目次
(第72回定期演奏会)観音のそぞろ歩き
姫路交響楽団創立40周年記念となる、第72回定期演奏会でベートーヴェンの「交響曲第9番 合唱付」とワーグナーを1曲聴いた。
10年ぶりに演奏された第9は、黒田氏と楽団員が共に作品への熱い思いを示して、圧倒的な感動を呼んだ。演奏は指揮者に作品への具体的な思いがなければ、聴衆へは漠然とした結果しか伝わりません。作品には作曲家の思いがたぎっています。それを判りやすく提示するプロセスが明瞭でないと、説得力のある感動は生まれないでしょう。作品からたえず新しい価値や疑問を発見するのはとても大事なことですが、作品の捉え方がゆるいと大きな感動は生まれないし、情熱がすぎると演奏家の情緒が一人歩きを始めます。しかし、黒田氏は創作のプロセスを手際よく提示して、バランス感覚のよい響きで、成熟したオーケストラのあり方のひとつを示したのです。
第1楽章冒頭の混沌から第1主題の登場まで、響きとハーモニーの繊細さに力強さが加わってゆくプロセスは気力充実、具体的な表現で、この作品の特質を解きほぐして暗示するに十分でした。不穏で、ぞくぞくするような不安な状況を爽やかで、重厚なサウンドで表現したのは、新たな創造であったと評価したい。オーケストラも、長年染みついた音のヤニッポさを払拭し、ようやく新しいサウンドを手の内にして、最後まで繊細で力強い表現に徹して見事でした。
第2楽章の雄大なスケルツォを、管と弦がバランスのよい響きですっきり余韻のあるリズムで刻み、気持ちよく疾走できたのは、黒田氏の指示が自ずと落ち着いて出しゃばらず、楽団員の自主性に任せたからでしょう。深刻な内容の楽章ではないので、くつろいで良い気分にさせてもらいました。ただ、ティンパニーが同じ音を繰り返すフレーズで、打ち出す音に表情が感じられず、オーケストラとのバランスが崩れたのは疑問として残った。ベートーヴェンは、いずれの作品でもティンパニーに豊かな表情を持たせているので、一考を望みたい。
第3楽章は動きが単調で、気が遠くなるような安らぎに充ちています。優雅で美しく、それでいて緊張感が張りつめている。このような扱い難い曲を聴かせるには、大変な力業を要します。演奏はこの楽章にもうひとつ、精神の力強さが加わったようです。それを成し得たのは、楽団員が氏と共に毎回聴かぬ表情を求め、完成直前まで迷いに迷って追求し続けた執念があればこそでしょう。
無機質なホールに澄んだ音が注がれ、安らぎの世界が生まれると、おもむろに観世音菩薩が現れて、そぞろ歩きを始めます。聴衆は見えぬ観音に寄り添いながら、楽園の散歩を心ゆくまで楽しんだ、そんな味わいの深い演奏でありました。
さて、終楽章の難しさは、言葉と音楽をどのように一体化させるかにあります。それから、フーガとポリフォニー音楽の技法が一部に採り入れられており、音楽に厚みと魅力を加えています。
まず、曲の初めでコントラバスとチエロが歓喜の歌を奏でたあと、ヴァイオリンとヴィオラがこれを受け繰り返し始めると、すぐにファゴットが加わって、全く異なるメロディーを重ねてゆきます。これは明らかにポリフォニーの技法によるものですから、歓喜の歌と対等なバランスを保たねばなりません。ファゴットは過不足のないバランスを保って、短いながらまことに美しくポリフォニー音楽を奏でたのです。また、激しいリズムと動きで圧倒する中間部のフーガを、激しさだけでなく、爽やかさを伴った音楽として、琴線に触れるほど気迫のある表現で聴かせたのは見事でした。
黒田氏が合唱をサポートする手法は極めてオーソドックスで、合唱の響かせるハーモニーを気負わずに、オーケストラにのせてゆきます。本来言葉はリズム、響きと固有のイントネーションで成り立っています。シラーの言葉を合唱で歌うのにも、これら三つの要素は必要です。しかし大方の合唱団はリズムと響きは重視しますが、発声の抑揚については付帯の音楽に従わせ、発声を厳格に守る合唱団は少ないようです。当日の合唱もこのようにリズムと響きに重きを置いたもので、氏は合唱団に格別な要求はせず、自由に歌わせたのでしょう。首尾は上々で、合唱団は十分期待に応え、オーケストラと無理のない一体感を示しきれいに歌い上げました。
