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   ナブタ・プラヤⅡ
   (NabtaPlayaⅡ)
ナブタ・プラヤ
ナブタ・プラヤⅢ
ナブタ・プラヤ 図表集
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ナブタ・プラヤ
ナブタ・プラヤ 図表集








  
                                                                                                                                                                                                                                      


"Astronomy of Nabta Playa"      Original)(PDF11.3MB:131頁~)                    戻る

       J. McK Malville, R. Schild, F. Wendorf and R. Brenmer


  「ナブタ・プラヤの天文学」       

    (「Nature誌」への発表の9年後の2007年7月に、アフリカのWGSSAという宇宙関係の研究機関の機関誌「African Skies」に掲載され、
    更に同年10月に「African Cultural Astronomy (PDF:11.3MB)」に収載されたものです。ここでは後者を用いています。
    残念なことに、こちらの方は誤字・脱字やその他のミスが多いので、不審な場合は「African Skies」をご参照ください。但し、こちらの原典は無くなっていますので
    保管していた「コピー」をご利用ください。
    なお、図1~図10および表1は、お手数ですが「Original」のFigure1~10、Table1をご覧ください。)


        筆者:M.マルヴィル、R.シルト、F.ウェンドルフ、R.ブレマー

 前置き(9000~6100年BC頃)*1

 今や地球上で最も乾燥した地域の一つであるエジプト南西部の砂漠も、つねに住みにくい場所だったというわけではない。9000年BCの始め頃から、夏の季節風がもたらす雨が中央アフリカから北へ移動して、牛を連れた遊牧民が生活できる状況を作った。雨が降ると言っても依然として乾燥した環境で、年間降水量は100~150mmを超えることはなかった。雨は予測が不可能で、その上幾度となく干魃が襲ってきて、そのために、時には長い期間にわたって、砂漠が放棄される結果を招いていた。狩猟の対象になる鳥獣は乏しく、ガゼルと野ウサギだけだった。牛は牛乳と血液と肉の"歩く食糧貯蔵庫"として、現在のマサイ族と同じような用い方をされていた。牛のお陰で人間が砂漠に住めるようなものだから、牛は彼らの生活に大きく関わることになり、儀式面でも重要な位置を占めることとなったのである。

 アブ・シンベルの西100kmに位置しているナブタ・プラヤは巨大な内部流域性の窪地である。初期完新世の間(約9000~6100年BC)プラヤは季節的に水に満たされ、遊牧民はその度に岸辺に居を構えた(図1)。ナブタの最初の住居は牛を追ったり陶器を使ったりする人々の小さな季節的な野営地だったのである。これらの人々は恐らく夏の雨の後に、遙か南方か近くのナイルから牛の牧草を求めてやってきたのだろう。秋が来てプラヤの水が干上がると、彼等はナイルかあるいは南のもっと水のあるところへ帰って行かなければならなかった。

 ナブタ・プラヤの窪地は夏の雨のあと、餌になりそうな草で覆われ、野生動物や家畜たちの食事にとっては、まことに魅力的な場所となったはずだ。草や他の植物の種子の他にボエルハヴィア*2が、現在でも羊や山羊が食べている種子や葉を実らせていた。ナブタではスコウウィア*3の種子も見られた。この植物は人間の口にも合う葉をつけるので、牛にも良い餌になるのだ。その葉を食べると水が欲しくなくなるのである。スコウウィアの大きな立木は、モンスーンの雨の後に窪地で成長することが多く、あまり高く茂るとラクダも見えなくなるほどである。動物たちはそのほかにも、ある種の灌木やアカシヤのような木を常食にしていた。

 7000年BCまでに住居は徐々に大きくなり、住人たちは巨大で深い井戸を掘って、年間を通じて砂漠に住めるようになった。彼らは小屋が真っ直ぐに並んだ整備された村に住んでいた。6800年BCまでには土着の陶器を作り始めた。そして数百年後の6100年BC頃には、初めて羊や山羊が登場したが、これらは先ず間違いなく南西アジアから持ち込まれたものであった。
 
 祭儀場(6100~5500年BC頃)

