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   ナブタ・プラヤⅠ
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ナブタ・プラヤ 図表集
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"Megaliths and Neolithic astronomy in southern Egypt"      戻る

                        J. McKim Malville, Fred Wendorf, Ali A Mazar & Romauld Schild


  「南エジプトの巨石と新石器時代の天文学」(最初に「Nature誌」に掲載された論文) Original                      

                        筆者:M.マルヴィル、F.ウェンドルフ、A.マザール、R.シルト1998年4月2日)

 概要

 南エジプトの、ナイル川の西側にあるサハラ砂漠は、後期更新世〔訳注:約1万1700年前まで〕の大部分は極乾燥状態*1で、人は住んでいなかった。約11,000年前、中央アフリカの夏のモンスーンがエジプトへ入ってきて、一時的な湖やプラヤが出現した。ナブタ・プラヤの窪地は南エジプトでは最大のものの一つで、腎臓形をしており面積はほぼ10km×7kmであった。ここで我々は中・後期新石器時代のナブタの集落に隣接した、数本の巨石の列と環状列石(カレンダー・サークル)の発見を紹介することにする。そのナブタの集落は、既に早くから複合社会を発展させていたと窺わせる。末期新石器時代にモンスーンが南方へ移動したため、この地域は再び極乾燥状態となり人が住めなくなった。これは放射性炭素年代測定法*2によれば4800年bp*3のことである。この厳密に算定された年代は、方角や夏至の方向を指す列石を備えたナブタの祭儀複合体が、非常に早くから、思想や天文知識を巨石で表現していたことを裏付けるものである。 プラヤの堆積層の中の5本の列石は、埋葬施設だったとも見られる巨石構造物を中心に放射状に伸びている。この巨石たちによる集合体は、死と水と太陽を融合したかのような象徴的な図形を想起させてくれる。4800年bpまでになされたヌビア砂漠からの移住は、先王朝時代の上エジプトの社会的変容や文化の複合化に、刺激をもたらしたのかもしれないのである。

 遊牧民の到着*7

 遊牧民たちは10,000年bpまでに始まった夏の雨期に、ナブタ地域(第1図の挿入図)にやってきたと思われる。ナブタの初期の遺跡の殆どは、1個から数個の炉を伴った生活遺物の小集合体であって、これは小さな家族集団が夏の間だけの居住を繰り返していたことの証拠である。ガゼル、野ウサギ、ジャッカル、小型哺乳動物の骨の他に、大抵の遺跡には牛の骨も有った。ここでは牛は牛乳や血液や運搬のために利用されていたと思われる〔訳注:牛肉は食用に供されなかった〕。

ナブタ・プラヤの位置を示すエジプトの地図が挿入されている。真北が示されている。Aは最大の巨石構造物。
第1図:ナブタ・プラヤの西の地域にある石の構造物群。(単位はメートル)

 列石と環状列石(カレンダー・サークル)の年代

 東サハラでは完新世に三度の大きな湿潤期があり、そのことはいくつかのプラヤの分厚いシルトの堆積層によって証明されている。というのも、我々はその堆積層から放射性炭素年代測定で100以上の年代を検出しているからである。プラヤにおける初期・中期・後期のこれら三つの新石器時代は、7300~7100年bpと6700~6500年bpの二度の、極乾燥期によって隔てられていたが、その時には地下水面が現在と同レベルか或いは現在より低いレベルにまで下がっていた。前述のプラヤのシルトは広範囲にわたって浸食されており時には窪みが砂丘で覆われていることもあった。列石や巨石構造物や環状列石(カレンダー・サークル)たちは、中期新石器時代の末頃、7000年bpと6700年bpの間に積もったと推測される堆積物の中にあったのである。

 大集落の誕生

 これらの新石器時代の住居址は、大集団やその動物たちのための十分な水がプラヤにあった夏の雨期に、数千年にわたって繰り返し住居として使われていたことを物語っている。初期新石器時代の8100~8000年bpには―この年代は木炭とダチョウの卵の殻から採取した一群の放射性炭素測定年代*2が保証している―更に大きな集落が誕生した。一つの村(E-75-6*4の場合)に、2列か恐らくは3列に並んだ18戸の家とウォークイン方式の深い井戸があったが、これには相当量の労力の投入とその管理が要求されたことだろう。我々が発掘した井戸は巾4m、深さ3mだったが、こういう井戸の存在は人々が砂漠に一年を通じて住むことを可能にしたはずである。これらの井戸の建設は、後に後期新石器時代の巨石構造物の設計・完工を可能にした、社会的統率力の誕生の最初のきざしと言えるのではないだろうか。

