第Ⅱ部 遺物と遺構たち―最古の土器から天文観測装置まで― 戻る↑
第一章 三つの地域 戻る
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第7図:遺物の分布状況 戻る |
ナブタ・プラヤは、これまで述べたように、たとえば土器の破片のような小さな生活遺物から、大規模な巨石の建造物に至るまで、実に多彩な遺物を出土しています。先に示した
「出土品の年代別一覧表」 でも分かるように、初期から末期にいたるまで、延べ約5000年間にわたる新石器時代の、実に多種多様の遺物が出土しているのです。その数は、第6図に示した周辺地域を含めれば、年代が測定できたものだけでも、170以上にのぼります。右の第7図は、ナブタ・プラヤ内の主な遺跡の分布を示したものですが、総数は約30カ所に及んでいます。南部にある 「E-75-6」、「E-91-3」 などの▲印は、「初期新石器時代」
であることを示していますが、他にも中期・後期・末期、各新石器時代の遺物が、あちらこちらと場所を違えながら、散在していることは、ご覧の通りです。
この第7図は先に触れた通り、「ナブタ・プラヤ」 の窪地全体の西半分を示しています。出土する遺物の大半はこちらに集中しているからです。全貌を把握し易くするため、便宜的にこの部分を、さらに三つの地域に分割してみましょう。一見同じような遺物が散らばっているかのようですが、実は詳しく調べていくと北部、南部、西部の三つの地域は、それぞれかなり異なった様相を呈しているのです。(参考図:図表集:拡大図1~4)
例えば北部にある 「E-94-2」 と 「E-92-7」 の二つの遺跡(第6図・中央上方)や、南部の 「E-75-6」周辺 (第7図・中央下方)は、多くの住居址、炉、井戸、「石皿」 や 「繋牧用の石」 などの生活に密着した生活遺物(図表集:第33図~第35図)が示すように、「居住遺跡」 なのです。一方西部は南北に長い地域で、これまでに幾度か触れた「地域祭儀場」 を構成しています。この地域には、図のように驚くべき巨石構造物が五個も建造されていますが、丁度中央部分には、北部・南部に見られた、規模の大きな居住遺跡が二つ存在しています(「E-91-1」、「E-75-8」)。生活遺物以外の巨石構造物は、参考図にも見られるように、「石塚」 から「複合構造物」
まで、一見全く用途の異なった、風変わりな建造物なのです。これはこの地域が 「祭儀場」 であるという、特殊性がもたらしたものかもしれません。なお、ナブタ・プラヤの異常ともいうべき発展の一つの原因として、この
「地域祭儀場」 の存在が指摘されていますが、これは後に詳述します。(参考:第Ⅱ部・第四章・(三))
先に歴史のところで触れたように、ここナブタ・プラヤは新石器時代だけで五度の極乾燥期に襲われ、他の地域へ移住せざるを得ませんでした。しかし、彼らは繰り返しこの地へ戻ってきます。近辺に大きな内陸湖が無かったのがその最大の理由なのでしょう。南部は前8500年頃からの初期新石器時代、北部は前4800年頃までの後期新石器時代に居住されたことが分かっていますが、西部の二つの遺跡(「E-75-8」、「E-91-1」)は何度かにわたって居住されています(第7図)。マクブレアティらは、ホモ・サピエンスの特性の一つとして、「site reoccupation」を挙げています(McBrearty, S.他:2000年、p.492)。「居住の回帰性」とでも訳せばよいのでしょうか。現在の私たちが、同じ場所に家を建て直したり、故郷を懐かしんだりする性情は、或いは「site reoccupation」という特性の、しからしめるところかもしれません。残念ながら、これに関する文献は見当たらないのですが。
第二章 三種類の遺物と遺構 戻る
このように、三つの地域に、一見乱雑に散らばっているかに見える、多種多様な遺物や遺構たちを、内容的に把握し易くするために、このサイトではこれらの
「地域」 を離れて、さらに 「使用目的」 から、三つの分野に分けてみました。(一)日常生活のために用いられた遺物や遺構(居住遺跡)。(二)集会・祭儀のために用いられた遺物や遺構。(三)天文事象を観測するために用いられた遺構。この三つの分野です。
五千年以上も前に、放置された遺物たちや、砂の上に組み立てられたいくつもの遺構が、焼け付く太陽や、時速100km以上にも達する砂嵐をかい潜って、姿を保ってきたことも不思議ですが、さらに、それらを具体的に知るにつれ、様々な信じがたいほどの興味深い事実と、それを生み出した人類の深い叡智を、一つ一つ、これでもかこれでもかと言わんばかりに、突きつけられます。次の第三章では、日常生活のための必要から生まれた、石器や土器などの、普通の居住遺跡によく見られる、生活遺物を紹介し、第四章では、集会・祭儀のための遺構を解説し、第五章では、ここナブタ・プラヤを特徴付ける、天文事象を観測するための、巨石を用いた遺構を紹介していきます。
第三章 日常生活のための遺物や遺構
戻る
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第8図:「E-75-6」です。住居祉が斜めに二列、整然と並んでいます。 |
紀元前9000年頃に夏の熱帯収束帯が北上して、雨をもたらしてから、この地域では最大の、ナブタ・プラヤの内陸湖の岸辺に、周辺の砂漠の遊牧民が定期的に集まり始め、やがて前7000年頃から定住する世帯も増えて、生活に密着した様々な遺物や遺構を遺すことになりました。これらの殆どは、とにかくその日その日を生きるための必需品であり、必要やむにやまれず作り出されたものの名残です。これらの遺物・遺構を子細に調べていくと、第2図に記した、「現代人的行動」 が、意外に多く実現していることが分かります。
・住居(小屋)の址らしい窪み、炉の跡、食料貯蔵用の穴、土器をはめ込む穴および柱の穴
・井戸、ウォークイン方式の井戸(大きい物では巾4m×深さ3m)
・石器(初期新石器時代~末期新石器時代)
・穀物をすり潰す 「石皿」 と 「すり石」
・家畜を繋いでおく 「繋牧用の石」
・土器(初期新石器時代~末期新石器時代)
・卵殻・貝殻などの加工品:ダチョウの卵殻の壺やビーズ、貝の小皿など
・植物類:ソルガム(モロコシ=sorghum)、ミレット(キビ=Panicum turgidum・アワ・ヒエ)、マメ類(legume)、果実、
スコウウィア、ボエルハヴィア、アカシアなど
・動物類:ウシ、ヒツジ、ヤギ、ジャッカル、ガゼル、野ウサギ、その他小型哺乳類、など
(一)住居址 戻る
先に述べたように、主な居住遺跡は、北部、南部、西部に散在していますが、第7図の記号(■、▲、★)で分かるように、年代はそれぞれ「初期新石器時代」、「諸新石器時代」、「後期新石器時代」 と、異なっています。最も古い南部の「E-75-6」が発掘されたときの住居の址は、このようなもの(図表集:第30図)ですが、よく調べると炉を中心にして、食糧貯蔵用の穴や、土器をはめ込むための小さな穴や、柱を立てるための穴や炉の址や井戸も散在します(第8図、図表集:第31図、第32図)。年代は前7400年頃と算定されていますから、住み始めて間もなくから、住みやすくするための様々の工夫を凝らし、屋根のある小屋で調理をしながらの、生活を送っていたと想像されます。「Nature誌」
392号によれば、小屋は18戸あり(E-75-6の場合)、真っ直ぐ2~3列に整列していた(第8図)と言いますから、相当成熟した集落が形成されていたのでしょう(Malville, J. M.他:1998)。
(二)井戸 戻る
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第9図:井戸の断面図(「E-75-9」から) |
砂漠の住民にとって、雨期が去り内陸湖が枯渇した後は、水の供給源は、井戸に求めるしかありません。井戸は、最初は恐らく家族用の小規模な井戸(右の第8図の上部、図表集:第33図)だったのが、地下水位の低下や、生活単位の拡大によって、「ウォークイン方式」 の井戸(最大のもので巾4.3m×深さ2.8m)へと進歩します。(右の第8図の中央部)。最初の浅い井戸らしきものは「E-75-6」遺跡を始め 「E-75-9」
、「E-91-3」、「E-91-4」、「E-77-7」、「E-79-8」 などで発見されており、最も古いのは 「E-75-6」 で、それは前7000年頃だと推測されます(Wendorf, F.他:2001年、p.120)。「ウォークイン方式」 の井戸は 同じく「E-75-6」 の他に、「E-91-1」 、「E-75-8」、「E-75-7」 から発見され、前6800年頃の初期新石器時代後半から登場したものと考えられます(Wendorf, F.他:2001年、p.143、p.324、p.660~p.663)。先史時代の井戸は西アジアやメキシコにも見られますが、ナブタ・プラヤの井戸も世界最古の井戸の一つと言えるでしょう(参考:古代の井戸)。
最初に掘られた浅い井戸は、家族の中の力持ちや、あるいは数人が力を合わせて簡単に掘れたことでしょう。しかし、大きなウォークイン方式の井戸や集落の整備となると、これは当然、近所の数世帯であるとか、祭儀場に集まった大勢の人々とかなどが相談や合議をし、統率力のある人物を選んで、はじめて
「さあ、作ろう!」 と、規模が大きくて複雑な 「共同作業」 がスタートするのでしょう。(参考:第Ⅱ章・第四章・(三)・②)上記のように、ウォークイン方式が普及するまでに、何と数百年の歳月を要しているのです。マルヴィルらは 「Nature誌」 の論文の中で、この様に表現しています。
"これらの井戸の建設は、のちに後期新石器時代の巨石構造物の立案・作成を可能にした、「社会的統率力=Social Control」 の誕生の、最初の兆しと言えるのではないだろうか。"
(Malville,
J. M.他:1998)
ここで言う 「社会的統率力」 は、後に詳述するG.チャイルドの 「文明の基準」 の一つである、「支配者層」 の萌芽と位置づける、重要な 「現代人的行動」 と捉えるべきでしょう。(参考:第Ⅲ部・第二章・(二))
(三)石器 戻る
①幅広い出土年代
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第10図:石器類(「E-75-8」出土) 参考図:石刃技法 |
左の第9図に示したのは、西部に位置する 「E-75-8」 遺跡から出てきた 「中・後期新石器時代」 の石器類のイラストです。ナブタ・プラヤでは、新石器時代の初期から末期にいたるまで、あちらこちらの遺跡から、このほかにも実に多種類かつ数多くの石器が発掘されています。たとえば第7図の南部に目をやってください。居住遺跡「E-75-6」
や、「E-91-3」 などには▲印が付いていますが、説明にもあるように 「初期新石器時代」 それも最も早い 「El Adam」 の層(参照:年表)から発掘されています。既にこの時代だけで、細石器、石刃、尖頭器の出土がみられます。一方先ほどの西部の居住遺跡 「E-75-8」 から出土した石器は、中・後期新石器時代( 「Ru'at El Ghanam」、「Ru'at El Baqar」 )のものであることが確認されているのです(第9図)。先にも述べた、このような初期から後期までという、時間的かつ空間的な幅の広さは、"ナブタ・プラヤの文化の複雑さや、移住してきた人々の多様性を証明するものだ"と、F.ウェンドルフは語っています。石器類の種類の多岐にわたることは、ここナブタ・プラヤが、次章で述べる
