ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2008年
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ロバート・ライシュ著 「暴走する資本主義」 東洋経済新報社2008年6月

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 ロバート・ライシュさんについては、かつて読書会で、「The Work of Nations」を取り上げたこともあるが、長らく民主党の政策ブレインとして活躍し、特に、クリントン大統領時代に労働長官を務めていたこともある論客である。本書では資本主義と民主主義、企業とヒトとの関係を整理・分析し、大変明快な論理を展開する。即ち、超資本主義の社会にあっては、激化する企業間競争を通じて、消費者ないし投資家にとって好ましい状況を作り出す一方、その結果として、本書の「我々の中にある二面性」の議論のように、市民としての我々の立場は相対的に低下し、地域社会の疲弊、格差拡大、雇用不安など、現在言われているような問題を惹き起こした」という論理は大変な反響を呼び、本書が広く読まれた所以である。

 ところで、冷静に申し上げれば、この超資本主義とは一般的な言葉で言うグローバリゼーションとほぼ同義である。グローバリゼーションは特に70年代以前と80年代以降を対比し、次の3つの特徴を持つものとして議論が整理されているように思うが、1つ目は貿易依存度が劇的に上昇したことで、オランダや香港などの小国は以前から貿易依存度が高かったのであるが、80年代以降は米国や日本他の大国がこれに加わり、90年代にはロシアや中国がこれに続いた。2つ目は国際的な資金移動の自由化である。これにより、為替は貿易実需というよりも投資あるいは投機で動くような今の状況が生まれた。3番目が多国籍企業の出現である。これにより、特に米国においては国内の産業が空洞化し、金融や消費主体の国になっていった。このグローバリゼーションの波にあって、米国を筆頭に夫々が自己の利益を追求した結果、民主主義は大きな危機に瀕しているのである。

 自己の利益を追求ということに関連して思い出すのはプラトンの「国家」で、岩波文庫に入っているので是非読んで頂いたらと思うが、それに出てくる鉄・銅、銀、金の話である。プラトンは国家の人間を三つの種族に分類している。即ち政治家・統治者、軍人、一般の人間で、「鉄・銅」の種族である普通の人間は欲望、例えば金銭欲、物欲、性欲などを満たそうとするが、「銀」の軍人は名誉欲を大切にし、「金」の種族、政治家・統治者は善を求め、知を重んじる。現在、投資マネーを追いかける「鉄・銅」の種族ばかりになってしまったところに、この問題の根本があり、サブプライム問題はこの超資本主義の最も悪い面が出たと言える。金融工学に基づくデリバティブや証券化に格付け機関がある種の安全保証を行い、巨額なマネーが動く。幸い、日本はバブル崩壊の後遺症から、大規模なマネーゲームに参加する余力が無く、結果として今回のサブプライムによる直接的な傷は浅いが、未曾有の危機の処方箋としては、本書の主張は無力というか、国家や企業が何か努力して対策を行うという主張にはなっていない。

読書会で何度か話題にしたことがあるが、米国経済の弱点を要領よくまとめた「Made in America」(MIT産業生産性調査委員会1989年)の指摘にもかかわらず、米国は職人・ヒトの入り込む余地の無い大量生産・大量消費型社会に突き進み、人間性尊重ではなく、株主利益を一義的に考える短期的視野は、設備投資よりもマネー投資の行動を招き、さらに軍事優先の経済運営を行った。軍事については採算度外視の基礎研究により、ITなどに象徴される新技術が生まれたという好結果を生んだものもないではないが、これらが、今の危機の下地を形作った。そこにはケネス・E・ボールディングの脅迫(threat)と交換(exchange)に加え特に彼が強調した 統合(integration)という考え方は全く無いと言って良い。