 牛の埋葬

 最初は水や飼料に惹かれてプラヤへ来たのかもしれないが、これらの遊牧民たちは夏の居住期間の間に、社会的な絆の確認や結婚や商取引や儀式などの色々な活動に携わったと思われる。中・後期石器時代の住居祉に見られる大量の牛骨は、社会的に重要な行事に際して牛を殺すという、現在の牛飼いたちの伝統的儀式との一貫性を思わせる。我々はナブタで二つのタイプの牛塚を発掘した。最も良くあるタイプは未成型の砂岩で出来ていて、中には一頭から数頭の牛の骨が乱雑に置かれていた。それらの塚の一つ(E-96-1)では炉の中の木炭から5500±160年bpという年代が検出されている。もう一つのタイプの塚(E-94-1)は、彼等にとって思想上非常に重要な場所であり儀式であったらしく、そこには屋根付きで粘土で囲われた小部屋の中に埋葬された、牝牛のほぼ完全な一体の骨があった。小部屋の屋根の木材は放射性炭素測定年代で6470±270年bpを示していた。

 巨石構造物群

 長円形をなして横たわった大きな石板の群れが巨石構造物群を構成していたが、我々は初めは身分の高い人を埋葬しているのだろうと考えていた。しかしながら、どの構造物からも人間を埋葬した確かな痕跡は見当たらなかった。あるいはヴァーティソル(熱帯黒色土壌)の激しい撹拌運動が大きな岩以外の全ての埋蔵物を破壊してしまったのかもしれないが、これらの構造物は本来は行き倒れた高い地位の人物の代理墓だった可能性もある。これらの構造物の内の五つを発掘・掘削して分かったのだが、そのいずれもが一部に手を加えられた卓状岩の上に建てられているのである。そしてこの岩は多分象徴的に記念碑として扱われていたのだろう。我々は放射性炭素測定年代で4800±80年bpという年代をやや小型の構造物(E-96-1 E)*5から検出している。

 牝牛の形の石(Cow Stone)

 最も大きい巨石構造物(E-96-1 A)*5の地表面の石板の下に、彫刻された岩が有ってそれは何となく牝牛に似ていた。それは地表の2m下から垂直に立っていて長い方の軸は真北から数度西を指している。この岩は2個の小さな石板で支えられて立っている。その更に下の4mの深さのところには手を加えられた卓状岩があり、これも同様に北を指している。

 列石

 列石を構成している巨石を掘り出してみるとそれは基盤岩とは別の材質であった。だいたい長さ2mから3mのこれらの石板は0.5kmかそれ以上離れたところにあるむき出しの砂岩を運んで来て、後期新石器時代にプラヤの堆積物に埋められたものであった。地上部分が1.5mほどの巨石0を第2図に示しているが、これは列石A2の北端に立っている。全てが列石と同時代であると判明した数多くの炉の跡や後期新石器時代の陶器が、これらの巨石たちや牛塚を取り囲んでいる。


第2図:巨石0。列石A2の北端の石(第1図参照)

 列石の方位角

 最も長い列石(列石A1A2A3第1図参照)は元々は真北から東へほぼ10度を指す1列の巨石群だと思われていた。ところが再調査によって明らかになったのだが、石板たちは実は3列に分かれていて、最大の巨石構造物「E-96-1 A」を中心にそれぞれ24.3度、25度、28度の方位角*6で放射状に伸びていたのである。1997年の調査期間に、我々は巨石群の地図を造るためにセオドライトとGPSを併用してみた。そして巨石構造物「E-96-1 Aの中心が、北緯22° 30' 29.7"、東経30° 43' 31.2"であることを割り出した。我々は更に2列の列石(B1B2)をも発見した。それはやはり巨石構造物Aのあたりから90.02度、126度の方位角で放射状に伸びていた。我々はこれらの列石の基礎部分を発掘してはいないが、彼等も同様にプラヤの堆積物に埋められたことは判明している。

 環状列石(カレンダー・サークル)

