ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2007年
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塩谷隆英著 「経済再生の条件」 岩波書店2007年6月

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 塩谷さんとは個人的に大変に親しくさせて頂いており、本書もご本人からプレゼントされた。シンクタンクの重要性が叫ばれている中、ご自身が理事長をされたNIRA(総合研究開発機構)の規模や予算が削減されたことで、かなり嘆いておられるようだが、今般、あとがきにあるように早稲田大学の講義の内容をベースに、わかりやすく一冊の本にまとめたものである。

 本書の特徴として、権限もカネもない弱小官庁(経済企画庁)出身で、「官僚は過ちを犯さない」という神話を信じたことが無いという著者が、政策決定現場の裏側ないし実際に経験したことを振り返り、日本の経済政策の決定過程などの失敗や問題点を分析、整理しながら、将来の日本経済の教訓にしようとしていることである。その意味で、大変に興味深く、また、具体的に問題点が浮き彫りになったことで大いに参考になったのではないかと思う。

全体の構成としては、

第1章が戦後最悪の経済危機と言われた1997〜98年の政策調整現場における実体験。

第2〜4章がバブルの発生・崩壊過程の財政金融政策の分析。第5〜7章がバブルの発生原因すなわちバブル発生前の経済政策のみならず高度成長期から石油ショック克服までの成功体験・諸制度および価値観が根本的な原因とする。

そして8章で失敗の本質を整理しつつ、終章で失敗から学んだ日本経済再生の条件を提言する。具体的には?イノベーションの強化?日本経済社会の多元化?戦略策定部門(シンクタンク)の創設・強化?情報伝達ルートの確保そして?地方分権を提唱している。

主張には読書会のテキストでも取り上げた同じ企画庁出身の小峰さん(「日本経済の構造変動」)のようなユニークさや派手な論理展開はないものの、極力冷静に且つ客観的に過去の失敗を検証しようと試みている。

  もっとも誠実(過ぎるくらい)に実体験が詳細に記述されているが、なぜ、政策決定上の失敗が起こったのか、官僚機構分析というか、理論的な掘り下げがないと、教訓として整理されたものとなったか少し疑問の残る。加えて終章の経済再生条件として上記の5つが示されているが、これ以外に失敗から得た教訓がなかったのか、或いはこの教訓が日本経済の今後の成功を担保するうえで十分なものになっているか、是非皆さんも考えて見てほしい。

  また、97〜98年の所謂「橋本失政」への批判は数々あるが、その論点を整理し、そこから何か得るものはないか反論を含めて分析されても(著者がまさに当事者のお一人だったこともあり)意義深く、面白かったのではないか。

  さて、読書会参加メンバーからの「官僚としての責任をどう考えるか。民間はなんらかの結果責任を問われるが(民間のみならず政治家は先般の参院選の例のように選挙でしっぺ返しに会い、旧厚生省の役人は失敗すれば訴えられる)が、経済官僚の責任をどう考えるか」というコメントについて。やはり、最終責任者は首相を含む大臣となるのだろうが、役人の努力と成果評価をどう捉えるか、情報も権限も限られ、政策決定権限もない役人の責任とは何かなど、単純な課題ではない。また、官僚は下から次官に上り詰めるというサラリーマンというか一使用人の立場であり、米国では数千人規模の高級官僚は大統領交代とともに入れ替わるが、彼らを受け入れる民間部門、特に、桁違いに多いシンクタンクがあるなど土壌が全く異なる。(一方、例えば財政諮問会議などは民間から4人の委員が参加しているが、これでは本当に精緻な分析や議論が可能か、責任が取れる内容なのか疑問が残るところ。)しかも、政策の評価も国内に限ったことではない。昨今の円キャリー取引による世界的な投資バブルは、国内施策が海外にも大きな影響を与えることを物語っている。

  いずれにしてもシンクタンクの役割は極めて重要で、米国では議員の個人名で法律が作られるが、ホワイトハウス、政府機関や議員と密接に結びついて具体的な経済・外交政策等を研究し提言を行っている夥しいシンクタンクの存在(ワシントンDCだけで100ものシンクタンクがある)抜きには考えられない。わが国においても、今後政治が官僚をコントロールするべきという流れの中にあって、シンクタンクが競い合って政策提言を行うという仕組づくりが必要であり、著者の意見に全く賛成だ。

