(Japanese version only)
   ナブタ・プラヤⅢ
   (NabtaPlayaⅢ)
ナブタ・プラヤ
ナブタ・プラヤⅡ
ナブタ・プラヤ 図表集
 H O M E
世界史縮尺年表
ナブタ・プラヤ
ナブタ・プラヤ 図表集








  
                                                                                                                                                                                                                                      

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"Late Neolithic megalithic structures at Nabta Playa (Sahara), southwestern Egypt."    
                                  
Fred Wendorf , Romuald Schild                                                 
 「南西エジプト、ナブタ・プラヤ(サハラ砂漠)にある後期新石器時代の巨石構造物」
(Original)
   「Nature誌」に論文が発表された年にweb上に発表された、やや詳しい解説。                                                                                             
                                                         筆者:フレッド.ウェンドルフ、ロムアルド.シルト1998年

 
前置き(以下、原文に「小見出し」や「参考図」は有りませんが、読みやすさのために付しました)  

ナブタ・プラヤとは(参考図:第1図~3図) 

 エジプトの最南端にあるアブ・シンベルから西へ100㎞の所にあるナブタ・プラヤは、巨大な内部収束流域型の窪地で、初期完新世(約9000年~3500年B.C.)のあいだ、先史時代の人たちにとって重要な祭儀場となっていた。その窪地は周期的、季節的に水で満たされ、それを求めて人々が集まって来たので、現在ではそこには数十個、いや恐らく数百個におよぶ、考古学的遺跡が残されている。人々は近隣の各地からナブタ・プラヤへ集まり、天文学的な事象を記録し、巨石の列石を造り、見事な石の構造物を建てたのである。

極乾燥状態から動植物の誕生へ(約1万2000年前)

 約6万5000年前から1万2000年前までは"西部砂漠"は極(きょく)乾燥状態(参考)にあり、少なくとも現在同様か或いはそれ以上に乾燥していた。この状態は約1万2000年前以後、熱帯アフリカの夏の雨が北上するにつれて変化し始め、その結果サヘル地域の多種類の草木を成長させ、少数の小動物―主に野ウサギや小型のガゼル、さらには何種類かの小型の肉食動物―を生存させるに足る、十分な水分をもたらすことになった。雨が降ったと言っても依然として乾燥状態ではあって、年間降雨量は100~150ミリを超えなかった。その雨も予告なしにやってきて、途切れがちだった上に、度重なる干魃で中断されたりしたので、時には砂漠が長期にわたって見捨てられることもあったのである。

牛を飼う人々(9000年~7300年B.C.)

 最も初期(9000年~7300年B.C.*1)のナブタの集落は、牛を飼い陶器を使う人々が季節的に使用する小屋の集まりであった。これらの初期の牛は家畜化されていたと考えられており、アフリカ型の牧畜方式はここ"西部砂漠"で発達してきたものなのかもしれない。というのも、そこでは牛は「歩く食料貯蔵庫」とみなされ、牛肉(これは儀式でのみ用いられた)よりもミルクや血液を提供し、権力や権威の経済基盤となっていたからである。陶器はこれらの遺跡では稀なのだが、しかし独特のもので、それは全体が櫛を波打たせて施した、複雑な模様で彩られているのだ。この陶器の出自はまだ特定はされていないがアフリカでは最古のものの一つであり、南西アジアの陶器よりは古いものである。これらの初期の人々は恐らく夏の雨の後に、遙か南方か近くのナイル流域から、いずれも牛のための牧草を求めてこの砂漠へやって来たのだろう。秋が来てプラヤの水が干上がり、人々や牛のための水が無くなると、彼らはふたたびナイル川や南の水の多い地方へ、帰って行かざるを得なかった。   

大集落・食用植物・陶器・炉・ヒツジ/ヤギ(7000年B.C.)