 
ナブタは多分、中期新石器時代(6100~5500年BC)の夏の湿潤期に、地域祭儀場として機能し始めたと思われる。ここで我々は、お互いに関係を有しながら地理的には遠く離れた人々が、定期的に集まって儀式を行ったり、お互いの社会的・政治的な繋がりを確認し合う場所のことを、地域祭儀場と呼んでいる。ナブタの祭儀場は死、大地、水、空、牛などのテーマを中心とする、複雑な意識が存在したことを証明するものである。これらの集会は窪地の北西岸の砂丘で開かれたが、そこには数百個の炉と多くの生活遺物と、それに多数の牛の骨が残されている。これらの牛の骨は、ほかの遺跡でもよく見られるものなのだが、ここナブタ・プラヤでは、この場所以外では決して多くは見られないのである。このことはそもそも牛が、肉を食べるよりむしろ牛乳と血液を採るために、飼われていたという好個の証拠になっている。このような方式は、現在のマサイ族などのアフリカの牛飼いの場合の、牛の役割とよく似ている。彼らにとっては牛は富や政治力の象徴なのである。彼らが重要な儀式とか、指導者の死や結婚式のような社会的な行事以外に、牛を殺すことはほとんどあり得なかったのだ。

 牛の石塚(5500年BC頃)

 先住者を砂漠から追い出してしまった大干魃のあと、新しい集団によって5500年BC頃、後期新石器時代が始まった。彼らは、これまでエジプトでは見られなかった階級組織と統率力を備えた、複雑な社会組織を有していた。*4これらの新しい人たちすなわち"牛飼い"(ルアーテル・バカール=Ru'at El Baqar*5の人々 としても知られる)が、ナブタ・プラヤの祭儀場を作り上げたと思われる。彼らは若い牝牛を生け贄にし、それらを石塚の中の、粘土囲いで屋根葺きの小部屋に埋葬した。彼らはこのような地上と地下の両方に構造物を備えた石塚を、数多く作り上げたのだ。

 北からナブタ・プラヤへ入り込んでいる浅い谷―私たちはそれを"犠牲の谷"と呼んでいるが―の西側の岩だらけの堤防沿いに、壊れた砂岩で出来た10個ばかりの小山がある。これらの小山には殺された牛、山羊、羊などの大きくてほぼ完全な姿の、奉納物が埋められている。最大で、そして恐らく最古の塚には完全な一体の若い牝牛の骨があるが、これは牛飼いがなし得る最も価値のある奉納物で、ギョリュウの屋根付きの手の込んだ小部屋に入れられていた(図2)。その屋根からの木片は放射性炭素測定年代*6で約5500年BCを示していた。この牛は多分大人になったばかりの雌で、右を下に*7、頭を西に向け、ほぼ南北方向に横たわっていた。
夏の初めに最初の雨が降った時、この涸れ谷(wadi)がプラヤへ水をもたらしたので、この場所は雨乞いのために牛を生け贄に捧げるには、最適の場所だったのだろう。

 カレンダー・サークル(5500~4900年BC頃)

 この涸れ谷は小さな砂山の頂上にある小さな環状列石の手前で消えていた(図345)。このカレンダー・サークルの中には寄り添って立っている何対かの石板があった。2対の石板を通して、ほぼ真北の方向と、雨期の到来を告げる夏至の日の出の位置を見定めることが出来る。このカレンダー・サークルの近くの炉の放射性炭素測定年代は約4900年BCを示していた。このカレンダー・サークルの中央には2列に並んだ6本の石板が立っているが、天文学上の機能は、有るとしても、明かではない。或るベドウィンの研究者に依れば、砂漠では同じように石を立てて、その影を時計代わりに使うのは珍しいことではなかったそうである。他にもよく知られた環状列石が、リビア砂漠でバグノルド(Bagnold)によって発見されている。それはもっと大きくて8.5mあるが、ナブタと同種で、もっと薄い石板で出来ているらしい。天文学上の方位を示す証拠なども報告されておらず、写真からは何も読みとることが出来ない。

 複合建造物(4600~3400年BC頃)
 

 犠牲の谷の南に、古代の湖の粘土に砂漠の風が刻み込んだ一連の小山がある。この地域には数十個の複合巨石構造物があるが、これらは末期新石器時代に"巨石建造者"(ブネートル・アスネーム=Bunat El Asnam*8の人々)によって作られた。ナブタ・プラヤの末期新石器時代というのは4600年BCから、この地区が見捨てられた3400年BCまで続いている。これら複合建造物の表層は一様に砂岩が集まって出来ており、それらはそもそもは初期新石器時代の終わり頃にシルトの堆積層に並べられていたものである。

