ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2010年
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中谷巌著 「日本の「復元力」 ダイヤモンド社2010年5月

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 今回のテキストの著者である中谷さんは、小泉改革を主導した竹中平蔵さんらとともに、新自由主義的な構造改革論者の急先鋒であったが、前著「資本主義はなぜ自壊したのか(2008年12月」」で、グローバル資本主義あるいは新自由主義体制下においては、格差や経済の不安定化、地球環境破壊、拝金主義といった諸問題が必然的に起こるという論理を展開、(管理人注:「悪魔の碾き臼」と表現しています)これまで主張されてきたグローバル資本主義を真っ向から否定、ご本人の言う「懺悔」ないし「転向」とも言える主張をされたことで、学会、マスコミなど、話題をさらったことは皆さんもよくご存知の通り。但し、前著においては、新自由主義の生み出した諸問題に対する具体的な処方箋を提示できなかった(管理人注:実現性はともあれ、世界中央政府、世界中央銀行等、世界的にグローバリゼーションを統制できる仕組みの必要性を論じています)こともあり、本書で、改めて、その解決策を日本の歴史の中に求めてみようというアプローチになっている。

 具体的には、江戸時代以前の日本の精神文化が世界に特筆すべき日本化力(外国の文明・文化を自分流に焼きなおす)の源泉であったことを論じ(第一章)、一方、明治の薩長史観や戦後のマッカーサーの占領政策を経て、日本人が歴史と伝統を忘れ、その意味では、骨抜きにされ、免疫能力を失い(第二章)、80年〜90年代以降、グローバル資本主義に翻弄される日本の姿を描いている(第三章)。一方、世界がうまくいかなくなったのは、前著の懺悔の本(「資本主義はなぜ自壊したのか」)が詳しいのだが、ここでは、ヘブライイズムとヘレニズムの融合の結果、自然征服論・自然機械論による環境破壊、エリートの階級意識、心の空白の問題など、西洋的価値観ないし近代合理主義の限界にあるとの議論を進め(第四章)、非西洋の国、非キリスト教徒の国でありながら、世界ナンバー2の経済大国になった日本とその背景にある日本人の自然観、宗教観こそが、行き詰まりを見せている世界経済になんらかの貢献ができるのではないかと主張し、そのためには迂遠であるが教育改革しかないと結論付ける(P221)。

 但し、本書に書かれている日本の歴史認識は、戦後の自虐史観を見直し、新しい歴史教科書をつくったり、精力的に、雑誌「正論」や「WILL」などに寄稿されたりしている方々の議論とかなり似通った内容であるように思える。「歴史」の真実はひとつであるはずだが、それをどう解釈し、どう書くかは、議論を展開する人のイデオロギーに大きく依存し、また、時代よっても「歴史」の捉え方は変質せざるを得ない。日本の戦前と戦後の例はもとより、中国では王朝、あるいは皇帝が変わるたびに「歴史」は根本から書きかえられる。共産党体制下の中国もリーダーが変わると「歴史」は変容する。本書では高校で日本史が必修でないのはおかしいと言った主張がされているが、一方では、歴史を見る目が一面的な見方になっていないか、冷静に判断できるようにすることも重要と言えるだろう。とは言え、正直申し上げて、私の知らなかったことも多く書かれており、大変に興味深く読ませて頂いたことも事実である。

 今回の議論の中で、三木君より、チリの鉱山事故の救出劇に際し、みんなが「チリの国歌」を歌っている姿を見て、もし同様なことが日本に起こっても「君が代」を歌うことなどないではないかと言った話が出されたが、残念ながら、日本で国家を歌うのは、公的行事などを別にすれば、大相撲の千秋楽以外くらいしかないといったことになる。スイスでは全ての山の頂上にスイス国旗が掲げられているのに、最近の日本人の家庭では祝日に国旗を掲揚することをしなくなっている。また、英エコノミスト誌(6月3日号)では、「Leaderless Japan」と題する特集記事が掲載され、表紙に日の丸が落下するひどい絵が描かれていたが、国旗が侮辱されたとは思う人は殆どいないのが現実であろう。自分の国のことを語れない根無し草になってしまった日本人の実態が、この本に大きく取り上げられているが、愛国心、アイデンティティと言っても良いが、教育のあり方を本気で考え直すべきという問題提起は傾聴に値する。

 歴史を考えると言う意味では、正村公宏(専修大学経済学部名誉教授)さんの「日本の近代と現代 歴史をどう読むか」(NTT出版)という本が参考となると思う。正村さんはお子様や奥様を介護しながら、研究・執筆活動をされており、その意味でも、頭が下がるのであるが、本書では日本人の失敗の歴史と現在の日本の危機をテーマに過去の歴史が詳細に分析されているので是非ご一読を。

 話は変わるが、本書では、米国で行われる寄付の額が半端じゃないことに関して、中谷さんはキリスト教的贖罪によるものではないかという解説されている(p180)。報酬体系や税制の問題はあるが、確かに日本や中国には本格的な寄付の文化はないと言ってよいだろう。先日の報道によるとビル・ゲイツとウオーレン・バフェットが慈善団体への寄付を呼びかけたところ、著名な40名ほど(※)がこれに応じた。しかも、殆どの人が、全財産の半分以上を手放すらしく、寄付の総額が50兆円になるそうで、流石に驚く限り。日本ではここまでの気前のいい話は殆どない。(※管理人注:マイケル・ブルームバーグ氏、映画王バリー・ディラー氏、オラクルのラリー・エリソン氏、石油王T.ブーン・ピッケンズ氏、メディア業界人テッド・ターナー氏、デイヴィッド・ロックフェラー氏、映画監督ジョージ・ルーカス氏など)

 さて、中谷さんがご自身の研究の中で、従来、余り省みていなかった、歴史を懸命に勉強され、西洋文明の行き詰まりを打開するのが、日本の精神文化であると主張されるが、ならば、原点回帰というか、江戸時代以前の精神文化やものの考え方に戻ったところで、長期に亘って低迷している日本が、どの程度、復元し、未来に亘って、国民を幸福にするとともに、グローバリズムに代わり世界経済に貢献することができるのか、十分な議論がなされているだろうか。別の言い方をすれば、教育改革などを中心とした本書の主張が実現されたとして、タイトルにある「日本の復元力」、即ち、日本を復元する潜在力として、どの程度、力を持つのか、説得力がある議論となっているとは言い難いのではないか。(管理人補足:早大の若田部昌澄教授は「経済学者なら、経済学的知見をもって語るべきだ。格差の原因も、経済学的に精査すべきだろう」09年3月14日asahi.comと論じておられます)

