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5.日蝕の神秘学 (10) 前方後円墳壺形説

箸墓祭祀想定図

箸墓祭祀想定図

前方後円墳が壺形の蓬莱山をあらわしている―――古くから唱えられてきた説であり、近年では岡本健一氏によって主張されています。筆者は長い間この説を否定してきました。疑問だったのは、「壺」の形に意味があるとして、それは誰に見せるものなのか、地上から認識できなければ意味をなさないのではないかという点でした。答えにようやくたどり着いたような気がします。

「壺」形の形状は上空の卑弥呼の浮遊霊に見せるためのものだったのです。

竪穴式石室

竪穴式石室の位置(和田萃『大系日本の歴史2古墳の時代』小学館1988年より引用)

地上から視認できなくても、上空の浮遊霊に壺形を見せていると認識できていればそれは成立します。祭祀の挙行は可能です。初期古墳の竪穴式石室の位置もまた、後円部の頂上という「埋葬」ではなく、浮遊霊をとりこむのに適した形をしているように思えます。

天の岩戸神話から復元できるサルタヒコ張政の足跡
『年中行事秘抄』に伝えられる三輪山麓でおこなわれたとおもわれる「鎮魂歌」
纒向遺跡大型建物の西王母祭祀の痕跡
持統天皇によって伊瀬斎宮に移された箸墓祭祀
万葉集の巻向歌群にうかがえる桧原の古代祭祀
これらはすべて、上図のような卑弥呼追悼祭祀が箸墓を西に眺める桧原台地でおこなわれたことを示します。
これが天武・持統政権によって秘匿された天の岩戸神話の原型です。
やや離れた桧原台地に設営されたのは、そこからなら箸墓の「壺」形の形状を視認できるからです。

壺形の箸墓

壺形の箸墓

 

ホケノ山古墳の壺

ホケノ山古墳の壺

ホケノ山古墳ではクビレ部から壺が発掘され、半分を土中に埋めた形で復元されていました。ホケノ山古墳を箸墓に先行する「纒向型前方後円墳」と見ることができるかどうか、箸墓本体が発掘されていませんので議論の余地があります。しかし箸墓周辺の発掘などからは少なくとも箸墓より新しくはならないとはいえそうです。箸墓建設時点で「壺形」は意味をもっており、それを視認できた桧原台地からの眺めには意味があったはずです。ホケノ山古墳の壺が遺体の頭部にあることから、死者の霊を壺に取り込む信仰があった可能性がありそうです。巨大な箸墓が建造されたのは、その霊が遠方で発生したからと考えることができます。北九州で没した卑弥呼の霊です。

巨大な箸墓は北九州で没した卑弥呼の霊から見える斎戸として、壺型の口を西に向けて建設されたのです。

桧原台地と箸墓

桧原台地と箸墓と鎮魂祭の落日

台地から眺めると、箸墓に対応して二上山が落日の舞台装置として無視できません。箸墓の前方部は西南を指していますが、二上山への落日は西の女王の死を意識させることができたはずです。二上山の特徴的な形状は遠くからでも眺められます。下の画像は現在の明石海峡大橋の南端、淡路SAから撮影したものですが、明瞭に判別できます。西からやってきた一行はまず明石海峡で二上山を視認し、桧原からその左右反転形をみて、西方の九州倭国に想いをはせたのかもしれません。

二上山from淡路SA

明石海峡大橋淡路SAからの二上山(裏側)

巨大な前方後円墳の墳形とは、九州で没した倭国女王卑弥呼を西に、
桧原台地から箸墓を介して祀るときだけに意味があったと言わざるをえません。
極めて高い前方部にしたのは、台地から壺の形に見せることが目的だったのでしょう。
その後フラットになっていった後続のすべての前方後円墳の形は、意味を失い形骸化した様式の継承でしかありません。


5.日蝕の神秘学 (10) 前方後円墳壺形説

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