本四海峡バス(株)で働く従業員は、ほとんどが明石海峡大橋の開通による企業閉鎖や縮小に伴う離職船員であったため、運転士・整備士の全員が海員組合員として組織されていました。
 この闘争は、再三の諫言を無視し、現場不在の組織運営を続ける海員組合を、1999年7月30日に、当時の海員組合員58名全員が脱退し全港湾に加入したところ、会社は「ユニオン・ショップ協定の履行を求める強い要請が海員組合からあった」として、分会の3役3名を解雇しました。さらに、全港湾否認による団交拒否を表明。
 そして、会社と海員組合が一体となり、会社権力を駆使した卑劣な全港湾潰しが始りました。この会社と海員組合がしかける全港湾潰しは、「全港湾組合員は差別される」ということを、全従業員に知らしめるため、違法承知で公然と不当労働行為を繰り返すというものです。それは今も繰り返されています。
 3名の解雇、団交拒否、本社逃亡から熾烈な闘争が始り、5年目に突入しています。その間、海員組合は筆頭株主(55%所有)になり、会社役員を派遣、本社事務所を海員ビル(海員組合関西地方支部)内に移転するなど、会社を管理下に置きました。会社は、絶対筆頭株主である海員組合の意向に従い、労働組合(全港湾)排除の不当労働行為を続けています。
 しかし、私たちは全港湾全国の仲間と地域の働く仲間に支えられ、二度に及ぶストライキと数え切れない抗議行動で反撃を繰り返しました。さらに、裁判や労働委員会においても、すべての訴訟と申立で全面勝利を勝ち取りました。全港湾本四海峡バス分会は「正義の団結」を守り抜き、会社と海員組合を追い詰めています。
 2003年2月27日に、「解雇無効」「全港湾は団体交渉の地位にある」とする「最高裁決定」が下された今も、会社と海員組合は、3名を職場に戻さず団交拒否という脱法行為を続けています。
 私たち全港湾本四海峡バス分会は、正義が正義であるために、そして、正しいことを正義として実現さすために、この悪行を粉砕する闘いを、闘い続けています。
本四海峡バス闘争

闘争の歩み       「闘いの勝利へ!」

海員組合脱退!全港湾神戸支部加入!

 本四海峡バス(株)は明石海峡大橋の開通に伴い、旅客船会社の閉鎖縮小により離職を余儀なくされた船員等の再就職先とすることと、旅客船に代わる公共交通機関として設立された。ほとんど全員が元船員の為、再就職先の本四海峡バス(株)においても海員組合が組織(ユニオン・ショップ)することになった。船員時代より現場不在の運動方針に疑念を抱いていた。再就職先の本四海峡バス(株)においては、現場不在が一層顕著になる一方、会社との癒着があらわになり当時の海員組合員58名全員が「自分達の為の、自分達の組合を創ろう」と、決意団結し海員組合を脱退、全港湾神戸支部に加入した。1999年7月30日のことである。

闘争勃発

 
本四海峡バス分会結成式当日に会社は、海員組合のユニオンショップ協定履行の強い要請を受け、海員組合から首謀者として除名された分会3役3名を解雇、さらに全港湾を否認し団体交渉拒否、本社逃亡という暴挙から過酷な闘争が始まった。1999年8月9日。

闘いの経過

 会社と海員組合が一体となり「復帰オルグ」と称した卑劣な恫喝が始まった。会社権力を駆使し解雇の威嚇の下に「除名=解雇」「全港湾を認めるくらいなら会社解散もじさない」と公言し、分会員本人はもとより家族にまでも卑劣な恫喝を繰り返した。さらに知人や元上司にはたらき掛け分会員に全港湾脱退を迫った。壮絶な全港湾脱退オルグが来る日も来る日も繰り返された。
 こういった状況下で、分会は支部と力を合わせ、大磯・徳島の深夜集会に始まり数え切れない集会を繰り返した。
 11月27日、本四海峡バス「たたかいの勝利へ!11・27総決起集会」とデモ行進で反撃の烽火を上げた。一方では、陸運局や労基署・株主などあらゆる関係先への抗議や申入れ、関係各地でのビラ配布行動などに取り組んだ。結果、2ヶ月以上に及んだ本社逃亡に終止符を打たせ、海員組合費のチェックオフを止めさせた。1999年暮れのことである。

