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(第68回定期演奏会)評論家気取り
音楽を理解することは適わなくても、楽しむ術なら心得ているとばかり、ここ数年充実したサウンドで心に残る演奏を続けている姫路交響楽団の第68回定期演奏会を聴いた。
まず、ブラームスの「大学祝典序曲」は、後半の総奏で音が強く鳴りすぎてバランスを崩し、音楽の表情が平板になってしまったのは残念。元気に鳴らすのはよいが、過ぎると祝典気分も失せてしまいます。音の強弱やリズムにもっとメリハリのある扱いが必要でしょう。指揮者に音量を抑制し、響きをコントロールする余裕があれば、もう少し伸びやかな演奏になったのでしょうが、はつらつと棒を振って多少表情が崩れても、若者らしく熱のこもった音楽をつくることには意義があります。まだ、オーケストラとのコミュニケーション不足が感じられる演奏でしたが、ブラームスに思いのたけをぶちまけたことは、何よりの経験です。
2曲目はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」。ウィーン的でありながら、ハンガリー風の味わいを合わせ持ち、ディヴェルティメントに近く、作品の美学は室内楽のものでしょう。管弦楽はピアノに付随せず、後の第5番「皇帝」のように独立することもありません。こうした過渡期の作品は作者の想念が定まらず混沌としていて扱いが厄介です。黒田氏の指揮は簡潔で繊細、明快な論理でこの作品からピアノと管弦楽による会話という新たな魅力を紡ぎだしました。
ピアノは第1楽章のすべり出しからタッチが重く、しなやかさがほしいと思う場面もいくつかありましたが、管弦楽はピアノに付かず離れず節度を保ってピアノと相対し、黒田氏はピアノが金管や木管、弦楽器と個々に親密な会話を楽しむ様を鮮やかに提示して見せます。さながら幸せな家庭劇の趣があり、技術以上に音楽を楽しむ心のゆとりが大切なことを強く意識させる演奏になっています。
第2楽章は弦楽器が以前の模糊とした美意識から脱皮し、清潔な表現で新境地を予感させます。静かな楽章を洗練された美しい響きがピアノに重なり、詩的な会話を醸し出すさまは秀逸で愼密そのもの。金管、木管と打楽器の丁寧な音づくりにも好感を持ちました。
続く第3楽章はいくぶん独奏楽器的に扱われている金管と木管が、自在な表情でピアノにからみ合い、躍動するリズムに乗って嬉々とハンガリアンダンスに興じます。ここでは響きやハーモニーの精度の高さより、感情表現に重きをおいた演奏になりましたが、柔軟さの乏しいピアノをサポートするためには、技術的な課題よりも音楽の表情がより重視されるべきで、黒田氏はそのように選択して、辛抱のよい演奏を試みたのでしょう。
当日の掉尾を飾ったのは、ラフマニノフの「交響曲第2番」です。静かに水面を這う霧のような序奏から、終楽章の盛り上りまで、全楽章にわたって断片のようなメロディーが、心をゆさぶる美しさと詩情あふれるメランコリーに包まれて、細胞のように四方へひとつ、またひとつと増殖してゆきます。小さなメロディーがわずかな変化で姿を変え、それがまた次のメロディーを生む、その繰り返しがこの作品における仕掛けの新しさ、魅力です。黒田氏はメロディーの微妙な変容を丹念にほぐし、個々の断片に繊細で匂うような表情づけを行い、情趣を損なわずに作曲家が望んだであろう世界を細大洩らさずに現出させてゆきます。
氏は第1楽章からきめの細かい配慮を見せて、弦楽器の微妙な響きを端折らずに捉え、軽めのリズムで整えてゆきます。そのために音楽の表情は張りつめて、弦の優美さが際立ちます。充分な創造性と心づかいを持って、人の心をわし掴みにするこうした手際の良さは粋で精確。易々と甘美な抒情を作曲家の束縛から解き放ち、自我を押さえた静かな語りで、ラフマニノフの演奏様式に迫ることが可能になったのは、オーケストラが鍛錬を重ねて多彩な響きを整えられるようになったからでしょう。