「集会場(祭儀場)」 としての役割を持っていたので、周辺の各地から色々な部族が寄り集まってきたことも、その大きな理由の一つなのでしょう。(⇒ナブタ・プラヤの石器)
②狩猟の対象
ここには北米のクローヴィス遺跡(前11,000年頃~9,200年頃)に見られるような、例えばマンモスなどの大型獣を仕留めるための尖頭器はなく、せいぜい小型哺乳類を対象にした「アテール型」尖頭器(図表集:第37-2図のm)と 「オウナン型」 矢尻(第9図のp)しか見られません。一くくりに 「狩猟・採集」 と言っても、その狩猟や採集の実体は海岸、草原、山岳地帯、砂漠などの生活環境によって、大きく異なってくることは、言うまでもありません。尖頭器の種類から推しても、ここサハラ砂漠の内陸湖の沿岸では、ガゼルや野ウサギ程度を対象にした、規模の小さい狩猟の域を出なかったことがうかがえます。さらに、早くから牧畜が行われていたこの地では、狩猟に大きなエネルギーを使う必要が無かったことも理由の一つでしょう。
③繋牧用の石や石皿
また、ここナブタ・プラヤでは、北部にある「E-94-2」と「E-92-7」の二つの居住遺跡(図表集:拡大図1)から、家畜を繋いでおくための 「繋牧用の石=tethering stone」 (図表集:第35図) が多数発掘されています。他にも西岸の 「E-91-1」 や、ナブタ・プラヤから西へ約8kmの所にある、「E-77-1」 や 「E-94-3」
からも出土しており、「繋牧用の石」 はかなり広い範囲に現れています。これもこの土地に牧畜文化が定着していたことを物語るものの一つです。なお第Ⅰ部・第一章でも記したように、前8800年頃にはナブタ・プラヤでは牧畜が既に生活の一部でした。「繋牧用の石」 が出土した「E-77-1」 は初期新石器時代の後半(前6800年頃~前6300年頃)の遺跡なので、遅くとも前6300年頃以前に、牧畜が開始されていたことには確証があると言えます。牧畜の開始年代の諸説については、後に詳しく触れます。(参考:第Ⅱ部・第四章・(二)・④)
また、同じ遺跡の中に多く見られる 「石皿=grinding mill」 と 「すり石=rubbing stone, handstone」 (図表集:) は頻繁に穀物類を磨り潰していた栽培文化を立証するもので、牧畜と栽培が同時に行われていたことを示す重要な証拠と考えられます。出土例は「E-75-8」 からなので、これらの年代は前6100~5600B.C.ですが、「E-75-6」 から出土した、ソルガムやミレットは、明確にそれより1000年前の、前7200年~前6800年を示しています。
(四)土器 戻る
①幅広い出土年代
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第11図:時代別の土器
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初期新石器時代:a、櫛目文と波状文 b、茎と葉 c、漁網
d、密集型ロッカー・スタンピング(最古の土器片)
中期新石器時代:e、平滑型ロッカー・スタンピング f、単純平滑型
後期新石器時代:g、刻文 h、頂部黒色 |
ここナブタ・プラヤでは土器は破片のみ発見され、器の形状を留めたものは未だ発掘されていません。ただ、ナブタ・プラヤから約30km北西のジェベル・ラムラにある墓地遺跡からは、前4500~4300年頃のものですが、形の整った土器が相当数出土しています(図表集:第41図)。破片はかなり広い範囲から、まさに散発的に発見され、さらに古くは前8200~8000年から、前1300年(E-92-8)(後述するヌビアCグループ文化)(Wendorf, F.他:2001年、p.533)までの年代を記録していますから、前述のようにナブタ・プラヤとその近辺では、初期新石器時代から末期新石器時代までの、約7000年間にわたる土器の破片が出土したことになります。このことも、石器の場合と同様に、この地域が、周辺の各地から諸部族が集まってくる、「集会場(祭儀場)」
であったことを示していると言えるでしょう。K.ネルソン(Kit Nelson)の”ナブタ・プラヤでの土器の遷移は、サハラ砂漠の「人びとの生活と移動」の変遷を物語る、一つの年代記と言って良いだろう”(Wendorf,
F.他:2001年、p.543)という言葉は、以下の経緯を眺めても、まさに至言といえるでしょう。(⇒ナブタ・プラヤの土器)
②世界最古の土器
前項で述べた前8200年頃(約1万年前)の土器片(参考図)は、第Ⅰ部第一章 「歴史」 のところでも、紹介していますが、これは、ナブタ・プラヤから北へ約40kmの 「エル・ゲバル・エル・ベイド遺跡(El Gebel,El Beid)」
の 「E-77-7」 で、発掘されたものです(Wendorf, F.他:2001年、p.68)。更に遡れば、実はナブタ・プラヤから西へ約70kmの遺跡
「ビル・キセイバ(Bir Kiseiba)」 の 「E-79-8」 (=参照:第6図左端)に前1万600年(約1万2600年前)の出土例があるのです(E.Huysecom他:2009年、p.18)。これは現在のところ、北アフリカ大陸では最古のものでしょう。ただ、先に述べたとおり、その年代には、未だこの地に人類が住んでいた証拠がありませんので、研究の余地が残ります。それにしても、これは日本の縄文土器(約1万6500年前)に次いで、世界で二番目に古い出土例になります。なお、2012年6月に、中国・江西省の仙人洞遺跡から、前2万年~1万8000年頃の出土例が、報じられていますが、こちらは学問的に、厳密な検証が不十分とされているので、現在のところ、古さに関しては、比較の対象にはできません。
③種々の文様
ここナブタ・プラヤの土器に関しては、多くの個体が発掘されているにもかかわらず、材料の土や硬度などの製造法、および文様が、時代によって明確に大きく二つに分けられています 。上の第10図をご覧ください。拡大図からもある程度明らかなように、製造法や文様などの方式が、初期・中期新石器時代の
「櫛目文」 や 「波状文」 と、後期・末期新石器時代の 「頂部黒色(黒頂)」・「赤色磨研土器」 の二つに大別されるのです。大貫良夫は、"施文法の類似した第二急湍地域の 「ワーディ・ハルファ新石器文化」 はおそらくこの文化に由来し…"と言っています。そしてさらに、"ナブタ文化の流れを汲む可能性はあるが、しかしナイル河畔の先王朝文化との関係は、今後の重要な研究課題である"とも(
「世界の歴史 Ⅰ(1998年)」 p.383)。ではそのあたりを、実際の出土品から、確認してみることにしましょう。
④櫛目文と波状文
第12図:新石器時代の土器たち(出典:図表集:第38図参照)
①ナブタ・プラヤ出土(B.C.8800年頃~)
※6の頂部黒色土器
②カルトゥーム中石器文化(B.C.6000年頃~)
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③ワーディ・ハルファ出土(B.C.5000年頃)
④カルトゥーム新石器文化(B.C.4000年頃)

※ナブタ・プラヤ以外はナイル流域です。
※ナカダ文化の黒頂土器 |
右の第11図は新石器時代のエジプト西部砂漠と、上ヌビア地方のナイル流域に出土した土器たちです。年代順にナブタ・プラヤ→カルトゥーム中石器文化→ワーディ・ハルファ新石器文化→カルトゥーム新石器文化と並べてみました(近藤二郎:1997年、p.33~)。確かにナブタ・プラヤの初期・中期の土器と、ナイル流域の土器の文様が、酷似しています。この地図をご覧いただくと、ナブタ・プラヤからカルトゥームまで、ほぼ東京大阪間程度の隔たりしか無いことが、お分かりいただけますが、この類似はどう見ても異文化間のものではなく、同一の文化圏内のものと推測できます。時間的には、ナブタ・プラヤから、一つの文化がナイル川上流に移り、それが下流へ伝わって、ファイユーム、メリムデ、バダリ、果てはナカダ文化へと繋がって行ったと推察できます(参考:図表集:第50-2図)。西部砂漠の文化がナイル流域へ伝播した実例を、これからもいくつか紹介しますが、実はそれを目に見える 「物証」 で証明してくれるのは、残念ながらこれらの土器だけなのです。
⑤黒頂土器と赤色磨研土器
以上は、上に述べた、初期・中期新石器時代の 「櫛目文」 ・ 「波状文」 の場合ですが、では「頂部黒色」 の系統はどうなのでしょうか。左の図の 「①ナブタ・プラヤ出土」 の後期の 「6」 に 「頂部黒色土器=黒頂土器」 (参考図)という一片があります。これが、先に述べたように、後期・末期新石器時代を代表するものなのですが、この土器が、バダリ文化を経由して、ナカダ文化の
「頂部黒色=黒頂」≒「赤色磨研土器」 (口縁部が黒くない赤色磨研土器も多量に生産されていました)へと進化していったと考えられています。このナカダ文化は王朝時代にまで続いていく文化なのです。以上、ここでは、ナブタ・プラヤの土器が、王朝時代の土器にまで影響を及ぼして行く経緯を辿ってみました。できれば、次の参考資料をご覧頂けると、一層興味が深まるかもしれません。(⇒参考年表、参考地図、「ナカダ文化の土器」)
(五)貝殻・骨などの加工品 戻る
土器や石器と同様に、いろいろな加工品が、各年代にいろいろな場所から出土しています。古いものから順に、箇条書きにします。
・ダチョウの卵殻から作ったボトル―前8800~7700年頃のもので、「E-91-3」、「E-91-4」、「E-75-8」 他合計8遺跡から、出土しています(図表集:第36-1図)。
・ダチョウの卵殻から作ったビーズ―前8500~8000年頃のもので、「E-91-1」、「E-75-6」、「E-75-8」 他合計9遺跡から出土しています(図表集:第36-2図)。
※これは贈り物かまたは、自分の身を飾るための「アクセサリー」であったとされています。
・エゼリアガイで作った小皿―エゼリアガイ=Etheria elliptica(Nile oyster)。前6700年頃。「E-91-1」 から出土。(図表集:第36-3図)。
※この貝は、ナイル流域から「遠距離交易」によって、持ち込まれたものです。(Wendorf, F.他:2001年、p.612~)
・骨細工―哺乳動物の骨から作られた、錐または飛び道具用の尖頭器です。前5400年頃。「E-75-8」 から出土。(図表集:第36-4図:下図)。
・象牙細工―図のような不完全なものしか出土していません。前5400年頃。「E-75-8」 から出土。(図表集:第36-4図:上図)。
・石の加工品―繋牧用の石、石皿、すり石 (参照:石器)
・オーカー―加工品ではありませんが、ダチョウの卵殻に塗られていたり(E-77-7)、塊(E-91-1)で発見されたりしています。(Wendorf, F.他:2001年、p.69、p.300)
・ジェベル・ラムラの出土品
―上の「土器」のところでも紹介した、ジェベル・ラムラの墓地には896点に及ぶ多彩な加工品があります。これらは2000年~2003年に発掘されましたが、
墓地として覆われていたせいか、保存状態がきわめて良好です。年代は前4630~4310年頃の末期新石器時代です。かなり精巧な技術が見られ、
