(Japanese version only)                                                                                                                       
 ナブタ・プラヤ
 (NabtaPlaya)
 
ナブタ・プラヤ 図表集
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文明の誕生へ
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ナブタ・プラヤ 図表集
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ナブタ・プラヤ
――
サハラ砂漠の 牧畜民が生んだ 太古の天文学――                               
                                                            大槻雅俊 


1、夏至の太陽を指す一本の石柱   
      

2、正確に方位を示すカレンダーサークル
           

3、明るい星を指す列石の分布図
  
目次                               戻る
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    はじめに
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    第Ⅰ部 成り立ち―文明の先駆者として
       第一章 歴史
         ・年表:ナブタプラヤの略史
       第二章 現在の姿
          (一)位置 
          (二)現状 
          (三)地層の特殊性 
          (四)呼称について 
       第三章 周辺の遺跡
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    第Ⅱ部 遺物と遺構たち最古の土器から天文観測装置まで
         第一章 三つの地域
         第二章 三種類の遺物と遺構
         第三章 日常生活のための遺物や遺構
          (一)住居址
           (二)井戸 
           (三)石器
            幅広い出土年代、狩猟の対象、繋牧用の石や石皿 
          (四)土器
            世界最古の土器、櫛目文と波状文、黒頂土器と赤色磨研土器
           (五)貝殻・骨などの加工品
          (六)植物類
            ―植物の用途、ソルガム・ミレットの栽培、ムギ類は、農耕について 
          (七)動物類
            ―主な動物類、ウシの重要性、ウシの家畜化、ヒツジ・ヤギの伝播 
        第四章 祭儀のための遺物や遺構
          (一)人骨
            ―四人の人骨、埋葬の形態、埋葬の動機
          (二)ウシを埋葬した石塚(E-94-1n)
            ―場所の選定、構造、年代
          (三)地域祭儀場(集会場)
            ―地域祭儀場の形成、地域祭儀場の意義
           (四)複合建造物(E-96-1A)
            構造、列石の基点、彫刻された岩、年代、卓状岩の謎
          第五章 天文観測に関係する遺物・遺構
          (一)「北」を発見する
          (二)カレンダー・サークル(環状列石)(E-92-9)
            構造、機能、異説、牧畜民の労苦、年代、現状
          (三)一本の石柱
          (四)列石
            構造、明るい星を指す、歳差による変動、列石Cの除外
          (五)石碑群
            位置、構造、機能
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    第Ⅲ部 この遺跡が語りかけるもの―「文明」のかたち―
         第一章 砂漠の巨石群
          (一)特異な地域祭儀場
          (二)北から南へ
            石塚、カレンダーサークル、一本の石柱、列石、複合建造物、
                「秩序」は偶然か、計画的か?
          (三)水を求めて
            水が生命線、水を求める努力、巨石構造物の群れへ
         第二章 砂上の文化を育てたものは?
          (一)砂上の楼閣でなく
            砂上の楼閣でなく、ナブタ・プラヤの特異性、ナブタ・プラヤ文化
          (二)ホモ・サピエンスの文化的進歩
             付表:G.チャイルド と 「ナブタ・プラヤ
          (三)ホモ・サピエンスの生物学的進化 
         第三章 文明の発展とナブタ・プラヤの文化
          (一)ナブタ・プラヤの5000年間
          (二)その後の5000年間 
 
    あとがき
    
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    「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」 中の語彙検索の方法 
    【参考文献・参考サイト】
    【図表の出典】




はじめに
                                                                        戻る

 
第1図:ナブタ・プラヤにある三日月砂丘。約10,000年前には、ほぼこの陰の部分が
季節的に湖になっていました。(遠景にあるのは調査中のCPEのテント群です)

 これからここにご紹介するのは、今から約一万年前に南エジプトに実在した、とても風変わりな文化の遺跡です。この遺跡からは、実に奇妙な遺物が何種類も発見されて、考古学者を驚かせました。たとえば、南中した夏至の太陽を、ピタリと指すように立てられた石柱や、シリウスを指して並べられた巨石の列、さらに夏至の太陽の昇る位置を正確に指し示すカレンダー・サークルなどという、信じられないような天文測定装置です。(写真:目次横) ほかにも、地中深く埋められた、重さ2.5トンにも達する、ウシの形に彫られた巨岩や、実に丁重に埋葬された牝牛の墓などのように、ほかの遺跡には見られない、珍しいものが出てきたのです。

 「ナブタ・プラヤ」 と名付けられた、この古い遺跡は、アフリカ大陸、エジプト南部のサハラ砂漠の一隅にあります(第5図)。一万年以上も前に、ウシを連れた遊牧民がここに住み着き、それから約五千年もかけて、こつこつと村を大きくし、ついには、高度な知識を必要とする、上記のような複雑な構造物まで造り出しながらも、なんと紀元前3300年頃、忽然と居なくなってしまいました。そしてそれからまたもや約五千年の間、地球上の他の地域で様々な文化が興隆するのを余所目に、この砂地は誰にも知られることなく、ただ黙々と横たわっていました。そして、実は僅か数十年前の1973年に、他の遺跡調査の帰路、小休止で車を止めたCPE*1のメンバーが、たまたま拾い上げた小さな土塊が、紛れもなく土器のカケラであると気付いたのをキッカケに、発見されることになったのです。

 ところがいざ調べ始めると、面積は約70k㎡という広い範囲に及び(例えば東京都の世田谷区―58k㎡―がスッポリ入る大きさです)、しかも上に紹介したような、実に多種多様な遺物を、他にも数多く埋蔵していることが分かってきました。発見の翌年から始められた、CPEの発掘作業は、実はその後ナブタ・プラヤに止まること無く、ごく自然に、ナイル川西岸の広大な西部砂漠一帯(参照:図表集 *2第1-2図)に広がっていき、ナブタ・プラヤには見られなかった、貴重な遺物をも発見することになりました。ナブタ・プラヤ近辺も含めて、出土した遺物の総数は、年代の判明したものだけでも、なんと170個を上回ります(参考:第3図)。そのため、それから実に25年間に及ぶ入念な発掘調査と綿密な研究を経て、ようやく1998年に最初の論文が 「Nature誌」 392号に発表され、そしてこれが考古学や人類学の分野で、一躍脚光を浴びることになったのです。


 しかし、勿論、ナブタ・プラヤがこの時期に、これほど脚光を浴びたのには、実はそれなりの理由が、いくつか重なっていました。一つは、冒頭に紹介したような、他に類例を見ない、特異な遺物たちであり、もう一つは、当時の学術研究の飛躍的な隆盛です。ここでは、主なものをいくつか紹介します。

 (一)高度な天文学的知識
――先ずなによりも人々を驚かせたのは、こんな辺鄙な砂漠の一角に、正確な天文観測の結果に基づいて造られた、巨石を用いた建造物が、何種類も存在したことです。さらに、その基礎となった 「天文学的知識」 は、とても不思議なことに、非常に高度でありながら、しかも紛れもなく、ここ東サハラ砂漠の、ナブタ・プラヤの牧畜民によってこつこつと習得され、そして蓄積されたものであり、他の地域から持ち込まれた知識ではなかったのです。後に詳細を説明しますが、初期王朝時代に誕生した 「太陽暦」 に、この基礎知識が影響を及ぼしているという可能性は、決して無いとは言い切れません。なお、これらの建造物の中には、数千年後に花開くエジプト文明の、ピラミッドやスフィンクスを彷彿とさせる遺構さえ含まれていたのです。この紀元前約5000年頃に修得された 「天文学的知識」 は、現在では、多分世界最古のものであろうと考えられています。後にも触れますが、これらが後のエジプト文明の興隆に少なからぬ貢献をしたであろうことは、発見当初から多くの学者が言及するところとなっています。

 (二)学術研究の目覚ましい発展と考古学
――第二次世界大戦が終わりを告げ、やがて20世紀の後半から、多くの分野で学術研究が画期的な成長を見せ始めました。例えば考古学の分野でも、DNA研究、年代測定法、人工衛星を用いた地上探査などの活用によって、新しい遺跡の発掘調査やその研究内容が飛躍的に進展し、様々な新事実が続々と明らかになってきました。そして、それを元にして、従来の定説が見直しを迫られたり、次々と新しい仮説が登場したりし始めたのです。もちろん、分子生物学、脳科学、古人類学を始めとする、様々な分野の学問の長足の進歩も、考古学の分野に計り知れない示唆を与えることになったことは言うまでもありません。ここでは、そのうちでもナブタ・プラヤに関わりの深いものを三つ紹介します。

 
第2図:アフリカの現代人的行動の起源 戻る

  ①「文明の基準」の模索――あたかも20世紀の半ば、1950年にゴードン・チャイルド(Gordon Childe)が 「文明の基準」 を求めようと試み、それは学界に強い関心を呼び起こし、正に甲論乙駁の議論を巻き起こしました。そしてそれから50年後の2000年に、サリー・マクブレアティ(Sally McBrearty)らは、アフリカ各地の遺跡を調査し、ホモ・サピエンスの 「現代人的行動」 が、中期石器時代(MSA)以後の色々な年代に徐々に出現したことを突き止め(第2図)、そしてさらに、それらの現代人的行動を可能ならしめたのは、①抽象化能力、②企画・計画能力、③技術面の創造力、④象徴化能力  という、ホモ・サピエンスならではの能力であることを推論し、「文明」 の実質を抽出するに到ったのです。言い換えればマクブレアティらは、「現代人的行動」 をキーワードに、文明の実態を人類の能力面から分析することに成功したのです。実は、これらの 「文明」 に関する議論の数々は、逆に、ナブタ・プラヤという特異な 「文化」 の、存立の可能性を証明するための、一つの科学的裏付けを、示すことに役立ってくれています。なお、この項の詳細については、第Ⅲ部以降で取り上げます。

  ②農耕の開始時期を巡る議論――一方農耕に関しても、「短期間で革命的に発明された定住農耕社会の出現により、文明が飛躍的に成長した」 とする従来の定説に、疑義が投げかけられ始めました(ポンティング, クライヴ:1994年、上p.65~/海部 陽介:2005年、p.281~)*3。ここナブタ・プラヤでも、なんと砂漠の住民が、農耕には全く無関係に、牧畜文化を基盤にしながら、「社会的統率力」 を携えた「支配者層」 を生むに到ります。そして 「階級組織」 が生じ、規模の大きい複雑な 「共同作業」 を可能にし、ついには天文観測のための建造物を作り上げるに到った、ということが明らかになったのです。これは、明らかに 「支配者層」 や 「公共建造物」 の出現であり、たとえばゴードン・チャイルドの定義する 「文明」(Maisels, C. K.:1999年、p.24/高宮いづみ:2003年、p.17)の第一歩を、それも 「農耕文化」 を経由することなく踏み出していたことを示している、と言っても良いでしょう。このことは、図らずも従来の、「定住農耕社会は文明誕生の必須条件である」 とする定説を覆す一つの例を、明快に提示することにもなりました。

  ③ナイル流域と東サハラ両地域の研究の進歩――先に述べたように、ナイル川西岸に広がる西部砂漠でも、多くの遺跡が発掘されました。そしてそれらの遺物の内容や年代や、さらに遺跡相互間の関連性が明らかにされるにつれ、東サハラ(図表集:第1-2図)のオアシス周辺の文化が先ず先行して発達し、それが後にナイル流域に流入したという可能性が、指摘されるようになってきたのです。このタイミングでのナブタ・プラヤの発見は、その内容の豊富さと相俟って、文化の流入の可能性を証明する、正に好個の材料を提供しました。いみじくもエジプト学者 大城道則はこう記しています。

   "ナイル河谷においてピラミッドが出現する以前に、ナブタ・プラヤやその他の地域に比較的大きな石造建造物があったという事実は認めざるを得ない。
   後の時代にナイル河谷において真正ピラミッドとして結実する古代エジプトの巨石文化の起源とその製作の際に利用された天文学的知識・測量技術の源は、
   ナイル河谷から見て西方・南方のサハラ世界にあるのかもしれない。"(大城則道:2010年、p.73⇒参照・大城道則:2009年、p.17)

 ここに述べた四つの 「脚光を浴びた理由」 は、先に触れたとおり、裏返せばまた、ナブタ・プラヤの特質を、一つ一つ的確に裏付けているものであるとも言えるでしょう。ナブタ・プラヤという、強烈な個性を持つこの文化は、約五千年間という年月を費やし、通常の定住農耕生活 を体験することなく、「現代人的行動」 を原動力として、砂漠の一隅に小さな集落を育て、巨石を組み上げて建造物を遺し、一つの「文化」 を育て上げたのです。そして、ナイル流域に影響を及ぼし、ひいては後のエジプト文明の萌芽を促しながら、やがて、前3300年頃の乾燥期に至るや、上下エジプトの統一(前3100年頃)と呼応するかのように、忽然と姿を消してしまいました。メソポタミア、中国など他の諸文明はいずれも大河と広大な土地に恵まれています。ナブタ・プラヤは、砂漠の内陸湖畔の、わずか70k㎡という小さな集落の中で、ささやかながら一つの 「文化」 を作り上げました。縄文時代だけでも1万年以上続いた、日本の古代史と比較してみても、五千年という短期間に、ナブタ・プラヤの民が為し遂げた成果は、一驚に値します。ナブタ・プラヤという砂上の遺跡は、そういう意味でも、文明史上かなり特異な存在であり、南西アジアのナトゥーフ文化に勝るとも劣らない、注目すべき文化であった、と言っても良いでしょう。


 ところが 「Nature誌」 の論文から15年以上を経過しても、「ナブタ・プラヤ」 の名が日本の教科書は勿論、書籍やメディアに登場することは極めて稀で、管見によれば、僅かに大貫良夫他著 「世界の歴史 1」、大城道則著 「ピラミッドへの道」、近藤二郎著 「エジプトの考古学」、高宮いづみ著 「エジプト文明の誕生」、および翻訳書では、ロバート・M・ショック他著 「神々の声」 の合計五冊に、ややまとまった説明が見られるだけなのです(他に、「ピラミッド以前の古代エジプト文明」、「古代エジプト文明社会の形成」、「古代文明と気候大変動」、「銃・病原菌・鉄」、「神々の指紋(下)」 でも、わずかに触れられています)。インターネット上では 「BlueRose Wiki」 の 「ナブタ・プラヤ遺跡」、エジプト学の西村洋子氏および先に挙げた大城道則氏、高宮いづみ氏の他には数少なく、勿論正確な全容の紹介は見られません(2016年12月現在)(⇒参考文献)。

 一方欧米では、Wikipedia「Nabta Playa」ほか驚くほど多数のサイトが「ナブタ・プラヤ」をつぶさに紹介し、また関係する書籍では"ナブタ・プラヤの百科事典"とも言うべき、F.ウェンドルフ、R.シルト他共著 「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」 をはじめ、トーマス・ブロフィー著 「The Origin Map」、ロバート・ボーヴァル、トーマス・ブロフィー共著 「Black Genesis : The Prehistoric Origins of Ancient Egypt」 ほか、約120冊を数えます(Amazon.Com内検索による)。

 少し余談になりますが、「The Origin Map」 の中でブロフィーが提示した、ナブタ・プラヤの或る遺構の構成を、星座に結びつけた仮説に、些か奇矯に過ぎる点があり、これに対しては、マルヴィル、ウェンドルフ、シルト他共同執筆の 「Astronomy of Nabta Playa」 の中で痛烈な批判がなされました(マルヴィル, M.他:2007年)。それに対して 「Black Genesis」 では折り返し厳しい反論が繰り広げられるなど、激しい応酬が飛び交っているのです(Bauval, R. and Brophy,T. G.:2011年)。さらにボーヴァルとブロフィーは、観光客らによる 「ナブタ・プラヤ」 遺跡の毀損行為について、「Black Genesis」 の中で11ページを費やして強く非難し(Bauval, R. and Brophy,T. G.:2011年、p.306~)、またグラハム・ハンコックが運営するサイトのBBSにも、"嘆き節"を投稿する(2008年4月)など、欧米での関心は現在進行形なのです(⇒参考文献・参考サイト)。

 欧米ではこのように白熱した議論さえ展開されているにもかかわらず、ひるがえって日本では、簡単な解説一つ見出すのさえ困難な状況です。そこでこのサイトでは 「ナブタ・プラヤ」 とはどんな遺跡なのか、そしてそれは、エジプトの古代文明の歴史上―あるいは人類の文明史上と言って良いかもしれません―、どんな位置を占めているのかを、とにかく分かりやすく、写真や図表をまじえて説明しようと試みました。その作業の最中に、私は実に奇妙な 「幻想」 とでも表現すべき思いに襲われました。”CPEのメンバーに 「土器の欠片」 を差し出したのは、実はナブタ・プラヤの民の霊魂である。彼らはナブタ・プラヤの文化の存在を、我々に気付かせ、現代の文明を振り返らせることによって、人類の直面している危機を知らせようとしてくれたのだ。"という幻想です。これが全くの幻想にとどまってくれることを願ってやみません。


 なお、本文は以下の三つの論文を、主著者であるマルヴィル氏及びR.シルト氏の許可を得て邦訳し、それを原本にして読者が理解しやすいように、読み物風にアレンジしたものです。
   ・M.マルヴィル、F.ウェンドルフ、A.マザール、R.シルト著 「南エジプトの巨石と新石器時代の天文学」(「Nature誌:392号 1998年4月2日」 から)
   ・M.マルヴィル、R.シルト、F.ウェンドルフ、R.ブレマー著 「ナブタ・プラヤの天文学」(2007年刊 「Astronomy of Nabta Playa」 から)
   ・F.ウェンドルフ、R.シルト著 「南西エジプト、ナブタ・プラヤ(サハラ砂漠)にある後期新石器時代の巨石構造物」(1998年)も参考にしています。
  
・なお、多くの具体的事例に関して、F.ウェンドルフ他著 「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」 ほかからもページを明記した上で引用しています。
    詳細は、参考文献・参考サイト(References)をご参照ください。


※おことわり:

  (一)サブタイトルと本文中に、「牧畜民」 という言葉を用いていますが、これは国語辞典には収載されていません。しかし 「世界大百科事典」 ほかに広く用いられている実情
  (特に東アフリカのマサイ族やヌアー族に関して)に鑑みて、このサイトでは使用に踏み切っていますのでご了承ください。
  なお 「遊牧民」 も併用していますが、これは本来の意味 「遊牧しながら生活を営む人々」 (英語では"nomad"、"namadic people"など)で用いています。
  ちなみに、「牧畜民」 に対応する英語は"pastoralist"、"herder"、"herdsman"などです。
  (二)私は文中で、所々に 「文化」 と 「文明」 という言葉を使っていますが、これは勿論、何気なく使い分けているわけではありません。
  先に引用したG.チャイルドほかの文明の定義なども参考にした上で、国語辞典や高校教科書や概説書などで、 ごく普通になされている使い方を尊重しています。
  いろいろある中で、一つ短いけれど上手くまとめてある 「世界考古学事典」 の 「文明」 の項から引用しておきます。
       "(文明とは)高度の発展段階に達した文化、つまり、都市・国家・階級分化・文字を持つような文化をさす。"
  (三)以下の文中では、原則として敬称を略させて頂きました。






第Ⅰ部 成り立ち文明の先駆者として


 
第一章 歴史
     戻る 
縦軸は年代の長さを現してはいません。出土遺物の数によって左右されています。
「EL ADAM」などは東サハラ固有の年代表示です。

対角線状に続く+の列は、約170個の出土遺物の年代(炭素14年代測定法B.P.による)を並べたものです。+の横線は年代の振れ幅を示しています。約170個の出土遺物の一覧表は、こちらの「ナブタ・プラヤの出土品:年代別一覧表 」です。
第3図:時代別・年代別の遺物分布状況  戻る

 今から約1万1000年前に、遊牧民たちは何故このような砂漠の一隅に足を止め、そして生活を始めたのでしょう? さらに、彼らは何千年も費やして、集落を作り上げ、ソルガム(モロコシ)を栽培し、最後には巨大な石を組み立てて、天文事象を正確に再現した構造物まで作り上げるに到ります。ところが、約五千年ほど経つと、何もかも放り出して、さっさとどこかへ去って行ってしまったのです。不思議と言えば不思議なのですが、全てはここエジプトの、西部砂漠の気候のせいだったのです。

 以下にその経緯を、年代を追って、少し細かく記しますが、この章は右の第2図や、下の 「年表」 と見比べながらお読みいただくと、一層分かり易いと思います。この年表には、日本の縄文時代、弥生時代も表示しています。参考になさってください。
 
 ●今から約1万3000年前、最終氷期(ウルム氷期)が終わりました。しかし、そこから現在の間氷期へ移っていく 「温暖化」 の途中で、再び「寒の戻り」とも呼ばれる寒冷期が訪れます。これは 「ヤンガードリアス」 (参考図)と名付けられ、紀元前9500年頃まで続きました。  

 ●縄文時代から弥生時代へと、単調な変化でとらえられる日本の古代と違って、巨大なアフリカ大陸においては、地域により、部族によって、形成される文化は実に多彩でした(図表集:第46図~第47図)。ここナブタ・プラヤは例えば第46-1図では、「西部砂漠」 に属します。前9500年頃までの終末期旧石器時代(Epipaleolithic)の後、この地の文化は、活気を帯びはじめます。

 ●初期新石器時代の初め、前9000年の始め頃、北アフリカでは熱帯収束帯が北上してきて、それまで極端な乾燥地帯だったサハラ砂漠に雨をもたらし、そしてその雨が砂漠地帯にオアシスや、内陸湖や、植生豊かな低地などを生むことになりました。その一つが、南エジプトでは最大の窪地の一つである 「ナブタ・プラヤ」 だったのです。周辺の遊牧民たちは、雨が来れば、水や植物や、それに群がる小動物たちに吸い寄せられるように、この内陸湖へ集まり始めました。そして極端な乾燥期が襲ってくる度に、ふたたび周辺の地やナイル流域へ一旦帰っていく、という状態が繰り返されていました。その 「極乾燥期(period of hyperaridity)=無居住状態」 は第3図の通り、間をおきながらも五回襲ってきて、住民はその度に、長いときには約200年間も、一時この地を離れざるを得なかったのです。それは後期新石器時代に到るまで、間歇的に続きました。それにしても、遊牧民たちが繰り返し、一旦放棄したこのナブタ・プラヤに戻ってきたのは、何故なのでしょう。よほど他に適地がなかったのでしょうか?(参考:第Ⅱ部・第一章
 
  ●そんなナブタ・プラヤへ集まってきたのは、他ならぬウシを連れた遊牧民であり、牧畜は既に生活の一部でした。前8800年頃から、雨のある時期だけ、ナブタ・プラヤに、彼らは住み始めました。井戸はまだ無いのですが、土器石刃やダチョウの卵殻で作ったビーズやボトル、それに種子などを粉砕するための、石皿すり石が、この頃の遺跡から出土しています。徐々に定住生活が始まっていたのでしょう。(参考:第Ⅱ部・第三章(七)

