ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2011年
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盛山和夫著 「経済成長は不可能なのか」 中公新書2011年6月

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 本書の著者、盛山和夫さんは社会学者であり、経済を専門にされているわけではないが、そんな著者が、現下の経済情勢を、どう分析し、どういった結論を導いていくか、みていくことも意義があることだと思い、本書を今回の読書会テキストにした。勿論、経済学に馴染んだものからすると異論や反論も多いのではないかと思うが、逆に、それ故に、本書をテキストに選んだ。

 さて、本屋には実にたくさんの本が並んでおり、様々な人が「失われた20年」に関して、独自に解釈し論じている。勿論、示唆に富む本も多いが、中には、極めて一面的な事象のみとらえ、面白おかしく、事実の裏づけも乏しい雑多な議論を展開しているような本も多い。例えば、「円高」について申し上げれば、好機到来とばかりにプラス面を強調し楽観論を唱えるもの、円高であっても、日本経済は強靭であり、心配はないと言う心地よいもの、それとは逆に、日本の産業空洞化など未曾有の危機を煽るものまで、同じ円高という問題を扱いながら、実に様々な書かれ方がなされているのはなぜだろう。

 数学や物理学などとは異なり、社会科学の分野では、過去から現代までいろいろな学派が存在する。私は、昭和24年に大学卒業してから暫くして、「国民経済雑誌」にシュラーの著作に関する紹介文(管理人注:「国民経済雑誌第83巻第5号(昭和26年5月)G.J.Schullerの「経済学の方法における孤立主義/Isorationism in Economic Methodに関する書評)を寄稿し、同じ経済と言う事象を扱っていながら、どうして学派が生じるかを取り上げた。これが、再三申し上げている「アンサー・ベギング・クエスチョン」である。即ち、多くの研究者は、まず先に、イデオロギーとかアイデアがあり、それらに基づいて、自分の言おうとする結論、答となるものを先に思い浮かべ、それを前提に後付でデータを収集し、論理を組み立てていくのである。経済学も含め、社会科学の分野では多かれ、少なかれ、そのような側面から逃れられないが、これにジャーナリズムの商業主義、本や雑誌が売れればよいということになると、出版社本来の使命を忘れ、その時点で特に話題となりそうな面白いポイントに着目し、そんな主張を繰り返す研究者を担ぎ出し、そのユニークさを競いあうと言うおかしな結果をもたらす。

 ご存知の通り、独自のイデオロギーを持つ雑誌、例えば公明党の「潮」や「第三文明」、共産党もいろいろな出版物を発刊しているが、それぞれの立場から、ある種、都合の良い議論を進めていくことは当然だか、比較的中立だと思われる新聞も、朝日、読売、サンケイ或いは、毎日、日経も、それぞれの立場でアンサー・ベギング・クエスチョンを行っているのである。

 勿論、私の研究してきたことについてもこの例外ではない。日大の先生で、脳死寸前の多くの患者の生命を救った林成之さんは脳低温療法で世界的にも有名であるが、その林さんが書かれた「思考の解体新書」には、創造性を生み出す脳の仕組みについて最新の脳科学の成果が盛り込まれている。また、認知症の権威である川島隆太さんの数々の著作、例えば「さらば脳ブーム」などがあるが、これらを読むと、私が書いた「日本経済の常識と非常識」(朝日カルチャーブックス:大阪書籍1981年11月)に書かれている、「左脳、右脳の働き」と「日本人の言語や思考方法」に関する記述は、今となっては、説得力のあるものではなくなっているようだ。

 重要なのは、なるべく、正確な分析、理解のためには、本に書かれていることを冷静に眺め、検証したり、書かれていないことに対しても、十分意識して、考えていかなければいけないということである。

 例えば、長谷川慶太郎さんの数々の著作では日本の潜在的な力を重視されたものが多く、その意味では大変興味深いポイントを提供してくれていて大変に面白いし、戸堂康之さんの「日本経済の底力」 (中公新書)なども、東北大震災以降の日本経済復活の道筋を書かれていて、大変に勇気付けられるが、一方、議論として十分に整理されてものとは必ずしも言い難い。紙面の都合もあろうが、本書に限らず、分析が一面的であったり、配慮すべき点が抜け落ちていたりしていると思われることも多いのである。その意味では、皆さんは脳をしっかり回転させて、背後にある意図を意識しながら、主張が本当に正しいのかといった視点で、冷静に再考してみたり、議論をしてみることが極めて重要であるし、こういったことが、本を読む上での楽しみ方、読みがいであると考えてみたらどうだろうか?