 一方、本書ではグローバリゼーションの弊害ばかりが論じられているが、当然、グローバリゼーションの成果についても、冷静にそして公平に評価されなければいけない。消費者にとっての新興国の提供する低価格商品や市場としての新興国の成長の恩恵などがそうである。

 また、?小平が登場するまで、長い停滞と貧しさを強いられた中国人にとってグローバル経済とはなんであったか。今回のノーベル平和賞にみられる一連の騒ぎの根本にある「民主主義」を要求する人々や、時代の流れだとかに、どう対処していくか、また、経済成長の過程で発生してしまった格差、即ち、上位1%の富裕層が4割の冨を保有すると言う極端な格差をどう解決するかという問題は残るものの、グローバル資本主義がもたらした経済成長は全体として中国を大きく発展させたのは間違いなく、それまでの体制下の中国と比べ、国民は格段に豊かになったのである。

 何度かお話をしたが、紀元前400年にプラトンの対話集「国家」の3種族のうち、今般のサブプライム問題を引き起こしたのは自分の欲望、金儲けを追い求める鉄と銅の種族であったが、プラトンはこの鉄や銅の種族を否定するのではなく、ただ、ひたすら善を求め、理性に従って行動しようとする金の種族が国家を統治すべきであることを論じた。勿論、今回のような危機を克服するため、なんらかの規制は必要であり、また、現に新しいルールがつくられつつあるが、規制さえすれば、問題を解決できるという単純なものではない。

 現政権下では様々な規制が復活したり、さらに景気対策と称して赤字予算を組み、公共事業や農業対策などを中心にバラマキをやっているが、緊急避難的な側面はあるものの、戦略的に日本経済を考えたとき、そこに何の解決があるだろうか?大事なのは日本人が何かやってみようと言う気持ちを生む仕組みづくりであり、そこにはなんらかのルールが必要だが、一方、参入障壁を減らし、各々が自由な発想でやってみようという「ポジティブな心」がより重要である。ノーベル賞を二人も出すなど、潜在力をもつ国民の力をどうやって引き出すかがポイントであり、そのための具体的な処方箋が必要である。ただ単に、現状を憂いたり、逆に、主流となっている流れに同調するような評論家になってはいけないのである。                                                                                                                                       具体的な対策を考えてみると言う意味で「組織」について再考してみよう。過去何回か、伊那食品工業の塚越さんが提唱される「年輪経営」が ひとつのヒントになるということを申し上げたことがある。即ち、塚越さんは二宮尊徳の「遠くをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う」を実践され、企業も敢えてゆっくり成長すべきであり、常に長期的な視野にたって、経営を考え、従業員を解雇しないという。ただし、このような理想的な企業経営ができるのは、塚越さんご本人の従業員に対する愛情が最大のポイントであるが、一方では、「年輪経営」の成功はグローバル経済の影響を殆ど受けてない事業環境もその成功要因のひとつとなっており、これを例えば、東芝やトヨタのようなグローバル企業に当てはめることは難しく、別の仕組みを構築していかなくてはならない。

  内田幸雄さんの「日本の会社はアマチュアリズム」(マネジメント社)などで詳しく論じられているが、日本企業では学校を出た同期が平等に入社、一通り、ジョブローテーションを経てゼネラリストの道を歩むというのが一般的で、実績や専門性が評価されれば報酬がどーんと上がる外国企業と大きく異なる。その意味では、平等で大家族主義的な暖かい組織がそこに形作られることになる。しかし、昔ながらの日本企業の人事制度では優秀な外国人は雇えないし、とりわけ、外国へ進出した企業では様々な困難な問題に直面することになる。また、外国企業で活躍できる人材も日本では生まれにくいということになる。

 人を大事にする組織という意味では、GEのジャック・ウェルチは株主価値を大いに上げたが、一方、株主価値のみの追求では駄目で、活気ある従業員の役割を力説する。これらは中谷さんの描く米国の企業と言うより、日本企業とよく似ている部分でもあり、組織やその他の細かい仕組みづくりが、従業員のやる気を出させ、取引先などステークホールダーの満足を高め、結果として株主価値も上がるのである。(管理人注:ジャック・ウェルチは部下の士気を高める7つのツールとして?報酬?仕事の面白さ?楽しい同僚?認めてあげること?お祝い?)社員の身も心もとらえて離さない偉大なミッション?ギリギリタッチできる目標設定を掲げ、特に??などは日本企業よりきめ細かい面もある一方、人員合理化に加え、特に世界シェアで2位を確保できない部門を大胆に売却するなど、会社を残して、人を切ることから、建物を破壊せずに人だけ殺す中性子爆弾のジャック(ニュートロン・ジャック)などという渾名もあります。)

 そこで、アルフレッド・マーシャルの生産要素論を思い出してみよう。100年以上前にマーシャルは土地、労働、資本と言った従来の生産要素に加え、四つ目の生産要素として組織(広義の産業組織)をとりあげた。この組織は?企業組織(一企業ないし企業群)?産業組織(業種間の組織)そして?政府、国の組織である。土地、労働、資本がグローバリゼーションの中で流動化する中、四つ目の生産要素として組織をどう組成していくか、企業レベル、産業レベル、そして、とりわけ、政府、国のあり方をしっかり考えなくてはならないのである。

 国のあり方を考えるという観点で見た場合、本書を通じて、過去の日本の歴史の重要性を読み取っていただいたと思うが、逆に、歴史だけがこの閉塞感を打開するというものでもないことも、同時にお感じになっただろう。神戸大学では、09年のノーベル経済学賞を受賞されたカリフォルニア大学バークレー校のオリバー・ウィリアムソン教授(ロナルド・コースとともに取引費用の研究の第一人者)をお招きし、講演(10月17日)をお願いしているが、氏は、自分の専門分野を越えた学際的な視点をもって、今日の課題を解決することの必要性を強調される。私も全く同感で、今こそ、私のようなものではなく、若い経済学者、経営学者、政治学者などの社会学者や広く経済界などから、叡智を結集し、どうすればこの閉塞感から脱却できるか、そして日本を再び大きく羽ばたかせることができるか、国家レベルの大掛かりな共同研究をすべき時ではないか? (平成22年10月16日 文責:管理人)

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神野直彦著 「分かち合いの経済学」 岩波新書2010年4月

