江戸時代の外食・醤油文化

再現・江戸庶民の料理

江戸時代後期、庶民の日常料理
■庶民と見立て番付
江戸時代の後期に、相撲番付や歌舞伎番付に端を発した見立番付の「料理番付」類は、一枚刷りの簡潔な記述と対象に相撲の番付の如く、“大関”を筆頭として東西に分け、順位をつけて優劣を競うという見立(みたて)番付が庶民に受けて大隆盛をみた。
食生活関係でも、酒屋・醤油屋・料理屋番付など商売に関するもの、食品・料理・食道具に関するもの、食べ方・飲み方など食行動に関するものなど数多くの見立番付が刊行された。


『醤油見立番付』天保11年(1840):関東・醤油 為便覧(べんらんのため)」(関東醤油番付)


江戸,幕末頃のおかず

■料理番付『日々徳用倹約料理角力取組(ひびとくようけんやくりょうりすもうとりくみ)』幕末の天保年間(1830-42)にのっている料理名。


『日々得用倹約料理角力取組』の見立番付右下方には、「秋の料理・精進方」の料理名、若菜汁、芋煮ころがし、ふろふき大根、ごぼう太煮、とろろ汁、山かけ豆腐・・・などが並ぶ。
「冬の料理・精進方」の料理名には、湯豆腐、こんにゃくおでん、納豆汁、かぶ菜汁、輪ぎりごぼう、こんにゃく白あえ、ねぎ南蛮、こんにゃくさしみ、ごまみそ、あぶらみそ ・・・ とある。

幕末頃のおかず見立番付『日々徳用倹約料理角力取組』は、200種類程の日常のおかずを精進方(野菜類)と魚類方(魚介類)に分け、大相撲の番付風に大関から列記している。横綱が書かれていないのは、この時代は大関が力士の最高位であったためである。
おかずの見立番付の行司役としては漬物が記されており、「沢庵漬け、梅干し、ぬか味噌漬け、大坂漬け、なすび漬け、茎菜(くきな)漬け、寺納豆、らっきょう漬け、からし漬け、ほそね漬け、奈良漬、かくや古漬け」とある。「年寄」としてかつおぶし、塩辛、なめもの、ごま塩が上げられている。
そして、番付の右の「東方」には「精進方」 として野菜のおかず、左の「西方」には「魚類方」として魚のおかずが列挙されている。

おかず見立番付上位の料理には、最高位の大関に見立てられた〔八杯豆腐/目ざしいわし〕である。関脇には〔昆布油揚げ/むきみ切干〕、小結には〔きんぴらごぼう/芝海老からいり〕。
前頭の上位には、精進方「煮豆、焼豆腐吸したじ(すまし汁)、ひじき白あい、切ぽし煮つけ、いもがら油揚げ(煮付け)、油揚げつけ焼(醤油付け焼き)、小松菜浸し物」、魚類方「まぐろから汁、小はだ大根、たたみいわし、いわし塩焼き、まぐろ剥(すき)身、塩かつお、鰊(にしん)塩引き」をそれぞれ列挙している。
そして、番付下位にならぶのが春・夏・秋・冬の季節ごとの料理である。(「まぐろ辛汁」とはマグロを具にした味噌汁のこと、「塩かつお」は鰹を塩漬けにして干したもの)



『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・大関「目刺しいわし」塩漬け鰯を数匹ずつ串で刺した干し物


『日々徳用倹約料理角力取組』より、精進方・大関「八杯豆腐」鰹出汁6・酒1・醤油1の八杯合わせで味を調える


『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・関脇「むきみ切干」あさりと切り干し大根の煮物


『日々徳用倹約料理角力取組』より、精進方・関脇「昆布油揚げ」(昆布と油揚げの煮物)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・小結「芝エビから炒り」(醤油で味付け)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、精進方・小結 「きんぴらごぼう」


『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・前頭一 「まぐろから汁」(鮪身の味噌・だし合せ汁)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・前頭三 「たたみいわし」イワシ稚魚を板状にしたもの


