江戸時代の醤油文化


「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図」より一部 歌川広重
旧暦の名月の深夜、江戸湾外の芝高輪で振るわいを見せる屋台と多くの庶民たち。屋台として「志るこ、だんご、麦湯、二八そば・うどん、天ぷら、いかやき、寿し、水かし(果物)」が描かれている。

江戸食文化の定着(1)江戸初期から中期

江戸前期までは階級に関係なく食事は家で取るのが当たり前で、食事も一汁一菜を基本とした質素なものだった。そんな江戸時代に外食産業が登場するのは、「振袖火事」として有名な1657年に起こった明暦の大火の後である。明暦の大火は江戸市中の三分の二を焼き尽くした。その復旧のために全国から大工、左官、鳶などの職人や土方が集まる。すると職人たちのような独り者を相手に煮売り(惣菜屋)の商人が増えていく。また火事の延焼を食い止めるために、火除け地が設置され、そこが庶民のたまり場にもなり屋台も出る盛り場になっていく。

外食店である食べ物屋が誕生し発展していくきっかけとなったのが、浅草の浅草寺境内の「茶屋」で茶飯や豆腐汁、煮染め、煮豆などをセットにして「奈良茶飯」として販売されたのが最初と言われている。
「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」という蕎麦屋ができた。江戸時代も中頃に入ると、更に、諸国から職を求めるものが江戸に流入してきて人口が増えた。それらの大部分は職人たちであった。江戸の職人たちは腹が減るのを紛らわそうと、こまめに間食をするようになった。こうした職人たちの需要にこたえたのが屋台である。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。

外食の手段「振売り・屋台・屋台見世」

江戸初期から江戸中期にかけては、簡易な外食の手段として「振売り(棒手振 (ぼてふり) ともいう)」、「担い屋台」、「屋台見世(店)」などが見られ、そば屋や寿司屋、豆腐を串刺にした一串三文のみそ田楽(でんがく)の辻売り、甘酒・玉子・豆腐・ところてん・どじょう・冷水・砂糖水などのさまざまな振売りや担い屋台が繁盛した。

■ 寿司
酢が調味料として一般に広まったのは江戸時代になってからである。酢が味噌、醤油とともに庶民の食生活にも普及し、様々な合わせ酢や、それまでの「なれずし」などの「発酵すし」とは異なった、飯に酢を混ぜて作る上方の押しずしなどの「早ずし」が広まったのが江戸時代中期である。

江戸初期の寿司と言えば、寛政期(1790年代)までは大坂から伝来した「押しずし」が主たるものであった。四寸四方の鮨で四十八文。小口に切っての販売もされた。具は鳥貝・卵焼き・鮑・鯛等。酢飯の中に椎茸を混ぜ込むこともあるという。
その他にも「海苔巻」寿司も当時からあり、巻寿司を海苔で巻くようになったのは江戸の浅草が発祥と考えられている。江戸独特の握り寿司も江戸が発祥で、握り寿司が登場するまで「すし」といえば押し鮨であり、振り売りなどで売られていた。

江戸では、寿司の主流が、次第に「押しずし」から「握りずし」へと遷っていった。押しずしが、江戸では握りずしのみになったことが、『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という文献で次のように述べられている。
『また江戸にても、 原(もと)は京阪のごとく筥(はこ)鮨。近年はこれを廃して握り鮨のみ。握り飯の上に鶏[卵]やき・鮑・まぐろさしみ・海老のそぼろ、小鯛・こはだ・白魚・蛸(たこ)等を専らとす。その他なお種々を製す。』 ここにあるように、幕末頃の代表的な鮨ネタとしては、卵焼き、まぐろ、車海老、芝海老そぼろ、白魚、鮪、こはだ、あなご、等であった。これらの握りずしはすべて一個八文で、卵焼きのみが十六文であった。


すし屋台見世(床見世とも云う)/幅:六尺、奥行き:三尺

その頃の寿司の店は、多くは屋台風で、片流れの屋根をつけ、前と両側に油障子を立て、その中でツケ台に「握りずし」を置いて、客は立食の形式であった。客は握られた寿司を手に取り、大きなどんぶりに入った醤油をつけて、口に放り込んだ。このような屋台の寿司屋が普及し、庶民の気軽な食べ物として親しまれるようになる。

江戸時代の寿司屋は、ほとんどが屋台か担ぎ売りであった。このため、寿司を屋台で売るだけではなく、寿司を箱に入れて担ぎ、売り回る(振売り)こともあった。鮨(すし)の担ぎ売りは、白木の長手の箱を何枚も肩に担いで『すしや、コハダのすウし』と呼び声を上げながら売り歩いた。
担ぎ売りの鮨ネタには、まぐろの鮨もあったが、代表的な鮨といえば、コハダの鮨であった。値段も安く一個四文でもあり、庶民は安価なコハダの鮨を買い求めた。
   
