道・脇街道の交通網

東海道と五街道・脇街道(脇往還)の交通網

■幕府直轄の「五街道」
わが国における現在の交通網の骨格は、400年以上も前の江戸幕府によって整備された街道が骨格となっている。五街道とは、江戸から各地に通じる街道の、東海道(江戸~京都)・中山道(江戸~高崎~下諏訪~京都)・甲州街道(江戸~下諏訪)・日光街道(江戸~宇都宮)・奥州街道(江戸~白河)が五街道である。五街道は江戸時代前期にすでに一体的なものとして、幕府が直接管理する道中奉行の監督下におかれていた。

道中の交通は、京都を中心とした『五畿七道』にはじまり、鎌倉を中心とした『鎌倉街道』、江戸を中心とした『五街道』へと整備されてきた。 なお、五街道が同時に掲載されている古い文献の例としては、延宝2(1674)年の『伝馬宿拝借錯覚』がある。これによると、五街道の宿は東海道は58宿(京~大坂間 5宿を含む)、中山道は79宿、日光および奥州街道は44宿、甲州街道は35宿となっている。


■脇街道と関所
交通の要衝にある関所は幕府の配下にあり、番所は各藩の管理下にあった。街道の主要地点には「関所」や「番所(口留番所)」を置いて幕府の政治・軍事機能的な任務を持たせた。諸藩もほぼそれに準ずる交通政策を執り、大藩では領界に口留番所を置いて、出入国者を取り締まるとともに、物資の移出入を規制した。旅をする際には「関所手形」や「通行手形」を用意する必要があった。
関所の開門は明け六つ(午後6時)から暮れ六つ(午後6時)までで、「入り鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)」と呼ばれるように、武器の通行の監視や、江戸に人質として差し出された諸大名の妻子の国元への逃亡の取り締まりが主な役割であった。女性の場合は、「関所手形」や「通行手形」の他に「女手形」と呼ばれるものが必要で、それには顔の特徴から体の形、髪の色からほくろの位置まで詳細に記入しておかなければならない。そして、関所を通過する際に、人見女(ひとみおんな)という関所の雇われ女が、髪をほどき、不審な場合は裸にしてまで全身をくまなく検査するのである。人見女は年老いている「改め婆(あらためばばあ)」と呼ばれ、旅の女性から恐れられていた。

五街道は、江戸幕府・藩幕体制の安定のために、幕府と朝廷の関係維持、江戸防衛の観点から中央集権的に五街道沿いに天領・親藩・譜代藩を配置し整備されたものである。
五街道以外の道は「脇街道」と呼ばれていた。これらは、日本国内の各地に巡らされ、早道や商品輸送の道として地方の人と物の流通に大きな役割を果たしていた。主要な「脇街道」または「脇往還」と呼ばれる街道は、五街道からの延長道や分岐道であった。 脇街道には伊勢路、山陰道、山陽道、長崎道、北国街道(中仙道追分~高田)、北陸道(高田~新潟)、羽州街道(奥州街道桑折~青森)などがある。五街道は脇街道とともに、参勤交代制度によって、整備されていった。

■宿場町
五街道には、日本橋を起点として、旅人の便宜のために街道筋には一里ごとに一里塚が設けられ旅程の目印として利用されていた。一里塚は、五間四方の小山形の塚上に1本から数本の榎を植えたものであった。また、街道沿いには、杉や松、柏、榎などの並木を植えていた。
江戸時代に全国各地を結ぶため整備された五街道の道幅は、山道を除いておおむね 3~4間(約5.4~7.2m)で、江戸に近いところでは5間(約 9m)確保されていた。街道の拠点となるところが宿場町である。街道には一定区間ごとに宿場が設けられ、宿場を中心として宿場町が発達した。
また、街道に沿った村々にも「茶屋」や葦簀(よしず)張りの簡素な「出茶屋」などがあり、旅人の休憩所として利用された。大名達の休憩所としては「立場茶屋」「御小休所」などが設けられていた。



宿場には「休泊」と「人馬継立(じんばつぎたて)」の2つのはたらきがあった。(人馬継立とは東海道を運ばれる荷物の人足と馬の交代をいう)
東海道の各宿場には、旅人や荷物の輸送のために馬や駕籠かきの人足がいて、陸上交通の輸送拠点を持ち、宿泊施設が集まっていた。宿場は旅人のための宿泊施設であることはもちろん、宿場の役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や手紙などの通信物を、次の宿場まで運ぶために、宿場ごとに人馬を常駐させて宿場から宿場へと人や物資を確実に継ぎ送る(伝馬制度)業務があった。輸送の範囲は原則として隣接する宿場町までである。隣接する宿場を超えての輸送は禁止されていた。宿場町は宿泊機能と、人や物資を次の宿場へと運ぶ人馬を提供するため、宿役人が勤務し継ぎ送り業務を行う「人馬継立所[問屋場(といやば)]」が中心となっていた。