アンコールは、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」からのワルツで、ラフマニノフの興奮覚めやらぬ名演をそっくり引き継ぐような出来映えで呆気にとられました。感動から驚きへ洒落た幕切れとなり、感銘深い演奏会でした。(2012年11月30日)
(古典シリーズ第6回演奏会)果てしなき探求
音楽の楽しみとは何だろうと考えることがあります。モーツアルトやベートーヴェンと同じ時代に生き、彼らと会話を交わすことが出来るなら、「ハフナー」や「田園」について教えを乞いたいものであると願いながら古典シリーズの第6回目を聴きました。
プログラムはモーツアルトの歌劇「魔笛」序曲、交響曲第35番「ハフナー」とベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の三曲。
オープニングは若い指揮者による「魔笛」序曲で例により爽やかに、けれんがない活気にみちた演奏でした。しかしアンサンブルに冴えがなく演奏に柔軟さが欠けたのは、作品の性格を考慮すれば仕方のないことでしょう。金管による三和音のファンファーレの音色、響きも表情に乏しく神秘性に欠けたために音楽の輪郭がぼやけ、魅力が半減したのは指揮者とオーケストラのコミュニケーションがまだ十分でないことの表れであると考えられます。表情豊かな音楽づくりをするためにはもっと肩の力を抜いて誰のためでもない、自分のための音楽を作ることが肝要で、弾けるような若い演奏を期待しています。
二曲目の交響曲第35番 「ハフナー」では、編成の大きな室内楽曲を思わせる引きしまったアンサンブルで、無駄のない音量とクリアーな響きの音楽に仕上がっておりました。指揮者は最初の数小節で聴衆を作品に引きずり込みますが、これは作品に真摯に向き合う黒田氏の演奏上どうしても譲れない手法の一つと考えられます。まず作品の内容を明晰に開示し、聴衆を一気に演奏へ集中させなければならないからです。それを可能にしているのは指揮者とオーケストラのたゆまぬ努力と限りないコミュニケーションがあればこそで、「ハフナー」でこれ以上はない極上の成果を彼らが共有できたことに拍手を贈りたい。管楽器は控え目ながらバランスよく鳴り、それぞれの楽器が美しく響きあって乱れることもなく、聴衆は聴き惚れたことでしょう。弦楽器もモーツアルトのしなやかなリズムに乗って自在にかけめぐり、第2楽章では管と共に精緻なアンサンブルを響かせて、幸福な夢を見ているような美しい調べを存分に味わわせてくれました。このように洗練されたアンサンブルは一朝一夕で出来するものではありません。ひとつ未来が広がったようです。
三曲目はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。黒田氏の思いとは別に、オーケストラが普段聴きなれた第1楽章冒頭の穏やかで幸せな気分を、こまやかなニュアンスを欠いた強い響きで演奏するや作品の内容は一変します。指揮者との意思疎通が十分でなかったのか、オーケストラの響きが重く、これが音楽から活気を奪い、全楽章を通して表情の振幅が小さな演奏になったようです。独奏楽器の奏でる主旋律がたびたびアンサンブルの響きにのみこまれたり、第5楽章の雷鳴、落雷や嵐の激しい強奏が平凡に聴こえたのは音楽全体の流れが一様で、表情にいま少しの思慮深さが足りなかったからと思われます。他方、今回の演奏は音の響きや流れにこれまでにない、めりはりの利いたしなやかさ、自信に充ちた大らかさがあって音楽がこせつかず、新しい表情を示してくれたと思います。このような演奏も満更ではないなと思いながら、漫然と贅沢に「田園」を楽しむことが出来たのは大きな幸せでした。
人はなぜ同じ音楽を繰り返し聴くのでしょうか。第51回定期で聴いた「田園」を思い返しますと、明らかに今回の演奏とは異なります。音楽が感情を有する生き物であることを理解すれば、同じ作品ながら演奏のたびに表情が変わるのは当然で、前後いずれが優れた演奏であるかを断ずるのは無意味です。如何なる表現や表情も同一作品より生じたものである限り音楽に変わりはなく、全ての表現を受け入れて心から尊重したいと思います。(2012年7月19日)
(第67回定期演奏会)スィーツはワルツの後で
第67回定期演奏会は傾向の異なる作品が3曲、個性的なプログラムでした。
