江戸時代の外食・醤油文化

江戸食文化の定着(5),居酒屋・小料理屋・料亭

江戸時代末期頃、江戸の町は食べ物を売る屋台で賑わっていました。鮨や蕎麦、鰻などの屋台とともに天ぷらの専門屋台も多数出ており、人々は間食のような感覚で天ぷらを食していました。店の形態が屋台からお座敷店舗などに発展していったように、調理法や食し方も時代とともに変化しました。
醤油が庶民の生活にもおなじみになると、それまで屋台経営だった店舗が、そぱ屋、寿司屋、天ぷら屋、そして煮売り酒屋という店でつまみを食べながら居座り洒を飲む形式の「居酒屋」などの形態をとる店が増えました。現在のうなぎの蒲焼に近いものも登場し、蒲焼は幕末まで主として屋台で売られていました。

「小料理屋」では、畳を敷いた小上がりの座敷に上がって酒と料理を注文します。ここで酒を愉しむ客は多く、個室のような部屋はなく、広めの部屋を屏風で仕切る程度でした。小料理屋よりも高級になるのが料理茶屋。これは今でいう「料亭」なので、居酒屋、一杯飲み屋、小料理屋とは格も違います。部屋の真ん中の畳の上に料理を置いて、出席者が囲むように座ります。宴会中には仲居さんが料理をとってくれたり、三味線を演奏してくれたりのサービスもありました。個室もあったので、周りを気にせずゆっくりと酒を飲みながら語らうことができました。 


屋台から居見世(店舗)へ

■居見世(いみせ)の出現
江戸中期の後半から江戸後期にかけては、本格的な居見世が現れて、居酒屋、料理茶屋、飲食店が増え始め、代金さえ払えば誰でも自由に飲み食いができた。すし屋やうなぎ屋なども、やや高級な店が宝暦(1751年)から天明期(1781-89年)ごろから増え始めた。天ぷら屋は立食い屋台から座敷を設けた天婦羅屋ができたのは、幕末の文久頃(1861~)からである。また、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や中庭を置き、離れや二階座敷を設けて独自の空間を演出する高級料理屋(料亭)も生まれた。

宝暦から天明期・化政期には、定食料理屋も出現していた。
喜多村香城の『五月雨草紙(さみだれぞうし)』には、「深川の回向院(えこういん)前の淡雪豆腐、浅草並木の枡屋田楽などいふ見世(店)ありて、一通り食事を弁ずるには銭百文位にて済しなり」とある。これらの料理屋は、一食、銭百文で食事ができることから 「百膳」と呼ばれた。「百膳」と称する店には、大竹輪・椎茸・青野菜の煮染しめ・つみれ汁と飯・香の物で、一食百文ほどの惣菜料理の定食を出す小料理屋でもあった。

○回向院は、明暦の大火(1657年)の焼死者の供養を目的として建立された無宗派の寺院ですが、多くの江戸の人々にとって回向院を訪れる目的の一つが、勧進相撲を見ることでした。江戸時代、相撲興行を行う常設の小屋はなく、寺社の境内において行われていました。

○淡雪豆腐は、江戸時代の豆腐料理本『豆腐百珍』にも掲載されている。淡雪豆腐の味付けは大きく分けて2種類あり、豆腐に葛溜りをかけて海苔とわさびを添えたものと、鰹出汁と醤油にすりおろした山芋を混ぜて豆腐にかけたものがあったそうです


■ 煮売り屋
煮売り屋は、魚や野菜などの煮物を食べさせたり、持ち帰りできる店であった。飯屋や居酒屋のようなところもあるし、屋台店もあった。店売りには、煮炊きをした惣菜類を店頭で売る「煮売り屋」と店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。江戸初期から、町の辻々に屋台は数多く出ていたが、店舗を構えて営業する飲み食いのできる店、飯屋(めしや)、煮売り屋(にうりや)、居酒屋などが普及してくるのは、江戸中期以降からである。天明年間(1781~89年)以降には、本格的な居見世(いみせ)の寿司屋、鰻屋、天ぷら屋などの料理屋が出てくる。

『鶏声粟鳴子(けいせいあわのなるこ)』一猛斎芳虎(歌川芳虎)画/嘉永4年(1851)より「煮売り屋」
「煮売り屋」の障子看板の文字は右から、おすいもの、御にざかな、さしみ、なべやき。「お吸い物」とは「酒の肴として出される汁物」のことを意味していた。


■四文屋(しもんや)
煮売り屋は、なんでも一つ四文で売ったことから「四文屋(しもんや)」とも呼ばれた。江戸では手軽な外食が盛んで、江戸後半の文化年間(1804~1817)、江戸では「四文屋」と呼ばれる均一単価の屋台が流行した。今でいう惣菜屋のことで、焼き豆腐、こんにゃく、れんこん、刻みごぼうなどを醤油で煮しめたものや芋や田楽を煮たものを大皿に盛って屋台に並べ一品四文均一で売っていた。
すべてが四文銭一枚の食べもの屋台「四文屋」について、天保年間(1830-43)に出版された『江戸繁昌記』には、次のように紹介されている。

《読み下し》「一鍋内(いっかない)、数串(すうかん)芋を貫き、豆腐を貫き、種々焉(これ)を蘸(ひた)す。鍋沸(ふっ)して烟馨(かんば)し。一串(一以って之を貫く)四文(文行忠信)。人の択(えら)び食ふに従(まか)す。此を四文屋と曰ふ」

《現代文》「鍋の中に幾串も、芋をさし、豆腐をさして、いろいろ浸してある。鍋で煮てあり、香ばしい湯気か立っている。一串が四文で、客が勝手に選んで食べる。これを四文屋という」

