ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2017年
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フィリップ・コトラー著「資本主義に希望はある」ダイヤモンド社                                 (倉田幸信訳、高岡浩三解説) 2015年10月

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 資本主義の長期停滞論が言われて久しいが、大別すると主に需要面から分析しているものと供給面に着目したものに分かれるが、需要面は、そもそもモノが行き届き、消費需要が飽和状態となったとか、本書に展開されているような、かつて豊かな消費を支えていた中間層の喪失や貧困層の増加による購買力の低下、或いは、企業の投資意欲の減退など、様々な要因が語られる。また、供給面の側からは、すっかり有名になった、「ソロー流の全要素生産性」の議論があり、まずは、生産の三要素のうち資本、労働を取り上げ、特に少子化により、先進国の労働供給は頭打ちで、日本は毎年労働人口が減少しているといった議論の仕方である。労働を増やすために欧米では幅広く移民に頼ったのだが、そのことで、各地でトラブルが頻発し、これが英国のEU離脱やトランプ大統領の誕生の背景となるなど、別の意味で問題となっている。また、生産性も低迷しており、労働力の不足などをカバーできていない。さらに資本主義の発展を支えてきた技術革新についても、起こりにくくなったというか、経済に与えるインパクトが低下してしまっていることも大きな問題であるとみられている。

 さて、チャーチルの有名な「民主主義とは最悪の政治形態である。但しこれまで試みられたあらゆる政治形態を除いてはの話だが」を借りてきて、コトラーは「資本主義は経済の運営手法としては劣っている可能性は認めよう。但し、これまで試みられて失敗してきた他のすべての形態を除けばの話だが」と述べている(p28)が、本書では、資本主義には14の課題があり、それに対して、一つずつ、対策を提示し、悪い部分を補い、修正すれば「資本主義には希望がある」と言うのが、本書の論理構成なのである。

 ところで、14の課題というのは適切なのであろうか。従来、資本主義ないし市場の失敗と呼ばれているものを思い出してみよう。まず、失業が不可避であり、景気循環が起こること、格差・不平等を招来すること、公共財におけるフリーライダーの問題や公害などの外部性の問題、さらに、収穫逓増産業を中心に独占・寡占などの弊害が生じることなどは経済原論の教科書に書いてあることであるが、これらの事柄は14の課題としては取り上げていないものもあるが、大半は文中に言及されており、まず、課題を網羅的に提示していると言えよう。また、国際間の格差についても、その解決策を扱った「世界都市間競争 」という本も書いており、コトラーの守備範囲の広さ、見識に驚かされたゼミ生も多かったのではないか?

【管理人注 14の課題】 @貧困問題A拡大する所得格差B搾取される労働者C機械が人間の仕事を奪うD社会的費用の負担E環境破壊F乱高下する市場G利己心の是非H家計の借金I政治に歪められる経済J短期的利益の重視Kマーケティングの功罪L経済成長の是非M幸福度

 コトラーは言わずと知れたマーケティングの泰斗であり、上述の14の課題に対し、ひとつひとつ丁寧に具体な問題解決策を提示しているのが、本書の特徴であり、本書の原題は「Confronting Capitalism」にあるとおり、「資本主義に立ち向かっている」と言えよう。

 最近、コトラーはネスレ日本の高岡社長と共著で「マーケティングのすすめ」(中公新書クラレ)を書いているが、その中でコトラーは、ネスレグループの中で突出した実績をあげるネスレ日本を賞賛しながら、時代の流れというか、環境によってマーケティングは進化していくという自説を展開する。即ち、戦後の製品管理までが「マーケティング1.0」であり、その後、「消費者管理」をしようとする「マーケティング2.0」が続いたが、現在は「マーケティング3.0」の価値主導のブランド管理が主流になりつつあり、さらに、、マズローの欲求5段階説をベースにした「マーケティング4.0」の時代に突入しており、「よりよい社会、自己実現を課題」としなければ、今後企業は生き残っていけないと喝破する。

 本書においても、今後の企業発展のためにも単に顧客だけではなく、従業員、地域社会、取引先企業などの「シェアホールダー」に配慮したり、「環境」や「幸福」といった問題に対処しなければならないとし、さらにそれを実現すべく具体的な提案を行っているのである。

 尤も、マーケティング的な手法だけで、すべてが片付くわけでもなく、例えば、政治の改革については、ロビーイストや政治資金により、金持ち優遇の法律がつくられることの悪弊を指摘し、その活動や資金限度他、この問題を解決するユニークな制度改革を論じているが(10章:政治に歪められる経済)その実現性については、党利党略が優先され、相当な時間を要することを、コトラー自身は率直に認めている。

 ところで、こういった問題を抽出し、ひとつずつ修正していくというやり方ではなく、ロバート・ライシュは、そもそも、米国で特に問題になっている所得格差、貧困、中間層の消失などを生み出している仕組そのものを変えなくてはならないというアプローチを提示する。即ち、近著「最後の資本主義」で論じられているが、原題は「Saving Capitalism」だから、単なる「資本主義の救済」ということだろうから、「最後の資本主義」はちょっとズレている気もするが、、、その本の中で主張されているのは、金持ちによるロビーイストや献金により、資本主義の諸制度が金持ちに有利なものに作りかえられるという構造そのものを止めないと、小手先だけの改革では、いつまでたっても上述の格差や貧困などの問題は解決できず、結果として、資本主義経済は停滞し続けるというものである。