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 現代人のルーツといえば約15万年前のアフリカの1人の女性に遡ることができるらしい。ヒトのDNAの研究の成果であるが、以来、人類は世界に広がっていった。一方、日本列島が生まれたのは約2,000万年以上前で、1,500万年前に日本海が形成されたらしい。今も鳥取、兵庫県、京都など日本海側には美しい海岸線があるが、そのころに出来たものである。そして、約2万円前の氷河期に大陸と日本が陸続きであったころ北方や南方、あるいは中国から日本人の祖先が渡ってきた。しかし、先に申し上げたように、遡れば、人類のルーツは、たった一人の女性であり、皆が同じ先祖を持ちながら、そして、DNAの差など、本当に僅かな違いしかないのに、実に多様な民族、宗教が生まれ、また、国民性と呼ばれるものや、主義・主張、思想と言ったものが形作られ、あるものは、論争や対立を引き起こし、現在も続いているのである。

 そんなことを思いながら、サブプライム問題など現在の経済体制の問題点が露呈する中にあって、本書のタイトルにあるように「分かち合い」という発想は益々重要度を増しており、今回この本を読書会のテキストとしてとりあげた理由のひとつである。神野さんは菅総理大臣のブレーンとして活躍しておられ、民主党の政策に少なからず影響を与えていると言われるが、本書を読んでおわかり頂いた通り、神野さんは新古典派経済学とその思想背景となっている新自由主義を激しく非難し、スウェーデンを手本とした大きな政府(p108の「国民の家」など)、言い方を変えれば、悲しみを分かち合うという意味のスウェーデン語である「オムソーリ」に根ざした国の仕組みづくりを提案しているのである。分かち合いの原点は家庭や一昔前の地域の共同体ということになるが、家庭では、譲り合いや我慢など助け合いの精神が基本となっており、この精神があって初めて、円満な家庭が築かれることになる。本書では、この分かち合いの精神を国家単位で受け入れ、大きな政府、従って、高負担を許容しつつも、医療・介護、教育そして失業対策等、安心できる社会の仕組みづくりを目指し、国家の在り方を議論する必要性を訴えているのである。

 尤も、ゼミ生の指摘も多かったようだが、本書には所得分配等が平等であること(p77など)、経済成長率も日独を上回り米国並みであること、財政収支が良好であること(p131)などが記載されているものの、総じて、手本とすべきスウェーデン経済の分析・検証、説明が十分ではなく、少し迫力というか、説得力に欠けるのでないかという印象は否めないだろう。

 少し、同国について補足すると、まず、日本総研の湯元健治さんが「経済成長と福祉の両立を実現するスウェーデン・モデル(エコノミストレポート2010.5.18)」と題して、同国の経済の分析を行っているので紹介しておきたい。そこには、高福祉・高負担国家でありながら、スウェーデンが高い国際競争力を有し(世界経済フォーラムランキング4位)、また、比較的高水準な経済成長率、積極的な職業訓練制度などが書かれている。特に女性の就業率(78.2%、OECD諸国2位、日本は62.3%で19位)は特筆すべきで、女性が社会進出しやすい環境が整備されていることを物語っている。(管理人注:その他に「同一労働・同一賃金」が原則となっていて平均賃金を支払えない企業が淘汰されること、また、かつて高い税率の弊害も指摘されていた法人税が26.3%と日本の39.5%を大きく下回る点などがレポートされています。)

 競争力の源泉のひとつに「教育」があるが、スウェーデンやデンマークなどは教育関連費が対GDP対比、日本の倍(p88)であり、教育熱心なお国柄が理解できるだろう。また、お隣のフィンランドも小国が生き残っていくために、極めてユニークな教育制度(英語教育、リーダーシップ教育など)を導入していることで有名であることも付言しておきたい。

 ところで、これらの北欧諸国が、高福祉政策を採り、所謂、分かち合いを重視した経済運営を行っているのは、過去の歴史が大きく関係しているのである。即ち、1917年にお隣の、大国ロシアで共産主義革命が起こり、社会主義の影響が世界に伝播するが、スウェーデンでも1932年に社会民主労働党政権が成立し、社会民主主義の政策を採用、世界大恐慌の荒波を切り抜けることに成功したが、以後、世界でも有数の福祉国家として歩み続けることになったのである。

(管理人注:本書では米英流の貧困者への現金給付型の社会保障制度の問題点を列挙し、スウェーデンの育児・介護・医療等の対人サービスの無料化を、格差や貧困を解決する結果をもたらすものとして推奨(p115)しています。また、小さな政府である米国や日本での巨額の財政赤字を指摘し(p131)、さらに、米国においては、格差の拡大を通じて社会不安が増し、警察や刑務所などの治安維持が教育費を上回る事例があることを紹介し、「小さな政府」を皮肉っています(p135)。また、「誰でも、いつでも、どこでも、ただで」を標榜する生涯学習制度であるリカレント教育(p167)を揚げ、同制度が成長産業への雇用シフトを促進するものとして賞賛しています。)

 さて、行過ぎた新自由主義の弊害が言われている中、本書の主張は大変意義深く、また、少し礼賛しすぎる点は抜きにして、スウェーデンという参考となる成功事例もあるが、一方、これを今の日本で実現しようとした場合、どんなことが起こりえるのか事前に予見し、また、どういったやり方でコンセンサスをとり、どういった手順ををとって導入がなされるべきかなど、具体的な政策にまで落としこんで、多角的に議論が尽くされなくてはならない。

 少し横道にそれるが、民主党政権になり、従来の官僚主導の政策運営を変えようとするあまり、一部の経済学者が民主党の政治家からアイデアを求められて、大変に忙しいようだ。政策提言がいけないと言うことではないが、十分な検証も無いまま、ただ、大衆受けするようなユニークな提案ばかりが採用されるようでは、国はおかしな方向に進んでしまう。現在、批判の矢面に立っている官僚は、ある意味、政策の勘所というか、経験があり、また、国会、政党、そして、有力政治家などのどこをどう動かし、どう押せば、物事が進むか知っているが、学者はともすれば、理念ばかり先行し、経験不足も相俟って、そういった現実的な対応ができないことも多いのではないかと思う。所詮、社会科学の領域においては完璧な学問などは存在せず、また、主張を通さんがための「answer-begging-question」的なアプローチに陥り易い経済政策の分野においては、特に注意が必要だ。

 さて、米国のサブプライム問題に端を発した今般の経済危機は、今やギリシャ問題など、ヨーロッパに、その震源地が移っているが、多くのメディアや専門家などは、その原因をEUや通貨ユーロを含むヨーロッパの経済体制そのものの問題点、構造的欠陥として取り上げ始めている。かつて、テキストとして取り上げたミッシェル・アルベールの「資本主義対資本主義」では、新自由主義を旗印にした米英流のアングロサクソン系の経済体制より、効率一辺倒ではなく、人間関係にも配慮した日本や欧州のアルペン型資本主義の優位性をぶち上げたが、現在は欧州の伝統的な体制や硬直性が、問題の遡上に上る結果となっている。ここでは多くを触れないが、本書と関連して考えてみるべき視点であろう。