 人間の手によって成形された跡のある砂岩たちは、重さ数トンのものから50kg弱にまでにわたっている。数本は立っているが底の壊れた砂岩は粘土に埋まっており、これらは最初は北を向いて真っ直ぐに立っていたと推察できる。崩壊を招いた一つの原因は、巨石の前側に穴を穿って効果的に巨石を倒した北風であった。このような穴は倒れた巨石たちの下にみられ、このことは個々の岩がおおむね北を向いていたことを示している。多くの巨石たちは列石の石と似たやり方で彫られていて、死者を思わせるように人間の肩を象っている。これらの成形された石たちは、今は亡き一族の者や散り散りになった家族たちの霊魂を表しているのかもしれない。

 
そもそも、末期新石器時代の祭儀場は象徴的な色合いが濃いのだが、中でも最大である「複合建造物A(E-96-1A)」は、特に際立った位置を占めていたことが分かって来た。私たちは最初はこの構造物には、一流人物の墓が有るのかもしれないと思っていたが、発掘した結果人間の遺物は全く見出せなかった。この構造物は5本の放射状の列石の中心点になっている。この建造者たちは、プラヤの沈殿物に坑(あな)を掘り進めて2.6mの深さで卓状岩を掘り当てた。この岩は珪質砂岩で、回りの柔らかい沈殿物は浸食作用で取り除かれていた。同様の岩は二番目、三番目の複合建造物の下でも掘り当てられ、四番目の岩も砂岩の層の下にあることが探測の結果判明した。これらの卓状岩は多分プラヤ堆積物が沈殿するはるか以前に、ナブタ窪地の最初の風食で形づくられたものなのだろう。複合建造物Aの場合は、卓状岩の北側と西側が人工的に成形され、その表面も多分人手によって磨き上げられている。こうして形づくられた楕円形の岩は3.3m×2.3mで、長い方の軸が南北を指すように置かれていた。


 坑は少し埋め戻され、卓状岩の中央に重さ2~3トンの第二の巨石が置かれた。この第二の岩も大きな頭部のような突出部分が形づくられていて、北方よりやや西を向いていた。この岩は北の端の二つの大きな石板によって真っ直ぐに立つように支えられていた。片面は突き削られて見事に滑らかになっていた。この石は何となく牝牛に似ているので、代理の生け贄なのかもしれない。いずれにしても明らかなのは、石を掘り出し、成形し、運び、そして卓状岩の上に設置するために少なからぬ労力が払われて居たということである。 


 列石(4500~3600年BC頃)

 
私たちのそれまでの測量と、それに新しくこの地区の砂岩たちの地図を作製する作業との、両方を併せて再分析することによって、私たちは複合建造物A図678)から放射状に出ている5本の列石を再確認した。また付近の採石場から有力な年代を取り出した。採石場の約100m東には貯蔵場所もあって、更に数十個の砂岩たちが使われるのを待っていた。採石場から採った5つの放射性炭素測定年代は4500年BCから4200年BCまでである。私たちは複合建造物E(E-96-1E)から放射性炭素測定年代3600年BCをも得ているので、巨石時代は4500年BCから3600年BCまでの800~900年間続いたものと算定できるわけだ。より綿密な検証から、殆どの石は手を加えられたり、明らかに人間の形に成形されたりしており、多くが砂の中でほぼ北向きに置かれていることが分かっている。

 私たちの最初の巨石の測量値(ウェンドルフ、マルヴィル:2001年)は、2002年のクイックバードの衛星画像と、ブロフィー(Brophy)とローゼン(Rosen)(2005年)によるGPSの追加測量とによって補強されてきた。巨石たちの位置に関して、これらの別個の測量とのかなりの合致が見られたことは、私たちにとっても嬉しいことである。分析に際して私たちは2セットのGPSデータと衛星の成果とを併用している。

 ナブタ・プラヤの列石

 
歳差の計算には私たちはブレタゴン(Bretagon他:1997年)の方式を使っている。6~7千年紀以上にわたる砂丘の移動のために、実際の水平線を算定するのは難しいので、妥当と思われる水平線を設定している。多くの石板は散乱し、砕片化しているので、これらの列石が何かの星を指している可能性がある場合は、私たちは±0.6°の誤差を考慮に入れることにしている。最初私たちは、大熊座の最も明るい星ズーベを北側の3本の列石が指す有力な候補だと考えていたが、今では巨石の時代(4500~3600年BC)ではアルクトゥルスの方がはるかに有力だと分かってきた。これは空の北半球では最も明るい星なのだが、この時代に列石A1A2A3がこの星の位置を指すに際しては、実は三つの場合があるのだ。どうやら、これら3本の列石は、それぞれ歳差によって変わる星の位置を示すために作られたらしいのである。