 根本から作り直すというのは、ある意味ではトランプの主張と相通じるところがあるが、トランプの主張には一貫性はなく、経済学者など、政策ブレインがいないことも一員であろうが、さらに、その過激な言動もあり、アメリカをどう変えていくかについては、未知数というか疑問符がつくような状況である。彼の保護主義的な言動や特定の企業への攻撃で、自動車会社が国内にとどまるなど一定の成果があったのかもしれないが、そもそも、口先だけの対症療法にすぎず、今までの大統領の中で一番職をつくってみせると公言しているが、その道筋はまだ、全く見えず、逆に不安感ばかり募っているのではないか?また、トランプ自身の財産は、自身の努力によるものもあるのだろうが、もともと父親から受け継いだものであり、本当に富裕層を押さえることができるかどうか危ぶまれている状況である。

 先ほど、経済学は公平性や貧困について、どちらかというと人間に冷淡なのではないかと言ったご質問があったが、確かに、最近の市場原理主義的な動きを前提とすれば、そういった印象になるのかもしれないが、寧ろ、経済学は誕生の時から、資本主義が引き起こすであろう弱肉強食的な課題について、どうしたら良いか、解決策を提起していたのである。

 リカードがその典型と言って良いと思うが、いわゆる生産の三要素と呼ばれる資本、労働、土地であるが、これは、言い換えれば、生産に三要素がどう貢献したかを示し、得られた生産物ないし、それから得られた収益を、三要素にどう分配していくかという議論であった。この中でも地代の扱いは難しく、土地は生産する場としての希少性によって支払われるものとしたが、労働価値という観点からは、それは祖先の努力の成果であるかもしれないといった議論もあり、分配論を巡って様々な主張がなされたのである。

 そもそも、経済学の祖、アダム・スミスが「国富論」で示したのは、絶対主義、ないし、重商主義による「国王がすべてを統制する仕組」に対する挑戦であり、スミスは自由競争と分業による生産性の向上が、国民に大きな利益をもたらすことを明らかにし、その上で、国民に自由にさせても、神の見えざる手である価格メカニズムが全体を調整するので、大きな混乱もなく、経済は運営されるというものであった。ギリシャ時代なら為政者は賢人である必要があるとプラトンが言ったが、アダム・スミスはそもそも為政者がコントロールしなくても大丈夫だということを証明しようとしたのである。そして、生み出された利潤は貯蓄され、それが、銀行を介して投資に回り、さらに発展することになる。

 一方スミスによれば、このような経済活動が一方的な弱肉強食的な収奪に陥らないのは、プロテスタント的な共感(sympathy)の原理があるからだとし、「道徳情操論」にそういった論理を展開したが、こういったことからして、アダム・スミスは単純な自由放任主義者ではないのは明らかだろう。古典派経済学の分配の議論を前提とすると、今の米国の高額報酬を容認することにならないのではないか。 

 マルクス主義では、資本も土地もすべて労働者のものであったので、分配の問題は発生せず、必要に応じて、分け前をもらえばよいということになるはずだった。しかし、実際は、誰も負担を嫌がるということになり、チャーチルの言ったように「資本主義が持つ欠点は幸福を不平等に割り当てるが、社会主義の長所は不幸を平等に割り当てる」ということになってしまった(p23)。

 さて、皆さんもご存知のとおり、英国のプロテスタントの一派が、英国国教会が主流となった英国で迫害を受け、アメリカのボストンあたりに移住したことをきっかけに、アメリカという国家が成立したが、何の制度も仕組みもないところからのスタートであったから、当然、自助が前提となった。結果として、アメリカでは自身の能力をフルに発揮し、勤勉に働かざるを得なかったが、逆に、個人が生み出した成果は個人に帰するわけで、この自助を前提とすると、格差も伝統的に肯定されてきた。巨額の富もアメリカン・ドリームということになるのである。

 一方、国王や支配階級を除けば、日本や欧州では国民は、長年、地域社会の中で暮らしてきたわけであり、村での格差はそれほどでもないから、米国の高額報酬についてはため息が出るというか、なぜ、こんな金額が許されるのか理解できないだろう。 

 さて、話は変わって、中間層が消失し、貧困者が増え、そして、富裕層に果実が集中して行った場合は、国民経済的にはどう理解したら良いのだろう。

 ケインズ式に考えてみると

 需要均衡式は消費と投資の和、即ち、Y=C+Iであり、それが分配されると、Y=C+Sのとおり、消費と貯蓄になる。

 このときI=Sが成立すれば良いのだが、貯蓄が過剰、即ち、I<Sとなった場合、需要不足が起こり、いわゆる不況となる。特に、富裕層に所得分配をすると消費性向は高くないので、貯蓄が積み上がる結果となり、この巨額の貯蓄が投資に結びつかない場合、慢性的な需要不足になることになる。従って、国民経済的には消費性向の高い低所得者や中間層に所得を回す必要があるということは皆さんもよくご存じのとおり。