 ●前8200年頃にはすでに土器が作られていたことが、明らかになっています。ナブタ・プラヤから北へ約40kmの 「エル・ゲバル・エル・ベイド遺跡」 の 「E-77-7」 遺跡*4 で、土器片が発掘されているのです。さらに近隣の遺跡「ビル・キセイバ」からは、前10,600年(約1万2600年前)という年代を示す土器が出土しています。これは現在のところ、少なくとも、北アフリカ大陸では最古のものとされています。(参考:第Ⅱ部・第三章・(四)


第4図:アフリカでの牧畜の開始 戻る

 ●その後前7400年頃までには、水を確保するために浅い井戸が掘られるようになります。これは「E-75-6」遺跡の発掘により明らかにされました。定住生活が根付き始めたことを示すものでしょう。(参考:第Ⅱ部・第三章・(一)

 ●この 「E-75-6」 から出土した遺物からは、前7200年頃にはソルガム(モロコシ)やミレット(キビ)などの栽培が始まっていたと判断する材料も発見されています(参考:第Ⅱ部・第三章・(六))。

 ●前6800年頃から、砂漠の生活には欠かせないウォークイン方式の大きな井戸を備えた集落が出来はじめ、以後は長期の定住が可能になりました。大きな井戸を建造したということは、この頃から、すでに 「社会的統率力」 が芽生えていたことを示すもので、「支配者層」 や 「階級組織」 の存在を証明するものでもあり、それによって、その後様々な建造作業の規模・内容共に、徐々に充実していくのです。(参考:第Ⅱ部・第三章・(二)

 ●その後も、極乾燥による、「無居住状態」 を何度も乗り越えながら、中期新石器時代の前5900年頃には、周辺の各地から集まった遊牧民たちが、物々交換や情報交換や冠婚葬祭の儀式を行うようになり(マルヴィル:1998年)、ナブタ・プラヤはこの地域のための、一つの大きな 「集会場(祭儀場)」 とされるまでに育っていきます。実はこの 「祭儀場」 の存在が、この砂漠の僻地における、意外なほどの文化の発展の、大きな原因の一つだと、考えられるのですが、それについては後で詳しく触れます。(参考:第Ⅱ部・第四章・(三)・②)
 また、この頃に、南西アジアからヒツジヤギがやって来て、家畜の仲間入りをしたとされています。(参考:第Ⅱ部・第三章・(七)

 ●後期新石器時代・前5400年頃からは祭儀場に集まる人が増加し、 「階級組織」 が一層充実して、大がかりな「共同作業」 が可能になり、巨石の建造物を造るまでに成長していきました。先に触れたとおり、巨石を用いた構造物は、驚くほど種類が多く、ときにはかなり高度な天文学的知識を要する、複雑な構造物まで建造するに到ります(参考:第Ⅱ部・第四章第五章)。

 ●ナブタ・プラヤの民は、周辺地域から完全に孤絶した環境にありながら、牧畜や栽培を習得し、指導者と仰ぐ人を立て、独力で天文事象を観測して、それを反映する建造物を建てるまでに到ったのです。これらの 「現代人的行動」 は、明らかに 「文明の萌芽」 と称するに値するのではないでしょうか。たとえば同様に孤絶した、島国日本の縄文時代(16,500年前~前500年頃)では、どうだったのでしょう。磨製石器、土偶、竪穴式住居の製作・建造などナブタ・プラヤには見られない物も有りますが、中でも特筆すべきは 「大湯(おおゆ)環状列石」 (前2000年~1500年頃)で、天文学的にも相当程度のレベルと目されているようですが、ナブタ・プラヤの建造物には到底及ばないでしょう。

 ●しかし、このように多種多様な遺構や遺物を遺し、「文明」 を彷彿させる「文化」 に近づきながら、末期新石器時代の終わり頃、前3300年頃にまたもや襲ってきた極乾燥期のため、ナブタ・プラヤは再び人の住めない土地となり、やがて住民たちはこの地を後にして、周辺地域やナイル流域へと去って行きました。こうして約五千年間続いたナブタ・プラヤは、その歴史を閉じてしまいました。

 ●そしてその後、1973年に他の遺跡の調査行の帰途、”トイレ休憩”のため偶然この地に降り立つたCPE*1のメンバーが、ふと目に止めた土塊が、紛れもない土器の一片であると気付くまでの約五千年間、この地は全く顧みられることもなく、長い長い眠りについていたのです。ピラミッドで花開く、エジプトの古代文明の萌芽を、深く砂で覆い隠したまま…。


 付表:ナブタ・プラヤの略史年表

 実はアフリカの 「石器時代」 の区分は、ヨーロッパや西アジアとは少し異なっています。先ず石器時代(Stone Age)を前期(Eearlier Stone Age)・中期(Middle Stone Age)・後期(Later Stone Age)の三つに分け、それぞれを 「ESA」、「MSA」、「LSA」 と略称します(参考)。そしてその後に終末期旧石器時代=Epipaleolithic(または、続旧石器時代/中石器時代=Mesolithic)、それに続いて、新石器時代(Neolithic)、とするのが一般的です。(参考⇒(海部陽介:2005年、p.34、p.58/近藤二郎:1997年、p.250/高宮いづみ:2003年、p.268))。ここに取り上げる、新石器時代以降についても、地域(上エジプト、下エジプト、東サハラ及びヌビアなど)によって、特殊な「文化の呼称(「EL ADAM」など)」が与えられていて、各時代の区分やその文化の表記はとても複雑になっています(図表集:第45図~第47図)。ここでは、「Nature誌:392号」 への投稿者たち(M.マルヴィル、F.ウェンドルフなど)による、「時代」 と 「文化」 の呼称を採用し、かつ、分かり易さを優先して作表しています。 

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年  表 : ナ ブ タ・プ ラ ヤ の 略 史
 時     代 文化の呼称(東サハラ)  年     代 主  な  出  来  事
前期石器時代(ESA)  ―  約260万年前~15万年前  ―
中期石器時代(MSA)  ―  約15万年前~5万年前  ―
後期石器時代(LSA)  ―  約5万年前~紀元前1万年頃 約16500年前~紀元前800年頃、日本は縄文時代。以後紀元250年頃まで弥生時代。
終末期旧石器時代
(ヤンガードリアス期)
 ―  前10900年頃~9500年頃 最終氷期から温暖化へ向かった直後再び短い寒冷期が襲ってきた。農耕はこの時期が終わってから始まった。
初期新石器時代 El Adam  前9000年頃~前7700年頃 夏のモンスーンが中央アフリカから北へ移動して、極乾燥地に雨をもたらした。そこでウシを家畜とし、土器を作る遊牧民が住み始めた。
極乾燥期  前7700年頃~前7570年頃  完全な渇水のため、人々は他の土地へ移住した。 
El Ghorab   前7570年頃~前7200年頃 住居(小屋・炉)が出来、集落が整備され、ソルガムミレットなどの栽培が始まった。
極乾燥期  前7200年頃~前7050年頃  完全な渇水のため、人々は他の土地へ移住した。 
El Nabta 前7050年頃~前6800年頃 集落に井戸が造られた。
Al Jerar 前6800年頃~前6100年頃 ウォークイン方式の井戸が掘られ、一年を通じて住めるようになった。牧畜を証明する「繋牧用の石」が用いられた。
極乾燥期   ― 前6100年頃~前5900年頃  完全な渇水のため、人々は他の土地へ移住した。 
中期新石器時代 Ru'at El Ghanam
(「羊・山羊飼い」の意味) 
前5900年頃~前5500年頃 西岸に周辺の各地から人が集まって祭儀場で集会や儀式が開かれるようになった。ヒツジヤギが現れたが、これは南西アジアから伝わったものとされている。
極乾燥期   ―  前5500年頃~前5400年頃  完全な渇水のため、人々は他の土地へ移住した。 
後期新石器時代 Ru'at El Baqar
(「牛飼い」の意味)
 
前5400年頃 ウシを埋葬した石塚が作られた。支配者層や階級組織が現れ始めた。
前4860年頃 カレンダー・サークル(環状列石)が作られた。この頃1本の石柱が作られた(推測)。
前4800年頃 複合建造物A(E-96-1A)が作られた。
極乾燥期   ―  前4650年頃前4500年頃  完全な渇水のため、人々は他の土地へ移住した。 
末期新石器時代 Bunat El Asnam
(「巨石建造者」の意味)
(参考:図表集第45図~)
 
前4500年頃~前3600年頃 列石(A1、A2、A3、B1、B2)が作られた。
前3600年頃 複合建造物E(E-96-1E)が作られた。
前3300年頃 極乾燥となったため人々は去り、南方やナイル流域へと移動した。ここで培われた文化もそれに随伴し、王朝時代に影響を与えたと推測されている。
青銅器時代  ―  前3100年頃~ メネスが上下エジプトを統一し、第一王朝が始まった。
現    代  ―  紀元1973年 F.ウェンドルフらが発見、翌1974年にCPEによって、調査が開始された。
紀元1998年 M.マルヴィル、F.ウェンドルフらが「Nature誌」に調査結果を発表。
赤線は極乾燥期を示します=この間、無居住状態(1回が約100~200年間)となったのです。            ※クリックしてください⇒【時代別・年代別の遺物分布状況】
年代はM.マルヴィル他著「ナブタ・プラヤの天文学」(2007年)によります。縄文時代、弥生時代の年代は「詳説日本史」(山川出版社:2014年)によります。
「石器時代」、「文化の呼称」は、M.マルヴィル他著「Nature 392」 、F.ウェンドルフ他著Middle holocene environments of north and east africa, with special emphasis on the African Sahara」、近藤二郎著「エジプトの考古学」、高宮いづみ著「古代エジプト文明社会の形成」およびShirai Noriyuki著The Archaeology of the First Farmer-Herders in Egypt」によっています。



 第二章 現在の姿     戻る

第5図:エジプトの南端にある戻る

   (一)位置      戻る 

 この遺跡は先に記したとおり、アフリカ大陸のエジプト(正式国名はエジプト・アラブ共和国)の 「西部砂漠」 にあります(ナイル川の東側が 「東部砂漠」 です)。ナイル川中流の、世界遺産で有名なアブ・シンベルの西約100kmの、サハラ砂漠の東部(東サハラ)にあたります(第5図、図表集:第1図)。ナブタ・プラヤの中でも代表的な遺構である 「複合建造物」 (遺跡番号:E-96-1 A)の中心は、「北緯22°30' 29.7、東経30°43' 31.2」 と測定されています。余談ですが、日本最南端の沖ノ鳥島は、北緯20°25'ですから、意外にもこちらの方が実は南にあるのです (参考地図)。標高は1998年の計測によって約215mと、確認されています*5

   (二)現状      戻る 

 最初は内陸湖として生まれたこの窪地(内部収束流域型窪地=internal drainage basin)は腎臓のような形で、東西に約10km×南北に約7kmに広がっていますが、現在は勿論水は無く、大半が砂と沈殿土(シルト)です。いろいろな遺物を出土する遺跡は、後に詳しく記しますが、合計約三十遺跡もあり、殆どがその西半分に集中し、特にかつての内陸湖の西岸一帯の砂丘に多く見られます(図表集:第6図第2図
第5図)。ただ、残念なことに、「カレンダー・サークル」など強度に劣る構造物は、エジプト政府の管理不十分や、無神経な観光客のせいで、損壊や変形が著しい悲惨な現状です(参照:図表集第16図、第17図)。多くの遺物・遺構はヌビア博物館へ移動され、現地は写真で散見する限り、所々に岩石が露出した、単なる砂漠という部分が大半を占めているという状態です。(参照:第Ⅲ部(一)
   (三)地層の特殊性      戻る

 大貫良夫は地質学的に見たナブタ・プラヤの特色として、終末期旧石器時代の地層に、新石器時代の地層が連続してことを挙げています。このように文化層の連続する遺跡は、ナイル流域では、他に類例が無いそうですが、その原因については言及がありません(大貫良夫他著:1998年、p.382~)。新石器時代に入っても、前述の通り、五度の極乾燥期を迎えるという、過酷な気象変動を経験していますから、地層の複雑さは想像に難くありませんが、この研究には関係が薄いので、割愛します(参考:図表集:第5図)。

   (四)呼称について      戻る 

 「nabta」の意味に関しては、諸説があります。大城道則は、ベドウィン労働者たちの言葉で 「小山」 を指すとしています(大城道則著:2010年、p.60)が、ロバート.ボーバルは、現在のベドウィン労働者たちの言葉、"seeds"とし(Bauval, R. 他著:2011年、p.9)、ウェンドルフらは 「小さな灌木」 すなわち"littie bushes"としています。そしてベドウィンたちがそう名付けたのは、傍に枯死したギョリュウの林が三個有ったからだろう、とウェンドルフらは推察しています(原文 *6)。この 「ナブタ」 と、英語で砂漠の窪地を意味する 「プラヤ」 を合わせて 「ナブタ・プラヤ(Nabta Playa)」 としたとされています(Wendorf, F.他著:2001年、p.1、p.427)


 第三章 周辺の遺跡     戻る

第6図:付近の遺跡(図中の「第3図参照」の「第3図」は下の「第7図」を指します。)戻る

 前9000年頃、熱帯収束帯が北上して東サハラに雨をもたらしたとき、巨大なオアシスから、小は内陸湖にいたる、多くの湖沼が生まれました。ただ、その後、内陸湖は何度かの極乾燥期を経て、水を失い現在のように砂漠化して、ナブタ・プラヤを生みました。「発見の経緯」 に詳しく記されているように、この場所でたまたま、ナブタ・プラヤを発見したのは、F.ウェンドルフとR.シルトが中心となって構成されたCPE*1のメンバーでした。CPEは先に述べたように、ナブタ・プラヤの発見以後も、長期にわたって、広く東サハラ一帯を調査しており、ナブタ・プラヤ周辺では、第6図に記されているように、合計20以上もの遺跡を発掘調査しました。ここに示された地域だけでも、約9600k㎡に及びますが、その他にもナイル流域のワディ・クッバニア(Wadi Kubbaniya)など、東サハラの相当広汎な地域を、少なくとも2009年まで、発掘調査を続けています(Jordeczka, M.他:2013年、p.255)。これらの遺跡からは、先に述べた土器片( 「ビル・キセイバ」 など)のように、ナブタ・プラヤには見られなかった遺物が発見されたりして、ナブタ・プラヤだけからでは読み取り切れない、いくつかの貴重な考古学的事実を、補完しています。

 ただいずれの遺跡にも、ナブタ・プラヤのような天文学的知識に基づく構造物や、大型の建造物が存在しなかったため、目立った取り上げ方はなされていません。先のエル・ゲバル・エル・ベイド(El Gebal,El Beid=第6図右上)やジェベル・ラムラ(Gebel Ramla=同図中央・Ramla Playaです。)やビル・キセイバ(Bir Kiseiba=同図左端下方)など、単独で詳細な調査対象になって、記録されたものもありますが、ここではまず参考程度に紹介するに留めておきます。ただ、これらはいずれも、祭儀場のあるナブタ・プラヤを中心的な存在とみなしており、頻繁に訪問して集会を催しているので、ここでは発掘遺物に関しては、全てナブタ・プラヤの一部としての取り扱い方をしています。マルヴィルらも、「ナブタ・プラヤの天文学」 の中で 「コミュニティーの一部=part of the extended community」 として取り扱っています(マルヴィル, M. 他:2007年)。

 なお第6図では、ナブタ・プラヤ近辺約9600k㎡の範囲のみ表示されていますが、当時東サハラに誕生した巨大なオアシス(ファラフラ・オアシスダクラ・オアシスカルーガ・オアシスシーワ・オアシスなど)の数々は、図表集:第55図のナイル川西方をご覧ください。さらに、第6図の左端からさらに約400km西へ行くと、リビアとの国境近くにギルフ・エル・ケビール(Gilf El Kebir)という高原が有り、ここではいくつかの洞窟などに、人間から動物まで多くの対象を描いた、約一万年前の「岩絵」の群れが、20世紀初頭に発見されています。図表集:第64図に写真がありますので、ご覧ください。これらもまた、「はじめに」に記した、「東サハラからナイル流域への文化の流れ」 に、大きな関係を有しており、現在もなお、引き続き熱心な研究が進行している状況です。





第Ⅱ部 遺物と遺構たち―最古の土器から天文観測装置まで―
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 第一章 三つの地域     戻る  

第7図:遺物の分布状況     戻る

 ナブタ・プラヤは、これまで述べたように、たとえば土器の破片のような小さな生活遺物から、大規模な巨石の建造物に至るまで、実に多彩な遺物を出土しています。先に示した 「出土品の年代別一覧表」 でも分かるように、初期から末期にいたるまで、延べ約5000年間にわたる新石器時代の、実に多種多様の遺物が出土しているのです。その数は、第6図に示した周辺地域を含めれば、年代が測定できたものだけでも、170以上にのぼります。右の第7図は、ナブタ・プラヤ内の主な遺跡の分布を示したものですが、総数は約30カ所に及んでいます。南部にある 「E-75-6」、「E-91-3」 などの▲印は、「初期新石器時代」 であることを示していますが、他にも中期・後期・末期、各新石器時代の遺物が、あちらこちらと場所を違えながら、散在していることは、ご覧の通りです。

 この第7図は先に触れた通り、「ナブタ・プラヤ」 の窪地全体の西半分を示しています。出土する遺物の大半はこちらに集中しているからです。全貌を把握し易くするため、便宜的にこの部分を、さらに三つの地域に分割してみましょう。一見同じような遺物が散らばっているかのようですが、実は詳しく調べていくと北部南部西部の三つの地域は、それぞれかなり異なった様相を呈しているのです。(参考図:図表集:拡大図1~4

 例えば北部にある 「E-94-2」 と 「E-92-7」 の二つの遺跡(第6図・中央上方)や、南部の 「E-75-6」周辺 (第7図・中央下方)は、多くの住居址、炉、井戸、「石皿」 や 「繋牧用の石」 などの生活に密着した生活遺物(図表集:第33図第35図)が示すように、「居住遺跡」 なのです。一方西部は南北に長い地域で、これまでに幾度か触れた「地域祭儀場」 を構成しています。この地域には、図のように驚くべき巨石構造物が五個も建造されていますが、丁度中央部分には、北部・南部に見られた、規模の大きな居住遺跡が二つ存在しています(「E-91-1」、「E-75-8」)。生活遺物以外の巨石構造物は、参考図にも見られるように、「石塚」 から「複合構造物」 まで、一見全く用途の異なった、風変わりな建造物なのです。これはこの地域が 「祭儀場」 であるという、特殊性がもたらしたものかもしれません。なお、ナブタ・プラヤの異常ともいうべき発展の一つの原因として、この 「地域祭儀場」 の存在が指摘されていますが、これは後に詳述します。(参考:第Ⅱ部・第四章・(三)

 先に歴史のところで触れたように、ここナブタ・プラヤは新石器時代だけで五度の極乾燥期に襲われ、他の地域へ移住せざるを得ませんでした。しかし、彼らは繰り返しこの地へ戻ってきます。近辺に大きな内陸湖が無かったのがその最大の理由なのでしょう。南部は前8500年頃からの初期新石器時代、北部は前4800年頃までの後期新石器時代に居住されたことが分かっていますが、西部の二つの遺跡(「E-75-8」、「E-91-1」)は何度かにわたって居住されています(第7図)。マクブレアティらは、ホモ・サピエンスの特性の一つとして、「site reoccupation」を挙げています(McBrearty, S.他:2000年、p.492)。「居住の回帰性」とでも訳せばよいのでしょうか。現在の私たちが、同じ場所に家を建て直したり、故郷を懐かしんだりする性情は、或いは「site reoccupation」という特性の、しからしめるところかもしれません。残念ながら、これに関する文献は見当たらないのですが。


 第二章 三種類の遺物と遺構     戻る

 このように、三つの地域に、一見乱雑に散らばっているかに見える、多種多様な遺物や遺構たちを、内容的に把握し易くするために、このサイトではこれらの 「地域」 を離れて、さらに 「使用目的」 から、三つの分野に分けてみました。(一)日常生活のために用いられた遺物や遺構(居住遺跡)。(二)集会・祭儀のために用いられた遺物や遺構。(三)天文事象を観測するために用いられた遺構。この三つの分野です。

 五千年以上も前に、放置された遺物たちや、砂の上に組み立てられたいくつもの遺構が、焼け付く太陽や、時速100km以上にも達する砂嵐をかい潜って、姿を保ってきたことも不思議ですが、さらに、それらを具体的に知るにつれ、様々な信じがたいほどの興味深い事実と、それを生み出した人類の深い叡智を、一つ一つ、これでもかこれでもかと言わんばかりに、突きつけられます。次の第三章では、日常生活のための必要から生まれた、石器や土器などの、普通の居住遺跡によく見られる、生活遺物を紹介し、第四章では、集会・祭儀のための遺構を解説し、第五章では、ここナブタ・プラヤを特徴付ける、天文事象を観測するための、巨石を用いた遺構を紹介していきます。


第三章 日常生活のための遺物や遺構
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第8図:「E-75-6」です。住居祉が斜めに二列、整然と並んでいます。

 紀元前9000年頃に夏の熱帯収束帯が北上して、雨をもたらしてから、この地域では最大の、ナブタ・プラヤの内陸湖の岸辺に、周辺の砂漠の遊牧民が定期的に集まり始め、やがて前7000年頃から定住する世帯も増えて、生活に密着した様々な遺物や遺構を遺すことになりました。これらの殆どは、とにかくその日その日を生きるための必需品であり、必要やむにやまれず作り出されたものの名残です。これらの遺物・遺構を子細に調べていくと、第2図に記した、「現代人的行動」 が、意外に多く実現していることが分かります。

  ・住居(小屋)の址らしい窪み、の跡、食料貯蔵用の穴土器をはめ込む穴および柱の穴
  ・井戸、ウォークイン方式の井戸(大きい物では巾4m×深さ3m)
  石器(初期新石器時代~末期新石器時代)
     穀物をすり潰す 「石皿」 と 「すり石」
     家畜を繋いでおく 「繋牧用の石」
  ・土器(初期新石器時代~末期新石器時代)
  ・卵殻・貝殻などの加工品:ダチョウの卵殻の壺やビーズ、貝の小皿など
  ・植物類:ソルガム(モロコシ=sorghum)、ミレット(キビ=Panicum turgidum・アワ・ヒエ)、マメ類(legume)、果実、
        スコウウィア、ボエルハヴィア、アカシアなど
  ・動物類:ウシ、ヒツジ、ヤギ、ジャッカル、ガゼル、野ウサギ、その他小型哺乳類、など
 
   (一)住居址      戻る

  先に述べたように、主な居住遺跡は、北部、南部、西部に散在していますが、第7図の記号(■、▲、★)で分かるように、年代はそれぞれ「初期新石器時代」、「諸新石器時代」、「後期新石器時代」 と、異なっています。最も古い南部の「E-75-6」が発掘されたときの住居の址は、このようなもの(図表集:第30図)ですが、よく調べるとを中心にして、食糧貯蔵用の穴や、土器をはめ込むための小さな穴や、柱を立てるための穴炉の址井戸も散在します(第8図、図表集:第31図、第32図)。年代は前7400年頃と算定されていますから、住み始めて間もなくから、住みやすくするための様々の工夫を凝らし、屋根のある小屋で調理をしながらの、生活を送っていたと想像されます。「Nature誌」 392号によれば、小屋は18戸あり(E-75-6の場合)、真っ直ぐ2~3列に整列していた(第8図)と言いますから、相当成熟した集落が形成されていたのでしょう(Malville, J. M.他:1998)。

