ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

神戸大学開シンポジウム−出光佐三の経営理念と日本型資本主義−
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『出光佐三氏の神戸高商卒業100周年(2009年)及び出光興産株式会社創業100周年(2011年)を契機に、「出光佐三氏の経営理念及び企業経営実践」をテーマにシンポジウムが開催されました。内容は以下の通りで、新野先生は「出光佐三と神戸高商」と題してご講演をされましたここに文章を書きます。


【出光佐三の経営理念と日本型資本主義】 

 日 時:2010年2月3日(水)13:30〜17:30 

 場 所:神戸大学出光佐三記念六甲講堂 

 主 催:神戸大学(大学院経営学研究科) 

 共 催:(財)神戸大学六甲台後援会  

 <ご講演> 

1.神戸大学大学院経営学研究科 加護野忠男教授「出光佐三の経営理念と日本型資本主義」

2.出光興産株式会社代表取締役 天坊昭彦会長「出光佐三の経営理念」

3・大学六甲台後援会 新野幸次郎理事長「出光佐三と神戸高商」

 尚、翌日の日経新聞では以下の記事が掲載されています。

【日本経済新聞】100年前の神戸、日本型経営を形成―神戸大が出光佐三シンポ

 神戸大は3日、神戸市内でシンポジウム「出光佐三の経営理念と日本型資本主義」を開いた。出光興産を創業した出光佐三氏が神大の前身、神戸高商を卒業して昨年で100周年を迎えたのを機に、当時の教育理念や企業経営への影響などについて議論を深めた。 

 神大大学院の加護野忠男教授は、出光氏ら当時の卒業生の論文などから「高商では拝金型資本主義へのアンチテーゼを教えていた」と指摘。貧民救済に取り組んだ社会運動家、賀川豊彦らの例も挙げ「100年前の神戸が(従業員重視の経営など)日本型資本主義の形成に深くかかわっているのでは」と述べた。 

 出光興産の天坊昭彦会長は「佐三が高商で学んだ人間尊重や大家族主義、事業の社会性などは今も出光の企業理念に継承されている」と語った。新野幸次郎・元神大学長は、道徳も含めた大学での人材教育の重要性を強調した。

以下、新野先生はじめ、3氏のご講演の要約を掲載します。

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                      −神戸大学大学院経営学研究科 加護野忠男教授のご講演−

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  「従業員重視の経営」は、所謂、日本的経営の特徴の一つとされ、戦時体制下にかたちが出来上がり、戦後、大企業を中心に拡大してきたというのが一般的な見方ですが、ルーツはもっと古く、また、神戸がそれに深く関与しているのではないかというのが、本日の私の話です。

 さて、出光佐三さんは、大変なシンデレラボーイで、家庭教師先の日田重太郎さんに大変に気に入られ、京都の土地だったか、これを売却したお金、多分、現在価値に直すと9千万円くらいだと思われますが、このお金を出光さんに無償で提供するという話になったのです。条件は3つで、@カネの出所は明かさない、A志を持った仕事に使うB一緒に働いて貰う人を大切にするというものですが、出光さんは一つだけ約束を反故にされた。即ち、出所を明かしたのですが、それを除けば、その通りの、偉業を残されたことになります。しかし、出光さんは矛盾の人ですね。自身は大出光を築き上げた資本家であるが、大阪の拝金主義に憤慨し、私の仕事は資本家と戦うことと言い切ったり、高商卒というエリートでありながら、神戸の小さなお店で丁稚として働くといったことをされた。 

後の大家族主義と言われる独特の経営を行った出光さんの思想に影響を与えたのが神戸高商の教育、特に水島校長の人間愛と情熱、そして、内池廉吉教授の「商人は自分の利益を考えるのではなく、生産者と消費者の間で商品の円滑な流通にあたる」という教えだったそうです。水島校長も大変に面倒見のいい人であったようで、出光商会が創業してまもなく、「士魂商才」と大書したものを、出光さんに送っておられる。 

矛盾といえば、その当時の神戸も矛盾を孕んだ町であると言えます。今の東灘区の住吉は「住み良し」らしく、日本を代表する大富豪たち、例えば、住友さん、野村さん、大林さん、武田さんなどがこぞって邸宅を構えたのです。中でもすごいのが日立の創業者、久原さんの豪邸(3万坪あったと言われる)で、大邸宅の冷房の為に、六甲山からの冷風を引き込ませるための風洞まで作らせたのですよ。

