M氏の部屋~ある一ファンからのメッセージ~
姫路交響楽団の創立当時から演奏会を聴きにお越しくださる熱心なファンの方がいらっしゃいます。その方(M氏)が2002年の第48回定期演奏会から演奏会をお聴きになった感想を私たちに寄せていただくようになりました。これはあくまでも個人の方の私見ですが、多くの方たちにも是非読んでいただきたく、ご本人の了解の元、ホームページ上で公開する事に致しました。
(第95回定期演奏会)録音を楽しむ
体調不良のため第95回定期公演を聴けなかったのは残念だったけれど、演奏を収録したCDを黒田洋氏が早速届けてくれたのはうれしいことだった。気分なおしに聴きながら妙なことを思いついた。この録音から何か書けないものかと。曲目はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調とチャイコフスキーの交響曲第4番、それにベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」の3曲。
宮本貴太氏の指揮によるベルリオーズの序曲は目まぐるしく変わる祭りの風景をていねいに、熱い表現で印象づけて面白く聴かせてもらった。表情の起伏をきっちり捉えた清々しい音楽づくりが積極的であるのがよかった。宮本氏が指揮活動を続けていく過程で、こうした結果を積み重ねることは、演奏の是非よりも大事なことであるので、つねに若々しく貪欲に音楽に接してほしいものです。これは録音からの感想なので、生の感動を語れないのがつらい。もう一言、どうしても書きたいこともあったのに、無くてはならないその一言がどうしても出てこない、弱りました。
次に、メンデルスゾーンの協奏曲を聴くことは、私にとっては無条件に楽しいことに属します。黒田氏と姫路交響楽団の作り出す音楽はいかにも明瞭で清々しい。生きることの切なさと、逞しさをもって叙情となし、普遍的な世界を描きだしたと思われる作品を、この曲の心ここにありと言わんばかりの演奏で捉えたのはとてもよかった。しかし、ヴァイオリンのソロとの旋律の絡み合いが単調で、オーケストラの受けが今ひとつだった。ヴァイオリンが技術はしっかりしているのに、肝心の音の圧力が不足気味だったために、重要なパッセージでしばしばオーケストラと表情がかみ合わなかった。ソロの響きそのものが弱くて聴きづらい。ここは双方が主張をぶつけ合って、ヴァイオリンが自らの独自性をオーケストラに要求する粘り強さが求められる場です。思い切りよく、大胆に自己主張をしてほしかった。CDより聴くことが出来たのはそこまでで、これ以上書くことは無責任というものでしょう。
チャイコフスキーの交響曲は冒頭の金管楽器によるファンファーレが聴きものですが、強奏と言うよりも暴力的とも思えるその音量と圧力にびっくり。続く第一主題はこの曲の叙情的な哀感を弦楽器がデリケートに捉えて、金管の衝撃に驚いた向きには歓迎されたかも知れない。第二主題で木管楽器が細やかな感情を美しい響きで素直に表現していたのとは対照的です。一方で演奏が金管の圧力に溺れがちになったのは否めない。
第二楽章に入って、オーボエが第一主題をしっとりとした音色で思う存分センチメンタルに歌わせたのは聴きものだった。第三楽章の弦楽器によるピチカートの抑制された表現にも、そうした木管の醸しだす雰囲気に繋げようとする意図が見られたが、音楽づくりは一貫して変わらない。その結果として、いろいろな感情が混在してまとまりのつかないチャイコフスキーの音楽を、黒田氏は感傷に溺れることなく、何ともすっきり聴かせてくれたものである。派手に見えてデリケートな曲を、木管楽器の繊細な歌心を堅実に積み重ねることで金管楽器に対比させる音楽づくりは明快だった。
いざこうして感想を書いてみると、録音によって捉えられなかった音と感動がいかに多いものであるか痛感させられます。感動なくして感動は語れぬものです。
無くてはならない事柄をなおざりにしたわけではないが、無くても構わないことに意を用いすぎたようである。ご容赦あれ。
(2026年5月10日)
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姫路交響楽団