 7000年B.C.頃から集落は非常に大きくなり、住民は一年を通じて砂漠に住むことが出来るようになった。彼らは大きく深い井戸を掘り、小屋が一直線に並んだ整備された村落に住むようになったのである。これらの遺跡の中にある多数の植物の遺物は、彼らがモロコシ、キビ類、マメ類、イモ類、果物などの食用野生植物を、大量に集めていたことを物語っている。約8800年前頃(前6800年B.C.頃)、一部の地域で彼らは陶器を作り始めているが、これは恐らくエジプトでは最初の陶器だろう。それから数百年後、約8100年前頃(前6100年B.C.頃)ナブタで最初のヒツジとヤギが現れたが、それらが、その2000年も前からヤギ・ヒツジ属(caprovids)が飼育されていた西南アジアから、持ち込まれたことはほぼ間違いないだろう。これらの動物たちを収容するためには、集落の構成に様々な変化が生じざるを得なかった。集落はとても広く、また多数の炉の址があったが、しかし小屋や家屋の址は残されていない。

複雑な社会組織と構造物(5400年B.C.)

 ナブタの新石器時代の社会の性格を一変させた大きな変化は、初期の集団を砂漠から追い出した大干魃のあと、約5400年B.C.頃に引き起こされた。ふたたび砂漠へ戻ってきた新しい集団は、今や明らかに複雑な社会組織を形成し、そこにはそれ以前のエジプトには見られなかった、階級組織と指揮系統が存在した。彼らは若い牝牛を生け贄にし、それを粗雑な石塚で囲われた、粘土囲いで屋根のある小部屋に埋葬した。また巨大で未成型の岩石で列石を造り、エジプトで最初の天文測定装置(「カレンダー・サークル」これは夏至を示すために用いられたと思われる)を建て、地上だけでなく地下構造を併せ持つ、30以上の複雑な構造物を建てた。これらの複合構造物の一つから出てきた成形された石(cow stone:訳者注)は、恐らくエジプト最古の彫刻であろう。

 これらの構造物は、人々が組織的作業をなし得たこと、穫り入れを祝いさらには宗教的な信仰心まで表現し得たことを示している点で、重要なものである。そしてさらに、これらの構造物は、サハラの人々が、当時のナイル流域の人々よりも、遙かに組織化されていたであろうことを、我々に教えてくれるのである。

 
ナブタ:地域祭儀場                                                              戻る

祭儀場(6100年~5600年BC)

 地域祭儀場はお互いに関係がありながら、地理的には離れている集団同士が、定期的に集まって儀式を執り行い、社会的・政治的連帯感を確認し合う場所であった。これらの祭儀場は現在でもアフリカの多くの地方で、あらゆる集団にとっての宗教的・政治的・社会的な会合の拠点とされている。ナブタはエジプトの"西部砂漠"の南西部に住む遊牧民たちにとっても、そのような施設であったようだ。それは恐らく中期新石器時代(6100~5600年B.C.)に地域祭儀場として使われ始め、近くに住んでいる集団も、プラヤ(内陸湖)が一番広くなる夏の湿潤期に、祭儀や他の目的のためにここへ集まって来たようである。この会合はプラヤの北西岸の砂丘で開かれたらしく、そこには数百個の炉の址と、2m以上に積み上げられた生活遺物の山が残されている。

牛の骨の意味

  この会合跡の生活遺物の中で特に興味深いものの一つは、おびただしい数の牛の骨である。これは大抵の他の遺跡には見られるのだが、ナブタではこの祭儀場以外の場所では、牛の骨はそう多くはなく、このことはそもそも牛が肉を食べるより、むしろ牛乳と血液を採るために飼われていたという証拠になっている。この方式は現在のアフリカの牛飼いにとっての、牛の役割とよく似ている。というのも彼らの間では牛は富や政治力の象徴であり、大切な儀式か指導者の死や結婚式のような社会的行事以外には、殺されることはまず無いからである。このいわゆる「African Cattle Complex*2」は、ここエジプトの"西部砂漠"から始まったのではないかと思われる。

列石(参考図:第8図~10-5図(5500年~3500年BC)

  ナブタの地域祭事場としての役割は、9個*3の巨大な(平均して3×2×0.5m)珪質砂岩の石板を南北に立てた列石(参照:第7図右の「列石」)によっても伺い知ることが出来る。その列石は約100mおきに立てられ、一部は内陸湖の北西岸にある会合跡近くの、プラヤの沈殿層の中に埋まっていた。これらの石は未成形であり、多くが今は壊れているが、修理は可能である。似たような砂岩が、この列石から1kmも離れていない付近に頭を出している。この列石の年代は正確には分かっていないが、恐らく後期新石器時代であろう。とすれば、5500年B.C.から3500年B.C.の間に立てられていることになる。この列石は西ヨーロッパで発見された巨石の列石に似ているが、それらは後期新石器時代と初期青銅器時代のものとされているから、ナブタの列石とほぼ同年代ということになる。東・西アフリカそれぞれの遙か南の方にも他の列石があるが、これらはずっと後の鉄器時代のものと考えられている。