 驚かされたのは企業による政治活動、ロビー活動である。本書の詳細な記載内容が事実とすると、現在米国でつくられる法律の相当部分が企業の利益のためにあるということになり、国民は救われないと言うか、ひどい状況だと思う。議員立法中心の国の悪い側面と言えるが、米国は元々、移民の国特有の自助努力の国で、自ら開拓した地に保安官を雇い入れ、保安官は住民に対しその活動についての説明責任を負ったという歴史があり、法律を下からつくるやり方である。日本の場合は国家権力が先にあり、役人が国民を引っ張るというかたちであり、問題も多いが、まだ、日本の方がましと言えるかも知れない。つまり、わが国の法律は官僚がつくるが、ある種の見識があり、カネは少々貰うが(笑)、それほど民間企業の言うことを聞くわけではない。また、経団連や関経連も神戸商工会議所などもそうであるが、一企業にとって有利な要求はしないし、寧ろ、カネ以外にヒトも出すというかたちをとり、負担も馬鹿にならないため、重厚長大産業のトップがリーダーとなるなど、米国流のロビー活動とは様相が異なる。 古い伝統を持つ英国においては、有事の際、ケンブリッジ卒などのエリートなどが、率先して危険な第一線で先頭を切って戦うという伝統があるが、国とか、皆のためという気概もあるのだろう。トニー・ブレア政権がサッチャー時代と最も異なったのは、ステークホールダー・キャピタリズムを提唱したことで、各セクターとの調整や教育に腐心した。

 勿論、米国においても利益追求一本ではない。皆さんもご承知の通り、コンシュマーリズムとか消費者運動はラルフ・ネーダーの活躍抜きには語れないし、職業奉仕、社会奉仕、国際親善奉仕を標榜するロータリークラブなども米国発(シカゴ)の運動である。また、本書では消費者=投資家と単純に議論されているが、米国でも投資家とは言えない人も多い。また、賭博経済と言いながら、証券化や先物をはじめとしたデリバティブも本来はヘッジの目的から出発し、参加者の安心を買うものであったはずである。ついでに、利子もトーマス・アクイナス的に言うと、「働かざるもの食うべからず」であり、利子は0とすべきであるが、中世以降、様々な議論を経て、利子=適正利潤として認められているものである。

しかし、前述のボールディングの統合(integration)の仕組みづくりが必要とは言え、残念ながら人は怠惰であり、integrationより人間の「自助努力」を重んじたのが米国流の資本主義であった。資本主義の持つ効率性を活用しつつ民主主義の公平性をどう確保するか?両方を実現する社会の構成員の役割分担は神のみが可能な領域なのかもしれないが、かのマルクスやケインズが挑み、両者とも必ずしも目的を達成することができなかった。即ち、共産主義が事実上崩壊し、自由主義諸国も利益誘導などの政府の失敗が顕在化、かくしてフリードマン流の世の中が出現することとなったわけであるが、本書で見てきたような混乱を招いている。ライシュは暴走する資本主義への処方箋として、ロビー活動の抑制、法人税の廃止などが提案されているが、あまりに淋しい議論である。このような困難な状況を克服し、超資本主義の抱える問題を根本的に変えていくには、三大経済学者であるアダム・スミスやマルクス、ケインズに次ぐ人物の出現を待たなければならないのだろうか?(平成20年10月11日、文責:管理人)

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金井壽宏・池田守男著 「サーバントリーダーシップ入門 」 かんき出版 2007年11月