『日々徳用倹約料理角力取組』より、精進方・前頭三 「ひじき白あえ」


『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・前頭五 「まぐろ剥(すき)身」


『日々徳用倹約料理角力取組』より、精進方・前頭五 「芋茎(いもがら)油揚げ」(煮付け)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、魚類方・前頭五 「塩かつお」(鰹の塩漬け)」


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「しじみ汁」(魚類方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「鰯(いわし)ぬた」(魚類方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「人参の白あえ」(精進方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「えび鬼がら焼き」(魚類方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「筍あらめ」タケノコと荒布(あらめ)の煮物(精進方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「くじら汁」(魚類方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「焼きはまぐり」(魚類方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「山かけ豆腐」(精進方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「子鮒(ふな)すずめ焼き」(魚類方)


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「たらの煮しめ」(魚類方


『日々徳用倹約料理角力取組』より、「納豆汁」(精進方)


江戸時代の庶民料理(蛸料理)

昔から親しまれていたタコを使った江戸時代のおかず。

〇いも煮タコ

『黒白精味集』(延享三年,1746年)より、「いも煮タコ」、写真:ビデリシャス
『黒白精味集』によれば、、タコの煮方の記述に味噌でタコの足を一本ずつよく扱き、鍋かすり鉢で味噌を一掴み入れて良く揉んだあと、乾煎りすると吸盤も落ちず歯切れよく柔らかになるとあります。その際に里芋を四つばかり入れるとあります。

〇タコの桜煮

『料理物語』(寛永二十年,1643年)より、「タコの桜煮」、写真:ビデリシャス
桜煮は別名桜煎とも呼ばれる料理で、タコの足を切り醤油などで煮たものです。『料理物語』によれば、小口で薄めに切り、さっと煮るとあります。『古今料理集』(延宝二年、1674年)にも煮過ぎると身が固くなりよろしくない、とあります。

〇酢だこ

『素人庖丁』(享和三年,1803年)より、「酢だこ」、写真:ビデリシャス
『素人庖丁』によれば、細かく薄く切って塩を少し入れた酢に良く漬け込むとあります。4,5回酢を変えて、その度に良く手で揉み込み、生姜の千切りを添えて出します。一緒に出す時に酢の物のように酢をかけて出すことはしないとありますので、それだけよく漬け込んだと思われます。

〇タコ衣かけ

『素人庖丁』(1803)より、「タコ衣かけ」、写真:DIAMOND online
江戸時代には「からあげ」という呼び方はなかったものの、『素人庖丁』などでは、煎出(いりだし)・衣かけの名で魚介類や野菜類を素揚にしたり、小麦粉をまぶして揚げたりしている。


江戸時代後期の蕎麦屋メニュー

江戸末期の風俗記『守貞饅稿』/喜田川守貞の「そば屋の品書き」によると、御膳大蒸籠(蕎麦の大盛り) 四十八文、そば(盛り蕎麦) 十六文、あんかけうどん 十六文、あられ 二十四文、天ぷら 三十二文、花まき 二十四文、しっぽく 二十四文、玉子とじ 三十二文、そして上酒一合 四十文と記している。


■花巻そば 『守貞漫稿』嘉永六年(1853)
『守貞謾稿』に「花巻 代二十四文、浅草海苔をあぶりて揉み加ふ」とある。

「花巻そば」 写真:「身体が喜ぶ江戸料理」車 浮代
安永年間(1764-80年)に発行された料理本『献立部類集』には、「浅草海苔」を使った吸い物や巻き寿司のレシピが掲載され、かけ蕎麦に焙った浅草海苔を散らした「花巻」も、この頃に考案された。「花巻」の名前の由来は、江戸っ子は浅草海苔のことを、誇りを持って「磯の華」と呼んでいたからで、“蕎麦に花を撒く”=花巻 となった。