 日本的経営について一言。本書は戦後の高度成長期の特徴としているが、元々、源流は第一次大戦中、欧州から重化学工業製品が入らなくなって、国産化を進める必要に迫られた財閥系企業が技術者を確保する目的で始めたもので、戦後も大企業を中心に引き継がれた。米国の優良企業、例えばIBMなど、長期雇用を重視していることは周知の通り。会社一辺倒で価値観を共有する日本の企業組織の強みと弱みについても考えてみるのも良いだろう。それと関連して、本書では既得権益や新規参入企業の抑制とバブルの関係についても論じているが、あまり明確な論拠が示されておらず、少し迫力に欠ける気がする。

 憂うべきなのは、官僚だけではないかもしれないが「問題を先送りする体質」。自分が担当である間は、余程まずい状況で無い限り手をつけない。先輩、元上司の行ったことに対して身内をかばってメスを入れることはないというのでは、大きく国を誤る。意識を含む大胆な対策が必要だ。

それと関連して、個々の会社の経営上の失敗を正直に社史に書いたとしたら、社史は社員にとってこの上ない教科書になるだろう。ぼやきは別として、堂々と失敗を語ることがタブーであるからこそ、社員は他社のちょんぼと「信長、秀吉、家康」の戦略を論じることとなる。問題を先送り、自ら変革できない成熟した大企業が新興のオーナー企業に取って代わられる理由もここにあるのかもしれない。

(平成19年10月16日、文責:管理人)

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「経済再生の条件」 ・・・為ご参考「失敗の本質

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 「失敗の本質」について テキストのp118などに戸部良一他「失敗の本質」(ダイヤモンド社1984年)が引用されていますが、同書では日本軍の6つの戦いを取り上げ、「失敗の本質」を分析、今日的課題に迫ろうとしています。「経済再生の条件」は20世紀末の経済運営上の失敗を分析、変革の必要性を訴えたものでしたが、同書と相通ずるものがありますね。尚、読書会でもとりあげた野中郁次郎(「美徳の経営」)さんも著者のひとりに加わっておられます。以下ポイントのみ概観しておきます。

 ○ノモンハン事件

 作戦目的曖昧、現地とのコミュニケーション機能不全、情報の独善的需要・解釈、精神主義の誇張

 ○ミッドウェー作戦

 作戦目的の二重性、部隊編成の複雑性、不測の事態への柔軟な対処不能

 ○ガダルカナル作戦

 情報の貧困、戦力の逐次投入、陸海軍の連携不備

 ○インパール作戦〜しなくても良かった作戦

 なぜ実施されたか?過度に重視する情緒主義、強烈な個人の突出を許容するシステム

 ○レイテ海戦

 参加する部隊(艦隊)が任務を十分把握していない、統一指揮不在、認識の失敗

 ○沖縄戦 

 相変わらず作戦目的曖昧、大本営と現地軍の認識のズレ、意思の不統一                                  

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野中郁次郎・紺野登著 「美徳の経営」 NTT出版2007年6月

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   米国流の形式知的・分析的な経営の限界が露呈する一方、暗黙知若しくは現場重視の日本的な経営も十分とは言えない。著者はそのような問題意識から、今後の経営においては1章に詳細に述べられている「美徳(virtue)」が必要で、それを実現するのが清濁合わせ飲む実践的な賢慮(phronesis)で、アリストテレスから引用されたこの賢慮こそが今後のリーダーに必要な資質であるとする。2章の共通善は美徳の成立する条件をまとめたものと考えると理解されやすいだろう。

 いずれにしても、新しい時代の企業経営を考える上で極めて重要な示唆を与える内容であり、私もいろいろな経営者の方々にこの本を紹介している。ある大手酒造メーカーの社長からお寄せ頂いたこの本のご感想の中に「全体に訳語調の言葉が多い」との指摘があったが、まさにその通りで、もし、経営者やビジネスマン、学生向けに書くのであれば、もう少しこなれた表現を多用したほうがよかったのではないかと思う。また、私も野中さんとはよくお会いする仲であり、また、著作を読ませて頂いているが、その印象からすれば、本書はかなりの部分を紺野さんが書かれたのではないかと推察している。

 さて、賢慮については、前述の酒造メーカーの社長は「清濁合わせ飲む」のが賢慮ということは概念としては理解できるが、本質的には「濁」を排除するのが経営ではないかといような感想をお持ちであるが、賢慮型リーダーがp103に示される6つの能力から成ることに関しては本当にそうなのか、言い尽くされているのか考えてみて欲しい。また、米国流の分析型リーダーの失敗事例をもう少し深く調査し、その原因を探求し、これが賢慮型リーダーだったら、克服できると言う論法であれば、より説得力の増す議論が出来たのはないかと思う。

