ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2009年
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鈴木叔夫著 「日本の経済針路」 岩波書店2009年7月

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 サブプライム問題で窮地に陥っている米国ではオバマ政権が発足し、前政権の市場原理主義的な経済体制からのチェンジを目指している。その政策については、首尾一貫しない矛盾の多いものであるとして批判されることも多いが、一方ではチェンジが着実に進み始め、経済も好転の兆しをみせているとの評価もされる意見も多い。日本においても民主党政権が発足し、政策決定過程など既に変化が現れている。本書(p170)には次官会議の弊害が示されており、新政権では既に廃止されているが、私もさる政治家から直接、「次官会議」が、いかに形式的で、官僚の書いたシナリオがそのまま通る仕組みとなっていることを聞かされていた。皆さんも政治が大きく変わりつつあることを感じておられるのではないか。

 ゼミ生から民主党政権の政策について一貫性がないという指摘があったが、公共投資の大幅削減と地方の活性化をどう調整するのか、高速道路無料化と環境問題、とりわけCO2の排出抑制は明らかに矛盾がある。しっかり考えて作りこんだというより、選挙対策でつくったとも言える民主党のマニュフェストは残念ながら政策的に整理されたものとは言い難い。

 また、藤井財務大臣は円高政策ないし円高容認ともとれるスタンスをとるが、円高の逆風下、日本を観光立国とするとぶちあげた前原国土交通大臣の発言も同様に一貫性に乏しいと言わざるを得ないし、郵政民営化見直しについても、違和感を覚える者も多いだろう。さらに、社民党と連立内閣を組んだことで、沖縄普天間の米軍基地の移転問題をどう解決するのか、これも鳩山政権としては頭の痛い問題であろう。

 さて、その新政権の経済政策を考えてみる上で、鈴木淑夫さんの「日本の経済針路」をテキストとしてとりあげたが、別途、菊池英博さんの「消費税は0%にできる」を参考文献として読書会幹事に推薦しておいた。

 いずれの本も、主張は大筋で似通っているが、「日本の経済進路」の方では、特に小泉改革が自民党の歴代政権の負の遺産を引き継ぐ中で、デフレ助長的な緊縮財政、即ち、公共事業の大幅な削減、社会保険料等の負担の引き上げ、地方への補助金カットなどを実施、財政再建(プライマリーバランスの均衡)を目指す一方、景気対策としては金融政策のみに頼り、ゼロ金利など大規模な金融緩和策をとったため、低金利・円安をもたらし、結果として、極端な輸出依存型の産業構造をつくりあげたという主張がなされる。また、あわせて皆さんの報告にもあったとおり、分配という面では格差の拡大、即ち、所得格差、企業格差、中央と地方の格差や正社員と非正規雇用の格差などをもたらした。グローバリゼーション下においては、小泉政権の進めたような規制緩和は不可避であったとも言えるが、全体に整合性に欠け、今申し上げたような大きなゆがみを残した点も否定できない。また、民営化についても中途半端で、郵貯、道路公団、政府系金融機関の民営化も形だけというのが本書の指摘である。 余談であるが、規制緩和ということでは、共産主義国家である中国の方が進んだとも言え、例えば、?小平さんは「農地などを共同で運営させるより、個別に割り当てるほうが、農作物の収量も質も優れている」という人民公社に関する分析をもとに、人民公社の解体・自由化を押し進めた。その後の経済特区をはじめ、中国の規制緩和はあらゆる分野に浸透し、中国はグローバリゼーションの果実をもっとも享受したと言って良いのである。

<管理人補足>本書ではさらに以下の論点が展開されています。(?章)円安による貿易で稼いだカネや円キャリー資金は米国などに流れ、結果として日本が米欧の住宅バブルや過大な金融商品投資に加担し、今回の危機の遠因となったと主張。(?章)小泉政権の負の遺産やサブプライムなどの諸問題を解決するため、新政権は,安全ネットの強化と環境・エネルギー投資で内需を振興し,同時に超低金利=円安路線から決別、強い円をバックにアジアへの投資を拡大し,米欧から自立した新興国・途上国との共生を目指すべきであるとしています。

 また、生活重視のマクロ経済政策の戦略目標として実質国内総生産(GDP)ではなく,交易利得(損失)*と海外投資収益を加えた“国民生活の基盤である実質総所得(GNI)を採用すべきという独自の主張がなされています。*輸出価格と輸入価格の比率が交易条件で、輸出価格のほうが相対的に値上がりし、輸入価格が値下がりすれば、交易条件は好転(=交易利得の増加)。日本の場合は輸出価格は円建て、輸入価格は外貨建てとなることが多いので、円高の場合は輸入品の価格が下がり、交易利得が発生、国民生活にプラス。生活者の観点からは、交易利得を勘案したGNIが指標として望ましいということになります。