 もっとも、人間はもともと、人の話など素直に聞こうとしない生き物かもしれない。嫌な話はなるべく遠ざけ、自分の考え方に近い内容だったら、その話は「実に良い話」という評価になってしまうものである(笑)。

 さて、本書に戻ろう。まず、冒頭で、日本経済はデフレ、財政難、国の債務残高、少子化のクアドリレンマ(四重苦)の中にあると著者は喝破しているが、皆さんのご感想にもあったが、本書では大変印象的で部分である(p10)。クアドリレンマとは、四つのファクターの内、どれか一方をとれば、どれか一方に問題が生じるものといった特徴を示すものとしているが、日本経済は今まさに、何か対策を講じようとすると、別のところで悪影響が生じ、身動きがとれないと言った状況下にあるという。ところで、上掲の四つが、日本経済不調の特徴だとかメカニズムを捉える上で適切と言えるだろうか、また、本書で取り上げた四つが、本当にクアドリレンマの構造をなしているか、必ずしも説得力のある論理にはなっていないだろう。

 また、円高を取り扱った部分では、その解決策を国債の日銀引き受けによる大胆な緩和策に求めている(p112〜121)。解決先としては単純で面白いのだが、逆にそれだけでよいのかとお考えになったゼミ生も多かったろう。世界的なマネーの動き、ギリシャ問題に端を発する欧州の動向、サブプライムと借金問題に揺れる米国、中国、インドなどの新興国など動きなどを分析していくだけでも、円高の解決はそれほど単純ではないことがおわかりになるだろう。また、国債の日銀引き受けの前に、日本の国債残高の問題についても整理しておく必要がある。

(管理人注:これに関連して、川口様より、貿易黒字国で且つ純債権国は日本の他、ドイツ、中国、スイスであるが、ドイツはユーロ安で潤っており、財政も健全であるが、安全なドイツ通貨を買うということは、そもそも単一通貨ユーロ成立以降できないし、スイスは無制限にスイスフランを放出することを決めており、また、中国は事実上ドルペッグであることなど、円のみは買われる構造があるとの指摘がありました。)

 成長は可能かという点に関して、本書では、工程表まで示し、国債増発を主体とした金融・財政政策をとることで成長は可能(管理人注:本書の工程表では4%成長p244)であると楽観的な見方をしている。もっとも、バブル崩壊以降、何度も大規模な財政出動に加えゼロ金利政策などの景気刺激策がとられたが、大きな成果に結びついたと言う例が無い中、皆さんは本書の主張通り「成長は可能」であるという認識を持たれただろうか?また、全般的にグローバルな視点が欠けているのではないかという議論もあったが、特に、現下のように欧州危機が叫ばれ、米国経済もサブプライムショック以降不振を続け、そして、最近では頼みの新興国にも勢いがなくなっている中、グローバル経済下にある日本経済だけが先進国でも高い成長の達成が可能だとしているが、この点も考えておくべき論点のひとつである。

 話は変わるが、東北大震災では、地震に関する気象学者のみならず識者と呼ばれる専門家による情報が錯綜した。特にジャーナリズムによって飯が食える識者;はひどく、後先のことを考えずに、テレビなどを通じて面白おかしく、また、オーバーな自説を展開し、世論をミスリードしてしまうのである。雑多な議論が百出したところで、それだけでは物事は進まないどころか、問題をより複雑なものにしてしまうのである。本来、専門家や学者が緊急会合し、統一的に問題の分析と対策を早期にまとめ上げ、共同声明という形で、公の場で公表するといったかたちをとるといったことが必要なのかもしれない。

 それと同じように、政治家の当事者能力やリーダーシップが期待できない今、今回のテキストのテーマでもある失われた20年からの成長を考えるとき、経済学者のみならず全ての社会学者が英知を結集、小異を捨てながら、今後の方向性をまとめ上げ、将来への展望を持てるような一つ方向性を打ち出すべき時なのではないだろうか。(平成23年10月22日、文責:管理人)

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ジャック・アタリ著、林昌宏訳「国家債務危機」作品社 2011年1月

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 大震災復興構想会議の五百旗頭は先日の答申(第1次提言)では、復興財源に関して、期間限定の国債「復興債」を発行したうえで、臨時増税によって償還財源を確保するよう政府に求めているが、民主党はマニフェストを一旦白紙にし、復興財源を無制限に赤字国債に頼ろうという姿勢を改めないと、先行きの不安感が益々つのることになる。