また遠距離交易を証明する遺物も豊富です。(図表集:第43図~)。
・海産巻貝から作ったビーズ(図表集:第44-2図)。―これは 「アクセサリー製作」 や 「遠距離交易」 を証明する、重要な証拠です。
・紅海の貝殻を用いたブレスレット(図表集:第44-1図)。―これも 「アクセサリー製作」 や 「遠距離交易」 を証明する、重要な証拠です。
・骨製のマジック・ナイフ、ウシの鼻栓、針。(図表集:第43図)。―トルコ石製の鼻栓もあり、これは1000km北のシナイ半島から(遠距離交易)です。
・ウシの角製のコップ。(図表集:第43図)。
・象牙製のブレスレット。(図表集:第44-1図)。―象牙は遥か南方の土地から取り寄せたものです。これも 「アクセサリー」 や 「遠距離交易」 を証明するものです。
・雲母製のピラニアの彫刻(図表集:第44-2図)。―厚さは1cmあり、エジプトで発見されたものとしては、最も古くから知られた彫刻です。
(六)植物類 戻る
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第13図:出土したソルガム 1:粒、2:2個の小穂と、はがれた包頴 |
①植物類の用途
ここナブタ・プラヤには、ご覧のように(第8図、図表集:拡大図1)無数の炉の址がありますが、そこには燃料として用いられた木材が、化石化した(petrified)形で出土し、また食物貯蔵用の坑からは、穀類や種子が炭化した(chared)形で、多くの植物が出土しています(図表集:第41-1図)。ウェンドルフらは、燃料と食用が中心だったろうけれども、それ以外に、医薬品や呪術などに用いられていた可能性があると言及しています(Wendorf, F.他:2001年、p.549)。勿論、日本のイネのように、種子は食用に、他の部分はワラとして別の用途に用いられたりもしていました。たとえばミレットは枝の部分は燃料や染料としても用いられていた形跡があります(Wendorf, F.他:2001年、p.667)(図表集:第41-1図、付表「主な植物の用途の一覧表」)。
②ソルガム・ミレットの栽培
「歴史」 のところやこの章の冒頭で記したとおり、ナブタ・プラヤでは、ソルガム(モロコシ)やミレット(キビ・アワ・ヒエなど)が主に食べられていました。出土した、ソルガム・ミレット・マメ類などの植物を詳細に調べた結果、より優れた種子(飼育栽培変種)すなわち、粒が大きいもの、穂から脱落しにくいもの、毎年種子を実らせるもの、などを遺すために、既にかなりの選別や淘汰がなされていることが分かりました。言うまでも無いことですが、この選別・淘汰には、気の遠くなるような長い長い年月と、根気の要る地道な作業が必要です。これがいわゆる「栽培」の、重要な最初の一過程であることは勿論です。そこからから察しても、ここナブタ・プラヤでは、単なる
「採集」 に止まらず、一歩進んだ 「栽培」 の段階にまで進歩していたことが分かります。ウェンドルフらは「ソルガムが採集・保管面で特別な扱いを受けていたことから推測して、栽培が行われていた可能性も考慮し得る」
(Wendorf, F.他:2001年、p.8、p.590~591、p.659)と表現するに止めていますが、ナブタ・プラヤの地で、「灌漑」 は不可能としても、「天水農耕」
あるいは「減水期稲作に類する耕作=décrue technique(Wendorf, F.他:2001年、p.591、p.659)」
が行われていた可能性は、否定できないでしょう。ソルガムやミレットは、出土品調査によれば、 「E-75-6」 遺跡から多く出土し(図表集:第41-2図)、前7200年~前6700年頃という年代を示しています(参考:ナブタ・プラヤの出土品:年代別一覧表、p.52)。なおこれは王朝時代(第18王朝・第19王朝)のものですが、鋤をウシに引かせている農耕の図がありますので、ご参考までに(図表集:第59図)。ナブタ・プラヤで、同様の作業があったかどうかは不明です。
③ムギ類の栽培
かつて南西アジアから持ち込まれていたとされていた、「六条大麦(Hordeum vulgare)」、「エンマー小麦(Triticum diccocum)」 などのムギ類(barleyやwheat)は、発掘調査では全く出土しておりません(Wendorf, F.他:2001年、p.5、p.683他)。ちなみに、アフリカ大陸における
「栽培」 の開始には二説あって、一つは、ナブタ・プラヤで、前6150年頃の層から六条オオムギが、前5500年頃の層からはエンマーコムギが出土した(大貫良夫他:1998年、p.383)とする説。もう一つは、前6000年頃、穀物栽培が開始されていた可能性がある、としてソルガムやミレットの他に、六条オオムギ、裸大麦、エンマーコムギを挙げる説(大城道則:2010年、p.59)ですが、上記のように、ナブタ・プラヤからはムギ類(barleyやwheat)の出土例はありません。ナブタ・プラヤでは、独自にソルガムやミレットが栽培され、ナイル下流域の、ファイユーム地方には、南西アジアから、ムギ類が伝えられたとするのが正しいと、私は推測しています。なおウェンドルフらは、多くの
「石皿」 や 「すり石」 から推して、穀類を消費していたことは確かだが、オオムギとコムギに関しては、ナイル流域の農民との交易で入手していた可能性がある、と述べるにとどめています(Wendorf,
F.他:2001年、p.671)。
④農耕について
植物の栽培の話から、農耕にまで触れたので、最近話題になっている、「農耕」 に関する話を取り上げておきます。トルコの南東部にある、世界最古の宗教施設と言われる「ギョベクリ・テペ遺跡」
の事なのです。ここは前9600年頃の遺跡であるにもかかわらず、人が住んでいた形跡は全くなく、獣の彫刻を施した巨大なT型の石柱が、円形に並んだ神殿状のものが、約20基も集まっているという、他に例を見ない遺跡です(常木晃談:(2011年))。農耕は勿論、人が生活をしていた形跡が全くなく、何か宗教的な集まりに用いられて居たとしか思えない場所なのです(参考図:図表集:第64図)。1994年から調査が本格化し、大きな話題を提供し始めました。中でも最大のものは、農耕を伴わないで、宗教施設という文化的な建造物が存在することです。従来の「先ず農耕ありき」という定説が、根底から否定されたのです。そして、逆に先ず何か組織的な宗教のようなものが先に起こって、そのために人々が集まって大きな社会が出来上がってきて、それを維持するために「農耕」が始まったのではないか、とまで言う説が出てきたそうです(NHKスペシャル取材班:2012年、p.222~)。
色々と論争の的になっているようなので、紹介させて頂きましたが、どうも、もっと他にも類似の遺跡などが、発掘されない内は、ここまで断定するのは早計でしょう。逆にナブタ・プラヤのような、孤立した砂漠の僻地での栽培から、農耕の発展状況を観察した方が、純粋な推測が出来るのではないかという、そんな思いもします。ギョベクリ・テペの場合は、約60km離れただけの場所に初期の農耕遺跡が、そして、約400kmの場所に戦場の遺跡が存在していたりで、複雑な推理が入り乱れる元になっているようにも思えるからです。
(七)動物類 戻る
①ナブタ・プラヤの特性
既に触れたように、ここナブタ・プラヤでは、ウシの家畜化が前8800年頃には、既になされていて(参照:第Ⅰ部・第一章「歴史」)、さらに現在のところ、前6000年頃には、南西アジアからヒツジやヤギが持ち込まれたとされています。特にウシは人々の「共同生活者」 と言って良いほどの存在だったので、③以降に詳しく取り上げます。また、南西アジアから持ち込まれたとされるヒツジ・ヤギについては、⑤で詳しく説明します。なお、ウシ・ヤギ・ヒツジの骨は多数出土しますが、他にも狩猟によるものでしょう、ガゼルやノウサギなどの小動物の骨や貝殻も多く出土しています。各種動物の年代や出土遺跡を記した、細かい一覧表がありますので参考にしてください(図表集:第40-1図)。
②主な動物類
ここでは主なものを列挙しておきます。紅海やナイル川でしか獲れないものが、ここで出土していることは、「遠距離交易」 の存在したことを証明するものと、考えられています。
・海産巻貝:タカラガイ(Cowry Cypraeidae)、トンボガイ(Terebellum terebellum)、イモガイ(Conus Sp.)(図表集:第40-3図)
※これら海産の貝は紅海から「遠距離交易」によって、持ち込まれたと推測されますが、確証はありません。
・淡水二枚貝:イシガイ目(Spathopsis rubens)、エゼリアガイ(Nile Oyster)、シジミ属(Colbicula Consobrina)
※これらは、いずれもナイル流域から 「遠距離交易」 によって、運ばれたと推測されています。(Wendorf, F.他:2001年、p.612~)
・淡水巻貝:ヒラマキガイ科(Bulinus truncatus)(図表集:第40-5図)
・陸産巻貝:オカクチキレガイ(Zootecus insularis)(図表集:第40-6図)
・魚類:ナイルアカメ(Nile perch)(図表集:第40-2図)
※これは、約100km離れたナイル流域から、燻製か干物の状態で輸入されたのではないかと、想像されています(遠距離交易)。
・両生類:ヒキガエル、カエル ・爬虫類:トカゲ、ヘビ ・鳥類:ダチョウ、タカ、ノガン、シマアジ(縞味)、ホロホロチョウ、マガモ属、キジ科
・哺乳類:サバクハリネズミ、コウモリ、ケープノウサギ、シマジリス、サハラアレチネズミ、トビネズミ、ナイルサバンナネズミ、タテガミヤマアラシ、
オジロスナギツネ、フェネック、ジャッカル、イヌ、ハイエナ、ヤマネコ、マングース、シロオリックス、ガゼル、ヤギ・ヒツジ、ウシ(家畜)、
キリン、アフリカゾウ(Wendorf, F.他:2001年、p.621、622)(図表集:第40-1図)
※キリンやアフリカゾウはそれぞれ、「E-75-8」、「E-91-1」 から臼歯が発見されているだけなので、食用か加工用かなど用途は不明。
ただ、(五)で触れたとおり、加工品は出土していますが、詳細は不明です。
③ナブタ・プラヤでのウシの重要性 戻る↑
次章以下に詳しく述べるように、ウシが 「石塚」 に 「捧げ物」 として丁寧に埋葬されたり、 「祭儀場」 での冠婚葬祭の各場面で、供え物の代表として捧げられたり、「代理墓」
として用いられるに到るには、それなりの深い背景が有りました。先に述べたように、ナブタ・プラヤへ遊牧民がやってきた時、ウシはすでに彼らの家畜だったのです。「家畜」
と言うよりも、まさに 「共生関係」 に近い存在であったと、言っても良いでしょう。現在のマサイ族やヌアー族の、ウシとの共同生活の現状を知ると、この感じが納得できます。一例を挙げれば、彼らは牛糞を土と練り合わせて、「家の壁」
にするだけでなく、尿で手や顔を洗ったり、牛糞の灰を顔や身体に塗りつけて、「虫除け薬」 や 「止血剤」 として用いたりもしています。それだけでなく、ウシに寄り添ってダニを取ったり、灰で体をマッサージしたりするのです。(サーヴィス:1991年、p.97)。まさに生活の一部、いや家族の一員と化していると言っても良いでしょう。では、このような密接な
「共生関係」 が生まれたのは、何故だったのでしょう。次にその理由を類推しておきます。
a、労働力としてのウシ