また、随筆『飛鳥川』(柴村盛方,1804年)には、次のように「四文屋」や「煮売屋」が賑わいを見せたことが出てくる。「煮肴、煮しめ菓子の類、四文屋とて両国は一面、柳原より芝までつゞき大造なる事也。其外煮売茶屋、両国ばかりに何軒といふ数をしらず」 要約すると、四文屋という、おでんの具を串にさし、四文均一で売る店(屋台)などが両国界隈をはじめ、神田川の柳原土手より芝まで続き、大にぎわいである。こうした煮売り屋が、外食文化の「居酒屋」へと発展していった。


『近世職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば)文化3年(1806)より、屋台の「四文屋(屋台居酒屋)」、酒の肴として、一串四文均一のおでんの具を食べている。
「四文屋」が流行した背景にあるのは、少額の銭貨に寛永通宝という一文銭があったが、明和五年(1768)に、新たに一文銭よりも少し大型で裏に波模様のある額面四文の貨幣が発行されたことにある。四文銭の出現は、物価にも大きな影響をあたえ、商品の値段が四文の倍数の八文、十二文、十六文、二十四文などか主流となったと云われる。


居酒屋・縄暖簾(なわのれん)

■日本酒の飲酒文化
居酒屋の始まりは酒屋で田楽を焼いて安く提供した神田川沿い鎌倉河岸の豊島屋とされる。現在の居酒屋のように酒と肴を同時に提供する形態は豊島屋が初めてであった。


以下は、『お酒のメディア・コミュニケーション史』/伊藤麻耶から引用する。
「江戸時代に入ると酒は完全に嗜好物の一つとして大きな流通をみることになる。1590年徳川家康が江戸入りをし、1635年に参勤交代の制度が敷かれると、江戸は全国最大の消費地となり、新川に酒問屋が数多く出現した。江戸で消費される酒は、「下り酒」と言われる大坂方面からのものが全体の9割を占め、その消費量は年間100万樽といわれている。(中略) 江戸時代では酒の価値も一般市民に手の届くほどのものとなり、人々がわりと手軽に楽しめるものになったといえる。酒屋などで酒を買って帰り家で飲むのはもちろん、この頃から外で酒を出す店も出始めている。日本人にとって酒が大衆化されるのは江戸時代からと言えよう。(中略) 1750年代、江戸では煮売屋などの飲食店が店を構え、そこで酒もふるまわれた。鎌倉の「豊島屋」では、一杯酒と田楽が2文で売られ、行商人、日雇い、船頭、馬方、奉公人でにぎわった。浅草の盛り場には寿司屋が現れ、茶店では28~32文で酒が販売された。」

煮売り屋は店先に「居酒致し候」という看板をかかげて、隅のほうで酒を立ち飲みできるところがあった。その着想は大いに受けたので、肴に一本二文の田楽も売り、店頭では片手に酒の升、片手に田楽の串を持って立ち飲みする客が絶えなかった。天正年間ではこのような酒屋を居酒屋と呼んでいた。庶民の酒場である居酒屋は「煮売屋と酒屋」の両方に起源をもっている」


『江戸名所図会』にある「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」 長谷川雪旦/天保5年(1834)~天保7年(1836)画。
毎年2月25日の一日だけ、雛祭の白酒を売ったところ、当日は江戸市中から大勢の客が殺到して大変な騒ぎになった様子を描いたもの。(豊島屋は江戸での白酒の元祖として知られ、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われたほど名高かった。中央の立看板には「酒醤油相休申候」(さけしょうゆあいやすみもうしそうろう)とあり、いつもの酒や醤油は販売を止め、白酒のみの販売に専念した。しかも、入口に櫓(やぐら)を建てて、その上では鳶(とび)が店先の客を整理している。)


■居酒屋の誕生と発展
居酒屋の最初は天正年間(1573~1579年)、造り酒屋の店先に「居酒致し候」という看板をかかげて、隅のほうで立飲みさせるところがあって、そのような酒屋のことを「居酒屋」と呼んでいたのに始まる。居酒屋は、寛政年間(1789-1802年)頃から店内で居酒ができる「煮売り居酒屋」が繁盛し始める。文化八年(1811)の調査によると、江戸には「1,808軒」の煮売り居酒屋(居酒屋)があったことが分かっている。

煮売り酒屋には「七輪や鍋、食器を天秤棒で担いで行商する」、「屋台を出して辻売りする」、「店を構えて商いをする」の三種類があった。享保年間(1716年-1735)になると、店先でお客に酒を飲ませる「立ち飲み屋台」が出現し、宝暦年間(1751~64年)の頃には、神田・鎌倉河岸の豊島屋という「煮売り居酒屋」が初めて登場した。
煮売り居酒屋では、煮豆、煮しめ、焼き田楽などを煮売りし、店先に空樽や木の板に足をつけた腰掛の床几(しょうぎ)を置き、腰かけさせて酒を飲酒(居酒といった)をさせるようになったのが「居酒屋」の原型と云われている。そういう店は、店先に“居るままで酒を飲ませる”ので、「居酒屋」と呼ばれるようになった。明和(1764~)に入ると、煮売り居酒屋と飯屋が一緒になった「縄暖簾(なわのれん)」も出現するようになった。縄暖簾では簡単な肴(さかな)で酒も呑ませ、煮魚もあれば芋の煮ころがしなどでご飯も食べさせた。

以下は「酒とつまみのウンチク/PHP研究所」より引用する。
『居酒屋の発祥は江戸時代。江戸の町や漁港などの酒屋がルーツである。当時の酒屋では、小売りの業態は樽からの量り売りが主流だった。当時の江戸の町には独り暮らしの職人や労働者、浪人などが数多く住み、漁港には出稼ぎの漁師などやはり単身者が少なくなかった。家に帰っての一人酒はいかにもわびしいものである。そうした人々はいつしか酒屋の店先で、買った酒を飲むようになっていった。
そうなると洒屋は酒屋で「居酒致し候」などの張り紙をして、店で飲んでもかまいませんよとアピールするようになり、簡単なつまみなども出すようになっていった。これがまさしく居酒屋で、やがてはいまのような飲んで食べて楽しめる店となったのである。』