鮨売り(振売り)
鮨売りの呼び声は~ すしや、コハダのすウし ~


■ 天麩羅
天ぷらは、慶長年間(1596~)には京都で非常に流行っており、庶民の口には入らぬ高級料理であった。江戸の初期には油を使ったいろいろな南蛮料理の揚げもの総称を「天ぷら」と呼んでおり、その形態、調理法も種々あったが、江戸時代中期以降になると、手の中に入るような小さな江戸前の魚を使った魚の衣揚げを「天ぷら」と呼ぶようになった。

寛延元年(1748)の『料理歌仙の組糸』には『てんふらは何魚にても饂飩(うどん)の粉まぶして油にて揚げる也』とあるのが天ぷらの文献上の初出とされる。
江戸の町に天ぷらの屋台が登場するようになったのは、、江戸中期の天明五年(1785)からである。天ぷらは当初、屋台料理として江戸で成立した。
江戸の天ぷら屋は幕末になるまで辻売りの立食いばかりで、ちゃんと座る場所を設けた天ぷら屋ができたのは、文化頃(1804~)からである。慶応頃(1865~)以後には、庭もあり、畳に座って食える高級料理屋の天ぷら屋が登場してきた。

天ぷらは、屋台の中でも蕎麦・寿司と並んで人気が高く、江戸の三味と呼ばれた。天ぷらは、路上での辻売り屋台の立食い見世であるで、江戸前で取れた芝エビや貝柱、穴子、コハダなどの魚介類を油で揚げた「天ぷら」が人気であった。特に江戸では江戸前の魚を使ったものを「天ぷら」と呼び、それ以外の野菜を揚げた料理は、上方では「あげもの」、江戸では「胡麻あげ」と呼ばれて区別された。

「天ぷら屋」と呼ぶ立売り屋台見世の天ぷらは、一串四文程度の手頃な価格で売られており、庶民でも気軽に食べられるもので、揚げたての江戸前のネタに竹串を刺し、壺に入った天つゆ(醤油をだしで割り、大根おろしを入れたもの)にくぐらせて立食いする大衆的な庶民料理であった。

天ぷらは、高温の胡麻油による火災を心配して、屋内ではなく屋台で売られた。守貞謾稿「近世風俗史」には、『屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。其の他、皆、食物の店なり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に置く』とある。このように、庶民は日々の食事に必要なものを購入して食していた。
こうした、移動せずに売るのを「立売り」と言い、「屋台見世(鮨や天ぷらといった立ち食いの店)」と「乾見世(ほしみせ:台付きの板を広げて商品を並べる店)」とがあった。


『園中八撰花・松』/歌川国芳 弘化末1847年頃(海老の天ぷら)

天ぷらの流行を支えたのが、江戸中期以降の菜種油・胡麻油の食用油や小麦粉の生産増で、江戸中期頃から庶民の食べ物として普及していった。
天ぷらが豪商や上流の武士が利用する高級料亭で、座敷でも食されるようになったのは、高級食材を取り入れた天ぷら(金ぷら)が登場した文化期(1804~18)頃から江戸時代末期のことである。


■ 蕎麦
江戸時代以前は「蕎麦」といえば、今でいう「蕎麦がき」を言った。この「蕎麦がき」に対して麺状の蕎麦は「蕎麦切り」と呼ばれた。やがて「蕎麦」といえば「蕎麦切り」を指すようになった。江戸で蕎麦切りが初めて記されたのは慶長19年(1614)の『慈性日記』とされており、小伝馬町の東光院で蕎麦切りが振る舞われたと記載されている。蕎麦切りとは、つゆを付けてから食べる蕎麦である。
四代将軍家綱の寛文年間(1661~73年)頃から、一杯ずつ盛切りにした蕎麦を汁につけて食べる「蕎麦切り」が、江戸の食文化として定着を始めたと推測されている。

江戸時代前期1603~1651)の蕎麦切りは、つけ汁を用いて食した。
元禄10年(1697)の「本朝食鑑」の蕎麦切りの記述では、『蕎麦切りのつけ汁は垂れ味噌の汁・酒・乾鰹の細片で出汁をとり、塩・溜醤油で味付けをした。そばの薬味は、大根汁・花鰹・わさび・蜜柑の皮・唐辛子・のり・焼味噌・梅干などが用意されて、椀ひとつに蕎麦・汁・薬味を混ぜ合わせて食べる。そばの薬味は辛い大根汁が好まれた』と書かれている。

