ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2015年
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広井良典著「ポスト資本主義」岩波新書 2015年6月

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 今回のテキストはポスト資本主義というタイトルの通り、従来の資本主義に代わる仕組みはどんなものかを探る内容となっている。ここで言われている資本主義とは、常に成長或いは、量や利益の拡大等を強いられる体制のことであり、ポスト資本主義とは、その逆、即ち、経済成長を目的としない社会で、著者の広井さんが以前から提唱されている「定常型社会」に移行すべきであることが主張されている。資本主義は元来、弱肉強食的な性格を有するが、現在、IT革命やグローバリゼーションと相まって、世界的な規模でその貪欲さによる弊害が目立つようになってきている。

例えば、ITバブルの崩壊やリーマンショックなどのように、世界的な景気減速、失業の増加など大変な問題を招来したことは、我々の記憶にも新しいことであるが、これ以外にも、格差、特に本書ではトマ・ピケティの実証研究と同様、単に所得格差だけでなく資産格差(p213他)が大きく取り上げられているが、こういった格差問題、地域コミュニティの崩壊(第8章)、地球温暖化や環境汚染(第5章、エントロピー等)など、様々な分野で根深い問題を惹起した。一方、特に先進国においては、資源、環境、人口減少等の構造的といってよい制約がある中、従来、資本主義が内包する様々な矛盾を解決してきた“高度成長”の再現を望むべくもなく、本書のように、これまで経済を牽引してきた資本主義とは異なる「ポスト資本主義」を意識して考えていかなくてはならない時代となってきているのである。

 本書のユニークなところは、経済学的な知見のみならず、哲学や自然科学、歴史乃至時代の大きな流れや着眼点から、定常化社会の実現を説明しようという試みであり、それに合致するように論理を組み立てようとしている。

 具体的な論理の骨組みを見てみると、以下のように整理できるだろう。即ち、「共(ローカル、地域社会)」、「公(ナショナル、国)」、「私(グローバル、市場)」のカテゴリーの中で、物質或いはカネ、エネルギー、情報といったものをどう動かしたら、社会全体の幸福を実現できるかという視点で、本書は書かれている。しかも、哲学、社会学、物理学などの専門的なロジックを駆使しながら壮大な論理が組み立てられているので、皆さんも本書についていくのが大変だったのでないかと思うが、今後の方向性として、近代以降、重視してきた「公」「私」から脱却し、それ以前の時代に中心的な役割を果たしてきた「共」を活かした社会、定常型社会がそれにあたるが、そういった社会に変革して行かなければならないと言う主張になっている。

 本書によれば5万年前の心のビッグバンの時代や、紀元前5世紀の思想的な大変革、ヤスパースがまさに枢軸の時代と呼んだあの時期が、丁度、定常型社会の時代にあり、経済的には頭打ちの時代にこそ、寧ろ、精神世界における大発展があったという自説を展開する。そして、今まさに、歴史上3度目の定常化の時代に突入しようとしており、極めて大きな時間軸の中で「資本主義のこれから」を論じているのが、特徴的である。

 皆さんからは、仏教、儒教、ギリシャ哲学などの思想上の発展が、必ずしも、停滞していた時代ではなく、寧ろ経済の拡大期に起こったのではないかといった話もあったし、また、欧米の議論の中には、現在の停滞が本書のように資源、環境、人口の制約や資本主義の弊害によるものではないと言った話もあるだろう。現に、米国では、低迷の原因をハンセンがかつて主張した長期停滞論で説明しようと言う動きが、脚光を浴びている。これによると、長期停滞の理由は二つあり、一つは消費、投資などの需要面の不足、今ひとつが、供給面、特に画期的なイノベーションの不足に原因を求めるべきであると言った論理である。

 その意味では本書の論理はユニークである反面、十分な説得力を有しているかは議論が分かれるところであろうが、著者はまだまだ若いし、経済学の専門家ではないといったこともあり、いろいろ荒削りな部分があるにしても、本書の意欲的な姿勢については評価すべきであろうし、我々にとっても考えるべき多くの示唆を与えてくれているのは間違いない。

 尤も、マルクス、ケインズ、そして、フリードマンにしても、従来の経済学が行き詰ったときに彼らの革命的な理論が現れたことを考えると、著者の「停滞期こそ、思想上の発展がある」という主張はあながち間違った話ではないかもしれない。

 ところで、「共」、「公」、「私」で社会のあり方を考えていくと言う試みだが、これは私が何度も引用しているボールディングの「統合」、「脅迫」、「交換」と、ほぼ同様の話となっていることに気づかれた方も多かったろう。

 即ち、共(コミュニティ)≒統合(社会)、公(政治)≒脅迫(法、政治)、私(経済)≒交換(経済)といった具合に対比させるとわかりやすいと思うが、脅迫(≒公)は統合(≒共)がうまく行かない組織においては、ある程度やむを得ないが、これに頼りすぎると国家そのものが危なくなる。その意味では北朝鮮や中国なども、このまま、脅迫システム主体で国を統治することはできないだろう。もしも本書の言うように、経済というか交換(≒私)が歴史的に行き詰まりを見せているということであれば、今後の理想の社会は統合(≒共)をベースにした定常型社会の実現という選択肢もあるのだろう。

 統合と言う意味では、日本の存在は大変ユニークである。例えば武藤山治。慶応大学を出て、三井銀行に入り、その後、30年以上に亘り、鐘紡の経営を、文字通り工員と一緒に油まみれになりながら、陣頭指揮したのであるが、同時に日本的経営若しくは大家族主義と言うのか、従業員を、まさに家族のように扱ったのである。当時、神戸和田岬の工場には3,000人の女工が働いていたが、武藤は彼女たちの教育のために女学校を設立したり、保育施設を建てたりした。また、別途、本格的な職工学校までつくったりした。これなんかは、必ずしも鐘紡だけがやったことではないものの、私の故郷の同級生や後輩なども実際に教育を受けさせてもらっているのだが、優秀な職工の養成の手間を惜しまなかったし、教育も含む家族主義が、品質の良い製品を生み出す源泉であった。職業別組合を前提とした欧米ではこのような仕組みづくりは難しい。さらに、鐘紡では安心して働いてもらうために、病院までつくって従業員の健康管理まで行ったのであるが、武藤山治の活躍に後押しされ、神戸は従業員を大切にする「日本的経営の発祥の地」という人もいるくらいである。