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 かつて、関西生産性本部で、本書の著者である池田守男さんと金井壽宏さんに、サーバントリーダーシップあるいはリーダーのあり方について対談をしてもらったことがあるが、池田さんのご経歴は大変ユニーク。本書に書かれているとおり、神学校を出られ、元々牧師さんになろうとされたが、禅道場に通っておられたことが縁で、道場のお坊さんの実兄が社長を務める資生堂に入社。以来、同社の社長秘書一筋に歩いてこられた。秘書は社長に一身を奉げる“サーブ”が前提であるが、個性の強いと思われる5代の社長に仕えられたというのだから、Give&Giveに見られるように奉仕の精神は相当なものであったことは想像に難くない。そして、社長になられたが、逆ピラミッドの組織図(顧客が最上位、以下、店頭、営業担当と続き最も下位に社長が来る)を思いつかれ、顧客満足を実現する”現場”を全社挙げて支えるという方針を打ち出し、その通り実践してこられた。その前提として、顧客サービス重視・店頭重視という方針と具体的なミッション、、、「伝導」というキリスト教的な言葉であるが、、、このミッションを明らかにし、全社に浸透させることがCSを実現する上で不可欠であるとする。そして、顧客へのサーブな精神と行動により、お客様や社会との関係に信頼が生まれ、企業の永続的な発展を支えると論じられる。

 ミッションといえば、関学の武田健さんは、同校のアメリカンフットボールチームを永年指導されてこられたが、昔のハングリーな時代には部員を怒鳴りつけていれば、チームはそれなりに強く、うまくいっていたが、ある時期より、学生をまず誉めて、しかる後に、「ここはこうすればさらに良くなる」というコーチングに徹するようにしたそうである。学生はミッションを理解すると個人的に工夫したり、努力するエネルギーを持っているようで、大変味わいのあるお話である。

 今、大学では従来型の一方的に教えるという体制を改め、「学生にサーブする」という風に大きく舵を切っているが、ミッションなくしてこのようなことを推し進めれば、必ずしも評判の良くない今の学生をさらに怠け者にしてしまうという大変な結果になる。

 逆に、ミッションが従業員、マネジャーにも十分共有されいていると、サーバントリーダーシップはある意味、必要はなくなり、所謂、四書五経というか安岡正篤さんの論じられたような世界にも通じることになる。明治時代の一時期まで、日本では、儒教的な考え方を皆が共通して持っていたのであるが、皆さんの意見も多かったようであるが、一昔前の日本に、このようなサバント・リーダーが多く存在したことも事実であろう。 CSと企業の発展について。ロータリークラブは100年も前にシカゴで弁護士であったポール・ハリスらを中心に生まれた。設立当初の理念は、今のような社会貢献というよりも、「最もよく奉仕する人が、最も利益を上げることができる」という明快なもので、、メンバーは一業種につき一人が原則で、「職業で成功したもの」のみに入会資格が与えらるという内容のものだった。

 テレビを殆ど見ない私だが、NHKの番組である「ルソンの壺」では、時代の変化の中で、企業の存続をかけて、カイゼンを重ねる企業の努力が描かれているが、その底流を成す顧客志向をそれぞれの企業が違った形であるが、しっかりと保持しており、毎回、興味深く視聴している。いまや神戸の財界を引っ張る企業に発展しているフェリシモは、通販会社に珍しく、取扱商品の9割超が自社製品というのが特徴で、その品揃えの原則は1に独創性、2に社会性、3に利潤だそうである。加護野忠男さんは米国流の株主至上主義では上述の利益と社会性のバランスに欠け、必ずしも長期的な繁栄をもたらさないことを随所で主張されているが、本書のサーバントの精神と企業の繁栄について、皆さんの体験を含めた実例と考え合わせてみるのも面白いのではないか?

 同時に資生堂のようないわば化粧品関連に特化し、営業スタイルもほぼ単一といってよい会社と異なり、銀行や商社に代表される多様なサービス・商品を扱っている企業とでは、CS活動を末端まで浸透させていく上で、かなり難易度が高いのではないかと思えるが、どう実践していくか、今後益々大きな課題となっていくであろう。

 最後に、皆さんもお感じになっておられるとおり、サーバントリーダーシップ論という分野は元々、学問として確立させることは難しい。デジタルにこうすれば必ずリーダーになれるという体系をつくることは困難で、とりわけ、対人関係が重要な要素を占める分、あらゆる局面でパフォーマンスは違ってくる。寧ろ、本書にも触れられている通り、哲学的な色彩が強く、その意味、永遠の課題というか、興味が尽きない分野である。どうか、皆さんも、自身の持ち場持ち場で、サーバント的な発想を持ち、リーダーシップを実践しながら、絶えずご努力をされることを願っている。