そんな話の正反対になりますが、賀川豊彦は神戸のスラム街に入り、貧民救済と友愛の経済を提唱、神戸購買組合を設立しました。また、平生釟三郎はブルジョアの社会貢献を説き、甲南学園や甲南病院、灘購買組合を立ち上げたが、後に、スラムの神戸購買組合とブルジョアの灘購買組合は合併し、灘神戸生協、現在のコープ神戸になったのも不思議な話であります。 

話は変わって竹中工務店の竹中籐衛門さん。本店を神戸に移し、短期売買の投資家を嫌い、非上場を決め込んだのです。関西には他にサントリーやヤンマーなどがありますが、株式会社という制度そのものに対するアンチテーゼであると言えるでしょう。それから、神戸の貿易商、兼松房次郎も面白い。当時の貿易は大変だったのです。何しろ外国人に対する裁判ができず、支払って貰えないカネをとることが難しい。そんな競争条件としてのハンディを背負いながらも、日本人による貿易会社、後の兼松を育てたのですが、神戸高商に、『兼松商業研究所』の建築及び研究基金として、80万円を寄贈された。これが現在の神戸大学経済経営研究所である。地元神戸の鈴木商店にしても、大番頭金子直吉の積極経営(めくらめっぽうだ、まっしぐらに前進じゃ)に対し、高畑精一(神戸高商う→鈴木商店→日商)は冷静であり、米騒動で焼き討ちにあった本社にロンドンから「ご同慶のいたり」などと、冷ややかな電報を送っています。因みに、高畑は世界中のゴルフ愛好家が愛用しているゴルフクラブのヘッドカバーの考案者としても有名であるが、、、これは余談です。 

そして、忘れてならないのが、川崎の大争議(5万人が参加した)。先の賀川豊彦が指揮したのであるが、ここで申し上げたかったのは、当時の神戸には、日本の資本主義経済の発展期の「明と暗」といって良いのか、ある意味、特徴といってよいのだろうが、そんなものが凝縮した雰囲気があったということあり、それが、後の日本的経営に繋がるような萌芽といったものがそこにあったということです。(文責:管理人)

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     「出光佐三の経営理念」   

                      -天坊昭彦氏(出光興産株式会社代表取締役会長)のご講演−

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私どもは創業者の出光佐三のことを店主と呼んでおりますが、私が入社した1964年当時、店主は既に79歳でしたから、直接、指導を受けるといったことはありませんでしたので、そういった前提でお話を聞いてくだされば幸甚です。 

さて、店主は1885年、気風温暖な福岡県宗像郡で出生。明治38年に神戸高商に入学。ここで、水島校長の愛に満ちた教育、ご指導を賜ったようで、そればかりか、卒業後もいろいろ気をかけて頂いていたようです。先ほど話のあった内池廉吉先生の「商人は自分の利益を考えるのではなく、生産者と消費者の間で商品の円滑な流通にあたる」といった教えにも感銘を受けたようで、卒業当時、船成金が続出しているような時代にあって、カネよりも大切なもの、後の家族温情主義と言われる当社の経営のバックボーンが神戸高商の教えの中で育まれていったのではないかと思います。 

そして、卒業後、小麦粉と潤滑油を扱う小さな店、酒井商会で丁稚をすることになります。同窓生からも高商出が丁稚奉公をするのかといった批判される中、「小さなことができないと、大きなこともできない」「下で支える人たちの気持ちを肌で感じる」という思いとか気概があったのでしょう。 

加護野先生のお話にあった日田重太郎さんの支援もあり、2年後に福岡の門司で独立、潤滑油やその後燃料油を扱う「出光商会」を立ち上げますが、最初はなかなか苦労したようでございます。 

店主はそんな中、今で言う提案型営業というのでしょうか、お客様の立場に立って、商品の売込みを行い、お客様を開拓して行きました。例えば、漁船には燃料代が半分となる軽油を勧めてみたり、後に飛躍のきっかけをつかむ満鉄向けには、極寒の地でも凍結しない「2号冬候車軸油」を開発し、納入しています。 

また、事前に先物予約をし、その後、相場が急騰しても、安く仕入れられたのだからと、便乗値上げせずに、そのままの価格で販売するといったこともやったようですね。利益は勿論頂きますが、適正利潤以外は利益をとることをせず、お客様との共存を目指したのでした。 