 今日の皆さんの議論の中にもあったように、「共」を前提とした企業組織を考えるとき、江戸期の商家の伝統という側面も大きい。例えば、朝ドラの主人公、広岡朝子の話題も出たが、江戸時代の商家からスタートし、銀行、保険会社、紡績会社などをつくって、一時代を築いた彼女の活躍について、神戸大学も取り上げるらしく、近く、公開講座(「豪商たちの近世・近代―廣岡浅子を育んだ時代―」)が開催されるが、こういった温情主義、家族主義は江戸時代の伝統を受け継ぐ日本においては珍しいことではなかったのである。

 一般的に日本的経営は第一次大戦中、技術者確保のために行った一連の動きに、その源流を求めることが多いが、武藤や広岡などの動きはこれらを先取りしたものであり、鐘紡式人事政策、一般的な言い方では、終身雇用、年功序列、企業別組合と呼ばれる日本的経営が、本書の言う「共」の役割を果たしていたと言えるのではないかと思う。本書の中では「共」は地域コミュニティ、ネットワークといったイメージとなるが、企業組織の中でこういった問題を捉えることもできるのではないか。

 本書の第五章にある機械論とアニミズムがなぜ、結びつくかわかりづらいといった話があったが、ここで言う機械論は近代科学の特徴、或いは物理学の手法と言っても良いかもしれないが、所謂、要素還元主義のことで、モノを細分して分析し、後で全体を理解しようと言うことであり、その過程においてアニミズムを排除してきたが、人間の分析をすればするほど、要素還元主義でとらえることはできないし、ましてや、ギリシャ哲学やユダヤ・キリスト経のように二元論で説明できるほど単純なものではなく、科学が一旦捨て去ったアニムズム(本書では新しいアミニズムとも呼ぶべき自然像p123)に接近しているという論理となっている。確かにわかりにくい議論なのかもしれないが、定常型社会は全体のネットワークで把握してこそ意義があるということだろう。

 さて、話は変わって、日本は世界に注目される課題先進国と言われている。例えば、環境問題であるが、高度成長期、日本は世界でも有数の公害大国であったが、これに真剣に取り組んだことで、世界に誇るべき公害除去・削減のための様々な技術を持つに至っている。また、オイルショック後の省エネルギー対策であるが、ここにおいても、官民挙げての対応が功を奏し、世界屈指のノウハウを蓄積してきた。

 そして、今、日本は世界で初めて本格的な少子高齢化時代に突入しており、いずれ日本を後追いしてくる各先進国から注目を浴びているのである。しかも、温室効果ガスに代表される世界的な環境問題と東北大震災後の原発政策の転換などエネルギー政策の制約の中で、どうやってこの問題に対処すべきか、大変重たい問題であるが、逆にこれを乗り切った場合、その成功事例が世界の高齢化ビジネスの圧倒的なノウハウとなるのである。

 そういった観点から申し上げれば、京都大学などで活躍された上田篤さんのお話が興味深い。日本はフィンランド、スウェーデンと並ぶ世界に冠たる森林大国で、国土に占める森林面積の割合は2/3を占める。しかし、日本全体の木材建築は、約8000万立方メートルとなるそうなのであるが、これに使われている国内材は僅か1/4に過ぎない。これは1964年に木材の関税を廃止したことにより、一気に輸入材に席巻されたことが原因で、結果として、日本の林業は衰退した。しかも、単に産業のレベルのとどまらない。植林から間伐、伐採が適度に行われていないため、環境、治水の問題から国土の荒廃にまで悪影響が及ぶのではないかとも言われている。勿論、地方の山間部においては、林業が主要な産業のひとつであっただけに、地域経済に与えた負の影響は計り知れないが、北欧などはしっかり間伐を行い、地元の木材を使った木工品などの産業も健在である。

 上田さんによれば、現在、木材を補強する技術も進歩しており、一定の高層建築も可能であるとしている。耐用年数で言えば、鉄筋コンクリートでは70年から100年程度であるが、木材はしっかりした建築を行えばそれをはるかに上回ることも可能(管理人注:上田篤さんの著作には『五重塔はなぜ倒れないか』などがあります)であり、大阪城も名古屋城も鉄筋コンクリートではなく、木材で再建築すべきだとまでおっしゃる。私からは、経済性をどう考えるかと言う視点も重要であると申し上げたが、コンクリートをふんだんにお使いになるイメージの強い(笑)安藤忠雄さんも、先ごろ、木材だけで作った音楽ホールをつくられたようで、また、鉄筋コンクリートの住宅は設計しないと言ったお話もされているが、円安効果と建築資材の値上がり等もあり、今後こういった形で、木材建築が増えれば、地方創生にも貢献できるかもしれない。

 これと関連して、日本の林業を復活させれば、エコで、高齢者が参加し、一生を通じて人が成長を続け、雇用がある社会の実現を目指す、小宮山宏さんのプラチナ構想とも重なる話であり、また、一頃大変に注目された増田寛也の「地方消滅」の打開策のひとつとして位置づけられるだろう。

 本書では定常型社会の実現が狙いの一つであり、将来の自然災害についてはあまり触れられていないが、この問題も考えておくべき問題であることには間違いないので簡単にコメントしておきたい。

 かつて読書会で大石久和さんの著作「国土と日本人」を取り上げた。その中で、日本は山地が七割を占め、多くの山が地盤の弱い脊梁山脈で、河川は急峻、その上、地震や台風にしばしば見舞われてきた日本の国土と我々はどう関わっていくべきか?こういった天然災害と常に隣り合わせの土地に住みついた日本人は、古来、道を通し、川筋を変え、営々と自然に働きかけてきたが、今後もこの問題は避けられない。ポスト資本主義では環境との両立といことも配慮しながら、どういったかたちで自然災害と向き合っていくべきか?

 1775年のリスボン大地震は当時のポルトガルに甚大な被害をもたらしたが、地震、津波などの被害を殆ど受けたことのない欧州では、後に「知の変容」とまで形容されるほど、ヴォルテールやルソー、エマヌエル・カントなどの啓蒙思想家に大きな影響を与えた。日本では欧州に比べて、地震が頻繁に起こるので、ある意味、ちゃんとした議論がされておらず、ヴォルテール等の「知の変容」といったレベルにまではいかないが、阪神・淡路大震災とそれに続く東北大震災を通じて、自然は我々に多くの課題を与え、とりわけ、エネルギー問題など産業の構造にまで及ぶ試練を我々に、もたらしたのである。本書では第5章の自然の内発性の冒頭部分に2,3行、この問題に触れられているに過ぎないが、この問題も押さえておくべき問題だと思う。