   (二)井戸     戻る

 
第9図:井戸の断面図(「E-75-9」から) 

 砂漠の住民にとって、雨期が去り内陸湖が枯渇した後は、水の供給源は、井戸に求めるしかありません。井戸は、最初は恐らく家族用の小規模な井戸(右の第8図の上部、図表集:第33図)だったのが、地下水位の低下や、生活単位の拡大によって、「ウォークイン方式」 の井戸(最大のもので巾4.3m×深さ2.8m)へと進歩します。(右の第8図の中央部)。最初の浅い井戸らしきものは「E-75-6」遺跡を始め 「E-75-9」 、「E-91-3」、「E-91-4」、「E-77-7」、「E-79-8」 などで発見されており、最も古いのは 「E-75-6」 で、それは前7000年頃だと推測されます(Wendorf, F.他:2001年、p.120)。「ウォークイン方式」 の井戸は 同じく「E-75-6」 の他に、「E-91-1」 、「E-75-8」、「E-75-7」 から発見され、前6800年頃の初期新石器時代後半から登場したものと考えられます(Wendorf, F.他:2001年、p.143、p.324、p.660~p.663)。先史時代の井戸は西アジアやメキシコにも見られますが、ナブタ・プラヤの井戸も世界最古の井戸の一つと言えるでしょう(参考:古代の井戸)。

 最初に掘られた浅い井戸は、家族の中の力持ちや、あるいは数人が力を合わせて簡単に掘れたことでしょう。しかし、大きなウォークイン方式の井戸や集落の整備となると、これは当然、近所の数世帯であるとか、祭儀場に集まった大勢の人々とかなどが相談や合議をし、統率力のある人物を選んで、はじめて 「さあ、作ろう!」 と、規模が大きくて複雑な 「共同作業」 がスタートするのでしょう。(参考:第Ⅱ章・第四章・(三)・②)上記のように、ウォークイン方式が普及するまでに、何と数百年の歳月を要しているのです。マルヴィルらは 「Nature誌」 の論文の中で、この様に表現しています。

  "これらの井戸の建設は、のちに後期新石器時代の巨石構造物の立案・作成を可能にした、「社会的統率力=Social Control」 の誕生の、最初の兆しと言えるのではないだろうか。"
                                                                          (Malville, J. M.他:1998)

 ここで言う 「社会的統率力」 は、後に詳述するG.チャイルドの 「文明の基準」 の一つである、「支配者層」 の萌芽と位置づける、重要な 「現代人的行動」 と捉えるべきでしょう。(参考:第Ⅲ部・第二章・(二)

   (三)石器      戻る  

  ①幅広い出土年代

第10図:石器類(「E-75-8」出土) 参考図:石刃技法

 左の第9図に示したのは、西部に位置する 「E-75-8」 遺跡から出てきた 「中・後期新石器時代」 の石器類のイラストです。ナブタ・プラヤでは、新石器時代の初期から末期にいたるまで、あちらこちらの遺跡から、このほかにも実に多種類かつ数多くの石器が発掘されています。たとえば第7図の南部に目をやってください。居住遺跡「E-75-6」 や、「E-91-3」 などには▲印が付いていますが、説明にもあるように 「初期新石器時代」 それも最も早い 「El Adam」 の層(参照:年表)から発掘されています。既にこの時代だけで、細石器、石刃、尖頭器の出土がみられます。一方先ほどの西部の居住遺跡 「E-75-8」 から出土した石器は、中・後期新石器時代( 「Ru'at El Ghanam」、「Ru'at El Baqar」 )のものであることが確認されているのです(第9図)。先にも述べた、このような初期から後期までという、時間的かつ空間的な幅の広さは、"ナブタ・プラヤの文化の複雑さや、移住してきた人々の多様性を証明するものだ"と、F.ウェンドルフは語っています。石器類の種類の多岐にわたることは、ここナブタ・プラヤが、次章で述べる 「集会場(祭儀場)」 としての役割を持っていたので、周辺の各地から色々な部族が寄り集まってきたことも、その大きな理由の一つなのでしょう。(ナブタ・プラヤの石器

  ②狩猟の対象

 ここには北米のクローヴィス遺跡(前11,000年頃~9,200年頃)に見られるような、例えばマンモスなどの大型獣を仕留めるための尖頭器はなく、せいぜい小型哺乳類を対象にした「アテール型」尖頭器(
図表集:第37-2図のm)と 「オウナン型」 矢尻(第9図のp)しか見られません。一くくりに 「狩猟・採集」 と言っても、その狩猟や採集の実体は海岸、草原、山岳地帯、砂漠などの生活環境によって、大きく異なってくることは、言うまでもありません。尖頭器の種類から推しても、ここサハラ砂漠の内陸湖の沿岸では、ガゼルや野ウサギ程度を対象にした、規模の小さい狩猟の域を出なかったことがうかがえます。さらに、早くから牧畜が行われていたこの地では、狩猟に大きなエネルギーを使う必要が無かったことも理由の一つでしょう。

  ③繋牧用の石や石皿
   
 また、ここナブタ・プラヤでは、北部にある「E-94-2」と「E-92-7」の二つの居住遺跡(図表集:拡大図1)から、家畜を繋いでおくための 「繋牧用の石=tethering stone」 (図表集:第35図) が多数発掘されています。他にも西岸の 「E-91-1」 や、ナブタ・プラヤから西へ約8kmの所にある、「E-77-1」 や 「E-94-3」 からも出土しており、「繋牧用の石」 はかなり広い範囲に現れています。これもこの土地に牧畜文化が定着していたことを物語るものの一つです。なお第Ⅰ部・第一章でも記したように、前8800年頃にはナブタ・プラヤでは牧畜が既に生活の一部でした。「繋牧用の石」 が出土した「E-77-1」 は初期新石器時代の後半(前6800年頃~前6300年頃)の遺跡なので、遅くとも前6300年頃以前に、牧畜が開始されていたことには確証があると言えます。
牧畜の開始年代の諸説については、後に詳しく触れます。(参考:第Ⅱ部・第四章・(二)・④

 また、同じ遺跡の中に多く見られる 「石皿=grinding mill」 と 「すり石=rubbing stone, handstone」 (図表集:第34図、第35図) は頻繁に穀物類を磨り潰していた栽培文化を立証するもので、牧畜と栽培が同時に行われていたことを示す重要な証拠と考えられます。出土例は「E-75-8」 からなので、これらの年代は前6100~5600B.C.ですが、「E-75-6」 から出土した、ソルガムミレットは、明確にそれより1000年前の、前7200年~前6800年を示しています。

   (四)土器      戻る

  ①幅広い出土年代

第11図:時代別の土器
 初期新石器時代:a、櫛目文と波状文 b、茎と葉 c、漁網 
             d、密集型ロッカー・スタンピング(最古の土器片) 
 中期新石器時代:e、平滑型ロッカー・スタンピング f、単純平滑型
 後期新石器時代:g、刻文 h、頂部黒色

 ここナブタ・プラヤでは土器は破片のみ発見され、器の形状を留めたものは未だ発掘されていません。ただ、ナブタ・プラヤから約30km北西のジェベル・ラムラにある墓地遺跡からは、前4500~4300年頃のものですが、形の整った土器が相当数出土しています(図表集:第41図)。破片はかなり広い範囲から、まさに散発的に発見され、さらに古くは前8200~8000年から、前1300年(E-92-8)(後述するヌビアCグループ文化)(Wendorf, F.他:2001年、p.533)までの年代を記録していますから、前述のようにナブタ・プラヤとその近辺では、初期新石器時代から末期新石器時代までの、約7000年間にわたる土器の破片が出土したことになります。このことも、石器の場合と同様に、この地域が、周辺の各地から諸部族が集まってくる、「集会場(祭儀場)」 であったことを示していると言えるでしょう。K.ネルソン(Kit Nelson)の”ナブタ・プラヤでの土器の遷移は、サハラ砂漠の「人びとの生活と移動」の変遷を物語る、一つの年代記と言って良いだろう”(Wendorf, F.他:2001年、p.543)という言葉は、以下の経緯を眺めても、まさに至言といえるでしょう。(ナブタ・プラヤの土器

  ②世界最古の土器

 前項で述べた
前8200年頃(約1万年前)の土器片(参考図は、第Ⅰ部第一章 「歴史」 のところでも、紹介していますが、これは、ナブタ・プラヤから北へ約40kmの 「エル・ゲバル・エル・ベイド遺跡(El Gebel,El Beid)」 の 「E-77-7」 で、発掘されたものです(Wendorf, F.他:2001年、p.68)。更に遡れば、実はナブタ・プラヤから西へ約70kmの遺跡 「ビル・キセイバ(Bir Kiseiba)」 の 「E-79-8」 (=参照:第6図左端)に前1万600年(約1万2600年前)の出土例があるのです(E.Huysecom他:2009年、p.18)。これは現在のところ、北アフリカ大陸では最古のものでしょう。ただ、先に述べたとおり、その年代には、未だこの地に人類が住んでいた証拠がありませんので、研究の余地が残ります。それにしても、これは日本の縄文土器(約1万6500年前)に次いで、世界で二番目に古い出土例になります。なお、2012年6月に、中国・江西省の仙人洞遺跡から、前2万年~1万8000年頃の出土例が、報じられていますが、こちらは学問的に、厳密な検証が不十分とされているので、現在のところ、古さに関しては、比較の対象にはできません。

  ③種々の文様
 
 ここナブタ・プラヤの土器に関しては、多くの個体が発掘されているにもかかわらず、材料の土や硬度などの製造法、および文様が、時代によって明確に大きく二つに分けられています 。上の第10図をご覧ください。拡大図からもある程度明らかなように、製造法や文様などの方式が、初期・中期新石器時代の 「櫛目文」 や 「波状文」 と、後期・末期新石器時代の 「頂部黒色(黒頂)」・「赤色磨研土器」 の二つに大別されるのです。大貫良夫は、"施文法の類似した第二急湍地域の 「ワーディ・ハルファ新石器文化」 はおそらくこの文化に由来し…"と言っています。そしてさらに、"ナブタ文化の流れを汲む可能性はあるが、しかしナイル河畔の先王朝文化との関係は、今後の重要な研究課題である"とも( 「世界の歴史 Ⅰ(1998年)」 p.383)。ではそのあたりを、実際の出土品から、確認してみることにしましょう。

  ④櫛目文と波状文

第12図:新石器時代の土器たち(出典:図表集:第38図参照)
ナブタ・プラヤ出土(B.C.8800年頃~)
※6の頂部黒色土器
②カルトゥーム中石器文化(B.C.6000年頃~)
③ワーディ・ハルファ出土(B.C.5000年頃)

④カルトゥーム新石器文化(B.C.4000年頃)

ナブタ・プラヤ以外はナイル流域です。
ナカダ文化の黒頂土器

  右の第11図は新石器時代のエジプト西部砂漠と、上ヌビア地方のナイル流域に出土した土器たちです。年代順にナブタ・プラヤ→カルトゥーム中石器文化→ワーディ・ハルファ新石器文化→カルトゥーム新石器文化と並べてみました(近藤二郎:1997年、p.33~)。確かにナブタ・プラヤの初期・中期の土器と、ナイル流域の土器の文様が、酷似しています。この地図をご覧いただくと、ナブタ・プラヤからカルトゥームまで、ほぼ東京大阪間程度の隔たりしか無いことが、お分かりいただけますが、この類似はどう見ても異文化間のものではなく、同一の文化圏内のものと推測できます。時間的には、ナブタ・プラヤから、一つの文化がナイル川上流に移り、それが下流へ伝わって、ファイユーム、メリムデ、バダリ、果てはナカダ文化へと繋がって行ったと推察できます(参考:図表集:第50-2図)。西部砂漠の文化がナイル流域へ伝播した実例を、これからもいくつか紹介しますが、実はそれを目に見える 「物証」 で証明してくれるのは、残念ながらこれらの土器だけなのです。

  ⑤黒頂土器と赤色磨研土器

 以上は、上に述べた、初期・中期新石器時代の 「櫛目文」 ・ 「波状文」 の場合ですが、では「頂部黒色」 の系統はどうなのでしょうか。左の図の 「ナブタ・プラヤ出土」 の後期の 「6」 に 「頂部黒色土器=黒頂土器」 (参考図)という一片があります。これが、先に述べたように、後期・末期新石器時代を代表するものなのですが、この土器が、バダリ文化を経由して、ナカダ文化の 「頂部黒色=黒頂」≒「赤色磨研土器」 (口縁部が黒くない赤色磨研土器も多量に生産されていました)へと進化していったと考えられています。このナカダ文化は王朝時代にまで続いていく文化なのです。以上、ここでは、ナブタ・プラヤの土器が、王朝時代の土器にまで影響を及ぼして行く経緯を辿ってみました。できれば、次の参考資料をご覧頂けると、一層興味が深まるかもしれません。(⇒参考年表参考地図ナカダ文化の土器

   (五)貝殻・骨などの加工品      戻る

 土器や石器と同様に、いろいろな加工品が、各年代にいろいろな場所から出土しています。古いものから順に、箇条書きにします。

  ・ダチョウの卵殻から作ったボトル―前8800~7700年頃のもので、「E-91-3」、「E-91-4」、「E-75-8」 他合計8遺跡から、出土しています(図表集:第36-1図)。
  ・ダチョウの卵殻から作ったビーズ―前8500~8000年頃のもので、「E-91-1」、「E-75-6」、「E-75-8」 他合計9遺跡から出土しています(図表集:第36-2図)。
        これは贈り物かまたは、自分の身を飾るための「アクセサリー」であったとされています。
  ・エゼリアガイで作った小皿―エゼリアガイ=Etheria elliptica(Nile oyster)。前6700年頃。「E-91-1」 から出土。(図表集:第36-3図)。
        この貝は、ナイル流域から「遠距離交易」によって、持ち込まれたものです。(Wendorf, F.他:2001年、p.612~)
  ・骨細工―哺乳動物の骨から作られた、錐または飛び道具用の尖頭器です。前5400年頃。「E-75-8」 から出土。(図表集:第36-4図:下図)。
  ・象牙細工―図のような不完全なものしか出土していません。前5400年頃。「E-75-8」 から出土。(図表集:第36-4図:上図)。
  ・石の加工品―繋牧用の石、石皿、すり石 (参照:石器
  ・オーカー―加工品ではありませんが、ダチョウの卵殻に塗られていたり(E-77-7)、塊(E-91-1)で発見されたりしています。(Wendorf, F.他:2001年、p.69、p.300)

  ・ジェベル・ラムラの出土品
        ―
上の「土器」のところでも紹介した、ジェベル・ラムラの墓地には896点に及ぶ多彩な加工品があります。これらは2000年~2003年に発掘されましたが、
          墓地として覆われていたせいか、保存状態がきわめて良好です。年代は前4630~4310年頃の末期新石器時代です。かなり精巧な技術が見られ、
          また遠距離交易を証明する遺物も豊富です。(図表集:第43図~)。
      ・海産巻貝から作ったビーズ(図表集:第44-2図)。これは 「アクセサリー製作」 や 「遠距離交易」 を証明する、重要な証拠です。
      ・紅海の貝殻を用いたブレスレット(図表集:第44-1図)。これも 「アクセサリー製作」 や 「遠距離交易」 を証明する、重要な証拠です。
      ・骨製のマジック・ナイフウシの鼻栓、針。(図表集:第43図)。トルコ石製の鼻栓もあり、これは1000km北のシナイ半島から(遠距離交易)です。
      ・ウシの角製のコップ。(図表集:第43図)。
      ・象牙製のブレスレット。(図表集:第44-1図)。象牙は遥か南方の土地から取り寄せたものです。これも 「アクセサリー」 や 「遠距離交易」 を証明するものです。
      ・雲母製のピラニアの彫刻(図表集:第44-2図)。厚さは1cmあり、エジプトで発見されたものとしては、最も古くから知られた彫刻です。

   (六)植物類      戻る

第13図:出土したソルガム 1:粒、2:2個の小穂と、はがれた包頴

  ①植物類の用途

  ここナブタ・プラヤには、ご覧のように(第8図、図表集:拡大図1)無数の炉の址がありますが、そこには燃料として用いられた木材が、化石化した(petrified)形で出土し、また食物貯蔵用の坑からは、穀類や種子が炭化した(chared)形で、多くの植物が出土しています(図表集:第41-1図)。ウェンドルフらは、燃料と食用が中心だったろうけれども、それ以外に、医薬品呪術などに用いられていた可能性があると言及しています(Wendorf, F.他:2001年、p.549)。勿論、日本のイネのように、種子は食用に、他の部分はワラとして別の用途に用いられたりもしていました。たとえばミレットは枝の部分は燃料や染料としても用いられていた形跡があります(Wendorf, F.他:2001年、p.667)(図表集:第41-1図、付表「主な植物の用途の一覧表」)。

  ②ソルガム・ミレットの栽培

  「歴史」 のところやこの章の冒頭で記したとおり、ナブタ・プラヤでは、ソルガム(モロコシ)やミレット(キビ・アワ・ヒエなど)が主に食べられていました。出土した、ソルガム・ミレット・マメ類などの植物を詳細に調べた結果、より優れた種子(飼育栽培変種)すなわち、粒が大きいもの、穂から脱落しにくいもの、毎年種子を実らせるもの、などを遺すために、既にかなりの選別や淘汰がなされていることが分かりました。言うまでも無いことですが、この選別・淘汰には、気の遠くなるような長い長い年月と、根気の要る地道な作業が必要です。これがいわゆる「栽培」の、重要な最初の一過程であることは勿論です。そこからから察しても、ここナブタ・プラヤでは、単なる 「採集」 に止まらず、一歩進んだ 「栽培」 の段階にまで進歩していたことが分かります。ウェンドルフらは「ソルガムが採集・保管面で特別な扱いを受けていたことから推測して、栽培が行われていた可能性も考慮し得る」 (Wendorf, F.他:2001年、p.8、p.590~591、p.659)と表現するに止めていますが、ナブタ・プラヤの地で、「灌漑」 は不可能としても、「天水農耕」 あるいは「減水期稲作に類する耕作=décrue technique(Wendorf, F.他:2001年、p.591、p.659)」 が行われていた可能性は、否定できないでしょう。ソルガムやミレットは、出土品調査によれば、 「E-75-6」 遺跡から多く出土し(図表集:第41-2図)、前7200年前6700年頃という年代を示しています(参考:ナブタ・プラヤの出土品:年代別一覧表、p.52)。なおこれは王朝時代(第18王朝・第19王朝)のものですが、鋤をウシに引かせている農耕の図がありますので、ご参考までに(図表集:第59図)。ナブタ・プラヤで、同様の作業があったかどうかは不明です。

  ③ムギ類の栽培

   かつて南西アジアから持ち込まれていたとされていた、「六条大麦(Hordeum vulgare)」、「エンマー小麦(Triticum diccocum)」 などのムギ類(barleyやwheat)は、発掘調査では全く出土しておりません(Wendorf, F.他:2001年、p.5、p.683他)。ちなみに、アフリカ大陸における 「栽培」 の開始には二説あって、一つは、ナブタ・プラヤで、前6150年頃の層から六条オオムギが、前5500年頃の層からはエンマーコムギが出土した(大貫良夫他:1998年、p.383)とする説。もう一つは、前6000年頃、穀物栽培が開始されていた可能性がある、としてソルガムミレットの他に、六条オオムギ裸大麦エンマーコムギを挙げる説(大城道則:2010年、p.59)ですが、上記のように、ナブタ・プラヤからはムギ類(barleyやwheat)の出土例はありません。ナブタ・プラヤでは、独自にソルガムやミレットが栽培され、ナイル下流域の、ファイユーム地方には、南西アジアから、ムギ類が伝えられたとするのが正しいと、私は推測しています。なおウェンドルフらは、多くの 「石皿」 や 「すり石」 から推して、穀類を消費していたことは確かだが、オオムギとコムギに関しては、ナイル流域の農民との交易で入手していた可能性がある、と述べるにとどめています(Wendorf, F.他:2001年、p.671)。

  ④農耕について

  植物の栽培の話から、農耕にまで触れたので、最近話題になっている、「農耕」 に関する話を取り上げておきます。トルコの南東部にある、世界最古の宗教施設と言われる「ギョベクリ・テペ遺跡」 の事なのです。ここは前9600年頃の遺跡であるにもかかわらず、人が住んでいた形跡は全くなく、獣の彫刻を施した巨大なT型の石柱が、円形に並んだ神殿状のものが、約20基も集まっているという、他に例を見ない遺跡です(常木晃談:(2011年))。農耕は勿論、人が生活をしていた形跡が全くなく、何か宗教的な集まりに用いられて居たとしか思えない場所なのです(参考図:図表集:第64図)。1994年から調査が本格化し、大きな話題を提供し始めました。中でも最大のものは、農耕を伴わないで、宗教施設という文化的な建造物が存在することです。従来の「先ず農耕ありき」という定説が、根底から否定されたのです。そして、逆に先ず何か組織的な宗教のようなものが先に起こって、そのために人々が集まって大きな社会が出来上がってきて、それを維持するために「農耕」が始まったのではないか、とまで言う説が出てきたそうです(NHKスペシャル取材班:2012年、p.222~)。

 色々と論争の的になっているようなので、紹介させて頂きましたが、どうも、もっと他にも類似の遺跡などが、発掘されない内は、ここまで断定するのは早計でしょう。逆にナブタ・プラヤのような、孤立した砂漠の僻地での栽培から、農耕の発展状況を観察した方が、純粋な推測が出来るのではないかという、そんな思いもします。ギョベクリ・テペの場合は、約60km離れただけの場所に初期の農耕遺跡が、そして、約400kmの場所に戦場の遺跡が存在していたりで、複雑な推理が入り乱れる元になっているようにも思えるからです。

   (七)動物類      戻る

  ①ナブタ・プラヤの特性

 既に触れたように、ここナブタ・プラヤでは、ウシの家畜化が前8800年頃には、既になされていて(参照:第Ⅰ部・第一章「歴史」)、さらに現在のところ、前6000年頃には、南西アジアからヒツジやヤギが持ち込まれたとされています。特にウシは人々の「共同生活者」 と言って良いほどの存在だったので、以降に詳しく取り上げます。また、南西アジアから持ち込まれたとされるヒツジ・ヤギについては、で詳しく説明します。なお、ウシ・ヤギ・ヒツジの骨は多数出土しますが、他にも狩猟によるものでしょう、ガゼルやノウサギなどの小動物の骨や貝殻も多く出土しています。各種動物の年代や出土遺跡を記した、細かい一覧表がありますので参考にしてください(図表集:第40-1図)。

  ②主な動物類

 
ここでは主なものを列挙しておきます。紅海やナイル川でしか獲れないものが、ここで出土していることは、「遠距離交易」 の存在したことを証明するものと、考えられています。