 2000年初頭、「団結」を力に闘う体制の構築を後押しする形で、神戸地裁より「3名の解雇は解雇権の乱用であり解雇は無効、労働契約上の地位にあることを仮に定める」と、被解雇者3名の「地位保全の仮処分決定」(1月31日付)が下され、さらに「全港湾が団体交渉の地位に在ることを確認する」との「仮処分決定」(3月14日付)も下された。この決定は、会社・海員組合の主張を全て退けたものであった。我々分会は「正義」の実在を確信し、反撃への礎を築いた。2000年の春であった。

 会社と海員組合の労働者の権利を公然と蹂躙する非道な全港湾つぶしに対し、全港湾は「一人の組合員に対する攻撃は全港湾全体に対する攻撃」として、全国闘争として闘うことを決めた。さらに、神戸地区労を中心とした地域の労働組合は「労働者には団結する自由と権利があり、会社には団体交渉の義務がある。労働組合自らがそれを蹂躙し、労働者を恫喝し、裁判や労働委員会命令を無視いている」として結集、地域の闘いとして支えるために「本四海峡バス闘争を支援する会」を結成した。2000年の初夏、無法への反撃の炎は、地域の労働者にも飛び火した。全港湾本四海峡バス分会は、正義を貫き闘うことによって、闘う力を身につけていった
 
 「このままでは会社が全港湾に屈するかも分からない」海員組合は、会社の筆頭株主(55%所有)になり、坪根氏(元海員組合関西地方支部支部長代行)を代表取締役専務、井出、井上両氏(海員組合役員OB)を常務取締役に就任させた。海員組合は、会社の全権を掌握、本社を海員組合関西地方支部のビル内に移転させ完全に管理下に置いた。職場においては海員組合への復帰者優遇政策が公然と推進されるようになった。また、会社権力の威嚇下での「所属労働組合を問う」坪根専務による個人面談を皮切りに、不当な懲戒処分・転勤等を実施し、強権による全港湾の排除が実行に移された。
 全港湾対策の強化が図られるなか、海員組合への復帰を坪根氏(当時海員組合関西地方支部支部長代行)に約束させられていた徳島営業所の仲間2人が、「仲間を裏切ることはできない」と海員組合復帰の撤回を表明。坪根専務は「信義に反する」と、両名に出勤停止の懲戒処分を発した。しかし、2人は仲間の「団結」に支えられ、会社と海員組合の違法で卑劣な嫌がらせを跳ね返した。
 会社は徳島営業所勤務の両名のうち古川副分会長に、自宅からの通勤がゆうに5時間を超える通勤不可能な洲本営業所(淡路島)への不当な転勤を強いた。しかし、両名の意志は揺らぐことなく正義の闘志は衰えを知らない。

 会社の両名に対する傍若無人なやり方にストライキの機運が高まるなか、地労委において2000年6月、「会社は、全港湾との団体交渉に誠意をもって応じなければならない」とする命令が下った。労働委員会命令を受け入れず無視する会社と海員組合(筆頭株主)に対し、同年7月20日会社の正常化を目的に「法律に従え!」と、会社と海員組合がスト対策を豪語するなか怒りのストライキを決行した。会社は海員組合員で「スト破り」要員を配置したが、「7・20ストライキ」は十数便の欠便と大幅な遅延発車便などをもたらし、予想以上の大勝利を手にした。この勝利を皮切りに全港湾の澎湃波濤の反撃が始まった。
 全港湾の反撃は続き、本社のある海員ビルへの抗議行動や座り込み、関係先への申入れ、ビラ配布等の宣伝行動などに精力的に取り組んだ。同年11月には「本四海峡バス闘争、いざ勝利へ!11・9総決起集会」に各労組や団体などから1,000人を超える仲間が集まり、会社と海員組合への抗議集会とデモ行進は大成功をおさめた。分会は、働く仲間の力強い支援を受け「いざ勝利へ!」と闘志を高揚させた。

 近藤・古川両名の懲戒処分以降、会社は、何の意味もない懲戒処分を乱発するという体たらくを繰り返していた。2000年12月に中労委の和解勧告があり、全港湾と海員組合によるトップ折衝が何度か持たれた。折衝は平行線をたどり和解折衝は打ち切られたが、2001年8月、海員組合井出本組合長の姿勢変換表明を受け、再度和解協議の席に付くことを中労委において両労組トップが確認した。何度かの折衝において解決案が模索されたが、海員組合が「全港湾の認知、3名の復帰」は受け容れられないとして決裂に至った。我々分会は、違法を推し通す労働組合(海員組合)に決意を新たにした。

