M氏の部屋~ある一ファンからのメッセージ~
姫路交響楽団の創立当時から演奏会を聴きにお越しくださる熱心なファンの方がいらっしゃいます。その方(M氏)が2002年の第48回定期演奏会から演奏会をお聴きになった感想を私たちに寄せていただくようになりました。これはあくまでも個人の方の私見ですが、多くの方たちにも是非読んでいただきたく、ご本人の了解の元、ホームページ上で公開する事に致しました。
(古典シリーズ第10回演奏会)「運命」の力
ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を黒田洋指揮、姫路交響楽団の演奏で久しぶりに聴いた(古典シリーズ Vol.12 アクリエひめじ 中ホール)。
黒田氏はこれまで姫路交響楽団と「運命」を幾度か演奏しているが、今回は様相の異なる結果となった。オーケストラの演奏技術は言うまでもなく、音楽の芯に迫ろうとする意気込みが違った。
まず黒田氏は、尋常でない冒頭のモチーフは変にいじらないで、自分たちが作り出すことの出来る響きをもって、素直に心をこめて演奏しようと決断し、無心にタクトを下ろしたと思われる。押し出されたのは、何ともすご味のある音楽だった。誰もが唖然とする、言うなればたった四つの音で作り出した新鮮な音楽である。こうして始まった演奏は、冒頭の華々しさは消えても、オーケストラから緊張感の途切れることがない。明晰な表現で常に音楽の本質に迫る指揮者の視点が清々しい。その決然とした表現にはどこか開放感が漂い、この作品の品位の高さを失うことがない。金管と打楽器の一部に多少のそごは生じたが、響きの安定しない中ホールでの初演奏だったことを考慮すればご愛嬌だろう。
第二楽章はヴィオラとチェロによる穏やかな第一主題に一息つきたくなるが、表情がやさしい音楽であっても素直に受けとれないのがベートーヴェンの特性だ。演奏はつづく第二主題と交互に変奏を重ねることで厳粛、崇高な表情へと進化をとげ、黒田氏はこの楽章の造りが一様でないことを、最後に穏やかな演奏で示す。大らかで、哀切な思いもこもる音楽の特性を、具体的に語ることはかなわずとも、崇高さは崇高さとして、よく表現し得た演奏だった。
後半のスケルツォとアレグロは、作品の形態からその装いまで、新しいごとづくめである。さながらやりたい放題、言いたい放題の趣だ。しかしベートーヴェンが「運命」でやりたかったのは音楽の改革であろう。改変ならば根本は変わらない。改革なら変わる。ベートーヴェンはハイドン、モーツァルトなど、当時ウィーンの古い枠組みからドイツ音楽を解放して、綺麗ごとではなくエネルギーが炸裂する、新たなる交響曲を創造したのだ。「運命」はまことにそのような曲であり、黒田氏はコーダに向かって、共に生きる人たちをひたすら人間的に描き、古い闇からの人間復活を歌いあげた。
黒田氏は如何なる思いでこの曲を指揮したのかは兎も角、AIによる人間性喪失が危惧される昨今の世相を、あたかも引き裂くかのように、馬力のある激烈な演奏で訴えたのは、今を生きる人たちに、「運命」が背負う意味を改めて突きつけたと言うことである。一方、力そのものを象徴しているかのような交響曲第5番に、姫路交響楽団のパワフルな演奏は鮮烈な感動を呼んだ。このオーケストラに新しい時代の到来を予感させる名演だった。
当日はもう一曲、シューベルトの交響曲第7番「未完成」が、永井孝和氏の指揮により演奏された。私事ながら、これに触れる余裕が持てなかったことをお詫びしたい。
(2026年9月18日)
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