デジタル邪馬台国

4.石屋戸の神話学 (3)折口信夫の「齋戸(いわいど)

岩戸神楽ノ起顕 豊国

三代歌川豊国 錦絵 『岩戸神楽ノ起顕』 江戸時代末期

折口信夫は「 祝戸 ( いわいど ) 」と同音の「 齋戸 ( いわいど ) 」を幻視しています。

「齋戸」とは何か?「延喜式」に断片がうかがえる、なんらかの「御魂」を鎮める施設のことです。
延喜式八巻の「祝詞」には「鎭御魂齋戸祭( 御魂 みたま 齋戸 いはひど しづ むる祭)」の祝詞が収められています。
これが「齋戸」に関するほぼ唯一の文字史料です。

すめら 朝廷 みかど 常磐 ときは 堅磐 かきは いは ひまつり、 いか し御世に さき はへまつりたまひて、この一二月より始めて、 きた らむ一二月に至るまでに、平らけく 御坐所 おほましどころ 御坐 おほま さしめたまへと、今年一二月の某の日、齋ひ鎭めまつらく(*1)

折口信夫のこの齋戸に関する幻視を『折口信夫全集 ノート編追補第一巻』に収められた「神道概論」から引用します。

なんのためかわからないものが宮廷神道のうえにいくらもある。そのなかで最もわからないものの一つに、宮廷の神祇官西院にある八神殿と直角にあった建物が、齋戸殿(いはひどどの)である。建物ができたのは後世で、もとは「いはひど」である。齋戸祭など、冬に行なっている。土地になにか特別のことをしていたらしい。「いはふ」は、霊魂を外へ出さぬこと。「いはひど」は、その場所のこと。天子の御魂を鎮齋しておく場所。 (中略) 「いはひど」は、天子の御魂を奉安し、宮廷で鎮魂祭のとき御魂をむかえるというところに違いない。 (中略) 霊魂のよるべが「ひもろぎ」とすると、それをつつんであるもの、たとえば岩窟、あるいは土の穴、あるいはそれに模倣したものがあった (中略) その御魂はなにか。それはおそらく天上の神、あまつみおやの御魂であろう。天照大神は瓊瓊杵尊の祖母にあたる。 (中略) 御魂が天子のでなく、おばあさんの御魂であることは、どういうことか。天子の御魂は別にある。そのほかに、祖先の霊魂が天子に是非とも内在しなくてはならないという点が宮廷の信仰の重大な部分であった。(*2)

彼は、延喜式の祭祀では毎年冬におこなわれる宮中の鎮魂祭で、アマテラスの御魂をむかえ「齋戸」に鎮めたと考えているようです。

齋部殿

故実叢書 神祇官図 (次田潤 『祝詞新講』)
この史料では「齋部殿」とあります。折口信夫の言う「齋戸」と書かれた図は見つけられませんでした。 この史料の時代には「いわいど」ではなく「いわいべ」と読んでいたと考えるべきでしょう。 しかし「石屋戸」→いわやと・いわいど→「齋戸」→いわいべ→「齋部」と変遷した可能性が想定できます。

折口信夫がこういう理解に至るのは、 齋戸 いはひど と似た「御窟殿」の語句を天武紀に見出したからです。

「みむろどの」が『紀』に二か所出てくる。 己未に、朝庭に大きに酺す。是の日、御窟殿の前に御して、倡優等に禄賜ふこと差あり。亦歌人等に袍袴を賜ふ。(朱鳥元年正月条) 丙寅、浄行者七十人を選びて、出家せしむ。乃ち宮中の御窟院に設齋す。(同、七月条) 「御窟院」で「みむろどの」と訓ます。みむろどのと訓まれている場所がある。わざ招ぎを行なっている。霊魂を鎮める神わざと関係あるところだ。「窟」と書いてあるから、岩が積んであるか、ともかく塚の形か岩屋の形になったものがあったのである。宮中のなかに御窟殿と書くのに適したものがあったのである。仮りに「みむろどの」が――みむろやまのことばの解釈のよりどころにしている――これが後の「いはひど」と書かれているものと関係があるのではないか。 (*3)

彼は延喜式のアマテラスの御魂をむかえる「齋戸」の源流は天武天皇の時代の飛鳥にあり、その施設は「御窟殿」と呼ばれていたと考えています。

石舞台が「祝戸」地区に隣接していることを考えると、石舞台が「御窟殿」であり、そこから地名「祝戸」が発生し、「齋戸」が鎮魂祭の施設として伝えられていったのでしょうか。

「神道概論」は昭和21年に国学院大学でおこなわれた講義のノートですが、2年後の昭和23年の慶應義塾大学の「芸能史講義」では、いっそうイメージが明確になり、

八神殿(中略)のそばに「いはひど」。のち御殿が建って「いはひどどの」。もとは御殿なし。わからぬが塚のような山のようなものがあったのか。岩窟を意味する、土を盛ったものがあったのかと思う。そこに霊魂が据えてある。それを取り出してきて、身体に付ける。」(*4)

としています。「塚のような山のようなもの」と折口信夫の幻視する「いはひど」のこの形態はまさに「古墳」です。

さらに、

天照の形代というか、肉体に換えることの出来る代表しているものを拵える。(中略)それを絶対の安定の、たとえば岩屋の底に鎮めてある。一寸でも動くと出てしまう。昔の人が鎮魂のためにとった状態だ。(中略)完全におさめて動かぬところまでせねばならぬ。(*5)