昭和15年に「紀元二千六百年を迎え店員諸君に与う」と題して、資本は人であり、同時に個々人の切磋琢磨を説いた「人間尊重」と、愛情と信頼の「大家族主義」を掲げます。例えば、新入社員を迎えることは、家族に子どもができたと思って人を育てるといったことも当社の伝統です。 

終戦時、当社は国内に200人、海外に800人の社員を抱えていたのですが、人間が資本である我が社においては、引揚者を大事な資本が帰って来るとして、一人の社員も解雇することなく、店主は「愚痴をやめて再建にかかれ、三千年の歴史を見直せ」と訓示したのでした。それに応えて、社員は軍の油槽タンクの回収作業などの危険な仕事を引き受けながら、困難な時代を食いつないで行ったのです。  

「独立自治」も店主の教えで、仕事はやらせるのではなく、任せるということを通じて、人が育つことを強調した上で、一人一人が経営者としての意識を持つことが重要だと説いています。 

さらに店主は「7つの奴隷解放」という考え方を示されました。即ち、

  

一、黄金の奴隷になるな  

二、学問の奴隷になるな  

三、組織、機構の奴隷になるな  

四、権力の奴隷になるな  

五、数、理論の奴隷になるな  

六、主義の奴隷になるな  

七、モラルの奴隷になるな

  七番目のモラルは道徳と区別されるべきであると店主は言います。モラルは西欧の権利思想で、ルールに反しなければ何をしてもよいということになりますが、道徳は皆とうまくやっていくための良識であり、思いやりであります。 

権力の奴隷になるなということに関連して、ご存知の方も多いとは思いますが、昭和28年に当社は、石油を国有化し英国と抗争中のイランから、日章丸二世を送って石油の輸入に踏み切りました。当時、イランの石油は英国系のアングロ・イラニアン社が利権を独占していましたが、モハメッド・モサデク政権はこれを国有化しました(イラン国営石油公社)。同社を含む7大石油メジャーはこれに対し、報復として、イランからの石油の禁輸といった国際的なカルテルを呼びかけていたのです。アングロ社は出光を提訴、この時、英国などからも圧力を受けましたが、店主は全く怯むことはありませんでした(出光佐三は裁判の際、東京地裁の裁判長に対し、「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓い致します。」と発言)。結果的には、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となり、産油国との直接取引の先駆けを成すものとなりました。 

店主は株式会社を事実上否定し、投資家からの出資は拒んできました。株式会社という有限責任制度は出資分のみ責任をとればよいと言う意味で、無責任を助長する仕組みであり、また、大切なお客様から頂いた利益を投資家に配当するなど、とんでもないという思いもあり、必要な資金のほぼ全てを銀行借入に頼ってきたのです。しかし、その後、当社は経営規模が拡大し、銀行借り入れはピーク時2.5兆円にもなりましたが、この負債額の多さを格付機関に指摘され、あくまでも勝手格付ですが、B格とされてしまいました。しかも、銀行の中にはこの格付を理由に借入金の返済を迫られる事態となりました。そういった事情もあり、私は店主の方針を転換し、上場に踏み切りました。プレイベートカンパニーから決別、パブリックカンパニーへの道を選択したのです。 

しかし、当社においては、店主の唱えた経営理念は未だに健在です。私は他の会社のことはわかりませんので、比較はできませんが、団結力、ロイヤリティ、モチベーションなど誇るべき伝統は脈々と引き継がれていますし、また、簡素な組織づくり、権限委譲と言ったことも実践してきました。阪神大震災の折には、神戸地区の当社の社員は、一刻も早くお客様への燃料の供給体制を復活させるべく、自宅のことは後回しにし、会社に寝泊りしながら、復興に向けて頑張りました。また、夙川にある独身寮では、会社の規則を破って、地域住民の避難を受け入れたのです。危機にあって、創業以来引き継がれてきた店主の経営理念が発揮された事例だと考えます。そして店主の残した創業理念こそが、未来を切り開き、飛躍を実現する礎だと私は信じています。

 