  尚、菊池さんの「消費税は0%にできる」では、市場原理主義的な経済政策をとり、双子の赤字などを伴ったレーガン、ブッシュ両政権に対し、クリントン政権が景気回復と財政再建を同時にを達成した実績を賞賛し、日本もクリントンのとった経済政策(管理人注:所得税最高税率の引き上げ、累進課税の復活、遺産税・贈与税引き上げと低所得者層への支援策などの分配政策重視、財政支出の拡大など)に倣うべきであるという主張であるが、クリントン政権時代は経済政策の成果ばかりではなく、ITバブルという幸運に恵まれたことも大きく、少し割り引いて考える必要がある。とりわけ米国の産業をいかにして復活させるかということを念頭に精力的にまとめられた、MITのレポート「Made inAmerica」の教訓が活かされた対応ができたとは思えない。尚、消費税については欧米には食料品などの生活必需品に対する免税措置が幅広く採用されており、この点について日本では工夫の余地があるし、もっと議論されても良いと思われる。

 4章の指摘を待つまでもなく、日本の将来を占うとき、中国の存在が大きな比重を占めてきていることは間違いない。中国に対しては楽観論と悲観論など、さまざまな予測がなされているが、そもそも、両国はしっかりした関係が構築できているのだろうか?

 民主党の小沢さんは中国の胡錦涛国家主席との会談が実現したことに感謝したといった報道がなされているが、今後、両国の関係をより親密にするにはどうしたらよいのだろうか?考えさせられるのは、東京外大から国際教養大学に転じられた中嶋嶺雄さんと神戸大学の大学院にもいらっしゃった在日中国人、石平さんの共著で「日中対決はなぜ必要か」(PHP)という本。反日教育など中国側にも改善すべき問題も多いし、中国が抱えている、格差や台湾問題などの矛盾をどう解決していくか?一方、中嶋さんは日本人の徳目で中国に誇れるものを「義」と捉えておられるが、その「義」が果たして今の日本にあるのか?これがないと中国に尊敬されないということになるが、いずれにしても、腹を割って正面から向き合っているとは言い難い両国の関係を憂いておられるのである。

 さて、本書の主張の通り、確かに、政策金利を0とし、為替を円安にして、輸出で稼ぐという従来のやり方は、限界にあることは間違いないであろう。日本の産業構造は既に、7割が第三次産業であり、製造業の比率は低いが、その中で、「輸出企業」となると、プレイヤーは極めて限られており、その利益も従業員の給与に反映されていないとすれば、国内消費は盛り上がりに欠け、かつてにように、国内の他の産業を牽引したようには機能しない。それどころか、輸出企業は常に価格競争に晒され、人員の合理化など、痛みを伴うコスト削減を強いられる。比較的に強いとされる日本の自動車産業においても、例外ではない。

 グローバル社会においては、こういった価格競争とは無関係で、高い付加価値を生むような産業を育成することが急務である。もっと言えば、自社の製品に自ら価格をつけることができれば、グローバル社会においては、従来想像できなかった膨大な利益が転がり込んでくることもあり得る。米国にはまがりなりにも、IT産業や、今は旗色が悪いが、金融工学などの新技術を活用した投資銀行など、世界のプライスリーダーになるような企業が生まれ、国全体を引っ張るような大きな産業が生まれた。そう言った意味において、国を支えるような強い「入り口産業」をどうやって生み出していくのか、科学技術や情報を駆使できるような産業の仕組みづくり、体制、国のあり方が望ましいのか、本書の主張(P146)にある、環境(スーパーエコ日本計画)とセーフティネット(安全ネット日本計画)だけでは物足りないという意見が多かったが、その答えを引き出すことは容易ではない。しかし、このような議論の中で参考になると思うのが、神戸にある篠田プラズマで、もともと富士通の技術者の篠田さんが、起こした会社であるが、世界に例のない、横3m、縦2mの大型プラズマ画面をつくりあげ、自分でつけた値段で売ることができるのだそうである。その篠田さんは富士通の社員時代、プラズマの開発が打ち切られた後も、独自にプラズマの経営を続けていたそうである。

 また、読書会でも、既にお話をしているが、伊那食品工業の塚越さんが提唱されている「年輪経営」。塚越さんは二宮尊徳を研究されているようで、尊徳の「遠くをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う」にも通ずる年輪経営はを実践されているのである。即ち、良い木はゆっくり成長し、したがって年輪が蜜で丈夫な木となるように、企業もゆっくり成長すべきであり、常に長期的な視野にたって、経営を考え、従業員を解雇しないという。