 ・海産巻貝:タカラガイ(Cowry Cypraeidae)、トンボガイ(Terebellum terebellum)、イモガイ(Conus Sp.)(図表集:第40-3図
        これら海産の貝は紅海から「遠距離交易」によって、持ち込まれたと推測されますが、確証はありません。
 ・淡水二枚貝:イシガイ目(Spathopsis rubens)、エゼリアガイ(Nile Oyster)、シジミ属(Colbicula Consobrina) 
        これらは、いずれもナイル流域から 「遠距離交易」 によって、運ばれたと推測されています。(Wendorf, F.他:2001年、p.612~)
 ・淡水巻貝:ヒラマキガイ科(Bulinus truncatus)(図表集:第40-5図) 
 ・陸産巻貝:オカクチキレガイ(Zootecus insularis)(図表集:第40-6図
 ・魚類:ナイルアカメ(Nile perch)(図表集:第40-2図
        これは、約100km離れたナイル流域から、燻製干物の状態で輸入されたのではないかと、想像されています(遠距離交易)。
 ・両生類:ヒキガエル、カエル  ・爬虫類:トカゲ、ヘビ  ・鳥類:ダチョウ、タカ、ノガン、シマアジ(縞味)、ホロホロチョウ、マガモ属、キジ科
 ・哺乳類:サバクハリネズミ、コウモリ、ケープノウサギ、シマジリス、サハラアレチネズミ、トビネズミ、ナイルサバンナネズミ、タテガミヤマアラシ、
       オジロスナギツネ、フェネック、ジャッカル、イヌ、ハイエナ、ヤマネコ、マングース、シロオリックス、ガゼル、ヤギ・ヒツジ、ウシ(家畜)、
       キリン、アフリカゾウ(Wendorf, F.他:2001年、p.621、622)(図表集:第40-1図
        キリンやアフリカゾウはそれぞれ、「E-75-8」、「E-91-1」 から臼歯が発見されているだけなので、食用か加工用かなど用途は不明。
          ただ、(五)で触れたとおり、加工品は出土していますが、詳細は不明です。

  ③ナブタ・プラヤでのウシの重要性     戻る

 
次章以下に詳しく述べるように、ウシが 「石塚」 に 「捧げ物」 として丁寧に埋葬されたり、 「祭儀場」 での冠婚葬祭の各場面で、供え物の代表として捧げられたり、「代理墓」 として用いられるに到るには、それなりの深い背景が有りました。先に述べたように、ナブタ・プラヤへ遊牧民がやってきた時、ウシはすでに彼らの家畜だったのです。「家畜」 と言うよりも、まさに 「共生関係」 に近い存在であったと、言っても良いでしょう。現在のマサイ族やヌアー族の、ウシとの共同生活の現状を知ると、この感じが納得できます。一例を挙げれば、彼らは牛糞を土と練り合わせて、「家の壁」 にするだけでなく、尿で手や顔を洗ったり、牛糞の灰を顔や身体に塗りつけて、「虫除け薬」 や 「止血剤」 として用いたりもしています。それだけでなく、ウシに寄り添ってダニを取ったり、灰で体をマッサージしたりするのです。(サーヴィス:1991年、p.97)。まさに生活の一部、いや家族の一員と化していると言っても良いでしょう。では、このような密接な 「共生関係」 が生まれたのは、何故だったのでしょう。次にその理由を類推しておきます。  

   a、労働力としてのウシ

 遊牧民が何日間も砂漠を旅するとき、重い荷を運ばせるために、耐久力のあるウシが、唯一でかつ必要欠くべからざる運搬用具だったことは、想像に難くありません。まさに生活を共にする、親密な家族同様の付き合いだったのでしょう。

 また、定住生活に入ってからは、農耕のときに、鋤を引かせる動力(耕牛)として、用いられたかもしれません(参考図:死者の書ナクトの墓の壁画
)が、ナイル流域と違って、大規模な農耕が無かったであろう、ここナブタ・プラヤでは、恐らく存在しなかったでしょう。ただ、井戸を掘るときや、(四)以後に扱う巨石建造物の作業には、大いに活躍したかもしれませんが、王朝時代の壁画やピラミッド建設の絵画などにも、農耕以外に 「役牛」 の姿は全く見られません。例えば第12王朝の知事ジェフティホテプの墓の壁画(前1900年頃)では、巨石の運搬に、ウシの姿は全くありません(図表集:第67図)。その理由を以下のbcd で見てみましょう。

    b、栄養源としてのウシ

 ナブタ・プラヤの牧畜民たちは、ウシから血液や”牛乳”を絞って飲み、栄養源の一つとしていました。しかし、ウシを殺して”牛肉”を食べるということはしませんでした。これは現在でも、世界のいたるところの貧しい地域などに見られる、家畜を永く利用するための生活の知恵ですが、ここナブタ・プラヤでは、次に述べるように、儀式の時に限ってウシを殺し、「捧げ物」 としていたのが特徴的です。M.マルヴィルらは、「歩く食料貯蔵庫(Walking larders)」 と呼んでいますが(M.マルヴィル:2007年)、移動を常とした遊牧民にとっては、まさに貴重で不可欠な栄養供給源だったことは、容易に想像できます。

    c、捧げ物としてのウシ

 前6000年頃、ナブタ・プラヤが、次に述べる 「祭儀場(集会場)」 として機能しはじめ、結婚式や指導者の葬式などの儀式が執り行われるようになったとき、「捧げ物」 としてウシが選ばれ、そして殺され、供えられました。ナブタ・プラヤ西岸の、祭儀場址だけから、大量のウシの骨が発掘されたのも、こういう理由があったからなのです。他の場所では、ウシを殺すという行為がなされなかったのだから、牛骨が殆ど出土しなかったのは当然です。
 「捧げ物」 としては、ウシは他にも、雨乞いの時の生け贄として用いられたことは、後で「石塚」の由来の所で詳述します。また、後に扱う 「複合建造物」 の 「E-96-1A」 の中心に据え付けられた 「
彫刻された岩」 もウシを象っていて、これは貴人の代理墓ではないかと推測されています。

    d、富や権力の象徴としてのウシ

 単なる運搬用具や栄養の供給源から、捧げ物としても活用されるようになって、ウシは人間の精神面の象徴的な代替物としても用いられるようになり、人々の心の中に深く根付いていきました。そして更には、ウシを所有することが、単なる経済的な豊かさにとどまらず、富や社会的地位の象徴へと変貌していったのです。こうして、ウシを多数所有する人は、経済的に豊かな富者であり、なにかと発言力を強め、勢い指導的立場を与えられるようになって行きました。このように、ウシを重要視する習慣は、現在のマサイ族などにそのまま伝えられていて、人類学では「cattle complex*11」と呼ばれ、「東アフリカ牛牧文化複合」、「ウシ文化複合」 などと和訳されています。ウシが 「歩く食料貯蔵庫」 などという、単なる生活必需品の域を脱して、「富」 と 「社会的地位」 を現す象徴とみなされるに至り、そしてそのような習俗が、こう名付けられたのです。

 しかし、民族考古学者のブライアン・ヘイデン(Brian Heyden)の研究によれば、同様のことが水牛やニワトリなど他の動物でも言え、アフリカだけでなくポリネシアやトルコ等他の地域で、現在もなお、同じパターンが見られるとされます。すなわち、家畜は日常の食物ではなく、特別の日のご馳走であって、葬儀や結婚式だけでなく、土地の購入、同盟の締結など、社会的・政治的な出来事の際にも、必需品であったとされているのは興味深いことです(NHKスペシャル取材班:2012年、p.274~)。

 北アフリカの牧畜文化の遺跡は、第4図に示されるように、先ずナブタ・プラヤ、ビル・キセイバに始まり、北アフリカ中部(前6500~前5500年)から、ナイル流域・下エジプトのファイユーム文化(前5300~前4400年)、メリムデ文化(前4800~前4400年)へと伝播して行き、北アフリカだけでも、十数カ所に達しています。図表集:第49図、第50図が示すように、同じくナイル流域でも、有名なバダリ文化(前4100~前3900年)、ナカダ文化(前4100~前3100年)を初めとして、多くの遺物を出土するヌビアAグループ文化(前4000~前2800年)、ヌビアCグループ文化(前2300~前1500年)ほか、いくつもの文化にウシを埋葬した例が見られます。(参考:図表集:第50-2図
第14図:ナルメルのパレット

    e、ナイル流域への流入      戻る

  このように、貴重な食糧源であり運搬用の必需品であったウシは、宗教的な祭儀の中心ともなり、やがて富や権力を象徴するようにまで到りました。そしてこの習俗は、北アフリカ中央部やナイル流域にも、徐々に伝播していきました。牧畜文化のこのような伝播も、土器ほどの物的証拠は乏しいとしても、西部砂漠からナイル流域への文化の流入を、明確に示しています。こうして、この象徴的性質は、空間的のみならず、時間的にも更に王朝時代へと、引き継がれて行きました。一例を上げれば、王朝時代の絵画の中では、牡牛はライオンと並んでファラオの象徴としても描かれるまでになります。単なる 「歩く食糧貯蔵庫」 に過ぎなかったウシも、ついには有名な 「ナルメルのパレット」 (第14図)の一番上部を飾り、後にハトホル神に吸収される「バト神」として神格化されるほど、重要視されるに至ったのです。

  ④ウシの家畜化の年代     戻る

 そもそも、「先史時代の地球上で、ウシが最初に家畜化されたのは、いつか?場所はどこか?」 という疑問には正確な解答が得られず、広く議論を招いていました。ここで、これまでに私が接した範囲ですが、諸説を少し整理してみましょう。ジャレド・ダイアモンドは 「銃・病原菌・鉄(1999年)」 の中で、「牛:前6000年:南西アジア、インド、北アフリカ(?)」 (上巻(p.247))とか、「サハラ地域に住んでいた人びとは、紀元前9000年から紀元前4000年のあいだに、牛を飼いはじめたり、土器を作りはじめたりしている。」(下巻(p.279))と記述しています*9。またブライアン・フェイガンは 「古代文明と気候大変動(2003年)(p.247)」 の中で 「前7500年くらいまでさかのぼる可能性もある。エジプトの砂漠にあるビル・キセイバとナブタ・プラヤの遺跡で見つかった骨を信じるとすればだが*10」 と述べています。また大城道則は 「ピラミッドへの道:講談社(2010年)(p.59)」 の中で、 「ナブタ・プラヤにおいても紀元前8000年頃から家畜化していた可能性のある牛の骨が出土している。」 と述べています。ただ、「世界考古学事典:平凡社(1979年)」 の 「家畜」 の項では、「しかし、各動物の家畜化の課程には、その歴史が古いだけに諸説があり問題も多い。」 として、年代の記述は避けているほどなのです。

 しかし、第Ⅰ部・第一章の 「歴史」 のところ で触れたように、前8800年頃には、ウシは既に家畜として飼われていました。ナブタ・プラヤの 「E-75-9」 や、その西約80kmのところにある、ビル・キセイバ(「E-79-8」、「E-80-4」)でウシの骨が出土しています(Wendorf, F.他:2001年、p.2、p.97、p.625、p.633/Marshall, F.他:2002年、p.109)。ヒツジやヤギだけでなく、ウシも南西アジアからの伝播による、とする説が20世紀前半までは圧倒的でしたが、それ以降は調査・研究の発展によって、見直しが行われ、今ではここナブタ・プラヤなど北アフリカのウシの牧畜も独自に生まれ発展したもので、しかも世界で最も早い家畜化だったと考えられています(参照:第4図)。

 なお、化石の出土は未だありませんが、ウシを描いた岩絵が、ナブタ・プラヤから僅か500km(仙台、新潟間の直線距離程度です)西のギルフ・エル・ケビール(Gilf El Kebir)で発見されて、その年代は10500年前頃とされています(「古代エジプト資料館」から)。なので相当昔から、ウシは人間と共に生きていたと思われます。「ギルフ・エル・ケビール」の岩絵には、一頭の牡牛を囲んで、数頭の牝牛が描かれたものがあります(図表集:第64図)。学者の中にはその状態は家畜飼育の一形態を示しているのではという指摘もあります。そうであるとすれば、すでに前10500年頃には、ウシの家畜化が実現していたことになりますが、これは現在では未だ憶測に過ぎません。(参考ヴィデオ:「サハラ砂漠 謎の岩絵」)。

   ⑤ヒツジ・ヤギの伝播

 
ナブタ・プラヤにおいては、ウシに次いで重要な家畜であるヒツジとヤギが、いつ頃家畜化されたかについても、明確な答えは未だ出ていません。しかし大貫良夫は、これまでは「西南アジアから伝播したものと推測されてきた。」が、ナブタ・プラヤで前5500年頃のヒツジやヤギの骨が出土していることから、伝播説を断定することは出来ないとしています(大貫良夫他著:1998年、p.382~)。ジャレド・ダイアモンドは一旦「家畜化がサヘル地域で独自におこなわれたものだったのか、それともメソポタミアの肥沃三日月地帯から家畜が伝わったことが引き金となってこの地域で野生の植物の栽培化がはじまったのかは、はっきりしていない」 (ダイアモンド, J.著:2000年(上)、p.142)、としながら、「(猫、ロバ、畜牛)これら以外の家畜は、野生祖先種がユーラシア大陸にしか生息していない。したがって、アフリカ大陸以外の場所で家畜化されたものが、家畜としてアフリカに導入されたと思わざるをえない。たとえば、現在アフリカ大陸で飼育されている羊は、西南アジアで家畜化されたものである」 (同書(下)、p.277)と断定しています。

 ウェンドルフも「約8100年前頃(前6100年B.C.頃)ナブタで最初のヒツジとヤギが現れたが、それらが、その2000年も前からヤギ・ヒツジ属(caprovids)が飼育されていた西南アジアから、持ち込まれたことはほぼ間違いないだろう。」と言っており(「ウェンドルフ, F.他著:1998年」)、ウェンドルフ他編の著書の中で、ゲント大のゴーティエ教授(Achilles Gautier)は「ヒツジとヤギは、中期新石器時代のナブタ・プラヤに見られる。これらの家畜はアジアから北アフリカへ導入されたものである、なぜなら、彼らの野生祖先種はアフリカには生まれなかったからである」(原文*7)としています。(Wendorf, F.他:2001年、p.634)

 
ナブタ・プラヤでの実際の出土例を見てみると、中期新石器時代より前の「Al Jerar」(前6800年~6100年頃)に、「E-91-1」 遺跡から出土しています(参考図)。ここに提示された年代を採用すると、大貫良夫の掲げた年代より更に遡り、ナイル流域のファイユーム文化やメリムデ文化より前に、ヒツジやヤギが居たことになります。アフリカ大陸の発掘調査が更に進めば、新しい証拠が出土するかもしれませんが、現在のところ、西南アジアから持ち込まれたヒツジやヤギは、最初にナブタ・プラヤへ持ち込まれたと言うことになります。(図表集:第46-2図 注:NABTA/KISEIBAの地域のB.C.6000年頃のヒツジとヤギのシルエットにご注目ください)


 第四章 祭儀のための遺物や遺構     戻る

 前章では、日常生活品の遺物を取り上げました。すでに述べたように、ナブタ・プラヤが他の遺跡と著しく異なる点は、日常生活とは全く関わりが無いと思われる、奇妙な遺物や遺構が何種類も発掘されていることです。多種にわたるこれらの、奇妙な遺物や遺構を、「祭儀のための遺物・遺構」 と、「天文観測のための遺構」 の二つに分けて、この章では、前者を取り上げます。

   (一)人骨     戻る

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第15図:人骨

   ①四人の人骨

 この場合の人骨は実は 「祭儀のための遺物」 とは言えないのですが、日常生活に伴う生活遺物ではないので、この章で扱います。人骨はこの遺跡では、僅か四カ所から発掘されただけで、しかも、その内の二カ所(「E-97-17」、「E-00-1」)からは、それぞれ13本と8本のが出土しただけでした。次に取り上げる 「石塚」 の一つ 「E-97-5」 にも頭骨の無い、非常に不完全な人骨が見られますが、若い健康な男性のものらしい、と判明している程度です(Wendorf, F.他:2001年、p.478)。

 ただ一カ所(「E-91-1」)だけに、全身の75~80%の人骨が、検証に耐え得る程度に残っており(第15図、図表集:第28図、第29図)、それは、25~30歳以下の女性の人骨だとまでは判明しています。右の第13図のメジャーに付いている矢印は、特に説明は見当たらないのですが、類例から察するに「北」を指しています。とすれば、ナブタ・プラヤ唯一の人骨は、東枕にし、顔を北に向け、右脇腹を下にして横たえられていたことになります。また、ナブタ・プラヤの西約8kmにある、この地域では最も高い山(inselbelg)の一つである、ジェベル・ナブタ(Gebel Nabta)で発掘された、「E-77-1」 遺跡からも、不完全ながら人骨が一体出土しています(図表集:第28-1図)。ご覧のように残り少ない残骸から、左を下にした 「北枕東顔」 であることが分かります。この人骨は、成人のものであることは分かっていますが、性別は不明です(Wendorf, F.他:2001年、p.521)。

   ②埋葬の形態

 ここで、エジプト王朝の 「埋葬形態」 に触れておきましょう。大城道則によれば、初期王朝時代(~前2686年頃)までは、南枕で、顔を西に向け、左を下にして両足を抱え込む屈葬の形が続き、古王国時代に入ると、北枕で、顔を東に向けて埋葬した、とあります。その後は時間の経過と共に新王国時代(前1567年~)のミイラに見られるように、仰向けに安置されるようになったそうです(大城道則:2010年、p.79~)。近藤二郎は次のように書いていますが、これは古王国時代の埋葬習慣を述べたものなのでしょう。

    "古代エジプトでは頭部を北にして埋葬された遺骸は、死後に再生復活を遂げるために顔を東に向ける 「北枕顔」 の姿勢がとられた。
    太陽が沈む西方に浄土があると考えられていた仏教世界において、死者が一般に「北枕西顔」の姿勢を取らされるのとは、好対照で
    あり興味深い。"(近藤二郎:1997年、p.27)

 ちなみに現在の仏教では、釈迦の入滅のときの姿勢から、「頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)」 を採用しているそうですから、なるほど 「北枕西顔」 なのですね。この表現に従えば、ナブタ・プラヤの場合は 「東枕北顔」 ということになります。

 なお、先に触れたように、ナブタ・プラヤから約30km北西に、ジェベル・ラムラ(Ramla Playa)という墓地の遺跡があり、こちらでは67体の人骨や様々の副葬品が発掘されていますがこれらは先の2例とは違って、明らかに意識的な 「埋葬」 と言えるでしょう。この墓地では、全員が 「西枕南顔」 になっています(図表集:第43図)。ナブタ・プラヤの人骨を180度回転した姿勢ですね。こう見てくると、「北枕」 がやや多いという印象はありますが、具体的な埋葬の形態は場所や時代によって、正に様々で、一律の法則性は必要がなかったのでしょう。

 このジェベル・ラムラの墓地の、木炭や人骨から抽出された年代は、前4630~4310年で、これはナブタ・プラヤでは、後に記す「列石」が作られた時期に当たります。ナブタ・プラヤで人骨が出土した年代は、それより約1000年前の前5800~4800年頃と推定されています。ここでの定住は前7000年頃からと見られますから、仮に埋葬の習慣があったとしても、しっかりした墓地に埋葬されなかったために、人骨は地形の変化などで散逸してしまったのかもしれません。なお、ジェベル・ナブタの 「E-77-1」 出土の人骨の年代は、前6800~6100年頃ということしか、分かっていません。ちなみに人類の埋葬習慣そのものは、最も古くは10万年前頃に遡るという証拠が、イスラエルのカフゼー洞窟などから発見されています(河合信和:2009年、p.114)が、埋葬の形態については、定説が見当たりません。

   ③埋葬の意義

 
人骨の埋葬の始まりは、亡くなった先祖の骨を住居の一部に埋めることによって、占有権を確実なものにしようとしたのが始まりである、とされています。これはすでに、人間が 「未来」 に思いを致すという心境の発露の側面を現していると思われます(NHKスペシャル取材班:2012年、p.300~)。そしてそれは、「はじめに」 で触れたホモ・サピエンスの企画・計画能力の発現なのでしょう。

 もう一つ注目すべきは、ナブタ・プラヤから出土した人骨が、ただ1点だけだということです。近隣では、ジェベル・ナブタから一体出土しており、またジェベル・ラムラには、墓地まであって、67体の人骨がありました。しかし、祭儀場として多くの人間を集め、大規模な建造物を作るに足る、大人数が存在したにしては、ここナブタ・プラヤから出土する人骨が、ただ1点というのは、何故でしょうか。考えられる理由は、祭儀場はあくまで臨時の集会場であって、多人数が集合しても、祭儀が終了すれば、ナブタ・プラヤなどの周辺の居住地へ帰っていったのではないか(ギョベクリ・テペ遺跡の場合のように)、ということが一つです。もう一つは、砂嵐などのために散逸した可能性ですが、これは他の遺物や遺構の密集度から推して、余り考えられないことでしょう。

  (二)ウシを埋葬した石塚(E-94-1n)
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   ①場所の選定  

 次に、かなり風変わりな遺構をご紹介しましょう。ここでチョット、図表集の第6図を開いて下さい。この図の左上に 「Valley of the Sacrifices=いけにえの谷」 という谷が縦に走っています。これは現在は 「涸れ谷=Wadi」 ですが、図表集:第7図右上の矢印(4、涸れ谷の水路)でも分かるように、かつてはここも有力な水路の一つで、ナブタ・プラヤの内陸湖を満たしていました。先ほどの図表集:第6図で見るとこの涸れ谷(「Valley of the Sacrifices」)の左側に約十個の緑色の丸印があります(正確に発掘検証されたのはその内の9個だけです)。これがウシやヒツジやヤギの骨を「生け贄」として埋葬した 「石塚」 なのです。これらはいずれも直径が約3~4mで、盛り上げた土の小山を、十数個の小さな砂岩で覆った 「塚」 になっています(図表集:第25図)。それでマルヴィルらは、ここを 「生け贄の谷」 と名付けたのです。彼らはこう記しています。

    "夏の初めに最初の雨が降った時、この涸れ谷がプラヤへ水をもたらしたので、この場所は雨乞いのためにウシを生け贄に捧げるには、最適の場所だったのだろう"
                                                                                        (M.マルヴィル:2007年)

   ②構造  

第16図:石塚に埋葬された牝牛
         
(左が北です)

 発掘・調査された9個の石塚の中で、ほぼ完全な一体の牝牛の骨が埋められているものが、ただ一つだけあります(「E-94-1n」・第14図、図表集:第26図)。この塚は直径約8m、高さ約1mと、かなりの大きさで、周囲を石板で覆われており、その中には、ご丁寧にも図のように二重に粘土で囲われて、上をギョリュウ(御柳=Tamarix tenuissima)の大枝で屋根葺きをした小部屋が作られています。その中にただ一体、横たえられているのですから、大変丁重な埋葬と言えるでしょう。ちなみに、このナブタ・プラヤ唯一の埋葬牛は、人間の場合で言えば、仏教風(?)に 「北枕西顔」 に埋葬されています。ナブタ・プラヤで、「北」 という方角が登場するのは、実はこの 「石塚」 が年代的には、一番古いのですが、しかしこれは一頭だけの出土例ですので、第五章の(一)に述べる 「「北」 を定める」 の一例になるのかどうかは、疑問なのですが。

