目次
(第56回定期演奏会)素人の言い分
ショスタコーヴィチの喜歌劇「モスクワ・チェリョムーシキ」というききなれぬ作品の組曲から4曲の抜粋を第56回定期演奏会で聴いた。多彩な音と響きを全編にぶちまけたような作品で、短いメロディーと音がごった煮しているような印象を与えますが、音楽の語り口が巧みで聴きごたえがあります。オリジナルを聴けばまた別な姿を見せてくれるのでありましょう。なにより、ロシアにもひっくり返すようなおもちゃ箱があったのが驚きです。これほど賑やかで楽しいロシア音楽を聴くのは初めてでした。
例によって(失礼)、弦楽器のアンサンブルに乱れがあり、個々の管楽器にも響きにむらはありましたが、演奏はリズム、響き、音色とも生気にあふれ、この作品の本質をついているのではないかと思わせるほど魅力的でした。短いメロディーをうまくすくいあげて扱う技量がこのオーケストラには備わっているように思えます。
もう一曲、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」はおおむねうまく表現できたと思うのですが、第2楽章はいただけません。主部の安らぎにみちた、流れるように奏でられるワルツのようなメロディーの扱いに、詩的情趣が欠けているのです。同じことがアンコールの「アンダンテ・カンタービレ」にも言えます。このような音楽を表現することの難しさを克服しなければならない辛い時期をこのオーケストラは迎えているように思えてなりません。
世間には2種類の演奏家がいます。生活のために収入を得る者と楽しみのために時間と労力を費やす者です。従ってアマチュアの演奏にプロの論理をおしつけて審判を下すのは理に反します。人はプロの演奏については感動を口にしながら、アマチュアの演奏は未熟であるからと正当な音楽活動の枠外におこうとします。こうした偏見の根拠は「素人の分際で」という一言に集約されるでしょう。
一方で、音楽家は音楽について権威をもって語ることができるのは音楽家だけだと主張したがります。音楽家だけが楽器の用法や音楽の技法を論ずることができると言うのであれば、異論はありません。しかし技法のみが音楽のすべてではないし、これでは音楽家だけが音楽を語り鑑賞できると言うのと同じで、これをもって愛好家を断ずるのであれば、世はすべて「素人の分際」であふれることでありましょう。
演奏会は一期一会です。そこでの演奏は瞬時に消え去り記憶となりますが、演奏中かわされたであろう聴衆と演奏家との無言の会話は現実の出来事です。会話の内容に個人差はあっても、そのことにプロもアマもないはずです。両者を超えた評価の普遍性が必要でしょう。角ばらず優雅に音楽を楽しむために。(2006年12月9日)
(第55回定期演奏会)名曲ばなれのススメ
人はおいしいものを食べると機嫌がよくなります。第55回定期演奏会の出来映えがそれで、満席の聴衆も堪能されたことでしょう。今回のプログラムはバランスがよくて、アンコールで演奏されたシベリウスの「トゥオネラの白鳥」まで熱演でした。それらの中からドボルザークの交響曲第9番「新世界より」について理解できる範囲で述べてみます。
まず、どの楽章も出だしの音が合わなかったのは今後の課題で、トゥッティによる強奏では必要以上に音を出しすぎ、全体が破鐘のように響いて旋律線を飲み込んで聴えなくしたのはやりすぎです。第3楽章の弦の合奏による弱奏の部分が繰り返しを含め音が不揃いで、響きが濁ってしまったのは、楽章の要であるだけに惜しいことでありました。
ところで、この作品が描写音楽の傑作であることをご存知でしょうか。第2楽章でイングリッシュホルンが奏でる旋律は黒人霊歌の借用と言われてきましたが、今では信じる人はいないでしょう。第3楽章の急速な舞曲風のリズムは、原住民のインディアンが輪になってたき火のまわりで踊るさまを表したものです。他の楽章も然りで、各々が新世界の一面を描写したものである、と以上を私が断言すれば恐らく、世間のひんしゅくを買うことでありましょう。無論、そのことを作曲者が明言しているのであれば話が違ってきます。表明したのか否か、興味のある話ではありませんか。
人は音楽に何を求めるのでしょうか。既に評価の定まった作品には広く共有された安心感と愛着があるだろうし、それがどのような演奏であってもそこに意識化された既存の楽しみがある限り、それに浸りたいと願うのは普通のことでありましょう。そのような願望が社会生活で味わうさまざまな重圧感との葛藤から生みだされたものだとすれば、そこから生ずる楽しみの感情は一般的なものとならざるを得ません。この感情は個人、組織、階級や地域を問わず世界中で共有され、ひとつの概念として形成されています。圧倒的多数の人たちが至高の存在と崇めるアマデウス教はそのよい例です。教祖はモーツァルトで本部はザルツブルグにあります。支部は全世界にまたがり、知識人たちが牛耳っています。これを大勢順応主義と見るのは誤りで、強大な教団と認識すべきでありましょう。
何を聴くかは個人に選択権があります。聴きたい音楽を聴いて悪いはずはありません。しかし、その音楽が限られた地域や作曲家の作品に限定されると音楽鑑賞は歪んだものとなります。多種多様の音楽を聴くことによって固有の歓びを見いだしてゆくことは可能でも、音楽を好みで聴くのであればこうした状態におちいらないための解決法はありません。人がどうしても聴かなければならぬ音楽のあることを忘れ、耳障りのよい音楽ばかりを好むからと言って聴くなという権利は誰にもないのです。世の演奏家たちにも考えてほしい問題です。(2006年4月26日)