『新版御府内流行名物案内双六』(弘化4~嘉永5)より、「おやぢばし いも酒や」
当時、芋酒屋といわれる居酒屋があったが、これは“芋の煮ころがし”を売り物にする店のことである。


■居酒屋の酒の肴
居酒屋の店先では売り物の魚などを下げていることが川柳などに見られる。明和2~天保11年(1765~1840)刊の『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』には、「居酒見せ切分ケほとな蛸を下ケ」、「居酒屋の軒ゆて蛸の削り懸」、「居酒見せ帯ひろ解の鰒を提け」、「居酒屋は鰓を釣スを見へにする」、といった句が見え、軒先に蛸(タコ)や河豚(フグ)、鮟鱇(アンコウ)などを吊したり、俎板(まないた)に広げたりした。
やがて、寛政年間(1789-1802)になると、江戸市中に「煮売り居酒屋」(居酒屋)が続々と誕生する。江戸時代の居酒屋では、酒樽を店内に積み上げていた。店先の軒の下には、酒の肴(さかな)の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下げており、どのような肴が店にあるかを知らせていた。
このことは、江戸川柳にも詠まれており、『鶏の 羽衣(はごろも)居酒屋の 軒へさげ』 とある。江戸後期になると、客の趣向に合わせて、煮込み田楽(おでん)、湯豆腐、ぬた、煮しめ、かづのこ、マグロの刺身、煮芋、魚介類の焼き物や汁物が主なメニューであり、外食店のどぜう鍋、あなご鍋、雁鍋、鶏鍋、ぶた鍋、蛤鍋など、小鍋立の鍋料理の肴も提供するようになった。この幕末の江戸では、ほとんど居酒屋と煮売り屋が一体となっていたものと考えられている。

煮しめもまた、田楽とともに手ごろな酒の肴として屋台や居酒屋で愛された。凍結乾燥させた凍りこんにゃくは、煮しめの代表的な具材で、一時期は凍り豆腐より消費量が多かったという。また、豆腐、こんにゃくのほか、大根など甘味噌ダレで食べるものすべてが田楽と呼ばれていた時代、味噌をそのたびに付けるのを煩わしく思った江戸っ子が、いまの「おでん」の原型を生み出した。濃いめの醤油味のダシ汁に材料すべてを放り込んで味付けするだけだから手間もかからない。やがてそこに、魚肉の練り製品などが加えられ、関東風おでんか誕生した。


『江戸名所道化尽 廿七 芝飯倉通』歌川広景 画/安政七年(1859)


■居酒屋での飲酒
居酒屋に来る客は「荷商人、中間(ちゅうげん)、小者(身分の低い奉公人)、馬士(馬子)、 駕籠の者、船頭、日傭(ひよう)の類」が多く、日傭取り(日雇い)であった。また、下級武士も足を運んだ。
江戸では上方の酒が好んで飲まれた。上方の酒造りの中心は、江戸時代前半は伊丹(兵庫県)・池田(大阪府)、江戸時代後半以降は灘・西宮(兵庫県)である。文政年間(1818~29年)の記録によれば、酒の価格は酒一合が上酒(下り酒)で二十文~二十四文、下酒(地廻り酒)で八文~十文、酒の肴(さかな)は、特別なものを除けば一品が八文均一といわれている。このように、酒二、三合に肴が二、三品食べると百文程度となった。腕のよい大工なら払える金額である。居酒屋以外では「飯屋」で飲酒もさせる店が盛んとなったのもこの時期である。


『開化風刺錦絵』より「揚酒屋賑ひの図」/出版年不明、酒を飲んでいる薩摩藩と長州藩の無事がお互いの苦労をねぎらっている風刺画。
二人を中心に座敷の旦那と坊さん、店の板前、女中さん、店を覗く人たちが描かれている。居酒屋の店先には酒の肴の「魚」を軒下に吊り下げている。
道路に面した店の板壁には「大極上々吉(だいごくじょうじょうきち)、上酒、壱升に付、八百もん」「隅田川、志ろ酒、壱合、八十文」とあり、店内の壁には「かもうり(冬瓜)葛かけ三十五文」「とうなす(南瓜)煮付け三十六文」「ふぐ鍋六十四文」「大木寸(大鱚(きす))六分」「めし一膳三十文」「鍋るいいろいろ」と書いて張ってある。大極上とは酒の等級(大極上・中汲〈なかぐみ〉・にごり酒)であり、上酒は上方から運ばれる「下り酒」の意味で、「隅田川」は江戸の地酒の銘柄である。


居酒屋には現在の時代劇にみられるような、四本脚のテーブルや椅子はなく、客は床几(長椅子)に腰かけるか、座敷に上がって酒を飲んだ。酒や肴は、お膳、お敷きという低いお盆のようなものに器をのせて、床几(しょうぎ)や座敷の上に直において座って飲食をした。酒は燗徳利(かんとっくり)でなく、「チロリ」という容器にお酒を入れ、これを銅壺で湯煎して温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を猪口(ちょこ・チョク)に注いで飲んでいた。
『守貞漫稿』(天保八年,1837)によると、それまで燗酒を呑むには銚子やチロリを使ったが、幕末の天保年間(1830-43)の中ごろに、燗徳利が登場し江戸で使われるようになったという。銅鉄器ではないため、酒の味が変化せずに美味しく、他の酒器へも移し替えず冷めにくいなどの利点がうけ、しだいに諸国にも広まっていったという。