 北欧の分かち合いの精神に関連して、思い出すのが米国の生協活動。米国は自助のお国柄で、こういった活動は概して低調であるが、かつて、米国の最大の生協であったバークレイ生協(カリフォルニア)は、北欧からの移住者がその中核のメンバーとして活躍したことは、大変興味深い。元論、北欧の伝統に加え、米国には未だドイツ語しか話さない小グループや出身国の文化を保ちながら生活する集団の存在に見られるように、多様性の国であることも、その背景にある。

 負担、特に税金の考え方について、少し、コメントしておきたい。税負担には二つの考え方があり、ひとつ目は、国が一方的に奪うものであるというもの。日本の場合は、租庸調の時代から、こういった考え方(上から与えられるばかりで、何も考えていないというゼミ生の声もあり)が主流であり続けたように思う。もうひとつは、自分たちが一生懸命努力して稼いでも、自らの力だけでは実現できないことを、お互いが費用や労力を負担しあって手に入れようとすることである。所謂、「補完性原理」と呼ばれているもので、保安官の設置や消防などの個人や仲間内では生み出せない公共サービスを実現するために、一定の税金を支払うという考え方である。欧米ではこの補完性原理などをベースに、税金、負担と国家の役割といった問題を総合的に斟酌しながら議論されることが多い。

 一方、翻って日本。山本七平さんの議論ではないが、日本の特徴のひとつは、縄文以来の「稲作文化」を今に引き継いでおり、その結果、争いが起こったとしても折り合いを付けて、深追いせずに共存する道を探し出そうとするやり方を重視してきたということであろう。稲作というのは、灌漑や水田作り、田植えや稲刈りなど、単独でこれらを行うことは難しく、ムラという共同体での集団作業が必要であり、共同体意識が根強い国となったのである。因みに、同じ稲作中心の中国では、血縁、或いは、氏族と言っても良いだろうが、これらを中心とした共同作業が主流となる点で、日本とは異なる特徴を有している。古来、封建領主は、民衆からすれば、神様に近い存在であるが、上杉鷹山などは、庶民と変わらぬ粗末な服をまとい、粥をすするといったことをした。毛沢東が連日連夜ダンスパーティに興じた(管理人注:毛沢東の主治医の回想録である李志綏著「毛沢東の私生活」文芸春秋など)のとは全く対照的である。

 尤も、本書では増税などの負担に抵抗する国民についての言及があった(第5章)が、今般の参議院選挙では消費税が争点となり、個人の不満・批判が噴出するかたちとなった。わが国では、消費税率の引き上げなど、負担増についてのアレルギーが強く、議論できる環境をつくることすら、なかなか困難であるのが現状であろう。ゼミ生の発言にもあった給食代を払わない親などもいて、日本人が本当に協調性を重んじているのか疑わしい。ところが、政府に対して全幅の信頼を置いているわけではあるまいが、米国と異なり、税金を給与から天引きされても全く平気なのである。

 最後に、最近、大学の奨学金の申請をみてみると、極端な低所得者が増え、また、離婚が増えたのか、母子家庭なども多く、一昔前では一般的であった「普通の家庭」が維持できていないケースが増えているように思う。一方、大不況とはいえ、生活保護の水準は最低賃金よりも高い場合もあるようで、なんとか、食いつないでいけるのかもしれないが、個々の現場で、経済や産業全体が落ち込んでも、動じない、ビジネスモデルを、いかに築いていくかが、今まで以上に重要となってきていることは言うまでもない。そんな中、高橋宣行さんの書かれた「発想職人のポケット・・・カタチのないものをビジネスにする55の言葉」(小学館)というのが、大変面白いアイデアを提供してくれているように思う。著者は広告代理店出身のコンサルタントだが、本書を読むと「そういえば、思い当たるなあ」という部分が多かった。価格も1050円と手ごろな本でもあり、是非読んで見られたら、いかがかと思う。 (平成22年7月17日、文責:管理人)

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ロバート・スキデルスキー著 「なにがケインズを復活させたのか?」 

日本経済新聞出版社2010年01月

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 エコノミストの最新号(Apr 8th 2010)に「 Sleepwalking towards disaster(大惨事への夢中歩行)」と題して日本の負債(Japan's debt problem)について特集が掲載されている。過去20年にわたる経済の停滞を経て、今や日本はGDPの1.9倍の公的部門の負債を抱えるまでになり、その他の経済に関する指標も、世界トップクラスであったものが、軒並み急降下している様子が書かれている。そして、エコノミスト誌は特に、以下の3点を指摘している。まず第一に、ギリシャとは異なり、日本の国債は殆どを国内で消化できるから、現時点では大きな問題となっていないが、貯蓄率が現状の水準を維持できたとしても、本格的な少子高齢化時代を迎え、いずれは、国債を国内の資金で吸収することができなくなる恐れがあること。第二に、デフレ経済の進展により、公的負債のGDP比率自体、益々重たくなっているが、今も、デフレ構造からの体質改善が進んでいないし、どう進めていくか具体的な対策は無きに等しいこと。ただひたすら、外需頼みというのでは解決策にならないのである。三番目は、経済成長率をどう高めていくかということである。経済低迷が続くと国債を償還する税収の確保も難しくなっていく。それどころか、今年度は、税収を上回る国債の発行に踏み切ったが、成長戦略の具体像は無い。

 エコノミスト誌は最後に、自民党長期政権から民主党に政権が移ったことで、政権発足時、現下の閉塞感の打開を目指し、大胆な改革を進むとのかすかな期待があったが、今はそれも裏切られたのではないかと結論付け 、タイトルにあるように「Sleepwalking towards disaster」という、日本にとって有難くない表現になったのだろう。(詳細はhttp://www.economist.com/displayStory.cfm?story_id=15868024)

 そう言えば、日本IBMさんより、バックアップして頂いている六甲会議の今年のゲストは小泉元首相。小泉さんは、「今の政権は当座の選挙対策ばかりで、政策に一貫性はなく、そもそも改革などは本気でやろうとしていない。しかも、鳩山さんも小澤さんも自身の政治資金の問題を抱え、身動きがとれないし、普天間問題はかえって問題を複雑にしてしまった。国民は今の民主党に失望し、政権交代だけでは何も変わらないことを実感しているのではないかな、、、。」といった自説を展開された。蛇足ながら、興味深い話として、小泉さんの5年にもなる総理大臣の退職金が650万円だったのに、知事や市長は一期5,000万円、独立行政法人などのトップは数千万円ということなのだそうで、こういったところにも、日本の問題の根深さがあるように思える。