遊牧民が何日間も砂漠を旅するとき、重い荷を運ばせるために、耐久力のあるウシが、唯一でかつ必要欠くべからざる運搬用具だったことは、想像に難くありません。まさに生活を共にする、親密な家族同様の付き合いだったのでしょう。
また、定住生活に入ってからは、農耕のときに、鋤を引かせる動力(耕牛)として、用いられたかもしれません(参考図:死者の書、ナクトの墓の壁画)が、ナイル流域と違って、大規模な農耕が無かったであろう、ここナブタ・プラヤでは、恐らく存在しなかったでしょう。ただ、井戸を掘るときや、(四)以後に扱う巨石建造物の作業には、大いに活躍したかもしれませんが、王朝時代の壁画やピラミッド建設の絵画などにも、農耕以外に
「役牛」 の姿は全く見られません。例えば第12王朝の知事ジェフティホテプの墓の壁画(前1900年頃)では、巨石の運搬に、ウシの姿は全くありません(図表集:第67図)。その理由を以下のb、c、d で見てみましょう。
b、栄養源としてのウシ
ナブタ・プラヤの牧畜民たちは、ウシから血液や”牛乳”を絞って飲み、栄養源の一つとしていました。しかし、ウシを殺して”牛肉”を食べるということはしませんでした。これは現在でも、世界のいたるところの貧しい地域などに見られる、家畜を永く利用するための生活の知恵ですが、ここナブタ・プラヤでは、次に述べるように、儀式の時に限ってウシを殺し、「捧げ物」
としていたのが特徴的です。M.マルヴィルらは、「歩く食料貯蔵庫(Walking larders)」 と呼んでいますが(M.マルヴィル:2007年)、移動を常とした遊牧民にとっては、まさに貴重で不可欠な栄養供給源だったことは、容易に想像できます。
c、捧げ物としてのウシ
前6000年頃、ナブタ・プラヤが、次に述べる 「祭儀場(集会場)」 として機能しはじめ、結婚式や指導者の葬式などの儀式が執り行われるようになったとき、「捧げ物」
としてウシが選ばれ、そして殺され、供えられました。ナブタ・プラヤ西岸の、祭儀場址だけから、大量のウシの骨が発掘されたのも、こういう理由があったからなのです。他の場所では、ウシを殺すという行為がなされなかったのだから、牛骨が殆ど出土しなかったのは当然です。
「捧げ物」 としては、ウシは他にも、雨乞いの時の生け贄として用いられたことは、後で「石塚」の由来の所で詳述します。また、後に扱う 「複合建造物」 の 「E-96-1A」 の中心に据え付けられた 「彫刻された岩」 もウシを象っていて、これは貴人の代理墓ではないかと推測されています。
d、富や権力の象徴としてのウシ
単なる運搬用具や栄養の供給源から、捧げ物としても活用されるようになって、ウシは人間の精神面の象徴的な代替物としても用いられるようになり、人々の心の中に深く根付いていきました。そして更には、ウシを所有することが、単なる経済的な豊かさにとどまらず、富や社会的地位の象徴へと変貌していったのです。こうして、ウシを多数所有する人は、経済的に豊かな富者であり、なにかと発言力を強め、勢い指導的立場を与えられるようになって行きました。このように、ウシを重要視する習慣は、現在のマサイ族などにそのまま伝えられていて、人類学では「cattle complex*11」と呼ばれ、「東アフリカ牛牧文化複合」、「ウシ文化複合」 などと和訳されています。ウシが 「歩く食料貯蔵庫」 などという、単なる生活必需品の域を脱して、「富」
と 「社会的地位」 を現す象徴とみなされるに至り、そしてそのような習俗が、こう名付けられたのです。
しかし、民族考古学者のブライアン・ヘイデン(Brian Heyden)の研究によれば、同様のことが水牛やニワトリなど他の動物でも言え、アフリカだけでなくポリネシアやトルコ等他の地域で、現在もなお、同じパターンが見られるとされます。すなわち、家畜は日常の食物ではなく、特別の日のご馳走であって、葬儀や結婚式だけでなく、土地の購入、同盟の締結など、社会的・政治的な出来事の際にも、必需品であったとされているのは興味深いことです(NHKスペシャル取材班:2012年、p.274~)。
北アフリカの牧畜文化の遺跡は、第4図に示されるように、先ずナブタ・プラヤ、ビル・キセイバに始まり、北アフリカ中部(前6500~前5500年)から、ナイル流域・下エジプトのファイユーム文化(前5300~前4400年)、メリムデ文化(前4800~前4400年)へと伝播して行き、北アフリカだけでも、十数カ所に達しています。図表集:第49図、第50図が示すように、同じくナイル流域でも、有名なバダリ文化(前4100~前3900年)、ナカダ文化(前4100~前3100年)を初めとして、多くの遺物を出土するヌビアAグループ文化(前4000~前2800年)、ヌビアCグループ文化(前2300~前1500年)ほか、いくつもの文化にウシを埋葬した例が見られます。(参考:図表集:第50-2図)
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第14図:ナルメルのパレット |
e、ナイル流域への流入 戻る
このように、貴重な食糧源であり運搬用の必需品であったウシは、宗教的な祭儀の中心ともなり、やがて富や権力を象徴するようにまで到りました。そしてこの習俗は、北アフリカ中央部やナイル流域にも、徐々に伝播していきました。牧畜文化のこのような伝播も、土器ほどの物的証拠は乏しいとしても、西部砂漠からナイル流域への文化の流入を、明確に示しています。こうして、この象徴的性質は、空間的のみならず、時間的にも更に王朝時代へと、引き継がれて行きました。一例を上げれば、王朝時代の絵画の中では、牡牛はライオンと並んでファラオの象徴としても描かれるまでになります。単なる
「歩く食糧貯蔵庫」 に過ぎなかったウシも、ついには有名な 「ナルメルのパレット」 (第14図)の一番上部を飾り、後にハトホル神に吸収される「バト神」として神格化されるほど、重要視されるに至ったのです。
④ウシの家畜化の年代 戻る↑
そもそも、「先史時代の地球上で、ウシが最初に家畜化されたのは、いつか?場所はどこか?」 という疑問には正確な解答が得られず、広く議論を招いていました。ここで、これまでに私が接した範囲ですが、諸説を少し整理してみましょう。ジャレド・ダイアモンドは
「銃・病原菌・鉄(1999年)」 の中で、「牛:前6000年:南西アジア、インド、北アフリカ(?)」 (上巻(p.247))とか、「サハラ地域に住んでいた人びとは、紀元前9000年から紀元前4000年のあいだに、牛を飼いはじめたり、土器を作りはじめたりしている。」(下巻(p.279))と記述しています*9。またブライアン・フェイガンは 「古代文明と気候大変動(2003年)(p.247)」 の中で 「前7500年くらいまでさかのぼる可能性もある。エジプトの砂漠にあるビル・キセイバとナブタ・プラヤの遺跡で見つかった骨を信じるとすればだが*10」 と述べています。また大城道則は 「ピラミッドへの道:講談社(2010年)(p.59)」 の中で、 「ナブタ・プラヤにおいても紀元前8000年頃から家畜化していた可能性のある牛の骨が出土している。」 と述べています。ただ、「世界考古学事典:平凡社(1979年)」 の 「家畜」 の項では、「しかし、各動物の家畜化の課程には、その歴史が古いだけに諸説があり問題も多い。」
として、年代の記述は避けているほどなのです。
しかし、第Ⅰ部・第一章の 「歴史」 のところ で触れたように、前8800年頃には、ウシは既に家畜として飼われていました。ナブタ・プラヤの 「E-75-9」 や、その西約80kmのところにある、ビル・キセイバ(「E-79-8」、「E-80-4」)でウシの骨が出土しています(Wendorf,
F.他:2001年、p.2、p.97、p.625、p.633/Marshall, F.他:2002年、p.109)。ヒツジやヤギだけでなく、ウシも南西アジアからの伝播による、とする説が20世紀前半までは圧倒的でしたが、それ以降は調査・研究の発展によって、見直しが行われ、今ではここナブタ・プラヤなど北アフリカのウシの牧畜も独自に生まれ発展したもので、しかも世界で最も早い家畜化だったと考えられています(参照:第4図)。
なお、化石の出土は未だありませんが、ウシを描いた岩絵が、ナブタ・プラヤから僅か500km(仙台、新潟間の直線距離程度です)西のギルフ・エル・ケビール(Gilf
El Kebir)で発見されて、その年代は10500年前頃とされています(「古代エジプト資料館」から)。なので相当昔から、ウシは人間と共に生きていたと思われます。「ギルフ・エル・ケビール」の岩絵には、一頭の牡牛を囲んで、数頭の牝牛が描かれたものがあります(図表集:第64図)。学者の中にはその状態は家畜飼育の一形態を示しているのではという指摘もあります。そうであるとすれば、すでに前10500年頃には、ウシの家畜化が実現していたことになりますが、これは現在では未だ憶測に過ぎません。(参考ヴィデオ:「サハラ砂漠 謎の岩絵」)。
⑤ヒツジ・ヤギの伝播
ナブタ・プラヤにおいては、ウシに次いで重要な家畜であるヒツジとヤギが、いつ頃家畜化されたかについても、明確な答えは未だ出ていません。しかし大貫良夫は、これまでは「西南アジアから伝播したものと推測されてきた。」が、ナブタ・プラヤで前5500年頃のヒツジやヤギの骨が出土していることから、伝播説を断定することは出来ないとしています(大貫良夫他著:1998年、p.382~)。ジャレド・ダイアモンドは一旦「家畜化がサヘル地域で独自におこなわれたものだったのか、それともメソポタミアの肥沃三日月地帯から家畜が伝わったことが引き金となってこの地域で野生の植物の栽培化がはじまったのかは、はっきりしていない」 (ダイアモンド, J.著:2000年(上)、p.142)、としながら、「(猫、ロバ、畜牛)これら以外の家畜は、野生祖先種がユーラシア大陸にしか生息していない。したがって、アフリカ大陸以外の場所で家畜化されたものが、家畜としてアフリカに導入されたと思わざるをえない。たとえば、現在アフリカ大陸で飼育されている羊は、西南アジアで家畜化されたものである」 (同書(下)、p.277)と断定しています。
ウェンドルフも「約8100年前頃(前6100年B.C.頃)ナブタで最初のヒツジとヤギが現れたが、それらが、その2000年も前からヤギ・ヒツジ属(caprovids)が飼育されていた西南アジアから、持ち込まれたことはほぼ間違いないだろう。」と言っており(「ウェンドルフ, F.他著:1998年」)、ウェンドルフ他編の著書の中で、ゲント大のゴーティエ教授(Achilles Gautier)は「ヒツジとヤギは、中期新石器時代のナブタ・プラヤに見られる。これらの家畜はアジアから北アフリカへ導入されたものである、なぜなら、彼らの野生祖先種はアフリカには生まれなかったからである」(原文*7)としています。(Wendorf, F.他:2001年、p.634)
ナブタ・プラヤでの実際の出土例を見てみると、中期新石器時代より前の「Al Jerar」(前6800年~6100年頃)に、「E-91-1」 遺跡から出土しています(参考図)。ここに提示された年代を採用すると、大貫良夫の掲げた年代より更に遡り、ナイル流域のファイユーム文化やメリムデ文化より前に、ヒツジやヤギが居たことになります。アフリカ大陸の発掘調査が更に進めば、新しい証拠が出土するかもしれませんが、現在のところ、西南アジアから持ち込まれたヒツジやヤギは、最初にナブタ・プラヤへ持ち込まれたと言うことになります。(図表集:第46-2図 注:NABTA/KISEIBAの地域のB.C.6000年頃のヒツジとヤギのシルエットにご注目ください)