『寛天見聞記』(寛政~天保(1789‐1844)頃、燕石十種第 五巻)より、江戸後期、酒の器や蕎麦の器と箸についての記述に、「予幼少の頃は、酒の器は、鉄銚子、塗盃に限りたる様なりしを、いつの頃よりか、銚子は染付の陶器と成り、盃は猪口(ちょこ・チョク)と変じ、(略)、蕎麦屋の皿もりも丼となり、箸のふときは蕎麦屋の様なりと譬(たとえ・ヒ)しも、いつしか細き杉箸を用ひ」(陶器と記しているのは磁器のこと) と、酒の器は盃から猪口になった、蕎麦屋はどんぶりを使い箸は細い杉箸を用いると書いてある。
その他には、『守貞漫稿』では、「盃も近年は漆盃を用ふること稀にて磁器を専用とす、(中略) 磁盃三都共チョクといふ。近世の猪口薄きこと紙の如く、口径二寸ばかり深さ八寸ばかりなり」という。また、滝沢馬琴『けんどん考釈詰』には、「そば切の器物は、予が小児の頃は皿也、今は多くは平をも用ひ、小蒸篭、又丼鉢をも用れど」と書いてある。


黄表紙『磨光世中魂』(みがけばひかる よのなかしょうねだま)出版:寛政二年(1790)
店内の床几台(しょうぎだい,長椅子)に腰掛けたり畳の上に座ったりして、チロリという容器に入れて温めた酒を楽しむ客。重ね揚げられた酒樽(菰樽,こもだる)は上方から樽廻船で送られる「下り酒」で、菰樽に印された酒の商標は伊丹の「坂上の剣菱」や「木綿屋」,「紙屋の菊」である。江戸時代後期の作家、式亭三馬作『客者評判記(かくしゃひょうばんき)』には「酒の人は片足をあげて片足おろし居る形」とある。


「居酒屋」という呼び方が残されているのは、文化11年(1814)に書きはじめられた『東海道中膝栗毛』。そこには「居酒屋」と「居飯屋」の名が話し言葉のなかに記されていいる。この頃には、酒を飲むことと御飯を食べることを別けた店が存在したようである。
居酒屋の数は、寛永七年(1630)に江戸市中に十数軒であったのが、天保元年(1830)には200軒を超す数となった。その後、天保の改革(1841年)の取締りで、居酒屋の大半が菓子屋などに看板替えしたこともあったが、幕末にかけては江戸、大坂のほか全国の主要地で再び激増していった。このころから、酒に各種の肴を添える店が多くなる。そのような店にはたいてい「酒めし」とか「酒飯屋(さかめしや)」という看板が下がっていて、縄暖簾や赤提灯も、この幕末頃から軒先に掛けるのが習慣となっていた。幕末に近いころの居酒屋で飲む酒は、上酒(清酒)、中汲み、にごり酒(どぶろく)といった酒が置いてあり、予算に応じて酒が飲め、客は酒の値段と量を言って注文したという。


『江戸年中風俗之絵(えどねんじゅうふうぞくのえ)』、1840年・天保11年頃の作とされる。
「酒飯屋(さかめしや)」絵の軒先には酒の肴の“魚”が吊り下げられ、障子看板には酒・附け飯・お吸い物の文字がみえる。


■「下り酒」と「江戸の酒」
江戸では酒の消費量も莫大なものだった。かつて江戸の武士が飲んでいたのは、どぶろくに近い濁った酒である。そこへ上方の澄んだ酒、諸白(もろはく)が登場するや大人気となり、江戸へ運ぶ酒(下り酒)の量はみるみるうちに急増していった。これが上方の酒造界の発展の要因ともなり、なかでも伊丹と池田は諸白造りで名をあげた。諸白とは当時、澄んだ酒(清酒)を意味した。
(諸白(もろはく)とは、仕込みに使う麹米・掛米をともに精白した米を使う酒造りのことである)


江戸時代後期の風俗、事物を説明した『守貞謾稿』には、
「伊丹池田灘等より江戸に漕す酒を下り酒と云・・・又別に江戸近国近郷にて醸す物を地廻り酒とす」
「古より清濁あり清酒をもろはくと云諸白也 濁酒を片白と云今江戸の俗の中汲と云も濁酒の一種也」
とある。江戸で呑まれる清酒の大半は大坂(池田・伊丹・灘)などの上方から、樽廻船で運ばれてきた「下り酒」である。その量は年間80~90万樽(1樽=3斗6升)にもなり、江戸の需要の八割を供給した。一説には、江戸に運ばれてきた酒の量を江戸の全人口で割ると、1人あたり1日2合の酒を飲んでいた計算になるという話もある。
江戸時代、伊丹・池田・灘等から江戸へ下ってきた酒を「下り酒」、あるいは富士見酒などと呼び、上質な酒とされた。また、諸白(もろはく)について、江戸時代の中期、1697年(元禄10年)に刊行された『本朝食鑑』にも「酒の絶美なるものを呼びて、諸白といふ」、「近代絶美なる酒」として称賛している。

酒(日本酒)は、濁酒・清酒、そして濁酒の類として中汲(なかぐみ)があった。これは、言い方を変えれば澱(おり)の混じった清酒である。上方の酒造家は優れた濾過装置を備え、原料や人材などにも恵まれ、大量の「澄み酒」(清酒)を醸造できた。一方、関東においても地廻り酒が生産されていた。関東では、幕府主導の上酒醸造政策のもとで酒造家の養成が図られたが、結果は芳しくなく、上方優位の経済構造に変化はなかった。ただ、江戸時代後期になると、上方酒造業者の生産量増大により、それまで濁り酒しか口にできなかった江戸の庶民も清酒に手が出せるようになり、燗酒を呑む風習が広まることにも繋がったといわれている。(江戸の地酒には、隅田川、宮戸川、都鳥、漏水などがあった。また、関東の酒の産地には、武蔵、日立、下総、鬼怒川筋、荒川筋などがあった)