 (管理人注:新野先生は別途、赤字国債に頼らない復興策として、韓国の通貨危機の際、国民が金の供出を行った事例を引き合いに出され、税控除可能な「復興寄付金」制度のようなものを導入することを提唱されています)

 さて、阪神大震災の被害額が約10兆円だったのに対し、東北関東大震災の場合16〜25兆円に上ると言われている。阪神大震災では経済力のある地域の震災であり、大変な苦労を重ねながらも民間が頑張って復興に邁進したが、東北ではそうはいかない。昭和33年に出版された、大牟羅良さんの『ものいわぬ農民』(岩波新書)では、日本のチベットといわれた岩手県の農民のきびしい生活が描かれている。この本には「貧乏な小作人の生活に較べると、食事の心配もなく、服も靴も支給され、おまけに学歴や社会的地位とも無関係に平等に生活できる軍隊生活の方が有難い」という青年や、「できるだけ望みを小さく持つことによって生きています」というおばあさんの言葉があって胸がつまるのであるが、永年の農村や漁村の生活で培われてきた謙虚で、我慢強い「ものいわぬ被災者」を目の当たりにするにつけ、今こそ、国のあり方を考え、根本的なビジョンづくりと抜本的な制度構築や様々な工夫、国全体の大改革が必要であると思うのは私だけではないだろう。

  そんなことを考えながら、今回、国家の債務問題を考えたいが、あいにく、日本ではこの問題を詳細に分析し、真正面から取り扱った研究は少ない。

 テキスト選定にあたり、本書以外にカーメン・M・ラインハートとケネス・S・ロゴフ共著の「国家は破綻する―金融危機の800年」(日経BP社)を取り上げようかと考えたが、こちらの方は600ページもある大著であり、値段も4200円もするので今回見合わせたが、クルーグマンが絶賛した本でもあり、なかなか読み応えがある。原著は『This time isdifferent』で「今度は違うぞ」と言うことなのだろうか、過去800年の66カ国に及ぶソブリン債務と金融危機の分析から、今回の危機により先進国が債務不履行かインフレに陥るのではないかと結論付けているのである。18世紀以降、経済を支える体制や社会制度が整備されていない途上国が国家破綻に陥ったが、今度はこれまでと異なり先進国こそ危ないという主張である。

 今回取り上げる「国家債務危機」はフランスのミッテラン大統領やサルコジ大統領の知恵袋として活躍中のジャック・アタリの著作で、前半は古代からの国家債務の歴史を振り返り、過去、何度もデフォルトが起こったことや、国が発展すると税収の伸び以上に債務が膨らんでいき、先に発展し豊かな国が、途上国から借り入れするといった逆説的な内容が示されている。尤も、成長著しい中国も債権国としての立場を強めているが、インフレ対策と国内の所得格差の問題をどう解決するか、最近でも各所で暴動が起きているようだが、内実は単純なものではない。

 菅総理大臣も本テキストの著者であるジャック・アタリ氏と会い、また、著作も読んだということだが、国家債務に内在する諸問題に関してどの程度、意識しておられるのか?また、マスコミや一部の売れっ子の評論家などを中心に、日本には潤沢な個人の金融資産があり、金利も著しく低いので、復興資金に大規模な国債増発をすべきと言った単純で無責任な議論が堂々となされている。

 これと関連して、本書でも国家債務が国内貯蓄でまかなわれていれば大丈夫といった内容となっているが(p170)、昨今では銀行などの金融機関が海外投信など、国外へ資産をシフトさせるような動きに熱心で、販売も好調のようであるが、国債暴落で甚大な影響を受ける可能性の高い銀行にとって自ら墓穴を掘る結果にならないか。

 また、我が国は生保など大手金融機関に加え、政府も外貨準備を米国債で運用しているようであるが、国債の暴落は我が国の問題にとどまらないということも考慮しておかなくてはならない。

 ところで、本書では、過剰債務の解決策として8つの方策、即ち、増税、歳出削減、低金利、インフレ、外資導入、戦争、デフォルトに加え、経済成長の重要性を特に強調している。そのために競争力のある投資(本書では過剰な債務解消の前提となるのは健全な債務の増加p40)が重要であると説く。