カレンダー・サークルE-92-9)(参考図:第11図~17図(4800年±60年BC)

  ナブタの列石の北端から約300m北に「カレンダー・サークル」があり、これは直径約4mの円形に並べられた、数個の砂岩の石板でできている。この石のサークルには4対の目立って大きな石があり、それぞれの対(つい)は狭い空間を挟んで、いわば門のように立てられている。これらの内の二つの門は、ほぼ南北を示して立てられており、他の二つの門は南北から東へ70度傾いた線上にある。そしてこれは何と6000年前に夏至に太陽が昇る位置を計算して立てられているのである。円形の中央部分には6個の石板が二列に立てられているが、その天文学的な目的は―もしあったとしても―明らかではない。「カレンダー・サークル」周辺に多い炉の一つから採取した炭の年代は約4800±60年B.C.*4であった。

石塚と牛の埋葬E-94-1n)(参考図:第25図~26図(5270年±270年BC)

  「カレンダー・サークル」をさらに北へ300mのところには、石で覆われた塚があり、そこには涸れ谷(wadi)の河床に掘られ、粘土で囲われてギョリュウの大枝で屋根を葺かれた小部屋があって、その中に、完全な形の若い牝牛の化石が埋葬されていた。その小部屋は壊れた岩で覆われ、直径8m・高さ1mの石塚を形作っていた。屋根の木片は放射性炭素年代測定で5400年~5300年B.C.*4を示した。同じ地域で牛の遺物のある同様の石塚が7個発掘されたが、それらのいずれにも内側の小部屋はなく、牛の骨―その内のいくつかは完全な形であったが―は単に岩の間に置かれているだけであった。

複合建造物E-96-1AE-96-1Eほか)(第18図~

  ナブタで最も興味を引かれるものの一つが30個に及ぶ「複合構造物」である。これらはおびただしい牛骨があった地域祭事場の約1km南の、プラヤの粘土やシルトの小高い残骸の上に、長さ500m、幅200mの広さで散らばっている。これらの構造物はいずれも巨大で、長く、荒削りかまたは未成型のままの砂岩を集めて出来ており、それらの砂岩は長さ5m、幅4mほどの、真北よりやや西の方向を向いた楕円形を形作って、真っ直ぐに立てられている。この楕円形の中央には1個か時には2個の、とても大きくて平らな石板が横たわっている。

その地下構造第20図、22図

  これらの構造物の内、2個は発掘されており、3番目は試掘、後2個はドリル孔が穿たれただけである(Complex structure A=E-96-1A~Complex structure E=E-96-1Eまでの5個:訳者注*5)。それぞれ細部に違いはあっても基本形は同じである。発掘・試掘された構造物は全て、厚いプラヤ粘土とシルトの層(地表から2m~3.5m)にまで深く埋められた、キノコ型の卓状岩の上に造られていた。これらの卓状岩はその下にある基盤岩の一部であって、これはプラヤ層が堆積する以前に、周囲の柔らかい沈澱物が浸食によって削られて形作られた、レンズ状の珪岩なのである。ナブタの人たちがどのようにして地下深く埋まったこれらの卓状岩を見付けることができたのかは分からない、恐らくは井戸を掘っているときに極めて稀な偶然に恵まれたのだろう。しかしながら、この地域では、これらの構造物以外に、他の考古学的対象は何もない。いたるところに、いろいろな時代の考古学的遺跡がみられるここナブタ窪地でも、これらの構造物は際だって珍しい存在なのである。