 明治の初め、日本の税制は地租が中心的な役割を果たしたということ(p174)であるが、日本では幕藩体制が崩壊し、版籍奉還により、国の土地になったものを、国民に所有権を与え、年貢の代わりに地租を徴求したところから端を発している。その後、先祖伝来の土地が相続され、さらに土地神話など土地所有を絶対化する気風が生まれたことや、土地が資産として位置づけられ、活発な土地取引も起こったこともあり、さらに地権者が細分化された。この結果、利害調整は極めて複雑になり、都市部ではなかなか都市計画は進まないし、山林は境界や所有者がわからないといった弊害が生まれており、実際、東北大震災の復興の遅れる原因のひとつになっている。

 一方、欧州では元々土地を所有したいと言う発想があまりない。歴史上、何度も戦場となったこともあり、いつ、土地の所有権がなくなるか、常に不安を抱えていた為だという説明がなされるが、実際、ロンドンの地権者は70名程度であり、その他の代表的な都市も日本ほど細かく所有者が分散されていることは、まず、ないと言って良いだろう。

 米国では国家が医療分野に巨額な資金を投入している(第4章)が、平均寿命という意味では、先進国では最低レベルで、国民の健康に寄与していないといった話があったが、米国の場合、産業としての先端医療分野の育成を睨んだ研究が前提であり、富裕層はその恩恵を受けられるが、一般の国民は蚊帳の外ということになる。勿論、そこには日本のような国民皆保険といった仕組みを持たないというか、自助を前提とする国民性もあるのかもしれないが、オバマ大統領の医療制度改革では大変に苦労したことは皆さんもご存知のとおり。クルーグマンも一貫してオバマを支持したのだが、TPPにおいても、米国の大手製薬メーカーの利益を代弁するかたちで、安いジェネリック薬品の普及を妨げる長期の特許期限にこだわった。米国には本書の言う「共」という考え方はなかなか馴染めない土壌があるのかもしれない。

 しかし、一方で、多額の資金を投入し、関連の研究所を拡大していくなど、米国の医療産業に注力していこうと言う意欲はすごいものがあると感じる。今年もノーベル賞受賞者を2名も出した日本であるが、肝心の大学教育に対する政府の支出は減少しており、とりわけ、科学技術に対する交付金等はGDP比で申し上げると、日本は0.5%で、米国の1.0%、EUの1.1%と比較して著しく低く、基礎研究に金をかけないといった方向性になっており、過去の受賞者を含め、ノーベル賞受賞者がこの問題に一様に危惧を表明されている。

 それと関連して、上述の通り、国は教育費・研究費を圧縮しつつ、一方で、大学の経営にも英語の授業や外国人の先生や留学生の人数、海外留学など表面的な指標を重要視しているがこれも弊害が大きい。というのは世界的な業績をあげた先生を招聘するのは、大変なお金がかかるのだが、予算がない中、この数字が独り歩きすると単なる頭数だけの外国人講師ということになり、世界に通用する日本人を育てようとする趣旨からすると、本末転倒の話になりかねないのである。

 ポスト資本主義社会においても教育は最重要な課題のひとつであるべきであるが、本書では議論されていない。というよりも、寧ろ、本書をきっかけに、問題の山積している資本主義の今後、ポスト資本主義社会のあり方を、皆さん自身で考えてみていただきたくことが最も重要であると思う。

              -平成27年10月17日 神戸都市問題研究所にて 文責:管理人-

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  L・ワイズマン/G・マキューン著「メンバーの才能を開花させる技法」月と海社 2015年4月

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 中津市で開かれた神戸高商の初代校長水島銕也先生(1864年〜1928年) の生誕150年を記念して開かれた講演会には地元のホテルに神戸大学の関係者はもとより、中津市長をはじめ地元の多くの方々がお見えになったが、地元の皆さんの反応は、中津にそのような偉大な教育者がおられたことを初めて知ったというもので、もっと皆に水島校長のことを知ってもらおうということになり、中津市が中心となって「明治・大正期の教育者 水島銕也(みずしまてつや)」というマンガが発刊されたのである。中津の偉人と言えば福沢諭吉が有名であり、福沢さんの同様のマンガもあるが、水島校長が育てた人材も、例えば出光興産の出光佐三さんや政治家の石井光次郎さん、トヨタの初代社長豊田利三郎さん、白鶴の加納さん、そして、日商の高畑さんなど、福沢諭吉さんの教え子と決して引けを取るものではないのではないだろうか。今回取り上げる「メンバーの才能を開花させる技法」との関連で申し上げると、水島校長は本書の言う増幅型リーダーの典型だと思える。

学問としてのリーダーシップ論の研究は欧米が中心であり、神戸大の金井壽宏君などが心理学の成果を取り入れ精力的にこの分野を開拓しておられるが、日本ではどちらかというと、こういった議論より、江戸時代は勿論、明治に入ってからも中国の四書五経に書かれているような、上に立つ者の心得というか、生き方を学んできた伝統があり、その意味では欧米のリーダーシップ論より伝統があるのかもしれないが、この流れに沿って、個々の歴史上の人物や創業者の人物像を研究した著作も多い。

本書の特徴は、個々のリーダーシップというより、多くの実例を研究し、何らかの法則を見つけるといったアプローチの仕方になっていることであり、英雄論のような美化されている物語とは違い、誰にでも実践でき、それぞれの現場で広く活用できる手法を記したところにある。

 具体的には、「様々なタイプの人が働く組織の中で、いかに、彼らの能力を引き出し、知力を伸ばし、組織全体に成果をもたらすことができるか?」ということについて、巻末に書かれているリーダーの実例(150人)を詳細に分析し、そこから、本書の言う「増幅型リーダー」になるための実践法を具体的に展開しているのである。(注:「7つの習慣」の著者スティーブン・コビーによると「どの本よりも人の能力を引き出す方法を掘り下げている」)面白いのは、自身は必ずしも目立たないが、周囲に天才を生み出し、組織全体の効率性が上がる(注:本書では消耗型リーダーの2.1倍の効率性確保)としていることだ。

 皆さんのコメントにもあったが、確かにすぐにでも活用できそうなものも多く含んでおり、私は神戸市長にこの本を推薦しておいたが、神戸市では局長クラスの幹部にこの本を読んでもらうということになるようである。

 著者のLis Wisemanは有力企業(オラクル)の重役で実力を発揮した後、グローバルリーダーを養成するコンサルタント会社を主宰するが、ご覧頂いた方も多いだろうが、なかなかの美人であり、それとは直接関係ないかもしれないが、多くの顧客を抱え、日々、実践的な指導をされているところに、本書が全米でベストセラーになった要因があるのだろう。