(以下ご参考) 別途、シンポジウムでの質問の中に、出光興産は本社(現在、帝国劇場ビルに入居)を所有しないのかという質問があり、天坊会長は笑って「皇居の傍にいたかったのかな」というお答えになりましたが、出光佐三さんが、ご逝去された折に、昭和天皇が以下の歌を詠まれました。念のためにご紹介しておきます。 

「出光佐三逝く 三月七日 国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」                                                           (以上文責:管理人)

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    「出光佐三と神戸高商」                                         

                   −新野幸次郎先生 神戸大学公開シンポジウムでのご講演−

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  今般の六甲台講堂の改修にあたっては、私が理事長をやらされている神戸大学六甲台後援会も必要な資金を集めて参りましたが、はやり、出光興産さんのお力添えなしには実現できませんでした。改めて御礼を申し上げたいと思います。 

さて、これまでのお話の中にもあったように出光佐三さんが実践されてきた大家族主義は、ご本人も語っておられるように水島銕也校長や内池先生など神戸高商で学ばれたことが大きかったようですが、当時の神戸高商がどのような教育をしていたかを知る上で、『愛庵先生の横顔』 (実業の日本社)という本が大変に役立つように思います。(「愛庵」とは水島校長のお名まえ「てつや」から鉄(iron)を文字って「愛庵」と号したもの)是非、一読されたらと思います。

 さて、まず最初に、神戸大学の前身、神戸高商について。私が調べたところ、明治32年のことですが、時の山県内閣が、東京高等商業学校(現一橋大学)に続く2番目の官立高等商業学校として、当時、東洋最大級の国際港を擁する神戸に高等商業学校の設立を内定しました。その後、商都大阪による猛烈な巻き返しがあったものの、当初の決定は覆らず、明治35年に神戸の葺合の地に神戸高商が開学しました。因みに敗れた大阪市は、自力で大阪高等商業学校(現大阪市大)をつくることになり、後に、この三つが三商大と呼ばれるようになりました。

 初代校長に就任したのが、水島銕也校長で、39歳の若き校長でした。校長はまず第一に、学問はただ学ぶのではなく応用ができるような人材の育成が必要とし、第二に世界中で活躍できるような体力の養成を掲げました。当時、世界は今ほど衛生面で進歩していませんので、健康、体力は重要だったのです。そして第三に出光佐三さんが実践された理念とも関連しますが、道徳教育を前面に打ち出されました。

また、例えば、簿記、商業学、語学を重視するなど、先行する東京高等商業学校との違いを際立たせようとされたのですが、特に、実務を重視する観点から商業学校からの入学を認めるなどユニークな制度を整備したことも特筆すべきでしょう。一方、山口、長崎など、新しくできつつあった高商では、時の久保田文部大臣の方針で、実務あるいは技術を優先すべきという流れもあったのですが、これについては慎重に回避されています。 

水島校長も若かったが、他の先生も若く、殆ど40歳代だと思いますが、いろいろなところで、創意工夫しているようです。我が国初の経済誌である「国民経済雑誌」もそのひとつで、明治39年に刊行されています。また、単に洋書を読んで終わりといった授業ではなく、ゼミナールと呼ばれる研究指導制度を導入、厳しく鍛えぬいたが、2割ぐらいが落第するなど、評価も厳しかったようです。但し、こう言った専門的で実践的な講義が人気を呼び、明治38、39年の入学試験の競争率は帝国大が2.6〜2・8倍であったのに対し、東京高商と神戸高商は3.8倍であったという記録もあります。

 後の田崎校長は水島校長を、研究者というより、卓越した教育力と言ってよいのか、教育者として高く評価されているようですが、本当に面倒見が良かったようですね。後に学長にもなる古林さんも、ものも言わずに人に克つといった風だったと評されています。ある教授が体調を崩されているとき、水島校長は1ヶ月の出張命令を出し、療養に専念させたといったこともされています。また、高商のボート部が事もあろうに、芸者をボートに乗せたことが、世間で問題となったとき、問題を起こしたボート部員たちの並ぶ前で水島校長は叱ることなく、ただ長い間沈黙されたようで、たまらずボート部員が平謝りするに及んで、一言、「わかれば良い」といった具合。まさに学生を家族のように、そして、愛情をもって育成している様子が伺えます。 

