姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

お問い合わせ、感想その他はhime.orche@gmail.comまで

目次

    

(第48回定期演奏会)姫路交響楽団への楽しい接し方

昨年秋10年ぶりに定期演奏会へ行き、シューベルトの未完成とショスタコーヴィッチの交響曲第5番を聴いてこみ上げてくるものがありました。

このオーケストラがさまざまな課題を着実に克服しつつあることを実感させてくれる演奏会であったからです。音に芯が出来て強い音が出せるようになったのは大いなる成長であるし、シューベルトとショスタコーヴィッチの資質の違いを表現し得たことは驚きであり喜びでさえありました。オーケストラの収穫の一つでありましょう。

演奏会前の9月に一度練習を聴かせてもらいましたが、物作りの過程は完成品より多くのことを語ってくれるものです。ショスタコーヴィッチの第5の一音一音の重みや意味はリハーサルを繰り返すにつれ吟味され表現の可能性が絞られてゆくのですが、その都度出される指揮者の指示、要求への団員達の反応の速さに感心しました。これらは彼らに音楽がしっかりわかっていることの証で、楽器の一つもさわれない私のような凡夫の及ぶところではありません。

私は練習を聴くのが好きです。その利点の一つはある小節を弦のパートだけで演奏したり、同じ小節を管のパートだけで演奏したりするのを聴かせてもらえるからです。それを聴くと音色、響き、ハーモニー、リズムや音の強弱まで、およそ音の性格や必然性について作曲家が何を表現したいのか瞬時にわかるような錯覚にとらわれるからです。至福の瞬間です。錯覚は無理解、誤解と同じではありません。理解を超えた理解である場合もあり得るからです。様々な試行錯誤と実験と冒険が練習会場に鳴り響いております。しかし残念ながらこうした精進が聴衆によって正当に評価されているとはとても思えません。あまりにも練習の成果が技術面でのみ批判されることが多いからです。

近頃の演奏家には指が良く動いて技術は完璧なのですが内容の乏しい演奏が多く見られます。例えばショパンコンクール優勝者ブーニンのピアノは純粋で美しい音なのですが、蒸留水のように無味無臭で肝腎なミネラル分が不足しております。それが如何に大事であるかは演奏家の理解の程度によります。完璧な技術を売り物にするのはそれを歓迎する向きが存在するからで、当然それが表現の全てではあり得ないし受ける側にも問題があるでしょう。そうした演奏を良しとせず排除すれば、例え形は美しくなくてもミネラル分の豊富な演奏に接したり、あるいは見つけたりすることが可能でしょう。私の聴いた昨年秋の定期はそうした演奏会でありました。

姫路交響楽団は着実に成長しつつあり、自信を持って精進を重ねていただきたいものであります。(2002年11月)

上に戻る