 四番目の列石B1は4600~4300年BCの時代で夜空で最も明るい星シリウスと、三番目に明るい星αケンタウルスを指しているようだ。最後の列石B2はほぼ4400~4200年BCのオリオンの帯のアルニラムと、或いは冬至の日の出の位置も指しているのだろう。私たちが当初Cと称していた最南端の列石を、より綿密に検証した結果、石たちは坂や浸食されたシルトの小山に止まっている状態なので、それらが必ずしも列石の最初の並び方に忠実だとは言えないようだと分かってきたのである。
 
 列石と星たちとの関連                                             戻る

 
カノープスという例外はあるが、これらの列石たちはナブタの夜空の最も明るい星たちと関連を持っているようだ(図9表1)。4500年BCには、カノープスは159°の方位角*9
にあって、高さは南の水平線上最高で約8°だったようだ。考えられるのは、巨石の石板の内のいくつかが南北の線から僅かにずれているのは、この星の出る位置に向きを合わせようとしたせいかもしれないということだ。この遺跡で見られるもう一つの幾何学上の問題は、A3B2A1B1の間に直角に近い角度が設けられた可能性だ。これは遊牧民たちの方位に対する強い関心から推しても信頼性の高い事実である。

 ブロフィーとローゼン(2005年)は彼らの列石の位置の分析の中で、最南端の列石C(私たちは石たちの移動を理由に疑義を呈しているのだが)は6088年BCにシリウスと関連があったし、他の列石もベガや6270年BCのオリオン座の星たちと関連があったと提唱している。彼らの提示している年代は、私たちの祭儀場の設立時期の念入りな算定より約1500年も早い。ブロフィー(2002年)はまた、複合建造物Aの卓状岩は17,500年BCの銀河系の図を表していると提唱し、渦状腕や近くの矮小銀河も図示している。彼はまた、カレンダー・サークルの石たちも、16,500年BCほど昔のオリオン座の星たちの図を表しているとも提案している。このような極端に古い年代は考古学的な記録とは矛盾している。約9000年BCより前には、サハラ砂漠にはナイル流域より早い人間の定住は見られなかった。モンスーンの雨の到来によって極乾燥の砂漠はサヴァンナに取って代わられ、牛を飼う遊牧民が現れたのである(クーパー:Kuperとクロプリン:Kropelin;2006年、ウェンドルフとシルト;2001年)。約5000年BC以後、人間の住居が巧みに建てられるようになり、ナブタ・プラヤの祭儀場も出来た。いずれにしても、17,000年BCなどという昔に東部サハラ砂漠に高度の文化が存在したというような認識を支持する考古学的な証拠は存在しない。6000年BCのナブタで列石の建立に興味を抱くような文化の存在の可能性も無いに等しい。考古天文学上の推論は常に考古学によって誘導され形成されなければならない。まして、本格的な野外調査が現地で進行している場合に於いては。

 先史時代の牧夫*10

 
近くに有るジェベル・ラムラ(Gebel Ramlah)の墓場の手の込んだ埋葬から察するに、祭儀場を共にしている牧夫たちは、裕福で健康で優れた審美眼を持ち、そして死者を弔い尊ぶことに関心を抱いていたようだ。これらの墓場はナブタ・プラヤから20kmばかり離れてはいるが、祭儀場や列石を作っていたそのナブタ・プラヤ集落の広がりの中の一部と言っても良いだろう。このような初期の祭儀場を備えていた人々について学ぶ機会は滅多にないので、ここでこれらの先史時代の牧夫たちについて細部にわたって記述することは、決して無駄ではないはずだ。骨のコラーゲンから得た最も信頼できる放射性炭素測定年代は、ほぼ4400年BCである。この墓場には一次埋葬、二次埋葬*11を含めて67体が埋められていた。歯の特徴を調査したところ、墓場の中には地中海方面とサハラ砂漠以南との二種類の住民が葬られていることが分かった。

 埋葬品の並々ならぬ豊富さは注目に値する。遺体の多くは陶器の壺と一緒に埋葬されているが、その壺の内のいくつかは念入りに装飾が施されている。チューリップ・ビーカー(tulip beakers)として知られている器は明らかに埋葬専用品として作られており、だいたい胸の上か頭の傍に置かれていた。そしてそれらと共に、石のパレット、絵の具用の鉱物を挽きつぶす石、象牙製・牛の角製・石或いは陶器製の容器などの、化粧用品類が埋められていた。多くの墓には大きな雲母の薄板が入っていたが、これらは巾は10cm、厚さは1cmを上回っていた。これは、しばしば頭部の近くに埋められたところをみると、余程の貴重品だったに違いない。或るものはナイル川によく居るティラピアという魚の形に作られていた。これはエジプトで発見されたものとしては、最も古くから知られている彫刻である。(参考写真
 