 こういった、古き良き日本的な伝統と言ってよいのか、短期的な収益のみで考えない二つの事例と関連して、多摩大学の田坂広志さんは「Invisible Capitalism(目に見えない資本主義)」(東洋経済新報社)という本の中で、資本主義の成功はモノやカネのような目に見えるものではなく、人間関係、信頼、評判、文化などの目に見えないものの果たす役割を強調されている。日本の伝統的な企業の特徴は、このような目に見えないものを多く持っていることであり、昨今の市場原理主義的な方向性を否定し、また、サブプライムを引き起こした、収益至上主義的な企業のありかたを批判、逆にもっと日本的経営が再評価されるべきであるとする。何も「正、反、合」のヘーゲル流弁証法を持ち出して、敢えて難しく論証する必要はないのではないかとも思えるが、「Invisible Capitalism」は、混迷の時代をどう捉え、実践していくべきかという意味において、大変に面白い視点を提供している。

 それと関連して、本書でも取り上げられている西村清彦さんの議論(P171)も示唆に富む。即ち、世界で最もコストの安くて品質の良い部品を他社に先駆けて集めて製造、市場で圧倒的なシェアを獲得する所謂モジュラー型経営が隆盛を極めているが、果てしない消耗戦を招く恐れもあり、自社内や系列を含む「ムラ」の中ですり合わせを行って製品を作り上げていく「インテグラル型」の良さも見直されても良いように思える。

 ところで、塩野谷祐一さんから近著「エッセー正・徳・善 経済を「投企」する」(ミネルェァ書房) という本をお送りいただいた。人間の三大倫理としての「正・徳・善」を、経済という社会活動をどう位置づけるべきか書き綴ったエッセイで、塩野谷さんは、他に「経済哲学原理」(東大出版会)という本を出されているが、いずれも、経済学がある意味で意識的に捨象してきたと言って良い倫理とか哲学といったものを意欲的に分析され、特に弱肉強食のグローバル経済の中で人間の幸せをどう確保すべきかという今日的な問題に対する深遠なメッセージが示されている。少し内容は難しいかもしれないが、是非、読んでみて貰いたい。

 最後に日本人は「物事をはっきり言わない」「自主性がない」などと非難されることが多い。だが韓国出身の比較文化学者でもある呉善花さんは「日本の曖昧力」という著作の中で、日本は縄文時代以来の言葉、礼儀、習慣などの日本文化の良さを韓国や中国にない知恵である「曖昧力」のもたらしたものと総括し、むしろ曖昧だからこそ、日本は世界有数の安全で豊かな国になれたことを強調される。寧ろ、これからは世界において、調和がとれた人間関係、環境への順応性を生み出す「曖昧力」が求められる時代になるという主張をされているが、大変ユニークな論点を提供しているように思えるので、是非、参考にしていただきたい。(平成21年10月24日、文責:管理人)

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石井淳蔵著 「ビジネス・インサイト」 岩波新書2009年4月

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 神戸の代表的な企業の経営者、確か30社くらいの社長にご参加頂いているが、「21世紀ビジネス研究会」と称して、定例的に勉強会を行っている。その中で本書を推薦したところ、社長さん方は熱心に読まれたようで、難解な部分があるという感想はあるものの、評価も概ね良好であった。

本書のテーマは松下電工の元会長の三好俊夫さんのお話にあった「経営者は跳ばなければならない」ということであり、その為に必要なのがビジネス・インサイト(将来を見通す力)ないし、それによる創造的瞬間であるというもの。

 因みに三好さんは私とほぼ同世代で、神戸大学を卒業後、松山商大(現松山大学)教授をつとめたのち、松下電工へ転じられたユニークな経歴の持ち主で、氏はすべての事業は、従来の延長線上の経営をしている限り(本書では「強み伝い」、即ち、自分たちが活動する分野で改良商品をつくっていくことp2)収益低下が必然的に起こり、企業は衰退していくことを論じ、前述の「跳ぶ」べきであると主張されたのである。この種の議論で思い出すのは、イマニュエル・ウォーラーステインの「脱商品化の時代」である。彼によれば、労働や環境コスト、福祉への対応、インフラ整備そして経営者に対する高額報酬などのコストが上昇するため、現代企業の利潤率は構造的に低下するといった主張に加え、日本でも携帯電話の例にあるような、過剰品質の問題にも言及している。 

 そして、こういった企業の衰退の問題を克服し、次なる飛躍を目指す為の有力な創造的瞬間がビジネス・インサイトということになるのであるが、そもそも、このビジネス・インサイトはマイケル・ポランニーの言う「知の暗黙の次元」の領域(暗黙裡、即ちそれとわからないうちに知ってしまうp96)にあり、客観的な従来型の検証プロセスではアプローチが難しいが故に、具体的なケーススタディを前面に押し出している。石井さんの最近の著作である「ビジネス三国志」は石井さんの門下生5人のレポートに基づいてまとめられたもので、そういった意味で、極めて具体的で面白いものとなっていると思われるので読んで見られたらいかがだろうか。