 ユニークなところでは、5章に「アート」「デザイン」が重視されているが、シャープの薄型液晶テレビ(AQUOS)のデザインをされた喜多俊之氏はいまやシンガポールのデザイン戦略を担っておられる。デザイナーというか芸術家が前面に出すぎると経営として失敗も多くなるが、喜多さんのような成功者はどこが違うのか考えてみるのも面白いだろう

 わが国の将来を見据えた場合、最も重要な「賢慮の育成」について。本書では現場での自分自身の経験と歴史や哲学などの「教養」や「知」の伝承を強調されているが、そううまくいくか?山本七平さんは原子力の平和利用は実はいろいろな不具合や失敗を経て、欧米で技術が確立されたが、日本はそのできあがった技術だけを導入し、過去の失敗事例(物語)を知らないことを大変危惧されている。私も軍隊に召集されたとき、米一俵を持ち上げることができなかったが、コツは教えてもらっただけでは駄目で、怒鳴られながら試行錯誤しつつ漸く持ち上げることができた経験を思い出す。カリスマ経営者の伝承や体験談だけ聞いて、次代を担うような経営者が育つかどうか疑問である。

 伝承のためには「実践」、「伝統」とともに「物語」が重要であることが述べられているが、私もその通りだと思う。知識や単なる概念だけでは話の印象が薄い。かつて京都で瀬戸内寂聴と対談する機会があったが、瀬戸内さんのお話はご自身の体験したことだけをお話になるのに対し、私は学者であるから一通り整理された理論ばかり話すことになる。結果は、瀬戸内さんの話の方が圧倒的に迫力があり、観客への説得力は比較にならないということになる。体験した人が体験を物語として話すのが伝承の基本である。とは言え、賢慮はただ見たり聞いたりするだけでは習得できず、数々の成功と失敗を直に体験することがより重要である。

 ところで、銀行や鉄鋼メーカーなど合併が相次いでいる上、非正規雇用者や中途入社組も増えている中、共通の文化を持たず、給与体系も異なる組織で、どうしたら「知」の伝承ができるのか皆さんも具体的に考えてみて欲しい。逆に大手財閥系商社は分社化を進めているようだが、伝統をどう維持し、伝えていくか、様々な試みが必要だろう。先日、アレクサンドル・デュマの三銃士を読んだが、有名な「All For One、One For All」を一心同体と訳されていた。意外にも?本質を突いた翻訳であるが、一心同体となれるような環境をどう作っていくか?これも課題であろう。

(平成19年7月21日、文責:管理人)

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小島祥一著 「なぜ日本の政治経済は混迷するのか」 岩波書店2007年1月

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 本書では日本の政治経済の混迷の原因をユニークな3つの切り口で論じている。

 第一点は政治経済の四幕劇、即ち「?何も問題はない?お茶を濁す小出し対応?危機の顕在化(知らぬは日本人ばかりなり)?白旗揚げて本格的に対応、そして振り出しに戻る。」という図式である。

 第二点は自民党の争点ずらしによる長期政権維持の構造を取り上げる。ここでは自民党のみが巧みに自らの政策の優先順位を常に社会全体の優先順位にすることができることをアローの不可能性定理(2人以上いる社会で3つ以上の選択肢がある場合、広く認められる民主主義のルールのもとで必ず独裁者が生まれる)を用いて証明しようとした。

 そして第三点が「総論賛成・各論反対の循環」により、政策決定、実行が不可能であることをゲーデルの不完全性定理(数理論理学)を使って説明しようとする。

 著者は大の数学好きであり、数学的に政治経済を解明しようという強い意欲が感じられるが、一方あとがき(p209)では、「観察事実や直感的な答えが先にあり、後から論理の筋道を付けるように格闘した結果である」として、私が常々申し上げている「answer-begging-question」的なアプローチとなってしまったことを謙虚に告白されている。道元の「正法眼蔵」では、全ての存在は多面的であり且つ矛盾があり、矛盾があることを認識すべきということになるが、本書にも自ずから限界があることは明白である。

 さて本書の内容に関して、論点を少し述べさせていただくので、是非皆さんで考えて見て欲しい。

 まず、四幕劇について。ゲームの主役は政府、日銀、財界、自民党であるが、環境が変わるとゲームの主体は異なることはないのか?また、本来はどこの国、あるいは皆さんの所属しておられる組織においてもこのような現象は見られるのではないか?寧ろ、大統領が強い権限を有する米国と日本の四幕劇の違いは何か?日本では民主主義の欠陥が典型的に現れ、余程悪くならないと変れない国ということを言いたいのなら、別の分析や論理展開をすべきではなかったか?

