デジタル邪馬台国

2.倭人伝の文献学

(1) 狗奴国東海説
(2) 12000里
(3) 『翰苑』倭国条
(4)「女王国」≠「邪馬台国」

概要

1998年の黒塚古墳での、33枚におよぶ三角縁神獣鏡の発掘を契機として、考古学会は大きく大和説に傾斜しました。しかし、本質的に「邪馬臺国」は文献史学の問題であり、文献を抜きにして「邪馬臺国」の所在を論ずることはできません。ここでは九州の太宰府に残された『翰苑』の文献批判を通じて、『魏志』倭人伝の原史料を推定します。
『魏志』倭人伝中には「邪馬臺国」はただ1か所しか出現しません。それが卑弥呼の「女王国」と同じものを指していたかどうかは、はなはだ疑問です。
この文献批判からは、『魏志』倭人伝は2つ以上の年代の史料が混交しており、まず北九州に卑弥呼の「女王国」があり、すこし遅れて臺与の「邪馬臺国」が三輪山麓に成立したと考えます。二つは別の国です。
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、女王国の女王で、九州にいたと考えるべきです。
「邪馬臺国」は中国側には卑弥呼の「女王国」を継承していると詐称しました。「00000」には、「親魏倭王印」の印影が収集されており、銅印と記載されています。大和の「邪馬臺国」が九州にあった「卑弥呼」の「女王国」を継承するものとされた物的根拠は、臺与の遣使によって晋王朝に返却された模造「親魏倭王」銅印だった可能性があります。




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