『守貞謾稿』には酒銘として「剣菱、古今第一トス。七ツムメ(梅)、紙屋ノキク(菊)、三ツウロコ(鱗)、米喜ノヨネ(米)/此他種高名アリ。委ク載スルコト能ハズ。/マサムネ(正宗) 此名、近年江戸ニテ大に行ル」の名を述べている。江戸後期の『江戸買物独案内』文政七年(1824)にも複数の下り酒問屋が記されている。
江戸の酒、その種類は様々である。『江戸買物独案内』には、「中汲 九月より正月まで」と広告があり、流通期間も限られていたようだ。これらは、澱の量による種類の別であった。その他にも、藏・商標の違いがあって、酒の銘柄としては、瀧水・大国酒・布袋酒・明乃鶴・稲乃露・旭鶴・高砂等の酒名が見える。

江戸地廻り酒「新和泉町 銘酒 瀧水(たきすい) 四方久兵衛」、下り酒「深川八幡通仲町 酒売場 銘酒 剣菱 伊勢屋嘉右衛門」
瀧水の四方屋(四方久兵衛)は、日本橋新和泉町(現在の中央区)で酒売場や醤油・酢問屋を営んでいた商人のようです。


小料理屋

■ 料理屋の登場
料理屋については、江戸初期にも、煮売・焼売程度のものであれば、寺社の門前のほか、盛り場や交通の要所で商売が行われていた。江戸の初期には一般にいわれる料理屋は存在していなかった。はじめは京都の寺院で料理の提供が始まり、やがて町中にも料理茶屋が誕生したものと思われる。これにやや遅れて、江戸でも元禄年間(1688〜1704)になると、市中の各所に料理茶屋が出現した。
江戸の町の三分の二を焼き尽くした明暦の大火(明暦3年,1657年)以降、市街の大改造や被災家屋の再建が進み、各地から多くの大工や左官などが江戸に集まった。江戸における料理屋の出現は、そうした建設労働者へ食べ物を提供したのに始まる。なかでも浅草の金龍山浅草寺の門前には、きれいな器を用いて奈良茶飯(煎じた茶で飯と煎り大豆などを炊き、茶をかけて食べる)を豆腐汁・煮しめ・煮豆などといっしょに売り出した店が登場した。
浅草に奈良茶飯屋といわれる簡素な飯屋ができ、その後、享保年間に浅草に限らず江戸市中の盛り場の両国や芝神明に腰掛けの小料理屋(料理茶屋)立ち並ぶようになったが、元禄期頃までの江戸では料理屋といっても奈良茶飯などを供した茶屋が主体であった。
やがて、小料理屋では、畳を敷いた小上がりの座敷に上がって酒や庶民料理を供するようになった。ただ、それが本格化するのは江戸時代後期のことであった。



都市の発展や日本料理の完成などと相まって、宝暦から天明期(1751〜1789)には、きちんとした食事ができる本格的な定食料理屋も出現してきた。さらに料理文化が最も発達をみた文化・文政年間(1804〜1830)には、「料理通」を執筆した栗山善四郎の営む高級料理屋「八百善」が、江戸で大繁盛を極めていた。ここには人気を誇る文人や画家のほか、幕府の高級役人から地方の富裕層までがしばしば訪れ、大いに料理を楽しんでいた。



文化・文政期の江戸の食生活は大きく変化した。贅沢な料理が好まれ、外食文化がますます広まり、八百善や平清のような高級料理店も多く登場し、全盛期を迎えた。こうした事情は江戸にかぎらない。近郊では一汁一菜程度の食事を供した茶店が、文政頃には料理屋となっていたり、街道の宿場などにも贅沢な酒楼が営業を始めていたりした。文化・文政期以降、都市の庶民も含めた広い階層が外食に親しむようになると、いわゆる高級料理屋にかぎらず、安直に楽しめる酒場なども増えた。


■ 飯屋・一膳飯屋
天明年間(1681-83)の頃までは飯屋というものはなかった。17世紀中頃から、どんぶり飯(一膳飯)に簡単な惣菜をつけて食事を提供する「飯屋」も少しずつ現れはじめた。奈良茶飯に煮しめ、漬物などを添えて出す「一膳飯屋」が浅草界隈に現れた。 一膳飯屋は「煮しめ屋・一膳めし屋をさへ兼ぬれば、飲むべく、食ふべく、床台とも飯台ともつかぬ食卓を前にして」とあるように、煮売り屋から発展した店で、米飯と簡単な総菜に汁ものを一緒に出したり、鍋物・酒・菓子類も提供した。
江戸では、江戸後期に一膳飯屋が繁昌していた。立派な店構えもあり、看板類に「一ぜんめし」「どんぶりめし」などの文字が書かれていた。屋台や一膳飯屋でも出される手軽で簡単な食事としては、深川の漁師たちがアサリ、長ネギ、豆腐を煮た澄まし汁を冷や飯にかけて食べた「ぶっかけめし」(深川めし)があった。「ぶっかけめし」は味噌や醤油の汁仕立ての食事であった。

ぶっかけめし(深川めし)


『教草女房形気(おしえぐさ にょうぼう かたぎ)』
山東亰山 著, 歌川豊国 画、弘化四年(1847年)


■ 料理茶屋
料理茶屋は、常設の店舗を構え酒と調理した数種類の食べ物(料理)または食事を提供する商いである。享保年間(1716~35年)に刊行された『絵本東わらは』には、当時の江戸の名物・名店が羅列してある。
それによると、「…サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、向島にあらひ鯉、(王子稲荷前)王子のゑびや、下屋の浜田屋、古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、鈴木の蒲焼、真崎(稲荷)の田楽、洲崎のざるそば、鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん酢、吉原の蛇の目酢 … 豊島屋の白酒は節句前に売切れ、稲毛のそうめん、三輪よりほそし」とある。