ケインズは不況期の対策として政府支出(G)で需要を生み出したのだが、戦後はケインズ的な大きな政府に加え、豊かな中間層を抱え、大量消費の状況であったから、企業の業績もよく、欧米とも高い成長をし、これがまた、国民にもその果実をもたらした。

 しかし、残念ながら、国家が経済に関与する割合が大きいと、極めて恣意的な政策が行われ、財政は慢性的な赤字に陥り、成長も鈍化してきた。そして、ミルトン・フリードマンがもてはやされ、サッチャーやレーガンの政権が生まれるなど、経済政策の舵は市場重視型の「小さな政府」となったのだが、これにより、格差、貧困など、本書の掲げる問題点の多くを生んでしまった。

そして、現在、スミス、ケインズ、フリードマンに次ぐ第四の処方箋を経済学は提示できていないのである。尤もその第四の処方箋であるが、昨今、英国や米国大統領選挙など、ナショナリズムが蔓延し、国内外で格差が容認されている時代、そう簡単に提示できるものでもない。

例えば、グローバリゼーションと相まって、IT革命が浸透し、今日の皆さんの議論ではAIが人の仕事を奪うのかといった話で大変盛り上がったが、これら新しい技術の影響を分析することは、もはや一人でできるものではないのである。

 例えば医学部だが、一昔前は内科は、第一内科から第三内科までしかなかったが、最近は実に13にまで分類されているそうで、それだけ、専門性が高くなっていることなのだが、逆に、隣が何をやっているか、例えば私は呼吸器の専門でないのでわからないといったことになっている。昔なら、顔と脈拍を診て、聴診器を当ててれば、大概のことはわかっていたんじゃないかと思うが、医学は発展につれて、専門化、細分化が進んだことで、却って全体が、良くわからなくなってきたんじゃないかと思う。

社会科学全般においても、そのようなことになっていて、経済学も細分化が進み、また、経済学以外の学問との関係性を増していることもあり、とても、一人が全体を把握できる状況にはなっていない。

学問領域だけでなく、産業の育成についても同様であろう。科学技術発展の行方を見極め、その成果を確実にものにするためには、今後どういったことに注力すべきなのだろうか?  

 かつて、米国のクリントン政権下で、ゴア副大統領が中心になって、来るべき情報化、ITイノベーションの行方を分析し、何をすべきかを把握し、必要なインフラ整備と人材育成を行ったように、今日本に必要なのは、すべての英知を結集し、それらを分析し、議論しながら、何らかの有益な提言ができるような仕掛けづくりが必要になっていると思う。

先日も政府の政策に大きく関与されている方は、成長を阻んでいる規制を緩和したいと言ったような話をされた。それでは、ともすれば、単に人任せに陥り、評論の域を出ないわけで、大事なのは、どういったことを目指すために何を緩和するのかということであるし、、その為にもゴアさんがやったような、英知を幅広く集め、未来に向けて明確なビジョンを掲げ、あらゆる関係者とのネットワークの構築が最も重要となるだろう。

 私が良く取り上げるボールディングの「統合」、「交換」、「脅迫」の議論で申し上げると、社会としてうまくいっているという意味では、理想は良好な家族がそうであるように、みんなの気持ちがひとつになる「統合」である。寧ろ、家族が交換(経済的利益)や「脅迫」(規則と懲罰等)で結ばれるとおかしなことになる。一方、国家レベルの話になると、流石に「統合」だけで国をまとめるのは難しいが、北欧などのように、なるべく「脅迫」のウェイトが少ない方が良いのは言うまでもない。が、しかし、今のアメリカのように所得や資産の格差が大きく、不公平が蔓延していると、「統合」の精神によって国をまとめることは難しく、その意味において、資本主義の課題の中で「政治への対応」が最重要課題であり、また、その難しさを皆さんも改めてご認識されただろう。

 環境についても、地球をひとつの家族として考えた場合、例えば、中国の大気汚染は我々にとって深刻な問題であるが、最近のヘラルドトリビューン紙によると、地球温暖化で世界中の環境が激変している中、マダカスカルやその対岸の東アフリカでは雨が降らず、農産物が育たたなくなったといったらしい。我々日本人にとって、馴染みのない国で起こったことも、「統合の精神」で身近な問題として考えていかなくてはならない。

 ところで、本書にノーベル経済学賞受賞者で米コロンビア大学教授のエドムンド・フェルプスによるコーポラティズム(Corporatism)についての言及(p154)がある。コーポラティズムは政治・経済分野における共同体の概念の1つで、国家や社会、企業などの集団が、生命体と生命体を構成する細胞や物質のように有機体的な関連性と相互の協調を重視する概念である(管理人注:自由競争や階級闘争といった近代的原理を超克しようとする社会理論として生まれたもの)

 和田君や皆さんからも意見があったように、組織全体が活性化し、お互い協力することで、個人も組織全体も大きな果実を得ることができるのだが、協調のやりかたにによっては、ぬるま湯体質となり、変化への対応が遅れることもある。フェルプスのように、日本が再び繁栄するためには、寧ろ、「コーポラティスト的な価値観と決別し、草の根レベルのイノベーションを促すダイナミズム構築」が不可欠だと主張したのは、そういった文脈で理解されたら如何だろう。