複合建造物 A第20図、22図

  これらの複合構造物のうちの最大のもの(Complex structure A=E-96-1A:訳者注*5)の発掘によって、直立した石が置かれる前に、直径約6m・深さ4mの大きな立坑(たてあな)が掘られていたことが分かった。立坑の底の卓状岩は、でこぼこしたかどを削り、三方に凸状の周縁を残すように形作られている。北の四番目の面は、真っ直ぐの端を作るために剥片をはがして作られた。卓状岩の上側の表面も滑らかにされた。それから立坑は卓状岩の表面の約50cm上の辺りまで、プラヤ粘土で埋め戻されて行き、次に巨大(約2.5トン)で丁寧に成型された岩(cow stone:訳者注)が持ち込まれて、いくつかの石板で固定された。成型された岩の底は地表から2.5m下であった。この"彫刻"が何を表しているかは分かっていない。これは両側面だけが成型されていて、彫刻家たちは滑らかに広い曲面を作り出すために、岩の自然の層理面を利用している。見方によっては、この岩は巨大な動物に似ていると言えなくもない。この成型された岩が据え付けられた後、立坑は完全に埋め戻され、巨大な直立した石と、中央に横たえられた二個の巨大な石による地上構造物は、卓状岩の真上に立てられているのである。

複合建造物の年代(3600年~3400年BC)

 もう一つ発掘された構造物(Complex structure B=E-96-1B:訳者注*5)も卓状岩の上に立てられ、そちらにも卓状岩の上に巨大な岩が有ったが、こちらの岩では一つの端から僅かな剥片がはがされるに止まっている。三つ目の複合構造物(Complex structure E=E-96-1E:訳者注*5)は試掘のみに止まっていて、それは密集し重なり合っている8層からなっている。この一群はより小規模で、より小さな石で構成されているが、石の配置は上の最大の構造物と同様である。試掘の際、構造物の下の立坑の端にあった貝殻から木炭が取り出され、それは放射性炭素年代測定によって3600年B.C及び3400年B.C.*4のものであると分かった。これはこれらの構造物の中から採取できた唯一の年代なのだが、我々が地層学的証拠から算定(B.C.4800年頃と)していたより約1500年後を指している。この構造物(Complex structure E)は他の構造物(同AおよびB)とは異なった点があるので、この食い違いに関しては我々の算定した後者の数値を採るべきかもしれない。だがしかし、この年代(3600年B.C及び3400年B.C.)を否定する理由もまた、何もないのである。

他の複合建造物

 他の二つの構造物(Complex structure CおよびD)を掘削してみて、それらもやはり埋められた卓状岩の上に、立てられていたことが分かった。これらの構造物の内で、完全に掘り起こされたのは2個だけ―3個目は試掘のみ―ではあるが、どうやら他の全ての構造物も、深く埋められた卓状岩の上に造られたようである。それらは多少の相違を有しているかもしれないし、また卓状岩の上の埋め土の中に、巨大な加工された岩を有しているかもしれない。これらの複合構造物はどうやらナブタ特有のものであるらしく、ナイル流域や"西部砂漠"の他の場所では発見されていないのである。だが、注意しなければならないのは、それらが容易には発見しにくい(長年の間、単に基岩が顔を出しているだけだ、と思われていた)ということである。なのでそれらは東部サハラの中で、思っているより遙かに広く分布しているかもしれないのだ。

複合建造物の意義

 我々は中央の岩石の下に、高貴な人物の埋葬がなされていると期待していたが、卓状岩に達する立坑の一番底まで掘ってみても、人間の遺物は全く見あたらなかった。複合構造物の役割は結局分からないままだが、しかし、それらがナブタに現存することの意味を考えるのは無駄ではないだろう。

 追記                                                                      戻る

序列社会の存在

 ナブタの複合建造物や巨大な複合構造物を建造するには、相当な労力が必要とされたが、これは実は、労働層を束ねることのできる、宗教的または政治的な権力者が、長期にわたって存在していたことを意味している。これらの構造物は、カレンダー・サークルや牛の埋葬と共に、それ以前には考えられなかったほど洗練された儀式尊重主義が、新石器時代の東部サハラに存在したことを、意味するものでもある。確たる証拠はないから、これらサハラの牛遊牧民が、序列社会を構成していたとまでは言い切れないのだが、しかしその可能性はかなり大きいと言って良いだろう。