 健全な債務とは、環境破壊や年金徴収基金等に係る「国家修復基金(短期の借り入れ)」とインフラ整備、教育・職業訓練、外国人受け入れ、環境・再生可能エネルギーなどへの投資である「国家投資資金」(p236)の二つで、それ以外の不健全な債務を抑えるガバナンスの構築が特に重要であると主張しているが、まさにその通りである。

 しかし、現政権の迷走と政争に明け暮れる「政治」や無責任なジャーナリズムの動きを見ていると健全な未来への投資や歳出削減などは望み難いというのが皆さんの思いであろうが、米政権でも中間選挙で敗北したオバマ大統領はサブプライムの またぞろ、共和党を中心に金融改革などを骨抜きにするような市場原理主義からの巻き返しに直面し、米国経済の先行きに疑念が生じてきている。

 さて、前田君のまとめてくれた資料にあるように、我が国では、社会保障関係費が拡大し、文教・科学振興関係費や公共事業費が減少、税収の半分の20兆円を国債費に投入するといういびつなことになっている。ジャック・アタリの議論では、このあたりに大きくメスを入れていかないといけないということになる。

 まずは、社会保障関係費である。1960年代の高度成長期に世界に冠たる国民皆保険制度や手厚い年金制度を採用した我が国が、バブル崩壊後、低成長に転じ、また、世界に類を見ないスピードで少子高齢化時代を迎えている。成長の前提として、生産年齢人口の減少に歯止めをかけるべく、高齢者雇用を積極的に行い、移民の受け入れや技術革新の推進を進めながら、一方では、こういった社会保障制度の見直しも急務である。

 尤も、GDPの倍の借金を抱えるとされているが、情報公開も不十分であり、国のバランスシートの開示も中途半端なものにとどまっており、国の方向性を考える上での大きな障害となっていることも付言しておきたい。

 福祉の見直しや増税などを含めた改革には大きな痛みが伴うが、そのためにもリーダーシップは必要不可欠である。米沢藩の上杉鷹山や松代藩の恩田木工などは私情を排し、自ら質素な生活を実践、改革に取り組んだし、西郷隆盛の人望は幕末・維新で多くの人々の心を動かしたのである。戦後最大の国難と言われる今こそ、政治にリーダーシップが問われている時代はないかと思うが、皆さんも単に悲憤慷慨しても始まらないので、自分だったらどう考えるか、いろんな議論ができるのではないか。

 さて、ジャック・アタリが強調した成長戦略について。

山崎君が中国の大連の事情を実際に見聞きし、経済特区と税負担の軽減を主張していたが、これもジャック・アタリの言う国家債務の解決策にある成長戦略といって良いだろう。一国二制度の壁が厚く、また、焼け太りの議論などもあり、結局認められなかったが、私は阪神大震災の際、「復興特区構想」を提唱したことがある。

特区が実現できるかどうかは別にして、確かに従来の発想を超越した大胆な発想が必要であろう。そんな中、注目して良いのは、神戸芸術工科大学 齊木教授の掲げる田園都市構想で、百年前に英国の「田園都市」をモデルに、大規模な住宅地を建設しようというものである。具体的には、神戸市垂水区のゴルフ場跡地に、起伏や樹木を残しながら、居住者のコストを抑えるため、定期借地権を活用し、一区画700?の敷地を確保し菜園や庭園を併設した大型住宅を開発しようというもの。建物本体の他、内装や耐久消費財など、広い家にふさわしい投資が誘発されるため、大きな需要を生み出すというのである。

 一方、日本の低迷を打開するためにも「内向きな意識を排し、世界に打って出よ、そのために英語を強化すべき」という議論があったが、明治時代に帝大ができたころは、教師は欧米諸国からのお雇い先生で、授業は勿論英語で行われた。当時の日本の学生は必死で英語を理解し、世界の先進国に追いつこうとしたのである。人材育成が急務と言われながら、大学の予算は毎年1%削減され、英語で授業を行う大学も殆どないのが実情で、誠に残念であるが、世界を舞台に日本人が益々活躍できることを期待したい。

 以上、議論してきたように、この国家の債務危機の問題を解決するため、痛みは伴うが大改革を実現することが急務となっている。東北大震災はある意味で、この大改革の契機であり、また、警告であるという気がしてならないのである。 (平成23年7月9日 文責管理人)

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ハジュン・チャン著 「世界経済を破綻させる23の嘘」 徳間書店 2010年11月