この「いはひど」の目的は、アマテラスの魂を鎮めるためだったと考えているようです。

さらに、昭和27年度の講義では、

「いはひど」にあるのは何か。いはふ・いはひこめるのは、散逸を防ぐ、そこに落ち着いて、じっとしているようにすること。それが斎いはふ。霊的なものが、動かぬようにじっとさせておく。「いはひど」はだから、天皇の霊魂をいはひ鎮めておく所。(*6)

アマテラスの魂にはじまり、天皇の霊魂を斎い鎮めるようになったものが「いはひど」であると、より明確になっています。

ここで明日香村の「祝戸」である石舞台は本当に蘇我馬子の「古墳」だったのかという疑問も頭をもたげます。というより、「古墳」を単に「墓」と理解するだけでいいのだろうかと考え込んでしまいます。この点に関して折口信夫は下記のような考察をしています。

墓は「 みささぎ 」と宮廷ではいっていたが、意味するところは霊魂を置く場所。洗練したところの霊魂を置く場所という意味をもっているのではないか。すると、死体のけがれ、おそれをもって、墓を築く原因だとはいえない。 (中略) 人麻呂の歌の中途に、
…高てらす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄見の宮に 神ながら 太敷きまして すめろぎの 敷きます国と 天の原 石門を開き 神上り 上りいましぬ…(一六七) (中略)
霊魂が墓に鎮座しているが、同時にその墓から天上に通って行く。墓の戸口が天上への通い路にもなっていると考えていたのだ。つまり、すると、墓は清らかなものになってくる。(*7)

「天上への通い路」になる「墓」―――少なくとも天武朝の柿本人麻呂は「古墳」にそういう属性を認めていたように思えます。もしかするとこれは「天石屋戸」神話の発生原点にまで遡るイメージなのかもしれません。
「延喜式」の「齋戸」は天武朝の「御窟殿」に由来するものであり、その発生の原点であるアマテラスの魂を鎮めるための「 みささぎ 」は「天上への通い路」になる「墓」だった。折口信夫の幻視はこう述べているようです。

現在、石舞台古墳は島庄に存在するがゆえに蘇我馬子の墓と考える説が有力ですが、「天武天皇の仮墓だった」との伝承も江戸時代の史料には伝わっており(*8)、それが事実だとすると、

「御窟殿」=「石舞台古墳」=「石屋戸(いわやと)」=「祝戸( いわやと/いわいど )」=「齋戸(いわいど)

と折口信夫の幻視が見事につながります。

飛鳥の遺跡配置図(奈良文化財研究所『奈良・藤原京展』2002年に加筆)

さて、「鎮魂祭」とは何か?「天石屋戸神話」の理解をより深めるためには、「齋戸」にかかわる祭祀と折口信夫が位置づける「鎮魂祭」の考察が避けられません。

猿女氏の祖先の鈿女ノ命が、天照大神の霊魂が帰らなかったときに、鎮魂の舞を舞った。(*9)

仮死の時、どういうことをするか。(中略)その仮死の状態に陥った時を「もがり」。殯。霊魂が逸脱し、それを呼び返している。帰ってくるか、来ないか、決るまでの間である。(中略)いはやどは、もがりの形である。これが成功して、天照大神のからだに魂が帰って来た。(*10)

前方後円墳の竪穴式石室は、後円部の頂上設けられ、横穴式石室と違い、天空を意識した、もがりにふさわしい形状だといえます。巨大な壺である箸墓の上で、アマテラスの「もがり」をおこないその魂を呼び戻したのが、前方後円墳の起源であり、鎮魂祭の起源だった----折口信夫に導かれて、われわれはこういう結論に至ります。


(*1)(延喜式八巻「祝詞」 『日本古典文学大系』 岩波書店1958年)
(*2)「神道概論 第二章 霊魂信仰論その二 三 神格の誤認」『折口信夫全集 ノート編追補第一巻』P177~180
(*3)「神道概論 第一章 霊魂信仰論その一 四 神籬と磐境と」『折口信夫全集 ノート編追補第一巻』P59~61
(*4)伊藤好英・藤原茂樹・池田光編「池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇上」
慶應義塾大学出版会 2015年 P166
(*5)伊藤好英・藤原茂樹・池田光編「池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇上」 慶應義塾大学出版会 P157
(*6) 伊藤好英・藤原茂樹・池田光編「池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇下」 慶應義塾大学出版会 P154
(*7)「神道概論 第一章 霊魂信仰論その二 十一 神道における死の観念」『折口信夫全集 ノート編追補第一巻』P278~279
(*8) 石蕪臺島庄村の道の傍田圃の中にあり、(中略)傳云 天武天皇を假に葬り奉りし古趾なりとぞ 『西国三十三所名所圖會』(『大和志』第二巻第八号 末永雅雄「石舞台古墳」より孫引用。ちなみにこの文章で末永雅雄はこの推測を蘇我馬子の墓説より先に挙げています。)
(*9) 伊藤好英・藤原茂樹・池田光編「池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇下」 慶應義塾大学出版会 P154
(*10) 伊藤好英・藤原茂樹・池田光編「池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇下」 慶應義塾大学出版会 P171

4.石屋戸の神話学 (3)折口信夫の「齋戸(いわいど)

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