■天ぷらそば 『守貞漫稿』嘉永六年(1853)
『守貞謾稿』に「天ふら 代三十二文、芝海老の油あげ 三、四を加ふ」とある。

芝海老の「天ぷらそば」 写真:蕎麦学/季節蕎麦の魅力、「室町砂場 赤坂店」
当時、江戸では江戸前の魚を使ったものを『天ぷら』と呼び、それ以外の野菜を揚げた料理を『胡麻揚げ』と呼び区別したようです。『芝海老』の旬は11月~3月で江戸前で獲れていました。江戸で蕎麦の種に使われたのは『芝海老』で、天ぷらそばの具材は『芝海老のかき揚げ』の事と推測されます。

■あられそば 『守貞漫稿』嘉永六年(1853)
『守貞謾稿』に「あられ 代二十四文、ばか(青柳)と云ふ貝の柱をそばの上に加ふを云ふとある。

あられ蕎麦、写真:「手打ちそば 石月」
かけそばの上に海苔を敷き生の貝柱を散らした暖かいそば。貝柱は江戸深川や千葉・行徳などでとれた馬鹿貝(江戸時代の呼称で、現在ではあおやぎ)の小柱をあられに見立てた。この小柱を寒冬からぱらぱらと降ってくる霰(あられ)に見立てて、この名がつけられたといいます。


江戸時代後期,江戸の寿司

「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』文政12年(1829)が握り寿司の文献的初出である。
握りずしを創案したのは「與兵衛鮓」華屋与兵衛とも、「松が鮨」堺屋松五郎ともいわれる。 当時は握りずしを「握り早漬け」と呼んだという。握りずし(握り早漬け)は、江戸前寿司を代表とする寿司の一種であり、酒粕をもとに作られた粕酢(かすず)による赤シャリの酢飯と新鮮な魚介類を食材にした寿司ネタを使用し、「塩や酢で〆る」「醤油に漬ける」「蒸す・煮る」などの仕込みを行う江戸の料理として広がった。

握り寿司(江戸前寿司)
『守貞謾稿』は、天保(1830~44)末頃の「握り寿司」の具について次のように記録している。「江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。 以上、大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添うるに新生姜(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり」

握り寿司(江戸前寿司)

写真:生姜のガリ・鯛・コハダ・煮穴子・マグロ漬け・車海老・海苔巻き(干瓢)
深川「すし三ツ木」より、酢や塩で〆たネタと今の3倍ほどもある赤酢で仕込んだシャリ。昔の文献を紐解いて当時の寿司を忠実に再現したという「正調 江戸前にぎり寿司」。


銀座「鮨 竜介」より、中トロと大トロの握り寿司、赤酢(粕酢)で合わせたシャリとネタで作られる。当時のネタは赤身マグロである。


「笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし)」は、両国の「與兵衞鮓」、本所安宅(あたけ)の「松が鮨」と並び”江戸三寿司”にかぞえられた。
「守貞謾稿 巻之六(生業下)」(嘉永6年-1853刊)には、『毛ぬきずしと云うは、握りずしを一つづゝくま笹に巻きて押したり。価一[つ]六文ばかり』とある。


写真:神田小川町「笹巻けぬきすし総本店」、海老・たまご焼き・おぼろ(海老入り)・こはだ・鯛

「笹巻けぬきすし総本店…江戸のすしは長く保たせるため、かなり酸味のきついものだったといいます。すしダネは七種類、鯛,光もの,白身の魚は季節で変わる。ほかに海老,おぼろ,たまご,海苔巻。魚類は塩漬けにした後、酸度の強い一番酢に漬けて一日しめる。その後、少し酸度の弱い二番酢に三、四日漬ける。従って普通のすしより酸味の効いた独特の風味が得られます。」"神田法人会"より

江戸の庶民の献立,そうめん料理

室町時代後期の『尺素往来(せきそおうらい)』には「索麺(素麺、そうめん)は熱蒸、截麺(きりむぎ)は冷濯(ひやしあら)」とあり、切り麺は冷たくして食べるのか主流であったようで、これが冷や麦の元祖である。夏は冷やし素麺、冬は温麺(入麺)という食べ方が確立してくるのは江戸時代である。

