姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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目次

    

(第54回定期演奏会)断片の魅力

第54回定期演奏会のプログラムを見て驚いたのは私ばかりではないでしょう。普段聴く機会のないラフマニノフの「交響曲第2番」を姫路交響楽団が聴かせてくれると言うのですから、これは演奏会と呼ぶよりもひとつの事件でありました。そうして彼らは名演奏を聴かせてくれたのです。

ラフマニノフの作品には小さなメロディーが頻繁に表れて作品形成の核を成していますが、「交響曲第2番」もひとつのメロディーが登場する度に音楽の方向付けが新たになるように仕くまれています。彼の作るメロディーはシューベルトを代表とするロマン派以来の美しく、しなやかで歌いやすいメロディーとは異なり、新しい概念によって創造されたメロディーにあらざるメロディーと申すべきもので、断片として扱われています。

彼はそのような断片としてのメロディーを用いて何を表現しようとしたのでしょうか。

この作品でまず気がつくのは、たえず微妙に変化するメロディーがメランコリーを漂わせつつ四方へ広がってゆくさまです。上昇して重層的になることはありません。さながら建築物の建て増しのように平面上を拡張してゆくのです。そこに表れてくるのは平面的な音楽であって、ドイツ流のポリフォニックな世界ではありません。それがラフマニノフの居場所であり、やりたかったことではないでしょうか。

私はこの作品をピアノ不在の全4楽章による「ピアノ協奏曲」と見たてて聴くことがあります。受け身で聞き流すのではなく、どうしてもピアノの音がほしいところではピアノの音をつけ加えるのです。このような聴き方は緊張を強いられますが、聞こえてくる音楽の性格が随分変わって、何よりも魅力が増します。静かな語り口でめりはりが乏しくとらえようのない厄介な音楽であるのは事実です。ではその魅力とは何でしょう。断片の美しさ、優しさです。途方もないその美しさは小さなメロディーの意味と断片の意義を理解しない者には聴こえてこないでしょう。それが幸運なことに指揮者はそれらをよく理解した上で、断片だらけのメロディーの魅力を損なうことなくていねいにときほぐし、わかりやすく聴かせてくれたのです。ほぼ破綻のない響きと音色、適切な音量で応じたオーケストラによる熱演によって至福のひとときを過ごさせてもらいました。

昔は何者であるかが問われました。自分が何者であるかをわかっているから、こうだという演奏を聴かせてくれたものです。今は何が出来るかが重視されます。しかし、如何に完璧に演奏しようとも、自分が何者であるかを考えたこともない演奏家にどのような期待をすればよいのでしょう。楽譜を音に移しかえるだけでは音楽になりません。如何に演奏するかよりも楽譜から何をつかみだすかが重要です。欲する音を自在に紡ぎだすのが困難であっても、自分たちが何者であり何をやりたいかを自覚していたからこそあのような演奏が出来たに違いありません。感謝。(2005年11月30日)

(第53回定期演奏会)ブラームスを聴こう

第53回定期演奏会でブラームスの「交響曲第4番」を聴いたので、この作品に即して、彼について述べます。

対象への評価は時と共に姿を変えますが、ブラームスを例にとりますと、新しい解釈による演奏を聴かされる度にある面は強調され他は消え去ります。そうして徐々に取捨し貯えられた情報や経験は、やがて自分の中でブラームス像に昇華してゆきます。彼の音楽は表面上の古風さから回顧的、保守的或いは新古典主義者などと評されていますが、無意味な言葉であると断じておきます。

「交響曲第4番」は人生の黄昏を迎えた者が二度と戻ることが出来ない伝説となった自身の生涯、共に生きた音楽界の雰囲気と19世紀という時代をメランコリーと激しさでもっていたわるように醸しだした作品です。これはそうしたものへの惜別の情であり、まことに個人的な内容でありながら、様々な終焉のイメージを与えてくれます。

この作品の魅力のひとつに終楽章のシャコンヌ(パッサカリア)の形式による30の変奏曲とそれに続くコーダがあります。音色、リズムと和声による濃淡と変化の限りをつくした驚異的なオーケストレイションによる斬新な変奏曲が、なだれをうってコーダに突入するさまは壮観です。それまで形式上のつけ足しのような存在であったコーダに、ブラームスは新しく意味を与え魅力ある姿に進化させています。コーダを聴かせたいが為に30の変奏曲を作曲したかのようです。こうした新しさが魅力で彼の一貫した普遍性を見ることが出来ます。より重要なのは20世紀に徹底して追求されることになる自我という命題の萌芽が見られることでありましょう。

「交響曲第4番」は堅固なその構造から誰もが重厚な表現を求めがちです。当日の演奏もそうしたものでした。指揮者は奇をてらうこともなくリズムをきざみ音量を調整し作品と対峙します。昂揚する躍動感の中でブラームス特有のサウンドに堪能された観客は多かったことでしょう。期待に違わぬ熱演でしたが、音が重く響きも硬かったせいで音楽が表情の乏しいものになったのは否めません。重厚な作品であればこそ、やわらかく軽みのある音で演奏するのが常道でありましょう。うすぬりで描いて存在感ある油彩画のように、軽くやわらかな音であっても、アンサンブルが確かなら重厚な響きになるはずです。

当日演奏されたメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」も同様にオーケストラの音が重く、独奏ヴァイオリンの美しく軽やかな音色とはずれを感じました。ところがアンコールで聴いたブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」は出色のできで、これには驚きました。なぜそのような結果になったのかを楽団員に考えてもらいたいし、オーケストラが指揮者の要求に応えられるレベルに達したと思われる今、さらなる合奏能力の向上を望まずにはおられません。(2005年4月26日)

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