まずベートーヴェンの「エグモント」序曲を若い客演指揮者が振った。この作品は悲劇的な序奏に始まり、歓喜の勝利で幕を閉じるように構成されていて、序曲ながら強い物語性がこめられています。劇の進行と共に終曲に向かって次第に高揚されてゆくドラマ性をおびた緊張感が、この作品を聴く楽しみのひとつになっています。しっかりした棒さばきでとても好感を持ったのですが、作曲者が作品にこめたそうした思いが、あまり伝わってこなかったようです。細やかなニュアンスと弱奏での張りつめた美しさが足りなかったし、ひたすら明快な音作りに徹したせいでしょう。しかし、その方向性は間違ったものではないので、経験を積んだ後にまた聴かせてほしいものであります。
2曲目から指揮が常任の黒田氏に戻り、ストラヴィンスキーのバレエ「火の鳥」が始まると、序奏ではやくも作品の色合いを浮かびあがらせます。氏の明瞭なテンポのもと、管の響きが弦の間に浮き沈みしながら絡み合い、打楽器が重なり音楽が複雑な表情を見せはじめると、姫路交響楽団の力強いアンサンブルがそれに応えて、豊かな響きを聴かせてくれたのは周到な鍛錬の賜ものでしょう。処々で音をはずした管に不満は残ったでしょうが、指揮者はそんなことにお構いなく、ひたすら音色と響きとリズムをもって、万華鏡のような光り輝く硬質で色彩感あふれる音楽を作りあげます。それを可能にしたのは、オーケストラから新しい響きを引き出そうとする黒田氏の執念に他ありません。
「火の鳥」は20世紀モダニズムを代表する前衛音楽であったのですが、初めて聴いた時に深々とした心地よさにとらわれて、大変驚いたものです。その心地よさは一過性のものではなく、半世紀を経た現在も聴く度に変わることなく続いています。今回の演奏でも、心地よい充足感にひたることが出来たのは言い尽くせぬ喜びでありました。
今回のメインであるシューマンの交響曲第3番「ライン」は、形が見えず捉えにくい音楽です。特筆すべき美しいメロディーや華やかさに欠け、構成にも劇的な要素がなく感傷的でもない。それまでの古典派の音楽のように向こうから押しかけてくることがないので、こちらから向かわないとその姿すら拝めない厄介な音楽です。それでいて、巨大な物体がラインの流れに乗って悠然と下って行く様を見ているような荘厳な趣がある、まことに哲学的で食し難い音楽であります。
このような音楽に姫路交響楽団は一貫して冷静に対応し、緊張感をとぎらせずに、可能なかぎりハーモニーとリズムをシンプルに表現することに徹して、最後まで聴衆をあきさせなかった技量には舌をまきました。その上無駄な響きのない美しい演奏で、この成果はオーケストラにとってかけがえのない経験になったに違いありません。
アンコールの「皇帝円舞曲」は当日随一と呼ぶにふさわしい予想外の名演奏であっ気にとられました。「火の鳥」と「ライン」を馳走になった後で、さながらウィーンで極上のスィーツを味わっているような心地でした。品のよい優雅な演奏で、こんなワルツなら、ワルツも悪くないと一瞬踊りたくなったものです。メリハリの少ない「ライン」の後を洒落っ気たっぷりに締めくくり、有終の美を飾った記念すべき演奏会でした。
オーケストラは木管と金管、弦と打楽器といった異質な音が飛び交う集団で、団員はその中にあってたえずそれらの音を聴かなければなりません。相手の意見を聴かなければ成り立たない一般社会と同じで、団員同士でコミュニケーションすることが大切です。人は他者を理解できなくても容認することは可能です。自身が音楽を理解できなくても楽しみ鑑賞することが出来るのはその為であると考えています。
指揮者が楽譜の内面をさぐり、音を組み立ててオーケストラを導いてゆく姿には、容認から理解を見いだすための行為として意味があります。理解はあらゆる希望に通じているからです。オーケストラの社会性を理解し、活動を心から支援するようになってもらいたいと願いながら、この10年姫路交響楽団と付き合ってきました。そんな中で忘れられないのが毎回のリハーサルでした。
オーケストラとは何であるか。指揮者とは何者?少しはわかったような気がしてきました。(2012年4月18日)