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(第90回定期演奏会)ショスタコーヴィチの心
姫路交響楽団が第90回目の定期公演を迎えて、創立以来指揮をとってきた黒田洋氏とオーケストラがとびきり味わいの深い演奏を聴かせた。これまで様々な趣向でオーケストラの醸し出す想像の世界に遊ばせてくれた末に、ここに来てこんなにも厳しくて人間の運命について考えさせられる二つの作品を手掛けたことは感嘆するほかありません。そのひとつ、ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲 第1番」は周知のように彼がソビエト共産党による政治的批判を幾度か受けた身でありながらも作曲を続けたうちの一曲です。批判はあらがうことの許されない国家からの宣告であり、党の掲げる社会主義リアリズムとやらに従わない者は逮捕、抹殺された時代の作品です。彼はその度に批判に応えるべく作品を発表しますが、内心では判りもしないくせに、このヤローと党や独裁者スターリンを罵ったことでしょう。そうしますと批判に応えた数々の作品には党への抵抗の言葉が当然隠されたメッセージとして込められている筈であり、言わば党との命をかけた闘いになります。いつ逮捕されるか知れない圧政の下で彼がやむに止まれず作品に込めたメッセージがどのようなものであるか、それを聞き取ることは彼の心を知ることに繋がり、わたしたちの心を豊かにする事でもあります。音楽を聴くとはそういう事であるだろうと私は考えます。
第一楽章冒頭からチェロがはじけます。まるで刃を突きつけて人に挑むようです。その響きはドライで攻撃的、切れ味鋭く一つ一つのフレーズを克明に刻んで、チェロの表情に憑かれたような力強さが生まれます。これをどう受け止めるかは人によりますが、チェロが挑んでいる相手はきっと社会主義リアリズムでありスターリンの暴政であると思いが至れば、それは評価の一つになるでしょう。中間部でファゴットがボコ、ボコ、ボコ、ボコ、ととぼけた音色でチェロに応ずる場面では緊張がほぐれ、ショスタコーヴィチがこれでどうだと党に腹いせをしている図が浮かびます。音楽の仕立てはメロディーやリズム、ハーモニーが尋常ならざる動きで聴く者を迷宮にさそいこむようで予談を許しません。金管は控えめで木管の意識的な響きを弦楽器がからめて、オーケストラがまとまりの良さを見せるとチェロが際立ち、音楽がエネルギッシュな装いをまとって現れたりします。
第三楽章のチェロはクリアかつこまやかな表情で、揺らぐような抒情を弱音でたっぷり歌わせ、この曲冒頭の趣とは違った音楽の密度を生み出します。穏やかで虚飾のない響きを丹念に紡いで音楽の厳しい個性を浮き上がらせると、あらためて彼が党の批判に晒され続けた作曲家であった事を思い出します。
ショスタコーヴィチの不定型な音楽を、これだけリアルに響かせるのは並大抵ではありません。黒田氏とオーケストラが手を抜かず綿密に、それぞれの言い分を繰り返すことで成り立つ演奏に違いなく、決して聴きよいとは言えない曲に取り組んだ全員に感謝を申し上げたい。ショスタコーヴィチの音楽は自分とどんな関係があるか、しみじみ考えさせられました。
休息をはさんで始まったチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、ショスタコーヴィチとは異なる帝政末期ロシアの悲劇を見る思いがします。黒田氏はある時は歓喜をもって、ある時は怒りをこめて悲しみを歌うように、作品に込められたチャイコフスキーの心情を感情に流されることなく凜として捉えます。それがよく現れたのは第四楽章で、冒頭のヴァイオリンが奏でるメロディーの喪失感を、感覚によってしか捉えられない音楽として、音楽のもつ無限の世界に心を遊ばせるように大らかに表現します。壮絶な表情も、パートの少しのバラツキも、ようやく透明な響きが出はじめた弦楽器の柔らかさも、全てをからめて飲み込む器量を示したのです。黒田氏にはこのように音楽を大きく掴みとろうとする意識を見せる一方で、細部を重視する姿勢も見られます。第一楽章の序奏が終わり木管楽器が第二主題のメロディーを歌いだすあたりの感覚は胸にしみいるような郷愁を誘い秀逸、繊細で深い。