 これまでに、何度か記したことですが、この時代にこれだけの規模の作業が可能になったのは、前6800年頃以降、ウォークイン方式の井戸や、整然とした集落の建造を通じて、支配者層や階級組織が誕生し、複雑で規模の大きい公共的建造物が生まれた結果なのでしょう。ここで注目すべきは、一般には先ず農耕が発達し、食糧の備蓄が進み、富者を生み、支配者層を形作ったということです。ここにも「農耕」 という定石を踏まず、ウシという家畜の保有量から「支配者層」 を生んだナブタ・プラヤの特異性がみられます。こうして生まれた 「共同作業」 はさらに、次に述べる「複合建造物」 たちを建造する能力へと、成熟して行きました。約9000年も前に 「共同作業」 という、現代人的行動を可能にした 「ホモ・サピエンスの特質」 については、第Ⅲ部で触れます。

   ③年代            戻る        

 屋根に使われたギョリュウの木片からは、放射性炭素年代測定で前5363±272年*8という年代が割り出されています。

  (三)地域祭儀場(集会場)      戻る

   ①地域祭儀場(集会場)の形成

 すでに何度か述べたとおり、前7200年頃には、ウォークイン方式の井戸の普及が定住を可能にして、かなり整備された集落さえ出来はじめました。前6000年頃になると、夏の湿潤期には、近隣のナイル流域や南方から、遊牧民たちが内陸湖の西岸を目指して集まり始めます。血縁などの関係がありながら離ればなれになっていた人々などが、定期的に再会して絆を深め合うだけでなく、異なった地域の人々が集まって、物々交換や情報の交流を行い、それによって社会的・政治的な繋がりを確かめ合ったのでしょう。さらに集団が大きくなるにつれて、結婚式や葬式を初めとする、様々の儀式も催されるようになり、こうしてここを、この地域一帯の祭儀場(集会場)として利用するようになりました。ただ、このように「集団のサイズ」が大きくなってくる現象は、上に述べたような、社会的・政治的な、自然発生的な理由だけでなく、次に述べる二つの理由が促進したのかもしれません。一つは、集団の人数が多くなればなるほど、様々な発想が出現して、集団の文化的発展に寄与すること。もう一つは、人数が増えれば増えるほど、出てきた発想を採用すべきか否か、試行錯誤の回数を増やせるから、それだけアイディアの内容の安定性が高くなるだろうことです(NHKスペシャル取材班:2012年、p.189他)。
 
 これらの集会が開かれたとされる西岸の砂丘地帯は、南北に約2.2kmにおよび、北は先に述べた 「石塚」 から、南は 「複合建造物 「E-96-1E」 」 までを含む、縦長の場所が巨大な 「祭儀場(集会場)」 を構成することになりました(図表集:第6図)。勿論、祭壇に類するものなどの、祭祀に関する遺構や遺物が発掘されたわけではないですが、数百個の炉の址や、たくさんの生活遺物や、「捧げ物」 として犠牲になった多数のウシの骨などが、それを雄弁に物語っています。その上 「石塚」 や 「複合建造物」 の他にも、後に述べる 「カレンダー・サークル」、「列石」 など、中心的な建造物は全て、ここに集まっていますから、ナブタ・プラヤそのものが、ここに集約されていると言っても良いのでしょう。ナブタ・プラヤの人口が増えたとしたら、ここ 「祭儀場」 がその中心だったと想像できます。

   ②地域祭儀場(集会場)の持つ意義      戻る

 「はじめに」 で述べたとおり、マクブレアティらは、アフリカ各地を精査して、諸々の現代的行動の起源を特定しようと試みました。その調査対象は、極めて多分野で、多岐に渡っていますが、第2図に示された 「尖頭器(石器)」 もその一つで、これは投げ槍の先端に装着されたとされています。ここでその尖頭器のその後を、少し追跡してみます。考古学上、この尖頭器を装着した投げ槍という飛び道具は、アトラトルなどの 「投擲具」 の発明を経て、相当の距離へ及ぶ殺傷力を利して、「人間集団のサイズ」 を大きくする(約150人から数千人の集団へ)原因となったとされます。これは狩猟の規模が大きくなったことだけでなく、広い地域での人間管理が容易になったから、とも言われています。そして、現代人的行動は、後に詳述するクライン(Richard G. Klein )の 「神経仮説」 が唱えるように、急速に開花したものではなく、この 「集団サイズの拡大」 が、コミュニケーションや試行錯誤の活発化を促し、それが芸術や技術などの文化を生み出したのだとされています。先に触れたとおり、人数が多くなれば、より多くの情報やアイディアが集まり、より多くの発明が出てくるからです。確かに人間の集団が大きくなることが、文化や技術を推進する重要な要素の一つであることは、考古学者も、よく指摘しているところです(McBrearty, S.他:2000年、p.532~/NHKスペシャル取材班:2012年、p.185~p189)。

  また、文字の無かったこの時代には、修得した技術や知識を後世に伝える術がありませんでした。そこで、彼らは人数の多さを利用して、大勢で記憶し、大勢で口伝することによって、後世に伝承していったのではないかと考えられます(参照:後述の時間結合(time binding))。言語、文字などの象徴的記号が未発達の場合には、「集団サイズの大きさ」 も経験の伝達に貢献したのでしょう。ここ、ナブタ・プラヤにも、「祭儀場(集会場)」 へ周辺の多くの地域から大勢の人々が集まり、そこで多くのアイディアが持ち寄られ、取捨選択され、そして重要だと決定されたものが、何度もの試行錯誤の繰り返しの後、形をなして行ったのではないでしょうか。先に述べた、「ウォークイン方式の井戸」に止まらず、前5400年頃の 「石塚」 を皮切りに、これから述べる 「カレンダー・サークル」、「複合建造物」、「列石」 と矢継ぎ早に、斬新な建造物が作られたのも、この様な 「集団の拡大効果」 によるものなのかもしれません。

 「集団のサイズ」 の話といえば、ジャレド・ダイアモンドが、人類学者エルマン・サーヴィス(Elman R. Service)の 「バンド、トライブ、チーフダム、ステート」 を表に整理しています(図表集:第60図)(ダイアモンド:2000年、下巻p.88~)。それによれば、「ウォークイン方式の井戸」 や 「石塚」 やこれから述べる巨石構造物たちを建造し得たのは、「指導者(首長)」 の下に統率された 「階級化された集団」 であり、ということは集団としては1000人を超える構成員を抱えた 「チーフダム」 の形をなしていたのでは、という想像も成り立ちます。「祭儀場(集会場)」 一杯に人が集まったナブタ・プラヤなら、1000人以上の人々が集まった情景が想像できなくもありません。ただ「チーフダム」の場合は、強力な首長の存在が前提とされているので、果たしてナブタ・プラヤがその域に達していたかは不明であり、無理に 「チーフダム」 と決めつける必要もありません。ただ、砂漠の僻地の小さな一画で、それなりにバンド、トライブ、チーフダムという、人類の定型の歩みを進めていたことは、注目に値します。

  (四)複合建造物(E-96-1A)      戻る

   ①構造

第17図:断面図(1が卓状岩、5が彫刻された岩

 「石塚」 から約1.5km南に、数十個の巨石群があります(図表集:第6図)。これらの複合建造物(「Complex Structure」と呼ばれる石造物)は非常に特異な構造をしています(図表集:第18図~第24図)。想像して下さい、牧畜民たちは先ず”何故か”この場所を選定して、直径6mの立坑(たてあな)を掘り進めて行ったのです。そして約2.6m下でキノコ状の 「卓状岩=tablelock」 (第18図、図表集:第20図第22図)に到達します。そして彼らは、その石英質の砂岩の北の面以外の三方を、弓形の層理面(bedding plane)に沿って見事な円形に切り取っています。その切り取られた内の2片は地表へ移されて、中心的な石(図表集:第19図の4)になっているのではないか、とウェンドルフは推測しています(Wendorf, F.他:2001年、p.510)。このようにして形づくられた「卓状岩」は南北に3.6m×東西に3.4mという巨大なもので、表面も滑らかに、美しく磨かれています(第18図、図表集:第22図)。

 そうして出来上がった卓状岩は、再び約30cmプラヤ・シルトで埋め戻され、さらにその上にウシの形の巨岩 「彫刻された岩=sculptured stone」 (第17図)をほぼ真北に向けて縦に据え付けます。この岩は長さ1.9m×高さ1.5m×厚さ70cmもあり、重量も約2.5トンあって、それを垂直に保つために2本の石板で支えてあります。そしてその上に更に80cmプラヤ・シルトをかけて埋め終わり、最後に、その上に71個の石英質の砂岩を長円型に並べて複合建造物の出来上がり(第16図、図表集:第18図)となります。これだけの作業をなんの重機も無い約7000年も昔にやり遂げるには、相当な計画性や組織的労働が必要だったことは、想像に難くはありません。

 このような卓状岩は、他に発掘された二つの複合建造物(「E-96-1B」、「E-96-1E」)にも共通しています。かつて、この構造物を作るに当たって、人々はどういう方法でこれらの「卓状岩」を嗅ぎ当てたのでしょう? これはに詳しく取り上げます。

   ②列石の基点

 後で 「列石」 の項で、詳しく説明しますが、驚いたことにこの複合建造物(E-96-1A)は、次章で紹介するナブタ・プラヤで非常に特徴的な5本の「列石」の基点(ハブ)にもなっているのです。ここを中心にして長い巨石群の列(=列石)が夜空の明るい星を指して放射状に並んでいます(第22図、図表集:第6図第10-1図、第10-2図)。M.マルヴィルが広大な砂漠の中の、この壮大な構図に気付いたときの感動は、やはり想像を絶するものであったろうと、容易に察せられます。彼はこう述懐しています。     

    「私たちの画期的な大発見の端緒となったのは、列石群が複合建造物(E-96-1A)から放射状に伸びた、3本の線上(A1、A2、A3の上)に有るという発見だった」
                                                                                         (M.マルヴィル:不明)

第18図彫刻された岩(第16図の5)

   ③彫刻された岩

 発掘前にはここには恐らく王に匹敵する貴人が埋葬されているのだろうと、大いに期待されていたのですが、骨片一つ出てきませんでした。中央に鎮座している、ウシの形の巨岩 「
彫刻された岩」 (第17図)は、どこかで行き倒れになった貴人の代わりとして埋葬された、一種の代理墓ではないかとも推測されていますが、真偽を明らかにするものは何もありません。ただ、当時すでに、崇敬の対象になっていた動物である「ウシ」を、大きな労力を費やして 「石像」 の形に造型して遺す、という作業は、それから約1000年後に建造された、スフィンクスを彷彿させるとも言えるのではないでしょうか。

   ④年代
 この付近にはこのように宗教的な対象とも見られる複合建造物が合計30個も存在しています(図表集:第6図第21図拡大図 3)。その内の5個(「E-96-1A」~「E-96-1E」)を発掘調査したのですが、結局埋葬された人骨は勿論、代理墓のごとき物も全くありませんでした。五つ目の構造物(「E-96-1E」)の下にあった貝殻から木炭が取り出され、それは放射性炭素年代測定によって前3653年頃~3449年頃のものであると判明しています。しかし 「E-96-1A」 は、五本の列石の中心のハブであることから推して、前4800年頃のものであろうと、マルヴィルらは推測しています(Wendorf, F.他:2001年、p.520)。その推測を排除して、仮に放射性炭素年代測定の値を採っても、ジェセル王やクフ王のピラミッド建設の、約1000年前に、サハラ砂漠の真ん中で、これだけの作業をやってのけていたことになりますから、まさに瞠目に値します。

   ⑤卓状岩の謎

第19図卓状岩(第17図の1)     戻る

 ①構造のところで私は、「牧畜民たちは”何故か”先ずこの場所を選定して」 と、サラリと書きました。しかし、登場したこの構造物は大きな謎を抱えたまま、存在を続けています。その謎とは、2.6mも地下に鎮座している 「卓状岩」 (右の第19図、図表集:第22図)なのです。この構造物の近くには他にも類似のものがいくつも有って、その中の3個だけが発掘されているのですが、実は二番目(E-96-1B)、三番目(E-96-1C)に発掘された構造物の地下にも、まるで言い合わせたように、真下にこのキノコ状の卓状岩が有るのです。

 この卓状岩は構造のところでも解説したとおり、三方が見事な円弧状にカットされ、その上表面が丁寧に磨き上げられています。「E-96-1A」 の場合はその上に約30cmほどシルトを埋め戻し、そこへウシのような形の約2.5トンの 「彫刻された岩」 を、南北を指すように立て、その上に更に80cmほどシルトをかけて、最後に砂岩を楕円形に並べて、作業終了となっています(参考図)。勿論用途も、何か意味があるのかも、全く見当が付かないのです。

 作業の大変さもさることながら、不思議なのはどうやってこれらの石英の卓状岩に辿り着いたか、もっと正確に言えば 「探り当てたか」 です。掘り始める前に、この場所の地下2.6mのあたりに 「卓状岩」が有ることを、どうやって予知できたのでしょう。この岩が発掘されてから11年後の2007年に書かれた 「Astronomy of Nabta Playa」 の中で、マルヴィルたちは、井戸を掘るときに偶然に発見したものとは考えられず、「依然謎のままである」 と嘆いています。この謎が解かれる時はしかし、果たして来るのでしょうか・・・? 更に研究が進められ、或いは他に、類似の構造物が発掘されるかして、この謎が解明されるのが、楽しみではあります。


 第五章 天文観測に関係する遺物・遺構     戻る

 前章の冒頭に記したとおり、ここナブタ・プラヤでは、日常生活と直接関係が無いと思われる遺構が、幾つも発見されています。この章ではその中でも特に天文観測に関係のあるものを、取り上げます。

  (一)「北」を発見する      戻る

 これまで何気なく 「北」 とか 「南」 とかいう表現を使ってきましたが、ナブタ・プラヤの時代には、先ずそういう知識そのものが無い状態からの出発だったはずです。昼夜を通して広漠たる砂漠を旅するとき、彼らが現在の位置を確かめ、目的地の方角を知るために 「」 というような、一つの方角の指針を定める必要がありました。また、雨期の到来を予知するためには、「夏至の太陽が昇る方向」 を知ることも必要不可欠だったでしょう。

 しかし、何の知識も持たない砂漠の遊牧民にとって、そもそも夜空の星の動きに一定の法則性を見出すことさえ、何十年のいや何百年の、模索や問答やそして口伝の繰り返しが、必要だったことでしょう。しかし彼らは成し遂げました。毎晩まいばん、飽きずに夜空を見上げることから、それは始まったはずです。長年の観察の結果、彼らは北極の空では一つの不動の星を中心に星が円を描いて回っていいることに気付くに至ります。その星が 「北極星」 であり、正確な 「」 であるなどとは、知る必要も無かったのですが。現在の我々は、「彼らは北極星の方角の平らな地平線上で、特定の星が<登る場所>と<沈む場所>にケルンを置けば、その真ん中が 「北」 になる という原理にまで辿り着いた」(マルヴィル:2007年)などと簡単に片付けているのです。それはともかく、こうして見つけ出した 「北」 から、「南」 を定め、更に「夏至の太陽の昇る方向」や、「南中する時点」 を捉えるに至り、その知識が、この節に取り上げる様々な構造物の建造に、生かされて行きました。東西南北を極めて高い精度で計測している、ギザのピラミッドが作られたのは、前2600年頃ですから、すぐ後に述べる 「カレンダーサークル」 は、それよりも約2000年以上前に、正確な 「南北」 を割り出していたことになります。

 ここで、ふと浮かんでくるのは、王朝時代の「ピラミッド・テキスト」の中の一節です。北極の周りの空は星が沈むことの無い領域(北半球の住人にとっては)なので、"死者は、決して消えることのない星々、北極星のまわりを回る周極星とともに永遠の命を生きる"と記されています。この頃のナブタ・プラヤの住民たちも、決して消滅することの無い、北の夜空に、「永遠」を感じ取ったのではなかったのでしょうか。毎年ある時期になると、真昼の太陽が同じ方向に南中し、その頃に決まって雨期がやってくることも、彼らには人知を越えた不思議な感じを抱かせたことだろうと思います。「信仰」や「宗教」が生まれたのは、人間のみが「未来を思う」ことが出来るからである、ということが、「ヒューマン」という本に説かれていますが(NHKスペシャル取材班:2012年、p300~)、未来を予告する天空に対する、畏怖や憧憬という素朴な心情も(柳沢桂子:2005年、p.93)、「信仰心」の要素になったのではないか、「北」を求める心もまた、「信仰」と関わりがあるのではないか、と思いを巡らすのも、そう見当違いではないかもしれません。           

  (二)カレンダー・サークル(環状列石)(E-92-9)            戻る

   ①構造

第21図:発見当時の写真。人物はR.シルトです。 参考図:ストーン・ヘンジ

 「石塚」 の項で紹介した、図表集の第6図の右上をご覧ください。ここへ注いでいる 「Valley of the Sacrifices」 の南端に、高さ2mほどの小高い丘があって、その上に意味ありげに並べられた石の構造物が有り、それは後にカレンダー・サークルと名付けられました(第20図、図表集:第12図)。カレンダー・サークル(環状列石)は砂岩を円形に並べて作られた直径約4mの小型の"ストーンサークル"です。発見当時はかなり不完全な姿(右の第20図、図表集:第14、第15図)でしたが、観察と研究によって、「カレンダー・サークル」 であると判断するまでには、かなりの調査と議論を要したことでしょう。私自身も書物やネット上から見付けた全ての写真を集め、子細に検討を重ねた結果を図表集に纏めているので、参考までにご覧ください(図表集:第14図~第17図)。 これは、現在は復元作業*12によってレプリカに再現され、ヌビア博物館に設置されています(図表集:第12-2図)。ご覧のように約55個のヌビア砂岩から出来ていて、これらの岩石は小さいものでは20×20×5cm、大きいものでは70×20×10cmに及んでいます。

   ②機能

第22図:復元・イラスト化したもの

 このカレンダー・サークルには驚いたことに二本の「視線=Line of Sight」が設けられていて(左の第21図)、一つは「」を、もう一つは 「夏至の太陽が昇る方向(約6000年前頃の)」 を指しています。言い換えれば、円を跨いで向き合う二対のゲートがあり、一対は南北を、またもう一対は夏至の太陽の昇る方向を指しているのです。 遊牧民たちは時々ここに立ち寄って、方角を確認したり、夏至が近づいていることを確かめたりしたのでしょう。先に述べたように当時の人びとにとって 「夏至」 は雨期の到来を告げる唯一の指標でした。そして雨は、食糧の貯蔵や家畜にとって、非常に重要な影響をもたらすものだったのです。なお、中央に6本の石が並んでいますが、この天文学的な意味は、いまだ不明のままです。

   ③異説
 
 なお、「はじめに」 の中で触れましたが、研究者によっては、このサークルはオリオン星座を描いたものだという主張もなされていますが(Brophy:2002年)、そこで取り上げられた 「年代」 のでーたが、ナブタ・プラヤ成立以前を指していることもあり、マルヴィルらは言下に否定しています(参考:「列石と星たちとの関連」の項)。

   ④牧畜民の労苦            戻る

 私たちが見落としがちなのは、このカレンダー・サークルを作った時の、牧畜民たちの行動です。先ず涸れ谷の尽きる所にある小高い丘を選んで、彼らは砂地に下絵を描いたのでしょう、そこへ少し離れた採石場から、わざわざ石を運んできて並べたのです。現在なら、天文知識を青写真に描いて、その通りに石を並べる、という簡単な作業かもしれません。しかし、この構造物が作られたのは、なんと約7000年前なのです。この章の冒頭に、彼らが「北」を求める話を書きました。当時の人々が、天空から読み取った 「北」 や 「夏至」 を、地上に 「下絵」 として書き写し、再現するにさえ、十年、百年単位の年月を費やしたはずです。そして、こえらの天文に対する基礎知識が、王朝時代に伝えられて、ピラミッド建設などの参考に供されたのかもしれません。少なくとも、それを否定する材料は、今までの所何も発見されていないのです。

   ⑤年代

 周辺の炉の一つから採取した炭の年代は約前4800±60年を示しています。世界最古のストーン・サークル(ストーン・ヘンジ=第21図の参考図)は最も古いもので前3200頃~前2500年頃とされていますから、ナブタ・プラヤのカレンダー・サークルはスケールは小さくても機能的には最古のストーン・サークルと言っても過言ではないでしょう*13。第20図の参考図のストーン・ヘンジと見比べると、大小が余りにも顕著で、一見貧弱なのですが、しかしそれをもって、当時の人々の、天文知識と製作能力を云々するのは、いささか単純に過ぎると私は感じます。なお日本にも、縄文時代前期の阿久遺跡ほかの、ストーン・サークルがあり、同様に夏至の太陽を指す機能が指摘されていますが、年代の特定には至っていないようです。

   ⑥現状      戻る 

 なお、このカレンダー・サークルはエジプト政府の無関心と、心ない観光客のせいで、石が持ち去られたり、無関係の石ころが持ち込まれたり、位置を変えられたり、その上周囲にゴミが捨てられたりして、現在では完全に発見当時の姿を失ってしまいました(図表集:第16、第17図)。R・ボーヴァルとT・ブロフィーはその著書の中で、巻末に10ページを割いて慨嘆しています(Bauval:2011年、p.306~p.316)が、2014年9月現在、何の安全対策も施されていません*14

第20図:一本の石柱

  (三)一本の石柱      戻る

 広い砂漠に1本だけ立っている石柱があります(図表集:第27図)。砂漠にも珍しい、長さ約1mの見事な石柱が、ポツリと立っているのですから、最初に発見した調査隊員も、およそ自然の産物とは思えない石の棒に、奇妙な感覚を覚えたはずです。調査してみると、この石柱は夏至前後の数日間は、真っ直ぐ南中する太陽を指し、そのせいで、右の第19図のような影を生じることがないということが分かってきました。この石柱は、なんと、夏至の日を知るための、日時計に似た構造物だったのです。サハラ砂漠の遊牧民は、おそらく、影が出来ない日、すなわち「夏至の日」を知ることによって、雨期の到来を予測したのでしょう。先に述べたように、雨は彼らが蓄えた植物や、彼らの家畜にとって、極めて重要な存在であったのですから。それだけに止まらず、もしいつまでも雨が降らなければ、極乾燥期に入り、定住を諦めて一旦他の土地へ逃れなければならなかったのですから。

 王朝時代にエジプト人は、毎年6月末になると、夜空で一番明るい星であるシリウスが、日出前に出現(ヘリアカルライジングheliacal rising)し、ちょうどその頃にナイル川の増水が始まることを発見しました。そしてその日を一年の始まりとして、最終的には太陽暦を完成するのです。夏至の太陽を特定することも、全く同様に、彼らの生活にとって、如何に重要であったかは、このことからも十分理解できることです。