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 今回のテキストは、著者の母国、韓国ではノーベル賞に最も近いと言われている著者ハジュン・チャンの著作で、原著の題名は「23Things they don’t tell you about capitalism」と至ってシンプル。外国の映画の表題が日本の配給会社によって興行的なタイトルと変えられるように、「23の嘘」というような挑発的な日本語タイトルとなっているが、あくまでも資本主義に関してよく言われている“常識”をそのまま受け入れるのではなく、冷静に議論してみようという内容になっている。例えば、市場は自由でなければいけないとか株主の利益をまず考えよといった半ば常識的に言われていることが本当に正しいのか、少し掘り下げて考えてみようというのが本書のユニークなところで、それなりに有意義な論点を提供しているのではないか。もっとも23の常識だけでなく、我々の周りには一部の識者やジャーナリズムにより造られた、様々な常識とされているものがあるが、こういったものに対しても是非とも疑いの目を持って頂きたい。テレビなどは年中、“正月番組”を放映しているが、彼らが世論を形成していくのだからなおさらである。

 本書の特徴として、著者は、明らかに市場原理主義に反対の立場であるが、単なる反資本主義ではなく、よりうまく資本主義を運営すべきであるという立場である。(「資本主義はいろいろ問題があるにせよ、それに勝る経済システムはないp336」)従って、世界経済の常識、本書では主に市場原理主義者によって形成されてきた常識を単に批判するのではなく、リーマンショックで明らかになってきた自由市場資本主義の行き過ぎをどう是正し、解決するかということにも言及している。具体的には、本書のむすびに「世界経済はどう再建すればよいのか」と題して8つの原則が示されている。但し、この8つの結論を導くために23の嘘があるという論理にはなっておらず、関連性はある程度認められるものの、少し無理に解決策を持ってきた印象は拭えないだろう。

 以下、少し論点になりそうな点について言及したい。 

 まず、皆さんの議論にもなった「教育の向上そのものが国を富ませることはない」(p242)ということに関しては、識字率や途上国の事例などの単純な比較論やいくつかの特徴的な数字を外面的・表面的になぞって、国の発展とは関係ないという議論の進め方をしているが、教育の中身を突っ込んで分析したものではなく、また、どこが問題なのかの原因追求もなされておらず、なんとなく中途半端な議論になっているようにも思える。

 また、著者は、我々人間が天使であれば、社会主義は成功していただろうが、一方では、短期的自己利益の追求のみならず、信頼、誠実などに対しても報いることができるシステムにすべきであるとする(p340)。そして、いわゆるトリクルダウン理論(冨者が富めば貧者にも冨が自然としたたり落ちる)を事実に反すると主張する(p189)。一方、?小平は先富論(一部の可能な者・地区から先に裕福になれ。そして落伍した者を助けよ)を展開し、改革開放政策の中心的な政策として採用されたことは皆さんご存知の通り。そして、予想通りというか、確かに大きな経済格差が生まれたが、これにより中国は飛躍的な発展を見せ、依然格差は大きいものの、今では内陸部にもその効果が波及してきているが、本書と関連してその行方が注目される。

 中心的な問題として、社会主義よりはましな資本主義をどう運営していくべきか?これに対し原則1に「その資本主義がどういうものになるかは、私たちの目標、価値、信念次第ということになる」とあるが、これは著者が本来考えて問題提起をするべきではなかったか?少し残念な気がする。(平成23年4月16日 文責:管理人)