注:「ルソンの壺」は安土桃山時代に海外から輸入された陶器。大阪・堺の商人、呂宋助左衛門(るそん・すけざえもん)がフィリピン・ルソン島で日用品として使われていた壺に「日本に持ち帰れば茶壺として売れる!」と目をつけ、大量に輸入。豊臣秀吉や千利休がこの壺を高く評価、豪商や大名が争って求めるお宝となり、助左衛門は巨万の富を築く。NHKはこの話をモチーフに、関西で独創的な発想でビジネスチャンスを見つけ、成功を収めている企業を取り上げ、元気な関西企業の着眼や発想を番組で紹介している。(平成20年7月12日、文責:管理人)

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横溝雅夫著 「人間の顔をした経済の復活−市場原理主義批判」 産経新聞出版2007年12月

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 現在、サブプライムローン問題の激震の中、グローバルに展開する大手銀行が巨額の損失を出すなど、世界が揺れている。相変わらず貿易、財政とも赤字体質を脱却できないままの米国では基軸通貨国でなければ、経済運営が難しいのではないかと思われるほど、事態の収拾は困難な局面に突入している。しかしそんな中にあって、世界的な投資家であるジョージ・ソロスは、ある意味では市場経済の一側面と言えるが、実に30億ドルもの投資利益を上げたとの報道がなされている。

 本書にも多数引用のあるロナルド・ドーアさんが、今年1月8日付のエコノミスト誌で「今は亡き日本型資本主義を悼む」という論文を寄稿、各国の資本主義のなかでも、理想的だと氏が永年礼賛してきた日本的経営などのよき伝統が、世界的な市場原理主義の流れの中で失われつつあることを嘆いておられる。伊丹敬之さんや加護野忠男さんもグローバリゼーションによる構造変化の中にあって、日本のよき企業経営のあり方は残すべきであるという主張を随所でされているが、本書はそのような市場原理主義に対して異を唱える流れに沿ったものである。

 もともと、ケインズ経済学は自由放任の価格メカニズムの中で不可避的に起こる経済変動、不平等・格差、社会的コスト、公共財、独占などの矛盾を制御すべく、国家の規制を正当化してきた。しかし、スタグフレーションや財政赤字などの問題を有効に解決できなかったことや、社会主義国の破綻とそれに続く市場経済への移行後のロシアなどの東欧圏や中国などの目覚しい発展、例えば旧ソ連に旅行した場合、女性用の靴下や百円ライターを渡すとその後の待遇が変わるなどという末期的な状態であったのが嘘のようなその後の旧社会主義国の発展はケインズ主義の凋落を決定付けた。そのような中、我が国においても、バブル崩壊後、長期にわたり停滞し、従来型の財政政策が不発に終わったことも加わって、ケインズ主義的な経済運営に対するアンティテーゼとして市場原理主義が大きく台頭し、ご承知のとおり、現在、主流の考え方となっているのである。

 しかし、そのアメリカ的なグローバルスタンダードというか、勿論、米国と一線を画すEUもベースは市場主義であるが、その中で現れた矛盾も少なくないことも事実で、本書では前半がケインズ主義と新自由主義、特にマネタリズムとの対比の中で、行き過ぎた市場原理主義を制御すべくケインズ主義を復権できないかという論理を展開、そして、後段が日本的経営、特に日本的な雇用関係のよき伝統を生かすべきであることを主張する。そして本書(p236)の「日本をぎすぎすした競争オンリーの社会にしたくない、余裕と温かみと協調という人間味のある社会として維持したい、それが長期的にも企業や日本を発展する道であると考える」という結論を導く。