  最後に本書の14章にはモノの豊かさとは少し距離を置いた「幸福」の問題を扱っているが、本来は幸福を目指すことが経済学の目的であり、経済学者乃至様々な学派は、独自の切り口から、人の幸せをいかに生み出すかという最大のテーマに沿って研究をしてきたのである。そして、貧しい時代においては、生産だとか収入だとかの、モノとカネが重要であったが、現代のように豊かな社会において、温かい家庭のような社会をつくることが、重要となってきている。勿論、小さくて貧しい国であるブータンの提唱した「幸福の経済学」のような考え方は、いくつかの国でも取り入れられようとしているのだが、なかなか、計量化するのは難しく、いくつか指標が示されているが、本当に幸せと結びついているのか、解釈次第といった側面もある。しかし、それでも、こういった、試みをすること自体、大変に意義深いことであると思うし、今後の研究成果に期待したい。

     - 文責:管理人/平成29年1月14日 神戸都市問題研究所にて  -

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吉川洋著「人口と日本経済」(中央公論新社) 2016年8月

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 今回は吉川洋さんの「人口と日本経済----長寿、イノベーション、経済成長」(中公新書)を取り上げる。タイトルから一連の「人口減少もの」という印象を受けるが、個別の対策或いは技術論については、あまり触れられておらず、経済学の古典を学び、人間の本質を捉えながら全体社会を構想してみると言う意味でユニークな内容となっている。現代においてあらゆる分野が細分化され、それぞれの専門化が全体を把握できていないというようなことによる弊害が問題となる中、極端に技術論に偏ることなく、少し、大局的にこの問題を捉えてみると言う意味で、貴重な視点であるとも言えよう。

 例えば、マルサスの人口論に関して、ケインズが、「人口論」は当時の英国の救貧法への批判が原点で、国民に対する福利厚生制度のレベルを上げたら、寧ろ、その給付金などに安心してしまい、人口が増加、結果的に経済全体の生産性の低下を招くと言う議論であったことを紹介している。有名な「人口増加が等比級数的で生活物資の増加は等差級数的である」というロジックはここから生まれたのである。さらにケインズはドイツの膨張主義も、ドイツの人口増加に悲観した結果であるということを主張している。これらは、人口増加が貧困の原因であると考えたのである。一方、スミスもリカードも基本的な社会制度は社会が成立するための条件であるという論点を提示しているし、ミュルダールにいたっては具体的な子育て支援策を提示した。いずれにしても、吉川さんは人口に対する考え方が、時代によって大きく異なることを明らかにしながら、人口減少は本当に悪いものなのか、我々に問題提起をされたことは、大変ユニークで、本書の主張の一つである「極端な悲観論を排す」ことに対する前提となっている。

  

 さて、人口減少の弊害が言われる中、それでは人口がどの程度だったら適正なのか?人口が減っても、人口一人当たりの所得や資産が減らないとすれば、それはそれで良いではないかという理屈である。そして、そういった議論の大前提として、まず、一人当たりのGDP、所謂”お金“が指標として取り上げられる。本書にはGDPは不完全だが有用な指標(p145)であるとしている。しかし、本来、暮らしの豊かさは経済のみで論じられるものではなく、限界はあるのは承知しているが、根源的には国民が幸福なのかということも考えておくべきであろう。本書にもミルの定常状態の幸福論(p169)や橘木俊詔さんのゼロ成長論(p171)が紹介されており、一定レベルの生活水準が確保できている国においては成長より平等が重要であること示唆している。さらに、成長か平等かといった二元論ではなく、スティグリッツはフランスにおける総合的な幸福度を調査し、大統領(サルコジ)に提言を行なったことは有名であるが、その後、日本でも政府が幸福度の調査を行なっているし、阪大の大竹文雄さんや千葉大学の広井良典さんなども、幸福について精力的な研究を行なっていらっしゃる。少し、横道にそれたが、GDPであれ、幸福度であれ、一定の成長がないと、皆を満足させることができないことは確かなようだ。

 それでは経済成長について順を追って考えていきたい。

 そもそも、成長を促すために、人口は増やせるのか?人口を増やすには出生率、死亡率、移民の問題を論じる必要があるが、出生率については、多少出生率を上昇させたところで趨勢は変わらないし、その先の生産年齢人口を上昇させるには、さらに20年を要するので、本書では敢えて触れていないのだろう。少しだけ記載(p193)のある移民についてみてみたいが、皆さんもご存じのとおり、世界的にはその弊害が大きく取り扱われている。

 欧州では高度成長期の人手不足を解決する手段として、ドイツなどの例を見るまでもなく、移民を活用し、相応の効果をあげたが、一方では、テロや文化的摩擦の問題を惹起し、ついには英国のEU離脱に発展してしまった。

 また、米国はもともと移民の国であるが、ポピュリズムを背景にトランプ大統領は移民を排斥するような政策をとっているが、こんなことをやっていて、米国経済の発展を持続させることができるのか、人権問題も絡めて、大変な議論を呼んでいる。元々、プロスポーツ界などが典型であるが、米国のダイナミズムの源泉として、移民が語られることが多く、彼らに平等な機会を与えることによって、彼らに能力を発揮してもらい、同時に、彼らの旺盛な消費意欲が、米国全体の需要を支えてきたのである。最近でもインド人の数学的な感性とスキルなど、移民が様々な新分野で貢献してきたが、差別的な国策に転じた場合、彼らの創造性を活かし切る事ができるのだろうか? 

