デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (8)三輪君高市麻呂と三輪君逆

 

年月日 三輪君高市麻呂に関係する記事 原文 史料
天武天皇元年(672)7月4日以降某日 上つ道に当りて箸陵のもとに戦う 麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵。大破近江軍、而乘勝、兼斷鯨軍之後。鯨軍悉解走、多殺士卒。 日本書紀
持統天皇6年(692)3月3日 持統天皇の伊勢行幸に職位を賭して諫言

是日中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言、諫爭天皇、欲幸伊勢、妨於農時。三月丙寅朔戊辰、(中略)於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝。重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。

日本書紀
大宝2年(702)正月17日 従四位上大神朝臣高市麻呂を長門守となす。
(この年まで諫言以降10年間記載なし)
從四位上大神朝臣高市麻呂爲長門守。 続日本紀

大宝3年(703)6月乙丑

従四位上大神朝臣高市麻呂を左京太夫となす。 以從四位上大神朝臣高市麻呂爲左京大夫。 続日本紀
慶雲3年(706)2月6日 没。壬申の乱の功績で従三位を贈られる。 左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒。以壬申年功。詔贈從三位。大花上利金之子也。 続日本紀

持統天皇の伊勢行幸に職を賭して諫言した三輪君高市麻呂ですが、没後に壬申の乱の功績で従三位を贈られています。「壬申の乱の功績」とは、『日本書紀』にある箸陵の戦いで、三輪君高市麻呂と置始連莵が北から飛鳥に向かう近江軍を破り、近江軍が飛鳥に到達できなかったことを指すと考えられます。高市麻呂が陣を構えた場所はどこか?国中を一望に見渡せ、山田道経由で近江軍が飛鳥に向かう可能性が高い上つ道に近い―――桧原台地がもっとも戦略的な適地であり、その地の選定によって戦闘を有利に進められたのではないかと思われます。そしてこの場所の選定には三輪君高市麻呂が大きくかかわっており、それが壬申の乱の功績として評価されることになったと考えられます。

桧原台地と箸墓

箸墓と桧原台地

そしてその20年後、「藤原京のプラン」で考察した斎宮移設の事情が正しいとすれば、高市麻呂はこの桧原台地の祭祀の移動に反対したということになります。
これらの情報をつなぎ合わせると、三輪氏は根拠である三輪山麓の桧原台地を熟知しており、その理由はそこで古代に起源を持つアマテラス祭祀をおこなっていたからではないかと思われます。

三輪氏では推古天皇に関係して「三輪君逆」の名が見えます。

年月日 三輪君逆に関係する記事 原文 史料
用明天皇元年夏五月 穴穗部皇子が炊屋姬皇后を姧そうとしたところを救う 夏五月、穴穗部皇子、欲姧炊屋姬皇后、而自强入於殯宮。寵臣三輪君逆、乃喚兵衞、重璅宮門、拒而勿入。穴穗部皇子問曰、何人在此。兵衞答曰、三輪君逆在焉。七呼開門。遂不聽入。於是、穴穗部皇子、謂大臣與大連曰、逆頻無禮矣。於殯庭誄曰、不荒朝庭、淨如鏡面、臣治平奉仕。卽是無禮。方今天皇子弟多在。兩大臣侍。詎得恣情、專言奉仕。又余觀殯內、拒不聽入。自呼開門、七𢌞不應。願欲斬之。兩大臣曰、隨命。於是、穴穗部皇子、陰謀王天下之事、而口詐在於殺逆君。遂與物部守屋大連、率兵圍繞磐余池邊。逆君知之、隱於三諸之岳。是日夜半、潛自山出、隱於後宮。謂炊屋姬皇后之別業。是名海石榴市宮也。 日本書紀

これによれば、三輪君逆は穴穗部皇子が炊屋姬皇后を姧そうとしたところを救ったとされています。三輪君逆は三輪山に隠れたとあり、三輪山麓を拠点としていたことが知れます。注目すべきは「海石榴市宮」です。炊屋姬皇后の「別業」が三輪山麓の海石榴市近くにあったようです。炊屋姬皇后とはトヨミケカシキヤヒメのちの推古天皇です。

酒船石の溝のラインが天理教会からの落日角度と一致する可能性をのべたことがあります。(4.箸墓の幾何学 (8)酒船石

天理教会からの落日

酒船石

ここから推測すると推古天皇と三輪氏は協調して農暦管理をおこなっていたのかもしれません。それが西方アマテラス祭祀の実態だったのかもしれません。しかしその実体については何もわかりません。当サイトでは推古天皇を、蘇我政権の祭祀王と考えますが、正確な姿を伝えるものは何もないといってもいいかもしれません。


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