 少し具体的に見ていくと、本書ではメンバーを育てることに主眼をおいており、それにより、経営資源の制約を乗り越え、メンバーの知力、能力を引き上げることで組織全体を活性化させることを通じて、より大きな成果を上げていくという観点から、リーダーシップのタイプを「増幅型」と「消耗型」に分類している。ただ、この2つのタイプは単純な二元論ではなく、リーダーの誰もがこの二つのタイプもしくはその中間のどこかに位置づけられる(一本の線上にある)とし、逆に誰もが、本書に書かれているようなことを実践すれば「増幅型」リーダーになれるし、部下の知力も与えられたものではなく、伸ばすことができ、その才能を開花させることができるという。皆さんの議論の中にもあった通り、「消耗型」リーダーも全く無能ということではなく、ある意味、大変なスキルや手腕を持っているが、組織全体の実績が上がらない、或いは、空回りした状況であるが、それらはやり方次第で打開できるという主張であり、企業間の競争優位性は、人材の活用を前提とした組織力にその源泉があるというのである。

増幅型リーダーについて考えるなら、例えば、以前とりあげたことのあるサーバントリーダー、即ちリーダーでありながら、強い統率力を発揮するというのではなく、皆が動きやすいように気配りしながら、結果的には目的を実現するタイプのリーダーシップの発揮のやり方との共通点も多いが、逆に異なる点はどうだろうか?といったことを考えてみると面白い。

また、本書で言う消耗型にしても、増幅型にしても、かなりきめ細かく、組織を動かすといったことでは変わりないのだが、京都大学の西田幾多郎さんのような5月の田植えが終わった頃に講義を始めて、年末には一年の講義が終了するといったある意味、牧歌的でおおらかなやり方でも、学生は自ら勉強し、大いに議論を重ねながら、多くの優秀な研究者や後継者が育っていったのである。今回のテーマが割合実践的な要素が強いため、本書に書かれたことを、自分なら、どういった局面で活用してみようかと考えながら、頭の中で整理してみることは有益だろう。全くの蛇足であるが、京大では西田さんに影響され、多くの先生が年末で授業がおしまいということになって、ちょっとおかしなことになったようであるが、、、。

西田幾多郎さんの話とも関連するが、現在、世界全体では大学の授業料は高騰しており、米国などの有名大学の授業料の相場は5万ドルとなっている。誰もが簡単に出せる額でなく、一部、奨学金による助成やMOOCのようなネット上の無料講座などの動きがあるにしても、多くは教育ローンを借りざるを得ないため、金が稼げる就職先ばかりを目指すことになる。

議論の中で、リーダーシップ教育をしっかりやってこなかった文科省に対する否定的なコメントがあったが、文科省の役人も言うほど、悪い人ばかりではなく(笑)、学力低下を喧伝するマスコミやグローバルな人材養成を求める産業競争力会議とか経済諮問会議の意見を盛り込もうとすると、どうしても、教育制度のあり方についての議論が、より成果に直結する近視眼的な視点から行われることになり、西田幾多郎さんの時代のような、ある種、のんびりしたと言ったら語弊があるかもしれないが、じっくりと人材を育成していくと言った話にはならないご時勢になってしまっているのである。

さて、かつての高度成長期が典型的であるが、工業社会においては一律の指示命令をいかに機能させるかということが最重要であり、ここで言う消耗型というかトップダウンで物事を決め、指示を出せばよく、ある意味、それが当たり前だったし、逆に、組織に所属している人もそれを受け入れていたのであるが、今は、いろいろな多岐に亘る業務があり、それに対して様々な価値観を持った人々により組織が構成されており、従来型と言ってよいかは別にして、「消耗型」では人は動かない。さらに、その要請の背後にはグローバルマーケットの細かいニーズがあり、他社との競争上、皆の英知を集めることの重要性は高まっている。そんな中、昔多かった(?)「消耗型」の命令の方が随分楽だったという感想があったが、その意味では現代はじっくり部下の話を聞きながら、一方では細やかな心配りが必要で、さらにまた、部下の能力を引き出し、育てなくてはいけないというのだから、なかなか大変である。

家族においても、昔の父親のような「消耗型」をとると、現在では大変なことになる(笑)のであり、そういった方々には、なるべく早く「増幅型」に転換されることが肝要だと思うが、私が再三申し上げているボールディングの「脅迫」「交換」「統合」の考え方と良く似ていることがお分かりいただけると思う。即ち、「消耗型」の「脅迫(ムチ)・交換(アメ)」から、皆で情報共有し、お互いの立場を慮り、それぞれがレベルアップしながら行動していく「統合」に、会社組織は勿論、家庭も変わっていかないといけないのである。

本書に戻ると、第一章が二つのリーダーのタイプと「増幅型リーダー」への移行の必要性について書かれており、今まで申し上げたような内容を含んでいるが、それ以降の各章(2〜6章)には、増幅型リーダーになるための課題が5つ示されている。本書の順番で申し上げると

① 才能のマグネット(人を惹きつけ、その才能を最大限に発揮させる)

② 解放者(メンバーの居場所をつくってやり、最高のアイデアを求める)

③ 挑戦者(小さな勝利を重ねながら、難しい課題に挑戦させる)

④ 議論の推進者(議論を通してメンバーの理解を高めて決定する)

⑤ 投資家(責任を明確にすると同時に能力の1,2段階上の仕事を任せる)

各章にはその克服すべき課題に対し、具体的な勝利の方程式が示されているのが本書の構造である。例えば、第三章にはメンバーを萎縮させ、創造性を奪ってしまう独裁者たる「消耗型」リーダーからメンバーを解放すると同時に、3つの実践、即ち、「メンバーの居場所」をつくり、前向きなプレッシャーとも言える「最高の仕事」を求めながら、失敗から学び続けることを推奨する「素早い学びのサイクル」の構築を行うべきことが書かれている。また、その為に、議論が効率的に行われるように「発言時間の権利」である”チップ”をメンバーに予め手渡しすべきことなどの実践的でユニークなアイデアが示される。

「消耗型リーダー」より「増幅型リーダー」が好ましいということは誰からもコンセンサスが得られるであろうが、ならばどうすれば、増幅型リーダーになれるか、上述のように各章ごとにテーマを絞りながら、興味深くその実践法をお読みいただけたのではないかと思う。

但し、重要なのは、結果として、組織も人も変化するものであるが、上述の方程式を活かすためには、まず最初に、自身の変革、そして、たとえ、増幅型リーダーの領域に進んだとしても、それで終わりではなく、常に進化していかなくてはならないということを理解しておかなければならない。

話は変わって、本書には心理学の成果がふんだんに取り入れているようだ。例えば、部下にスポットライトを当て、スタッフが輝くように配慮するべき(2章)であるとか、自信を植え付けるために、目標を手の届く範囲に置き、小さな勝利を重ねさせるべき(4章)などのきめ細かい指導の必要性が記載されているが、プレジデント誌の連載記事の「職場の心理学」にも、落第点はつけては駄目で、「もうちょっとでできるね、でも目標に近づいているよ」と言った、ちょっとした言葉の言い方や配慮ひとつで人の意識は違ってくるといったことが書かれてあった。まさにそういったことの積み重ねができる人が、本書の原題「Multiplier」ということなのだろう。

