デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (11) 迹太川のアマテラス望拝

『日本書紀』には壬申の乱の行軍の途中に、天武天皇(大海人皇子)が朝明郡の迹太川の辺でアマテラスを望拝したという記事があります。

丙戌、旦、於朝明郡迹太川邊、望拝天照太神。

この記事は『釈日本紀』所引の私記が引く『安斗智徳日記』にも「廿六日辰時。於朝明郡迹大川上而拝礼天照大神」とあり、信憑性が高いと考えられます。しかし伊勢神宮が持統朝に藤原京プランの設計にあわせて伊勢に移されたとしたら、それより数十年前におこなわれた壬申の乱ではまだ伊勢神宮は存在していないはずです。ただ単に昇ってきた太陽を望拝したのでしょうか?どうも唐突な印象がまぬがれません。大海人皇子は天照太神をどの方向に望拝したのでしょうか?迹太川とはどこなのか?なぜ迹太川に至って突然アマテラスを望拝したのでしょうか?

天武天皇遥拝所

三重県指定の天武天皇遥拝所 四日市市大矢知町

この望拝記事は鈴鹿から北上してきた一行が朝明郡家に入る前にあり、したがってこの「迹太川辺」は朝明郡家の南にあると考えられます。これまで迹太川は北部の朝明川と考えられていましたが、近年発掘された久留倍官衙遺跡が朝明郡家と推定されるため「迹太川辺」は久留倍官衙遺跡の南と考えられています。

朝明川

これまで迹太川と推定されていた朝明川 南方の久留倍官衙遺跡の発見によって立論が難しくなった

久留倍官衙遺跡現状

朝明郡家と推定される久留倍官衙遺跡中心部現状 高台にある 遠景は国道一号線北勢バイパス

久留倍官衙遺跡公園プラン

久留倍官衙遺跡整備イメージ図 建物は東を向いており他に例がないという

朝明川・久留倍官衙遺跡・天武天皇遥拝所・海蔵川周辺地図

迹太川の有力な候補に久留倍官衙遺跡から南に5㎞ほど離れた海蔵川が挙げられています。(倉本一宏『壬申の乱を歩く』)現地に行ってみると、古代は海岸線が接近していたとはいえ伊勢を望むにはかなり遠いように思えました。このためか、「望拝天照太神」とは夜明けの太陽を望拝したという説もあります。しかし『安斗智徳日記』の「迹大川上」にしたがって国道一号線にかかる海蔵橋から西の川上を見ると、見慣れたような形状の山並みが目に入ってきました。鎌ヶ岳から御在所山にかけての稜線です。桧原から西を望んだ二上山~穴虫峠の眺望によく似ています。

海蔵川

久留倍官衙遺跡の発見によりあらたに迹太川に推定されるようになった海蔵川(国道一号線海蔵橋から東を撮影)

迹太川の辺

国道一号線海蔵橋から西に鎌ヶ岳と御在所山間の稜線を望む 桧原台地からの二上山~穴虫峠の眺望に似ている

大海人皇子がアマテラスを思い起こしたのはこの眺望ではなかったでしょうか。鎌ヶ岳と御在所山の稜線の裏は綿向山を経由して近江の蒲生野につながります。近江大津宮と戦闘を開始しようとしている一行にとって、東よりも西側の山が現実的な観察の対象だったはずです。鎌ヶ岳を二上山に似ていると言った者もいたかもしれません。夜を日に継いでの行軍の途中に伊賀の中山で郡司たち数百名、積殖の山口で高市皇子、伊勢の鈴鹿の国司たちと合流してきた陣容はここにきて関からの大津皇子らの一行も加わり、ようやく整ってきました。「天皇大きに喜びたまふ」とあるのがこの地点です。

西方の山に桧原のアマテラス祭祀を想起させる眺望を発見したことによって、
整ってきた軍勢の人心を掌握するために、大和の国中を一望できる桧原でおこなわれていたアマテラス望拝のパフォーマンスを
この海蔵川の川辺から西を拝しておこなったのではないかという推測が成り立ちます。

それがそう描かれていないのは、西方のアマテラスをヴァーチャル化するという『日本書紀』の編纂方針によるものです。西への祭祀の形跡は伏せられました。壬申の乱当時桧原でのアマテラス祭祀を三輪氏が継続していたことは、三輪高市麻呂がこの壬申の乱の箸陵の戦いで大きな戦功をあげたことから推測できます。

二上山~穴虫峠稜線

桧原台地からの箸墓と二上山~穴虫峠の稜線 赤丸部が海蔵川(迹太川?)からの眺望に似ている

箸墓祭祀想定図

箸墓祭祀想定図

箸墓の建設から壬申の乱の戦勝を経て伊勢神宮が創祀されるまでのこのサイトの推論をまとめておきます。

1.卑弥呼の死後の混乱を収拾するために、九州で死んだ卑弥呼の霊を呼び込む斎戸(いわいど)として箸墓が建設された。
それは磯城水垣宮ではじまった磯堅城神籬祭祀―纒向大型建物からの西方の西王母祭祀が巨大化したものだった。
2.壬申の乱直前までこの桧原台地から箸墓越しに西方を祀る祭祀は三輪氏によって継続されていたと推測される。
3.壬申の乱の戦闘体制が整った段階で迹太川の畔において、大海人皇子一行は西の山並みに故地桧原からの祭祀に似た眺望を発見し、
兵の士気高揚のためにアマテラスを西に望拝する祭祀をおこなった。
4.これに呼応して祭祀氏族の族長三輪高市麻呂によって桧原という戦略上のポイントが押さえられ、
箸陵の戦闘で近江側に大きな打撃を与え大海人皇子側が壬申の乱に勝利した。
5.この迹太川からの望拝と箸陵の戦闘の勝利は雄略系政権のアマテラスを国家神に格上げする契機となった。
6.壬申の乱開戦時には必要だったアマテラス祭祀だったが、王権の九州由来の来歴を語るものであり、
そのままでは天武天皇没後の持統政権の律令体制の構築には阻害要因だった。
7. このため持統天皇とブレーンたちは、吉野宮で三輪氏に隠れて国家プランを構築した。
一地方でなければならない九州で起こった事実は古事記では高天原に仮想化され
アマテラス祭祀は伊勢に移動されて、桧原からの箸墓=天岩戸を経由した西方祭祀の形跡は秘匿された。
8. 斎宮が桧原の真東に移動されたのは、八隅知之吾大王という藤原京の国家プランを実現できた広域の測量技術力を持ち、
なおかつアマテラスの霊威を壬申の乱の経験によってリアルに畏れていた持統朝のことである。

この西暦240年頃から西暦700年頃の360年間にわたる祭祀の変遷はすべて、纒向大型建物ではじまった西方祭祀が起源であり、
そもそも卑弥呼が九州で没したために起こったことだと言わなければなりません。

5.日蝕の神秘学 (11) 迹太川のアマテラス望拝

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