ナブタ・プラヤとナイル流域

 ナブタ・プラヤにおけるこのような発見は、ナイル流域に住んでいた新石器時代の人々と、隣接したサハラの遊牧民との間に、それ以前には見られなかったような関係が存在し得たことを示唆している。そしてこの関係こそが、古代エジプト社会の複合性の発生に寄与したのではないだろうか。社会の中での権力の格差という形で表されているこの複合性は、ナブタにおける新石器社会と、エジプトの古代エジプト*6との双方の、社会構造の基盤となっているのである。彼等の集落の見事な整備や、大きくて深い井戸の掘削や、巨大な成型・非成型の岩石で造られた複合巨石構造物の建造などを可能にしたのは、このナブタに見られる権力構造なのである。他にもこれら二つの地域で共有されたナブタ方式もあったがしかし、ナイル流域の後期先王朝時代や初期王朝時代に、何の地域的先例もなく突然出現した現象もある。それらは富や権力の相違を現す牛の役割であり、宗教的信仰における牛の尊重であり、太陽の動きを予告する天文知識や装置の利用であった。勿論、これらの方式の多くはナブタには既にあって、長い発展の歴史を持つものだったのだが。

二つの経済圏

 ナブタ・プラヤのセンターとしての地理的な位置もまた興味深い。ナブタは、初期新石器時代のナイル流域の農業集団と、東部サハラの牛遊牧民との接点の役割を果たしていたようである。これらの二つの異なった経済圏の機能的な差異が、それぞれの集団内での複合性の発生に、大きな役割を果たしたのではないだろうか。ナイル側が遊牧民に影響を与えた証拠はあまり多くなく、現在では製陶技術、ヤギ・ヒツジ属の飼育、それに、ナイル種の貝殻やナイル砂利からの希少な石の不定期な交易、に限られていたと見られている。一方先王朝時代・王朝時代においては、政治的、儀式的生活の多くの部分に、サハラの牛遊牧民からの強い影響力が見て取れるのである。

祭儀場の存在意義

 サハラの牛遊牧民とナイル流域の新石器時代集団との間に共生関係が有ったとすれば、そこではナブタの地域祭儀場の存在が、潜在的に重要な役割を演じていたと言っていいだろう。東アフリカの牛遊牧民の地域祭儀場は、その統合的な機能のゆえに、一部族の中の派閥間とか、あるいは各部族間とかの、境界線近くに設置されることが多かった。ナブタ祭儀場は良くその成果を発揮することが出来たようであって、それは遊牧民の多くの集団同志の間に在ることもあれば、また、遊牧民と100km彼方のナイル流域の新石器時代の農民との間に在ることもあったのである。

複合性の概念の成長形態

  長い間、エジプトは複合性の発想をメソポタミアから取り入れたと考えられてきた。しかしながら現在では、社会的複合性のような現象は、一地域から他の地域へ伝播するものではなく、その地域特有の要因が成長を遂げていくものだと、一般に考えられている。たとえば、農民と遊牧民とが密接な関係を持っている時のように、根本的に異質な二つの経済制度が、物理的に密着しているような場合に、そういう現象が起きるのではないだろうか。遊牧民は通常は村の隣人たちと、緊張感のある調和を保って生活しているが、時が経つにつれて弱者に対して優位に立つようになり、そしてついには支配するに至るのである。まさにこのような現象の中においてこそ、社会的に複合化した後期新石器時代の牛遊牧民と、ナブタのの地域祭儀場の、暗示的な重要性を見て取ることができるのである。

古代エジプトにおける牛

 初期のエジプト人の宗教的信仰や社会制度には、メソポタミアには見られなかった多くの特徴がある。古代エジプト人にとって、牛は信仰体系の中心的存在であった。それは神聖視され、神の地上への使者と見なされた。牝牛はまた時には"天の雄牛"と呼ばれる太陽の母と見られていた。エジプトのファラオは二つの神、すなわち上エジプトではホルス、下エジプトではセト、の具現と見なされたが、ファラオは本来は、牝牛であるハトホルの息子ホルスなのである。ホルスはまた時々強い雄牛としても描かれ、牛の画像は先王朝時代や古代エジプトの美術で重要な位置を占めている。或る場合には牛の画像が星の描写を伴っていることもある。もう一つの古代エジプトのテーマは雨の神ミンであり、彼は白い雄牛を引き連れており、また彼には年ごとの収穫祭が捧げられていた。

エジプト文明の発生の真相は?