 ところで、かつてないグローバルな競争の中で、著者も認めているように、日本的経営は経営上の余裕が必要だとされる中、人間味のある社会の成立条件である「余裕とか温かみ」をどう確保していくのか、そしてまた、日本を長期的に発展させていくべく日本市場の魅力をどう確保していくのか、あるいは少子高齢化の中にある日本人にとって、どういう雇用形態が本当に幸せを実感できるのか、本書が示唆する内容は大変に濃いものがある。

 例えば、ゼミ生から意見が多かった日本市場の魅力とその裏返しの日本経済の閉鎖性という意味では、現在Jパワーなど問題となっている外資規制、その他にも税制、法制度、商慣行、言語、文化、国民性、そして日本経済の将来性と期待収益ないし投資環境など、どこをどう変えて、日本を魅力的な市場にしていくべきか?竹中平蔵さんなどは規制緩和の推進を強調されるが、本当にそれだけ単純なものなのか?

 また、雇用形態について申し上げれば、より完全な市場主義体制をとる米国では確かに貧富の差が激しく、基本的に自己責任が原則で、貧しい人はまともな医療も受けられないといった状況にあるといわれるが、一方、猛烈に働くMBA出身者や寝袋持参で会社に泊まりこむベンチャー企業の創業者などを尻目に、アフターファイブは家族としっかり過ごす低所得者層。また、米国では職種別に給与水準が決まっているので、どこの会社に行っても仕事の内容は殆ど変わらない状況の中、生涯一職種を続けながら、ある意味、自由に会社間を移動する。日本の労働者とどちらが幸せか?もし、米国型の雇用関係の方がよいということであれば、本書の結論は全く異なるものとなる。

 ついでに、米国の大手金融機関の幹部候補生の採用は学生が1週間ホテルに泊り込み、経営幹部も含めてしっかり対話をして採用が決まる。そして経営幹部としてのキャリアを積んで会社を移っていくことが多いが、日本では社長が面接することが殆どないのが実態で、そのまま、会社人間として一生を終わる。日本ではこのような議論を中心とした面接となると、かなり心もとない。従来の教育では、例えば、日露戦争は××年に起こったということを単純に覚えさせて、「なぜ」日露戦争が勃発したかは重要とされなかった。「なぜ」を教えない教育を変えるには、入試制度をかえるしかないと阪大の安田さんはおっしゃる。

 少し前のことであるが、関西大学の記念公演でパソナの南部靖之さんとご一緒させて頂いたことがあるが、氏は関大の工学部出身で、創業以来、雇用環境が多様化、変質していく中で、そういった労働慣行が一般化しておらず、勿論、制度が整備されていないこともあって、大変ご苦労があったようである。その南部さんのような人や実際に進んで派遣社員を選択した人の立場からみると、従来の日本的雇用形態が本当に理想的なものと言えるのか?

 最後にケインズ経済学が機能するために高い公共的関心と長期的視野を持つ少数の賢人の存在、所謂「ハーベイロードの前提」について。著者は官僚出身で、東大でマルクス経済学を学んでおられるようだが、確かに当時の東大は大内兵衛さんや有沢広巳さんなど、マルクス経済の全盛時代で、そういった方々が戦後の官僚として日本を引っ張ってこられた。その意味では高邁な倫理観をお持ちだったと思うが、目先の政局や選挙のことばかり考えているようにしか見えない現在の政治家や不祥事を繰り返す官僚の資質の問題に加え、何かにつけ自己中心的な暴言を繰り返すモンスター患者(クレーマーの一種)が医療現場以外のあらゆる分野で蔓延している中、国民の大多数の理解を得ることが従来にも増して難しくなっており、ハーベイロードの前提を確保することは大変残念ながら簡単ではない。

 などなど、本書をきっかけに本書の主張が成立する前提条件を考え、具体的な対策というかアジェンダを考えてみることが、より意義のあることだろう。(平成20年4月19日/文責:管理人)