 2001年10月1日、神戸地裁は「3名の解雇は違法無効、全港湾は団体交渉の地位にある」として、会社・海員組合の違法行為を厳しく指弾した。さらに、2度目の団交拒否救済と不当懲戒処分の救済申立てに、地労委から救済命令が下された。全港湾は会社と海員組合に判決と命令の履行を強く求めた。海員組合の傀儡会社は言葉にも窮した。黒幕の海員組合は「中央決定」の一点張りで、我々の脱退原因の端緒である現場不在が一層顕著になった。同年11月「本四海峡バス闘争、勝利をこの手に!11・21総決起集会」を、全港湾と働く仲間の正義の支援を受け成功させた。集会宣言「私たちは決して負けない!なぜなら、労働者には否定されてはならない権利があり、勝つまで闘うからだ!」を採択し、不退転の決意を前進させた。

 裁判及び労働委員会で争った全ての事件について、司法・行政は「会社と海員組合の一連の行為は、違法不当である」と判断を下した。我々はこれまで判決と命令の履行を再三にわたり要求したが、会社は全てについて控訴・再審査を申し立てるに至った。同年12月8日、司法・行政の判断を無視し違法不当を続ける会社と海員組合の傍若無人な姿勢に怒りの第二派のストライキを決行した。分会自からの意志と力で「12・8第二波ストライキ」を打ち貫き、不撓不屈の「団結」を知らしめた。3度目の凛然とした冬であった。

 2002年1月「会社は全港湾との団体交渉に誠意をもって応じなければならない」とする中労委命令が下された。命令の履行を求め会社と海員組合に抗議と申入れを繰り返した。会社と海員組合は労働委員会の最終命令をも無視し、行政命令取消し訴訟を東京地裁へ提起した。
 同年4月、「解雇無効・団交地位確認」控訴審裁判が結審、大阪高裁は和解を勧告した。大方の予想を裏切り会社と海員組合は、和解協議に応じる意向を表明したが、すでに判決が出ているにもかかわらず会社と海員組合は、前回と同様「全港湾は認めない、3名は戻さない」ことを、表明した。和解は当然打ち切りとなった。判決日が7月30日に決まった。大阪高裁は会社・海員組合の控訴を全て棄却する判決を言い渡した。
 奇しくも7月30日は、我々が海員組合を脱退、全港湾に加入した日である。我々全員が決意を固め「団結した日」であり、誰もが「勝利を確信した日」となった。ギラギラとした4度目の夏である。

 「3名の解雇は無効」「全港湾は団体交渉の地位にある」とする高裁判決を受けて、社長宅や本社への「申入れ」に取組み、淡路島において5,000枚のビラを各戸配布した。会社は慰謝料と未払い賃金を支払わざるを得なくなった。王手を打たれた会社と海員組合は、「最高裁上告」を逃げ場所に選んだ。
 上告から約1ヵ月後の9月4日に、元海員組合九州関門支部支部長であった玉城氏が労務担当常務に就任した。会社と海員組合が新たな闘争局面を演出した。井上労務担当常務は、事実上の更迭となった。

 同年9月には「近藤・古川への懲戒処分は違法不当である」とする控訴審判決も大阪高裁から下されるに至っている。現在2002年10月21日、闘争は4年目に突入している。会社と海員組合は「3名の解雇は違法無効、全港湾は団体交渉の地位にある」「近藤・古川への懲戒処分は違法無効」とする両控訴審判決を不服として、最高裁への上告受理申請を行った。大阪高裁判決は、事実上の確定判決で最高裁の却下待ちである。中労委の行政命令取消し訴訟(東京地裁)も10月24日に結審を迎え、さらに遅くとも判決日に「中労委命令に従え」とする「緊急命令」が発せられる。全てが時間の問題となった今も、玉砕主義の残滓のごとく、会社と海員組合は姿勢を変えられないでいる。我々分会は、最終局面を迎えつつあることを確信し、「団結」が最強の武器であり堅牢な砦であることを肌で覚えた。

 同年の10月の終わりに、第3回本四海峡バス分会定期大会を開催した。大会において「強権に屈しない『正義の団結』を貫くかぎり勝利は揺るがない」ことを確認し、「闘争が最終局面を迎えたいま、働く仲間と共に一層強固な『団結』を持って勝利するまで全力で闘い抜く」とする大会宣言を採択した。猛夏の余韻を残した晩秋となった。