「料理茶屋」は寛政期(1789~1800年)以降急激にその数をふやしていった。寛政年間に刊行された『梅翁随筆(ばいおうずいひつ)』に、「貸座敷,煮売庖,水茶屋,寺社門前地などにて稀にありしが、今は十数倍も其数ふへたり」、あるいは、「町々端々に至るまで、一町内には煮売喰物見世商売店十軒も二十軒も殖へ、繁華の場所は喰もの商売かた多くあるなり」と、寛政の頃の記録は高級料理屋に限らず飲食店の類の増加が著しかったことを述べている。


料理茶屋『新版御府内流行名物案内双六』一英斎芳艶 画(弘化4~嘉永5)
「くぎだな,むぎめし」,「王子,あふぎや(扇屋)」この扇屋は慶安元年(1648年)に創業の料理屋で名物料理は卵焼き。扇屋は王子稲荷前「王子,海老屋」とともに「即席会席御料理番付」に掲載されるなど、名高い料亭の一つであった。


■会席料理茶屋・即席料理茶屋
「会席料理」が生まれた時期を知ることができる記述本として次のものがある。『続飛鳥川』には、「料理茶屋にて会席仕立の始まりは安永の末」とある。また、『武江年表』巻之七にも、享和年間(1801~1804年)に会席料理を始めた者がいたという記述がある。これらのことから、“会席料理あるいは会席料理屋”の出現は、安永期末(1770年代後半)から1800年代初めと思われる。
そのうちに、“即席料理屋”が出来てくる。『江戸買物独案内』にも、「会席御料理」を営む店は15を数えるとある。『江戸名物酒飯手引草』などの書物に記された会席料理茶屋の広告などをみると、-“会席料理茶屋を営む店が、同時に即席料理を営んでいた”-ことがわかる。
「即席料理」とは、料理屋に入ってから頼む料理のことで、その日に調理可能な料理を客の好みで注文する。「即席料理」は、事前に料理の支度をしておいて、客を待ち、お客が来ればすぐに料理を出すという仕方であった。一般に「料理茶屋(貸座敷御料理)」または「会席茶屋(会席即席御料理)」と称していた。


天ぷら屋台見世も、しだいに高級化が進み、江戸末期の嘉永年間(1846~1852年)から安政期(1854~1859年)の頃には店を構える天ぷら屋が誕生したという。江戸庶民の食事処も、江戸後期には、一膳飯屋を含めて料理飲食店の数は文化元年(1804年)で6165軒、天保六年(1835年)では「天保の飢饉」の影響もあって減少するが、それでも5757軒にものぼった。この頃には江戸庶民の下層にまで外食文化が浸透したといえる。

『風俗三十二相 むまさう』 ‐天ぷら‐/月岡芳年、「むまさう」は現代仮名の「うまそう」のこと。
月をながめながら海老の天ぷらを食べる遊女。嘉永年間(1848~1853)の遊女の風俗として、魚類の天ぷらを楊枝で刺して食べようとする姿が描かれている。

即席料理店の「天ぷら」について、幕末・明治初頭の記録『江戸の夕栄』 鹿島万兵衛 著より以下を引用する。
「天麩羅は上流の料理に出さぬではなきも、多くは“即席料理店の出し物”にして、天鉄羅専門の料理店というほどの家はあらず。多くは家台(やたい)見世のものにて天麩羅茶漬店、飯付き一人前二十四文 か三十二文、せいぜい四十八文ぐらゐのもの(略)福井町の扇夫といふ人(福井扇夫、お座敷天ぷらの始祖)、出揚座敷天麩羅(であがりざしき天ぷら)を始めてから、やや上等の位置となりましたやうに思ひます。当時の天麩羅屋は、新堀喜六 銀座丸金 安針町銀造 塩町丸新 今川橋百足 人形町茂七  日本橋丸吉 人形町ひろの等を主なるものとす。芝海老、馬鹿貝の柱、あなご等に至つては他にない材料です」

江戸時代の代表的な料理書のひとつとして『料理早指南』享和元年(1801)がある。『料理早指南』には、本膳料理・会席料理の季節ごとの献立や重箱料理の献立、塩魚などの料理、汁・酢の物などの作り方を記していた。また、それには「即席料理と部立(ふだて)せしは先(まず)魚をえて、さて其(その)魚に依(より)て趣向するゆえに名付く」とあるように、即席といっても食味を重んじたものであった。同書の即席料理の部で「タイ(鯛)」をみると、平皿用には「おらんだ焼」とあり「切身にして串(くし)にさし、玉子くだきかきまぜ、かけながら焼くなり」と説明されるなど、会席料理のかなり詳細な内容が紹介されていた。

このように、茶屋で会席料理が楽しまれるようになり、加えて会席料理に関する書物(先述の『料理早指南』、1781年『会席料理帳』、1806年『会席料理細工包丁』)が相次いて刊行されたことで、会席料理は当時の社会に定着化をしていたようである。さらに江戸時代後期になり、一般庶民の間で、酒宴や会席料理を楽しむ余裕が生まれ、そういった層にも気軽に楽しめる会席料理が流行していった。


『江戸高名会亭尽』より 「白山 傾城か窪」/歌川広重画 安政6年(1859)
中山道沿いの料理茶屋「万金」は、旅人に簡便な即席料理を供する店。絵には武家一行が腹ごしらえをしたり、慌ただしく行き交う人々の賑わいが描かれている。



安政六年(1859)に刊行された料理茶屋の番付『即席会席 御料理』には、相撲の番付に見たてた江戸で評判の料理茶屋を大関、関脇、小結というように番付した183軒が掲載されている。
料理茶屋見立番付の行司の欄には、別格の三料亭の深川八幡前「平清(ひらせい)」・日本堤山谷「八百善(やおぜん)」・檜物町「嶋村」、そして浮世「百川(ももかわ)」・向島「大七」・山下「がん鍋」などの22店の名が見られ、番付に入らずに別格で扱われて名前が記されている。