 残念ながら、この石柱については年代が検出されていませんが、天文学的な知識の程度から推して、恐らくは、次に述べる「カレンダー・サークル」と同じ頃だったのではないかと私は推測しています。なお、この石柱の位置を明示した地図は見当たりませんが、「Nature誌」 392号の記述と付図(目次横の最後の図)によれば、複合建造物の約1,500m真北から、東へ1.8度の位置に 「Monolith」 とあります。実は、現在どこにも明記してないのですが、ここから推測して、図表集の第6図の、「カレンダー・サークル」の約350m西にある 「MARKER」 が、「一本の石柱」 であろうと、私は推測しています。なおマルヴィルらは 「Nature誌」 の中で、「こういう形の石柱を選んだのか、意識的に彫刻したのかは分からないが、男性の繁殖力を象徴的に示すもの」 と論じています。

 冒頭に 「日時計に似た構造物」 という表現を用いましたが、「日時計」 と 「一本の石柱」 は 「太陽を用いて特定の時間を知る」 と言う点では共通でも、本質は全く別物です。「一本の石柱」 は、対象が 「一日」 でなく 「一年」 であり、しかも一年の中の特定の数日間だけを指し示す 「天体観測装置」 という、用途の狭い、いわば特殊な装置なのです。ただこれだけの装置を考案するには、所謂 「日時計」 の原理はマスターしていると考えるべきでしょう。「Nature誌392号」 でも 「Monolith」 と名付けて取り上げては居ますが、解説を避けています。勿論ほかの関連文献も、触れては居ませんが、これは他にも類例が見当たりません。ナブタ・プラヤの民は、恐らく他に簡便な素材を用いて、日時計を常用しており、年単位の 「Monolith」 だけ、堅牢な素材を用いた大型なものを建造したのではないかという、想像は決して乱暴では無いと愚考します。NASAもこの建造物には特別な興味を示し、世界の天文学的珍現象・奇現象を集めたサイト「Astronomy Picture of the Day 」 の1998年4月8日に、人類の天文学的記念碑の一つとして、取り上げています。ちなみに 「Nature誌 392号」 が発刊されたのは、その6日前のことです。(参考:12 「Nature誌392号」から)

  (四)列石       戻る

   ①構造   

第23図:五本の列石です   列石の現地分布図

 前にも触れましたが、ここナブタ・プラヤには、24個の巨石群が直線状に並んだ列石が五本(右の第22図)あり、そのいずれもが明るい星の方向を指しています(左下の第23図)。「24個の巨石群」 と言っても巨石が24個有るわけではなく、図表集:第11-2図のように数個の砂岩の巨石が集まって(例外:A-0だけは1個の岩です:図表集:第11-1図)一つの塊を作り、その塊(=石碑群)が合計で24個有るのです。そのうえ、これらの巨石は数百mも離れた採石場から運ばれたものでした。これら五本の列石は実は一つの基点から放射状に並んでおり(第23図、図表集:第10-1図、第10-2図)、その基点になっているのが、第四章の最後に述べた 「複合建造物」 なのです。この事実に気づいたときの感動は、前章の 「複合建造物」 で紹介したとおり、とても大きなものでした。「複合建造物」 から 「列石」 の最北端の 「巨石A-0」 までは、約1kmあるのですから、この感動はよく理解できます。

  お気付きかもしれませんが、右の第22図をよく見ると、A3とB2、A1とB1が、ほぼ直角を形成しています。これは当時の牧畜民たちの、角度に対する強い好奇心の表れではなかろうかと、マルヴィルらは指摘しています(M.マルヴィル:2007年)。

   ②列石の年代 なお、採石場から得た5つの放射性炭素測定年代は前4500年から4200年までを示しています。しかしマルヴィルたちは、巨石構造物E(「E-96-1E」)が、年代 「4800bp±80」 (=B.C.3551±102=B.C.3653~3449)を示しているので(Wendorf, F.他:2001年、p.517)、前3600年頃まで 「列石」 は作られていたのだろうと、推測し、「列石」 が作られた年代を前4500年頃~3600年頃約900年間と算定しています(マルヴィル, M.他:2007年)。

    ③明るい星を指す

 列石が指している方向は、第23図に示されているように、夜空に輝く明るい星、シリウスアルクトゥルスαケンタウルスなどです(ちなみに、シリウスは全天で最も明るく、またアルクトゥルスは3番目、αケンタウルスは4番目です。2番目に明るいカノープスは北半球では低い位置にしか上りません)。エジプトではシリウスの日出前出現(ヘリアカル・ライジング=heliacal rising)が見られるとナイル川の上流に雨が降って、増水時期に入ります。初期王朝時代(前2800年頃)には、このシリウスの出現とナイル川の増水との関連性に着目した結果、1年を365日と定め、そこから 「太陽暦」 が生まれることになりました(大城道則:2010年、p.64~、平凡社:1979年)。ナブタ・プラヤの民がシリウスに着目した理由は明らかにされていませんが、ナイルの増水時期がナブタ・プラヤの雨期と関連があったことは容易に想像できます。前4640年頃にはその星に向かって、巨石を並べ始めていたことは確かですから、シリウスのヘリアカル・ライジングで、雨期を確認したと想像できます。そして、その知識が王朝時代に伝えられた、と推測することも、間違いではないかもしれません。

 それはともかく、牧畜民たちは夜を待って、これらの星によって方向を確かめ、年に一度の雨期の到来を確かめたのでしょうか。その意味では 「一本の石柱」 の大型版とも言えます。そして、「ここに一つ目印を固定しておこう」と思い立ち、それから多くの年月と労力を費やして、このように長大な列石群を作り上げたのでしょうか。この点については次項以下で詳しく触れます。

    ④歳差による変動

第24図:列石が指す星

 その中の 「列石A:A1A2A3」 は3番目に明るい星 「アルクトゥルス」 を指しているのですが、歳差によって星の位置が変わったため、3本作られたとされています(参照:第23図)。この表からも分かるように、アルクトゥルスは前4530年~4320年の約200年間は列石A3の指す方向に、前4220年~4020年の約200年間は列石A2の指す方向に、というように、歳差によって方位角*15が変わったからなのです。この事実だけから推測しても、アルクトゥルスを目印として定める作業が、前4530年~3630年の約900年間にわたって、営々と繰り返されていたことになります(参照:列石の年代)。この一見単純な3本の列石の維持が、砂漠の牧畜民にとって、いかに重要な作業であったかが、この一事からもしのばれます。ここで明らかになったように、これらの5本の列石は、歳差に従って、1本また1本と、1000年近い年月にわたって建造されたのです。そして出来上がったものは、広大な宇宙を窺う巨大な5本の 「矢印」 であり、これはまさしく、世界に類例を見ない壮大無比な天文観測装置であると言っても良いでしょう。ただ、今の私たちが、当時を生々しく想像したとき、或る強い疑問が頭をもたげてくるのです。

  ⑤強い疑問

  五本の 「列石」 はいずれも夜空の明るい星を指しているとされています(第23図)。これは、何を目的として作られたのでしょうか。単純に方角を知るための、道しるべだと考えることはできません。夜の砂漠では、よほど月が明るくても、長さが約1kmにも及ぶ列石の全体を見通すことなど、できないはずですから。では、一体何のために、一つの方向に向かって、巨石をいくつも直線に並べるなどという、大変な労力を必要とする大事業に取り組んだのでしょう? 更に、出来上がった列石を、昼間はハッキリ見通せるとして、それをどんな目的に用いたのでしょう?そこで 「ナイル川の増水」 のような、何かの現象が存在したのかもしれないという上記の推測が生まれます。マルヴィルらは、何か雨を招く目的を推測しつつ、このように表現しています。

       "これらの列石は、年月日などを読み取るためのツールとして造られたものではなく、むしろ夏至や雨期に特にまざまざと感じ取れる、天空と地球との一体感を、
        讃えようとするものだったのではないだろうか。"(Wendorf, F.他:2001年、p.502)

 確かに、ナイルの増水との関連を推測も出来ますが、明るい星を指す列石は、天空を崇める心の、一つの表現だと考える、すなわち何か 「信仰心」 に関わるものだと理解することも、一つの重要な方向でしょう。
 
 もう一つの疑問は、マルヴィルらが9個の巨石群を 「列石A」 として3本の列石に、7個の巨石群を 「列石B」 として2本の列石に分けた発想です。列石A (A1・A2・A3) を、よく観察すると、「A-0」 から 「A-9」 までの10個を、三列に仕分けた方法に不自然さを覚えます。第22図の 「拡大図」 と 「現地分布図」 を、ジックリ見比べていると、ここには、後世の知識による、無理なコジツケが有るのではないかと、フト感じるのです。古代人が、ここまで歳差にこだわって、しかも1000年もの長年月にわたって、努力を続けたのだろうかと。その上、列石を構成する石の放射性炭素測定年代年代が、前記述の通り、前4500年~4300年の200年間に限られているのも、不自然だと思うのです。マルヴィルらの推論は正しかったのかも知れませんが、いずれにしても、夜空の明るい星の方向に、巨石を並べた意図と努力を想うと、ナブタの民の大事業は、脱帽に値すると思うのです。ただ、これは推測の域を出ませんが、のちの王朝時代のエジプト人のように、シリウスの出現を一年の始まりとして、「暦」 の発想をすでに体得していたのかもしれませんが、これを証するものは何もありません。

   ⑥列石Cの除外

 上の図をご覧になっていて、お気付きの方もあるかもしれません。実は2001年に発刊された 「Holocene Settlement」 では 「列石:C」 が取り上げられていたのです(図表集:第10-2図)(Wendorf, F.他:2001年、p.494~)。しかし、マルヴィルらは後の研究で、「列石:C」 とされていた最南端の列石は、石たちが坂や小山の中腹に止まっているような状態で、必ずしも当初の並び方に忠実ではないと判明したので、現在では研究の対象から除外していると言っています(M.マルヴィル:2007年)。

  (五)石碑群      戻る

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第25図:石碑の群れのイラスト

   ①位置

 ここで、図表集の第11-5図をご覧ください。上に述べた 「列石:A1・A2・A3」 から南へ約500m行くと、それらの基点(ハブ)になっている「複合建造物=E-96-1A」が有ります。この図では左上に見られますが、その周辺から南東方向にかけて相当な数の赤い点があります。それはマークの解説では 「巨石」 としてありますが、ご覧の図では 「Western Group of stelae=石碑たちの西のグループ」 などと記してあります。図表集:第11-10-1図で分かるように、いずれも 「巨石を含んだ石碑の群れ」 を意味しているのです。

   ②構造

 大半は 「石碑の群れ」 であって、単体で存在することは稀で、列石の北端の 「A-0」 (図表集:第11-1図)と、「1本の石柱」 以外には見当たりません。多数存在する石碑は70kgほどのものから、大きいものでは数トンに達します。現在見られるものは、殆どが地上にばらまかれた状態ですが、中には第25図のように傾いた状態のものもあり、当初は真っ直ぐ立てられていたのだろう(右の第24図)と推察されています(図表集:第11-10-1図、第11-10-2図
)。

第26図:北へ傾いた石碑

  ③機能

 
列石以外のこれらの石碑群が、どんな目的で建てられたのかは分かっていませんが、いずれの石にも共通しているのは、それらが一様に 「」 を向いて建てられていたことです。そして現在では、北からの強い風に根元を抉られて、北向きに倒れている石が多く見られるのです(左の第25図)。第24図の、北を指す矢印にご注目ください、石碑が全て北を向いています。人物と岩の影が、南側に描かれているのは、イラストのミスだと思われます。
 もう一つ注目するべきことは、多くの石碑が人間の頭と肩のラインを思わせる形に、成形されていることです(図表集:第11-1-2図 )。これは、死者を追悼する気持ちの表れではないかとの推測もなされています(Wendorf, F.他:2004年、p.13)。北を指すという道標として用いられただけではなく、或いは北方への憧憬と共に、「死者を追悼する心」 を読み取るべきなのかもしれません。






第Ⅲ部 この遺跡が語りかけるもの「文明」のすがた      戻る

第27図:巨石構造物が点在するナブタ・プラヤの風景

第28図:石塚の発掘前の外観
第29図:カレンダー・サークルの発見時の写真

第30図:西岸の全景  戻る       第31図:1本の石柱

第32図:列石「A3」の中の、巨石「A-2」から「A-3」、「A-4」を見る

第33図:逆に、巨石「A-4」から「A-3」、「A-2」、「A-1」を見る

第34図:複合建造物(「E-96-1A)の発掘前の外観

第35図:複合建造物の一群(「E-96-1D」から南方を見る)

 第Ⅱ部で様々の生活遺物や巨石建造物たちを観察してきました。その作業の途中で、時折ふと心をよぎったのは、それら遺物や建造物たちそれぞれの関連性についてです。砂漠の中の狭隘な地域内に、これだけ風変わりな遺物や遺構たちがあれば、そこには何かの共通点や関係が有っても不思議ではない。言い換えれば、多くの遺物や建造物たちをそれぞれ 「ヨコイト」 としたとき、それらを縦に貫く、なにか 「タテイト」 のようなものがあるのではないだろうか? そこからホモ・サピエンスの 「現代人的行動」 を垣間見ることが出来るのではないか? そのような予感を持ち続けていました。ここ第Ⅲ部では、その予感を大切にしながら、全体を通観することにします。



  第一章 砂漠の巨石群      戻る

 
(一)特異な地域祭儀場          戻る 

 すでに何度か紹介しましたが、この 「ナブタ・プラヤ」 という遺跡は、まさに奇跡的な偶然から発見されました。1973年のことです。翌年から開始された本格的な調査は、期待を遙かに上回る多くの発見をもたらしました。土器、石器の類いは勿論、炉の跡、小屋の址、それに井戸の跡まで発見されて、明らかな生活の痕跡が確認されました。その上さらに、地質調査や放射性炭素年代測定が進むにつれて、徐々にこの遺跡の驚くべき全貌が明らかになって行きます。

 1974年に、調査に着手した時、砂漠に足を踏み入れたCPEのメンバーが、最初に対面したのは、一抱えも二抱えもある巨大な石が、十数個から数十個、ゴロゴロと集まった石の群れが、あちらこちらに点在しているだけの、一面の荒涼たる砂漠という風景でした(第27図)。左に第28図から第35図まで、それぞれの巨石群の外観を並べてみましたが、ご覧のように一見、単なる巨石の集団に過ぎません。ところが、その集団を一つ一つ子細に調べていくと、そもそもそれらの巨石たちは、元からそこにあったものではなく、500mあるいはそれ以上も離れた石切場から、わざわざ運ばれたものであることが、岩石の成分分析から分かってきました。その上、その巨石群のいずれもが、日常生活にはほとんど無関係でありながら、信じられないほど複雑な内容の建造物に組み上げられていたのです。そしてその建造物の一つ一つが、広大な範囲に及ぶ「地域祭儀場」 の、重要な構成分子として存在していたことが判ってきました。

 では、この 「地域祭儀場」 に並ぶ、それらの巨石建造物の群れを、今度は北から南へと、順に見ていきましょう。左下の第30図をクリックしていただくと、一目で全貌が見渡せます。ここには、人の住居( 「E-91-1」 、「E-75-8」 など)を交えながら、北の端から南の端まで、一面に 「異様」 とも言うべき巨石建造物が林立しているのです。

 
 (二)北から南へ          戻る

   ①石塚

 先ず最も北にあるのが、第28図、これは発掘する前の状態を撮影した石塚で、先に詳しく記したとおり、直径、約3~4mのこのような小さな 「石塚」 が、この近辺で合計9個ありました。それぞれを発掘調査してみた結果、そのいずれにも、ウシ、ヤギ、ヒツジいずれかの骨が埋められていました。そして、その内の1個には、なんと完全な一頭の牝牛が、非常に丁重に埋葬されていたのです。クリックでご覧ください。そしてこれらの 「石塚」 の群の東に沿って「Valley of the Sacrifices(生贄の谷)」 と名付けられた涸れ谷があり(参照:第30図)、雨期にはここを通って、乾燥していた内陸湖に水が流れ込んでくるのです。そこで、これらの 「石塚」 は、雨乞いのためにウシを捧げたものだろうと推測されました。もし渇水が長引けば、水の有る他の地域へ移動しなければならないナブタ・プラヤの民にとって、雨は文字通り 「生命の綱」 だったのでしょう。ここで煩をいとわず、第Ⅱ部・第4章・(二)に引用した言葉を、もう一度記しておきます。

 "夏の初めに最初の雨が降った時、この涸れ谷がプラヤへ水をもたらしたので、この場所は雨乞いのためにウシを生け贄に捧げるには、最適の場所だったのだろう"(M.マルヴィル:2007年)
                                                             
   ②カレンダーサークル

 第29図は、「石塚」 の一群の少し南にある、カレンダー・サークルの、発見当時の写真です。この通り、直径4m足らずの、一見乱雑な立石の集まりに過ぎませんでした。他の巨石群とくらべて、特徴的なのは、石が平板に置いてあるのではなく、立石が多い点です。図表集:Ⅱ原形についての考察の中で自分なりの詳細な分析を試みていますが、マルヴィルたちが調査・研究の結果、到達した結論はクリックで見られるように、なんと完璧な 「カレンダー・サークル」 だったのです。これはすでに説明したとおり、「南・北」 と、「夏至の太陽の昇る方向」 を正確に指し示しています。ひたすら水を求め続けたナブタの民は、長い間の観測によって、「夏至の太陽」 が、雨期の到来を告げるものだということを、把握していたのです。そして雨期を確実に予測するために、これだけの精緻な装置を造り上げたのでしょう。ちなみに、これは前に述べたように、世界最古のカレンダー・サークルと推定されています。

   ③一本の石柱

 このカレンダー・サークルの西へ約200mのところに、異様な雰囲気を醸しながら、ポツンと1本の石柱が、やや傾斜して立っています(第31図)。高さは僅か1mほどですが、これが驚くべきことに、夏至の日に、真っ直ぐに、南中した太陽を指す角度に立てられているのです。だから夏至の日には、全く影を生じないのです。それを確かめてナブタの人々は、「さあ、夏至がやってきた。ボツボツ雨期に入るぞ、水が来るぞ・・・」 と、備えを始めたのでしょう。砂漠にポツンと立つ一本の石柱が、砂漠の民の生活のための、一つの重要な指標として用いられていたことは、疑いの余地がありません。

   ④列石

 さらに南へ行くと、延々と横たわるのが 「列石」 です。第32図・第33図は、列石をその途中から南や北に向かって見通したものです。クリックで列石全体の 「構成図」 や実際の 「配置図」 が出ますが、最初の 「A-0」 から 「A-9」 までが、約570mありますから、これは相当な長さに及んでいます。マルヴィルが 「A1」、「A2」、「A3」 の三本の列石および、「B1」、「B2」の列石が、第34図の 「複合建造物」 を 「ハブ」 として、放射線状に伸びているということを発見して、激しい衝撃を受け、感動に襲われたことは前に書いたとおりです(参考:第22図)。しかもこれらの列石は、何とそれぞれが、夜空の目印となるべき、際立って明るい星を指していたのです。王朝時代には、その中でも一番明るい星、シリウスの動きを元に、「太陽暦」 が作られたことは、周知のとおりです。ナブタ・プラヤにおいても、シリウスなどが、ナイルの増水期すなわち雨期の到来を告げる標識として、重宝されたことは容易に想像できます。(参照:
列石-明るい星を指す)。

   ⑤複合建造物

 それらの列石たちの最南端の「終点」というか、「出発点」 でもあるのが、第34図の 「複合建造物」 です。これは、上記のように列石の 「ハブ」 であったという事実も驚きなのですが、さらに、地下へ地下へと掘り進むにつれて、次々と驚くべき形の巨石が出現して調査隊を面食らわせました。クリックで見られる、ウシの形に 「彫刻された岩」(図表集:第23-1図)も見事ですが、一番底に鎮座する、磨き上げられた、半円形の 「卓状岩=tablelock」(第18図)については、どうしてそのような、見事な大岩が、まるで予め用意された土台のように、そこに横たわっているのか、未だにその謎が解けないままです。しかもこの 「
卓状岩」 は、周囲で発掘された、他の2個の複合建造物にも、共通して存在していたので、偶発的なものではないことが明らかなのです。ただ残念なことに、この建造物だけは、五本の 「列石」 の 「ハブ」 であること以外は、「水」 との関連は勿論、 「卓状岩」 の実態やその建造の動機や目的などはほとんど明らかになっていません。(年表では「列石」 が最後になっていますが、これは「複合建造物」 をハブとして作られ、その後も歳差に対応して幾度か再建されたのだから、この順になるのは、やむを得ないでしょう。(参考:年表:ナブタ・プラヤの略史))

   ⑥「秩序」は偶然か、計画的か?