 ところで、ケーススタディは、皆さんの中にもあまり役に立たなかったという感想もあったが、確かに、ただの興味深い物語として読むだけでは、単なる興味深い話題を提供するだけで、あまり意味のあるものにはならない。そこで重要になるポイントが「対象に棲み込む」ということだ(p111)。

 具体的には、以下の3つであり、まず、その人の立場になって、その人になりきるという意味で「人に棲み込む」ということであり、さらに、松下幸之助さんなどが経営者の立場となってから学校に通って真剣に勉強されたように「理論に棲み込む」ということであり、今ひとつが、本書の中に椅子は単に座るためのものだけではなく、地震が起こった際にガラスを割る道具となりえることが示してあったが、その事物に対する固定的な見方を廃し、新たな意味や可能性を見つけていこうという意味での「モノ(事物)に棲み込む」ということなのである。

 濱田君がうまく整理した議論をしていたが、ビジネス・インサイトはある種の危機感や使命感などをベースに、単なる観察者としてではなく、当事者になって棲み込み、考えるということによって生まれると考えてよい。アルキメデスは、風呂の中で、後にアルキメデスの原理と言われる大発見をした際、その嬉しさのあまり、裸で飛び出したといわれるが、このような例は多く、例えば、世界的な数学者で元奈良女子大教授の岡潔さんは、考え出すと姿、格好は全くお構いなし、なんらかの発見をすると、松の木に上って万歳をしたそうであるが、創造的発見には、このような真剣さが必要で、とりわけ、現場で苦労しながら、生き残りをかけて必死の努力を重ねていることが大前提になっており、そういった状況下で直観力が研ぎ澄まされるように思える。

 さて、本書の意図とも関連して、神戸大学の現代経営学研究所では今回のテキストと同じ「ビジネス・インサイト」という名前の雑誌を発行するなど、産学連携の研究や教育を行っており、その中で、ケーススタディは先端的で且つ実践的な教育のツールとなっている。また、本書にも取上げられているが(p4)、松下幸之助さんは関西商工学校(現、関西大倉高校)の夜間に通って勉強された。その関係もあり、関西大倉高校の現在の理事長は松下電器産業(現パナソニック)の元社長の谷井さんである。また、本田宗一郎さんも浜松の高校(現静岡大学工学部)に通い、技術の習得に努められた。中内功さんもご存知の通り、復員後、事業を営みながら神戸大学の夜間に進学された。こういった例を見るまでもなく、実業界で活躍された多くの方々は、まさに最前線というか、経営者として多忙な時間の合間を縫って、学校に通うということを実践されたのであるが、学校の授業の中で、或いは、そういった場で交わされる議論の中で、経営上の問題点解決の糸口を発見するといったことも多かったのだろう思われる。 優れたビジネス・インサイトを得るには、物事に棲み込むという意味で、働きながら学ぶ、学びながら実践するということもキーワードのひとつであるが、神戸大学大学院のMBAプログラムはそういった観点から企画され、文科省との折衝にも時間をかけたようであるが、世界的にもユニークだと思うが、現役のビジネスマンが出席可能な土曜日だけの開講、1年半にわたって実践的な専門的な内容を学ぶことができる。週末になると東京などからも受講生が大勢かけつけるなど、まずまず盛況のようである。本書はそのような神戸大学の実業界との連携という試みと呼応した意図も含んでいることも、付言しておきたい。

 ビジネス・インサイトはナレッジマネジメントの議論で言われる「形式知」に置き換えすることが、難しい分野であり、その意味では当事者が直接、語るということがよいのだと思うが、前にお話したNHKの「ルソンの壺」などは、毎回、そういった苦労と発見、改善などが生の体験として語られ大半興味深い。毎週日曜日の8時に放映しているが、是非とも一度ご覧になって頂いたらと思う。(「サーバントリーダーシップ入門」に関する新野先生のコメントご参照)

 この「ルソンの壺」で紹介されたのが、前回読書会でご紹介した伊那食品工業の事例(「貧困のない世界を創る」に関する新野先生のコメントご参照)で、是非、本書と関連して考えてみても面白い。本書では「跳ぶ」ということが強調されているが、当社が標榜する「年輪経営」は寧ろ急成長を求めないこと。急成長する会社は、木にたとえると、年輪の間隔が広く、強いものとは言えない。良い木はゆっくり成長し、したがって年輪が蜜で丈夫な木となる。当社の塚越さんは、今の売り上げを一時のブームと見るか、フォローの風によるものなのか、または、当社の商品力がニーズを引き出したのかといった視点で自社を冷静に分析し、商品力、言い換えれば本当の実力によるものでない限り、設備投資はしないし、大口の受注も受けないという徹底振りである。社員のアルバムを金庫の中に格納するなど、人件費をコストとは考えず、寧ろ、半世紀にもわたって増収増益を達成してきた企業の活力であり、発展の源泉として位置づけるのである。