 日本ではどうか?既にベトナム人が急増している町(千葉県松戸市)があるのに、議論を避け、原理原則を変えず、事実のみが積みあがっていくのが、いかにも日本的とも言えるが、現在、しっかりとした議論が必要である時期に来ているように思う。

 さて、次に、人口が増えないとすると、生産性をあげていくにはどうしたらよいのか?こういった話をする場合、ソローの全要素生産性の議論があることは、皆さんご存知のとおり。ところで、全要素のうち、「ヒト」は生産するためのコストとして考えるべきか、それとも、経済を動かす主体と考えていくべきか?

 リカードは生産の他の三要素である「カネと土地」と同様、「ヒト」は基本的に使用人ということであり、生産に必要なコストであるとした。しかし、現実の経済成長は古典派経済学の想像をはるかに超える結果をもたらしたが、その要因は生産の三要素に因るものではなく、本書の主要な主張となっている技術革新であり、私が良く取り上げるマーシャルの「第四の生産要素」ということになる。そして、これらは基本的にヒト乃至、イノベーターに起因する。本書でも大きく取り上げられているイノベーションは人間の知恵がもたらしたものであり、人は単なる生産要素=コストではない。

 しかしながら、現在のグローバリゼーションの主要な原動力は、まずは人件費の抑制であり、ヒトをコストと考えるやり方に戻ってしまったようである。そして、それが、産業空洞化や移民を生み、トランプ大統領の出現や英国のEU離脱などのポピュリズムを育んでしまった。

 吉川さんの言わんとされる人口論は、ヒトをコストと見る流れに抗して、過去の経済学を振り返りながら、イノベーションを起こし、労働生産性を引き上げれば、人口減少下であっても悲観する必要がないし、人件費の高い日本でも十分生き残れるという主張をされているのである(p75など)。

 では、どうやってイノベーションを起こすのか?本書には、イノベーションをいかに生み出すのか。肝心なことが殆ど触れられていないではないか、といった皆さんの感想が多かったが、ここでは、我々なりに考えてみてみよう。

 生産性を引き上げる技術として期待され、本書で取り上げられているAIについて、皆さんは、人間の知能を置き換えるAIは過去のイノベーションと異なるという理屈の悲観論が多かったようである。しかし、吉川さんは「ブルドーザーが建設業者の仕事を奪ったか?」といった楽観的(p87)な議論を展開している。かつて、産業革命時代、英国で起こった大規模な労働者の暴動、所謂、ラッダイト運動(1811年〜1817年頃、イギリス中・北部の織物工業地帯に起こった機械破壊運動)も、繊維産業の大規模な機械化による労働者の反発が原因であったが、今から見ると全くの杞憂であった。

 サッチャー時代にあっても、英国でロボットの導入がうまく進まなかったのは労働組合の反発が大きかったからだが、一方、日本ではロボットに名前をつけるなどロボットは友達であり、その導入に誰も反対しなかったから、当時、自動車や電機産業などは、この新しい技術を活用して飛躍的な発展を遂げたのである。さらに言えば、英米では計算が出来ない従業員を前提に、新しいITのシステムを導入し、作業レベルを標準化し生産性を引き上げてきた。これらの事例はイノベーションが全体としてはプラスに作用してきたことを示している。

 AIやIoTなどの技術を駆使しても、今のところ、熟練者の判断がないと前へ進まないことが多いので、喧伝されている一部の業種を除き、今すぐAIが人間の仕事に取って代わることは考えにくい。短期的には、ビッグデータやAIを活用したビジネスモデルが成功する企業や新たに起こる産業がある一方、厳しい業種も並存し二極化することを覚悟することになるのだろうが、一方で人間にしか出来ない業務が生まれ、そのような仕事が増えいてくのではないかという期待もあるように思えるが、皆さんは、どうお考えだろうか? 寧ろ、日本のような世界で最も早く少子高齢社会に直面し、現下において、バブル期以来の深刻な人手不足が起こっている中、労働者の減少は大きな問題とならない可能性もあるし、ヒトの希少価値が増すので、人を単なる労働力、コストと考えるのではなく、付加価値お生み、また、効率化を推進するイノベーションの担い手として位置づけるべきであろう。逆に、人口減少、高齢化などの課題先進国である日本こそ、世界に先駆けてこれらの問題を解決する機会が与えられているのである。

