目次
(第91回定期演奏会)イメージを歌う
近年成長著しい姫路交響楽団の第91回定期公演を聴いた。プログラムはバーンスタインの「キャンディード」序曲、チャイコフスキーの「白鳥の湖」より6曲を抜粋、それにラフマニノフの「交響曲 第2番」。
これまでいろんな音楽を聴いてきたけれど、バーンスタインの序曲は頭から尾っぽまで、まるっきり威勢のいいアメリカ生まれの音がして、ついアメリカとはバーンスタインのことかと戯れ言の一つも言いたくなるのにその屈託のなさには感心します。しかし、一口頬張るごとにバカでかいハンバーガーの中身がはみ出るような野性味溢れる彼の音楽は痛快です。オーケストラは何の小細工もしないで、大音量で感傷なんぞ吹きとばし、むき出しの素顔で迫ります。これが面白いか面白くないかは人それぞれで、それがアメリカ文化の持ち味なのでしょう。永井孝和氏はこの曲のフィーリングに自身の好みが合ったのか、余裕のある指揮ぶりで、久方ぶりに面白く聴いた。
チャイコフスキーの「白鳥の湖」は、黒田氏が舞台の姿をイメージすることなく、音楽そのものを楽しめばよいと言わんばかりに、ひとつひとつの踊りをチャーミングに並べて見せます。オーケストラに確乎としたスタイルが備わると、さりげない演奏にも食欲をそそるおいしい匂いは立ちのぼるようです。しなやかな弦合奏に木管と金管がよく似合うすてきな演奏だった。
当日のメインであるラフマニノフの「交響曲 第2番」は、オーケストラが作品の抒情を陳腐な感傷も美化もない洒脱なイメージに置きかえて、私たちの想像力を刺激する内容の濃い音楽として提示します。しかも、音楽がメロディーではなくイメージを歌うものであることを示した演奏は極めて斬新、出色の出来映えです。この曲に印象的なメロディーがある訳ではない。しかし歌心あふれる演奏は印象的だった。静謐なオープニングから、抒情のドラマをイメージによって展開してみせる手法には品があって、優雅で知的、とても粋で贅沢な饗宴に与らせてもらった。では、そのイメージとは如何なるものであるか。作品に対峙する指揮者とオーケストラが目ざしたものは、作品から読み取れる途方もなく豊潤なファンタジーにあったのではないだろうか。ラフマニノフのそうした思いにリリカルに迫っていく演奏の温かな味わいは格別で、懐かしい昔話や千夜一夜物語の幻想的な世界を彷彿とさせて不思議な心地を覚えた。単調なメロディーやささやくようなリズムから洩れてくる吐息はさながら夢と優しさを持って織りなされるイメージの万華鏡です。第三楽章でクラリネットと弦合奏による二重奏が清廉な抒情を響かせたが、これは誤解を承知で言わせてもらえばメロディーと伴奏がそれぞれの独自性を主張した、木管と弦合奏による二声のポリフォニー聖歌に他ありません。この上ない瑞々しさが眩しかった。同様のことが他の木管や金管と弦合奏の演奏においてもみられ、凜としたスタイルを示した。この様な表現をもたらせたのは弦楽器のこれまで以上の艶やかな音色と表現力、それに管楽器の音質の向上にあるだろう。わけても金管のやわらかさは抜きんでていて、管と弦楽器を響き合わせて包み込む表現が実にいい。
終楽章は打ってかわり、リアルなイメージの躍動する、濃密な情感を捉えるオーケストラの一部始終が生々しい。演奏は活力に満ち、第一楽章のラルゴからのファンタジーがここに来て現実と交わり、馥郁たる賛歌に昇華する音楽づくりの手腕は鮮やかで、この作品の宗教性がくっきりと出た。ラフマニノフの音楽が持つ暖かさであるだろう。説得力のある懐の大きな演奏です。音楽の表現方法に結論などあろうはずもなく、曲のイメージを味わい尽くそうとする演奏には、旧弊に囚われない自由な息吹を感じた。
アンコールは「白鳥の湖」からもう一曲「四羽の白鳥の踊り」で、ラフマニノフの抽象的とも取れる音楽を緊張感いっぱいで聴いた後の肩凝りをほぐすには打ってつけだった。ポコポコと優しく肩叩きをしているようなリズムに乗って踊るのはファゴットだけ。四羽の白鳥は肩凝りを伴っていずこかへ消え、ファゴットの眠気をさそうのんびりした音色が無性にいとしく思えた。
すっかり年老いてなお西欧音楽に親しんでいて、自分が何となく当たり前の様にそれを受け容れて聴いていることに何の疑いも持たないのは、考えてみると不思議なことである。ましてや演奏を聴いて大それたことを書き連ねるのは、本当は遠慮すべきであるだろう。最近そんな思いにとらわれる事が多くなった。柄にもないことを長く続けたものである。何がそうさせたのか納得のいく理由などあるはずもないが、音楽がたえず興味の尽きない思いをさせてくれたからであるだろう。だからこれからもそう、ゆっくり楽しめばいいのである、そう思えるようになった。音楽にどう付きあうのがよいのか、答えなどあるはずもないのだから。
(2024年5月10日)