高級料理茶屋の出現

■ 料理屋(料理茶屋/会席茶屋)
幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役(るすいやく)」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅(ぜい)を尽くすような高級な料理茶屋(料亭)が次々とできた。江戸の町には手の込んだ本格的な料理を供し、器も吟味され、蒲・ヨシ・竹・杉皮などの天井や化粧屋根裏天井の数奇屋(すきや)造りの座敷や庭を持つ、今日の高級料亭に相当するような「料理茶屋」が、明和年間(1764~1771年)の頃に数多く生まれた。


■ 料亭
江戸で「料亭」と呼ぶにふさわしい料理茶屋としては、江戸・深川洲崎の「升屋(ますや)」が料亭の元祖といわれ、明和八年(1771年)に生まれたとされる。江戸随一と称されたの八百善(やおぜん)の開店は、その三十数年後の享和(1801年)のころである。江戸時代、高級な料理茶屋の双璧といわれたのが、浅草山谷の「八百善」と深川八幡前の「平清(ひらせい)」だという。会席料理が確立し始めたのもこの頃からで、料理屋料理として最初から酒を供し、飲みながら食べるという会席料理というものも出来て高級化した宴会料理となった。


『江戸高名会亭尽 深川八幡前』(会席料理茶屋 平清)/歌川広重 文政~安政5年
深川の料理茶屋は、江戸湾の魚介類や多種類の川魚を潤沢に得られて、江戸前の味を売り物にしていたが、いずれも遊女や芸者をよんで遊興のできる揚茶屋を兼ねていたことも大きな魅力だった。「平清」は瀟洒な庭や風呂を備えた設備の豪華さや料理の質の高さで知られていた。

江戸文化の爛熟(らんじゅく)期、化政期(文化・文政期1804~1830年)には料理屋の高級店化がさらに進んだ。座敷や庭を備えた高級料理茶屋は、幕府の高官、各藩の江戸留守居役や有力商人、文人墨客(ぶんじんぼっかく)などが常連客として、このような茶屋を大いに利用した。
かけ蕎麦(二八そば)の値段が十六文の時代に、嘉永年間(1830~1853年)頃の江戸の武士や町人がお酒とともに楽しむ高級料理茶屋では、一汁三菜(禅寺の食事形式で、ご飯に汁もの、おかず3種(主菜1品、副菜2品)、漬物(香の物)で構成された献立)を基本とし、一品づつでき立てを配膳する会席風(会席料理)の食事が、銀十匁(銭一貫文)から五、六匁(五、六百文)である。

会席風の食事の値段は、当時、庶民の中では給金がいい大工職人の日当は銀立てで支払われ銀四匁のため四百文、庶民の平均的な日当三百文、住込み職人の日当百文、住込み食事付の下女の日当五十文、長屋の家賃が月に棟割り裏長屋(九尺二間の裏長屋)で約三百文、二階建ての割長屋で五百文、表長屋(二階建て)では一千文であり、決して安い額ではないことがわかる。


『職人尽絵詞』鍬形蕙斎画/「(料理)茶屋」(文化年間 1804-1818)


江戸の外食文化の定着

■幕末へあと50~60年と迫った文化・文政期(1804~1830年)は、蕎麦屋、寿司屋の大繁盛に加えて、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅(ぜい)を尽くすような有名料理屋が次々とできた時代となった。京坂では寛文(1661~1673年)から元禄(1688~1704年)頃に京都ではすでに料理店が発生していた記録がある。
江戸に料理屋と呼べるような店が登場したのは、江戸も中期、明和年間(1764~1772年)だといわれている。続く安永から天明にかけて、深川、浮世小路、向島、中州等に次々と料理屋の名店が創業し、多くは武家階級に接待の場所として利用された。
「料亭文化」がいよいよ庶民の物となるのは、町民文化が花開く文化(1804~1818年)文政(1818~1830年)期ごろであり、著名な料亭には平清(ひらせい)・百川(ももかわ)・八百善(やおぜん)などを含む104店が数えられた。この頃になると、料亭だけでなく、居酒屋、料理茶屋のほか、蕎麦屋や鰻屋なども江戸市中に多く広まった。


葛飾北斎/『画本東都遊(えほんあずまあそび)』より「王子 海老屋」 享和二年(1802)

王子稲荷前「王子のゑびや」(即席料理茶屋)。当時、王子稲荷の門前より飛鳥山の麓までの道筋は茶店や料理屋がならび、春の花の頃より冬は雪見の頃まで人足のたえる時はなかったほどに江戸っ子の遊山行楽の場所として大いに繁栄していた。また、『江戸会席料理老舗番付』では、勧進元(主催者)は八百善、東の大関は「平清」、西の大関は王子の「海老屋」と書かれるほどの高級料理屋であった。


『新版御府内流行名物案内双六』(弘化4年~嘉永年5/1848~1852)より、「王子,海老屋」


寛政十一年(1799)の春に飛鳥橋のたもとに海老屋、扇屋が店聞きして、以後に料理屋が増えていった。「王子 海老屋」は、隣接する「扇屋」とともに『即席会席御料理番付』に掲載されるなど、名高い料亭の一つであった。蜀山人が随筆に「王子の茶屋は茶めし、田楽のみにて青魚に三葉芹の平皿盛りたるのみ」であった状態が、文化年間(1804~1818年)になると、「今日扇屋、ゑびやなぞと言う料理出来て其余の茶屋も其の風に学ぶこととなりぬ」」と書いている。また、十方庵『遊歴雑記ゆうれきざっき』(1812~1829年)には、「あふぎや(扇屋)、 海老屋の二軒茶屋は、軒をならべて高宅を巧みに作り料理の美味に庖丁の手際なる、器物には善尽し」と述べるように、この二軒の高級料理屋は趣味性の強い料理屋であった。


