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(第52回定期演奏会)虚無的な響き
ベートーヴェンの音楽は現代の聴衆にとってどういう意味を持つのでしょうか。彼がハイドン、モーツァルトの影響を代表し、古典派を完成させてロマン派の扉を開いたというのは俗説にすぎません。第52回定期演奏会で彼の第9交響曲を聴いてそんなことを考えました。
彼の音楽には多くの面があり、人間のあらゆる感情や思考が余すところなく示されていて、それについて考えることは少なくありません。殊に第9交響曲以降の作品が踏み込んだ領域は抽象そのもので、音楽のわくを超えております。それらの作品はどれも聴く度に、あの目も眩むような崇高さは何だったのだろうと考えさせられてしまう、そんな音楽です。とてもロマン派の作曲家達が引き継げるようなレベルではありません。彼のそうした感情や主義主張は自ら信じる価値を貫こうとする意志の力、それをもって行う社会への異議申し立てであったのに違いなく、当時の封建社会にあっては勇気ある選択です。選択するとはリスクを負うことでありますから、人間の尊厳をうたいあげるのも楽ではありません。
第9交響曲の第1楽章の底辺を流れる弦によるトレモロの虚無的な響きは、やがてそこに至る歓びへの序奏なのであり、終楽章の合唱という結果と切り離せないものとなっています。そこに現代に通用する鋭さと普遍性を伴った人間観が見られます。とりわけ作曲者の意図やオーケストラと合唱の力関係についての認識は重要で、ここではそれがポリフォニー音楽の技法と精神にならったものであることを指摘するにとどめます。
演奏会の感想を個人がどう記憶し、しるすかはある面では他人と共通し、他は異なります。一人の愛好家として私が第9について知っているのはLPやCD或いは放送によります。生演奏を聴いたのは今回が初めてでした。しかし、そこから得られる情報量は記録された過去の幾多の名演をしのいで圧倒的です。音楽が生み出される現場に立ち会ったために生じた現象でありましょう。その演奏はいつになくビオラが充実し、第2、第3と終楽章の性格付けがきっちりなされていて立派でした。指揮者の指導と主張を多としたい。このオーケストラによるこれまでで最良の演奏と申してよく、よい経験をさせてもらいました。ただひとつ、第1楽章開始早々の弱奏によるトレモロが明瞭に表現しきれていなかったのは残念でした。第1楽章の性格付けに、ここはニ短調としての虚ろなトレモロの響きが必要です。それから、合唱はドイツ語の発音が不明瞭だったせいで表現力が弱くなり、オーケストラと対等にはなり得ませんでした。次回に期待したいものです。(2004年11月28日)
(第51回定期演奏会)温故知新
第51回定期演奏会で聴いたベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の演奏には心からの共感をおぼえました。
彼の交響曲は後期の弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタほど完成度の高いものではありませんが、面白さは無類です。また交響曲の第2楽章(第9番は第3楽章)を彼ほど美しく優しく崇高にうたいあげた作曲家はいません。緩徐楽章では構えて演説をぶつ必要がないので、つい本音がでるせいでありましょう。そう考えて第2楽章を味わいますと、ベートーヴェンという作曲家が思いもかけず身近になっていて、かけがえのない存在であることに気づかされます。
当日の演奏は誇張のない語り口で音楽作りがなされていて、重量感や構築性とは無縁な、普通に人々がもっている生きるよろこびを、この作品がもつしなやかな音の流れにそって示してくれたものでした。弦の響きは柔軟で過不足なく、管への溶けこみ方も自然であり、第2楽章ではとりわけ弦が美しく、作品の優しさを堪能させてくれました。人は皆同じ音楽を聴いても、同じ思いを抱く訳ではありません。聴き方の問題ではなく、それぞれが実は異なる音楽を聴いているからなのです。誰もが同じ思いを抱いてしまうような個性的な演奏は不要です。楽譜にしるされた音楽をごく当たり前に演奏するのは平凡なようですが、そのような演奏であればこそ、生み出されるものは無限です。平凡であることの大切さ、尊さを身をもって示してくれた演奏でした。どうしてこのような演奏が騒々しい時代を生きるわれわれに支持されないわけがあるでしょうか。
ひとつ忘れてならないのは、ベートーヴェンの作曲技法と様式は必ずしも革新的ではなく、一部が中世のポリフォニー音楽に負っている点です。そのよい例は彼が得意とした弦楽四重奏曲です。これは4声部によるポリフォニー音楽(その流れは現在の4部合唱に受けつがれています。)の技法をそのまま弦楽四重奏曲に移したものと申してよく、独立したパート譜をもつ4台の弦楽器が一緒にうたう音楽で、ポリフォニーの技法と共通します。
私は寡聞にして、彼が過去の音楽にどれほど通じていたのかを知りません。しかし、バッハ以降彼ほどフーガを理解し愛用した作曲家はいません。さまざまなところで彼はフーガを用いています。ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィア」や第9交響曲「合唱」の終楽章におかれたフーガはその例です。弦楽四重奏曲作品133の「大フーガ」を思い出す方は多いことでしょう。彼は変奏曲の名手でもあって、これもまた古い時代の形式のひとつです。そもそも、彼ほど古い時代の形式を愛用した作曲家がいたでしょうか。古い器に盛った新しい音楽、それが彼の世界です。(2004年4月29日)