最後に5章の議論の推進者について、少し突っ込んだ話を申しあげておきたい。

ここに書かれているのは、メンバーを議論に引き入れ、それらを通じて全員の理解を生み、従って、より良い決定がなされ、その結果、全員が一丸となって“踏み出す”ことが大切で、これが好結果をもたらすというもの。

 この章の消耗型リーダー(全能の神)のように、自分の知識をひけらかすことは全くもって駄目であるが、議論の推進者(増幅型リーダー)も、ある程度答えがわかっていないと推進者にはなれないという前提(本書では完全な答えを差し出さず、きっかけを与える)は個々のリーダーにとって少しきついのではないか。

現実の問題においては、様々な要因が絡んでおり、分析も大変だし、さらに、それに対応する方法はそう簡単に導き出せるものではない。従って「アンサー・ベギング・クエスチョン」のように、自分の考え方に沿った質問を投げかけ、自分にとって都合のよい結論が導き出せるよう議論を推進していくということになる可能性があるのではないか?そういったことによって生じるリスクをどう抑えていくか、これも課題の一つである。

世界最高の経営者と言われたジャック・ウェルチでも全てのことがわかっているわけではない。また、ハーバードの白熱授業で有名なマイケル・サンデルの講義は一見すると完結しているように見えるが、マイケル・サンデルといえども自身の知識は有限である。だから、本書のMultiplierもおのずから限界があるということだ。

昔の生産の三要素である、土地、労働、資本の時代がシンプルであり、楽だというつもりは無いが、現代においては、上述の三要素は勿論、さらに、マーシャルの言う第四の生産要素、即ち知識・ノウハウが益々重要になっており、従業員や構成員、環境、文化、道徳ないしコンプライアンスなど、実に様々な、そして、複雑なことに配慮し、且つ、与えられた課題をこなさなくてはならない。そういった中、リーダーはまず、幅広く勉強し、考え抜き、これを組織の皆に伝え、正しく導く。さらに人材を育てながら、克服すべきことを乗り越え、目標に向かって実践しなければならないのである。

これらを実現することは、そう簡単ではないことは、皆さんからも、昔の組織は「消耗型」リーダーばかりで、大変な部分もあるが、ある意味、今よりもずっと楽だったのではないかという感想があったが、まさにその通りかもしれない。従って、本書の理想とする増幅型リーダーであっても、それぞれ程度の違いはあるが、やはり自ずと限界があるということを理解した上で、自分だったら、その限界を少しでも埋めるために、どんな工夫をすべきか考えながら、この本を読んでみたらいかがだろう。勿論、メンバーの才能を開花させるための、様々なノウハウや組織を動かす上での重要なポイントが具体的に、また、要領よくまとめられており、皆さんにとっても、各人が直面するリーダーの在り方を考えるうえで、大変に有益な内容を多く含んでいると思う。

-平成27年7月19日 神戸都市問題研究所にて 文責:管理人-

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神田昌典著 「バカになるほど本を読め」 PHP研究所 2015年2月

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 読書会も20年以上続いているが、いつもの経済書を離れて、ここで少し読書ないし読書会のあり方を考えてみようという思いもあり、この本をテキストに選んだ。ある本と出合って、何か感じるものと出会ったり、発見をしたり、或いは、考える材料を提供してもらったりして、時間を有意義に過ごせたら、大変楽しいことであり、何よりも充実感があるだろう。逆に、読んでみてつまらなかったということもあるだろうが、それでも、できれば、何かつかんだり、知らないことを見つけたりして、良かったなと思えるような読み方ができると、人生ににとってプラスである。少しでもそんな風になればよいと思ったのだが、本書には読書の仕方や読書会について、珍しいと言ってよいと思うが、結構多く書かれており、それらを材料に皆さんといろいろ考えてみようというのが本日の趣旨だ。

 まず、本書のタイトルがなかなか刺激的だが、「バカ」とは、スティーブ・ジョブズの”Stay hungry、Stay Foolish“ の「Foolish」と同じ意味で、「バカ」なるほど本を読むことを勧めている。但し著者によれば、目的を明確にして本を読むべきであり、さらに大勢の人と読むこと、、、できれば、読書会を主宰し、人脈とリーダーシップを養いながら、即、行動に結びつけるべきであるという自身の体験談も含めて、自説を展開する。本書には、会社を辞めて何か新しいことにチャレンジすることを促している部分があるなど、その意味では、どちらかというと、定年退職後の世代へのメッセージというより、現役世代を主な読者層として想定しているとも言え、今回読書会の参加メンバーの中で、本書の狙いに与しない方々にとって、本書に対してピンと来なかったのかもしれない。

 30才でシカゴ大学の学長になり、その後20年以上も学長として頑張っておられたロバート・M・ハッチングは多くの米国の有力大学がテクニックばかり教え、職業訓練校と化している状況を憂い、一般教養というか、リベラルアーツの重要性を「偉大なる会話」という彼の代表的な著作に書いている。ちょっと古いが、岩波書店から日本語版も出ているが、それによると、古代ギリシャ以来、数々の偉大な天才が生まれ、読書を通じて古今東西の天才と対話をすることが重要で、勿論、過去の偉人との対話というか書かれた本に関する解釈はそれぞれ異なるのかもしれないが、こうして人類の知恵に接することが社会の発展や民主主義の前提ともなっている。

また、ハッチンズは具体的に180冊(グレートブックス)もの読むべき本を紹介しているが、優れた本との対話は、自分ひとりでは思いもつかなかった知識や考え方あるいは理論を与えてくれる。勿論、我々の能力にも大きく依存する話ではあるが、私自身まだ若い(笑)のか、、この年になっても、読書により、まだまだ知らないこと、わかっていなかったことを思い知らされることも多い。

 ところで本と言う偉大な教師との対話に関して留意すべきことは、自分の考え方に合致している話だと、大変にすばらしいと絶賛し、逆に、自分の見解と違った話なら、あの本の内容は大したことはないとか、一部のみ捕らえて批判し、得るものがないと切り捨ててしまうことである。そこで重要となってくるのが「Critical Thinking(論理的思考)」。Critical Thinkingに関しては、関連本が本屋さんに多く並んでいるが、この思考方法では、自分と見解の異なる話に接した場合、相手はどういう立場で、どういった趣旨でそういった主張がなされたのか?或いは、相手の論点をなるべく正確につかんだ上で、自分なりの主張を論理的に組み立てることが重要であると考える。「Critical Thinking」は批判的という意味合いではなく、その前提になるのは、3つあり、一つ目がTruthで、文字通り、真実を求めるという姿勢であり、二つ目がBeing Honestで、先入観なしにまず受け入れること、そして、最後の三つ目はRespecting Othersで相手の立場を思いやることであり、人格まで否定するようなことがあってはならない。元々、欧米では多民族国家で、宗教も様々であることから、対立を避けるためには、お互いの立場の違いを理解し、その上でしっかりした議論をすることが極めて重要であり、初等教育の段階から「Critical Thinking」をベースに自分の考えを発信する教育がされている。

