デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (5)天の岩戸=箸墓=磯堅城神籬

三輪山麓祭祀の変遷

崇神紀の記事に見る三輪山西麓のアマテラスと倭大国魂祭祀の変遷 ①→②→③と黄色矢印のように変遷した…と思う

箸墓はアマテラスの「墓」だったのか?
崇神紀の箸墓伝承が建設の実況を伝え、天の岩戸神話が建設の由来を語っていたとしても、箸墓=天の岩戸の機能については明確に述べられていません。
鎮魂祭に伝えられる祭祀の断片からは「斎戸」は墓に収まらない機能を持っていたように思えます。
4.石屋戸の神話学 (4)鎮魂祭の秘儀 で述べた鎮魂祭で歌われたと推測できる「鎮魂歌」の歌詞には、どこからか去ってきた「御魂」を魂筥たまはこに取り込もうとしていました。
「御魂」はもちろんアマテラスの高貴な魂で、当サイトの推論が正しいとするとそれを斎戸に、つまり箸墓に取り込もうとしていたのだと推測できます。
この機能をあらわす名称が崇神紀に残っています。「磯堅城神籬」です。

崇神天皇は磯城瑞籬宮に遷都しますが、国内に病気の流行や百姓の流離や反抗によって、治世が困難になります。
天照大神と倭大國魂の二神を天皇の大殿に並べて祭っていましたが神勢を恐れて、共住できず、天照大神は豊鍬入姫に託して倭笠縫邑に祀らせ、倭大國魂は渟名城入姫に託して祀らせたが、渟名城入姫は髪が抜け痩せて祀ることができなかったとあります。(*1)
このときに、笠縫邑で豊鍬入姫が天照大神を祀る際に建てられたのが「磯堅城神籬」です。「シは石、キは城。石の堅固な城の意か」と『日本古典文学大系 日本書紀上』(岩波書店昭和42年)の註釈はコメントしています。神籬は神の依代です。

石造りの神籬。これは…箸墓です。
「天の岩戸」「箸墓」「磯堅城神籬」これらはすべて同じものを指しています。
由来は天の岩戸神話が伝え、建設の実況は箸墓伝承が伝え、その機能は「磯堅城神籬」が伝えています。
これらをつなぐものは、『年中行事秘抄』に伝えられる「鎮魂歌」です。

御魂みに、去ましし神は、今ぞ来ませる。魂筥持ちち、去りくるし御魂、魂返しすなや。

鎮魂祭で歌われたであろうこの歌の歌詞には三輪山・穴師という箸墓近辺の地名が残っています。
九州で没した卑弥呼=アマテラスの魂を呼び込む石造りの神籬。それが箸墓=天の岩戸の正体です。

鎮魂歌

『年中行事秘抄』に伝えられる「鎮魂歌」

後円部の中央に農暦管理のための柱が立った姿は「神籬」にふさわしい形状です

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓と立柱

佐賀県 吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓と「祖霊の宿る柱」

平原遺跡の大柱

福岡県前原市 平原遺跡と「大柱」の想定

『倭姫命世紀』や「古語拾遺」には、「磯城神籬」の建設について、以下のような記事があります。

「御間城入彦五十瓊殖天皇 即位六年己丑秋九月 就於倭笠縫邑 殊立磯城神籬 奉遷天照太神及草薙劔 令皇女豊鋤入姫命奉斉焉 其遷祭夕部 宮人皆参 終夜宴楽歌舞」(『倭姫命世紀』)

其遷祭之夕宮人皆参終夜宴楽(「古語拾遺」)

これらの記事では、磯城神籬を建設したあとの夕べに「遷祭」をおこない、「宮人」が参集して終夜「宴楽歌舞」がおこなわれたと書かれています。この記事に続いて、「古語拾遺」では歌謡が収録されています。

美夜比登能於保與須我良爾伊佐登保志由伎能與呂志茂於保與須我良爾
(みやびとの おほよすがらに いさとほし ゆきのよろしも おほよすがらに)

この「宴楽歌舞」こそ、サルタヒコこと張政が参加した天の岩戸前の祭祀だったにちがいありません。


(*1)三年秋九月、遷都於磯城。是謂瑞籬宮。
(中略)
五年、國内多疾疫、民有死亡者、且大半矣。
六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。
是以、晨興夕惕、請罪神祇。
先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。
故以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。
亦以日本大國魂神、託渟名城入姫命、髪落體痩而不能祭。

5.日蝕の神秘学 (5)天の岩戸=箸墓=磯堅城神籬

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