 話は横道の逸れるが、ゼロ金利については神戸大出身で関東学園大学の元学長の柴田弘文さんが、ゼロ金利が円キャリー取引や日本人の外債購入を誘発し、寧ろ米国企業を支え、日本企業の買収を容易にするなどゼロ金利の弊害について論じておられるので、念のためにご紹介しておきたい。

 次に3章の「争点ずらし」は本書の特徴をなしていると言って良いが、政治のメカニズムないし意思決定の過程がこんな単純な図式で説明できるとする研究者はまず、後にも現れないのではないか?逆に外国では、争点ずらしが出来ないから政権交代が実現できているということになるのか?

 4章の「各論反対」については、どこの国も改革が自分の裏庭で行われるのは反対であり、著者も認めるように民主主義に内在する特徴であって、特に日本の特徴とは言えない。それなら民主主義のない国は「混迷(定義は示されていないが)」は無いというおかしなことになってしまう。また、その中心的な論拠となっている著者のモデルである表6(p147)や表7(p149)などは日本特有であることを担保するものではない。

 時代と文化という視点はどうだろうか。民主主義国家の欠陥の一例として、ブキャナンは政策決定について、現在の投票者にとって負担がなく、短期的な利益になる決定が行われるので、結果として後世に負担を残す「赤字財政」が不可逆的に起こることを論証した。(ハイエクはこれに対して代議士の任期を20年にすべきなどと、あまり、いい解決策とは思えない提言がある)しかしこの問題を、本書ではあまり触れられていないが、グローバリゼーションという視点で考えると、さらに様相が異なる。財政赤字であっても世界からカネが集まる米国は安泰ということも現代では起こりえる。

 一方、米国では個人の所得は苦労した結果であり、本来は総取りだが、団体に供出するのが寄付で、国や自治体に提供するのが税金。日本では歴史的に、お上が税金を取ることに対してあまり、深く考えないし寄付金という概念は殆どないと言ってよいだろう。こういった夫々の国のおかれた文化などを考慮し、世界と日本のどこが違うのか考えてみてほしい。

 さて、本書の提言は「マインドを変えて、個の確立」をしようということである。勿論、個の確立している欧米では混迷はないのかというと、この提言はややこしくなるが、確かに現代の日本においては個の確立は大きな課題であり、本読書会でとりあげた「日本のフロンティアは日本の中にある」(過去取扱テキストご参照)などにも、21世紀は個の時代であることを強調されている。逆に、アレックス・カーの著作である「犬と鬼」や河合隼雄さんの阪神大震災の話(「日本経済の構造変動」に関する新野先生のコメントご参照)など、「個」が確立していないことによる日本の悲劇は数知れない。だが、それだけで果たしてよいのか?個が確立されている米国では会社は株主のもので、エリート大出身の経営の専門家に高い報酬を払いながら、従業員は兵隊というか生産の一要素に過ぎないという扱いをし、同じ米国人をクレジット漬けにするなどの「Poverty Business」が隆盛を極める米国流のやり方が、果たして正しい言えるのか?私自ら結論を急ぐのも良くないことだと思うが、「個」に対して「和」の果たすべき役割についても是非お考え頂きたい。

 最後に論旨とは全く関係がないが、本書では生物学と経済学が互いに影響しあって発展してきたことが論じられ、その例としてダーウィンがアダム・スミスの影響を受けた旨の記載になっている(p179)が、一般的にダーウィンが影響を受けたのはマルサスであることが定説となっている点も留意しておかれたい。

(筆者注:『人口論』では「人口は幾何級数的に増えるが、それを抑制するような環境の要因によって均衡が生まれる」という論理展開がある。ダーウィンはこれを生物に当てはめ、「産まれた子にも生き残れるものと死んでしまうものがいる」と考え、自然では生き残る数よりも多くの個体が産まれ、環境などの制限によって生き残るための競争が行われると考えた。そして、少しでも有利な形に変異した個体は生存の可能性が高まる仕組をダーウィンは「自然が個体や種を選択している」と解釈した。これは「自然選択説」と呼ばれ『種の起源』の骨格を成している。

 (平成19年5月19日、文責:管理人)

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ロナルド・ドーア著 「誰のための会社にするか」 岩波新書2006年7月