  ここジェベル・ラムラは健康で富裕な集落だった。エナメル質形成不全というのは、幼児期の発育障害の一つの指標なのだが、それが見当たらないということも、子供たちが健康で栄養十分であったことを示している。埋葬像の背の高さもまた良い健康状態と栄養状態をしのばせる。二次埋葬は旅の途中で死んだ人のものだっただろう。7つある一次埋葬は全て西を指し、顔を南に向けた屈葬であった(図10)。
 
 この墓場を見ていると、死者の遺体の保存に少なからぬ関心が払われていたことが察せられる。二つの頭蓋骨では何本かの上歯が下顎に移植されており、また逆の場合もあった。ブレスレットが4個食い込むように着けられた、婦人の前腕も有った。他の頭蓋骨では眼窩に18個の歯が、鼻孔に3個が入っていた。多くの埋葬物には大量の赤鉄鉱の粉が掛けられていたが、これは多くの文化において、血液や生命力や高い地位と結びつけて扱われているものである。

 これらの埋葬物から導かれる重要な結論は、ジェベル・ラムラやナブタの、近くに住んでいたり訪問したりした人々は、広範な商業圏に参入していて、それは彼らに商品だけにとどまらず、ものの考え方にまで接触する機会を与えたと言うことである。彼らの接触範囲はトルコ石の鼻栓が証明するほど遠距離に及んだ。なんとその産地は現在知られる限り1000km北のシナイ半島なのである。貝殻はナイル川から持ち込まれたし、雲母は海岸沿いの遠い山々からやってきたし、象牙は遙か南の象からやってきたものであった。

 ここには三つの墓場があるが、そのそれぞれに、一つの親族集団に属しているらしい人々の、数個の墓が有る。骨が解剖学的に整然と保たれている墓は、集落の中で死んでそこに埋葬された人々のものであろう。骨格が絡み合ったり不完全な状態にある二次埋葬の墓は、牧夫たちが遠隔地で移動している時に死んだ高位の人の埋葬だと解釈できる。その遺体は遊牧民が祭儀場の近くへ戻るまで、放牧期間を通じて運ばれていたのかもしれない。さもなければ、遺体はチャタル・ヒュユク(マルヴィルN.J.;2005年)のように動物の前に曝されたかもしれないし、あるいは一度埋葬して、後から掘り出されたかもしれない。ばらばらの遺体は、解剖学的に整然と保たれることなく、ジェベル・ラムラの墓にも置かれていた(クブシェヴィッツ:Kobusiewicz、シルト;2005年)。遺体をその遺跡の自分の親族集団の墓に埋葬すると言うことは、重要なことであった。何故ならそこはその文化の"中心地"だと信じられていたからである。

 要約と結論
 
 これらの古代の牧夫たちによる天文観測の証拠は三つの形態をとっている。先ず、巨石たちや人間の埋葬物や牛の埋葬物がいくつもいくつも北の空を指しているということは、相当昔から北の空との象徴的なつながりが有ったことを示しており、それは最も確かな、天文学が存在した証拠である。北を向いて置かれている、人間の手を加えられた石たちも、旅の途中かこの近辺で死んだ人の魂を表しているのかもしれない。天文学の二つ目の証拠はカレンダー・サークルであって、そこに北の方向と六月の夏至の日の出の方向とを指す、二つの視線が設定されていたことは間違いないことである。そして最後の証拠は紀元前五千年紀~四千年紀に明るい星を指していた砂岩の石板の列石であり、それは空に対して更に深い注意が払われていたことを示している。最も明るい星たちに関心を抱いたであろう年代は、採石場や祭儀場の年代と大部分が合致しているのである。
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 北の空に対する関心は末期新石器時代のナブタ・プラヤやジェベル・ラムラで相当広まっていたと思われる。これらの地域で私たちは北方への方向付けをいくつも見出してきている。北極の周りの空は星が沈むことが無い領域であり、その後エジプト王朝の頃には、それを永遠の生命の領域と見なした。砂漠で生き抜くためには、星だけを頼りに旅をする能力が必要である、たとえば遊牧民が、人の踏み跡も際立った目印もない砂の海を乗り越えたように。その頃北極の空には明るい星もなかったが、そのあたりに星が描く円から北の方角を推察するのは容易だったであろう。平らな地平線上で、明るい星が登る場所と沈む場所にケルンを置けば、その真ん中が北になるはずだ。日中は垂直な棒の影、ノーモン(日時計)によって北を割り出すことも出来たはずである。

