姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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目次

    

(第58回定期演奏会)フィルハーモニーの想い

私がこれまで聴いたボロディンの作品は、弦楽四重奏曲、交響詩、オペラと歌曲を含めても極めて少数にすぎません。考えられることの第一は、彼の残した作品が甚だ少ないということ、つぎに、作品がいずれも端正ながら迫力に欠ける印象があって、際立つ個性が乏しいと言うことにあります。これは私個人の問題で、世評が果たしてそうであるか否かは別です。事実は多分違っているのでありましょう。そう考えを改めた理由はひとつ、第58回定期演奏会で初めて聴いた「交響曲第2番」が、指揮者がタクトを振りおろした瞬間から、すさまじい力で音楽が迫ってきたからです。これは作品ばかりでなく、演奏そのものにも迫力があったことに他ならず、作品の魅力を奪いとるような指揮者の腕力は相当なものです。

アンサンブルに乱れはなく、出だしのテュッティは重厚そのもの、説得力ある響きを聴かせてくれました。弦と管のバランスがいくぶん管に片寄りがちなのはいつもの例で、これは改良しなければならぬ課題でしょう。もちろん第3楽章におけるホルンは美しい響きで弦ともうまくかみ合い、表情豊かな個性を創りあげておりました。管弦楽曲というものは、ホルンがうまくゆけば演奏が落ち着いて締まるものだと、つくづく考えさせられました。技術的には厄介でも、ホルンには堂々と吹き損なう権利があるんだという気概で臨めば、このようなのびやかで美しい音が出るのだろうと、これは独り言。最初の一振りから、見事に演奏にのせられてしまい、最後までかたずをのんで楽しむことと相なった立派な演奏でした。

リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」は、爛熟期を迎えたヨーロッパ音楽が持つむんむんとした香気につつまれた作品です。作曲者はシェエラザードの「王様、いかがでございますか」という語りかけをバイオリンのソロで表していて、その味わいは甘く、優雅で、仕かけは絶妙です。バイオリンはその期待にしっかり応え、艶っぽいソロを心地よく堪能させてくれました。時に、「王様、いかがですか」になったりしたのはご愛敬でしよう。一方、オーケストラに求められるのはとぎれることのない緊張感と、ビロードのようにつややかで、きめの細かい響きです。この作品の微妙な表情の移ろいを表現するためには、さまざまな音色を自在に出し入れすることが可能な楽器が必要となります。そのような楽器を持たない姫路交響楽団による「シェエラザード」は、しっかりしたアンサンブルの仕上がりであるにもかかわらず、当然の成りゆきとして、音色の変化や響きの多彩さをうまくとらえきれない演奏となったのは、返すがえす残念なことでありました。それから、いまひとつホルンの響きが冴えなかったので、作品の味わいがいくぶん平板になったのは否めません。しかし、緊張感が最後までとぎれなかったのは評価できるし、どのような名演奏にもやがて寿命の尽きる時がやってきて、見向きもされなくなるのが世の常であることを思えば、難曲に挑んではじき飛ばされたことなど忘れ、次に備えることが肝要でありましょう。いい当たりがヒットにならず、わずかにそれてファウルになった、そんな演奏だったのではないでしょうか。

アンコールは弦楽合奏によるレスピーギの「古代リュートのための舞曲とアリア」からの一曲でしたが、これもしっかりしたアンサンブルで品のよい演奏でした。弦の響きにむらがあって、のびが足りなかったのが惜しまれます。

創立以来33年。この楽団のアンサンブル能力は、関西で活躍するいくつかのオーケストラと比較しても遜色はなく、いまや相当な水準に達していると思われます。ただ、出てくる音の貧しさは如何ともし難く、これはひとえに楽器のせいで、それがどの程度のものかは他のオーケストラを聴けば明白です。

問題は高い技術のみならず、厚い響きや表情のある音色を出せるための方法にあります。ながねん、音色の使いわけが不自由な楽器を用いながらも、アマチュア特有の新鮮な感覚を失わず、感動を与え続けてくれる楽団に、さらに先へ進むためにもう少しよい楽器を持たせてあげたいと考えるのは無理な注文でしょうか。レベルの高い演奏をするには、音楽をしやすい環境が必要で、響きのよいホールばかりでなく、よい楽器を持つことが不可欠であると強調したい。