 直立したり横たわったりしている小さな石板の環状列石(E-92-9)は直径4m弱(第3図、a~c)で、4対の直立した石板があり、地平線を観測するのに用いられたようである。ただし、環状列石が小さすぎて正確な観測機器としては役に立たなかったと思われる。二つの窓の中央線の方位角は358度と62度である。光の屈折作用を考慮しても、6000年bpの夏至の太陽の最初の日射しは63.2度であると我々は算定したが、それは環状列石の窓枠を通しても見えたはずである。夏至近くの太陽が水平線に現れる位置は、ナブタが北回帰線に近いことを考えると、一段とその重要性が理解できるのではなかろうか。この緯度では、太陽は夏至の前後ほぼ3週間の内の二日間、天頂を横切るのである。太陽が天頂にかかったとき垂直な構造物は影を作らないので、熱帯地方では太陽が天頂にかかる日を特に重要な日として扱うのは、良く見られることである。






 


ab:環状列石(E-92-9)。b:見るときの窓枠となっている外側の8個の立った石と内側の6個の立った石は黒く示した。横たわっている石は白である。cabの環状列石の南西の窓である。d:1本の石柱(高さ1m)
第3図:環状列石と一本の石柱(Monolith)

 1本の石柱(Monolith)

 環状列石の中の南北の「視線」に加えて方位の重要性を示すのは、巨石構造物Aから東西に伸びる列石と、同じく巨石構造物Aの真北から東へ1.8度に有る孤立した1本の石柱である(第3図)。巨石構造物Aを構成する露出したり埋まったりしている石板は、ほかの巨石構造物の露出した石板同様、長い方を南北に向けて並んでいた。

 ナブタの天文学

 ナブタに人が住んでいた期間の大部分では、北極の空に星は見えないけれども、北の方角はサハラ砂漠を横切る遊牧民にとっては重要だったはずである。立ち並んでいる巨石たちは、雨期の到来を告げる天頂の太陽に気付くための、好個の装置だったのかもしれない。プラヤの堆積物の中にあった巨石たちは、一部は夏のモンスーンの増水に浸たされたので、雨期の到来を告げる儀式の標識とされていたのかもしれない。巨石構造物たちは太陽と水と死と豊かな地球を一纏めに表現しようとしたものとも言えるかもしれない。異様な姿で立っている一本の石柱は、その形から選ばれたものにしろ意識的に彫刻されたものにしろ、男性の繁殖力を象徴的に示している。

 ナブタの先進性

 後期新石器時代のナブタの複合体に見られる、豊かな再現力と宇宙についての知識は、遊牧の民が砂漠で生き残るための重圧に適応する段階で、培われたのかもしれない。祭儀複合体が、4800年bp頃に当地を襲った極乾燥の時期より後のものであることはあり得ない。ということは、ナブタでの天文学や儀式が、ヨーロッパ・英国・ブルターニュの殆どの巨石記念物が建てられるより前に有ったことを示している。ナブタからの移住後の約500年以内にサッカラの階段ピラミッドが建てられているが、そのことは既に事前に文化的基盤が存在していたことを示しており、そしてそれは上エジプトの砂漠で生まれていたのである。5000年bpより前のヌビアからの移住が、より組織化されより複雑な宇宙観を持った遊牧民集団の、ナイル峡谷への到着となり、それが引いては先王朝時代の文化の社会的変容を急激に促進することになったのではないだろうか。(日本文文責:大槻雅俊)



*注1:「極(きょく)乾燥状態」は一般には「極乾燥地」とか「極乾燥地帯」と用いられています。(参考
*注2:原文には「radiocarbon」、「radiocarbon date」、「radiocarbon dates」と表示されますがいずれも正確には「radiocarbon dating によるdateまたはdates」を意味します。訳文では「放射性炭素年代測定による年代」(参考)とするべきなのですが、当サイトでは読みやすさのため、それを「放射性炭素測定年代」と略記する場合があります。ご了解ください。
*注3:bp」を簡単に説明すると「Before Present」の略で、この場合の「Present」は「西暦1950年」を指します。なので「4800 bp」は言い換えれば「紀元前2850年」ということになります(参考ただし、別途B.C.年代が明確になったものは、順次訂正を加えています。
*注4:この遺跡には非常に多くの構造物があるので、その一つ一つに「E-75-6」のようにナンバーが付されています。
*注5:巨石構造物は全部で30個有りますが、その内の5個が発掘または掘削(drilling)されA~Eまで記号が付けられています。
*注6:「azimuth=方位角」は北を基準点にして、時計回りの角度を言います。
*注7:原文には小見出しは付いていませんが、読みやすさのために付けています。

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