 さて、今回のテキストを書いたスキデルスキーはケインズ研究の第一人者で、彼の書いたケインズの伝記など、日本においても評価が高い。テキストにご自身も書いている(p9)のだが、彼が経済学者であると同時に、歴史学者、あるいは思想史家であったことは、ケインズの評価者としてふさわしいとも言え、皆さんも本書がある程度客観的に、また、忠実に書かれているとお感じになったのではないか。そして、ケインズ理論として喧伝されている内容と少し違ったケインズ像を感じたというゼミ生の感想もあったが、まさに、それが本書の価値のひとつであろうし、本書をテキストにした理由のひとつである。

 即ち、ケインズは単純な赤字論者ではなく、通常は黒字であるべきであると考えたし、失業は全てが総需要の不足によるものではなく、寧ろ、賃金と物価の硬直性に主因を求めていることも本書に書かれている。他にも、ケインズは、基本的には自由主義者であり、国有化や規制にも否定的(あくまでも需要の管理であり供給の管理を目指していない)であったことや、インフレ論者でなく物価の安定を重視していたこと、さらには、保守主義者でもあり、所得格差を容認していることなど、ケインズ主義とかケインジアンの政策と言われるものとはかなり異なったケインズ像を本書から読み取ることができる。(p16他)

 アダム・スミスも自由放任や市場原理主義の権化・提唱者のように画一的に扱われてきたが、経済思想家でもある水田洋さん(元名古屋大)や、1年前に読書会で取り上げた堂目卓生さんなどの議論の仕方、即ち、『国富論』の議論の前提に、『道徳感情論』で描かれたような倫理の問題、特に心の中の良心(心の中の公平な観察者)を資本主義社会の発展の基盤があるとする見方が、アダム・スミスの実像に迫ったものとして評価されている。ケインズもそういう意味において、本人が意図するところを離れて、後世の学者や研究者、或いは政策担当者が、自分の言わんとしていることのために、都合よくケインズを解釈して、活用して来た(※)のであるが、本書はそういう意味で、ケインズの経済理論のみならず、生涯を紹介し、人物像や人柄、倫理観、政治姿勢、思想的背景などを、整理しながら、ケインズの実像を描き、また、ケインズの今日的な意義を考えていこうと試みているのである。(※管理人注:「ケインズ主義はケインズの残した考え方ではなかった。(新古典派経済学者などに)攻撃されたのは藁人形だったとも言える」p161)

 尚、第四章に希少性、通貨の中立性、均衡の重視、合理的な経済人の前提など、ケインズ以前のポイントを、、、現在の新古典派経済学のポイントともなっているが、、、要領よく解説してあり、一方、不確実性の前提から有効需要、流動性選好、賃金・物価の硬直性などケインズの中心的な考え方が総括的に示されており、大変わかりやすいものとなっていることも本書の特徴であろう。

 そして、ご存知の通り、60年代後半より、ケインズ経済学はインフレ・スタグフレーション、為替問題、財政赤字とそれと関連する大きな政府など、ほころびが生じるようになり、やがて、フリードマン、ハイエクなどが台頭、新古典派経済学が経済学の主役に返り咲くこととなる。(第5章、この章には新古典派と合理的予想経済学派(ロバート・ルーカス)、ポストケインジアン(デービッドソン)、新ケインズ派(スティグリッツ)、新・新古典派総合、公共選択理論等の動きが示されています)

 さて、現代の経済学においては、まず、経済モデルをつくりあげ、高度な数学的・統計学的手法によってその経済モデルの妥当性に関して、時にはスーパーコンピュータを使って、実証分析を行うというやり方が主流(p9)となっている。高度な数学は確かに一定の説得力を持つが、そのモデルに固執するあまり、経済学が自然科学ではなく、社会科学の一分野であることから、自ずと限界があることを忘れがちとなる。(管理人補足:ケインズは計量経済モデルの多くが無原則であると批判している。p142)

 物理学などの自然科学においては、実験は何度繰り返しても同じ結果が得られるが、経済学はそうはいかないから、結果として多くの学派が生まれることになる。私が国民経済雑誌に最初に書いたのが、シュラー(G.J.Schuller)の「経済学の方法における孤立主義(Isorationism in Economic Method)」と題する論文。資本主義経済という同じ事象を見て多様な学派があるのは、研究者のイデオロギー乃至着眼力に起因する「answer-begging-question」的なアプローチによる唯我的論理解釈に起因するとした。具体的には、はじめに「こういうことを言いたい」と着想すると、「そういう答えを引き出すのに最も有用な論理」を使い、「それが言えるための前提条件を予め明確にしておく」といったやり方である。不確実性を前提とするケインジアンと市場への全面的な信頼を前提とするマネタリストの論争、ここでは、海水学派と淡水学派といった言い方がなされているが、学派間の論争という特有の結果を生み出す所以である。

 倫理の問題について、考えてみたい。本書の指摘を待つまでも無く、今回のサブプライム問題の原因として、新古典派経済学の倫理観の欠如に一因があるという見方が一般的になっているが、第六章にケインズの倫理観について書かれている。経済活動が人々の「良い生活」実現のためにどうあるべきか、ムーアの哲学、特に直観主義とブルームズベリー・グループ(20世紀初頭〜第二次大戦期の英国の学者・芸術家のグループ、ケインズ、バートランド・ラッセル、ヴァージニア・ウルフなど)との関連に着目し、新古典派経済学に欠落している倫理の問題を扱い、議論が展開されている。第七章にはケインズの政治学について書かれている。ここでは、18世紀の英国の政治家で哲学者でもあるエドマンド・バークの保守主義と皆さんがご存知のハーヴェイロードの前提(政策実施は少数の賢人が合理性に基づいて判断するという前提)の議論である。そして、前述したとおり、平等に関して反対の立場をとる(「階級闘争が起これば、教養あるブルジョアジーの側に立つ」P234)。少し、日本人には馴染めない発想かもしれないが、英米、特に米国では、「公正」は確保されなければならないが、「格差」は努力の成果であり、ある程度許容されなければ、却って不平等であるとの強い考え方があることも付言しておきたい。

 また、京都大学の間宮陽介さん(「雇用、利子及び貨幣の一般理論」の新訳(08年)も有名)は経済政策に倫理及び公共性を持たせるべきであると主張されているのだが、ケインズの考え方について、思想・哲学はプラトン派で、政治的には現実主義のアリストテレス派であるという風にわかりやすく、述べておられるので、念のため紹介しておきたい。