 11月初頭、冬季一時金要求の団交開催を求めた。会社は、「海員組合の意向もあり団交に応じられない」ことを表明した。話の入り口で拒否する玉城常務の就任以来の一貫した姿勢である。玉城常務が就任以降、「全港湾は認めない」とする海員組合方針の堅持を鮮明にする一方、従業員には「全港湾を認めると会社が潰れる、潰す」と、過剰に吹聴した。
 真冬の足音がする11月25日、判決確定を待たずして、解雇者3名の「社会保険資格」が解雇時に溯って復活、海員ビルにおいて保険証を受け取った。じつに違法解雇から1,203日ぶりである。会社は、最高裁上告を理由に社会保険資格復活を頑なに拒んでいたが、裁判判決を受けた社会保険事務所の指導(社会保険資格復活)もあり、会社は社会保険資格の遡及復活を余儀なくされた。これは、分会が「正義の団結」を守り抜いた結果であり、慇懃無礼にすべてを拒絶する玉城流戦術に風穴を開けた瞬間であった。

 2002年の最後に「海員組合は労組法上の使用者にあたる」とする神戸地裁判決が、言渡された。判決を受けて、海員組合へ団交開催の申入れをおこなったが、「海員組合中央の方針なので、関西地方支部として組織決定に従う」と海員組合関西地方支部井下副支部長が明言し、申入書の受け取り自体を拒否した。
 しかし、これは、会社を影で操り不当労働行為のかぎりを尽くしてきた海員組合を、白日の下に引きずり出す第一歩となった。正義と真実を追及するみんなの力が、海員組合脱退に始まる闘争の核心部分の扉を抉じ開け、海員組合は深淵の淵に立った。

 2003年に入ってすぐ、中労委の団交応諾命令を全面的に支持する判決と、「判決確定までの間、全港湾との団体交渉に応じなさい」とする緊急命令(不履行1日に付最高10万円の罰金)が下された。私たちは、東京地裁の判決の受入れと緊急命令の履行を会社に迫った。坪根専務が、株主や関係先と連絡をとり社内で検討するから「まったれや」と、焦燥を口から吐き捨てた。
 私達全港湾本四海峡バス分会は「まったれや」の言葉どおり、海員ビルの玄関先で座り込んで待つことを決めた。1月20日の厳寒の日であった。海員ビル前座込闘争は、2月末日までの40日間におよび、参加人数も800名を数えた。全港湾神戸支部と本四海峡バス分会は、WE SEEK JUSTICE!正義を貫く団結と闘う姿勢を身を持って確認し、海員ビル前座込闘争は大成功を収めた。
 身も凍る厳寒から陽光が初春を告げ、大樹と成るべく幼木はしっかりと根を張り、「正義の団結」が神々しい新緑をまとった。

 海員ビル前座り込み最終日の2月28日、会社・海員組合の上告を棄却する最高裁決定(2003年2月27日付)が送達されてきた。「解雇無効」「全港湾が団交地位にある」とする判決と、さらに「近藤・古川両運転士への懲戒処分無効」が確定した。会社は、判決受入の「申入れ」に対し、同14日、神戸タワーサイドHにおいて回答した。内容は、3名の社員の地位は認めるが「出社に及ばず」としたうえで、「仕事をしないのだから基準内賃金を支払う」、「2名の懲戒処分は取り消された」とした。
 最高裁決定をも蹂躙する傲岸不遜な会社の対応に、本社事務所への抗議の申入れをおこなった。事務所前の通路で騒乱状態となり、玉城常務は対応に苦慮し取り乱した。会社は警察へ通報したが、駆けつけた警察官に逆に話合いに応ずるようたしなめられる始末であった。会社は、否応無しに海員ビル内の会議室での対応を余儀なくされた。
 「海員組合の意向があって全港湾は認められない」とする会社は、全港湾の追及に「3名の処遇について社内で検討中であり、3名には待機してもらっている」と、言葉を濁し週末の回答を約束した。同時に会社は「労々間の中央レベルでの政治解決を是非お願いします」と申し出た。週末の回答は「団体交渉は持たない」「3名は出社に及ばず」「中央で政治解決を」という、司法判断を無視する内容であった。同年4月4日、会社の団体交渉と称する折衝が神戸タワーサイドHでもたれた。会社は「社内に全港湾組合員は認識できない」「労使関係がないので基本協定への調印はできない」との姿勢であった。全港湾側は「交渉相手を認めない団体交渉はありえない」として、席を立った。
 最高裁決定が下されても、会社は一貫して「争議について海員組合に全権を委譲しているので、会社だけの判断ではどうにもならない」とする愚行姿勢に固執した。
 この間、全運転士等を対象にした「会社正常化署名」に取組み、海員組合員の約半数が署名した。署名を拒んだ人も全員が「全港湾は正しい」「会社と海員組合はおかしい」「海員組合は信用できない」「判決に従って労使の正常化をするべきである」と、異口同音に憤懣をあらわにしていた。また、会社から海員組合員個人へ「署名しないで欲しい」「みんなが署名すれば会社が立ち行かなくなる」と、脅しも含まれた電話があったことも多くの人が明かした。会社と海員組合の全港湾差別や恫喝が、海員組合員への統制にそうとうな影響を及ぼしている。しかし、恫喝による統制は、まやかしであり崩壊への序曲であることを歴史が証明する。
 全港湾本四海峡バス分会はストライキと東京行動を視野に入れた闘いを展開する方針を確認した。