江戸中期の元禄(1688年~)の頃になると、「蕎麦切り」のつなぎに小麦粉が普及するのに従って、蕎麦は茹でて出されるようになり、「だし」の普及とともに、江戸では主に鰹節が使われ、上方では主に昆布が使われるようになる。濃い「だし」を取るために、江戸では鰹節が主に使われるようになったとされている。

蕎麦つゆは、江戸時代の後期、文化年間(1804年頃)に完成された。
江戸の蕎麦つゆの出汁は、主に鰹節(枯れ節)であり、醤油は関東地廻り醤油(濃口醤油)を使用した。蕎麦つゆ(出汁+かえし)が出来てから、「蕎麦と汁とを和える」食べ方から別れて「蕎麦をつゆの出汁につける」食べ方が生まれた。

『東海道五十三次』「見附」/文化元年(1804)葛飾北斎 画

江戸時代、幕府は火災を恐れて「屋台」で火を使い売り歩く「振売り」は原則禁止されていた。貞享三年(1686年)には、『うどん、蕎麦など何によらず、火を使う移動販売を禁止する、一定の場所で商売をする場合はかまわないが、火の元には十分に注意をするように』と、うどん蕎麦切りその他火を持ち歩く商売を禁止する御触書が出された。さらに、元禄二年(1689年)には、『頃日、煮売の者火を持あるき商売仕り候よし相聞き候。前廉御触れなされ候通り、饂飩蕎麦切その外何によらず、火を持あるく商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候』とうどん・蕎麦・その他の火をもって調理などする行商を禁止した。

これは火事の危険性を考慮したものである。しかし、そば担い屋台は夜間外出の難しかった当時にあって夜鳴きそばを売り歩き、人々から重宝された。
この頃、蒸し切り蕎麦(もりそば)が一杯六~七文、蕎麦切り(ぶっかけそば)が一杯十六文である。
元禄期(1688-1703年)には蕎麦の名店もでき、また、担ぎ商いの「夜そぱ売り」も次第にその数を増していったようである。当時は薪代(燃料費が非常に高かったので、自炊するより外食のほうが安上がりで便利であった。また、残り火が火事の原因となることが多く、自宅での火の取り扱いを控えていたことも外食文化が根づいた背景といえる。

このように、江戸中期(1651~1745)の時代は料理を提供する担ぎ商いの行商の振売りや担い屋台、屋台見世が社会的に無視できないほどの規模で存在していたことがうかがえる。
また、江戸中期には「だし、醤油」などの調味料の向上もあり蕎麦の普及に拍車をかけることになる。うどん・蕎麦は、屋台の代表でもあった。居見世(店)の「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめたのは、享保(1717年以降)の頃からといわれ、それまでは「慳貪(けんどん)屋」といい、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商っていた。


二八蕎麦切り屋(蕎麦屋)の絵
江戸中期の『絵本江戸土産』宝暦三年(1753年) より「あさ草なみ木町(並木町)」

料理を配達して客前に届け運ぶ人を「かつぎ(出前持ち)」という。
「かつぎ」は、天秤で蕎麦を担ぎ町を駆け抜ける威勢のいい粋な姿は江戸の華でもあったと伝えられる。すでに、享保(1716~36年)の頃は、『蕎麦切りゆでて、紅がら塗りの桶に入れ、汁を徳利に入て添きたる』(還魂紙料)とある。
そば屋の「かつぎ」は、茹でた蕎麦・つゆ・薬味などを入れた「慳貪箱」に天秤棒の格好(出前)で運んだ。


そば屋のかつぎ市村羽左衛門/文久2年(1862)歌川国貞 画
〝かつぎ〟は蕎麦屋の出前

享保機の中頃(1720年代)には、蕎麦屋が多数できて饂飩(うどん)よりも蕎麦が好まれた。このことは、安永5年(1776)に刊行された『うどんそば化物大江山』に『江戸八百八町に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一』とあることからも当時の蕎麦屋の優勢が垣間見える。当時の神田橋のあたりの蕎麦屋では、饂飩を入れる桶へ蕎麦を入れて運んだという。


店(居見世)構えで料理を提供

享保年間(1716~35年)に刊行された『絵本東わらは』には、当時の江戸の名物・名店が羅列してある。

それによると、『…サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、向島にあらひ鯉、王子のゑびや、下屋の浜田屋、古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、鈴木の蒲焼、真崎の田楽、洲崎のざるそば、鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん酢、吉原の蛇の目酢、…豊島屋の白酒は節句前に売切れ、稲毛のそうめん、三輪よりほそし』とある。