独唱はバリトンが記憶に残っています。「おお、友よ」と歌う最初の一声は朗々と響き、張りと艶のある声で演奏に強いインパクトを与え、以後の合唱に影響を与えたに違いありません。
今回の第9は全体にバランスがよく端正ながら、意志の強さを感じさせる演奏でした。
もう一曲、ワーグナーの楽劇「ニュールンベルグのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲は、ベートーヴェンの第9の為に演奏されたウォーミングアップであったと理解しています。(2014年12月5日)
(古典シリーズ第7回演奏会)座りのよい音楽
姫路交響楽団による古典シリーズ第7回目のコンサートを聴いた。曲目のひとつ、モーツアルトの「ピアノ協奏曲第21番」は当日随一の仕上がりで、ピアノとオケが互いの中に踏み込んで一体感を示し、爽やかで誇り高いドラマを響かせた。
日常の生活をそのまま音に移し換えたようなモーツァルトの音楽には、矜持が背後に控えています。それをうまく捉えられないと、彼の音楽は平凡で楽しいだけのものになってしまうでしょう。彼が創りあげたのは、あらゆる種類の感情がぎっちり詰まった極彩色の音楽でありますから、演奏はより精緻で豊かな感情表現が求められます。この作品で聴くモーツァルトの木管は多彩です。優雅にきらめくフルート、オーボエの陰のある輝きやユーモラスなクラリネット、とぼけた味わいのファゴットまでを自在に使い分けて微妙に音楽の表情を転換させています。
黒田氏はピアノとオケの対話の中から曲に添ったテンポを指示し、これまでになく透明感のある弦のハーモニーに木管の響きをのせて、モーツァルトのおもいを明確に捉え、さまざまな感情を丁寧にすくい取って、心に染み入るような盛り上がりを演出し見事でした。ピアノとオケが氏の指示をよく守り、いずれが主でもない対等の対話をなし得たことは、とても現代的な感覚であったし、オーケストラの音色、響きが伸びやかで、繰り返しの度に、次はどんな魅力を取り出して聴かせてくれるか、そんな違いの楽しみ方を与えてくれた演奏に感謝したい。ピアノもバランスのよいフィーリングとしなやかなタッチで清冽な印象を残してくれました。オケのテンポとハーモニーが明瞭で、実に座りのよいモーツァルトになった。
もうひとつのメーンであるベートーヴェンの「交響曲第8番」は、表情が捉え難く、聴く機会も少ない曲ですが、黒田氏は迫力ある音楽に仕上げました。第1楽章の冒頭から弦の響きは朗々且つ重厚、管もなめらかで、木管のソロには華があり、氏はこうした響きを軽快なリズムで刻みます。そうして個々のフレーズを指揮棒で縫いとるように紡ぎ、音楽の流れに緩急をつけ、表情づけをします。凄まじい熱気や魅力のあるメロディーもなく、あきれるほど単調に聴こえるこの曲から、姫路交響楽団は思いもよらぬ堂々たる骨格の音楽を浮かび上がらせたのです。抜群の集中力で掴みとった第8番の新たなる魅力であります。
ところで気になったことがひとつ。全楽章を通してトゥッティでの強奏が暴力的なまでに凄まじく、弱奏では雄弁さが稀薄だったせいか、表情のバランスが崩れて、いくぶん繊細さの乏しい表現になったのは遺憾でした。
この曲は皮肉っぽい、とぼけた遊び心が曲の随所で顔をみせる、ベートーヴェンには珍しく粋な音楽です。終楽章でのティムパニーのとぼけた扱い、或いは展開部において主題が存分に展開されぬまま打ち切られる様子に、反って作者の遊び心と心の余裕を感じてしまう妙な感覚。そう考えると、この曲はベートーヴェンのとするよりも、ウィーンの文化が生みだした音楽であると受けとる方が自然に思えてきます。いい味を出したティムパニーの演奏を楽しみながら、一人夢に遊びました。
さて、初めに演奏された若い指揮者によるベートーヴェンの歌劇「コリオラン」序曲は、冒頭の強烈なトゥッティに全くハーモニーが聴きとれず、むやみに大きな音のかたまりが並んだだけでありました。演奏は音色、響きやハーモニーを置き去りにしたような粗雑さがむき出しで、今後指揮者を目指すのであれば、そもそも演奏は一人ではやれないし、音楽はデリケートな音の香水なのですから、より真摯に音楽や人と向きあってほしいものです。