第四章 祭儀のための遺物や遺構 戻る↑
前章では、日常生活品の遺物を取り上げました。すでに述べたように、ナブタ・プラヤが他の遺跡と著しく異なる点は、日常生活とは全く関わりが無いと思われる、奇妙な遺物や遺構が何種類も発掘されていることです。多種にわたるこれらの、奇妙な遺物や遺構を、「祭儀のための遺物・遺構」 と、「天文観測のための遺構」 の二つに分けて、この章では、前者を取り上げます。
(一)人骨 戻る
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第15図:人骨 |
①四人の人骨
この場合の人骨は実は 「祭儀のための遺物」 とは言えないのですが、日常生活に伴う生活遺物ではないので、この章で扱います。人骨はこの遺跡では、僅か四カ所から発掘されただけで、しかも、その内の二カ所(「E-97-17」、「E-00-1」)からは、それぞれ13本と8本の歯が出土しただけでした。次に取り上げる 「石塚」 の一つ 「E-97-5」 にも頭骨の無い、非常に不完全な人骨が見られますが、若い健康な男性のものらしい、と判明している程度です(Wendorf, F.他:2001年、p.478)。
ただ一カ所(「E-91-1」)だけに、全身の75~80%の人骨が、検証に耐え得る程度に残っており(第15図、図表集:第28図、第29図)、それは、25~30歳以下の女性の人骨だとまでは判明しています。右の第13図のメジャーに付いている矢印は、特に説明は見当たらないのですが、類例から察するに「北」を指しています。とすれば、ナブタ・プラヤ唯一の人骨は、東枕にし、顔を北に向け、右脇腹を下にして横たえられていたことになります。また、ナブタ・プラヤの西約8kmにある、この地域では最も高い山(inselbelg)の一つである、ジェベル・ナブタ(Gebel Nabta)で発掘された、「E-77-1」 遺跡からも、不完全ながら人骨が一体出土しています(図表集:第28-1図)。ご覧のように残り少ない残骸から、左を下にした 「北枕東顔」 であることが分かります。この人骨は、成人のものであることは分かっていますが、性別は不明です(Wendorf, F.他:2001年、p.521)。
②埋葬の形態
ここで、エジプト王朝の 「埋葬形態」 に触れておきましょう。大城道則によれば、初期王朝時代(~前2686年頃)までは、南枕で、顔を西に向け、左を下にして両足を抱え込む屈葬の形が続き、古王国時代に入ると、北枕で、顔を東に向けて埋葬した、とあります。その後は時間の経過と共に新王国時代(前1567年~)のミイラに見られるように、仰向けに安置されるようになったそうです(大城道則:2010年、p.79~)。近藤二郎は次のように書いていますが、これは古王国時代の埋葬習慣を述べたものなのでしょう。
"古代エジプトでは頭部を北にして埋葬された遺骸は、死後に再生復活を遂げるために顔を東に向ける 「北枕東顔」 の姿勢がとられた。
太陽が沈む西方に浄土があると考えられていた仏教世界において、死者が一般に「北枕西顔」の姿勢を取らされるのとは、好対照で
あり興味深い。"(近藤二郎:1997年、p.27)
ちなみに現在の仏教では、釈迦の入滅のときの姿勢から、「頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)」 を採用しているそうですから、なるほど 「北枕西顔」 なのですね。この表現に従えば、ナブタ・プラヤの場合は 「東枕北顔」 ということになります。
なお、先に触れたように、ナブタ・プラヤから約30km北西に、ジェベル・ラムラ(Ramla Playa)という墓地の遺跡があり、こちらでは67体の人骨や様々の副葬品が発掘されていますがこれらは先の2例とは違って、明らかに意識的な 「埋葬」 と言えるでしょう。この墓地では、全員が 「西枕南顔」
になっています(図表集:第43図)。ナブタ・プラヤの人骨を180度回転した姿勢ですね。こう見てくると、「北枕」 がやや多いという印象はありますが、具体的な埋葬の形態は場所や時代によって、正に様々で、一律の法則性は必要がなかったのでしょう。
このジェベル・ラムラの墓地の、木炭や人骨から抽出された年代は、前4630~4310年で、これはナブタ・プラヤでは、後に記す「列石」が作られた時期に当たります。ナブタ・プラヤで人骨が出土した年代は、それより約1000年前の前5800~4800年頃と推定されています。ここでの定住は前7000年頃からと見られますから、仮に埋葬の習慣があったとしても、しっかりした墓地に埋葬されなかったために、人骨は地形の変化などで散逸してしまったのかもしれません。なお、ジェベル・ナブタの 「E-77-1」 出土の人骨の年代は、前6800~6100年頃ということしか、分かっていません。ちなみに人類の埋葬習慣そのものは、最も古くは10万年前頃に遡るという証拠が、イスラエルのカフゼー洞窟などから発見されています(河合信和:2009年、p.114)が、埋葬の形態については、定説が見当たりません。
③埋葬の意義
人骨の埋葬の始まりは、亡くなった先祖の骨を住居の一部に埋めることによって、占有権を確実なものにしようとしたのが始まりである、とされています。これはすでに、人間が 「未来」 に思いを致すという心境の発露の側面を現していると思われます(NHKスペシャル取材班:2012年、p.300~)。そしてそれは、「はじめに」 で触れたホモ・サピエンスの企画・計画能力の発現なのでしょう。
もう一つ注目すべきは、ナブタ・プラヤから出土した人骨が、ただ1点だけだということです。近隣では、ジェベル・ナブタから一体出土しており、またジェベル・ラムラには、墓地まであって、67体の人骨がありました。しかし、祭儀場として多くの人間を集め、大規模な建造物を作るに足る、大人数が存在したにしては、ここナブタ・プラヤから出土する人骨が、ただ1点というのは、何故でしょうか。考えられる理由は、祭儀場はあくまで臨時の集会場であって、多人数が集合しても、祭儀が終了すれば、ナブタ・プラヤなどの周辺の居住地へ帰っていったのではないか(ギョベクリ・テペ遺跡の場合のように)、ということが一つです。もう一つは、砂嵐などのために散逸した可能性ですが、これは他の遺物や遺構の密集度から推して、余り考えられないことでしょう。
(二)ウシを埋葬した石塚(E-94-1n) 戻る
①場所の選定
次に、かなり風変わりな遺構をご紹介しましょう。ここでチョット、図表集の第6図を開いて下さい。この図の左上に 「Valley of the Sacrifices=いけにえの谷」 という谷が縦に走っています。これは現在は
「涸れ谷=Wadi」 ですが、図表集:第7図右上の矢印(4、涸れ谷の水路)でも分かるように、かつてはここも有力な水路の一つで、ナブタ・プラヤの内陸湖を満たしていました。先ほどの図表集:第6図で見るとこの涸れ谷(「Valley of the Sacrifices」)の左側に約十個の緑色の丸印があります(正確に発掘検証されたのはその内の9個だけです)。これがウシやヒツジやヤギの骨を「生け贄」として埋葬した
「石塚」 なのです。これらはいずれも直径が約3~4mで、盛り上げた土の小山を、十数個の小さな砂岩で覆った 「塚」 になっています(図表集:第25図)。それでマルヴィルらは、ここを 「生け贄の谷」 と名付けたのです。彼らはこう記しています。
"夏の初めに最初の雨が降った時、この涸れ谷がプラヤへ水をもたらしたので、この場所は雨乞いのためにウシを生け贄に捧げるには、最適の場所だったのだろう"
(M.マルヴィル:2007年)
②構造
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第16図:石塚に埋葬された牝牛
(左が北です) |
発掘・調査された9個の石塚の中で、ほぼ完全な一体の牝牛の骨が埋められているものが、ただ一つだけあります(「E-94-1n」・第14図、図表集:第26図)。この塚は直径約8m、高さ約1mと、かなりの大きさで、周囲を石板で覆われており、その中には、ご丁寧にも図のように二重に粘土で囲われて、上をギョリュウ(御柳=Tamarix
tenuissima)の大枝で屋根葺きをした小部屋が作られています。その中にただ一体、横たえられているのですから、大変丁重な埋葬と言えるでしょう。ちなみに、このナブタ・プラヤ唯一の埋葬牛は、人間の場合で言えば、仏教風(?)に
「北枕西顔」 に埋葬されています。ナブタ・プラヤで、「北」 という方角が登場するのは、実はこの 「石塚」 が年代的には、一番古いのですが、しかしこれは一頭だけの出土例ですので、第五章の(一)に述べる
「「北」 を定める」 の一例になるのかどうかは、疑問なのですが。
これまでに、何度か記したことですが、この時代にこれだけの規模の作業が可能になったのは、前6800年頃以降、ウォークイン方式の井戸や、整然とした集落の建造を通じて、支配者層や階級組織が誕生し、複雑で規模の大きい公共的建造物が生まれた結果なのでしょう。ここで注目すべきは、一般には先ず農耕が発達し、食糧の備蓄が進み、富者を生み、支配者層を形作ったということです。ここにも「農耕」
という定石を踏まず、ウシという家畜の保有量から「支配者層」 を生んだナブタ・プラヤの特異性がみられます。こうして生まれた 「共同作業」 はさらに、次に述べる「複合建造物」
たちを建造する能力へと、成熟して行きました。約9000年も前に 「共同作業」 という、現代人的行動を可能にした 「ホモ・サピエンスの特質」 については、第Ⅲ部で触れます。
③年代 戻る↑
屋根に使われたギョリュウの木片からは、放射性炭素年代測定で前5363±272年*8という年代が割り出されています。
(三)地域祭儀場(集会場) 戻る
①地域祭儀場(集会場)の形成
すでに何度か述べたとおり、前7200年頃には、ウォークイン方式の井戸の普及が定住を可能にして、かなり整備された集落さえ出来はじめました。前6000年頃になると、夏の湿潤期には、近隣のナイル流域や南方から、遊牧民たちが内陸湖の西岸を目指して集まり始めます。血縁などの関係がありながら離ればなれになっていた人々などが、定期的に再会して絆を深め合うだけでなく、異なった地域の人々が集まって、物々交換や情報の交流を行い、それによって社会的・政治的な繋がりを確かめ合ったのでしょう。さらに集団が大きくなるにつれて、結婚式や葬式を初めとする、様々の儀式も催されるようになり、こうしてここを、この地域一帯の祭儀場(集会場)として利用するようになりました。ただ、このように「集団のサイズ」が大きくなってくる現象は、上に述べたような、社会的・政治的な、自然発生的な理由だけでなく、次に述べる二つの理由が促進したのかもしれません。一つは、集団の人数が多くなればなるほど、様々な発想が出現して、集団の文化的発展に寄与すること。もう一つは、人数が増えれば増えるほど、出てきた発想を採用すべきか否か、試行錯誤の回数を増やせるから、それだけアイディアの内容の安定性が高くなるだろうことです(NHKスペシャル取材班:2012年、p.189他)。