 さて、本書では淡水学派(新古典派)の経済学者が、高度な数学の習得に忙殺されて、他の学派の考え方や経済社会の現実を知らないという主張がされている(p62)。確かに、多くの研究者が、図式化されたサミュエルソンの「経済学」を教科書に使って勉強を始め、ケインズの「一般理論」を読むより、個別の議論を数式化に成功すると評価されるので、その方面ばかり熱心に研究することになる。従って、倫理観などを考える余裕も必要も無く、結果、視野が狭い、現実離れした論議に偏向することが多いのかもしれない。(管理人補足:大学院でのマクロ経済学の教育について、経済学以外の歴史学、哲学、社会学、政治学、生物学など、幅広く学び、回帰分析型の教育から脱皮すべきだと主張されています(p280)。)

 この議論と関連して、JFEホールディングスの社長をされた數土(すど)文夫さんは経済学などを学ぶ上で、現実の社会を把握できる仕組みづくり、学と民との交流の重要性を強調される。「JFE21世紀財団」は調査・研究助成活動を通じて社会に開かれた存在をめざし、社会との共存共栄をいっそう進める趣旨で設立され、東大の吉川洋さんが加わっておられるが、もっと、このような動きが活発になるとよいと思う。(管理人注:この財団には新野先生も理事として加わっておられます。)

 テキストの中にケインズの国民の素質の問題(p246)が書かれている。ケインズの分析としては極めてユニークな取り上げられ方であるが、高等教育を受けた国民の数がイノベーションや経済成長の鍵を握っていることは間違いないものと思われる。 これに関連して、イエール大学のリチャード・C.レビン学長は雑誌『foreign affairs』の5月号に「アジアの大学は世界のトップを目指す」というレポートを寄稿しているが、とりわけ、中国とインドを取り上げておられる。両国とも人口が多い上、中国は過去10年で大学の数が倍、学生数は4倍になったし、インドは大学進学率が同時期に13%増えていることが書かれている。特徴的なのは中国で、世界中から人材を集めることに熱心で、これを大学のみならず、経済の活性化にもつなげようとしている。但し、世界的な競争が激化する中、今後、必要とされるのは、独創的な人材であり、単純に専門知識を暗記するというのではなく、問題を解決し、技術革新を促し、社会をリードしていくのに必要な、クリティカル・シンキングの実践ができる人材であるが、その意味で中国は一党独裁的な体制であり、自由な発想を阻害する可能性があるとしている。一方、思想的に全く統制が無いと言ってよいインドが有望であると持ち上げているが、いずれにしても、アジア全体では独創性を重視した教育システムという点において、概して不十分であると指摘している。

 一方、逆行しているのは日本で、大学への予算は毎年のように1%程度カットされているが、予算の水準はGDP比で言うと、EUが1%、米国が1.2%であるが、日本は0.5%に過ぎないのにである。

 最後にリスク、不確実性と規制について考えてみたい。サブプライムショックにより、新古典主義への批判が高まり、ケインズ主義が見直しされているが、西君が指摘したように、政府による規制を強化し、倫理を強調しつつ、ケインズ的政策を実施したとして、サブプライムのような問題を防ぐことができると言えるのかということに関して、本書は、面白い視点を提供しているものの、必ずしも成功した議論になっているとは言えないだろう。(管理人注:本書は?金融の抑制?マクロ経済政策(マクロ政策手段の拡充)?貯蓄過剰への対応(貯蓄・投資の構造的な不均衡是正のために管理変動相場制への移行も展望)?グローバル化の限界→各国が国内政策で完全雇用を実現すべき?経済学の再構築(歴史・哲学当、幅広く学ぶべき)を提言しています(第八章))

 先日、日経新聞に「規制バブルにご用心」というコラムが掲載されたが、規制のラッシュが経済の活力を奪うのではないかと言った問題点を提起している。一方、ポール・クルーグマンなどは、オバマ政権に対して、もっと、徹底的に規制を強化すべきだということを主張(クルーグマンはコラムや論文において、オバマ大統領とその信奉者を攻撃し、「生ける屍」でしかない金融システムの延命を図っているとかなり強烈に批判)しているのである。どちらが正しいのか、簡単に結論が出る話ではないが、日本リスク研究学会会長の酒井泰弘さん(昭和38年神戸大経済卒)が、「リスクの経済思想」(ミネルェァ書房)という本をお書きになっているが、リスクと不確実性(両者をケインズは明確に分離しているp259)の問題について、思想、時代背景などにまでメスを入れ、意欲的に解説されているので、是非とも参考にされたい。

 勿論、サブプライム問題で矢面に立っている金融機関や格付け機関などは、必ずしも、リスクを隠したりといった意図的なことは無かったのかもしれないが、リスク、不確実性と規制に関して、金融機関や格付け機関、ヘッジファンドのあり方はどうあるべきか、また、政府、中央銀行やジャーナリズム(世論の形成)はどんな役割を演じるべきかなど、この問題を冷静に考えてみることが重要である。(平成22年4月24日:神戸都市問題研究所/文責管理人)

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塩野谷祐一著 「エッセー 正・徳・善 経済を投企する」 ミネルヴァ書房 2009年10月

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 著者の塩野谷祐一さんは、古くから大変深いお付き合いを頂いているが、その関係もあり、私は、近々にも、この「エッセー 正・徳・善」に関する書評を書くことになっており、塩野谷さんからは、「経済哲学原理」他、関連の著作を送っていただいている。ところで、塩野谷さんが会長をされている家計経済研究所の理事長の木下さんは、神戸にもあるホテルモントレーや金融業などで成功されたのだが、神戸においても留学生に対して家賃が無料の宿泊施設をつくって頂いたり、各種奨学制度を設けて頂くなど大変にお世話になっており、そう言った意味でも、何かのご縁を感じる次第である。

 さて、経済学はアダム・スミスや、本書では特にリカード以来ということになるのであろうが、経済を市場に委ね、利己心、合理性を徹底的に追求することで、資源の効率配分と生産の極大化が実現し、また、生み出された富の分配に関しては「パレート最適」の議論にみられるような、社会の経済的厚生を増進すると言ったベンサム流の功利主義が主流を占めてきた。本書ではそういった功利主義、ここでは「善(本書では効率の意味)」ということになる考え方に対し、その上位に、「正(正義:社会の制度・ルール)」、「徳(卓越:個々人の存在・性格)」というピラミッド構造を構築することによって、主流派経済学と異なる道、即ち資源の有効利用・配分ではなく、本書の言うところの資源の有徳的、卓越的な利用・配分を目指すべきであるという主張がなされる。