管理人より、以下23の嘘と著者の主張を記載しておきます

(1)市場は自由でないといけない→自由市場なんて存在しない

(2)株主の利益を第一に考えて企業経営せよ→株主の利益を最優先する会社は発展しない

(3)市場経済では誰もが能力に見合う賃金をもらえる→富裕国の人々の大半は賃金をもらいすぎている

(4)インターネットは世界を根本的に変えた→洗濯機はインターネットよりも世界を変えた

(5)市場がうまく動くのは人間が最悪(利己的)だからだ→人間を最悪と考えれば最悪の結果しか得られない

(6)インフレを抑えれば経済は安定し、成長する→マクロ経済が安定しても世界経済は安定しなかった

(7)途上国は自由市場・自由貿易によって富み栄える→自由市場政策によって貧しい国が富むことはめったにない

(8)資本にはもはや国籍はない→資本にはいまなお国籍がある

(9)世界は脱工業化時代に突入した→脱工業化時代は神話であり幻想でしかない

(10)アメリカの生活水準は世界一である→アメリカよりも生活水準が高い国はいくつもある

(11)アフリカは発展できない運命にある→アフリカは政策を変えさえすれば発展できる

(12)政府が勝たせようとする企業や産業は敗北する→政府は企業や産業を勝利へ導ける

(13)富者をさらに富ませれば他の者たちも潤う→冨は貧者にまでしたたり落ちない

(14)経営者への高額報酬は必要であり正当でもある→アメリカの経営者の報酬はあきれるほど高額すぎる

(15)貧しい国が発展できないのは起業家精神の欠如のせいだ→貧しい国の人々は富裕国の人々よりも起業家精神に富む

(16)すべては市場に任せるべきだ→わたしたちは市場任せにできるほど利口ではない

(17)教育こそ繁栄の鍵だ→教育の向上そのものが国を富ませることはない

(18)企業に自由にうあらせるのが国全体の経済にも良い→企業の自由を制限するのが経済にも企業にも良い場合がある

(19)共産主義の崩壊とともに計画経済も消滅した→わたしたちは今なお計画経済の世界を生きている

(20)今や努力すれば誰でも成功できる→機会均等だからフェアとは限らない

(21)経済を発展させるには小さな政府のほうがよい→大きな政府こそ経済を活性化できる

(22)金融市場の効率化こそが国に繁栄をもたらす→金融市場の効率は良くするのではなく悪くしないといけない

(23)良い経済政策の導入には経済に関する深い知識が必要→経済を成功させるのに優秀なエコノミストなど必要ない

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加護野忠男著 「経営の精神」 生産性出版2010年3月

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 加護野さんは石井淳蔵(流通大学)さんとともに雑誌「プレジデント」のコラム(経営時論)の中で、それまで日本の発展に貢献したと思われる諸制度、例えば人事制度や労働慣行を捨てる一方、株主資本主義を鮮明にし、新しい会計制度やリスク管理制度などを導入したことで日本企業の経営がおかしくなったといった趣旨のことを連載されている。また、神戸経済同友会設立60周年記念のセミナーにおいても(2007年1月)、加護野さんは「経営の精神―失われたものを取り戻すには」をテーマにお話をされるなど、様々なところで、本書にある問題提起、即ち、最近の日本企業がバブルの崩壊過程に行われた改革やグローバルスタンダードの名の下に制度化された様々なルールなどにより、これまで日本企業の経営を支える大切なものを失ってきたのではないかといったお話を繰り返されている。

 一方、今回、この読書会に参加できなかった崎島君から、加護野教授の議論は理解できるとしても、現下のグローバリゼーションから逃れられない以上、今回の議論とは別の論点が必要ではないかと言った趣旨の意見を頂戴している。蓋し、本書では、日本的経営ないし日本の企業文化の良さを証明し、「日本的経営のやり方を入れていかないと資本主義経済や企業経営はうまく行きませんよ!」と言った主張をするロジックにはなっていない。

 ところで、経営の前提となる文化や仕組みが異なる他の国々で、日本的なものを活かすことができるのだろうか?

 前回、お話した内田幸雄さんの「日本の会社はアマチュアリズム」(マネジメント社)などで詳しく論じられているが、日本企業では、学校を出た同期が、機会均等を前提に入社、一通り、ジョブローテーションを経てゼネラリスト(ここではアマチュアと言うことになる)への道を歩むことになるが、米国などではビジネススクールなどでMBAを取得し、20歳代の重役が一事業部門や会社を専門的に統括するといったことが一般的となっている。報酬は大きな格差が生じるが、プロフェッショナルな仕事を担っている以上、能力や実績に応じて、ある意味で正当に分配されるというのが一般的な企業風土の中で、いかにも日本的な同一賃金制度を持ち出すことは極めて困難である。海外進出企業の苦悩のひとつとなっているが、同じアジアであっても、中国人は米国人に近く、能力のあるプロはより高い報酬を狙って転職をしていく。こういった中で、日本企業の伝統は素晴らしく、世界経済の仕組みやグローバル企業のやり方がおかしいと言うだけなら、現在の閉塞感を打開する解決策としては十分ではないだろう。