これらの集会が開かれたとされる西岸の砂丘地帯は、南北に約2.2kmにおよび、北は先に述べた 「石塚」 から、南は 「複合建造物 「E-96-1E」 」 までを含む、縦長の場所が巨大な 「祭儀場(集会場)」 を構成することになりました(図表集:第6図)。勿論、祭壇に類するものなどの、祭祀に関する遺構や遺物が発掘されたわけではないですが、数百個の炉の址や、たくさんの生活遺物や、「捧げ物」 として犠牲になった多数のウシの骨などが、それを雄弁に物語っています。その上 「石塚」 や 「複合建造物」 の他にも、後に述べる 「カレンダー・サークル」、「列石」 など、中心的な建造物は全て、ここに集まっていますから、ナブタ・プラヤそのものが、ここに集約されていると言っても良いのでしょう。ナブタ・プラヤの人口が増えたとしたら、ここ
「祭儀場」 がその中心だったと想像できます。
②地域祭儀場(集会場)の持つ意義 戻る
「はじめに」 で述べたとおり、マクブレアティらは、アフリカ各地を精査して、諸々の現代的行動の起源を特定しようと試みました。その調査対象は、極めて多分野で、多岐に渡っていますが、第2図に示された 「尖頭器(石器)」 もその一つで、これは投げ槍の先端に装着されたとされています。ここでその尖頭器のその後を、少し追跡してみます。考古学上、この尖頭器を装着した投げ槍という飛び道具は、アトラトルなどの
「投擲具」 の発明を経て、相当の距離へ及ぶ殺傷力を利して、「人間集団のサイズ」 を大きくする(約150人から数千人の集団へ)原因となったとされます。これは狩猟の規模が大きくなったことだけでなく、広い地域での人間管理が容易になったから、とも言われています。そして、現代人的行動は、後に詳述するクライン(Richard
G. Klein )の 「神経仮説」 が唱えるように、急速に開花したものではなく、この 「集団サイズの拡大」 が、コミュニケーションや試行錯誤の活発化を促し、それが芸術や技術などの文化を生み出したのだとされています。先に触れたとおり、人数が多くなれば、より多くの情報やアイディアが集まり、より多くの発明が出てくるからです。確かに人間の集団が大きくなることが、文化や技術を推進する重要な要素の一つであることは、考古学者も、よく指摘しているところです(McBrearty, S.他:2000年、p.532~/NHKスペシャル取材班:2012年、p.185~p189)。
また、文字の無かったこの時代には、修得した技術や知識を後世に伝える術がありませんでした。そこで、彼らは人数の多さを利用して、大勢で記憶し、大勢で口伝することによって、後世に伝承していったのではないかと考えられます(参照:後述の時間結合(time binding))。言語、文字などの象徴的記号が未発達の場合には、「集団サイズの大きさ」 も経験の伝達に貢献したのでしょう。ここ、ナブタ・プラヤにも、「祭儀場(集会場)」 へ周辺の多くの地域から大勢の人々が集まり、そこで多くのアイディアが持ち寄られ、取捨選択され、そして重要だと決定されたものが、何度もの試行錯誤の繰り返しの後、形をなして行ったのではないでしょうか。先に述べた、「ウォークイン方式の井戸」に止まらず、前5400年頃の 「石塚」 を皮切りに、これから述べる 「カレンダー・サークル」、「複合建造物」、「列石」 と矢継ぎ早に、斬新な建造物が作られたのも、この様な
「集団の拡大効果」 によるものなのかもしれません。
「集団のサイズ」 の話といえば、ジャレド・ダイアモンドが、人類学者エルマン・サーヴィス(Elman R. Service)の 「バンド、トライブ、チーフダム、ステート」
を表に整理しています(図表集:第60図)(ダイアモンド:2000年、下巻p.88~)。それによれば、「ウォークイン方式の井戸」 や 「石塚」 やこれから述べる巨石構造物たちを建造し得たのは、「指導者(首長)」 の下に統率された 「階級化された集団」 であり、ということは集団としては1000人を超える構成員を抱えた 「チーフダム」 の形をなしていたのでは、という想像も成り立ちます。「祭儀場(集会場)」 一杯に人が集まったナブタ・プラヤなら、1000人以上の人々が集まった情景が想像できなくもありません。ただ「チーフダム」の場合は、強力な首長の存在が前提とされているので、果たしてナブタ・プラヤがその域に達していたかは不明であり、無理に 「チーフダム」 と決めつける必要もありません。ただ、砂漠の僻地の小さな一画で、それなりにバンド、トライブ、チーフダムという、人類の定型の歩みを進めていたことは、注目に値します。
(四)複合建造物(E-96-1A) 戻る↑
①構造
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第17図:断面図(1が卓状岩、5が彫刻された岩) |
「石塚」 から約1.5km南に、数十個の巨石群があります(図表集:第6図)。これらの複合建造物(「Complex Structure」と呼ばれる石造物)は非常に特異な構造をしています(図表集:第18図~第24図)。想像して下さい、牧畜民たちは先ず”何故か”この場所を選定して、直径6mの立坑(たてあな)を掘り進めて行ったのです。そして約2.6m下でキノコ状の
「卓状岩=tablelock」 (第18図、図表集:第20図、第22図)に到達します。そして彼らは、その石英質の砂岩の北の面以外の三方を、弓形の層理面(bedding plane)に沿って見事な円形に切り取っています。その切り取られた内の2片は地表へ移されて、中心的な石(図表集:第19図の4)になっているのではないか、とウェンドルフは推測しています(Wendorf, F.他:2001年、p.510)。このようにして形づくられた「卓状岩」は南北に3.6m×東西に3.4mという巨大なもので、表面も滑らかに、美しく磨かれています(第18図、図表集:第22図)。
そうして出来上がった卓状岩は、再び約30cmプラヤ・シルトで埋め戻され、さらにその上にウシの形の巨岩 「彫刻された岩=sculptured stone」 (第17図)をほぼ真北に向けて縦に据え付けます。この岩は長さ1.9m×高さ1.5m×厚さ70cmもあり、重量も約2.5トンあって、それを垂直に保つために2本の石板で支えてあります。そしてその上に更に80cmプラヤ・シルトをかけて埋め終わり、最後に、その上に71個の石英質の砂岩を長円型に並べて複合建造物の出来上がり(第16図、図表集:第18図)となります。これだけの作業をなんの重機も無い約7000年も昔にやり遂げるには、相当な計画性や組織的労働が必要だったことは、想像に難くはありません。
このような卓状岩は、他に発掘された二つの複合建造物(「E-96-1B」、「E-96-1E」)にも共通しています。かつて、この構造物を作るに当たって、人々はどういう方法でこれらの「卓状岩」を嗅ぎ当てたのでしょう? これは⑤に詳しく取り上げます。
②列石の基点
後で 「列石」 の項で、詳しく説明しますが、驚いたことにこの複合建造物(E-96-1A)は、次章で紹介するナブタ・プラヤで非常に特徴的な5本の「列石」の基点(ハブ)にもなっているのです。ここを中心にして長い巨石群の列(=列石)が夜空の明るい星を指して放射状に並んでいます(第22図、図表集:第6図、第10-1図、第10-2図)。M.マルヴィルが広大な砂漠の中の、この壮大な構図に気付いたときの感動は、やはり想像を絶するものであったろうと、容易に察せられます。彼はこう述懐しています。
「私たちの画期的な大発見の端緒となったのは、列石群が複合建造物(E-96-1A)から放射状に伸びた、3本の線上(A1、A2、A3の上)に有るという発見だった」
(M.マルヴィル:不明)
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第18図:彫刻された岩(第16図の5) |
③彫刻された岩
発掘前にはここには恐らく王に匹敵する貴人が埋葬されているのだろうと、大いに期待されていたのですが、骨片一つ出てきませんでした。中央に鎮座している、ウシの形の巨岩 「彫刻された岩」 (第17図)は、どこかで行き倒れになった貴人の代わりとして埋葬された、一種の代理墓ではないかとも推測されていますが、真偽を明らかにするものは何もありません。ただ、当時すでに、崇敬の対象になっていた動物である「ウシ」を、大きな労力を費やして
「石像」 の形に造型して遺す、という作業は、それから約1000年後に建造された、スフィンクスを彷彿させるとも言えるのではないでしょうか。
④年代
この付近にはこのように宗教的な対象とも見られる複合建造物が合計30個も存在しています(図表集:第6図、第21図、拡大図 3)。その内の5個(「E-96-1A」~「E-96-1E」)を発掘調査したのですが、結局埋葬された人骨は勿論、代理墓のごとき物も全くありませんでした。五つ目の構造物(「E-96-1E」)の下にあった貝殻から木炭が取り出され、それは放射性炭素年代測定によって前3653年頃~3449年頃のものであると判明しています。しかし 「E-96-1A」 は、五本の列石の中心のハブであることから推して、前4800年頃のものであろうと、マルヴィルらは推測しています(Wendorf, F.他:2001年、p.520)。その推測を排除して、仮に放射性炭素年代測定の値を採っても、ジェセル王やクフ王のピラミッド建設の、約1000年前に、サハラ砂漠の真ん中で、これだけの作業をやってのけていたことになりますから、まさに瞠目に値します。
⑤卓状岩の謎
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第19図:卓状岩(第17図の1) 戻る |
①構造のところで私は、「牧畜民たちは”何故か”先ずこの場所を選定して」 と、サラリと書きました。しかし、登場したこの構造物は大きな謎を抱えたまま、存在を続けています。その謎とは、2.6mも地下に鎮座している 「卓状岩」 (右の第19図、図表集:第22図)なのです。この構造物の近くには他にも類似のものがいくつも有って、その中の3個だけが発掘されているのですが、実は二番目(E-96-1B)、三番目(E-96-1C)に発掘された構造物の地下にも、まるで言い合わせたように、真下にこのキノコ状の卓状岩が有るのです。
この卓状岩は構造のところでも解説したとおり、三方が見事な円弧状にカットされ、その上表面が丁寧に磨き上げられています。「E-96-1A」 の場合はその上に約30cmほどシルトを埋め戻し、そこへウシのような形の約2.5トンの
「彫刻された岩」 を、南北を指すように立て、その上に更に80cmほどシルトをかけて、最後に砂岩を楕円形に並べて、作業終了となっています(参考図)。勿論用途も、何か意味があるのかも、全く見当が付かないのです。
作業の大変さもさることながら、不思議なのはどうやってこれらの石英の卓状岩に辿り着いたか、もっと正確に言えば 「探り当てたか」 です。掘り始める前に、この場所の地下2.6mのあたりに 「卓状岩」が有ることを、どうやって予知できたのでしょう。この岩が発掘されてから11年後の2007年に書かれた
「Astronomy of Nabta Playa」 の中で、マルヴィルたちは、井戸を掘るときに偶然に発見したものとは考えられず、「依然謎のままである」
と嘆いています。この謎が解かれる時はしかし、果たして来るのでしょうか・・・? 更に研究が進められ、或いは他に、類似の構造物が発掘されるかして、この謎が解明されるのが、楽しみではあります。