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デヴィッド・ボーム著 「ダイアローグ-対立から共生へ、議論から対話へ」 英治出版2007年10月

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  先日、兵庫県立美術館で開催されているエドヴァルド・ムンク展に行ってきた。ムンクの代表作と言えば「叫び」を思い浮かべる人も多いだろうが、オスロ大学などの施設に壁画として描かれている作品も多いようで、特に「老人が子供に国の歴史を語っている」絵が本日のテーマである「対話」とも関係があるようで、大変、印象的であった。また、神戸大学の六甲台講堂や図書館には中山正實画伯(大正8年神戸高商卒)の壁画があり、絵を描いた動機というのだろうか、精神と言うのだろうか、なんとなくムンクと相通じるものがあるのではないかと感じ入った次第である。

 さて、かつてフランシス・フクヤマは『歴史の終わり』と言う本の中で、ヘーゲル流の解釈に基づき共産主義が資本主義に破れたことにより、これ以上の社会制度の発展は無く、従って歴史は終焉し、社会の平和や安定が続くとした。 これに対しヘブライ大学のショルモ・アベネリ教授はベルリンの壁やソ連崩壊により第一次大戦前のロシア、オスマントルコ、オーストリア・ハンガリーと言った中世的な体制が復活し、民族と宗教の対立が激化するとした。また、アフリカや中近東の旧植民地は植民地時代に支配国による意図的な分断が行われたため、独立以降、民族・宗教の対立が先鋭化していくことの必然性を論じている。残念ながら、フクヤマ氏の予言に反し世界は現在も対立と混迷の時代の最中にあるが、なんとか全人類が共生可能なシステムは創造することはできないか?本書をテキストに選んだ理由の一つがここにある。

 さて、「対話」では自説を主張したり、説得を試みようとせず、議論に勝つとか意見交換を目的にしない。問題を作り出しているのが「思考」そのものであると考え、「想定」を保留することで、体の感覚が自分の動きを自覚できるように、思考についても「自己受容感覚」を引き出すことがまず重要となる。P79に対話の目的が書かれているが、対話は「あなたの意見を目の前に掲げて、それを見る」ことであり、「完全な同意に達しなくても共通の内容を分かち合うようになる」ことを強調する。そして「あらゆる意見を理解できれば別の方向へもっと創造的に動けるかもしれない」と考え、こうした新しい取り組みによって「全世界の状況を変える方法への突破口にする(P93)」ことを提言する。

 著者のボームは量子力学の大御所であるが、思想的には80年代に隆盛を極めたニューサイエンスの流れを汲む。近代科学発展の前提はデカルト的な要素還元主義、即ち対象とする事象や事柄をできるだけ細かい部分に分解して、数学的にと言うべきかこれらを機械的に分析し、最後に部分をつなぎ合わせて全体を理解するというやり方であったが、ニューサイエンスでは、この要素還元主義の限界に力点を置く。皆さんにも度々ご紹介したアーサー・ケストラーによる「ホロン」、即ち身体は多くの器官から構成されているが、さらに器官も様々な細胞から構成されており、その細胞もさらに細かい分子から出来上がっており、これらをバラバラに把握するだけではいけないと言った論法も一連のニューサイエンス特有の議論の仕方のひとつである。

   holon=全体を意味するギリシャ語のホロス(holos)と粒子や部分を示す接尾辞オン(on)の合成語。

 マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』では「自分」と機械的な科学知識などとの関係を「われとそれ」との問題として解釈したが、大切なのは物質・機械的な「我とそれ」ではなく、勿論、デカルトのような「考える我」を中心に対象を一方的に捉えるのでもなく、「我と汝」の関係、「対象と自分の関係性」をベースに「対話」により人間あるいは精神を感じるべきことを論じた。かなり難解な本であるが、岩波文庫に入っているので、ダイアローグとの関係で読んでみるのも良いだろう。