 このように、ここに取り上げた5種類の巨石群団からだけでも、第Ⅱ部の第四章、第五章で詳しく説明したような、全く予想外の建造物が姿を現したのです。砂漠に一見バラバラに点在していた、巨石群を北から南へと辿ってきましたが、ここで非常に興味深い事実に気づかされます。これらの巨石建造物は、約100年間に及んだ極乾燥期が終わりを告げ、後期新石器時代に入るや、堰を切ったかのように、次から次へと建造されています。それも前5400年から前3600年までの約1800年間の長きにわたって、年代的にも北から南へと順を追って作られているのです。しかもお気づきの通り、その多くがナブタの民の、水を求める気持ちが動機になっているのです。

 1974年に、調査に着手した時は全く無秩序に見えた巨石の群れが、実は約1800年という長年月を費やして、しかも正確に北から南へと、一貫した原則の下に造られていたことは、まさに現在の我々の想像を超えていると言って良いでしょう。今から8000年~5000年前のホモ・サピエンスに、このように規模の大きい 「計画性」 があったと推察させるのです。少なくとも、我々は、ここに一本の 「現象面でのタテイト」 を見たと言って良いでしょう。次項に述べる 「動機面タテイト」 に対しての。 

 
(三)水を求めて      戻る

   ①水が生命線

  砂漠の民にとって、何よりも「水」が生命線であることは、言うまでもありません。砂漠のオアシスに集まる動物たちのように、遊牧民もまた、水を求めて湖畔に集まってきました。住み始めてから千数百年後の前7000年頃には、居住区域(「E-75-6」、 「E-75-9」 など)に 「井戸」 を造り(図表集:第33図)、さらに乾燥がひどくなったときに備えて、前6800年頃には 「ウォークイン方式の井戸」 まで建造(「E-75-6」、「E-91-1」)するに至りました。さらに極端な乾燥期が襲ってきたときには、彼らは一旦この地を離れて、周辺地域や南部へ移動するほか無いという、究極の状態だったのですから。

   ②水を求める努力

 そんな気候条件の下にあった彼らは、最北端の水の入り口 「Valley of the Sacrifices」 に沿って、ウシを生贄に捧げるための 「石塚」 を作って、「どうか雨を降らせてください」 と天に祈りました(参考:石塚)。彼らが 「ウォークイン方式」 の井戸を建造しはじめてから、このような行動に到達するまでに、なんと約1500年という長い年月を要しています。

 それから、水をもたらす雨期の到来を、予知するための 「カレンダー・サークル」 と 「1本の石柱」 を作り、それを補完する 「列石」 に取り掛かったのではないか(参考:年表:ナブタ・プラヤの略史)。このように推測することは、きわめて自然なことであり、逆に建造物の構成や、建造の経緯を、より正確に理解する一助と理解してもよいでしょう。この ように「水への欣求」 という1本の 「タテイト」 が、厳として貫かれていることが、ナブタ・プラヤに、太いバックボーンの存在を印象付けてくれます。上述(二)の 「北から南へ」 を 「現象面のタテイト」 とすれば、こちらは 「動機面での タテイト」 と言えるでしょう。

   ③巨石構造物たちが象徴するもの

 いずれにしても、これらの巨石群の下に隠された構造物、或いはその巨石の配置が意味するものが、想像を超えた人知と労働力の結晶であり、しかも一つの秩序に貫かれていたことは、確かに調査隊を感動させ、驚喜させたに違い有りません。当初発見した時は、単なる荒涼たる砂漠に過ぎなかったのに、発掘調査を続けるうちに、全く予想もしなかった、驚嘆に値する 「文明」 の片鱗が姿を現したのですから。「水」 の匂いに吸い寄せられてナブタ・プラヤに漂着した遊牧民は、まさに 「水」 を求めて、数千年という時間を費やしながら、北から南へと、祈りや天文観測の場所を建造してきたのです。
 マルヴィルやウェンドルフは、このような狭い地域の中に詰め込まれていながら、それぞれが強烈な個性を発揮し、それでいて上述のような、一定の秩序に支配されている巨石建造物の群を眺めて、これらを包括して表現する、適切な概念を見いだせなかったのでしょう。「Nature誌」 の論文の冒頭の「要約」の中では、このように概括するに止めています。
    
   "いずれにしても、砂に埋められた石や、プラヤに湛えられた水や、人やウシの埋葬や、
   夏至の太陽やそして星を指す列石などの取り合わせは、古代の牧畜民たちの実像を
   象徴的に描き出していると言えるだろう" (原文*16(マルヴィル他:2007年)   


  第二章 砂上の文化を育てたものは?      戻る 

 
(一)砂上の楼閣でなく      戻る

   ①砂上の楼閣でなく

 ナブタ・プラヤについて調べ始めた当初から、何度となく私の脳裏に去来したのは「砂上の楼閣」という言葉でした。ナブタ・プラヤに散在するものは、あくまで、「取り合わせ」 だとか、「grouping」 だとしか理解できていなかったのです。残念にも、前章で触れた 「タテイト」 ・ 「ヨコイト」 の存在を感知してはいませんでした。しかし、調べを進め、これまでに記して来たような、建設の経緯や建造物の実態をより深く知るにつれ、その言葉は徐々に 「砂上の楼閣」 ならぬ、確固とした 「砂上の文化」 に置き換わって行きました。年代測定の結果を知り、周辺にまつわる色々な事実に接する内に、約5000年間に及ぶ古代の牧畜民たちの人知の蓄積と、それを巨石による構造物に造り上げるまでの、気の遠くなるほどの試行錯誤や、膨大な労力、そしてそれらに一貫して流れる一つの大きな意志とでもいうべきものを、ひしひしと感じさせられて、知らず知らずの間に、この広大な砂漠に秘められた、生き生きとした人類の 「文化の息吹」 に、包み込まれて行ったのかもしれません。

   ②ナブタ・プラヤの特異性

 一万年前にこの地に辿り着いたのは、ウシの糞を防虫剤として体に塗りつけた素朴な遊牧民の一群でした。その彼らがここに住み着いてから、一歩一歩進歩を重ね、ついには天体の運行の規則性を把握し、さらにそれを、巨石を用いて地上に再現するまでに至ったのです。長い時には200年間にも及ぶ極乾燥期に、五度も中断されながら、荒涼たる東サハラの一隅での、決して恵まれたとは言えない、むしろ苛酷とも言うべき生活条件の中で、同じ北アフリカの他の地域の部族に差を付けて、人類としての 「文化」 を進化させることが出来たのは何故だろう。ナブタ・プラヤの遊牧民の一族が特に優れた能力を持って居たわけでもなく、また特異な発展をもたらす、何らかの外的要因に恵まれたわけでもありません。なのに、たとえばピグミー族、ヌアー族、サン人(ブッチャーマン)などの他の部族民に、大きな差を付けて、一歩一歩独特な文化的進歩を積み重ねたのです。ここで彼らが、突出して 「文化」 を進歩させることが出来たのはどうしてなのか、その理由を模索してみましょう。

    a、砂漠という苛酷な生活条件

 その理由の一つは、砂漠の 「苛酷とも言うべき生活条件」 だったのではないでしょうか。苛酷な条件の中で、生き延び、子孫を残すために、ナブタ・プラヤの民は 「水」 を獲得するという一事に、精魂を注ぎました。そのひたすらな努力が、自ずと天体の運行に彼らの意識を導き、長い道のりを経て、それを地上に写し取ることに成功し、ついには様々の構造物を産むに至らしめたのではないでしょうか。こうしてホモ・サピエンスに特有の創造力や計画性(参考:後述(二))が錬磨され、そしてそれが他の様々の必需品を造り出し、確保するのにも大きく貢献したことは、想像に難く有りません。彼らのこのように苦難に満ちたプロセスは、ホモ・サピエンスが作り上げて来た、他の様々な 「文化」 の生成パターンの一例に過ぎないと、むしろ考えるべきなのでしょう。

    b、地域祭儀場の存在

 もう一つ、ナブタ・プラヤならではの理由があることを、見逃してはなりません。それは、周辺から大勢の人間が集まってくる 「地域祭儀場」 の存在です。これまでに述べてきたように、大きな人間集団は、それだけ多くのアイディアを生み出し、またそれを口伝・伝承することによって、そのアイディアの安定性を 「記憶」 にまで高めるが故に、文化的進歩が促進されるということが明らかになっています。「大きな人間集団」 から発せられる、様々な意見を集約すること、そしてそれを、正確に次代へ伝えていくという彼らの機能は、ナブタ・プラヤの文化の発展に大きく寄与したと推察できます。(McBrearty, S.他:2000年、p.533/NHKスペシャル取材班:2012年、p.185~p189、参照:後述の時間結合(time binding))。断定は出来ませんが、それがここナブタ・プラヤの、特異な進歩のもう一つの大きな理由ではないかと考えています。

      c、支配者層の誕生

 
もう一つナブタ・プラヤに特徴的なことは、比較的早い時期に 「支配者層」 が誕生したことです。 「ウォークイン方式の井戸」 に端を発した彼らの 「社会的統率力」 が、 「石塚」 を初めとする多くの建造物の製作を大きく促進したことは、容易に想像できます。「文化」 の一要素でもあるこの特性は、上記の 「大きな人間集団」 の形成と成長を促進するために、大きな貢献を果たしたと言えるでしょう。(参照:第Ⅱ部第三章(二)

   ③ナブタ・プラヤ文化

 人類の文明は約一万年前に、メソポタミア、エジプト、中国ほか世界の各地で個別に生まれ、そしてそれぞれが独自の発展を遂げたのは周知のとおりです。ナブタ・プラヤは、これらの諸文明に比べれば、まことに規模の小さい、そして局地的な文化ではありますが、大河に恵まれないだけでなく、極端に厳しい地理的・気象的条件下にあるにもかかわらず、メソポタミアとほぼ同じ頃に独自の文化を培い、上に述べたような特異な進歩を見せました。次項に詳しく述べますが、彼らは最終的には、「支配者層」、「天文学」、「公共建造物」、「儀礼行為」、「遠距離交易」 など、ゴードン.チャイルドの言う 「文明の基準(Criteria of Civilization)」 のいくつかを実現する段階にまで到達したのです(参照:G.チャイルドとナブタ・プラヤ)。この驚異的な進歩の理由を確かめるために、そもそも 「文明の基準」 とは何なのかを、確認しておきます。

 
(二)ホモ・サピエンスの文化的進歩      戻る

  ゴードン・チャイルドは1950年に 「都市革命」 を著わし、10項目の「文明の基準」 を提唱しました(Childe, V. G.:1950年、p.9~)。それはあくまでも、「文明」 の諸相を「現象面」 から捉えたものではありますが、学界に強い関心を呼び起こし、その後数え切れないほど多くの考古学者の研究・検証が重ねられます。中でもリチャード・クライン(Richard G. Klein )は、恐らく4~5万年前に、ホモ・サピエンスの神経系統に、革命的な進歩が発現したせいではないかと、「神経仮説」 なるものを提唱し、一時はその説が定着しかけていました。(Klein, R. G.:1995年、p.168/クライン, R. G.:2004年、p.21~)。

 しかし、G.チャイルドの提唱から丁度半世紀後の2000年に、考古学者サリー・マクブレアティアリソン・ブルックス(Alison S. Brooks)は、アフリカ各地の遺跡を調査し、ネアンデルタール人と、ホモ・サピエンスを峻別する 「現代人的行動(modern human behavior」 が、中期石器時代(MSA)以後の色々な年代に徐々に出現したことを突き止め(第2図)、「文明」 をもたらした様々の現代人的行動は、一挙に革命的に出現したのではないということを立証し、クラインの仮説を否定しました。また、彼女らは、G.チャイルド以降の文献を精査して、それらがいずれも、「現代人的行動」 の特質という共通項に、注目していることに気づきました。「現代人的行動」 として挙げられているのは「道具類の多様化・規格化」、「新しい石器技法や道具素材の採用」、「装飾品や絵画芸術」、「儀礼行為」、「新しい食料源」、「遠距離交易」 などなのです。実は彼女らは、その著書の中で 「文明=civilization」 という言葉は一切用いていませんが、ただ一カ所、これら一群の共通項について、" 「文明の定義=criteria of civilization」 に使われたチャイルドのリストを彷彿させる" と、述懐していることは、きわめて暗示的です(McBrearty, S.他:2000年、p.492)。彼女らは「現代人的行動」 「文明の基準」 と同列と見なしたのでしょうか。チャイルドが、「文明」 の諸相を 「現象面」 から取り上げて列挙したのに対して、彼女らは、「現象」 を生み出す側の 「能力面」 から捉えて 「現代人的行動」 と表現しましたが、どちらもホモ・サピエンスの進歩を考古学的見地から見た 「文化的進歩」 の側面からであることは同一です。ホモ・サピエンスの進歩を進化生物学的に見る 「生物学的進化」 の側面からの捉え方も、欠くことができない要素ですが(エックルス, J. C.:1990年p.243~/海部 陽介:2005年、p.6~)、それについては、次項で扱います。

 マクブレアティらは、「現代人的行動」 を列挙した上で、それらを生むものは・・・

   ①抽象的な概念を理解・運用する能力
   ②過去の経験に基づいて方策を練り上げ、実行する能力
   行動面・経済活動面・技術面における高い創造性
   何かを象徴的に捉え、また表現する能力(原文*17

 であることを、推論するに到りました(McBrearty, S.他:2000年、p.530)。ホモ・サピエンスの 「現代人的行動」 をもたらした原動力というか、行動原理をこのように分析し、整理したのです。言うまでも無く、この行動原理は、あくまでホモ・サピエンスの考古学的進歩の視点から抽出された、「能力」 であって、ホモ・サピエンスのもう一つの変化である「生物学的進化」 を勘考したものではありません。これについては、後に述べることにして、ここで一度、チャイルドからマクブレアティに繋がる「文化的進歩」 の話を整理して分かり易くするために、一覧表を作成してみましょう。この表には、最後の行に一つ一つの「現代人的行動」 に対応する、ナブタ・プラヤの遺物と遺構を記入しています。なお、下の表に注記した通り、ナブタ・プラヤの遺物・遺構は、G.チャイルドの 「文明の基準」 10項目の内の、7項目(*印以外)をも満たしています。ここで、*印をつけられた 「都市」 と 「文字や数字」 について触れておきますが、実はこの基準は先に述べた 「地域祭儀場」 と 「支配者層」 において、相当程度満たされていたと言ってもよいでしょう。特に注目すべきは、地域祭儀場で議論された 「人間の集団サイズ」 の二つのメリット、「文化の推進」 と 「文化の伝達」 です。 それは言い換えれば 「組織化された相当数の人間集団」 と 「文字や数字に代わる口伝」 であり、すなわち 「都市」 と 「文字や数字」 だからです。これで、 「国家」 以外の全ての 「基準」 が一応満たされたと言えるのではないでしょうか。

G.チャイルド と 「ナブタ・プラヤ」―「文明の基準」から「現代人的行動」へ   (詳細版)                         戻る
G・チャイルド著 「The Urban Revolution原文(1950年)から S・マクブレアティ/A・ブルックス著「革命は無かった原文P.39)(2000年)から ナブタ・プラヤで見られる具体的な
「現代人的行動」
――「文明の基準」――
――「現代人的行動」――
和訳
行動
原理
都市* Increasing artefact diversity. 道具の種類の多様化 ③④ 石器土器貝殻・骨などの加工品
(図表集:第34図第38図) 
専従の専門家 Standardization of artefact types. 道具の形の規格化 ②④ 石器(図表集:第39図 
余剰の集中 Blade technology.
新しい石器技術(石刃技法など)   初期~後期新石器時代の石刃
(図表集第37図
記念碑的な公共建造物 Worked bone and other organic materials. 新しい道具素材の本格利用
(骨、角、象牙、貝殻、卵殻など)
③④ 貝殻・骨などの加工品
(図表集:第36図第43図・第44図
支配者層 Personal ornaments and "art" or images. アクセサリーと絵画芸術 ①④ ・ビーズ、ブレスレット、オーカーなど貝殻・骨などの加工品(図表集:第36図第44図
ギルフ・エル・ケビールの岩絵(図表集:第64図

文字や数字* Structured living spaces. 居住空間が明確な構造を持つ   住居址(図表集:第30図・第31図
科学
(算術、幾何学、天文
、暦)
Ritual. 儀礼行為 ①③④ 石塚(図表集:第25図・26図
複合建造物(図表集:第23図
・ジェベル・ラムラの墓地(図表集:第29図

芸術の専門家 Exploitation of aquatic or other resources that require specialized technology. 新しい食資源(水産資源など)   動物類(貝、魚類)(図表集:第40図
恒常的な対外交易 Enlarged geographic range. 分布域の拡大 ②③ 例:土器などの文化のナイル流域への伝播(図表集:第38図・第39図 
国家組織* Expanded exchange networks.
長距離交易 ②③ 動物類(海産巻貝、ナイルアカメ)
(図表集:第40-2図・第40-3図
・ジェベル・ラムラの出土品
(図表集:第43図・第44図
上記はC.K.マイゼルス著「Early Civilizations of the Old World」(1999年)p.24から高宮いづみが訳出したもの(エジプト文明の誕生p.17から(2003年))を一部改変(⑩、⑪を省略)しています。 マクブレアティらの分類を示します。なお、これらを詳細にジャンル分けしたのが、この表です。
なお、こちらの白色の部分=マクブレアティらの10項目は「革命は無かった」に従っていますので、左の薄緑色の部分=「文明の基準」の10項目との、「行」の左右の関連はありません。
海部陽介著人類がたどってきた道p.94から(2005年)
行動原理」は、上述の「現代人的行動」をもたらした4項目の行動原理を、当て嵌めた試案です。
左端の欄の「文明の基準」 の内、*印の「都市」、「文字や数字」、「国家組織」以外は全て、ナブタ・プラヤにも「カレンダー・サークル」 ほか、該当する遺物・遺跡があります。



  (三)ホモ・サピエンスの生物学的進化  
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第36図:ブランシャールの銘板*18
上:実物写真・下:イラスト(By A.Marshac)「Conscious time
binding」の最古の考古学的証拠とされています。

 ホモ・サピエンスの 「文化的な進歩」 は、前項でチャイルドやマクブレアティらが分析してくれたとおりですが、では 「生物学的能力」 はどのようなものであったのでしょうか、それを知るために選んだのは、神経生理学者ジョン・C・エックルス(John C. Eccles)の 「脳の進化=Evolution of the Brain」 という一冊です。これは実は、第五章の(一) 「北」 を発見する のところで、宗教心に関して引用した、柳澤桂子の 「いのちの日記」 で知った本なのです(柳澤桂子:2005年)。この中でエックルスは人類が類人猿から分岐してから、「脳」 がどのように進化して現在のホモ・サピエンスの状態に到達したのかを、考古学的事実を忠実に踏まえつつ、神経生理学者の立場から詳細に追跡しています。そしてこの著書の中にも「生物学的および文化的進化」 という一節を設けて、考察を加えているのです(エックルス, J. C.:1991年p.146、p.243~)。

 彼は「生物学的進化」 に関しては、「芸術的創造力」 を説く章の中で、進化生物学者であるジョージ・レドヤード・ステビンズ(George Ledyard Stebbins)の 「現代の人間社会は質的にも量的にも現存のすべての動物社会と違っている」 という説を紹介しています(エックルス, J. C.:1991年p.146、p.253)。ステビンズはこう続けています・・・

   「人間の際立って新しい特徴には三つ、すなわち・・・

    職人的技巧(artisanship)、
    意識的な"時間結合"、(conscious "time binding"=過去の経験から学びつつ、
                      未来のために計画を立てる、人間の特殊な能力)*18
    想像的思考(imaginal thinking)*19

   がある。」 と。(Stebbins, G. L.:1982年)(原文*20


 こう並べてみると、先にマクブレアティらが、 「現代人的行動」 の 「行動原理」 としてまとめた 「文化的能力」 の諸項目との著しい類似に気づかされます。前者の特性②と後者の特性②である、「過去の経験に基づいた企画・計画力」、前者の③と後者の①である、「高い技術力」、前者の①と④と、後者の③である、「創造的思考能力」、これらは良く吟味すると、ほぼ同一の特性を述べていることが分かります。マクブレアティらは、「現代人的行動」 を考古学的に検証して、ホモ・サピエンスの「現代人的行動」 を紡ぎだす 「文化的能力」 とでもいうべきものを、探り出しました。一方ステビンズは、チンパンジーには無くて、ホモ・サピエンスにのみ有る特性を、「生物進化学」 の観点から抽出しました。しかし、得られた結論は、いずれもホモ・サピエンスの 「過去の経験に基づいた企画・計画力」 、 「高い技術力」、および 「創造的思考能力」 に集約されるといえます。いや実は、ホモ・サピエンスの特性は、「文化的」 であれ、「生物学的」 であれ、どんな角度から究明して行っても、同じ結論に帰結するということは、むしろ当然であるべきなのでしょう。

  第三章 
文明の発展とナブタ・プラヤの文化      戻る
 
 ここで前章の(一)で少し触れた疑問に立ち返ってみます。同じ特性を携えたホモ・サピエンスの営みであるにもかかわらず、文明の発展の程度には、大きな地域差が生じることは、前述の通りなのですが、それはいったい何故なのでしょう。先に掲げた有名な大文明だけでなく、縄文人、ゲルマン人、アメリカ大陸の原住民、サハラ砂漠の遊牧民ほかの様々の地域の、様々の民族の、文化・文明の発達の速度に大きな差が生じたのは、何故なのでしょう。こう書いてくると、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」の導入部を思い出さざるを得ません。そしてその解明に二十数年に及ぶ研究と分析が必要であったことを。彼はその結論として、エピローグに、「栽培化・家畜化に好適な動植物の分布」や 「人間・家畜・作物が伝播し易い地勢的条件」 など四つの回答を示していますが(ダイアモンド, J.:2000年、下巻P.298~)、ナブタ・プラヤの文化の場合、これらの条件に恵まれたとは、到底言えません。にもかかわらず5000年間耐え続け、それだけではなく着実に進歩し、そして最後には、過酷な「極乾燥(=hyper aridity)」によって、決定的な打撃を被り、遂に消え去っていったのです。

   (一)ナブタ・プラヤの5000年間          戻る

  サハラ砂漠のホモ・サピエンスは、大河などの 「水」 に恵まれるどころか、逆に極乾燥期には居住不能になるなどの、悪条件の真っ直中で、このようにナブタ・プラヤの文化を育て上げました。しかし彼らは 「文化」 を構築しようなどという高邁な理想を掲げていたのでは勿論ありません。ただひたすら、生きるために、懸命な努力を続けたに過ぎないのです。彼らにとっては、水を得ることが、先ず生きるための必須条件でした。ナブタの民は、水を確保するために 「ウォークイン方式の井戸」 を堀り、水を求めて 「石塚」 を作って雨乞いをし、雨期を知るために、夏至の太陽を追い求めて 「カレンダー・サークル」 や 「1本の石柱」 を作り、約1000年にもわたって、「列石」 を作り続け、約5000年かけて、高いレベルの文化を実現し得たのです。ただひたすら「水」 を得ようとする、ホモ・サピエンスの生きようとする努力 の積み重ねが、結果的に高い文化をもたらしたに過ぎないのです。1974年から進められた発掘調査から24年目、マルヴィルたちは最初の論文をNature誌に投稿しました。その締めの部分で、いみじくもこう指摘しています。

   "後期新石器時代のナブタ・プラヤに見られる、豊かな再現力と宇宙についての知識は、
   遊牧民が、砂漠で生き残るための重圧に順応しようとする苦闘の中で、自ずと培われたのかもしれない"(Nature誌・392号:1998年) (原文
*21

第37図:世界人口の推移(紀元前7000年~2100年)(参考) 

 この観察は実際にはサラリと書き流されたものかも知れませんが、実は、遊牧民の精神的試練と 、「文明」 の本質を、まことに見事に喝破し得ているのではないでしょうか。ナブタ・プラヤの民の到達し得た、高度の文化は、ほかの全ての文化・文明と同様に、ホモ・サピエンスのひたすらに生きようとする努力の産物であって、それ以外の何物でもないのです。ナブタ・プラヤの民は、約1万年前にかの地に到着してから、約5000年をかけてひたすら 「水」 を得んとして、「現代人的行動」 を実行し、結果的に一つの 「文化」 を生むに至ったのです、いや 「至ったに過ぎない」 のです。そして残念ながら、 「動植物の分布」 や 「地勢的条件」 に恵まれることなく、遂に前3300年頃、 「極乾燥」 に襲われて、過去五千年間に築き上げた 「文化」 を進歩させることなく、他の土地へ去ってしまいました。奇しくも、この200年後にエジプトの統一が実現し、ほぼ同じ頃メソポタミアで、少し遅れて、インダス川や黄河の流域で、G.チャイルドの言う 「都市革命」 が、すなわち 「文明」 が実現しました。ナブタ・プラヤはこのようにして、ホモ・サピエンスが 「無」 から 「文化」 を生むに到る一つの実例 を、まざまざと見せてくれた、と言えるのではないでしょうか。しかし、私たちはそれに満足して、ここで考察を終えることは出来ません。残念ながら以下のような蛇足を付け加えざるを得ないので す。