第五章 天文観測に関係する遺物・遺構 戻る↑
前章の冒頭に記したとおり、ここナブタ・プラヤでは、日常生活と直接関係が無いと思われる遺構が、幾つも発見されています。この章ではその中でも特に天文観測に関係のあるものを、取り上げます。
(一)「北」を発見する 戻る↑
これまで何気なく 「北」 とか 「南」 とかいう表現を使ってきましたが、ナブタ・プラヤの時代には、先ずそういう知識そのものが無い状態からの出発だったはずです。昼夜を通して広漠たる砂漠を旅するとき、彼らが現在の位置を確かめ、目的地の方角を知るために 「北」 というような、一つの方角の指針を定める必要がありました。また、雨期の到来を予知するためには、「夏至の太陽が昇る方向」 を知ることも必要不可欠だったでしょう。
しかし、何の知識も持たない砂漠の遊牧民にとって、そもそも夜空の星の動きに一定の法則性を見出すことさえ、何十年のいや何百年の、模索や問答やそして口伝の繰り返しが、必要だったことでしょう。しかし彼らは成し遂げました。毎晩まいばん、飽きずに夜空を見上げることから、それは始まったはずです。長年の観察の結果、彼らは北極の空では一つの不動の星を中心に星が円を描いて回っていいることに気付くに至ります。その星が
「北極星」 であり、正確な 「北」 であるなどとは、知る必要も無かったのですが。現在の我々は、「彼らは北極星の方角の平らな地平線上で、特定の星が<登る場所>と<沈む場所>にケルンを置けば、その真ん中が
「北」 になる という原理にまで辿り着いた」(マルヴィル:2007年)などと簡単に片付けているのです。それはともかく、こうして見つけ出した 「北」
から、「南」 を定め、更に「夏至の太陽の昇る方向」や、「南中する時点」 を捉えるに至り、その知識が、この節に取り上げる様々な構造物の建造に、生かされて行きました。東西南北を極めて高い精度で計測している、ギザのピラミッドが作られたのは、前2600年頃ですから、すぐ後に述べる
「カレンダーサークル」 は、それよりも約2000年以上前に、正確な 「南北」 を割り出していたことになります。
ここで、ふと浮かんでくるのは、王朝時代の「ピラミッド・テキスト」の中の一節です。北極の周りの空は星が沈むことの無い領域(北半球の住人にとっては)なので、"死者は、決して消えることのない星々、北極星のまわりを回る周極星とともに永遠の命を生きる"と記されています。この頃のナブタ・プラヤの住民たちも、決して消滅することの無い、北の夜空に、「永遠」を感じ取ったのではなかったのでしょうか。毎年ある時期になると、真昼の太陽が同じ方向に南中し、その頃に決まって雨期がやってくることも、彼らには人知を越えた不思議な感じを抱かせたことだろうと思います。「信仰」や「宗教」が生まれたのは、人間のみが「未来を思う」ことが出来るからである、ということが、「ヒューマン」という本に説かれていますが(NHKスペシャル取材班:2012年、p300~)、未来を予告する天空に対する、畏怖や憧憬という素朴な心情も(柳沢桂子:2005年、p.93)、「信仰心」の要素になったのではないか、「北」を求める心もまた、「信仰」と関わりがあるのではないか、と思いを巡らすのも、そう見当違いではないかもしれません。
(二)カレンダー・サークル(環状列石)(E-92-9) 戻る↑
①構造
「石塚」 の項で紹介した、図表集の第6図の右上をご覧ください。ここへ注いでいる 「Valley of the Sacrifices」 の南端に、高さ2mほどの小高い丘があって、その上に意味ありげに並べられた石の構造物が有り、それは後にカレンダー・サークルと名付けられました(第20図、図表集:第12図)。カレンダー・サークル(環状列石)は砂岩を円形に並べて作られた直径約4mの小型の"ストーンサークル"です。発見当時はかなり不完全な姿(右の第20図、図表集:第14、第15図)でしたが、観察と研究によって、「カレンダー・サークル」 であると判断するまでには、かなりの調査と議論を要したことでしょう。私自身も書物やネット上から見付けた全ての写真を集め、子細に検討を重ねた結果を図表集に纏めているので、参考までにご覧ください(図表集:第14図~第17図)。 これは、現在は復元作業*12によってレプリカに再現され、ヌビア博物館に設置されています(図表集:第12-2図)。ご覧のように約55個のヌビア砂岩から出来ていて、これらの岩石は小さいものでは20×20×5cm、大きいものでは70×20×10cmに及んでいます。
②機能
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第22図:復元・イラスト化したもの
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このカレンダー・サークルには驚いたことに二本の「視線=Line of Sight」が設けられていて(左の第21図)、一つは「北」を、もう一つは 「夏至の太陽が昇る方向(約6000年前頃の)」 を指しています。言い換えれば、円を跨いで向き合う二対のゲートがあり、一対は南北を、またもう一対は夏至の太陽の昇る方向を指しているのです。 遊牧民たちは時々ここに立ち寄って、方角を確認したり、夏至が近づいていることを確かめたりしたのでしょう。先に述べたように当時の人びとにとって 「夏至」 は雨期の到来を告げる唯一の指標でした。そして雨は、食糧の貯蔵や家畜にとって、非常に重要な影響をもたらすものだったのです。なお、中央に6本の石が並んでいますが、この天文学的な意味は、いまだ不明のままです。
③異説
なお、「はじめに」 の中で触れましたが、研究者によっては、このサークルはオリオン星座を描いたものだという主張もなされていますが(Brophy:2002年)、そこで取り上げられた 「年代」 のでーたが、ナブタ・プラヤ成立以前を指していることもあり、マルヴィルらは言下に否定しています(参考:「列石と星たちとの関連」の項)。
④牧畜民の労苦 戻る
私たちが見落としがちなのは、このカレンダー・サークルを作った時の、牧畜民たちの行動です。先ず涸れ谷の尽きる所にある小高い丘を選んで、彼らは砂地に下絵を描いたのでしょう、そこへ少し離れた採石場から、わざわざ石を運んできて並べたのです。現在なら、天文知識を青写真に描いて、その通りに石を並べる、という簡単な作業かもしれません。しかし、この構造物が作られたのは、なんと約7000年前なのです。この章の冒頭に、彼らが「北」を求める話を書きました。当時の人々が、天空から読み取った 「北」 や 「夏至」 を、地上に 「下絵」 として書き写し、再現するにさえ、十年、百年単位の年月を費やしたはずです。そして、こえらの天文に対する基礎知識が、王朝時代に伝えられて、ピラミッド建設などの参考に供されたのかもしれません。少なくとも、それを否定する材料は、今までの所何も発見されていないのです。
⑤年代
周辺の炉の一つから採取した炭の年代は約前4800±60年を示しています。世界最古のストーン・サークル(ストーン・ヘンジ=第21図の参考図)は最も古いもので前3200頃~前2500年頃とされていますから、ナブタ・プラヤのカレンダー・サークルはスケールは小さくても機能的には最古のストーン・サークルと言っても過言ではないでしょう*13。第20図の参考図のストーン・ヘンジと見比べると、大小が余りにも顕著で、一見貧弱なのですが、しかしそれをもって、当時の人々の、天文知識と製作能力を云々するのは、いささか単純に過ぎると私は感じます。なお日本にも、縄文時代前期の阿久遺跡ほかの、ストーン・サークルがあり、同様に夏至の太陽を指す機能が指摘されていますが、年代の特定には至っていないようです。
⑥現状 戻る
なお、このカレンダー・サークルはエジプト政府の無関心と、心ない観光客のせいで、石が持ち去られたり、無関係の石ころが持ち込まれたり、位置を変えられたり、その上周囲にゴミが捨てられたりして、現在では完全に発見当時の姿を失ってしまいました(図表集:第16、第17図)。R・ボーヴァルとT・ブロフィーはその著書の中で、巻末に10ページを割いて慨嘆しています(Bauval:2011年、p.306~p.316)が、2014年9月現在、何の安全対策も施されていません*14。
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第20図:一本の石柱 |
(三)一本の石柱 戻る↑
広い砂漠に1本だけ立っている石柱があります(図表集:第27図)。砂漠にも珍しい、長さ約1mの見事な石柱が、ポツリと立っているのですから、最初に発見した調査隊員も、およそ自然の産物とは思えない石の棒に、奇妙な感覚を覚えたはずです。調査してみると、この石柱は夏至前後の数日間は、真っ直ぐ南中する太陽を指し、そのせいで、右の第19図のような影を生じることがないということが分かってきました。この石柱は、なんと、夏至の日を知るための、日時計に似た構造物だったのです。サハラ砂漠の遊牧民は、おそらく、影が出来ない日、すなわち「夏至の日」を知ることによって、雨期の到来を予測したのでしょう。先に述べたように、雨は彼らが蓄えた植物や、彼らの家畜にとって、極めて重要な存在であったのですから。それだけに止まらず、もしいつまでも雨が降らなければ、極乾燥期に入り、定住を諦めて一旦他の土地へ逃れなければならなかったのですから。
王朝時代にエジプト人は、毎年6月末になると、夜空で一番明るい星であるシリウスが、日出前に出現(ヘリアカルライジングheliacal rising)し、ちょうどその頃にナイル川の増水が始まることを発見しました。そしてその日を一年の始まりとして、最終的には太陽暦を完成するのです。夏至の太陽を特定することも、全く同様に、彼らの生活にとって、如何に重要であったかは、このことからも十分理解できることです。
残念ながら、この石柱については年代が検出されていませんが、天文学的な知識の程度から推して、恐らくは、次に述べる「カレンダー・サークル」と同じ頃だったのではないかと私は推測しています。なお、この石柱の位置を明示した地図は見当たりませんが、「Nature誌」
392号の記述と付図(目次横の最後の図)によれば、複合建造物の約1,500m真北から、東へ1.8度の位置に 「Monolith」 とあります。実は、現在どこにも明記してないのですが、ここから推測して、図表集の第6図の、「カレンダー・サークル」の約350m西にある 「MARKER」 が、「一本の石柱」 であろうと、私は推測しています。なおマルヴィルらは 「Nature誌」
の中で、「こういう形の石柱を選んだのか、意識的に彫刻したのかは分からないが、男性の繁殖力を象徴的に示すもの」 と論じています。
冒頭に 「日時計に似た構造物」 という表現を用いましたが、「日時計」 と 「一本の石柱」 は 「太陽を用いて特定の時間を知る」 と言う点では共通でも、本質は全く別物です。「一本の石柱」
は、対象が 「一日」 でなく 「一年」 であり、しかも一年の中の特定の数日間だけを指し示す 「天体観測装置」 という、用途の狭い、いわば特殊な装置なのです。ただこれだけの装置を考案するには、所謂
「日時計」 の原理はマスターしていると考えるべきでしょう。「Nature誌392号」 でも 「Monolith」 と名付けて取り上げては居ますが、解説を避けています。勿論ほかの関連文献も、触れては居ませんが、これは他にも類例が見当たりません。ナブタ・プラヤの民は、恐らく他に簡便な素材を用いて、日時計を常用しており、年単位の