 先日、アテネ五輪でサッカーの日本代表監督だった山本昌邦さんの話をお聞きする機会があった。氏によるとサッカーの優れた選手達には4つのものを持っていないといけないそうである。最初の3つは、「技術」と「体力」そして「戦略」で、プロなら皆、相当な水準であるわけであるが、より傑出した選手というのは、この3つ以外に、何かを追い求めようと普通の人ができないくらいの「努力」を最後に挙げておられる。しかも、これら4つは足し算ではなく、掛け算の関係にあり、例え、最初の3つが優れていても、最後の努力を伴わないと発揮されるべき力は0となってしまう。ところで、プロの選手は、共通して、負けずぎらいで、自分で築きあげる能力と高い目標をもっていることもあって極めて個性的でそれなりの自信家でもあるが、他人の意見を簡単には受け入れようとしない中田選手のような一匹狼(笑)、、、山本さんによれば、中田選手は先ほど申し上げた「努力」の天才なのだそうだが、、、こういった選手をどう納得させ、リードしていくか?日本の伝統的な企業とは全く異なったリーダーシップが要求されるのではあるが、山本さんはそれを実践してこられたことになる。

 リーダーシップに関しては二つのアプローチがある。まずは、何度か読書会で取り上げた金井壽宏さんのような独特の手法で、具体的には、心理学を応用し、いわゆる暗黙知を形式知に置き換え、誰でも一定レベルまでのリーダーシップを習得し発揮できるような方法を探究されている。一方、安岡正篤さんや伊藤肇さんは中国の古典、四書五経などを中心に人間の徳に訴える。こちらの方は暗黙知を扱うことになるが、今回の加護野さんの議論はどちらかというと、この暗黙知に近い領域を対象にし、これを三つの精神、即ち、営利精神や企業精神に市民精神を加えた三つの精神、或いはこれらのバランスで捉えようとする。特にこの3つの精神のどれが重要と言うのではなく、並列に並べたというところが大変面白い。

 本書では、功利主義的な営利精神、、、「ベニスの商人」に登場する有名な金貸しの冷徹に利益を追求する姿をイメージした方も多いと思うが、古典派経済学ではこの営利精神、即ち、利潤極大化が大前提となっている。

 市民精神については、マックス・ウェーバーの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の議論、即ち、反資本主義的なカルビン派のプロテスタントの倫理、市民精神が資本主義成立の前提であることが本書で改めて強調されている。日本が西洋以外で最初に資本主義が発達したのは、江戸時代に進展した貨幣経済と全国規模の流通網に加え、「理を求めて、利を追わず」といった武士道精神、商人道に代表される倫理観があるからであろう。

 ところで今から100年前にシカゴでポール・ハリスやシルベスター・シール等4人が設立したロータリークラブは"Oneprofits most who serves best"(最も良く奉仕する者、最も多く報いられる)という理念を基に、社会奉仕活動を前提とした世界的組織であるが、これなどは市民精神の最たる例であると言えるだろう。

 最後の1つが、ゾンバルトの議論を持ち出し、ユダヤ人がもたらしたとされる旺盛な企業精神が不可欠であるとするもの。尤も、利潤を追求すると言っても、皆が同じような動きをした場合、生み出される利益は殆ど期待できないが、常に他の人と違うニッチを探し出し、果敢にその分野にチャレンジするシュンペーター流のイノベーションを生み出すのが、この企業精神である。

 本書の構成を振り返ってみよう。まず、第1章の「企業の存在意義を考える」では企業の目的を利潤追求とするのは限りなく間違いであると喝破し、第2章がこの3つの経営精神について書かれているが、いずれも、現下の問題を捉える上での準備、前提と言う位置づけである。第3章で日本での3つの経営精神の実例、、、ここでは成功例となるが、、、を紹介しながら、議論を展開し、第4章においては、グローバルスタンダードの名の下、これらの3つの経営精神が劣化、やがて、暴走していく様を描く。そして、最後の5章でこれらのどうやって復活させるか処方箋を示す。(管理人注:処方箋として「?厳しい競争にさらす?事業の絞り込み?経営精神の可視化?経営者の自信の回復?従業員の企業へのコミットメントを高める」を揚げ、内部統制制度などは即刻廃止するよう求めています。)

 尤も、この3つの精神だけで議論を展開することとは少し無理があると思われること、また、企業精神を神戸の鈴木商店と兼松の例だけで説明してよいのかと言った問題はある。また、市民精神など、我が国のものと他国のものとはどう違うのだろうか?などと考えてみることも重要である。