 一方、単一民族の日本では覚えることが重要で、自分で考えたり、議論をしてみるといった教育は十分でないし、寧ろ、議論を避けようということになりがちである。昨今では、生徒が意見を言う場も増えているようだが、先生は、お互いの対立を避けたがるのか、総花的と言ってよいのかもしれないが、出された意見の全てを受け入れようとすることが多いようだ。

大切なのは、Criticalに、それぞれの意見や主張のどこが自分と異なるのか、どう位置づけられるのかということであり、また、違いを明確にしてお互いが議論をすることなのであり、単に皆の感想を言ってもらうことではない。

 いくつかの本を読む場合も、Critical的な発想で、どういう立場で、どういった論拠で議論を展開し、何を主張したいのか考えながら読み進める。寧ろ、それぞれの本の言わんとしていることの違いを楽しまなくてはならないし、それが読書の醍醐味だろう。

 例えば「笑い」をとりあげてみよう。アリストテレスによれば笑うのは動物の中でも人間だけだそうだが、師のプラトンは「笑い」には、他人に対する優越感が根底にあると考えた。

フランスの哲学者ベルグソンにとっての笑いは、「笑い」だけで1冊の本を書いているのだから、ここで単純化して申し上げるのもどうかと思うが、「対象となる相手の変化の中にある不本意的なもの、ぎこちなさ、不器用に対して笑う」といったことを主著「笑いについて」(岩波書店)に書いている。一方、カントは「判断力批判」という本の中で、思いがけない展開に「緊張した期待などが、突然無に転化する情緒である」といった解釈を展開する。こうして「笑い」に対して、知の巨人たちがいろいろ論じているのに接することができるのも読書の楽しさであろう。

 尚、覚えることよりも議論が大切といった短絡的な発想もよくない。入り口としての「覚える教育」も軽視してはいけないのである。日本人のノーベル賞受賞者が増えている通り、基礎学力や一定レベルの知識を持っていないとそういった成果に結びつかない。教科書的な本を読むことの重要性はいつの時代にあっても不変である。いつまでたっても勉強は大切である(笑)。 

 話を戻すと、議論する場合、相手の立場を理解し議論を重ねることが大事で、批判された側も、その批判の趣旨や背景、立場などに十分配慮しながら、社会全体で望ましい方向に議論を統合していかなくてはならない。その際、「Critical Thinking」とも関連するが、付言しておきたいのは、前にも申し上げたことがあるが、ウオルター・リップマンの言うステレオタイプでものを捉えたり、なんらかの先入観をベースにものごとを論評したりしてはいけないということである。事実を恣意的に取捨選択してはだめで、また、自分の考えついたことを常に相対化することが重要だと説いた。氏の著作「世論」はジャーナリストのバイブルとされているが、最近この本を読んだこともない新聞記者が増えているそうで、嘆かわしい限りだ。

 逆に読者の側も新聞はステレオタイプで書かれている可能性があるという前提を持っていないと、大切な局面で判断を誤ることになる。読書の場合も同じで、誰がどういう立場で、また、対象となる読者が誰で、それをどんな論拠で、どういったことを言おうとしているかといった本の背後にあるものを考えなくてはならない。さらには、記事や本の内容とは無関係な人はどう考えるだろうかという視点も重要である。リップマンの話は本を読む上でも、我々にも重要な示唆を与えてくれていると言えよう。

 速読に関して、議論となったが、少し整理しておきたい。まず教科書のような本は一定の知識を得るために必要なものであり、否でも時間をかけてしっかり理解しながら読み進めていかなくてはならないので、当然、速読(本書ではフォトリーディング)は無理で、否でも時間をかけて読まなければならない。

また学術書や専門書、技術書などについても同様、読み飛ばして大意をつかめばよいというものではないので、本書の言うフォトリーディングでは対応できない。さらに学者というか専門家は単なる「また引き」は許されない。もしアリストテレスを引用するなら、引用するアリストテレスの原典を十分に読み込んでおくことが前提であり、これはこれで大変である。

 一方、趣味の本などは原則として、どんどん読み飛ばす。また、体験論や人生論のような本は、その本の狙い、読者に対するアプローチの仕方にもよるが、必ずしも高度な専門知識は必要でないものもあり、初めから終わりまで精読しなければならないものでもないし、多読により、いろいろな人の考え方や成果物に、より多く接するのも大変有意義である。

 道元の正法眼蔵などは、哲学的な要素が多く含まれており、そう簡単に読めるものではない。私も大変苦労しながら読んだものだ。高野山の座主、松長有慶(まつながゆうけい)さんとは朝日カルチャーセンターのお仕事をご一緒させて頂いた事があり、以来、大変に親しくお付き合いを頂戴しているが、最近でも松長さんの書かれた「祈り かたちとこころ」など、密教に関する著作をお送りいただいている。真言の曼荼羅は様々な宗教や宗派を全て取り込んでいこうとする壮大なものであり、大変奥が深いが、「祈り」はわかりやすく書かれていることもあり、一度お読みになってはいかがかと思う。

 さて、本書に書かれている通り、目的意識を持って本を読むことは大事なポイントで、自分の抱えている問題を解決しようとして本に書かれていることを追っていくと、解決のためのヒントになるものや先人の知恵が、不思議なくらい早く見つかるし、その本と関連する本も併せて読むとさらに良い解決策が見えてくる。そして読んでつかみ取ったことを活かしたり、実践すると、読んだことを忘れないし、いろいろ応用も効いてくるわけで、逆に、その本に対する理解度もより深まるだろう。

 さて、読書会が20年以上も続いており、私も90歳を超えたが、皆さんがこうして集まっていただいていること考えるとこの読書会も少しは意味があるのだろう。そういったことも考えながら、皆さんの今後の本との付き合い方や読書のあり方を考えてみるといった意味で、本書を読んでいただければと思う。

 −平成27年4月25日 神戸都市問題研究所にて:文責:管理人−

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R.スキデルスキー&Eスキデルスキー著 「じゅうぶん豊かで貧しい社会」 筑摩書房2014年9月