「Monolith」 だけ、堅牢な素材を用いた大型なものを建造したのではないかという、想像は決して乱暴では無いと愚考します。NASAもこの建造物には特別な興味を示し、世界の天文学的珍現象・奇現象を集めたサイト「Astronomy Picture of the Day 」 の1998年4月8日に、人類の天文学的記念碑の一つとして、取り上げています。ちなみに 「Nature誌 392号」 が発刊されたのは、その6日前のことです。(参考:1 、2 「Nature誌392号」から)
(四)列石 戻る↑
①構造
前にも触れましたが、ここナブタ・プラヤには、24個の巨石群が直線状に並んだ列石が五本(右の第22図)あり、そのいずれもが明るい星の方向を指しています(左下の第23図)。「24個の巨石群」 と言っても巨石が24個有るわけではなく、図表集:第11-2図のように数個の砂岩の巨石が集まって(例外:A-0だけは1個の岩です:図表集:第11-1図)一つの塊を作り、その塊(=石碑群)が合計で24個有るのです。そのうえ、これらの巨石は数百mも離れた採石場から運ばれたものでした。これら五本の列石は実は一つの基点から放射状に並んでおり(第23図、図表集:第10-1図、第10-2図)、その基点になっているのが、第四章の最後に述べた 「複合建造物」 なのです。この事実に気づいたときの感動は、前章の 「複合建造物」 で紹介したとおり、とても大きなものでした。「複合建造物」 から 「列石」
の最北端の 「巨石A-0」 までは、約1kmあるのですから、この感動はよく理解できます。
お気付きかもしれませんが、右の第22図をよく見ると、A3とB2、A1とB1が、ほぼ直角を形成しています。これは当時の牧畜民たちの、角度に対する強い好奇心の表れではなかろうかと、マルヴィルらは指摘しています(M.マルヴィル:2007年)。
②列石の年代 なお、採石場から得た5つの放射性炭素測定年代は前4500年から4200年までを示しています。しかしマルヴィルたちは、巨石構造物E(「E-96-1E」)が、年代 「4800bp±80」 (=B.C.3551±102=B.C.3653~3449)を示しているので(Wendorf, F.他:2001年、p.517)、前3600年頃まで 「列石」 は作られていたのだろうと、推測し、「列石」 が作られた年代を前4500年頃~3600年頃の約900年間と算定しています(マルヴィル, M.他:2007年)。
③明るい星を指す
列石が指している方向は、第23図に示されているように、夜空に輝く明るい星、シリウス・アルクトゥルス・αケンタウルスなどです(ちなみに、シリウスは全天で最も明るく、またアルクトゥルスは3番目、αケンタウルスは4番目です。2番目に明るいカノープスは北半球では低い位置にしか上りません)。エジプトではシリウスの日出前出現(ヘリアカル・ライジング=heliacal rising)が見られるとナイル川の上流に雨が降って、増水時期に入ります。初期王朝時代(前2800年頃)には、このシリウスの出現とナイル川の増水との関連性に着目した結果、1年を365日と定め、そこから
「太陽暦」 が生まれることになりました(大城道則:2010年、p.64~、平凡社:1979年)。ナブタ・プラヤの民がシリウスに着目した理由は明らかにされていませんが、ナイルの増水時期がナブタ・プラヤの雨期と関連があったことは容易に想像できます。前4640年頃にはその星に向かって、巨石を並べ始めていたことは確かですから、シリウスのヘリアカル・ライジングで、雨期を確認したと想像できます。そして、その知識が王朝時代に伝えられた、と推測することも、間違いではないかもしれません。
それはともかく、牧畜民たちは夜を待って、これらの星によって方向を確かめ、年に一度の雨期の到来を確かめたのでしょうか。その意味では 「一本の石柱」
の大型版とも言えます。そして、「ここに一つ目印を固定しておこう」と思い立ち、それから多くの年月と労力を費やして、このように長大な列石群を作り上げたのでしょうか。この点については次項以下で詳しく触れます。
④歳差による変動
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第24図:列石が指す星 |
その中の 「列石A:A1・A2・A3」 は3番目に明るい星 「アルクトゥルス」 を指しているのですが、歳差によって星の位置が変わったため、3本作られたとされています(参照:第23図)。この表からも分かるように、アルクトゥルスは前4530年~4320年の約200年間は列石A3の指す方向に、前4220年~4020年の約200年間は列石A2の指す方向に、というように、歳差によって方位角*15が変わったからなのです。この事実だけから推測しても、アルクトゥルスを目印として定める作業が、前4530年~3630年の約900年間にわたって、営々と繰り返されていたことになります(参照:列石の年代)。この一見単純な3本の列石の維持が、砂漠の牧畜民にとって、いかに重要な作業であったかが、この一事からもしのばれます。ここで明らかになったように、これらの5本の列石は、歳差に従って、1本また1本と、1000年近い年月にわたって建造されたのです。そして出来上がったものは、広大な宇宙を窺う巨大な5本の
「矢印」 であり、これはまさしく、世界に類例を見ない壮大無比な天文観測装置であると言っても良いでしょう。ただ、今の私たちが、当時を生々しく想像したとき、或る強い疑問が頭をもたげてくるのです。
⑤強い疑問
五本の 「列石」 はいずれも夜空の明るい星を指しているとされています(第23図)。これは、何を目的として作られたのでしょうか。単純に方角を知るための、道しるべだと考えることはできません。夜の砂漠では、よほど月が明るくても、長さが約1kmにも及ぶ列石の全体を見通すことなど、できないはずですから。では、一体何のために、一つの方向に向かって、巨石をいくつも直線に並べるなどという、大変な労力を必要とする大事業に取り組んだのでしょう? 更に、出来上がった列石を、昼間はハッキリ見通せるとして、それをどんな目的に用いたのでしょう?そこで 「ナイル川の増水」
のような、何かの現象が存在したのかもしれないという上記の推測が生まれます。マルヴィルらは、何か雨を招く目的を推測しつつ、このように表現しています。
"これらの列石は、年月日などを読み取るためのツールとして造られたものではなく、むしろ夏至や雨期に特にまざまざと感じ取れる、天空と地球との一体感を、
讃えようとするものだったのではないだろうか。"(Wendorf, F.他:2001年、p.502)
確かに、ナイルの増水との関連を推測も出来ますが、明るい星を指す列石は、天空を崇める心の、一つの表現だと考える、すなわち何か 「信仰心」 に関わるものだと理解することも、一つの重要な方向でしょう。
もう一つの疑問は、マルヴィルらが9個の巨石群を 「列石A」 として3本の列石に、7個の巨石群を 「列石B」 として2本の列石に分けた発想です。列石A (A1・A2・A3) を、よく観察すると、「A-0」 から 「A-9」 までの10個を、三列に仕分けた方法に不自然さを覚えます。第22図の 「拡大図」 と 「現地分布図」 を、ジックリ見比べていると、ここには、後世の知識による、無理なコジツケが有るのではないかと、フト感じるのです。古代人が、ここまで歳差にこだわって、しかも1000年もの長年月にわたって、努力を続けたのだろうかと。その上、列石を構成する石の放射性炭素測定年代年代が、前記述の通り、前4500年~4300年の200年間に限られているのも、不自然だと思うのです。マルヴィルらの推論は正しかったのかも知れませんが、いずれにしても、夜空の明るい星の方向に、巨石を並べた意図と努力を想うと、ナブタの民の大事業は、脱帽に値すると思うのです。ただ、これは推測の域を出ませんが、のちの王朝時代のエジプト人のように、シリウスの出現を一年の始まりとして、「暦」 の発想をすでに体得していたのかもしれませんが、これを証するものは何もありません。
⑥列石Cの除外
上の図をご覧になっていて、お気付きの方もあるかもしれません。実は2001年に発刊された 「Holocene Settlement」 では 「列石:C」
が取り上げられていたのです(図表集:第10-2図)(Wendorf, F.他:2001年、p.494~)。しかし、マルヴィルらは後の研究で、「列石:C」 とされていた最南端の列石は、石たちが坂や小山の中腹に止まっているような状態で、必ずしも当初の並び方に忠実ではないと判明したので、現在では研究の対象から除外していると言っています(M.マルヴィル:2007年)。
(五)石碑群 戻る↑
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第25図:石碑の群れのイラスト |
①位置
ここで、図表集の第11-5図をご覧ください。上に述べた 「列石:A1・A2・A3」 から南へ約500m行くと、それらの基点(ハブ)になっている「複合建造物=E-96-1A」が有ります。この図では左上に見られますが、その周辺から南東方向にかけて相当な数の赤い点があります。それはマークの解説では 「巨石」 としてありますが、ご覧の図では
「Western Group of stelae=石碑たちの西のグループ」 などと記してあります。図表集:第11-10-1図で分かるように、いずれも 「巨石を含んだ石碑の群れ」 を意味しているのです。
②構造
大半は 「石碑の群れ」 であって、単体で存在することは稀で、列石の北端の 「A-0」 (図表集:第11-1図)と、「1本の石柱」 以外には見当たりません。多数存在する石碑は70kgほどのものから、大きいものでは数トンに達します。現在見られるものは、殆どが地上にばらまかれた状態ですが、中には第25図のように傾いた状態のものもあり、当初は真っ直ぐ立てられていたのだろう(右の第24図)と推察されています(図表集:第11-10-1図、第11-10-2図)。
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第26図:北へ傾いた石碑 |
③機能
列石以外のこれらの石碑群が、どんな目的で建てられたのかは分かっていませんが、いずれの石にも共通しているのは、それらが一様に 「北」 を向いて建てられていたことです。そして現在では、北からの強い風に根元を抉られて、北向きに倒れている石が多く見られるのです(左の第25図)。第24図の、北を指す矢印にご注目ください、石碑が全て北を向いています。人物と岩の影が、南側に描かれているのは、イラストのミスだと思われます。
もう一つ注目するべきことは、多くの石碑が人間の頭と肩のラインを思わせる形に、成形されていることです(図表集:第11-1-2図 )。これは、死者を追悼する気持ちの表れではないかとの推測もなされています(Wendorf, F.他:2004年、p.13)。北を指すという道標として用いられただけではなく、或いは北方への憧憬と共に、「死者を追悼する心」 を読み取るべきなのかもしれません。
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