 古き日本的経営ではなく、既に資本主義社会の代表的企業と言って良いトヨタやパナソニックのような大会社が、伊那食品のような経営手法を採用することはできないが、米国ではMITの「Made in America」の議論ではないが、さらに短期的志向である。

 かのジェームス・トービン(1981年ノーベル経済学賞)は既に1984年の時点で、現在の米国を中心としたグローバリズムに警鐘を鳴らしている。即ち、当時のアメリカは短期的収益を重視し、それに寄与するも分野に、ヒト・モノ・カネの全ての資源を投入する傾向がある。特に、将来を担う青年が、ものづくりと関係ない金融関連に就職し、コンピューター技術がこの動きを助長、ペーパーエコノミーを生み出し、また、一部の経営者に、より多額の報酬が集中する仕組みを創り出しているといった趣旨の主張である。そこには、安易に短期的収益を獲得することを目指すあまり、悩み、苦しみながらビジネス・インサイトを見出すという責任感・使命感のようなものはない。(筆者補足:トービンは投機目的の短期的な取引を抑制するために、国際通貨取引等に懲罰的な税金をかける、所謂「トービン税」を1971年に提唱しています。)

 サブプライムショック以降、事実上、米国流の市場原理主義が崩壊し、資本主義全体が跳ばなければならないとき、前回とりあげたユヌスさんのグラミン銀行のやり方は、利益追求だけではない企業のありかたに一石を投じていると言って良いが、かつて、皆で読んだこともあるミッシェル・アルベールの「資本主義対資本主義」においても、米英流アングロサクソン系の資本主義ではなく、日独流アルペン型の資本主義の良さが示されたし、前述の「Made in America」も特に日本企業の優位性についての分析がなされた。一方、残念なことに、ロナルド・ドーアさんの「誰のために会社にするか」では、日本の美徳とされていた経営がグローバルスタンダードの荒波の中で変質してしまった様子が示されたわけでおり、そう言った意味において、日本が跳ばなければならないのであるが、政治が、危機的というより、悲劇的な状況に陥っている中、せめてできることは、個々の企業と皆さんお一人お一人が、身近なビジネス・インサイトを求めることであり、本書を通じて、なにがしかの努力をされるきっかけとなったらと念じている。 (平成21年7月11日 文責管理人)

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モハマド・ユヌス著 「貧困のない世界を創る」 早川書房2008年10月

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 日本IBMの社会貢献活動の一環で毎年開催されている六甲会議は今年で20回目を迎えたが、欧米主導の経済体制に綻びが生じている現状認識とアジア地域、特に東アジアが新たな世界経済の極として何ができるか、そして、その中で日本の果たすべき役割などが問題提起された。ただ、わが国においては政治が頼りないというより、ますます混迷を深めており、また、世論も成熟しているとは言い難く、アジアの中では例外的に先進国の仲間入りをし、経済大国となった日本の知恵や経験を活かせないでいる。

 R・ライシュさんの「暴走する資本主義」を読書会で取上げた時に申し上げたことと重複するが、プラトンの「国家」には3種類の種族が示されている。一つ目が人間の欲望乃至金儲けを追求する鉄と銅の種族、二つ目が名誉や勇気などを重んじる例えば軍人などの銀の種族、そして、最後が「善」を追及する金の種族である。プラトンの師匠であるソクラテスは皆が金の種族たるべし(「ソクラテスの弁明」では富や名誉を求めず、知を求めるべきであるとする)としたが、現実主義者のプラトンは鉄や銅、或いは銀の種族を否定せず、但し、組織のリーダー、とりわけ政治家だけは金の種族として、只管、善を求め、理性に従って己を律しなければならないとした。

 ところが、100年に一度と言われる昨今の状況を作り出したのは、不幸にも鉄と銅の種族、特に短期的な利益のみを追求する投機的な人間を主役にしてしまったことにあるのではないか?1970年頃の製造業の産業全体の割合は米国で25%程度、日本で35%程度だったものが04年には米国が12%、日本でも20%と急落し、逆に金融・保険などのサービス業が20%になっている。インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙によると、産業全体の利潤に占める金融業の割合は70年代が16%であったものが、90年代には20%〜30%へと上昇、2000年に入るとこれが40%を超える水準になった。 