■街道の「宿屋」
江戸時代、寺社参詣から商売、参勤交代まで、人びとはさまざまな目的で旅をし、宿場には多種多様な宿が発展した。
宿場にはさまざまな宿があり、大名や旗本、幕府の役人などの休泊所として指定された「本陣」と「脇本陣」があって、この本陣と脇本陣はひとつの宿場に二軒一対が基本とされた。また、下級武士や庶民が休泊する食事付き宿の「旅籠屋(はたごや)」、持ち金が少ない貧乏旅人が休泊する食事なしの「木賃宿(きちんやど)」などがあった。食事を提供する「宿屋」を旅籠屋、略して「旅籠」と呼んでいた。

旅籠は相部屋が基本で夕食・朝食を出したが、旅籠によっては出立前に昼食の道中弁当(持参の弁当箱に詰めてもらう)を出している。木賃宿は素泊まりのみで、宿泊者が自ら食事をつくるもので、旅人が米を持参し、薪代を払って煮炊きする自炊宿泊が原則であった。木賃宿の近世後期の旅日記を見ると、泊まった場合、米の値段を記入していることが多いので、木賃宿で米も購入していたと思われる。





「旅籠」は、街道の宿場で用務旅行の公私人に設けられた宿なので、原則として川止めなどという緊急の事態以外、連泊ができず一泊しかできないものであった。木賃宿は安宿で場所も宿場のはずれなどにあった。
宿屋の宿泊費は江戸後期で、旅籠は食事付き200文前後、食事付きといっても、1汁3菜が基本で、ご飯と味噌汁とお新香、そこに魚料理と野菜の煮物が少々といった程度である。木賃宿は米を持参の自炊のため、薪代を別にして素泊りで50文から60文が相場であった。のちに薪だけではなく米も提供する木賃宿も出現するようになった。江戸時代には、この他に「湯治場」「温泉宿」も現われ、街道に飯盛り女と呼ぶ宿場女郎も出現し「飯盛り旅籠」まで現われた。


『木曽街道六拾九次之内 下諏訪』歌川広重(1797~1858)
中山道/下諏訪宿(しもすわしゅく)の旅籠の様子を描いている。旅籠屋の室内での夕食や風呂桶に男がひとり入浴している様子を描いている。下諏訪宿は、中山道と甲州道の分岐点であり、道中六十九次のなかで唯一の温泉場と諏訪大社下社への参詣(さんけい)が旅人の楽しみで大いに賑わったといわれる。


『双筆五十三次 平塚』歌川豊国(安政元年1854)


東海道・二川(ふたがわ)宿「清明屋」(愛知県豊橋市)の夕食

文化10年(1813)に大阪商人・平右衛門(山片重芳)の日記に、旅籠の献立が記録されている。これによると、
○下諏訪宿の献立
夕飯は、汁(豆腐・菜)、平付(芋・菜・湯豆腐)、焼き物(にびたし鮒)。朝食は汁(角豆腐)、平付(八杯豆腐・うど・海苔)、焼き物(川すき)。

○垂井宿の献立
夕飯は、汁(干し大根)、平付(竹の子・玉子とし)、焼き物(塩ほら)」、朝飯は、「汁(豆腐)、平付(わらひ、ふ、ふき、椎茸、焼豆腐)、焼き物(塩鰤)とある。夕飯は、一汁二、三菜が標準であった。


中山道「木曾街道 板橋之驛(宿)」
板橋之宿にある立場茶屋の店先に人の草鞋(わらじ)と丸い馬の草鞋が吊るされ、樹木の下では馬子が馬を留め、すりきれた馬草鞋を履き替えさせる様子が描かれている。


中山道「木曾街道 追分宿浅間山眺望」
浅間山を背景に街道を行く、長持の荷を人足に運ばせる武家一行と、大きな荷(茶)を積んだ馬と馬子の姿が描かれている。

■街道と物見遊山の旅
江戸期には、街道を通じて人や物資・情報がゆきかい、宿ではそれらの伝播に大きな役割を果たし、独自の文化が形成された。街道や宿駅が整備され、交通の利便性は大きく向上し、参勤交代や物資の運搬、旅行も一般に容易となり、庶民も名勝地や寺社仏閣を訪れる旅を楽しむようになった。
街道は「東海道中膝栗毛」などの書物や「東海道五十三次」などの浮世絵によって庶民の旅行への関心が高まった。「一生に一度は伊勢参り」「伊勢に七度、熊野に三度、お多賀様には月参り」といわれたように、江戸時代の人々は、伊勢参り、熊野三山の熊野詣、西国・板東・秩父・四国の霊場巡りなどの信仰に名を借りた物見遊山の旅行参りをしていた。
中でも伊勢神宮へ詣でる伊勢参り(お蔭詣で[おかげもうで]ともいった)は、年間百万人前後が参宮していたと言われている。伊勢参りは「伊勢講」のお陰で旅がしやすくなったこともあり、女性でも旅をするようになった。江戸から片道15日間、当時はすべて徒歩で1日40km程歩いたという。