水島先生の墓碑には「万人ヲ千化シ 大徳無辺(果てしない) 風格四表二(四方に)光被セリ(光が広く行き渡る)」とあるのですが、まさに水島校長のお人柄が偲ばれるようですね。因みに六甲台講堂の前庭に校長の胸像がございますが、製作は朝倉文夫さん(水島校長と同じ大分出身の彫刻家、東洋のロダンとも称される美術界の重鎮、代表作として「墓守」など)、銘板揮毫はかの渋沢栄一さんであることも付言しておきます。 

さて、ビジネススクール、ロースクール或いはメディカルスクールなど、今やテクニックと言うのか、良く言えば専門家ということなのでしょうが、こう言った教育が重視されている昨今でありますが、行き過ぎた資本主義に対する問題点が指摘される今の時代において、水島校長が重視された人間教育、ジェネラルエデュケーション、或いは知識ではなく理念やアイデアなどを重視するバチェラー(学士)の育成を真剣に考えるべきではないかと考えざるを得ません。 

その意味で、本日のお話の最後に、プラトンの書いた『国家』(岩波文庫)に出てくる三つの種族、即ち、「鉄・銅」、「銀」、「金」の種族についてお話をしたいと思います。プラトンは「国家」の中で、人間を三つの種族に分類しています。まず「鉄・銅」の種族ですが、この種族は欲望、例えば金銭欲、物欲などの欲望を満たそうとする。次の「銀」種族は軍人などで、お金より名誉欲を第一に考える。最後の「金」の種族は、理想のリーダー、統治者で、彼らは善を求め、知を重んじる。今、水島校長の実践された教育や出光佐三さんの掲げられた経営理念を考えるにつけ、この金の種族を育成していくような教育が、益々、必要な時代になっているのではないかと思う次第です。                                  

(平成22年2月3日 神戸大学出光佐三記念六甲台講堂にて 文責:管理人)

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                        加護野教授「神戸大学最前線」記事 

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  2009年秋、六甲台講堂の改修が終わり、新たに出光佐三記念六甲台講堂と命名された。講堂の改修に関して、出光興産からのご援助があったからである。同社の創業者出光佐三氏は、神戸大学(旧神戸高等商業学校)が生んだ最大の企業家であり、大学側の希望で名前を付けさせていただいた。2009年は出光氏の卒業100周年で、2011年は出光興産創業100周年である。 

  出光佐三氏は、神戸高等商業学校の第3期生である。同氏は、卒業後、小さな商店に就職され丁稚奉公をしながら商売の実際を学ばれた。就職後しばらくして、学生時代に家庭教師をしていた神戸の資産家に呼び出された。出光氏の人格高潔さを認めていたこの資産家は、出光氏に事業資金を贈与したいという提案をしてこられた。現在の金額に換算すると、8千万円にもなるお金である。出光はそれを元手に出光商店を創設した。贈与の条件は、誰からこのお金をもらったかを口外しないこと、志を持って仕事をすること、一緒に働く人々を大切にすることの三つであったという。出光が独立する時に、神戸高商の水島鉄也校長は「士魂商才」と書いた額を贈られたという。 

 この出光氏が大きな影響を受けたのは内池廉吉教授である。内池教授はその著書『商業学概論』(1906年、同文館)で、商業とは「営業として再び販売する目的を持って購買する」ことあるいは「営業的に貨物を交換もしくは買い入れさらに利益を得ることを目的として他に売却すること」とする当時の海外の学者の定義を「営利なる事実を過重視せり」(18頁)として批判しておられる。教授自身は商業の目的について「生産者、消費者間に存する人的場所的時間的懸隔を連結する」(19頁)ことと定義しておられる。営利を不可欠のものと見ない思想はきわめて日本的で、石田梅岩の石門心学の思想にも通じる。出光氏は、石油の流通を日本人の手で行いたいと考えておられ、お金の奴隷になることを戒めておられる。共に働く人々を大切にする家族主義経営を実践された。戦争で海外資産をすべて失うという苦境の時も、戦地から復員してきた従業員を再雇用された。 

出光佐三氏と同じ第3期生には、鈴木商店に入社され、鈴木の崩壊後日商を創立された高畑誠一氏、同じく日商の創業に参画されその後同社相談役、貿易庁長官を務められた永井幸太郎氏、古河鉱業に入社後、富士電機製造(現富士電機)や富士通信機工業(現富士通)を創業され、両社の社長を務められた和田恒輔氏などがいらっしゃる。「神戸大学最前線 第13号」