 古代エジプトの信仰体系に占める牛の比重が、必ずしも経済制度に反映されていなかったのは、注目すべきことである。牛が重用され、富の主要な尺度とされているにもかかわらず、経済制度は主として農業や、羊や山羊などの小家畜を基盤として成り立っていたのである。その上、ナイル流域では、その前の新石器時代から、牛は重要視されていなかった。そのことは古代エジプトの信仰体系が、外部から押し付けられたものであることを示唆している。それは多分、農業を営む隣人を征服するために、所謂"尊大な土地"*7から、定期的にやって来る遊牧民による征服という、伝統的な手口でなされたものだろう。エジプト南部、アブ・シンベルの対岸に有るクストゥルの、ヌビアAグループ遺跡*8の印象的な牛の埋葬物*9は、正にこのような出来事と符合しているではないか、と言いたくもなる。現在、このような興味深い可能性が、単なる憶測ではないかと見なされているのは、一つにはサハラの遊牧民の社会構造に関する資料が、そう多く遺っていないことや、また、ヌビアや上エジプトのナイル流域で見られる、初期新石器時代の特質も、十分把握されていないからではなかろうか。しかしサハラとナイルの相関関係の研究は、エジプト文明の勃興の経過に、示唆的な視点を与えてくれるかもしれないのである。(日本文文責:大槻雅俊)                                       
 参考文献

 Malville, Wendorf, Mazar, and Schild

   "NATURE"  392: p.488-491    2 April 1998.

 ②Wendorf and Schild

   "Nabta Playa and its role in Northeastern African Prehistory" JOUR. OF ANTHROPOLOGICAL ARCHAEOLOGY:1998



*注1本文の「bp」を簡単に説明すると「Before Present」の略で(参考:ウィキペディア「BP」)、この場合の「Present」は「西暦1950年」を指します。なので「8000 bp」は単純には「紀元前6050年」ということになりますが、実際の使用に際しては補正のためのデータが必要です。ただし、この訳文では読者の便宜のため、ほぼ同一内容の「Astronomy of Nabta Playa」を参考にして、全て「B.C.=紀元前」に年代表記を統一しています。
*注2:Cattle Complex=An east African socioeconomic system in which cattle represent social status as well as wealth.=東アフリカの社会経済学上の制度のことで、そこでは牛が富と社会的地位を現すとされます( Webref.orgから)。参考:Answers.com
*注3
この「9本」他の列石に関するこの項の記述は、初期の調査(1998年以前)に基づくもので、正確さに欠けます。参照:第7第8第10図  
*注4原文ではこの後に「CAMS-17287」とか「DRI 3358」などという記号が入りますが、これはナブタ・プラヤで検出された、170以上の放射性炭素年代測定による年代を測定した研究所の略号です。詳細は「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」のp.51~p.54をご覧下さい。
*注5Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p.503~520から
*注6原文の Old Kingdom=古王国」は正確には2686~2181年B.C.を指すとするのが一般的で、それは「第3王朝~第6王朝」の期間を指します。当サイトでは、原文を直訳せず、使われている意味から推して、「古代エジプト」および「王朝時代」という訳語を当てていますのでご了解ください。参照:Wikipedia「History of ancient Egypt」、ウィキペディア「古代エジプト」、「エジプト王朝図
*注7:"the lands of insolence"(insolence=尊大、傲慢)はアメリカの人類学者Carleton Coonがクルド人の多く住む地域(トルコ、イラン、イラク、シリア、アルメニアにまたがる)をこう名付けた。民族的に孤立していながら高い矜持を持つが、国家の成立には至っていない。現在では山間部では遊牧生活を、平野部では農耕生活を行っている。参考:高崎通浩著「世界の民族地図:p.440~」、Holiday in Iraqueから
*注8:「A-Group site of Qustul」Wikipediaを参照してください。なお、大城道則著「古代エジプト文化の形成と拡散」(ミネルバ書房:2003年)(p.55~73)にも、詳しい説明があります。
*注9:
ここの牛の埋葬物は、ナブタ・プラヤの「石塚」に埋められたものに、酷似している。
*注10:
なお原文は2011年7月ごろ突然削除されています(他にそのコピーは他のサイトに掲載されています)。これは一つには注6などで見られる、記述の古さが理由だと思われます。本サイトでは作者の作業手順上の都合により、ナブタ・プラヤ全体を平易に記述したものとして、「説明用」に採用しています。悪しからずお許しください。

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