庶民が領国の外へ出ることは厳しく制限されていたが、寺社参詣と湯治(とうじ)は例外として認められていた。そこで、旅の理由としては寺社参詣が最も多く、湯治、物見遊山[観光]などの目的で遠隔地に赴くこともしばしば行われるようになった。
伊勢神宮など著名な寺社の周囲には、旅籠(はたご)や茶店、土産物屋か立ち並び、門前町[神社・寺院の門前に形成され、参詣人や遊覧者を対象とするさまざまな商業が発達した町]には茶店、遊女屋、芝居小屋が設けられ、参詣を終えた人たちの格好の遊興の場所となっていた。街道にある旅籠(武士や一般庶民などを宿泊させた食事付きの旅宿)や茶屋(旅行者などに昼食や茶・菓子などを提供する休憩所)、雲助(道中の歩行荷物を運搬した宿場人足)なども多く利用された。

(江戸時代中期ごろまでは、広義には一定の住所なく流浪する者をすべて雲助 と呼んだが、後年、「所定めぬ籠かきの宿なし者の惣名なり」といった雲助が出現するに及び、幕府・ 諸藩では浮浪者を無宿といい、雲助の言葉はその中の交通労働者である長持・駕籠舁をさすように なった)


江戸時代の船輸送

江戸幕府による鎖国政策は近世期の日本の造船や海運にも大きな影響を与えることになった。それまでは朱印船貿易に見られるように、海外との活発な交易が展開されたが、1635(寛永12)年に日本人の海外渡航が全面的に禁止されるに及んで、外洋航海用の船舶は一部の例外を除いて建造されることはなくなり、もっぱら、一般に千石船と呼ばれる「弁才船(べざいせん)」など日本形の船舶が建造されるようになる。

全国各地からの年貢米の輸送や、当時の経済の中心地大坂から江戸への大量の物資輸送の必要性も相俟って、沿岸航行用や河川専用の荷船が数多く建造され、海運が江戸期の経済を支える重要なインフラとなった。特に、江戸~大坂間の太平洋側では、生活必需品などの輸送から出発した菱垣廻船や酒荷専用の樽廻船も、江戸十組問屋や大坂二十四組問屋などの仲間結成とともに発展、変転をみた。他方、日本海側では、蝦夷地と大坂などを結ぶ北前船が活動した。関東平野の江戸城米や大名蔵米は、陸上輸送よりも多くは利根川・荒川などの川船(高瀬舟)によって搬入された。

○廻船とは、江戸時代において、江戸・大坂間で運航された貨物船のことである。菱垣廻船も樽廻船も船体の形は上方型弁才船である。菱垣廻船と樽廻船に区別され、「菱垣廻船」は食料品から日用雑貨、各種道具類、製品素材など、様々な種類の物資を輸送した雑貨専用船であるのに対し、「樽廻船」は特定の物資(酒樽)の輸送を行うという専門船であることを特徴としている。
江戸時代初期において、菱垣廻船が成立し、大阪から江戸への物資が輸送されたが、徐々に貨物量が増えると、幕末には樽廻船の雑貨積みが認められ、スピード・コストなどの面で有利となり、樽廻船が主流となっていく。

○「北前船」は大阪で仕入れる酒、醤油、飲食料、衣料、たばこ、また、瀬戸内で仕入れる塩、砂糖、蝋、東北で仕入れる米などを北海道に運び、帰りに魚肥の丸干鰊(にしん)、胴鰊、〆粕、白子、食用の身欠鰊、数の子、昆布などを本州にもたらした。 北前船とは、菱垣廻船・樽廻船で代表される「賃積船」に対し、大坂を起点に瀬戸内海~下関~日本海を運航して、松前の国に至る「買積船」の呼称である。北前船は船型の形式を指すものではなく、物資の流通が未発達に起因する生産地(供給地)と消費地(需要地)の価額差を利用し、商品を遠隔地に運んで販売し、より利潤を高めようとした廻船である。 