 塩野谷さんは、他に「価値理念の構造」「シュンペーターの経済観」「経済の倫理」や400ページにも上る大著である「経済哲学原理」などを世に問うなど、この経済倫理学の分野を精力的に研究されているが、いわば、経済学が捨象してきた「正」と「徳」を、歴史や哲学などを絡ませながら体系的に整理し議論するのみならず、経済および経済学の可能性を先行的に自覚し、自立的に革新するという意味で経済を“投企(プロジェクト)”していこうという、世界でもあまり例のない意欲的な試みをされようとしているのである。

 まず、「正」の議論の中で示される「格差」の問題について、本書では格差を資産や機会の有無、運不運による社会的偶然によるものと、天賦の才能による自然的偶然に分類し、前者には機会均等の保証、後者には社会保障制度を構築すべきという議論がなされている。ところで、この格差の考え方については、一口に西欧と言っても、欧州と米国とでは一様ではない。即ち包容型社会(inclusive society)と排除型社会(exclusive society)の議論がそれである。欧州のような長い伝統のある国や日本も包容型社会に近いと言ってよいが、格差は社会全体の責任ととらえ、上述の“自然的”格差を含む窮乏対策の必要性及び具体的な諸施策について、比較的コンセンサスが得やすい土壌を持つと言える。一方、英国国教会による圧迫を受け、新大陸に渡ったメイフラワー号の末裔たちは、歴史的にも制約が無いこともあり、政治的には独立、個人の権利が強調され、また、自助が基本となる。このような伝統もあり、米国では、成果は個々人の能力と意欲に因るものであり、成功者への富の集中・蓄積は当然のことと看做され、格差は社会的に許容されるのである。オバマ政権は社会保障制度の拡充を志向していると言われるが、こういった意味で、その道のりは平坦ではない。

 その格差を是正すべき社会保障制度は、マルクスの「ゴーダ綱領批判」に示されている「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というのが基本的で、また、理想的な概念であるが、それが成立する条件をどう見るか?答えを先に申し上げるようだが、その為には、人間が神のように有徳でなければならないのではないか。人民公社の例を見てみよう。かつて人民公社においては、土地は原則として皆のものであるが、一部だけ自由な耕作を認めた。ところが、この個人で自由にしてよい土地からの農作物は、共有地から得られるものに比べ、収量も品質も格段に良好であったのである。そこで、共有地全部を個人の分け与え自由に耕作させた人民公社が現れたが、案の定と言って良いのか、その成果は目覚しいものがあり、多くの余剰さえ産み出した。一方、皆の土地は、誰のものでもなく、誰も本気になって肥料を施したり、耕そうとしないから、土地は痩せ、収量も伸びず、壮大な非効率のみ生む結果となったのである。?小平はこの事実を正式に受け入れ、人民公社の解体が始まったのであるが、その他の分野についても、改革開放の名の下、事実上、資本主義を導入し、ここで言う「善」の追求により、中国は大きな成長を遂げたのである。尤も、その成果の分配となると、現時点では必ずしも「正」に基づいているとは言えず、共産党幹部や官僚、経営者などに富が集中、不公平をめぐって暴動も多いようで、国は言論統制に躍起であり、最近のグーグル問題の背景ともなっている。今後、世界的に影響力が大きくなることが間違いない中国においては、「正」「徳」「善」のヒエラルキーをどう位置づけ、国の仕組みをどう構築していくか注目してみておかなくてはならない。

 社会保障制度について、本書では個人の自己実現と社会活動を促進するポジティブなものとすべきことが提唱されているが、まさにその通りであろう。本書で言及のある、1942年のビヴァリッジ報告に基づく戦後の英国では、私のような留学組にまで、手厚い保証制度があった。勿論、医療は無料。但し、無料だから、皆が病院にどんどん行くということになるが、医者の数には限りがあるので、例えば、歯が痛くなって、すぐに病院にかけつけても、なかなか診て貰えないという本末転倒の状況になる。また、収入が無い、資産が無いということが認められれば、十分な補償が貰えるということで、受給者にも、また、支給側の役人にもモラルハザードが起こるなど、ビヴァリッジの社会保証制度は矛盾をさらけ出す結果になった。その後、ご承知の通り、サッチャーが「英国病」と呼ばれた問題の解決を目指し、大胆な改革を実行したが、負の遺産として、 失業と所得格差や家庭や医療制度の崩壊などを引き起こし、逆に、生活保護関連費は増えたのである。

 ブレア労働党政権は、サッチャー改革の「小さい政府(市場主義)」とビヴァリッジ型の「大きい政府(社会民主主義)」でもない「第三の道」、この新しい考え方をギデンズが提唱したのであるが、政府の役割を、市場と市民社会がその機能を適切に発揮できるように努めることと規定、世界的にも注目される改革を断行した。具体的には最低賃金制の復活や労働組合の保障などの労働規制を導入する一方、本書の関連で言えば、社会保障については誰でも加入できる「ステークホルダー年金」制度などが創設されるなど、官民の新しいあり方を実践したのである。即ち、本書にある「窮乏に対しては自立を、疾病に関しては健康を、失業に対してはイニシアティブ(創意)を」などを理念に、例えば、失業しても何も努力しない人にはカネを渡さない、逆に職業訓練など施して、積極的にチャレンジする人をバックアップする。未婚の母には託児所などを整備し、就職を斡旋し、自立を促すのである。残念なことにイラク問題でつまづいて政権を降りたが、これらの政策・手法は高く評価されたし、「正」を考えるにあたり大いに参考となるだろう。

 「徳」について言えば、「徳」は人間行為の卓越性の源泉であり、社会制度の安定性の基礎、そして、「善」の質を批判的に評価するという意味で、「正」「徳」「善」のヒエラルキーの中では、人間と社会を媒介する枢要な役割を担う。現時点で資本主義体制をとる以外、選択肢が無い中、経済活動における有徳性の重要度は議論の余地が無いが、本書では特に、経済を投企するポイントが道徳的想像力であることが主張されており、経済学の真に重要な課題が、人間と社会の資質の向上のための資源利用、即ち、「資源の有徳利用」であるとする。(管理人補足:第五章の最終フレーズ(経済を投企する 道徳的想像力)にJ.S.ミルの「ゼロ成長論」、シュンペーターの「資本主義崩壊論」、ケインズの「空想(100年後に経済問題は解決)」が紹介されており、経済成長至上主義の脱却・克服を志向すべき旨の主張に加え、経済的資源は「徳」を実現するために使われなくてはならないとし、そのために人間存在の質を高める教育、医療などの強化とともに、焦眉の三つの課題、即ち、?戦争、暴力の消滅?途上国の貧困問題の解決?環境問題の克服が図られなければならないとする。)