 「共生」については以前お話ししたこともあるが、この言葉をつくったのは、『共生の思想』などの著作のある建築家、黒川紀章さんで、あるお坊さんに学んだ「ともいき仏教」の「ともいき」と生物学用語である「共棲(キョウセイ)」の両方の意味を複合させて「共生(キョウセイ)」とした。厳密に言うと、便益と負担の認識を確立することが、共生の成立する前提の一つであるが、自分で稼いだ所得は自分で使うのが基本で、従って小さな政府を目指すような英米型と逆にあらゆることは大きな政府にやってもらう高負担の北欧流、日本や途上国に見られるように、国が主役で国がなんでも引っ張っていこうとするタイプなど、便益と負担をめぐって考え方や組織形態も様々であるが、今、人類が生き残っていくためにも、全ての組織の構成員がこの「共生」を真剣に考える時代であることは間違いない。

 少し哲学的過ぎたようで、本テキストに苦戦された方も多いようだが、対話および共生の成立する条件を身近な例で考えてみよう。

 まず、前提となるコミュニケーションであるが、最近大学ではゼミでの旅行はしないことが多いそうだ。そればかりではなく、そもそもゼミのない学部も少なくない。皆で一緒に通学するというのではなく、車やバイクで登下校する。そして、企業に入ると、個室の独身寮が完備。宿直や組合の活動などは絶好の交流の機会であったが、これもなくなってきている。

 対話の場である、各家庭、近隣、地域、企業、そして国に至るまで、ボームがこの本を書いた90年代と比較してどうか。家庭についていえば、米国では父親のいない家庭や10代から20代そこそこの母親の増加など、家庭内において有意義な対話が成立するか?また、人間には挫折や修羅場をくぐる経験が必要であるが、対話だけでこのような自分が苦しんできたことが本当に伝わるのか?対話の内容についても経験に基づかない話より、自らの経験を語る瀬戸内寂聴さんの話が皆の胸を打つのではないか。

 本書では全員が共通意識を持つことが強調されている(p90など)が、それならば、あらゆる組織において情報公開が構成員全員が苦楽をともにするためにも必須条件であろう。しかし、実際はどうか?まだまだ開かれた社会となるための課題も多い。また、話が変わるが、オーナー企業は二代目以降ともなるとかなり苦しむ例が多いが、その原因として企業内部やステークホルダーとの対話の不足にあるのではないか?と考えてみると面白い。

 また、「察知能力」、「鋭敏さ」はどうだろうか?本書では自分の反応の仕方や他人の反応の仕方を察知し、ごくわずかな相違点・類似点に気づくこと(p102)がコヒーレント(可干渉性・一貫性のある)な社会を実現するのに重要な鍵だとされているが、道元は全ての存在には矛盾があり、それらを見つめる能力は修行や体験がないと習得が困難だと考えるが、どうだろうか?イチローや松井のような求道者的と言っても良いかもしれないが、集中力を発揮して、おかれている事態を察知することができるが、、、。

 また、ダイアローグの成立するような環境をつくることがより重要となることに気づかれたのではないか。別の見方をすれば、組織におけるリーダーシップとは何かということも同時に考えていかなければならない。内村鑑三の「代表的日本人」に描かれている上杉鷹山は改革のために自ら先頭に立って質素倹約に努めたが、命令というか権力で縛り付けるのではなく、そのような「背中を見て」皆が従う環境づくり、そのための人間というか、リーダーシップも重要であろう。

 少し難解な本ではあるが、頑張って何回か読み見直してみると、わからないところが有機的につながってきて、いろいろ推論もできる。そして、皆さんの所属する家庭、友人・先輩、職場など組織単位で、この対話、共生といったものを考えてみるものも意義のあることであり、たまには、このような本を取り上げるのも、いいのではないかと思って頂ければ幸いである。

(平成20年1月19日 文責:管理人)

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