 例えば、少子高齢化で日本の食品分野の成長は期待できないと考えられた中、ネスレ日本の高岡さんは、消費者も考え付かなかったようなアイデアである受験生向けにキットカット販売促進を行ったし職場向けのコーヒーアンバサダーといったビジネスモデルを実践され、世界のネスレでは圧倒的な業績というか“ミラクル・ジャパン”を演じておられる。世界経済が長期停滞に入ったのではないかという議論がかすまびしい中、こういった、人間の琴線に触れるようなイノベーションこそが益々必要になってくるし、悲観論を排し、明るい未来を展望してみようという本書の最大の拠り所になっている。

 また、高岡さんは事業を永続させるためには、持続的にイノベーションを起こす仕組みを組織内につくった。それが「イノベーションアワード」で、新しい取組に応募し成果を競う、言い換えれば“社員が声を上げる”仕組みである。因みに、「イノベーションアワード」は、今やネスレグループ全体で採用されるまでになっているとのことである。

 ネスレ日本の事例は、ヒトをコストと考えるのではなく、イノベーションやマーケティング、或いは、生産性向上の担い手として、人間を活かし、その潜在的な能力を引き出せるかが、試されている時代に突入していることを示している。

そう言えば、NHKの朝ドラ「べっぴんさん」には、可愛い赤ちゃんや幼児たちに喜んでもらえる肌着や洋服を作れたということで立ち上がった4人の女性たちが、絶え間ない社会の変化の中で、皆が必死に相談しながら、いろいろなことをチャレンジし、企業が成長していくお話であったが、そういったことを神戸都市問題研究所のメルマガに書いておいたので、興味のある方はご覧いただきたい。(管理人注;神戸都市問題研究所のホームページご参照)

 ところで、こういったイノベーションを起こすための人材育成は可能なのだろうか?日本ではこの手の話は偉大な経営者の伝記か、経営書のリーダーシップ論のレベルの勉強ということになるが、米国の大学院では、天才的な企業家を教育プログラムの中でどう育成するかというところまで進んでおり、新事業開発・事業革新にチャレンジする機会を与える為に、CEOがどういう行動や判断すべきかということまで、教え始めているという。詳しくは、加護野忠男さんの監訳されたサラス・サラスバシー著「エフェクチュエーション」という本をお読みいただくと良いと思うが、市場創造の実効理論という副題の通り、優れた起業家の意思決定プロセスに関する「原因と結果」を分析しながら、新しい洞察を産み出すといものである。これ以外にも教育制度、起業支援制度、金融制度、ネットワーク作りなど様々な考え方があるが、決定的なやり方が確立されているわけではなく、注目すべき動きと言えよう。

 ところで、米国発のIT企業の多くは、もともと小さな会社からスタートしたケースが殆どであるというのが興味深い。起業家は、起業しようという時、大企業のように合理性のある十分なエビデンスに基づいて作成された経営戦略・経営計画を作成しているわけでない。そもそも、エビデンスが揃った時にはビジネスチャンスを逃してしまっているだろうから、その意味では、組織のしっかりした大企業よりも、小さいオーナー企業のほうが、従来の常識的な創造を全く超越したイノベーションをやりやすいとも言えるだろう。言い換えれば、AIのようなビッグデータが揃って初めて判稼できる技術レベルなら、一次解の方程式を解くようなもので、常識的で、従来のビジネスモデルの延長線上のものしか生み出せないが、未来を変えるようなイノベーションは、単なる論理的分別でない領域にこそ生まれ、そのためには人間の直観力が大きくその成功を左右するのではないかと考えざるを得ない。

 そして、そんな分野に、なんとか、日本がリーダーシップをとれるような世界的なビジネスモデルを生み出せることを期待したいところであるが、具体的にどうしたら良いのか?

 逆境こそが新しい知恵をつくりだすという考え方もあるだろう。多くの企業家も逆境をバネにそれを乗り越え、成功に至ったという事例も多い。熊本県知事の蒲島さんも『逆境の中にこそ夢がある』と常々仰っておられ、震災は熊本にとって、最大のピンチには違いないが、その中には多くのチャンスがあり、新たなビジネスチャンスが、実際に今まさに生まれていると檄を飛ばす。危機管理化のリーダーとしては、極めて前向きで明るく、頼もしい限りである。

 一方、方程式のような科学でない世界にこそ、インスピレーションが生まれ、革新が生まれるとしたら、少し、唐突な話だとお感じなるかもしれないが、仏教学者である鈴木大拙(禅をZENとして世界に定着させた。スティーブ・ジョブズは禅に傾倒したことは有名)の考え方も参考に出来るかもしれない。鈴木大拙は禅を通じて、仏教の核心に、「霊性の自覚(即非の論理)」を見出し、思索の大部分を知性的な論理でなく「霊性」を働かせ、その中から普遍性や世界性を持つものを見出す必要があると考えたのである。ここまでくると、少々領域を広げすぎたかもしれないが、革新的な発明、発見は理性に裏付けられたものではないことも事実である。いずれにしても、どうやったら、世界に通用するイノベーションを生み出せるのか?その担い手を生み出せるのか?そういったことに思いをめぐらせながら、本書を読んでみたら如何だろう。

- 文責:管理人/平成29年4月22日 神戸都市問題研究所にて  -

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リズ・ワイズマン著「ルーキー・スマート」 海と月社 2017年4月