 ものづくりにおいては、事業を一から立ち上げて利益を上げるには相当な期間を要するが、金融部門、特に規制の少ない投資信託やヘッジファンド、デリバティブなどは短期間で巨額な資金を動かし、大きな利益を獲得することが可能であり、ここが主役に躍り出たことが、100年に一度と言われる経済危機の元凶と言っても良いだろう。日米の産業競争力などの分析から、近視眼的な企業行動を改めるべきであるとするなど、米国復活の処方箋を示した米マサチューセッツ工科大(MIT)編の『メイド・イン・アメリカ』(1990年)の警告も全く無駄となってしまった感がある。

 ひどいのは、ローレンス・サマーズ元米国財務長官が週一回程度顔を出すだけで、大手ヘッジファンドから総額約520万ドル(約5億2000万円)の高額報酬を得ていたとの報道がなされているが、もし本当だとすると、派手なロビー活動などを通じて得た米国議会における強力な発言権も相俟って銅・鉄の種族が殆ど制約もなくやりたい放題のことができたということを裏付けることになるだろう。(筆者注:D・E・ショーから520万ドル、この他に経営破綻した証券大手のリーマン・ブラザーズ、公的支援で経営再建中の米銀大手シティグループを含む主要金融機関などから複数回にわたり講演料を得ていたとの報道がなされている)

 日本においてもリーマン系の投資会社などの社員が一晩で何十万もするワインを飲み漁ったなどということが言われているようだが、バブル時代の教訓やそもそも職業倫理観、モラルは一体どうなっているのかと思う。こういった中、米国では技術論ばかり教えるMBA(Master of Business Administration・経営修士号)の問題点が指摘されるようになっており、哲学なども教える本格的なDBA(Doctor of Business Administration・経営博士号)創設の動きもあるのである。 皆さんもご存知の通り、3月に神戸大学がグラミン銀行総裁のユヌスさんをお迎えし、シンポジウムで講演を頂いたりしたのだが、世界の最貧国バングラデッシュにおいて、元々大学教授であり、銀行家としては素人であったユヌス氏さんは、マイクロクレジットと呼ばれる無担保小口事業融資やその他のソーシャルビジネスと呼ばれる活動を通じて、貧困問題に対して真正面から取り組んでこられた。そして、2006年にはノーベル平和賞を受賞され、その具体的で精力的な活動は世界に少なからざる影響を巻き起こした。

 金融の本来果たすべき役割や貧困問題に加え、市場原理主義とは一線を画した取り組みが現下の諸問題解決の糸口となるのではないか等々、本書を読書会のテキストとして取上げてみようと思った次第である。

 グラミン銀行の事業内容はマイクロクレジットと呼ばれる小口の事業融資であり、皆さんの報告にもあったように、5人程度がお互い協力しながら返済を行うというもの。これについては日本が古来から伝統を持つ「講」のようなものに似通っているような印象もあるが、借り入れの殆どが女性であることなどは大変興味深い。筆者注:鎌倉時代に始まったとされる庶民の相互扶助による金融の仕組みが頼母子講(無尽)であり、江戸時代になると、身分や地域に問わず大衆的な金融手段として確立、その後の相互銀行(現在の第二地銀)に受け継がれたと言われている。

 また、給付というかたちではなく、あくまでも融資というかたちをとっており、それにより、貧しい人たちの自立を促す効果があることなどは特筆すべきである。技能がないから貧しい、従って、まず職業訓練や教育が必要という従来の常識は誤りで、人間は生まれつき自分で生きていける能力を有しているということを前提としているというのもユニークな視点である。

 氏の言うソーシャルビジネスは社会的利益追求を第一と考える。形態として、投資家に投資元本を返済する原資としたり、長期的に社会的目標をサポートすべきであるとし、収益を上げること自体は否定しないが、最大の特徴は、出資者への配当は実施せず、利益はソーシャルビジネスに再投資されるところにある。政府の事業やNPO、国際機関などとは異なり、資金を税金や寄付金などに頼らないため、自己持続的であることも強調されているところである。

 ところで、組織の動機や目的と言うか、性質と言って良いかもしれないが、これには大きく二つあり、一方が「自分の利益の為」の組織で、もうひとつが「人の為」の組織ということになるが、グラミンの組織は後者を目指すとしている。実はこの理念は共産主義の理想と同じである。共産主義はうまくいかなかったが、人の為にという意味でうまく行っている組織は、身近な例では「家庭」であると言えるかも知れない。ソーシャルビジネスは果たして世界的規模で有効なのか、限られた地域でのみ成立するのではないか?などとビジネスとして成立する条件を考えて見ても面白いのではないか。尤も、「家庭」も自分の利益に直接結びついていると言えなくもないが、、、。