 「最高裁決定」後の会社の一連の対応に対し、全港湾中央として、海員組合中央に「会社指導」の申入れをおこなうこととなり、海員組合の対応次第で国土交通省等への申し入れをおこなうこととなった。全港湾は、2003年4月8日「本四海峡バス争議に関する最高裁判決履行を求める申し入れ」を、海員組合に申し入れた。この席において、海員組合は「話し合うことはやぶさかではない」旨の返答をおこない、にわかに中央レベルにおける和解協議の話が持ち上がった。「最高裁決定」をも事実上無視する会社と海員組合の姿勢に、ストライキの機運が高まるなかでのことであり、和解協議について当然議論は白熱した。全港湾中央の和解の時期に来ているとの判断に対し、分会と神戸支部は、会社と海員組合の現地での姿勢を見るかぎり、まだ和解の時期ではないとの判断を示した。しかし、神戸支部・分会も争議の解決を拒むものではなく、支部・分会の意思を明確に伝え、中央レベルにおいて和解解決の道を探るところとなった。
 神戸支部と分会は、決裂も十分考えられる和解協議であることを認識し、闘争体制を維持しつつ協議を見守ることとした。

 こういったなか、7月1日付で片田運転士が復職し、職場に元気な顔をみせた。彼は、事故で運転免許取消の処分を受け依願休職していた。運転免許を再取得して仲間の待つ職場へ帰ってきた。これは、なかなか嬉しいものである。みんなの顔がそう言っていた。

 さらに、同年7月10日に、3名の解雇期間中の賃金についてB/UP分や未払い一時金の支払を求め神戸地裁に提訴し争っていた裁判判決が、こちらの請求をすべて認める「完全勝利」の内容で下された。
 これまでの会社の対応をみるかぎり、お金を供託し仮執行停止手続きをとっての控訴は必至であるとの判断から、仮執行停止手続き前に強制執行に打って出た。会社は、まさか強制執行に来るとは思わなかったようであった。玉城常務は取り乱し大きな声で饒舌をふるった。しかし、執行官には従わざるを得ず、当日の執行分の残りを明日の午前中に支払う約束をした。7月11日会社は、残りの約1,000万円を現金で支払った。玉城常務は「会社は最初から払うつもりでいた」と、ことさら強調したが、控訴するであろう旨をその場で伝えた。しかし、会社は控訴せず判決が確定した。
 すべてを受付けない玉城流戦術も、みんなの「正義の団結」の前に限界をさらす結果となった。そして、すくなくともこの件に関しては、抵抗は無意味であることを会社は思い知った。

 そして2003年10月には、「なかまを裏切ることはできない」と全港湾組合員であること表明したために、会社から不当な配転を強いられていた古川運転士が、洲本営業所から元の徳島営業所へ復帰した。引鉄は「近藤・古川になした懲戒処分は違法無効」とした最高裁決定であったが、3年半に及ぶ本人の頑張をみんなの「正義の団結」で支えきったからである。しかし、会社は不当な配転辞令を取消していない。
 この不当配転問題は全面的な解決とはなっていないが、古川運転士が徳島営業所に復帰した日の10月1日、「正義と勝利は我々の手に!10.1徳島集会」を開き、みんなの団結による勝利決着を確認した。陽射が肌を焼く猛夏が残る一日であった。

 2003年10月31日、11月1日、2日の3日間で、全港湾神戸支部本四海峡バス分会第4回定期大会を開催し、これまでの4年間の闘いを総括した。会社と海員組合の卑劣な恫喝を跳ね返した、みんなの「正義の団結」を守り抜く力と意志が闘いを勝利的に推し進めていること、同時に、それを支える全港湾全国の仲間と地域の働く仲間の力強い支援があることを確認した。そして、海員ビル前座込み闘争の集約をおこなった。さらに、中央での和解協議が決裂する可能性があることをふまえ、長期闘争体制の構築と、多くの課題が積み残されている現状を打破するため組織と運動の強化に取り組んでいくことを確認した。全港湾神戸支部本四海峡バス分会第4回定期大会は、以下の大会宣言を採択して幕を閉じた。