   (二)その後の5000年間           戻る
 
 そして、それから又もや約5000年が経過しました。その間にも人類は歩みを続け、優れた思想的指導者の出現やルネサンスや大航海時代や産業革命などを経て、現在のホモ・サピエンスの高度な文明にまで到達しました。しかしこの5000年を経た後、私たちが得たものはと言えば… 激化し続ける生存競争の果ての、止まることを知らない人口の巨大化や、原子力爆弾による大量殺戮や、沈着し続ける環境ホルモンや、空を覆う温室効果ガスや、それに伴う海面の上昇や、処理の困難な核廃棄物の蓄積や、増え続ける難民や、そして多くの国の国家倫理の喪失です。これらは「文明」 というより、「文明の副産物」 と言うべきでしょう。ホモ・サピエンスは、生活の利便性の向上や、科学技術の発展や、自国の領土の拡大などに魂を奪われて、馬車馬的に突き進み、歩むべき正しい方向やまっとうな精神を、見失っているのでしょうか。かつて5000年間、ひたすら純朴な努力を積み重ねたナブタ・プラヤのホモサピエンスと、その後5000年間の、生存競争に奔走するホモ・サピエンスが、同じ 「現代人的行動」 を採りながら、こんなにも異なった結果を生んだのは、「文明」 の抱く宿命だとでもいえば良いのでしょうか。小林秀雄との対談での岡 潔の言葉は今も新鮮です。

   "いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とは言えない。獣類時代である。
    しかも獣類時代のうちでもっとも生存競争の熾烈な時代だと思います。ここでみずからを滅ぼさずにすんだら、人類時代の第一ページが始まると思います。
    たいていは滅んでしまうと思うのですけれども、もしできるならば、人間とはどういうものか、したがって文化とはどういうものであるべきかということから、
    もう一度考え直すのがよいだろう、そう思っています。"(小林秀雄・岡潔著:2010年)
 





あとがき
                                                                        戻る 

 これは本来は「はじめに」で書く事なのでしょうけど、あえてこちらに回しましたので、その理由を書かねばなりません。とっくにお察しの方もいらっしゃるかと思いますが、実は私は考古学に詳しい人間ではありません。大学では経済を専攻し、普通の会社で営業マンをやっていた、という一介の年金生活者なのです。ただ最初にこの様なことをエクスキューズしてしまうと、後の作業の中で、緊張感や責任感が薄められてしまって、結果として自分に甘くなってしまうのではないかと、それが心配になって、そうだ 「あとがき」 で白状しよう となった訳なのです。

 「ナブタ・プラヤ」を深く調べようと思い立ったのには、勿論訳があるのです。実は私は「人類歴史年表」というサイトを制作中で、その中に「文明の誕生へ」というページがあります。地球上の文明の始まりをできるだけ正確に書き記そうとしているのです。西アジアに並んで、最も古い文明の一つにエジプトがあります。調べている内に、或る歴史書で「ナブタ・プラヤ」がエジプト文明に先行しているくだりが目にとまりました(大貫良夫:1998年、p.382)。2011年の初夏、もう何年も前のことです。ところが、探してみたら、「ナブタ・プラヤ」について分かり易く纏めたものが、全く見当たらないのです。で、それならば自分で整理してみるか、と言うことになりました。
 
 と言う訳で、最初は誠に事務的に、マルヴィル他著の三つの英語の論文を訳し、それを元に、「ナブタ・プラヤ」の全貌を、とにかく分かり易くまとめようと、それだけを考えていました。ところが色々と内容を書き進めるにつれ、少しずつ自分の中で変化が起こってきました。第Ⅲ部で「砂上の楼閣」がいつしか「砂上の文化」に置き換わっていったと、いみじくも吐露していますが、これは単なる言葉遊びではなく、実は私の心情をかなり正確に現しているものなのです。俗な表現ですが、「情が移った」という言葉が適当かもしれないほどです。上に積もったサハラの砂を、自分の素手で丹念に払い除けて、何年にもわたって空を観察し続け、太陽や星の動きの規則性を捉えたり、炎天下、汗を拭いながら、懸命に岩石を運んだりしたナブタ・プラヤの民の姿を蘇らせたい。彼らの作り上げた 「文化」 に血を通わせ、生命を吹き込みたい。いつしか、そんなことが心を占めるようになってしまっていました。その努力がいくらかでも奏功していれば、嬉しいのですがどうでしょうか。

                                                                      2015年初冬、過去の経験を顧みず戦争に向かいつつある国にて





【註】                                                                                        戻る

*1:CPE「Combined Prehistoric Expedition」の略。「先史共同探検隊」は1962年の発足当初から、東サハラの古代遺跡を対象としていました。そもそもは、アスワン・ダムの建設作業から、考古学的遺物を救済するために作られた非公式の組織であって、エジプトの地質調査隊、ポーランド科学アカデミー、南メソジスト大の三団体から支援を受けていました。F.ウェンドルフ、R.シルトは創立時からのメンバーとして、長年活躍しました。そういう調査隊ですから、勿論発見の翌年、1974年のシーズンから、ナブタ・プラヤの調査に取りかかりました。参照:(Wendorf, F. and Schild, R.:2002年)戻る
*2このサイトは遺物の種類が多く、またそれぞれの構造が複雑なので出来るだけ図表を添えて説明するようにしています。「図表集」というのは「ナブタ・プラヤ図表集」の略です。「図表集」からこのページへは戻るでお戻りください。(なお、当サイトでは、「図」と「表」を截然と区別せず、一纏めに「図表」或いは「第○図」と呼称しています。私奴の怠慢をお見逃し頂ければ幸甚です。)
*3出典は①著者、②出版年、③ページ の順に表示しています。⇒「参考文献」からどうぞ。
*4:ナブタ・プラヤ及びその近辺には数多くの遺跡が存在するため、それぞれに「E-75-8」のような遺跡番号が付けられています。「E=Excavation=発掘」、「75=1975年」、「8=8番目」を現すのだろうと私は推測していますが、現在確認作業中です。
*5:図表集:第4図第6図拡大図1、2、3、4に記された等高線の数値はナブタ・プラヤ固有の「基準面=datum level」(調査開始当初、「E-75-6」の南西20mにあるシルトの小山の頂上を100と定めたもの)に基づいた数値です。その「基準面=100」を、1998年2月に、GPSで読み取ったところ、「標高=海抜」にして215mだったということです。(「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.12から。)
*6・Bauval, R. 他著:2011年:「The local modern Bedouins called the region Nabta, which apparently meant "seeds." Borrowing this name and concluding that the wide, sandy-clay basin they stood on in the desert was the bottom of a very ancient lake, Wendorf and Scild christened the site Nabta Playa.」
   ・Wendorf, F.他著:2001年:「Nabta was the name given by our Bedouin workers to a nearby, prominent inselberg, or gebel. It means "little bushes," and was suggested because there are three small clumps of now dead tamarisk growing in a sub-basin at the foot of Gebel Nabta.」                                   戻る
*7:
「In the Middle Neolithic of Nabta, sheep and goat become visible. These domestic ruminants were introduced in North Africa from Asia, as their wild ancestors do not occur in Africa.

*8:考古学では過去の年代測定に、炭素の半減期から年代を割り出す「放射性炭素年代測定法(radiocarbon dating)」が多く用いられます。現在では、炭素14の宇宙線や地球の磁場などによって生じる変動を、「年輪年代」などによって「較正(calibrate)」した年代が用いられます。表記はBP(Before Present もしくはBefore Physics)で行われますが、その場合は「現在=Present」を「1950年」と設定しています。「Nature誌:392号」ではこの表記が使われていますが、分かり難いので、前記 2007年の「Astronomy of Nabta Playa」では全て「BC=紀元前」で表記しています。当サイトはそれに従って年代を表記しました。(参考:「Kotobank」から、図表集:第45図
*9:これを記した下巻の「Further Readings」にはウェンドルフらが投稿した「Nature:359」の論文「Saharan exploitation of plants 8,000 years B.P.」が上げられています。                     戻る
*10:原著「 The Long Summer:p.158」の脚注はウェンドルフ他著の「Cattle Keepers of the Eastern Sahara:The Neolithic of Bir Kiseiba.(1984年)」を紹介しています。
*11:メルヴィル・ハースコヴィッツ(Melville Jean Herskovits)が提唱した概念で、これには定着した訳語が有りませんが、「世界大百科事典」の「アフリカ」の項で「東アフリカ牛牧文化複合」とあり、一部学者(京大:佐川徹氏、東大:目黒紀夫氏など)によれば「ウシ文化複合」と訳されています。「Webref.org」によれば、Cattle Complex=An east African socioeconomic system in which cattle represent social status as well as wealth.=東アフリカの社会経済学上の制度のことで、そこではウシが富だけでなく社会的地位をも意味するとされます。(さらに詳しくは: Answers.Com
*12:図面上の復元は1992年の冬に、Nieves ZedeñoとRomuald Schildによってなされています。「Black Genesis : The Prehistoric Origins of Ancient Egypt」(p.17)から。
*13:現在トルコの東南部で発掘が行われている前10000年頃の「ギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe)」という遺跡は、同様に環状列石を含んでいますが、天文学的な設備かどうかは不明です。
*14:その他にも、Graham Hancockの運営する掲示板の中でもボーバルはしきりに嘆いています。
*15:「azimuth=方位角(単に方位ということがある)」は目標とする点が東西南北などのどの方位にあるかを厳密に表すために使われる角。天文学では南を 0 度として西,北,東とまわる向きで目標点までの角度を測って方位角とするが,測地学やその他の場合には,まわる向きは同じでも,北を 0 度として測る(「世界大百科事典」から)。  地平線上の北点を起点(0度)として、北点から東回りに測るのがもっとも普通である。(北半球の場合)(「日本大百科全書」から)
*16原文「In any case, this grouping of buried stones, water of the playa, human and cattle burials, the solstice sun, and stellar alignments appears to identify powerful and evocative symbols of these ancient herdsmen.」
*17:原文「①Abstract thinking, the ability to act with reference to abstract concepts not limited in time or space.②Planning depth, the ability to formulate strategies based on past experience and to act upon them in a group context.③Behavioral, economic and technological innovativeness.④Symbolic behavior, the ability to represent objects, people, and abstract concepts with arbitrary symbols, vocal or visual, and to reify such symbols in cultural practice.」
*18:「脳の進化」の訳者伊藤正男氏は 「time binding」 を 「時間拘束性」 と訳されていますが、新英和大辞典には 「経験を世代から世代へ記号を用いて伝える人間特有の活動」 とあります。またステビンズは 「"過去の経験から学びつつ、未来のために計画を立てる、人間の特殊な能力=the extraordinary ability of humans to plan for the future while profiting from the memory of past experiences." と哲学者アルフレッド・コージブスキー(Alfred Korzybski)が提唱している(Korzybski, A.:1924年、p.27~)」 と述べていますし(Stebbins, G. L.:1982年、p.364)、更にそれに続いて、 「記号」 の例として、マーシャック(Marshack A.)が解読した「first lunar calenders=Blanchard Bone Plaque(ブランシャールの銘板)」 (Marshack, A.:1985年)を挙げています。実はその写真をエックルスは 「脳の進化=Evolution of the Brain」 の表紙に使っている程重要視しているのですから(参考:図表集:第66図)、訳者の伊藤正男氏も 「time binding」 をもっと慎重に訳すべきだったと思います。なお現在、「time binding」 は 「時間結合」 と訳されている例が多いようなので、ここではそれを採用しています。
*19:伊藤正男氏は「imaginal thinking」 を 第6章では 「創造的思考」 と訳し、第10章では 「想像的思考」 と訳していますが(Eccles, J. C.:1991年、p.146~、p.243)、「imaginal」 は 「想像の」 の意味で統一されるべきだと思います(Stebbins, G. L.:1982年、p.364~366、p.454、Miller, G. A.他:2013年、p.173)。
*20:原文「Modern human societies are qualitatively as well as quantitatively different from all existing animal societies. I recognize three distinctly novel human characteristics ―artisanship, conscious time binding, and imaginal thinking.」
*21:原文「The symbolic richness and spatial awareness seen in the Nabta complex of the Late Neolithic age may have developed from adaptation by nomadic peoples to the stress of survival in the desert.」
*22:ここで言う 「欲望」 とは、仏教で言う 「三毒」 の中の 「貪」 であり、柳澤桂子の言う 「我執」 (柳澤桂子:2005年p.73~)のことです。
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【参考:「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」 中の語彙検索の方法】             戻る

 1.
下の二つのサイトのいずれかを表示して、その検索窓に探したい語彙(例えば「sorghum」、「beads」、「ochre」など)を入れてください。その語彙があるページが全て表示されます。

 2.(a)「Amazon」(もし出ないときは「」をクリックしてください)   
  
  (b)「Google Book



【参考文献・参考サイト(REFERENCES)】                                                戻る

 参考文献      戻る          

  邦文参考文献
(50音順)
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 ・内村直之著「われら以外の人類」(朝日出版社:2005年)
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 ・NHKスペシャル取材班編「ヒューマン なぜ人間になれたのか」(角川書店:2012年、p.55~他)
 ・大城道則著「古代エジプト文化の形成と拡散」(ミネルバ書房:2003年)
 ・大城道則著「ピラミッド以前の古代エジプト文明」(創元社:2009年)
 ・大城道則著「ピラミッドへの道 古代エジプト文明の黎明」(講談社:2010年)
 ・大貫良夫他著「「世界の歴史 1」人類の起原と古代オリエント」(中央公論社:1998年)
 ・大沼 克彦著「文化としての石器づくり」(学生社:2002年)
 ・海部 陽介著「人類がたどってきた道」(日本放送出版協会:2005年)
 ・河合信和著「人類進化99の謎」(文藝春秋:2009年)
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 ・クライン, R. G.「5万年前に人類に何が起きたか?」(新書館:2004年)
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 ・スティーヴン・ミズン著、赤沢威他訳「渇きの考古学」(青土社:2014年)
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 ・Stebbins, G. L.著「Darwin to DNA, Molecules to Humanity」(1982年)
 ・Wasylikowa, K.著「Site E-75-6:Vegetation and Subsistence of the Early Neolithic at Nabta Playa, Egypt, Reconstructed from Charred Plant Remains
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 ・Wendorf, F., Close, A. E., Schild, R.著「Prehistoric settlements in the Nubian desert.」(1985年)
 ・Wendorf, F., Schild, R.著「Cattle-keepers of the Eastern Sahara」(1984年)
 ・Wendorf, F., Schild, R.著「Nabta Playa and Its Role in Northeastern African Prehistory」(1998年)

 ・Wendorf, F., Schild, R.他著「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1 The Archaeology of Nabta Playa」(2001年)
 ・Wendorf, F., Schild, R.他著「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.2 The Pottery of Nabta Playa」(2002年)
 ・Sharif, A. F.他著「God Is Watching You(2007年)
 注:「Amazon.com」で検索をすると、ナブタ・プラヤに関する記述を含む書籍が、ここだけで約100冊、記述内容も含めて紹介されています。興味がおありの方はどうぞご覧ください。

 
参考サイト               戻る

 ウェブサイトでは先ず、マルヴィルらが執筆した「Nature 392」のweb版と二つのサイトを紹介します。

 ・マルヴィル, M. 、ウェンドルフ, F.他著「南エジプトの巨石と新石器時代の天文学」(上記、1998年4月2日「Nature誌:392号」のweb版)(1998年) 
 ・マルヴィル, M. 、シルト, R. ,ウェンドルフ,F.他著「ナブタ・プラヤの天文学」(「Astronomy of Nabta Playa」から)(2007年)
 ・ウェンドルフ, F.、シルト, R.著「南西エジプト、ナブタ・プラヤ(サハラ砂漠)にある後期新石器時代の巨石構造物」(1998年)
                            
 先ず1998年に発表された「Nature誌:392号」の論文が一番短くて、要点だけを纏めてありますから、これで研究者の真意と全体内容を把握して頂けると思います。さらに興味がある方は2007年の「ナブタ・プラヤの天文学」の解説をお読み下さい。年代表示が「B.C.」で、なお最近の知見まで取り入れてあるので大いに役立つと思います。 三番目に掲げた1998年の解説は、「Nature誌:392号」の論文を平易にし、情報量を増やしたものですが、現在は著者が削除していますので、参考程度にして下さい。なお、更に詳しくは上に紹介した書籍や、下の参考サイトをご参照ください。

  欧文参考サイト(In Alphabetical Order) (他の海外サイトの主なものを列記しておきます。興味がある方はお読み下さい。)     戻る
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 ・Bobrowski, P., Czekaj-Zastawny, A. and Schild, R.著「
The Early Neolithic Offering Tumuli from Sacred Mountain (site E-06-4) in Nabta(2012年)
 ・Bobrowski, P.他著「WHAT FORCED THE PREHISTORIC CATTLE-KEEPERS TO EMIGRATE FROM THE RED SEA MOUNTAINS?」(2013年)
 ・Brass, M.著 「Tracing the Origins of the Ancient Egyptian Cattle Cult(2003年)(PDF)「A Delta-man in Yebu(PDF:377.8KB)から
 ・Brass, M.著「Reconcidering the emergence of social complexity in early Saharan pastoral societies, 5000-2500B.C.」(2007年)
 
 ・Brown, C. S.著「What Is a Civilization, Anyway?(2009年)
 ・Brophy, T. G. and Rosen, P. A.著「Satellite Imagery Measures of the Astronomically Aligned Megaliths at Nabta Playa」(2004年)(PDF:1.68MB)
 ・Caran, S. C.他著 「A late paleo-Indian/Early archaic water well in Mexico」(1996年)
 ・Childe, V. G.著
The Most Ancient East
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 ・Childe, V. G.著New Light on the Most Ancient East」(1934年)
 ・Childe, V. G.著Man Makes Himself: ChapterⅤ」(1936年)
 ・Childe, V. G.著「The Urban Revolution」(1950年)(PDF:4.55MB)

 ・Delagnes, A他著「Diversity of lithic production systems during the Middle Paleolithic in France(2006年)
 ・Galili, E.他著「The submerged Pre-Pottery Neolithic water well of Atlit-Yam, Northern Israel, and its paleoenvironmental implications」(1993年)
 ・Hauser, M.著「
Origin of the Mind(2009年)(PDF)邦訳:別冊日経サイエンス化石とゲノムで探る人類の起源と拡散
 ・Haynes, C. V.他著「A Clovis Well at the Type Site 11,500 B.C.(1999年)

 ・Hitchcock, D.著「Don's Maps(2014年)
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 ・Jórdeczka, M.他著「Hunter–Gatherer Cattle-Keepers of Early Neolithic El Adam Type from Nabta Playa: Latest Discoveries from Site E–06–1」(2013年)(PDF:1.48MB)
 ・Klein, R. G.著
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 ・Kobusiewicz, M. and Schild, R.著
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 ・Kobusiewicz, M., Kabaciński, J., Schild, R., Irish, J. D. and Wendorf, F.著
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 ・Korzybski, A.著「Manhood Of Humanity」(1921年)(PDF)
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 ・Kuper, R.著「Archaeology of the Gilf Kebir National Park(2007年)(PDF:15.58MB)
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 ・Wendorf, F., Close, A. E. and Schild, S.著「Prehistoric settlements in the Nubian desert.」(1985年)
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 ・Wendorf, F. and Schild, R.著「Nabta Playa and Its Role in Northeastern African Prehistory」(1998年)(PDF)
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 ・Wendorf, F. and Schild, R.著「The Megaliths of Nabta Playa」(2004年)(PDF:648.5KB)
 ・Wilken, T.著「Energy-binding, Space-binding & Time-binding」(不明)


 ・BBS「Grahamhancock.com」:「 Napta Playa Vandalised?
 ・BBS「Grahamhancock.com」:「Nabta Playa - What does that name mean?
 ・Wikipedia「Nabta Playa」


  邦文参考サイト

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 ・大沼克彦著「世界の石器時代-その概要と石器製作技術の発展-(2000年)
 ・門脇誠二著「アフリカの中期・後期石器時代の編年と初期ホモ・サピエンスの文化変化に関する予備的考察(2011年)

 ・神奈川県立生命の星・地球博物館著「酸素同位体ステージ(MIS)」(2004年)
 ・丘桓興著「長江文明を訪ねて」(2010年)
 ・「星座図鑑」(2015年)
 ・高宮いづみ著「エジプト先王朝時代研究のこの10年
 ・常木晃談「「ギョベックリ・テペ」遺跡の発見で騒然!」(コピー)(2011年)
 ・中村慎一「河姆渡文化研究の新展開」(2010年)
 ・西秋良宏編「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組み構築 」(2016年)
 ・西秋良宏編「交替劇」(2011年)

 ・吉村作治・樺山紘一・深見奈緒子鼎談「文明の変遷を支えた人と技術」(2015年)

  ナブタ・プラヤ関連動画サイト集
  
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【図表の出典】                戻る
目次横1:「A History of Ancient Prehistoric Architecture」から
目次横2:「The Astronomy of Pre-Dynastic Egypt」から
目次横3「NASA」から
目次横4:「CATETOM79」から
目次横5:「Nature誌:392号」から改変
第1図:「Prehistoric settlements in the Nubian desert.」から
第2図:「ヒトの進化七〇〇万年史」p.200から
第3図:「Middle holocene environments of north and east africa, with special emphasis on the African Sahara」から改変
第4図:「Cattle Before Crops」から

第5図:「Wikipedia」から、一部改変
第6図:「Early and Middle Holocene Paleoclimates in the South Western Desert of Egypt–The World before Unification」から、一部改変
第7図:「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.4から、一部改変
第8図:「Prehistoric settlements in the Nubian desert.」から
第9図:「Holocene settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p.103から
第10図:「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.406から

第11図:「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.535から

第12図:「Holocene settlement of the Egyptian SaharaⅠ」、「エジプトの考古学」、「エジプト文明の誕生」から合成
第13図:「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.558から
第14図:「THE BIBLE FOR ZOMBIES
第15図:「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.522から
第16図:「The Megaliths of Nabta Playa」から
第17図:「Holocene Settlement of the Egyptian Sahara, Vol.1」p.509から
第18図:「CATETOM79」から
第19図:「The Astronomy of Pre-Dynastic Egypt」から
第20図:「NASA」から
第21図:「Empiria Magazin.com」から一部改変
第22図:「Black Genesis: The Prehistoric Origins of Ancient Egypt」p.16から
第23図:「The Astronomy of Pre-Dynastic Egypt」p.10から改変
第24図:「Astronomy of Nabta Playa」p.7から
第25図The Megaliths of Nabta Playa」から
第26図
The Megaliths of Nabta Playa」から

第27図:「The Astronomy of Pre-Dynastic Egypt」から
第28図:「Nabta Playa Black-topped pottery」p.146から
第29図:「Forty years of the Combined Prehistoric Expedition」p.9から
第30図:「Nabta Playa and Its Role in Northeastern African Prehistory」p.13から
第31図:「Black Genesis」p.15から
第32図:「Holocene settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p.492から
第33図:同上
第34図:「Holocene settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p.507から

第35図:「Holocene settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p.505から
第36図:「Hierarchical Evolution of the Human Capacity: The Paleolithic Evidence」から
第37図:環境省HPより一部改編
注:当サイトでは、「図」と「表」を截然と区別せず、一纏めに 「第〇図」と呼称しています。私奴の怠慢をお見逃し頂ければ幸甚です。

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