 話は横道の逸れるが、沖縄は県民所得や失業率など、数字だけ見れば国内では恵まれているとは言えない。ところが、自宅でごく普通の夕食を食べた後、観劇に出かけるというようなことは、欧米ではともかく、国内では例がないのではないかと思うが、質素ながら人生を大いに楽しんでいるのである。困っている人がいると皆で支えあうという県民性もあるのが面白い。フィリピンも東アジアでは所得が最も低いが、生活の満足度は最も高いと言われる。バングラデッシュと同じ最貧国であるブータンでは、前国王が提唱した国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念を提唱し、国家を挙げて幸せな国づくりを行っているが、物質的な豊かさと真の幸福というテーマで、一度考えてみてほしい。

 併せて、少し前に出された本であるが、アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したセン博士が「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か 」を著し、人間中心の経済政策への転換が重要であると力説されている。今回のテキストとはアプローチが異なるが、伝統的な市場原理主義だけではうまくいかないという主張に共通点があり、一度、読んでみられたらどうかと思う。

 バングラデッシュのような最貧国ではなく、BRICsも問題山積である。中国においてはサブプライムショックで広東などを中心に2,000万人の失業者が出たと言われる。中国経済はまだまだ勢いがあり、ある意味、経済成長率は8%から6%に下がっただけという見方もあるが、経済の不振による失業の問題は深刻さを増している。また、BRICSでは失業問題に加え、所得格差や地域格差が拡大していると言われており、り、中国では毛沢東が、ロシアにおいてもスターリンの人気が復活してきている。彼らの全盛時代は確かに貧しかったが、経済は安定し、また、失業もさほど問題とならなかったのである。かつての社会主義には逆戻りできないと思うが、軍主体の全体主義的傾向にならないか心配である。いずれにしても、今後の政府による舵取りは大変なものとなろう。

 話を元に戻して「貧困のない世界を創るため」ということを、もう少し考えてみたい。ビル・ゲイツなどのように、巨額な基金を創設するというやり方は、本書では評価されていないが、自分の得意な分野で才能を存分に発揮して、飽くなき利益追求を行い、そこから得られた巨額な富を寄付していくやり方も、ある意味、効率的とも言えるが、その是非も含めて皆さんも、もう一度考えてみてほしい。

 日本ではどうか?松下幸之助は、人と社会を育てることを第一義とし、それを実践するために、たまたま、モノを作った。出光佐三は神戸高商の内池廉吉教授より、商人の今後のあるべき姿として自分の利益を考えるのではなく、生産者と消費者の間で商品の円滑な流通にあたることの重要性に目覚めた。出光さんは大家族主義を唱え、終戦後も千人の従業員の生活を守る為として、鍋や釜まで売りながらも、なんとか乗り切り、結果として、一人も解雇しなかったのである。

 最近では、約50年にわたり増収増益を果たした伊那食品工業(長野県)の事例が意義深い。当社は主力商品の寒天を使った数々の商品を生み出すべく、特に研究開発に力を入れ(従業員の一割が研究開発に携わる)、付加価値が高く、他社が容易に真似のできないような商品群を生み出すことに定評があるが、何よりもすごいところは、当社が標榜する「年輪経営」(筆者注:同名の本も出版されています)。当社は一度もリストラを行ったことがなく、年功序列を維持しながら、寧ろ、人材を育て、人を活かす組織作りをする。当社にとって、人件費はコストではなく、幸せを生み出す原点であり、会社発展の基礎であると経営者(塚越寛会長)が言い切るのである。グラミンのようなソーシャルビジネスとはかなり異なるものの、こういった日本型の企業経営とも比較・分析しながら、皆が幸せになれる仕組みや組織のあり方も是非考えてみてもらいたい。(平成21年4月18日 文責:管理人)

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堂目卓生著 「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」 中公新書2008年3月

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 元々道徳哲学者であったアダム・スミスは『道徳感情論』で示された社会観をベースにしつつ、その延長線上に『国富論』を描き、社会の繁栄と人間の幸福について論じたという本書の主要なメッセージは、サブプライム問題に代表される市場原理主義の欠陥が露呈する中、本書はまさに時期を得たと言うか、サントリー学芸賞を受賞するなど話題をさらったのも頷けるが、皆さんも大変興味深く本書をお読みになったのではないか?本書を通じて、経済は神の見えざる手(市場の価格メカニズム)に委ねればすべてうまくいくと言ったアダム・スミスのつくられたイメージが変わり、改めて原書を読んでみようというきっかけにもなったのではないかと思う。ただ、本テキストでは特に『道徳感情論』に関して、きれいに整理され、わかりやすく解説されているものの、原書は大変難解で、読むのに苦労する本であり、その意味では、『国富論』の方が格段に読み易いだろうということを念のため申し上げておく。いずれにしても、皆さんのコメントにもあったとおり、現代でも新鮮な内容を多く多く含んでおり、是非ともチャレンジしてみても良いのではないかと思う。