                大 会 宣 言
 
 私たち全港湾本四海峡バス分会は、1月20日厳寒から2月末までの40日間に及ぶ海員ビル前座込み闘争を打ち抜いた。そして、団結と正義と闘う決意を新たにした。
 「3名の解雇は違法無効」「全港湾は団体交渉の地位にある」とする最高裁決定が下された。「全港湾との団交に応じなければならい」とする緊急命令を発しられた会社と、「労組法上の使用者にあたる」と、不当労働行為の当事者となった海員組合は逃げ場所を失った。私たちは「正義の団結」で会社と海員組合を追いつめた。
 全港湾と海員組合の中央レベルの和解協議が進められている。この和解協議の行方は、海員組合の姿勢次第であることは言うまでも無い。私たちは、協議の行方を見守る一方、決裂も視野にいれた闘争体制の維持を継続する。
 そして、私たちは、正義を貫くかぎり、正義と勝利は我々の手にあることを、今、確認する。
 私たち全港湾本四海峡バス分会は、勝利をつかむまで闘いぬく。

2003年10月31日

            全日本港湾労働組合関西地方神戸支部本四海峡バス分会第4回定期大会


 大阪高等裁判所、2003年12月24日、13:15、「本件控訴を棄却する」静寂な法廷で判決が淡々と言い渡された。傍聴席から漏れる喜色のざわめきが、相手側の沈鬱を際立たせた。この判決は、兵庫地労委が「海員組合は使用者にあたらない」とした地労委命令(2001年8月21日付)に対して、2002年12月26日神戸地裁が「海員組合は労組法上の使用者にあたる」とした判決の控訴審判決である。原審を全面的に支持した大阪高裁は、判決において、企業と労働組合の関係について「54.93%を保有する筆頭株主となってからは、対立的立場にあるということはできない」と、本四海峡バス株式会社における海員組合の労働組合性を否定した。
 私たち全港湾は海員組合と会社に「高裁判決を受け入れ脱法行為を是正し、会社正常化による争議解決」を図るよう抗議と申し入れを行った。海員組合関西地方支部執行部は「今やっていることが本当に正しいと思うのか」との追求に、訴えるような眼差しでこちらを見据え沈黙を守った。他方、会社は社長が居合わせ4年半で初めて、社長への直接の申入れとなった。回答期日に会社から全港湾神戸支部に電話で、「中央に任せたほうが解決は早いよ」と、玉城常務は改めて団交拒否の継続を表明した。この判決の上告は、棄却が容易に予想されるなか、海員組合と会社は最高裁への上告を逃げ場所に選んだ。兵庫地労委も追従して上告し、兵庫地労委の姿勢にも問題を残す形となった。上告棄却が決定し判決が確定すると、海員組合は日本で初めて企業の使用者として不当労働行為の当事者となる労働組合ということになる。ことここに至っても、海員組合は3万組合員の総意であるとして全港湾否認姿勢を矜持してやまない。一方、傀儡会社は「罰金やむなし」と、筆頭株主の意向として脱法行為を続けている。
 また、会社側は2003年9月、中労委の「全港湾との団交応諾命令」の取消しを求め、最高裁へ上告した。2004年の春には上告棄却の決定が下されるであろう。このまま全港湾との団体交渉を拒否し続けるならば、会社代表者は日本初の労組法違反の刑事罰を覚悟しなければならない。
 最高裁決定や労働委員会命令を無視し、脱法行為を継続する会社と「使用者の認定」を受けた海員組合の姿に、我々全港湾神戸支部本四海峡バス分会は、本四海峡バス株式会社における唯一の労働組合であることを認識した。北風の咆哮に身を奮わす五度目の冬である。