第二楽章もまた古き良き時代への思いがほのかに香り、青春の日々を思い起こさせるワルツの何という格好よさ。オーケストラの扱いもうまいものである。
この曲の心理的な、隙の無い巧緻な演奏に聴き慣らされた者には、こうした演奏はむしろ心地よく、別様の面白さを覚えます。
アンコールに「悲愴」のやりきれなさを拭うように「アンダンテ・カンタービレ」をもってきたのは粋な計らいで、余白をたっぷりとった水彩画のように和やかで瑞々しい演奏はこの上ない贈り物だった。
当日は他にモーツァルトの歌劇「魔笛」序曲を永井孝和氏の指揮で聴いた。手堅い演奏でオーケストラもよく響き、この曲の表情をしっかり捉えます。ただ音楽の表情がきまじめで、少々窮屈であり、のびやかさが足りなかった。大人のおとぎ話なので自分のやりたいことをもう少し主張してもよかったのではと思われます。
(2023年12月8日)
(第89回定期演奏会)「新世界より」の味わい
この春、姫路交響楽団の第89回定期公演には珍しくドボルザークが三つ並んだ。他にエルガーを一曲。
まず序曲「謝肉祭」は交響詩ばりの規模をもち、内容が多彩だ。冒頭から生気に富んだ強いサウンドで、祝祭の気分がはじけた。勢いがあって華やか、押し出しの強い演奏である。一方で細部の細かな音楽づくりは大様で、強い音から一歩引くことがない。演奏にこうだと言う強さが生まれなかったのはそのせいだろう。緩急自在、押しては返す音楽に向かうフットワークの軽さがもう少し欲しかったが、クライマックスでの熱強は、コロナ渦でうんざりしている状況を払拭するには充分だったろう。
交響曲第9番「新世界より」を、アメリカへ渡った一人の旅人が記した音楽紀行として捉えると、また違った興趣がわいてくる。ドボルザークが何を見て、何を伝えたかったのか正確にはわからない。だが、ここには旅人が紀行文で見せる異文化への暖かな視線が感じられて、新世界の文化と社会への敬意が伝わってきます。長年、そのような思いをもって親しく付き合ってきたのに、今回の公演は大胆に別種の味わいを持つ音楽に仕立て直した黒田氏の指揮に、従来と異なるアプローチの転換がみられて驚いた。
演奏は序奏を経てホルンと木管楽器が第一主題をゆったりとした開放的な調べで提示すると、黒人霊歌を思わせる第二、第三主題がさらりとした表情で楽曲の芯に漂う情感を捉えます。しかし展開部は一転して現代人の多感な感覚をぶっつけるような様相を見せて、音の圧力と強弱に重点をおいた音楽づくりで作品に迫ろうとする方向性を感じた。ラルゴは、見かけはノスタルジックであってもイングリッシュホルンが奏でる主題は感傷におぼれず、大地に向かって静かに語りかけるような大らかな風情が爽快。その表情は第一楽章の三つの主題と同質の情感を漂わせ、音楽の流れに繋がりが生まれて芯の強い表現になった。
スケルツォでは軽快なリズムにのって、生命の踊りが炸裂するような歓喜の表情をあらわにします。一方で中間部には崇高な大自然があり、人の営みがあって悠久の時間が流れている。そこに漂う濃密な情感をオーケストラが淡々とした語り口で思わぬ詩興を産んだ。
一貫した強い音楽づくりは、終楽章においても歯切れのよいサウンドが生き生きと躍動し、燃焼度の高い表現がみられた。これまでの行儀のよい演奏とは違い、外連と爽快さを併せ持つ野性的な表現は鮮烈で、抵抗感はない。
アンコールは「スラブ舞曲第10番」。今ではすっかり慣れ親しんだ人気のコーナーである。ドボルザークの物憂く表情豊かなメロディーが流れ始めると、瞬時に会場の雰囲気が変わった。情緒纏綿として、じんわり音楽が花開いていくさまが心憎い。慣れよりも心が響かせる音楽であるだろう。演奏はかくありたいものである。思いがけなく三通りのドボルザークを楽しませてもらった。小品も交響曲も心にしみる演奏を楽しませてくれた指揮者とオーケストラの、良好な関係がしのばれます。感謝。
二曲目に演奏されたエルガーの「エニグマ変奏曲」は、熱意を込めて誠実に紹介してくれた演奏として記しておきたい。いろいろ書きたいことはあれど、今はやむを得ずして能わず御免下さい。
(2023年5月28日)