デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (12)初瀬の斎宮と菟田の筱幡
禊ぎ

『日本書紀』によれば天武天皇のときに大来皇女を任命して開始された「斎宮」は初瀬にあったとされ、初瀬川の源流には、斎戒する場所が伝えられています。

天神社の倭笠縫邑
泊瀬斎宮伝承地碑
天神社奥宮 化粧壺 化粧壺全景

初瀬の斎宮はどこにあったのか?長谷にいってみました。「初瀬」とはどこを指すのか?長谷寺門前の初瀬川沿岸が「初瀬」と呼ぶにふさわしい場所のように思えます。アマテラスが初めて降臨したと伝えられる磐座がある與喜天満神社と長谷寺にはさまれた場所です。

 

長谷

長谷の與喜天満神社に向かう「天神橋」から見た長谷寺 五重塔の横に本長谷寺がある

長谷

與喜天満神社 手前が磐座

與喜天満神社磐座 鵝形石

磐座

長谷寺から西に本長谷寺方面を眺める


長谷寺

本長谷寺 朱鳥元年道明上人が天武天皇のために「銅板法華説法図」を初瀬山西の岡に安置したと伝えられる

本長谷寺

商店街は初瀬川に沿って店を並べ直進すれば與喜天満神社に至る

長谷MAP

サルタヒコを祀る白鬚神社 商店街の背後の丘にある


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長谷寺と與喜天満神社の位置(GoogleMapは間違っています
「本長谷寺」とある位置は「長谷寺本堂」で、「本長谷寺」は五重塔の北にある建物です)

與喜天満神社から本長谷寺は初瀬川の西の対岸にあります。商店街の背後に存在するサルタヒコを祀る白鬚神社も意味ありげです。
天武天皇が置いた初瀬斎宮とは現在の與喜天満神社の場所にあり、禊を初瀬川左岸でおこない、西方の現在の本長谷寺あたりを祭祀するのが目的だったと考えることが可能です。
そうだとすると、川の東で禊をおこない西方を祭祀した様式はそのまま伊勢斎宮に引き継がれていきます。
桧原の西方アマテラス祭祀は、初瀬斎宮で様式が固まり、天武天皇の死後に伊勢斎宮にあらためて桧原から移動したと考えられます。

篠畑神社

篠畑神社 参道を上り詰めたところにある拝殿のうしろの落日

『垂仁紀』では、アマテラスはトヨスキイリヒメから離されて、ヤマトヒメに託されます。ヤマトヒメは菟田の筱幡に至り、さらに近江、美濃を経由して伊勢に至り、斎宮が五十鈴川の川上に興されます。後年、『倭姫命世記』などにより肥大していくヤマトヒメ巡行のエピソードです。「菟田の筱幡」だけが最古の文献に名前があるので、行ってみました。宇陀の篠畑神社は小高い丘の上の社殿に参道からのぼると、背後に落日が望めました。桧原と斎宮趾と同様に、篠畑もまた「西にアマテラスを祀る」場所だったのかもしれません。

『日本書紀』には大来皇女が初瀬斎宮で禊をおこない、その後伊勢神宮に仕えたとあるのですが、どうも信じきれません。大津皇子が伊勢の大来皇女を訪れて反逆罪となり、『万葉集』にはまつわる歌が収められています。大和から伊勢まで、しかし姉を訪ねて戻ってくるにはあまりにも遠すぎるように思えます。伊勢ではなく、この菟田の筱幡に大来皇女が仕えており、大津皇子は大和と菟田の筱幡を往復したとすると距離感では納得できます。ヤマトヒメ巡行に名前を残す菟田の筱幡とは初瀬斎宮に続いて東に移動させられた斎宮ではなかったかと思えます。

すると桧原祭祀は天武天皇の代に初瀬斎宮→菟田の筱幡と移り、その死後大来皇女が解任されたことによって改めて、持統天皇によって桧原から伊勢斎宮に移されたということになります。


(*1)本居宣長は『古事記伝』で、このように伊勢神宮をさしおいて「斎宮」がまず述べられていることに対して、この「斎宮」は斎王の御殿ではなく、伊勢神宮自体であると考えています。
(*2)川添 登 『伊勢神宮 森と平和の神殿』筑摩書房2007年

5.日蝕の神秘学 (12)初瀬の斎宮と菟田の筱幡

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