 2004年3月1日、最高裁判所より上告棄却及び不受理の「最高裁決定」(2004年2月26日付)が全港湾神戸支部へ送達されてきた。
 1999年8月、分会の3役3名の不当解雇と全港湾否認による団交拒否に端を発する本四海峡バス闘争において、会社の団交拒否に対し、全港湾が兵庫地労委に不当労働行為救済(団交拒否)を申し立てた。この最初の申立に対し、兵庫地労委は「会社は誠意をもって全港湾神戸支部との団体交渉に応じなければならない」とする団交応諾命令(2000年6月20日付)を発した。会社はこの命令不服として、中労委、東京地裁・高裁・最高裁へと訴訟を繰り返したが、すべてにおいて敗訴し、この「最高裁決定」で、兵庫地労委命令が最高裁において支持され確定した。このように、労働委員会命令が裁判所によって確定したにもかかわらず、地労委命令を履行しなかった場合は、労働組合法違反として刑事罰が科せられる事になります。
 私たちは、この「最高裁決定」を受け会社に対し、「最高裁決定」に従い団体交渉を開催するよう申入れをおこなうと同時に、本四海峡バス株式会社の筆頭株主(55%所有)である海員組合に対しても、「最高裁決定を真摯に受け止め、筆頭株主として会社を指導しろ」との申入れをおこなった。
 会社の元海員組合執行部の玉城常務は、「労々の問題もありここで解決しても解決できない」「労々の中央にまかしている、海員組合との関係もあり会社として判断できないし、しない」などとして、会社は事実上「最高裁決定」に従わない旨を表明。一方、海員組合関西地方支部は、「申入書」は受けとったが、中央の判断に委ねる旨の返答に終始した。
 労働組合であるはずの海員組合が筆頭株主(55%所有)の会社において、労働委員会命令が最高裁で確定した以降も不当労働行為が公然と続けられている。そして、それが筆頭株主の意向であるという。
 会社は、2003年2月に3名の解雇無効が確定し、3名の本四海峡バスの社員としての地位を認めたが、仕事をさせないというささやかな抵抗を続け、今回の労働委員会の団交応諾命令確定に対しても、「海員組合の中央に委ねている」として、悲愴な抵抗を続けている。
 陽春をはぐくむ日差しが眩い5度目の春である。
判決・命令一覧

裁判・労働委員会チャート

全港湾神戸支部

 2004年6月10日、私達は確定判決(最高裁決定2004年2月26日付)によって支持され、完全確定となった労働委員会の「団交応諾命令」を無視し、団交に応じない会社社長らを労働組合法違反で神戸地検に告発した。
 会社は、再三におよぶ全港湾の「最高裁決定で支持された労働委員会の『団交応諾命令』に従い、団交に応じよ」とする申入れに対し、「海員組合(筆頭株主)に全権を委譲している関係上、現場だけの判断で団交に応じることはできない」などと、5年間続けた子供じみた言い訳を盾に団交拒否を表明した。さらに同年4月22日、全港湾の団交開催を求める抗議申入れに対して、川真田社長みずからが「団交は拒否します」と言明し、違法を正そうとしない無法ぶりを発揮した。また、東京地裁が、同団交応諾命令を適法とする判決と同時に、「判決確定(労働委員会命令取消訴訟)までの間、全港湾との団体交渉に応じなさい」とする緊急命令(2003年1月15日付)を発していましたが、会社はこの緊急命令にも従わず、2004年5月24日、緊急命令違反として、過料(いわゆる罰金)50万円が科せられた。この過料についても、玉城常務は「過料は会社が払うんだよ」と、自省のかけらもなくあっさりと言い放った。他方、筆頭株主である海員組合の関西地方支部井下支部長代行にいたっては、「まともに相撲をとったら負けるのは最初から判っている、だから最初から会社を潰せと言っている」と、らしい発想を披露するしまつです。
労働組合法 第28条(罰則)

 労働委員会の命令の全部又は一部が確定判決によって支持された場合において、その違反があったときは、その行為をした者は、一年以下の禁こ若しくは10万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