 さて、アダム・スミスが『道徳感情論』や『国富論』を書いたのは、フランスとの7年戦争やアメリカ植民地問題など多難な時代への対応策という側面もあるが、何よりも、公正に社会的分業を実現したり、社会の秩序を維持するのは、絶対王政とチャーター(特権)による統制しかないとする半ば体制擁護的な重商主義に対する挑戦(*)であった。即ち、各々が自由に利潤の追求を行ったとしても、神の見えざる手により、価格は「自然価格」に収斂し、資源は効率的に配分されるとともに、分業による生産性の向上とその結果として剰余生産物を生む。その一方、資本蓄積が進み、新たな分業が生まれることを通じて、社会は発展していくとするものであるが、その前提に、『道徳感情論』で描かれたような心の問題を社会の発展の基盤に置いた。即ち、「同感」(=他人の感情を自分の心の中に写し取り、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする能力)を駆使しながら、経験に基づき社会で一般的に通用する”公平な観察者”を胸中に形成し、この”公平は観察者”によるコントロールが資本主義の発展に必要不可欠であると考えるのである。本書では例えば103ページに「私たちの賢明さは徳と英知が心の幸福をもたらすことを知っており、「財産の道」を進む過程で徳と英知を身につけることができる。しかしながら「財産の道」は「徳への道」と矛盾することがある。このとき、私たちが徳への道を優先させ、フェアプレイのルールに従えば社会の秩序は維持され社会は繁栄する。」としている。

(*)「国富論」の監訳者大河内一男氏は「国富論」の訳注で「国富論は全巻挙げて、実は極めて周到で体系的な重商主義批判だと言って良い」と記しています。

 この「財産」と「徳」という一見矛盾する論理展開は「プロテンタンティズムの倫理と資本主義の精神」においてマックスウェーバーが論じた、反資本主義的なキリスト教精神の確立が資本主義発展の前提であるという議論や、プラトンの『国家』に描かれた3つの種族(「暴走する資本主義」に関する新野先生のコメント<その1>ご参照)の話と相通ずるものがあると考えてよいだろう。社会主義は非効率を生むのみならず、平等どころか一部の官僚と身内の利益追求にまで体制が堕落した現実を踏まえると、今のところ、資本主義に代わるシステムは考えられないというのが大方の見方であるが、その資本主義が正しく機能すためには、アダム・スミスの言う「同感の精神」が全ての人に行き渡っていることこそ、必要条件となっているのである。

 アダム・スミスと並ぶ巨人であるマルクス、ケインズ、そしてフリードマンを加えると、四大経済学者と呼んでもよいと思うが、夫々が夫々の時代特有の問題意識を持ち、それを克服しようとして生まれたのがこれら四大経済学者の経済理論であり国家論である。

 元々、アダム・スミスは重商主義を超えることを一義的に考えたが、後世の研究者は夫々の時代に、ある観点から物事を捉え、解明しようとすることもある。少し話は横道にそれるが、戦前に大河内一男さんや水田 洋さんなどのマルクス経済学者が熱心にアダム・スミスを研究している。自由な競争を重視したアダム・スミスとマルクス経済が相容れぬような印象をお持ちになるかもしれないが、戦時中はファシズムないし統制経済に対する批判材料として、勿論、資本主義のモラルのありかたを含め、アダム・スミスの論理の正当性を称賛したのである。

 そういったことを思い起こしながら、さらに申し上げると、過去の学者の残したものの評価については、ふたつの切り口がある。ひとつめが、その時代の処方箋というか問題解決策としてどうであったかを評価することであり、もうひとつが現代の処方箋ないし教訓としてどう位置づけるかということにある。本書は明らかに後者であり、社会的存在として現下の経済人に欠如しているものを描き、アダム・スミスの現代的な意味合いをうまく導き出したと申し上げるべきか、或いは、これからのスミス論の潮流に合致していると言っても良いのかもしれないが、本書が多方面から高評価を得ている理由であろう。

 最後に人間の真の幸福とはどこにあるのか?アダム・スミスは無論、真の幸福は富や地位の獲得によりもたらされるのではなく、心の平静(tranquility)と享楽(enjoyment)にあると考えた。これについては今も否定されていない興味深い定義となっているが、皆さんはどうお感じなったか?米タイム誌の“The New Science of Happiness,”January 17, 2005 の議論ではないが、単に富や所得といったものではなく、人は何が保証されたら幸福を感じることができるのか?アダム・スミスは死の直前まで『道徳感情論』の加筆を行っていることの意味合いも是非考えてもらいたい。(平成21年1月17日、文責:管理人)