アンコールはモーツァルトの「弦楽の為のディヴェルティメント K.136」より第2楽章。若い奏者が育って、いずれこの曲にも、座りのいい場が与えられることでしょう。気の長い話、しかしそれを越えなければなし得ない世界、まるで音楽との格闘です。(2014年7月18日)
(第71回定期演奏会)音色を楽しむ
すばらしい演奏に出会うことはよくありますが、そうあってほしいと願う演奏はごく稀です。第71回定期演奏会で、そんな演奏に接する機会に恵まれました。
まずワーグナーの歌劇「タンホイザー」序曲。この作品は作曲家の想いの表し方は大袈裟ですが、よどみのない語り口と、めりはりの利いた金管の響きが魅力の中心となっています。黒田氏の指揮はたえず作品のドラマ性を意識させるものでしたが、姫路交響楽団の反応は手馴れたもので、管も華麗で重厚な響きで応じ、強奏になっても美しい響きとアンサンブルを保ち、レベルの高さを示しました。オーケストラが豪快に歌いあげた熟し柿のような旋律に、ドラマ性を感じたのは、まことに欣快。
つぎに、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」は、独奏ヴァイオリンが明るく朗々と輝く音色で聴衆を引きつけ、存分に楽しませてくれたのは言うに及ばず、繊細で正確、力強さと、いくぶん乾いた独特の現代的な表現で、ソリストの強い個性を感じさせました。
黒田氏は、曲の優美でメランコリックな雰囲気には頓着せず、感傷に陥らず、ヴァイオリンとオーケストラとの対話を促し、バランスのよい活力ある音楽を導き出した。こうした現代的な匂いを譜面から嗅ぎ出す氏のセンスは、ソリストの個性ともども特筆すべきだろう。耳に心地よい優雅さや抒情性だけが、この作品の魅力ではないことをオーケストラが披露することが出来たのは、優雅な表現は全うし得なくても、既成の美意識にとらわれない表現で、指揮者の要求に応えられるまでに力を蓄えた証しとして喜びたい。すぐれたソリストとの共演による刺激が、オーケストラを奮い立たせ、単なるサポートにとどまらぬ自己主張をもたらせたのでしょう。両者の対話は均等し、力強い音楽になりました。
ほかにもう一曲、ブラームスの「交響曲第2番」は、累々層々として、威ありて猛からず、情趣のこもった音を積み重ねたような、ブラームスの四つの交響曲にあって、牧歌的な想いの凝縮された音楽です。
彼は晩年、クラリネットを用いた編成の異なる三種類の室内楽曲を手がけていますが、いずれの作品にもクラリネットの音色を味わい尽くそうとする、徹底した嗜好癖が顕著です。そんな嗜好は交響曲第2番でも同じで、さり気なく木管の響きに趣向を凝らして、表情豊かな和声感覚を生みだし、音楽の特性を示します。黒田氏の指揮は一本の木管、一台の弦、一対のティンパニーの音ひとつにも、固有の意味があるのではと感じとれるほど神経の行き届いたものでした。フルートやオーボエ、クラリネットのソロが弦楽器と奏でるハーモニーは上品で、きめの細かい風情を醸しだし、ブラームスの想いをオーケストラに乗せて運んで行きます。そしてひとつひとつのフレーズが、炙りだすように音楽の輪郭を織り成す様は、弛みのない緊張感を伴って見事でした。そこからたとえようもない寛ぎ感が匂ってきたのは、自然な成り行きと申すべきでしょう。
第1楽章の前半で、金管の響きに少し斑が生じましたが、演奏は出色の出来で、殊に第3楽章冒頭の旋律を奏でるオーボエは、チェロのピチカートに乗って品のよい牧歌を聴かせ、ブラームス特有の懐の深い旋律の美しさにあらためて想いが至りました。このような演奏を導きだしたのは、常にほどよい響きで木管を支えた弦の、ゆるぎのないパワフルな表現力があればこそで、拍手を贈りたい。
アンコールも同じブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。この曲を聴く度に、ブラームスの楽器固有の音色を楽しむ、楽しみ方のフィーリングのよさに敬服させられますが、音色への好みと信頼、それに慎みが彼の心情なのでしょう。消えやらぬ余韻のなかで、違和感もなく、もう一つのブラームスを楽しませてもらった。(2014年4月25日)