めいぶつ大かばやき
深川八幡前の蒲焼売りの画/『神社仏閣江戸名所百人一首』享保13年(1728年)
九十四首、参議雅経 『みきしのの やすみかばやき さけうけて 深川とへば ここぞ八まん』

江戸初期から、町の辻々に屋台は数多く出ていたが、店舗を構えて営業する飲み食いのできる店、飯屋(めしや)、煮売り屋(にうりや)、居酒屋などが普及してくるのは、江戸中期以降からである。天明年間(1781~89)以降には、本格的な居見世(いみせ)の寿司屋、鰻屋、天ぷら屋などの料理屋が出てくる。
店売りには、煮炊きをした惣菜類を店頭で売る「煮売り屋」と店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。

煮売り屋は、なんでも一つ四文で売ったことから「四文屋(しもんや)」とも呼ばれ、焼き豆腐、こんにゃく、アワビ、スルメ、れんこん、刻みごぼうなどを醤油で煮染め、大皿に盛って並べて売っていた。煮売り屋は、魚や野菜などの煮物を食べさせたり、持ち帰りできる店であった。飯屋や居酒屋のようなところもあるし、屋台店もあった。

煮売り屋
店頭の文字は右から、おすいもの、御にざかな、さしみ、なべやき


■ 四文屋(しもんや)の屋台
四文屋(しもんや)の屋台について、天保年間(1830-43)に出版された『江戸繁昌記』には、つぎのように紹介されている。
「鍋の中に幾串も、芋をさし、豆腐をさして、いろいろ浸してある。鍋で煮てあり、香ばしい湯気か立っている。一串が四文で、かってに選んで食べる。これを四文屋という」。

四文屋か流行した背景にあるのは、明和五年(1768)に、新たに額面四文の銭が発行されたことにある。四文銭の出現は、物価にも大きな影響をあたえ、商品の値段か四文の倍数、八文、十二文、十六文、二十四文などか主流となったと云われる。


四文屋(屋台居酒屋)
酒の肴として、一串四文均一のおでんの具を食べている。
『近世職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば)文化3年(1806)


■ うなぎ蒲焼
うなぎの蒲焼きの初出は、正保年間(1640年代)に書かれた『料理物語』である。江戸時代の前半までは、蒲焼きは、「うなぎの丸焼きをぶつ切り」にしたもので、塩や味噌を付けて食べるものであった。また、そうした食べ物は、下賤の食べ物として、武士やそれなりの家の人間は食べなかった。

江戸の河川(深川、神田川、蔵前)で採れたウナギを、蒲焼きにして食べるのは、江戸初期のころから行われていた。江戸前の美味しい鰻は、深川、神田川でとれた天然鰻を最上のものとした。 他の地方からくるものは「旅うなぎ」と言って、「江戸後」(えどうしろ)として区別しており、江戸前の鰻より安かった。

上方(関西)で刊行された『好色産毛(こうしょくうぶげ)』(元禄時代 1688-1707)という本には、ウナギを串に刺した蒲焼きらしきものと「うなぎさきうり」という看板、露店のうなぎ売りの行灯が本の挿絵に見られる。

うなぎ蒲焼きは上方(関西)で発達し、正徳年間(1711-15年)に江戸に伝わったといわれている。鰻丼は、文化年間(1804-18)に日本橋堺町の芝居小屋から始まったとされている。
文化・文政から嘉永年間(1804-54年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえた。これには、天明年間(1781-89年)に江戸という大消費地を控えた野田、銚子で開発された関東地廻り醤油(濃口醤油)が関係していた。

江戸の鰻は辻売り(屋台店)が盛んで、当初は辻売りばかりで定まった家に店を構えた鰻屋というものは、天明年間(1781~)まで無かった。その後にできた鰻屋としては、尾張町すゝき、牛込赤城前木村屋、同所裏門前神田屋、などの名前が見える。

うなぎが、多くの庶民の口に入り始めたのは、元禄期(1688-1707年)からのようである。現在の鰻の蒲焼に近いもの(丸焼きだけではなく、裂いて売る)が元禄時代から享保時代に出てくる。享保13年(1728年)に出版された『料理網目調味抄」の中に、醤油や酒を使ったウナギ串が記されており、味は現在の味に近かったとされている。
元禄前後(1688)の頃に、江戸の町にはうなぎ蒲焼の小屋掛け程度の屋台店が登場したと思えるが、まだ、鰻屋というものが無かった。座敷のある店舗の形態を構えた「鰻屋」が登場するのは天明年間(1764-81年)の初めごろである。