 とは言え、皆さんの周りに起こっていることや、勉強したことをこの3つの精神を梃子に分析してみても面白いと思う。

 経営上の最大の関心事は、人を動かすことにあるが、営利精神とか、お金だけでは人は動かせないと言われが、例えば、こんな話を思い出す。

 現在、社員は頑張っても賃金カットや場合によっては解雇もされることも多くなっており、会社との関係が希薄となりがちである。特に若い世代に多いようであるが、さほど給与は上がらないのに責任だけとらされる管理職になるのは嫌がる傾向があるらしい。本来、営利と関係なさそうな学校の先生でも、やはり、管理職になりたくないと言った話を聞くことも多い。一方、ノルウェーでは、学校の先生の処遇を給与の高い業種と同じ水準にしたところ、優秀な先生が学校に集まり、教育レベルが一気に上がったという報告もなされている。これらは営利精神、市民精神、企業精神のどれが作用したのだろうか?

 少子高齢化、人口と3つの精神について考えてみたい。例えば、合成の誤謬と言ってよいのか、負のスパイラルと言って良いのか、営利精神の観点から、人減らしを行ったり、人件費を削ったりすると、国民全体の購買力・消費が落込み、モノが売れず、売上や利益はさらに落ち込む。従って、合理化を断行すると、さらに、経済が悪化すると言うことになる。

 戦後の高度成長期の日本はそうではなかった。社員のガンバリが、好調な企業業績を産み、その結果、毎年のように社員への報酬が引き上がったこともあり、消費も活発で、企業業績はさらに好調となっていったのである。これらの2つの事例では、3つの精神のバランスはどうであったか?

 少し話は横道のそれるが、少子高齢化に関連して、同志社大学の林敏彦さんの人口オーナス論が興味深い。この理論では、日本の1人当たりGDPの増加がほぼ人口変動だけで説明できるという分析を行い、日本経済は人口が1%上昇すると、1人当たりのGDPは1.93%上昇する構造を持つという結論を導き出す。この理論を前提にすると今後の高齢化社会では逆のことが起こる。即ち、2053年には人口は9,000万人、高齢化率が40%、人口減少率は30%ということが予想されているが、この場合、1人当たりのGDPは実に58%も下がってしまう(1970年の水準に匹敵)。この人口オーナスの時代においては、3つの精神をどうバランスをとって国の活力を維持していくのか?

 (管理人注:オーナスは英語で「重荷」を意味し、人口が経済発展にとって重荷となった状態をさす。生産年齢人口が急減し、同時に高齢人口が急増する状態。反対語は「人口ボーナス」) 

 これを中国にあてはめて考えてみよう。ご存じの通り、中国は一人っ子政策をとっており、人口は2015年あたりがピークで、このころから、人口オーナスの時代が始まる。即ち、子供が成人して、生産年齢になった時、自分の2人の親とその親(祖父・祖母)4人の合計6人を支えなくてはならないのである。山崎君の話にもあったが、中国は現在、一種のバブルが発生しており、実需を伴わない買い占めが起こっているなど、個人主義が強く、その意味では市民精神において課題を抱えているように思えるが、この極端な少子高齢化の時代にあっては、営利精神や企業精神だけでは立ち行かないであろう。

 ところで、川口君から3つの精神を活かすには、何よりも希望が必要ではないかと言う主旨の話があったが、まさに、その通り。先の少子高齢化といっても必ずしも負の影響ばかりではない。例えば、人口が少なくなることにより、それを乗り切るべく、技術が進むかも知れないし、また、そう言ったこと(技術革新)を前提にするまでもなく、人口の減少率ほどGDPが減少しないとすれば、1人当たりのGDPについては、寧ろ、上昇し、今より豊かな暮らしができるという絵も描けるだろう。

 ところで、日本は国土の7割が森林で、これは先進国ではフィンランドにわずかに及ばないが2位で、英国などは10%程度しかないのである。面積の絶対値でも世界で23位となるが、日本人は昔から、鎮守の森や里山など、森を大切にしてきたのである。これも、将来に亘って強みとなる可能性がある。但し、国有林や地方自治体の所有が3割に過ぎず、7割が私有地であるが、国全体として森林をどう活用し守っていくか今後の課題と言えよう。

 さて、次回のテキストとして、ハジュン・チャン著の「世界経済を破綻させる23の嘘」(徳間書店)を取り上げたいと思っているが、主流となっている経済学では半ば常識とされている“定説”を冷静に検証し、誤信を廃すとともに、資本主義をより賢明に機能させるための方策を具体的に提言されているので、皆さんも、将来に対して別の見方を持つことができるかもしれない。(平成23年1月15日 文責:管理人)

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