○「高瀬舟」とは、河川を使って、廻船の積荷(塩、米、酒、醤油など)である大量の物資を上流へ、下流へすばやく輸送することであった。

■菱垣廻船(ひがきかいせん)
菱垣廻船は菱垣廻船問屋が差配し、江戸送りの荷物を集めて輸送するいわゆる「運賃積」の形態をとっていた。 元禄時代には、1年にのべ1200‒1300隻が就航しておりその隆盛が伺われる。 大坂~江戸間においては元和5年(1619)に泉州(大阪府)堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を借り受け、大坂から木綿・油・酒・酢・湯浅醤油などの日常用品を積み込んで江戸に廻走した。これが「菱垣廻船」の始まりである。
菱垣廻船は、荷が落ちないように船の両側に菱形をした垣立を付けた廻船。この菱形は江戸十組(とくみ)問屋仲間(元禄7年(1694年)結成)所属の廻船であることを示すものであった。問屋仲間結成の理由は、しばしば菱垣廻船が大坂から江戸に廻船される途中で難破した場合の処理を巡って、難船処理を請負っていた船問屋との交渉を有利にするためであった。


菱垣廻船(ひがきかいせん)「浪華丸」図

江戸十組問屋仲間とは、塗物店組、釘店組、内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)、通町組(小間物諸色問屋仲間)、綿店組、表店組(畳表問屋仲間)、川岸組(水油問屋仲間)、紙店組(紙・蝋燭)、薬種店組、酒店組の十組である。享保15年(1730)には、酒店組が江戸十組問屋仲間から分かれて、樽廻船仲間が生まれた。


復元された菱垣廻船「浪華丸」 (復元菱垣廻船「浪華丸」は全長約30m、幅7.4m、帆柱の長さ約27.5m、積載石数865石=約130t)

■樽廻船(たるかいせん)
江戸時代、江戸-大坂・西宮間をむすぶ酒、醤油輸送の専用船として活躍した弁才船を樽廻船といった。初期は小積みが多く、一般に300~400石積みの廻船で仕立てに日数がかからない上に船足が速いので「小早」と呼ばれていたが、後に(1838年ごろ)1500石積級の大船が新造され樽廻船の中心となった。
人口の多い江戸での酒の需要が増えるにつれて、菱垣廻船での混載では捌ききれず、酒樽の大きさを四斗樽に統一し、積み出しが簡単で船足が速い”酒樽専用”の廻船「樽廻船」が運行された。この樽廻船も寛文年間(1661-72年)には酒を主としながら酢・醤油のほか塗物・紙・木綿・金物・畳表などの荒物を積み合わせて江戸に廻送していた。
享保9年(1724)~享保15年、大坂より江戸への積酒量は26万~17万樽の間を上下するという膨大なものであった。播州(岡山)より原材料である大豆を仕入れ、 灘・伊丹・湯浅等でつくられた酒、醤油「下り醤油」の荷を江戸に運んだ日本の代表的な商船であった。



■高瀬舟(利根川)
利根川は、江戸時代には重要な交通路として舟運が盛んになり、沿岸には多数の河岸場ができて江戸と結ばれていた。利根川下流では米俵1200俵(約72トン)も積める巨大な船も航行していたが、米以外にも舟荷として知られていたのは、神崎の酒や江戸市中の需要を賄うほどになった銚子の醤油であった。
従来江戸湾にそそいでいた利根川を太平洋に流し、河口の銚子から江戸市中に至る水路が作り出されたのも17世紀中期のことである。東回りの廻船の積荷は銚子付近で川船に移し替えられ、江戸まで輸送される事が一般であった。ここでは様々な形式の川船が往来したが、その中で高瀬舟は最も大きく、長さ89尺(27.0m)、幅17尺(5.2m)、推定石数500石に及ぶものもあった。

『名所江戸百景 江戸百景余輿 鉄炮洲築地門跡』歌川広重/画, 安政4年から一部を拡大

高瀬舟は江戸へ銚子の醤油を利根川から江戸川を経て日本橋界隈の蔵に運んだ。製品の醤油は勿論のこと、その原料となる大豆や小麦も吃水の浅い河川での航行に適した高瀬舟で銚子に運ばれた。江戸からは塩、醤油、肥料、日用雑貨などが高瀬舟で運ばれた。
高瀬舟は、長さ31~89尺(9.4~27m)、幅7~17尺(2.1~5.2m)で最大級は500石積(75トン)程度もあった。高瀬船は利根川中流域や江戸川の浅瀬に対応できるように、船首、船尾が高く上がり、舟の大きさに対して船底が浅く平らになっているのが特徴で、その地域の河川や浅海に合った舟が造られた。高瀬舟は船底が平らで米や醤油を多く積んでも深く沈まず物資運搬に適した舟だった。

高瀬舟の古写真

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