■ 鰻屋
江戸中期の風俗を記した文政五年(1822年)の『明和誌』によると、土用の丑の日に鰻を食する習慣は、安永・天明(1772~89年)の頃より始まったとする記述が見られる。


鰻屋(店でのうなぎ蒲焼売り)
『近世職人尽絵巻』文化3年(1806年)刊行

天保四年(1833)の風俗の変化を記した『世のすがた』(著者不詳)によると『うなぎの蒲焼は天明のはじめ(1780頃)上野山下仏店にて、大和屋といへるもの初て売出す、共頃は飯を此方より持参せしと聞、近来はいつ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり』とあり、上野下谷の仏店(ほとけだな)の大和屋・上総屋で蒲焼が売り出されたが、当時は客が飯を持参して蒲焼を食べたという。
天明年間には、蒲焼単体の販売であったものが、しだいに飯をそえて売るようになったことがわかる。

安永六年(1777)刊の三都の名物評判記『富貴地座位(ふきじざい)』には、江戸名物料理の部に『江戸前鰻、やげん堀深川』とあり、両国の薬研堀(やげんぼり)に店構えの鰻屋があったと考えられる。
この時代の鰻屋はあまり料理をしなっかた。せいぜい肝吸物ぐらいであった。寛政・享和の頃(1789~1804)には、江戸回りや江戸市中にも鰻屋は少なかった。

蒲焼と飯を一緒に出す鰻飯屋は、文化年間(1804-17年)に誕生した。天保(1830~)の初めになると、一町に二、三軒あるところはあっても、一町にないところはないというぐらい多くなっている。一方、江戸前の蒲焼は辻売り屋台が盛んで、辻売りは幕末まで盛んであった。
この蒲焼は一串十八文ぐらいと安く、庶民に広く普及していく。また辻売りの一種で、両国川の舟で焼いて両国の夕涼み舟に売る蒲焼もあった。


■ 居見世(いみせ)
江戸中期の後半から江戸後期にかけては、本格的な居見世が現れて、居酒屋、料理屋、飲食店が増え始め、代金さえ払えば誰でも自由に飲み食いができた。
また、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や中庭を置き、離れや二階座敷を設けて独自の空間を演出する高級料理屋(料亭)も生まれた。

「くぎだな むぎめし」


■ 料理屋(即席会席料理屋)
幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役(るすいやく)」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅(ぜい)を尽くすような料理茶屋が次々とできた。

料亭の元祖といわれる深川洲崎の「升屋」は、明和八年(1771年)に生まれたとされる。江戸随一と称された八百善の開店は、その三十数年後の享和(1801年)のころである。江戸時代の中期ごろ、料理茶屋の双璧といわれたのが、浅草山谷の「八百善(やおぜん)」と深川の「平清(ひらせい)」だという。

宝暦から天明期・化政期には、定食料理屋も出現していた。喜多村香城の『五月雨草紙(さみだれぞうし)』には、『深川の回向院(えこういん)前の淡雪豆腐、浅草並木の枡屋田楽などいふ見世(店)ありて、一通り食事を弁ずるには銭百文位にて済しなり』とある。
これらの料理屋は、一食、銭百文で食事ができることから 「百膳」と呼ばれた。「百膳」と称する店には、大竹輪・椎茸・青野菜の煮染しめ・つみれ汁と飯・香の物で、一食百文ほどの定食を出す料理屋もあった。


■ 居酒屋・一膳飯屋
煮売り酒屋には「七輪や鍋、食器を天秤棒で担いで行商する」「屋台を出して辻売りする」「店を構えて商いをする」の三種類があった。宝暦年間(1751~64年)の頃には、「煮売居酒屋」が登場し、煮売居酒屋で、煮豆、煮しめ、焼き田楽(おでん)などを煮売りし、 店先に空樽や木の板に足をつけた腰掛の床几(しょうぎ)を置き、腰かけさせて酒を飲酒(居酒といった)をさせるようになったのが「居酒屋」の原型と云われている。そういう店は、店先に“居るままで酒を飲ませる”ので、「居酒屋」と呼ばれるようになった。

17世紀中頃から、簡単な惣菜で盛切りのどんぶり飯(一膳飯)に副食をつけて売っていた「飯屋」も少しずつ現れはじめた。奈良茶飯に煮しめ、漬物などを添えて出す「一膳飯屋」が浅草界隈に現れた。「一膳飯屋」は、煮売り屋から発展した店で、米飯と汁ものを一緒に出したり、鍋物・酒・菓子類も提供した。


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