ここで一度、フィルハーモニーという言葉を思い出してみて下さい。ウィーンフィル、ベルリンフィルや大阪フィルハーモニーのそれです。フィルは何かを好む者の意ですから、フィルハーモニーとは文字通りハーモニーの愛好家を指します。しかも、ヨーロッパのオーケストラにはその地域のフィルハーモニーによって、育み支えられてきた歴史があります。我が町にオーケストラを持つことがどれほど大切であるかを理解し、そのための工夫を担ってきたのがフィルハーモニーなのです。従って、オーケストラとフィルハーモニーは常に同じ経験を共有し、相互理解を深めなければならず、そのためには演奏会を楽団員による内輪の盛りあがりや、一過性のイベントに終わらせてはならないのです。

そこで問いたい。今われわれはこの楽団をどう評価しているか、或いはしなければならないか。これは勿論評価の問題であるけれど、オーケストラにおいて最も大切なものが音色であることを考慮すれば、楽器の質的向上はさけられず、とりわけ弦楽器のいくつかは買い替えるべきであると申さねばなりません。まさにその通りなのですが、問題はお金でありますから、実現は簡単ではありません。現状維持でよしとするなら、それすら大変なことですから、それもやむを得ないでしょう。それとも、たとえ一台ずつでも替えてゆくか、選択はフィルハーモニーの知恵と熱意にかかっています。この町の文化の一翼を担う存在として、この楽団を曖昧な地位に置いたままにしてよいはずはありません。未来に向かって選択はひとつ、いずれを採るかによって楽団の目標は定まります。もし、なにごとも変わらなければ、とても残念なことだし、これまでの成果をふまえて、ここから先へ進もうとしないのなら、愚かで悲しいことに思えてなりません。

いつの日か、われわれは賢明に努力をしたのだと語れるようになりたいし、何かを犠牲にしてもよいと思うほど、オーケストラを育み成長させることは魅力ある社会貢献であると思いたい。これまで、地域のオーケストラとしての活動から、さまざまな恩恵を享受してきたわれわれには、この楽団の抱える問題を正視し、解決に向けて尽力する義務があるはずです。文化活動はお金がなければやれないし、ましてやきれいごとで済む話でもありません。音楽が本来もっている優しさ、力強さや尊さを損なわずにすくい取る行為を演奏とよぶならば、よい演奏をするためによい楽器は必須です。いまや、この楽団はそれらを必要とするだけの力を備えていると評価すべきであるし、財政的に支援されるべきであると考えています。今後、一人でも多くの市民が参加する、集金のためのシステムを作りあげることが急がれます。わが町にオーケストラを持てることを喜びつつ、活動を共有するのが節度あるフィルハーモニーの姿であると思えてなりません。(2007年11月29日)

(古典シリーズ第4回演奏会)嵐の中のモーツァルト

古典シリーズ4回目のプログラムはモーツァルトの「交響曲第40番」とベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番 皇帝」の2曲でしたが、わけあって姫路と赤穂の両会場で聴かせてもらいました。それにつけても姫路でのモーツァルトは風変わりでした。演奏は悪くないのに興趣がわかないのです。接近中の台風のなせる業だったに違いありません。

さて、赤穂でのモーツァルトはすっかり表情ゆたかになって、第1楽章の冒頭から爽快なテンポとリズムにのって音楽が躍動しておりました。響きはいくぶん重いように感じたのですが、これまでこのオーケストラからは聴けなかったモーツァルト音楽の軽やかさ、のびやかさを少々ながら味わうことが出来たのは望外でした。もう少し音量を抑えれば、よりしなやかさが増して音楽が強くなり、味のある表現になったことでしょう。