 ハイデガーの議論の「人間は死に向かう存在であり、生の有限性や己の非力を認識するからこそ、自己の本来的なあり方を思い、実践ないし投企する」

というのは、濱田君の言っていた通り、キリスト教的というか宗教的発想(最後の審判)で、少し理解し辛い面があったかもしれない。この考え方は、「徳」「卓越」の倫理学の基礎となる議論であり、本書のポイントの一つとなっているが、私などの年となると、毎日のように意識せざるを得ない。尤も、先日もある方に申し上げたのだが、無知の知と言ってよいのか、本書の趣旨に沿えば、ハイデガー流の「自己の非力を認識する」ということなのだろうか、今の年齢になっても、「まだまだ、わからないことが多い」と思い、また、「まだまだ、しなくてはならないことがある」と考えることが、元気の素であると考える次第である。

 尚、塩野谷さんは「徳」の議論の中心にトーマス・ヒル・グリーンが展開した哲学を持ってきている。即ち、社会保障がリスク発生後に単に人々を救済するという消極的立場にとどまるならば、「正」と「善」で十分とも言えるが、国家は国民の能力、資質、性格の完成そして個々人の相互協力(共同善)を通じて自己満足の実現をも目的とすべきであり、その為に必要になる人間の存在をを対象とした「徳」の原理である。哲学者としては少し馴染みが無いかもしれないが、トーマス・ヒル・グリーンに関して、元東大の河合栄次郎さんの研究が有名。反功利主義の立場が貫かれていて、少し難しいが、考えさせられることも多く、是非、一読されたい。

 「徳」との関連で言えば、出光佐三さんも「徳」を実践された人であった。来月3日に神戸大学主宰で「出光佐三の経営理念と日本型資本主義」と題してシンポジウムを開催する予定であり、私も少し時間を頂戴し、出光さんのことをお話しすることになっているので、ここではあまり詳しくは申し上げないが、ご存知の通り、出光さんが神戸高商のご出身と言うこともあり、神戸大学の六甲台講堂の改修工事では、出光興産さんに本当にお世話になった。高商出身者と言えば、当時、相当エリートであったと言えるが、出光さんは敢えて丁稚奉公から始めて、2年あまりで出光商会を立ち上げられたのある。そして、戦後間もない頃、当時、多くの企業が人員を整理する中、出光さんは鍋釜まで売りながらも、従業員の首を切らないことを宣言した。(管理人注:「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。」「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。)出光さんの標榜する「大家族主義」は当時の水島校長他、神戸高商の教えに、その源流があったそうである。企業の論理は必ずしも「善(効率)」ではないし、「善」が全てであってはならない。

 さて、終章のコメントをしたい。グローバリゼーションやIT革命が進行し、サブプライム問題などに象徴されるようにマネーが膨張し暴走する中、本書のテーマ或いは目標ともなっている「経済および経済学を投企する」、すなわち、将来に向けて資本主義の抱える諸問題を克服するプロジェクトとして、本書が説得力を持ち、また、成功しているかというと、今まで議論してきたような壮大な問題提起はあるものの、エッセイ集という性格もあり限界は割り引いて考えなくてはならないが、残念ながら、どうすればそれが実現できるのか、具体論に欠けるというのが正直な感想であろう。しかしながら、本書では従来、経済学が敢えて避けてきたと言って良い問題を中心に据えて、我々が過去、現在、未来を考える上で課題とすべき深遠な内容を多く提供してくれている。本書の言葉を借りれば、被投的に社会に流され、消極的な意味で、社会に投げ込まれるのではなく、人間と経済の可能性に関して、皆さんも投企的に考えてみてはいかがだろうか?

 最後に、早いもので、明日(1月17日)で、阪神淡路大震災から、丁度15年目を迎えることとなり、私は兵庫県公館で皇太子と皇太子妃をお迎えする役を仰せつかっている。ところで、あの震災では、海外のジャーナリズムから驚嘆の声が上がった。即ち、こういった大災害では、暴動が起こったり、配給する食糧を奪い合うようなことが多い中、神戸では誰もが整然と順番を待ち、暴動などはただの一度も起こらなかったことは、世界的にも例が無く、賞賛に値するというのである。これに対し、亡くなられた元文化庁長官の河合隼雄さんは、世界は評価してくれたが、本来は喜ぶべきことではないのではないかと言っておられた。河合さんによれば、日本人には「世間」はあっても「個」がなく、従って、皆が配給所で並んでいるから、自分も同じように、整然と並んだというに過ぎないのではないか。国際社会の中で生き残っていくためには、「世間」に流されることなく、自分の意見をしっかり持ち、判断できるための「個」の確立が必要であることを力説しておられた。

 しかし、あの震災により、試行錯誤しながらも、我々日本人が学んだことも多かった。例えば、ボランティア、或いはNPO活動がそのひとつである。

 阪神大震災のボランティアは延べ150万人というかつてない規模になったが、当初は、多くのボランティアが集まってくれたものの、彼らは現地に行ってみても具体的に何をすべきかわからない、また、組織を束ねるリーダーも不在であり、指示・命令系統も存在しないという状況であった。その後、徐々に役割分担らしきものが出来上がり、YMCAなどに在籍するメンバーがリーダーとなって、その後の震災復興に大いに貢献したのである。これが契機となって、今では、約4万のNPO団体が設立されているが、「正」である制度や仕組みをつくらないと「善」が引っ張り出せないし、「善」を引き出すことが、リーダーの重要なの役割でなのである。同時に、こういった新しいタイプと言って良いだろうが、報酬・昇格などのインセンティブの存在しない自発的組織は、ちょうど家庭がそうであるように「透明な組織」でなければならないし、また、裸になってリーダーが引っ張るということが重要であることも教訓となった。

 日本が西欧以外で初めて先進国の仲間入りし、資本主義で成功した要因は何であったか?マックス・ウェーバー流に言えば西欧の成功の鍵は神、或いはプロテスタンティズムが「善」を統制したということになるが、日本においては、儒教的な意味での「徳」であった。即ち、渋沢栄一の「論語と算盤」であり、住友の「浮利を追わず」という価値観がその後の日本を発展させ、豊かで安定した社会を形作っていった。しかし、サブプライム問題以降、何年にも亘って経済発展をもたらした市場中心の資本主義は、今、大きな転換点にあり、皆さんもよくご存じの通り、再び、経済倫理の問題が大きく浮上している。そんな中で、皆さんの持ち場持ち場での「投企」に期待したいのである。(平成22年1月16日 文責:管理人)

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