 複合建造物はナブタ・プラヤ最大の謎である。何故、卓状岩たちが地中の中心部分として選ばれ、それらが砂の下深くに有ったのかは依然不可解である。その岩たちが井戸の掘削の際に偶然見付けられたとは到底考えがたい。何故ならそれらはプラヤの堆積物の中からではなく、プラヤの端の砂丘の中に有ったからだ。恐らくこれらの大きな卓状岩は、アニミズムの伝統に見られるように、超自然的な力や魂を持っているとして崇められたのだろう(エリアード:Eliade;1974年)。風変わりな岩は歴史を通じて力や精神の源と見なされていたから、彼らが風に吹かれた砂に未だ隠されていない後期新石器時代以前には、さぞ注目を集めていたに違いないのだ。もちろん、その存在はその集落にとっては文化の記憶(参考:cultural memory)の部分に過ぎないかもしれず、その所在も砂の中の僅かな盛り上がりから明らかになっただけなのかもしれない。しかしいずれにしても、埋められた石・プラヤの水・人や牛の埋葬・夏至の太陽・星を指す列石 という取り合わせは、これら古代の牧畜民たちを、まさしく雄弁に象徴している、と言えるだろう。(日本文文責:大槻雅俊)


注1*:原文ではここに「年代」は記されていませんが、分かりやすいように付しています。なお「牛の石塚」という見出しを新設したり、「犠牲の谷とカレンダー・サークル」を「カレンダー・サークル」と変えて、場所を移動したりしていますが、読みやすくするために、文脈から訳者が独断で行った改変です。
注2*
:オシロイバナ科のボエルハヴィア属
注3*:アブラナ科のスコウウィア属

注4*:原文の「The newcomers~Egypt.」は3行前の「a new group~seen.」と全く同内容なので省略します。
注5*:「Ru'at El Baqar」はエジプトの西部砂漠地方での後期新石器時代(5500年BC頃~)の文化の呼称。「牛飼いたち:Cattle Herders」を意味するとされています。FORVOによるエジプト人の発音。参照:「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p.664、「Middle holocene environments of north and east africa, with special emphasis on the African Sahara」、「ナブタ・プラヤ図表集・第41図」。
注6*:原文には「radio carbon date」と表示されていますが正確には「radiocarbon dating によるdate」を意味します。訳文では「放射性炭素年代測定による年代」(参考)とするべきなのですが、当サイトでは読みやすさのため、それを「放射性炭素測定年代」と略記する場合があります。ご了解ください。
注7*:原文は「lying on its
left side」となっていますが、これは調査の結果「right side」の誤りだと判断しました。「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p470、471から。
注8*:「Bunat El Asnam」はエジプトの西部砂漠地方での末期新石器時代(4600~3400年BC頃)の文化の呼称。「巨石建造者:Megalith Builders」を意味するとされています。FORVOによるエジプト人の発音。参照:「Holocene Settlement of the Egyptian SaharaⅠ」p666、「Middle holocene environments of north and east africa, with special emphasis on the African Sahara」、「ナブタ・プラヤ図表集・第41図」。
注9*:「azimuth=方位角(単に方位ということがある)」は目標とする点が東西南北などのどの方位にあるかを厳密に表すために使われる角。天文学では南を 0 度として西,北,東とまわる向きで目標点までの角度を測って方位角とするが,測地学やその他の場合には,まわる向きは同じでも,北を 0 度として測る(「世界大百科事典」から)。地平線上の北点を起点(0度)として、北点から東回りに測るのがもっとも普通である。(北半球の場合)(「日本大百科全書」から)
注10*:この項に登場する埋葬品や骸骨については「Burial practices of the Final Neolithic pastoralists at Gebel Ramlah, Western Desert of Egypt」p.164~の写真を参照されると分かり易いのですが、ただし、このサイトのPDFは8.6MBなのでお気をお付け下さい。
注11*:考古学用語でこのように呼びます。例えば縄文時代の「再葬土器棺」を例にとると、「死者を一次埋葬(仮埋葬)し、一定期間が経過した後に取り出した遺骨を洗い清めてから、土器に収めて葬むる(二次埋葬)のを言う」ように。
 
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