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 少し経済学の歴史を振り返る。

 ご承知の通り、アダム・スミスは絶対王政ないし重商主義的な統制からの自由を唱え、また、社会的分業即ち無数の人々がある意味勝手な努力したとしても、経済全体ではしっかりコントロールできることを以下の3つの条件から説明しようとしたのであり、単に功利主義的な哲学を受け入れてそう言った主張をしたのではない。 一つ目が分業の利益とその結果もたらされる生産性向上で、「国富論」の中では極めて有名なピンの生産の例を掲げ、そのメカニズムを説明、結果、工場の生産性が飛躍的に伸びること、さらに社会全体の効率性も大幅に改善できることを論じた。そして、このような趣旨から市場は大きければ大きいほど効率性は増すというのである。二つ目が、一見バラバラな経済主体による経済活動が、社会全体として秩序を保つことができるのは、いわゆる、神の見えざる手と言われる価格メカニズムによるものとしたことである。つまり、需要と供給が価格により調整され、国王によるコントロールなしに社会全体の秩序が維持されるというのである。三つめが利潤の発生であり、この利潤を追求することが企業の目的であるが、同時に利潤の一部はさらなる供給力増強のための投資に回され、これにより、経済は発展していくというお話である。

 スミスの後を受けたD.リカードは分配論を展開した。自由競争下では農地は限界的というか、これ以上増やしても利潤が残らない水準まで農地は拡大するが、限界的な農地より条件の良い土地を所有している、その意味では、相対的に優位にある地主は、常に超過利潤を得る。これを差額地代というが、リカードは差額地代が継続的に発生すると、そこにっは、自ずと、格差が生じるといった論理を展開したのである。一方、マルサスは有名な「人口論」を発表し、人口はなんらかの抑制がなされなければ幾何級数的に増加するが、食料などの生活資源は算術級数的にしか増加しないので、社会は常に貧困から脱することができないことを自論を展開した。

 ボールディングは古典派経済学の考える生産の三要素は分配論を展開するための論理に過ぎないことを喝破した。彼は真の生産の三要素として、資源、エネルギー、ノウハウを掲げ、資源もエネルギーもない日本には優れたノウハウがあり、経済を発展させる源泉となっていると論じた。 新古典派経済学を大成させたアルフレッド・マーシャルは経済要素間の関係を数学的手法を用いて解明し「経済政策原理」をまとめた。彼は研究室に貧民街の浮浪者の絵を飾って「クールヘッド・バット・ウォームハート」を実践したと言われるが、単なる効率だけでは限界があるという考え方は教え子のケインズに受け継がれた。ケインズは長期的には価格メカニズムによる調整があるからという理屈で主流派経済学が放置する失業問題の解決策を模索し有効需要の原理を生み出した。

 しかし、米国では物理学の運動法則を経済の分析手法に取り込みことを今まで以上に推し進めたが、そこでは、消費者や企業、経済人は長らく所与のものとして扱われた。わずかに寡占経済の分野においては企業や消費者の行動が所与という前提では経済の状況をうまく説明できないため、スウィージーの屈折需要曲線の議論などがその典型であるが、企業にクローズアップした分析がなされたこともあったが、あくまでも完全競争が前提にあり、個人や企業経営者の動きは原則として経済学から切り離して考えたことに変わりはない。主流派経済学への批判としては、皆さんご存知のゲーム理論があるが、最近になって、心理学的に観察された事実を経済学の数学モデルに取り入れていく「行動経済学」が現れ、漸くと言ってよいが、人間の分析が急速に進んできたようだ。 

 一方、経営学はマネジメントやリーダーシップ論など、もともと”人間”を扱ってきたが、今回取り上げるリズ・ワイズマンの「ルーキー・スマート」はリーダーシップ論との関係性が深い。著者は長年、企業(オラクル)教育で中心的役割を演じ、オラクルを離れてからもシリコンバレーを中心とした企業群のコンサルタントとしてトップレベルの人気を有しているが、伸長著しいIT企業に対する指導力が特に評価されているのだろう。

 今、日本経済の将来を占う意味において、最も期待されているのがイノベーションであるが、このイノベーションをいかに生み出していくべきか?従来の経済学的なマクロからのアプローチではなく、個人、企業組織などの行動を変えることで、経済全体に良い影響が与えられるのではないか?その可能性を皆さんと考えてみたいと思ったことが、今回の読書会のテキストとして本書を選んだ第一の理由である。もう一つの理由だが、今日の読書会参加メンバーは72歳の濱田君もそうだが、多くの方が第二の人生を送っておられるようだが、皆さんには、是非、様々な領域で、新しいことにチャレンジするルーキーであってほしいし、同時に、次代を担うルーキーを育て、ルーキーを生かすリーダーであってほしいとも思う。先日、蔭山君が銀行や同友会を辞め、ホテルの経営者となったということ聞き、その意味では彼は立派なルーキーであるのだが、早速、この本を読むように伝えておいた。もとより、蔭山君だけでなく、皆さんも無縁ではない筈である。本書の前提は「誰でも永遠のルーキーであり続けられる。(p14)」であり、また、増え続ける情報、仕事のサイクルの加速、知識の短期化が起こっている時代、ルーキーであることが必要とされる。そして、そのために常にに「学びを求めよ」ということが重要だとする(p22)からである。