二軒茶屋「雪中遊宴之図」

『江戸名所図会』 二軒茶屋 雪中遊宴之図(江戸後期の天保5年・1834) 
深川永代寺門前・二軒茶屋の「松本屋」(料亭)で立派な脚付火鉢と料理を囲んで雪見の酒宴。挿絵の注記には、「此の地は、江都東南の佳境にして、月に花に四時の勝趣多かる中に、取りわきて初雪の頃などには都下の騒人ことに集い来つつ、亭中の静閑を賞し一杯を酌みかはしては酔興のあまり、冬籠もる梅の木の下、秋ならば尾花苅りたき、一夜の夢を結ぶもまた多かりぬべし」と記されています。
二軒茶屋の伊勢屋と松本屋は、板葺屋根の料理茶屋で柴垣を回らした庭園を持つ、瀟洒な建物の高級料理屋であった。文政七年(1824)刊行の『江戸買物独案内』にも、二軒茶屋の伊勢屋と松本屋が収録されている。


高級料亭と江戸の外食文化

■江戸で著名な高級料理茶屋(料亭)は、浅草山谷の「八百膳」、深川八幡前の「平清」や「二軒茶屋(伊勢屋と松本楼)」、浮世小路の「百川」、鯉などの川魚料理で有名な本所向島の「大黒」や「大七(だいしち)」などがある。その代表格の高級料亭が「八百善」である。
『守貞謾稿』嘉永六年(1853)にも、「料理茶屋、江戸にて名あるは山谷の八百善、深川八幡前 平清これに次ぐ、柳橋北の河長宅広からずと雖ども美食なり」、「八百善、平清、河長等の飯後段の茶にも菓子を出し、その他は飯後の茶に菓子これなし、八百善以下三家、大略一人分銀十文目、その他は銀六、七、八匁なり。浴室を設け酒客を入れ、余肴を折に納め、夜の帰路に用ひ流しの提灯を出すこと、毎戸しかり」と記述されている。文政五年(1822)の『明和誌』によると、八百善は「一箇年の商ひ高二千両づゝありと云ふ」と記述されていて、その繁盛振りを伝えている。


『江戸高名会亭尽』 向島 大七 歌川広重/画(天保中期-後期、1835〜1842年)

『江戸名物酒飯手引草』には、向島に洗ひ鯉と云われた川魚料理の貸座敷料理茶屋「大七(だいしち)」が記述されている。向島の高名な料理茶屋「大七」は、隅田川沿い今戸橋傍にあり、川から引き込んだ生簀に鯉を飼って、鯉の洗いなどが名物であった。また、『江戸名物詩初編』方外道人著、天保七年(1836)刊 には、「大七洗鯉 向島」、「客込奥庭中二階、温泉石滑暖如蒸、酒肴色々喰來處、洗出鯉魚數片冰(客は込む奥庭中二階、温泉石(イシ)滑(ナメラ)かにして暖めること蒸すが如し、酒肴色々飡ひ来る処、洗ひ出す鯉魚数片の氷(コホリ)」とある。


■高級料理屋と「仕出し料理」
仕出料理は出前(でまえ)料理ともいい、注文に応じて調理して客方に届ける料理で、そうした専門業者は幕末期の江戸に出現した。最初の頃は単に注文に応じて調理し届ける「出前料理」が多かったが、やがて料理全体を作るようになり、器に料理を詰めた「仕出し料理」を届けたり、武家や商家で催される冠婚葬祭の席に料理人を送って調理した「仕出し料理」を提供した。

『江戸買物独案内』(1824)を見ると、高級料亭の大半が仕出しを行っている。山谷の八百善は江戸第一と称された店だが、一時は仕出専業であった。そのころのようすを『皇都午睡(こうとごすい)』(1850)は「当時は精進料理の仕出しのみをして、町家にて三十人五十人の法事仏事あれば、誂へ(あつらえ)に任せ朱黒青漆とか膳碗家具まで残らず取揃へ、引菓子に至るまで揃へ……」と伝えるが、そのように膳椀はじめ道具一式を運び込んで宴席を調えることも多かった。

『守貞漫稿』に、天保年間(1830~44)に江戸で有名であった料理茶屋の八百善が仕出業専門に切り替えたとあるが、このころに仕出し料理業も一般化した。江戸で、料亭が仕出し屋を兼業するようになるのは近世後期になってからである。その後、仕出し専門の「仕出し屋」と言う料理の出前専門の店も現われ、一業種として確立していった。


■天ぷら屋台見世も、しだいに高級化が進み、江戸末期の嘉永年間(1846~1852年)から安政期(1854~1859年)の頃には店を構える天ぷら屋が誕生したという。江戸庶民の食事処も、江戸後期には、一膳飯屋を含めて料理飲食店の数は文化元年(1804年)で6165軒、天保六年(1835年)では「天保の飢饉」の影響もあって減少するが、それでも5757軒にものぼった。この頃には江戸庶民の下層にまで外食文化が浸透したといえる。

また、『江戸名物酒飯手引草』のようなガイドブックも登場する。記載されている飲食店は次のように分類されている。
①貸座敷御料理(会席料理、即席料理)=高級料理茶屋(料亭)は、料理以上に座敷の提供に重きをおいた料理茶屋、②料理茶屋(会席料理、即席料理)、③料理茶屋(即席料理)、④御茶漬料理屋、⑤江戸前蒲焼屋(鰻屋)、⑥どぜう・なまず・あなご料理屋、⑦寿司屋、⑧蕎麦屋=二八蕎麦屋(砂場そば、更科生そば、ざるそば、手打ちそば、鴨なんばんそば、蘭めんそば=らんめんというのは、小麦粉をタマゴでつないで、そばのように細く打った麺)、⑨御膳生蕎麦屋(十割りそば屋)などの名店を紹介している。

『江戸名物酒飯手引草』嘉永元年(1848)刊 の一部を抜粋(国立国会図書館)


料理茶屋『新版御府内流行名物案内双六』一英斎芳艶 画(弘化4年~嘉永5年)より「本郷 らんめん」
らんめん=蘭めん、卵めん(そば・うどん粉に卵を練りこんだ麺類)

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