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 本書はここ15年の間に優勢になりつつある米国型の株主主権の企業観・制度改正等に対して、ステークホルダー重視乃至準共同体的企業体制の良さを見直し、それを現代的なものとして再構築すべき(筆者注:「M&A審査委員会の創設」p209「企業議会の設置」p224、「付加価値計算書」p225などが具体的に提案されている)という視点で書かれたものである。但し、従業員に関する記述は少し分配論が前面に出ており、やや無機質というか、従業員の役割を、付加価値を生む源泉であることを主張したほうが、日本人にはわかりやすかったかもしれないが、そのことは別にして英国人であり乍ら日本に関してこれほど理解が深く、また、整理された議論を展開していることにも驚かれたのではないか。

 しかし、本書の分析対象ではないのかもしれないが、現代企業がグローバルに展開していくには、大前提として「個」の確立が必須である。先日紹介した河合隼雄さんのお話(18年7月15日記事)や元一橋大の阿部謹也さんの「世間とは何か」(講談社現代新書)に示されているように、我々日本人には元々「個人」や「社会」の概念が存在せず、農耕民族的で主体性の無い「世間」が幅を利かせてきた。下手に論理を突っ張ると日本では「ウチの社風に合わない」となり、逆に欧米人からは「何が飲みたいか?」と問われれば、即答せず、周囲(世間)の状況を見て、おもむろに「ビール」では、気味悪がられるだけである。

 なぜ、日本人は論理的思考ができないか?このあたりは「日本語」に関係があるのかもしれない。欧米の言語は表音文字に基づき、主語、述語を明快にし、論理的な言語であるのに対し、日本語は元々象形文字を多用し、また、主語がなくても会話が成り立つ。元東京医科歯科大学の角田忠信さんによると、人間の脳は右脳と左脳とに分かれるが、右脳は音楽脳とも呼ばれ、音楽や機械音、雑音を感知する一方、左脳は言語脳で、人間の話す声の理解など、論理的知的な処理機能を持つ。ところが、西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に右脳で感知するのに対し、日本人は左脳が処理するらしく、言語を司る左脳で論理と非論理を処理する欧米人にない特徴を持っていることになる。明快な論理ができない、或いはしたがらない日本人の特徴を生み出している原因がここにあるのかもしれない。

 ところで本書の中に、良家の師弟がいい大学に入り、その後、官僚や一流企業に進み、エリートが海外留学するなど、アメリカンスタンダードに洗脳され、日本に株主主権の企業観等を定着させる底流となしているというユニークな論理が展開されているが、楽天の三木谷社長はそのエリートコースを辿りつつも、朝礼後社員全員で掃除をし、先日の講演では、講師でありながら聴講者に自ら進んで名詞を配るという、実に日本的なことを実践されている。ご本人は硬式庭球部のノリでということだそうだが、大変に興味深い。

 日本的な良さという点に関して、ダグラス・マッグレイは、今や経済成長だけが豊かさの基準とはいえず、世界はGNPからGNC(グロス・ナショナル・クール:「国民総文化力」〜クールはかっこいいの意味)をみる時代となっており、日本で重視されている礼儀、納入期限、品質管理、清潔感やきめ細かいニーズへの対応などを武器に、寿司などの日本食やアニメ、最近の日本映画など、失われた10年間で確かにGNPは低迷したが、GNCでは突出した伸びを示したと主張されている。

 エリートの職業観について。一流大学出のエリートでもない多くの創業者や建築家の皆さんを私は存じ上げているが、彼らの勤労意欲にはいつも脱帽している。学歴と職業倫理観の関係についても是非、皆さんで考えてみて欲しい。

 さて、最後に、本当に日本人がすばらしいのか?「美しい日本の残像」という本を書くなど、古き良き日本を愛した米国人アレックス・カーは、岐阜県の山村で立派な農家の後背地がコンクリートで塗り固められている風景を目の当たりにして絶句する。日本は小さな国土に面積当たりではアメリカの30倍のコンクリートを注ぎ込む土建国家で、そういった山間の風景、テトラポットで埋め尽くされた海岸線など、住民の安全を重視するあまり、美しい日本を失ったのかもしれない。欧米では、災害を起こりそうなところには住まないし、住まわせないという発想となるが、日本では住民の安全のため何をすべきかという冷静な議論をすることさえタブーであり、ジャーナリズムの一面的な取り上げ方と相俟って、住民エゴとポピュリズムがむき出しの結果になることも多い。

 以上、本書のステークホルダー重視の主張と併せ、今、述べてきたような日本人の特性などを考えてみると面白い議論となるのではないか。(平成19年1月20日、文責管理人)

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