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本日は阪神大震災からちょうど20年となった日で、私も「ひょうご安全の日推進県民会議」の顧問をやらされていることも関係で、先ほどまで兵庫県公館での「阪神・淡路大震災20年追悼式典」に出席、なんとか今日の読書会に間に合った次第である。

さて、今回取り上げた「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」(筑摩書房)の著者、スキデルスキー親子の内、お父さんのロバートさんはケインズ研究の第一人者で、著作も多く書かれているが、本書の冒頭部分で、ケインズの予言というか、ここでは誤算となっているが、ケインズが1928年にケンブリッジ大学で行った講演「孫の世代の経済的可能性」を紹介し、議論をスタートさせている。即ち、資本蓄積と技術進歩が順調であれば、100年後、生活水準が当時の4~8倍になるが、その一方で労働時間は一日3時間で済むというものである。結果としては生活水準ないし実質所得については見事(本書ではまぐれ当たりとしているp39)的中したが、労働時間は2割しか減っておらず、その意味では、人間は豊かになれば仕事を減らし、人生を楽しむだろうとしたケインズの予言は外れてしまったというのである。本書ではその原因を資本主義の金儲け主義にあるとし、雇用主が事実上、賃金や労働時間などの雇用条件を決定する力を持っていることと、見栄心を刺激し消費を煽る商売のやり方が、本書の言う未だに社会を貧しいままにしているという自説を展開する。

本書はまるで論理学のような構成となっており、まず、必要悪と言ってよい金儲けないし、利益追求の上に資本主義が成立していることをゲーテの「ファウストの悪魔との取引」になぞらえて議論を進め(第2章)、次に悪魔との取引で勝ち得た資本主義経済の発展とともに、古き良きものである思想・哲学、、アリストテレスやキリスト教から中国の思想まで、、、これらがどういうもので、どのように失われていった様子を描いているが、なかなか読みごたえがあったのではないかと思う(第3章)。そして、「ファウストの取引の上に乗っかっている資本主義に対抗していた共産主義が崩壊すると、無制限の利益追求していく「新自由主義」が台頭し、民営化、規制緩和、株主重視の配当政策、或いは、法外な役員報酬と高額所得者や法人への減税などが実施され、これに、グローバリズムの急速な進展といった要素も加わり、資本主義が生来持つ悪弊は一層ひどいものになった。特に金融業界がその最たる例であろうが、エンロンやリーマンショックなど世界を震撼させる事態を惹き起こし、経済社会を不安定なものにしてしまったのである。また、トマ・ピケティさんの「21世紀の資本」に書かれているように、格差は世界的規模で拡大するに至った。

ご承知の通り、ピケティさんの議論では200年以上の納税データ等を収集分析した結果、資本主義社会においてはほぼ恒常的に

資産の収益率(r)>GDP成長率(g)という関係が成り立ち、必然的に所得及び資産の格差が拡大するので、その対策として世界的な資産課税強化が必要であると訴えた。本書もピケティさんと同様、資本主義の問題点を指摘しているが、その処方箋は大変ユニークであり、先進国には幸福になるための物質的な条件が揃っている(p26)という前提の下、ひとがより幸せになる条件として「金」の面よりも、それ以外の「人生のより良きもの」を追求すること、言い換えれば「生き方」、「哲学」といったものを転換する必要性を訴えているのである。

例えば、6章ではそれを実現するための基本的価値として7つが掲げられている。基本価値とは普遍的で、なくてはならない、独立した最終的な価値のことで、具体的には①健康②安定③尊敬(尊厳)④人格⑤自然との調和⑥友情⑦余暇の7つであるが、皆さんにおかれても、本当にこの7つが良い暮らしのための条件となっているか考えてみるのもいいのではないかと思う。阪神・淡路や東北の大地震の例をみるまでもなく、自然災害が多い日本においては、私はもう少し「安全・安心」といった要素が強調されてよいのではないかと思うが、如何だろう。寺田寅彦さんは昭和10年にそのことを指摘し、日本の軍隊の中に国防だけでなく、天災に対応する部隊を創設すべきであるといった提唱をされている。欧州においても1755年にポルトガルのリスボン周辺で大地震と津波が起こり、数万人規模の死者を出したこともあり、その後のポルトガルの衰退を招いたとも言われている。この地震からの復興は国が主導としたものは本格的なものであったし、地震学という新しい学問も生まれたとされるが、幸運なことと言っていいのだが、欧米ではイタリア、ギリシャなどを除き、あまり地震被害を経験していないことから、天災に対する感覚は我々日本人ほど敏感ではない。

地震以外にも、例えば、ニューヨークタイムズ紙によると地球の温度が1度上昇すると、落雷のリスクは12%増えるそうであるが、そうなると、今後、私の親しい音羽電機工業(尼崎)の仕事が大いに増えるといった話をしたことがあるのを思い出す。地球温暖化と直接的な因果関係があるかどうかは別にして、米国の大型台風の被害や、昨年の広島の豪雨なども我々の記憶に残る大参事であったが、六甲山系も広島と同じ花崗岩層でできており、天災に対するリスクは身近にある。

話を元に戻すと、上述の7つの基本価値を実現するためにも、著者によれば、資本主義になんらかの制限・修正を加える必要があるという(第7章)。

即ち、所得不平等の緩和(p278)、ベーシックインカムの導入(所得保証p281)、支出税の創設(累進税率×〔所得−(投資+貯蓄)〕これにより奢侈を抑制p288)及び消費への欲望を抑制する広告規制でなどである。このうち、ベーシック・インカム制度の導入はかなりハードルが高いだろう。財源の問題もあるが、社会主義がうまくいかなかった要因と共通した部分がある。家族レベルならまだしも、国家レベルでこれを導入すると、最低限の決まったことだけ行えばよく、みんなのものは誰のものでもないといった「公共財」の問題を惹起する。私が度々申し上げているボールディングの「統合」「交換」「脅迫」の話とも関連するが、社会全体のコンセンサス、協調性といったものを如何にして形成していくかが大きな課題となろう。

話は変わって本書に掲げられている「徳への回帰」(第7章)ないし、古き良き哲学をどう活かしていくべきかが重要となっていることについて、皆さんも納得されるだろうし、いろいろ意見をお持ちだと思う。

例えば、NHKの「マッサン」に出てくるサントリーの創業者が発揮したリーダーシップは本当に素晴らしいと思うし、日本には、かつてこういった単なる金儲け主義とは一線を画した創業者は大勢いたのであり、今もそういった思いを持つ経営者も多いのであるが、新自由主義が幅を利かす中、これら日本的な「良きもの」をどう世界に伝え、グローバルな経営に反映させていくのかが、大変に難しい状況にある。そんな中、加護野忠男さんは昨今の国際会計基準が投資家本位の基準となっていて、短期的利益や純資産を強調するあまり、企業及び従業員の有する潜在的な成長力や長期的な経営戦略が取りづらくなったことなど、各方面で精力的に訴えておられる。