 さて、本書の構成を見てみよう。まず、第1章ではルーキーの活躍(管理人注:プロバスケットNBAのマジック・ジョンソン)を辿り、経験不足を乗り越え、寧ろそれを武器にして期待以上の成果を上げる様子を描く。寧ろ、ルーキーがベテランを奮起させることもあるのである。

 では、ルーキー・スマートを自分のものにするためにはどうすれば良いのだろうか?、本書では第2章以降に4つのことが書かれている。第1番目が自由な思考で動くバックハッカーになる(p96)であり、失うものはないため、過去の経験や成功パターンにとらわれるベテラン(管理人のよう)と異なり、新しい環境に適した新しい手法を見出すことができるとする。第2番目が専門知識を集める狩猟採集民族になることが重要で、旅行ガイドのように知っていることだけでアドバイスすることとは根本的に異なり、「知りません」ということを恐れない姿勢が大切で、それにより専門家を含む多くの仲間の協力が得られるのである(p129)。私もこの年になっても益々知らないことが増えたような気がしており、常に新しいことを学びたいという気持ちは持っている。3番目がマラソンランナーのように安定した走りではなく、慎重かつ素早く行動するファイアーウオーカーになるべきで、その行動をフィードバックしコーチングを得ることが重要だとする(p178)。最後の4つ目が、欠乏感と猛烈さを以って力強く前に進む開拓者になることであり、既に開拓された土地に身を置く定住者と異なり、その苦労こそが、新しい経験ができたことの喜びをもたらし、人を大きく成長させるのである(p178)。勿論、みなさんはそれぞれの職場で、或いはそれぞれの産業において、組織がマンネリにならないようにするとか、或いは、新しい分野に出ていくために、本書で書かれている4つをどう活用すべきか、また、4つがあれば、果たして、うまくいくのか?など、これからの人生を有意義なものにするためにも、自分なりにあれこれ考えてみることがより重要である。

(管理人注:ファイアーウオーカーは燃え盛る石炭を敷き詰めた道を渡る儀式で、立ち止まらず素早く歩くと火傷しない)

 さて、本書に取り上げられている、65歳を過ぎて大半の著作を書いたドラッカーなど、5人のリーダー(p184)の好奇心とチャレンジ精神には恐れ入るし、つい先日、鬼籍に入られた日野原重明さんのご活躍は皆さんもよくご存じの通り。彼らにはどんな特徴があり、我々にも、それができるのだろうか?そこで、次に重要なポイントというか、本書の中心的なテーマであると言ってよいのが「誰もが永遠のルーキー・スマート」たりえること。我が国は本書の想定している流動的な労働市場を持つ米国とは異なるので、永遠のルーキーになるための具体策の一例である「クビになるように行動する(p200)」というようにはいかないが、初心に帰っていろいろ頑張ってみるというのが極めて重要であることは、私が申し上げるまでもないだろうが、6章にはそのために必要な4つの資質が書かれている。即ち@好奇心A謙虚さB遊び心C計画性で楽しいことを愛する人たちの資質であるが、これは長生きのために必要なことでもある(笑)。

本書の最後(第8章)には、今まで述べてきたルーキー・スマートを活かし、組織を若返らせるために、ルーキーに裁量権やミニ試練を与えたり、安全ネットを確保した綱渡りをさせることがなど、実践的でユニークな対策が提示されている。尤も、今の高卒や大卒が上述のルーキーの資質に欠けているの可能性もあり、また、子育てや教育のシステムが異なる日本ではそれが一筋縄ではいかないのではないかという議論が多かったし、また、実際、若手の指導で苦労されてると言った話もあった。しかしながら、本書にはそのためのヒントとなる事例が多く書かれており、自分なりに創意工夫、試行錯誤しながら若い方々をうまく導いてほしい。

 何度か申し上げたが、バーランド・ラッセルの教育論を思い出さざるを得ない。岩波文庫でも読むことができる(管理人注:「ラッセル教育論」)ので、一度目を通されても良いと思うが、ラッセルは教育の目的として、以下の四つを取り上げた。即ち「感受性」「知性」「勇気」「活力」あるが、まずは「感受性」で世の中に起こっていることを認識することが重要だとした。その上で、「知性」を働かせ、なぜ、そのようなことか起こったかを原因を解析し、そして、どう動くべきか、自分なりの工夫、解決策を考える。そして、その解決策を「勇気」を以って実践してみる。しかし、ラッセルのユニークなところは、その上で、「活力」が重要だとする。実際、解決策が一度で成功することは稀であり、最後まであきらめずに何度も考えを練り直し、果敢に実践を繰り返す。単に知識を教えるだけではない、これらの一連の総合的な人材の育成こそが教育であるというのである。経験豊富な皆さんはルーキーに対して、こういったことを頭の片隅において接してほしいものである。しかし、その前提として、是非、皆さん自身が、本書に書かれているように常に学習者であり続け、好奇心や謙虚さを持ってルーキー・スマートとなって頂きたいと思う次第である。

  -平成29年7月22日 神戸都市問題研究所にて/文責:管理人-