 企業倫理が問題にされ、CSR(企業の社会的責任)が叫ばれるなか、団交拒否に対する罰金が科せられ、最高裁において団交拒否が違法であるとされた本四海峡バス(株)は、悪質な確信犯と化し、違法を承知で団交拒否を表明した。
 公益バス事業を営む本四海峡バス(株)のあまりにも社会正義に反する無法に対し、全港湾は労働組合法違反で会社社長ら幹部を刑事告発するに至った。全港湾神戸支部本四海峡バス分会は、会社が無法を止めないかぎり、正義の追求を続けることを再確認した。
 照りつける日差しが、熱い夏を予感させる6度目の初夏であった。 
 2004年11月11日、会社は解雇無効が確定(2003年2月27日付)した3名を「出社に及ばず」とし、「働かないのだから」と賃金を6割にカットするという、最高裁決定をも足蹴にする暴挙におよんだ。この暴挙に対し兵庫地労委は「3名を原職に戻せ」とする原職復帰命令と賃金の全額支払命令を下した。さらに、同月26日神戸地裁は、会社の3名に対する自宅待機措置は違法として、会社に賃金の全額支払いを命じるとともに、「海員組合も不法行為責任を負う」として、3名に対する慰謝料と全港湾に対する損害賠償を「会社と海員組合は連帯して支払え」と命ずる判決を言い渡した。
 私たち全港湾は、同月16日に兵庫地労委の「原職復帰命令」の履行を求めた。さらに神戸地裁判決日(同月26日)に、判決と兵庫地労委命令の履行を求め抗議申入れをおこなった。会社は、全港湾の申入れに対し海員ビル5Fの大会議室で応対するところとなった。その席上で坪根専務は、裁判判決について「海員組合もからんでいるので相談して足並みを揃える」とした。また、3名の扱いについては「争議の根本問題であり、解決していないのに原職に戻しては、中央の和解協議の妨げになるから、復帰させないようにと海員組合に言われている」などと、3名を職場に戻さないのは、海員組合の指示であることを暴露した。また、海員組合に対しても判決の履行を求める申入れをおこなった。不法行為による慰謝料と損害賠償の支払いが命じられている旨を告げ、判決を手渡した。海員組合は対応できずに、「上層部が不在である」と言逃れが精一杯であった。
 私たちは、無法を押し通す海員組合の傀儡会社と化し、無法のかぎりを尽くす会社と、それを組織方針と矜持する海員組合に対し、決意を新たにした。
冬の足音が日増しに力強くなる初冬であった。
「解雇無効の3名は、復帰させないようにと海員組合から言われている」と坪根専務
 2004年12月、3名を原職に戻せとする兵庫地労委命令(2004年11月2日付)の原職復帰命令と、解雇無効確定後の3名に対する自宅待機措置は違法とする神戸地裁判決(2004年11月26日付)が下されているなか、会社は新路線「大塚国際美術館前(鳴門)〜大阪」の開業にともない、3名を職場に戻さないまま新たに5名を採用した。さらに、その後1名を採用し合計6名を採用した。
 私たちは、この会社の暴挙に対し、新路線の開業日である同月17日に始発駅である大塚国際美術館前(鳴門)で、全港湾と地域の働く仲間たちとともに「ふざけるな!」と怒りの拳を振り上げた。大阪とのバス路線開通の記念セレモニーの華やかさが、本四海峡バス(株)と海員組合の不法を際立たせた。阿波踊りと怒りの抗議が錯綜するなかバスは出発した。私たちは、すぐに神戸にとってかえし、海員ビル4Fの本社事務所において、不法行為を会社方針とする暴走に対し、「正義に従え!」と怒りをぶつけた。
 本四海峡バス(株)と海員組合の非道が、私たちの正義をいっそう強くした。私たちは、新たな闘いの準備にはいった。肌を貫く寒風が身をひきしめる1日であった。
ハプニング
全港湾の抗議に対し、会社は警察を呼んでいたが、「あんた達(会社)が話し合いに応じないからだろ」と、玉城常務が警察にたしなめられる場面も
 2005年6月30日、東京地裁は本四海峡バス(株)に対し、「全港湾との団交に応じろ」とする2度目の「緊急命令」を発した。これは、いったんは海員組合に戻ることを承諾していた近藤・古川両運転士が全港湾に留まることを表明したことに対して、2000年5月に「信義に反する」などと、会社が両名に強いた2度の出勤停止処分や転勤などが不当労働行為に当たるとした兵庫地労委中労委の救済命令の取消しを求め、会社側が東京地裁に提訴していた事件の判決と同時に発せられたものである。東京地裁は、会社側の主張を全て斥けたうえで、「本件確定までの間、全港湾との団体交渉に応じなければならない」と緊急命令を発した。緊急命令不履行の場合は、1日最高10万円(最高年間3,650万円)の過料(罰金)が科せられる。
 私たち全港湾は、この緊急命令の履行を求め同年7月8日に団交の開催要求をおこなった。しかし、会社は開催期限の22日の午後になってようやく、電話で日程調整を申し出てきた。27日に旧本社において折衝が持たれるところとなった。全港湾は「命令どおり全港湾を認めて団交をしてはどうか」と申し出たが、会社は性懲りもなく「解決していない現時点で(全港湾)認めての団交はできない」「3名以外の社内の全港湾組合員の存在もわからない」「全港湾とは労使関係がない」などと、これまでの姿勢を踏襲するばかりであった。さらに玉城常務は「中央に任せて、緊急命令の履行は棚上げにしてほしい」などと、臆面もなく願い出た。私たち全港湾は、「これは団体交渉にはあたらない」として、10分程度で席を立った。
 会社は、ここまできても筆頭株主である海員組合に従属し違法を繰り返すという醜態をさらしている。まもなく海員組合にも「使用者に当たる」とする最高裁決定が下されるであろう。
 夏陽が肌を焼く7度目の夏である。