川口君の言うように、日本にはよき家訓と伝統を有し、100年あるいは200年以上続く企業が他国に比べ圧倒的に多く、金儲け主義とは一線を画した日本企業の良さ、秘訣といったものがそこにあると思われるが、拝金主義のはびこる中国の経営者の間で、意外と言えば失礼になるのかもしれないが、京セラの創業者稲盛さんが大変な人気である。多くの著作が読まれているし、また、稲盛さんご自身による講演も大盛況のようである。そう言えば、私も大連の経営者の前で講義する機会があるが、単なる金儲けではビジネスが続かないことなど、具体例を挙げて指導するのだが、本当に熱心に聞き入ってくれている。

さて、本書の読み方として、幸せを実現するために個々人はどういった働き方をすればよいかといったことを考えてみるのも面白いと思う。本書ではなぜ労働時間が減少しないかという原因を3つあげていた(p44)。即ち、一つ目はマルクス的だが、搾取されているので働かざるを得ない、次に、人間はもともと貪欲で、さらなる欲望を満たすためにもっと働いて欲しいものを手に入れたい。そして、最後に創造性がある仕事も増えており仕事自体が楽しいというものである。IT技術やグローバリゼーションは上述のように創造的な仕事を生み出す半面、簡単な仕事は勿論、危険な仕事や複雑な仕事の一部のみを請け負うってしまうこともあり、その影響は一様ではない。藤田君の議論に、働きたくても働く機会がないという話があったが、日本全体では今労働力不足ということなのだが、希望する仕事とのギャップを埋める教育、単に学歴ということではなく、ITやグローバリゼーションと言った経済構造の変化に対応した教育・訓練がますます重要となってきていると言えるだろう。

 それと関連するわけではないが、私がいつも行っている散髪屋の当主は私が通い始めた頃からすっかり代も変わり、既にお孫さんの代となっている。たまの休暇に海外を旅行されるなど、商売のほうも順調のようであるが、阪神大震災では食の次に住民が必要としたものの一つが散髪であった。あの時、改めて自分の職業が大切なものであることを意識されたようで、使命感をもって大変頑張られたが、言うまでもなく、ビジネスの世界ではお客様に満足してもらうことが第一で、それを実現するために継続的に努力をしていれば、学歴とは関係が無く社会に貢献できることを痛感する。

藤田君の話に戻ると、若い人にスキル教育や訓練も必要だが、何よりも満足して働いてもらわねければならないが、そのためには、まず、誉めること。そして、次に達成感を持たせることで、この達成感こそが一番成長を促す。先輩はそのためのサポートをすることが重要である。そして最後に自分の職務に対する使命感を教えることである。教育は知識やスキルだけではなく、こういったことが重要となっているのである。

 話は全く変わるが、ITと職業に関して考えてみたい。ロンドンエコノミスト誌によると、ITはオンデマンドインダストリーを興隆させたという。ウーバー(Uber Technologies)というタクシー会社があるが、タクシーという古い業界に新しいビジネスモデルを構築し、既存勢力の顧客を奪っている。即ち、インターネットで顧客を募集し、一番近くにいるタクシーを顧客のところまで配車する。全体の効率は上がるし、顧客利便性も向上している例と言えよう。

 医者の世界でも、勤務時間が過ぎたら患者がいても帰ってしまうという医者が増え、ヒポクラテスの誓いを守る医者ほど多忙を極めるといった矛盾が起こっているといった指摘がされているが、一方では、米メディキャスト社(Medicast)はネットで患者が当社にアクセスすると、2時間以内に医師に往診してもらえるというサービスを提供しているが、これも患者のニーズに適ったビジネスであると言えよう。これと関連して、麻酔科の先生の中には特定の病院に所属せずに手術があると病院を渡り歩くといったスタイルも伸びているようだが、まさに、IT技術が、需給のアンバランスを調整し、オンデマンドのサービスを実現するのに、一役買っているのである。意欲のある医者にとってはチャンスが広がることとなり、働く側にとっても、自分に合った働き方を選択できるし、何よりも患者にとってもメリットが大きい。オンデマンドビジネス以外にもITは職業をどんどん変えていく力を持っており、今後ともその動きに注視しておかなくてはならない。

  最後に、幸福に関するマルクスの議論は彼の生きていた時代の階級間の貧富の差、資本家による搾取の実態に対する強い正義感から出てきたものであるが、本書によると、資本主義システムの持続的なダイナミクスを見落とした(p93)こともあり、マルクスは資本主義がいずれ没落するというストーリーを描くことができなかったが(p92)としている。

一方、社会主義が破綻した後の理念無き資本主義も誉められたものではない。

リーマンの後遺症からいち早く脱し、一見好調のように見える米国経済にも、実はそうではないという主張をする人も多い。元財務長官のサマーズさんもその一人で、米国の失業率自体、就労希望が低下したことで下駄を履いている状況で、また、雇用増も単純労働ばかりで、しかもその多くは非正規雇用であり、その意味では米国は、かつてハンセンが論じたような長期停滞の最中にあるといった議論である。

また、前述の通り、米国流の金融だけで儲けるやり方に問題のあることはいろいろなところで批判されているが、本書ではあまり触れられていない経営者の精神という側面から、この問題について考えたい。アンサー・ベギング・クエスチョンの議論とも関連するが、本来的に、人間は自分の生き方、考え方を正当化しようとしてしまうが、これが金儲け主義者たちのやっていることを正義とみなす論理を展開し、政治ないし議会を動かし、最後に法制化まで行ってしまう構図の根源であるのかもしれない。

重要なのは、自分が絶対正しい、悪くないという考え方を捨て、自分の考え方や自分の行っていることを相対化して眺めてみるという姿勢が益々重要となってきているように思える。ジャーナリズムの大御所と言われたウオルター・リップマンは世論形成に重要な役割を演じるジャーナリストはステレオタイプでモノを捕らえては駄目で、固定観念や先入観を排除し、自分の考えを常に相対化することが重要だと説いた。勿論、企業経営者は自分の考え方をある意味絶対化し、信念を持って市場に切り込んで行かなければならないが、一方で、自分の行動や経営している企業の方向性について、相対化してみていくことができないと、皆から支持されないし、事業として存続が難しい時代になっている。そして何よりも、人として生きていけないのではないかと思うのである。                                                                     −平成27年1月17日 神戸都市問題研究所にて:文責:管理人−

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