寛永20年〔1643年〕に刊行された『料理物語』をみると、「にゅうめん」についての作り方を記し、「まづ素麺を短くきり、ゆで候てさらりとあらひ(洗い)あげおき、たれみそ(垂れ味噌)にだしくはえふかせ入り候。小菜、ねぷか、なすぴなど入りてよし。うすみそにても仕立て候、胡椒、さんせう(山椒)の粉」とある。なお、『料理物語』には「煮貫」の作り方も記されており、「なまだれにかつほを入せんじこしたるもの也」とあり、「垂れ味噌」の作り方も記され、「味噌一升に水三升五合入せんじ三升ほどになりたる時ふくろに入たれ申候也」とある。江戸初期の料理書なので、まだ醤油は普及しておらず味付けに使用されていない。

江戸初期には素麺作りが栄え、庶民の間で素麺が食べられるようになり、江戸時代中期になると、味噌味のつゆから地元で造られる醤油を使ったつゆが一般化した。
素麺作りが発展したのは、江戸時代にお伊勢参りの旅人によって「三輪素麺」が全国に宣伝され、素麺づくりが農民の副業として各地に広まったといわれている。また、幕府は乾麵である素麺が数年日持ちするため、飢饉が発生した時の保存食として素麺づくりを推進した。素麺を温かいつゆで食する「にゅうめん(入麺/煮麺)」という食べ方が定着したのも江戸時代で、四季を通じて素麺が食べられていた。


『料理伊呂波庖丁』より、「みそにゅうめん」、小松菜に白胡椒をかける。
写真:DIAMOND online/車 浮代


『料理伊呂波庖丁』より、「にゅうめん」、削りカツオとわさびをのせる。
写真:『江戸のおかず帖 美味百二十選』島崎とみ子著


『北斎漫画 十二編』より「素麺」の絵/葛飾北斎,文化12年(1815)

江戸時代に書かれた書物『守貞謾稿』から、素麺の説明には、「又古は うどん素麺饅頭の類 縁高の折敷(おしき)にもり 湯を入れ 折敷を組重ね 汁及び粉きり物 酢菜等を添へて出す也 粉切物は今云薬味也」とあり、うどんに限らず素麺・饅頭なども折敷に盛り、折敷を複数重ねて組み合わせ、汁と薬味、酢漬けの野菜等を添えて提供されたという。


現代に生きる江戸のてんぷら(串天ぷら)

現在のてんぷらを指して「てんぷら」もしくは「てんふら」と記述している最も古い料理書は、1748(寛延元)年刊行の『歌仙の組糸』(冷月庵谷水著)である。同書には、以下のように記されている。
「てんふらは何魚にても饂飩(うんとん)の粉まふして油にて揚る也 但前にあるきくの葉てんふら又牛蒡蓮根(れんこん)長いも其外何にてもてんふらにせん時は饂飩の粉を水醤油とき塗付て揚る也 常にも右之通にしてもよろし又葛の粉能くくるみて揚るも猶宜し」。
この記述を見ると、衣がうどん粉を水で溶いた軽いものになり、味つけも醤油だけになっている。新鮮な魚介類の持ち味を生かすため、衣は薄くなり、味つけもシンプルになっていったことが分かる。こうして、現在のてんぷらにつながる「江戸前てんぷら」が誕生したのである。


写真:海鮮串天ぷら「中野家」


写真:元祖 串天ぷら「むてっぽう」


江戸時代と現代の「幕の内弁当」

江戸時代、歌舞伎は日の出から日没まで上演される、一日がかりの娯楽でした。
そこで、芝居の幕と幕の合間に観客が食べるお弁当を「幕の内弁当」と呼ぶようになったといわれています。


『守貞謾稿』に記述がある「幕の内弁当」を再現した弁当。
再現した「幕の内弁当」の内容は、握飯10個、蒟蒻、焼豆腐、干瓢、里芋、蒲鉾、卵焼である。


現在の「幕の内弁当」のひとつ。
写真は東京・歌舞伎座場外(地下2階)で販売されている歌舞伎座特製の「江戸風幕の内」です。

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