第2楽章はホルンがほどよく弦の響きにとけこんで、すっきりと切れ味のよい、いくぶん控え目ながら優美な音楽を聴かせてくれました。喜びと悲しみが絡みあうような二面性に安らぎを得る思いがするのもモーツァルトの音楽ですが、第3楽章はそんな表情が見えかくれして秀逸でした。ところが第4楽章では弦がのびず、全奏によるテュッティでは響きがただの固まりになってしまい表情がなくなったのはどうしたことでしょう。それで、この固まりをほぐし表情を取り戻すためには、過剰な響きを省いて風通しをよくし、音量を調整すればテンポの速いこの楽章で、つい見過ごされがちな簡素で美しい表情もとらえられるのではないかと考えました。響きを純化するためには余分な音を排除しなければなりません。何をどうすればよいか、言うは易しで、それは現場の奏者たちがいちばんよく判っていることです。今回のモーツァルトは指揮者が求めたほどの透明な響きが得られなかったにしろ、持てる力を存分に出しきって軽快に躍動してくれた演奏でした。実際はそれだけでも大変な成果であって、これまでのモーツァルト演奏にくらべて格段の進化を示してくれました。先のことはわからないけれど、誰が、どこで、何をどう演奏しようと変質しないのが音楽であると信じたいし、たとえそれがどのような演奏であろうとも、聴かずにすませるよりは聴く方を選びたいと考えています。未来に向かうとはそう言うことでありましょう。

おしまいに、ベートーヴェンの「皇帝」はピアノの音の美しさにおいて、姫路での演奏に心ひかれました。例えば第1楽章ではカデンツァをはじめ、ピアニッシモで弾かれるピアノのタッチが美しく、音がキラキラしてよくとおり、オーケストラのサポートが申し分なかったのでひきしまった演奏となりました。それ以外は会場、ソリスト及び気象条件が各々異なっていたので、印象が混交し整理がつきません。しかし心から楽しめた演奏会であったことをしるしておきます。(2007年7月20日)

(第57回定期演奏会)静かに語ろう

ここ数年、姫路交響楽団の定期演奏会を聴いてきて、耳慣れた音やくせのようなものが耳に残るようになりました。第57回定期はそんな耳に大変なご馳走を与えてくれる結果となり、自然によろこびがこみあげてきます。

まずワーグナーの「ジークフリート牧歌」は、芝居がかってつかみどころのないその音楽から贅肉と虚飾がそぎおとされて、ワーグナーの素顔を見せてくれたような演奏でした。小編成ながら管、弦ともに音量、響きと重なりは申し分なく、美しく端正で風格すらただよわせ、まるで化粧気がありません。このように無駄のない緊張感の漲る演奏は稀にしか聴けなくて、音楽への高い志がなければ望み得ないものでありましょう。

ついでサン=サーンスを2曲。「バイオリン協奏曲第3番」はひたすら退屈でしたが、「交響曲第3番オルガン付」は第1楽章のはじめの数小節で弦が少し乱れたのを除けば、豊麗な響きと優しい音色を終始聴かせてくれました。サン=サーンスの知的な様式美をしっかりつかみ、メリハリのきいた格調の高い表現に聴衆は圧倒されたことでしょう。第2楽章における力強い主題は、弦が充分に鳴ってくれたので厚みを生じたのは何よりの収穫。その歌わせ方も自在となり、それでこそ演奏の柄も大きくなるというものです。最も危惧したオルガンとの調和も驚くほどうまくゆき、何より表現の大仰でないのが印象に残っています。

演奏会に足を運ぶ者のほとんどは、音楽を習熟するための訓練を受けていません。それはながい時間と忍耐、大変な努力を要するものであってみれば、一般人には不可能なことであります。そのような聴衆が音楽に接する自己のスタイルを確立すると言ったところで空論にすぎません。聴衆は常に演奏家から与えられるだけの存在であり、音楽を理解しょうとするよりは、演奏家に対する興味が主な関心事になっています。これは聴衆の個人的な問題ではありますが、演奏家と聴衆とのこうした関係は決して幸せとは言えないでしょう。

演奏家の側にも問題はあります。例えばロシア人はチャイコフスキーの管弦楽曲を大伽藍のように表現し、アメリカ人は音楽を美しくたっぷりした音量で演奏しなければならないと思いこんでいるふしがあります。このような演奏を聴かされ続けると、自分の聴き方はどこかで間違っていたのではないかとわが耳を疑うようになります。ロシア音楽における表現の過剰さ、仰々しいアメリカ人の甘さに、いったいこれでよいのだろうかと不安にかられるのは私だけではありますまい。演奏家へのそんな不安や不信感のいくぶんかを払拭してくれたのが今回の演奏会でした。静かな語り口で真摯に音楽を語ってくれたので、よけいなことを考えずに聴く喜びにひたることが出来て、自分は勘違いなどしていないのだと意を強くした次第です。(2007年4月25日)

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