江戸時代の外食・醤油文化

江戸食文化の定着(1)江戸初期から中期

江戸前期までは階級に関係なく食事は家で取るのが当たり前で、食事も一汁一菜を基本とした質素なものだった。そんな江戸時代に外食産業が登場するのは「振袖火事」として有名な1657年に起こった明暦の大火の後である。明暦の大火は江戸市中の三分の二を焼き尽くした。その復旧のために全国から大工、左官、鳶などの職人や土方が集まる。すると職人たちのような独り者を相手に煮売り(惣菜屋)の商人が増えていく。また火事の延焼を食い止めるために、火除け地が設置され、そこが庶民のたまり場にもなり屋台も出る盛り場になっていく。



江戸時代には庶民が住む長屋では本格的な台所は無かった。そのため天秤棒を担いで行商する「棒手振り」とか「振売り」、さらに屋台が発達していった。手軽に始められる「棒手振り」は、天秤棒で担ぎ行商するものであったが、やがて元禄の頃に木炭が普及すると、その場で調理し、焼き魚やそば、おでんなども販売するようになった。
また店を構えるものとして屋台がある。屋台には、簡単に場所を移動できる担ぎ屋台や屋根付きで常設できる立ち売りがあり、後者は人が集まる寺院の境内、門前や船着き場など一定の場所に店を構えた。

外食店である食べ物屋が誕生し発展していくきっかけとなったのが、浅草の浅草寺境内の「茶屋」で茶飯や豆腐汁、煮染め、煮豆などをセットにして「奈良茶飯」として販売されたのが最初と言われている。「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」という蕎麦屋ができた。
江戸時代も中頃に入ると、更に、諸国から職を求めるものが江戸に流入してきて人口が増えた。それらの大部分は職人たちであった。江戸の職人たちは腹が減るのを紛らわそうと、こまめに間食をするようになった。こうした職人たちの需要にこたえたのが屋台である。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。

江戸時代半ば以降に普及した握り寿司やウナギ、天ぷらなども、初めは江戸庶民の手軽なファストフードの屋台として登場した。いずれの料理も当初は、上方(関西)で生まれたものが、江戸において洗練され「江戸前料理」として発展した。
江戸前料理の味の基本になっているのは、関東で醸造された濃口醤油だった。濃口醤油(地廻り醤油)は関西の醤油より小麦を多用した香りの豊かさが特徴である。がっしりとした濃さは蕎麦のつゆにむき、鰻の蒲焼きのタレもこってり味になり、天ぷらの「てんつゆ」もできた。寿司の味を引き締め、握りずしが隆盛するなど、江戸の食文化は濃口醤油によって完成されていった。


外食の手段「振売り・屋台・屋台見世」

江戸初期から江戸中期にかけては、外食産業の多くの種類において、簡易な外食手段の「振売り」または「棒手振(ぼてふり) 」、「担い屋台(天秤棒で担ぐ振り売り)」、「屋台見世(店)」などが見られ、路上で売られた食べ物は、豆腐を串刺にした一串三文のみそ田楽(でんがく)の辻売り、甘酒・ゆで玉子・豆腐・ところてん・どじょう・冷や水(砂糖や白玉入り)などのさまざまな振売りや担い屋台が繁盛した。

江戸時代には庶民が住む長屋では本格的な台所は無かった。そのため天秤棒を担いで行商する「棒手振り」とか「振売り」、さらに屋台が発達していった。
「振売り」とか「棒手振り」は、店を構えず、天秤棒の両端に商品を振り分けにして担いで、町々を商品の名を大声で呼びながら売り歩いた行商人である。野菜や魚、納豆といった食材から惣菜や菓子、食べ物ばかりでなく金魚や虫、苗木までとにかく何でも天秤棒に担いで売り歩いた。
万治二年(1659)に幕府が許可した振売り49種のうち、食べ物関係は、南蛮菓子・春米(つきまい)・麹・油・かつおぶし・串ナマコ・串アワビ・鮭の塩引・煎茶・肴(さかな)・時々のなり物菓子・菜(野菜)・塩・味噌・醤油・酢・豆腐・こんにゃく・ところてん・餅などであった。

屋台は江戸時代中期以降に広まった。屋台といえば簡単に移動できるものを想像しがちであるが、「守貞謾稿」によれば、かなり大がかりな設備で、ふだんは据店として一か所に据え付けたままにしておき、不用の時にだけ、担いで移動したという。「屋台」や「屋台見世」は人出のある場所に移動して商売をしていた。「振売り」と違ったのは、食材ではなくてそのまま食べられる料理を売ったことである。天秤棒で担いで売り歩いたのが担い屋台(担いで移動)で、寺院境内や門前の近くで商売をしていた床店(とこみせ)と呼ばれる仮設店舗を屋台見世(担げない)といった。

食べ物のなかでも、人気を集めたのは蕎麦である。貞享3年(1686)に江戸幕府より出された禁令の対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、この頃にはすでに持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が存在していた。町ごとに一軒はあったという蕎麦屋のほかに、細長い戸棚を二つつないで担ぐ夜鷹蕎麦や二八蕎麦屋が、数多く営業していた。

振売りや屋台の食べ物商売が発達した理由として、七輪の普及があげられる。七輪によって火を自由に、比較的安全に持ち運びできるようになり、常に温かな食べ物を提供できるようになった。幕府は火災防止の目的からたびたび火の持ち歩きを禁止しているが、実効性は薄かった。七輪は元禄時代ごろから登場し、燃料の炭代が一分もかからず、七厘で足りることから名付けられた。また、屋台の立ち食いなどに、丼鉢(どんぶりばち)も重要であった。盛り切りに適した丼鉢は、外食の発展に大いに寄与したのである。



「蕎麦」「寿司」「てんぷら」「うなぎの蒲焼き」は江戸時代の屋台から始まっている。
江戸の四大名物食(すし・天ぷら・蕎麦・うなぎ)の中で、蕎麦屋が出現したのが寛永年間(1748-51年)である。蕎麦屋の次にうなぎの蒲焼屋が生まれている。延宝8年出版の小咄本にはうなぎの「かばやき売り」が出ている。担ぎ売りや屋台では、そばと同じで一串16文で売っていた。
江戸前の小魚貝を使った辻売りの天麩羅の屋台は、“土用の丑の日”に鰻を食べる風習が定まった安永年間(1772-81年)に現れ、天麩羅一串、四文から六文の立ち食いの手軽なファストフードとして江戸市中に広まっていき、蕎麦屋が天ぷらそばも売り出すようになっていく。
「握り鮨」は文政5~6年に華屋与兵衛が酢を合わせたすし飯に魚などの具をのせ販売したことに始まると言われる。当時のシャリは現在より多めで現在のおにぎりに近い大きさであった。握り鮨は一貫四文か八文で売られていた。



蕎麦(そば)

江戸時代になると江戸城の普請のため、労務者、職人衆の腹の足しになるものを提供する必要から饂飩屋(うどんや)ができ、蕎麦も売られるようになる。うどんが広く普及し始めたのは天正年間(16世紀末頃)である。最初の頃は饂飩屋で蕎麦も売られていたが、蕎麦屋が独立し始めたのは享保元年(1716年)以降のことで、それまでは蕎麦を売っていても饂飩屋といわれていた。うどん屋のたたずまいは、表に行燈をかけ、それに、正面には「麺類處(処)」、側面には「二八うどんそば切り」と書いてある。そして、うどんは馬子の食べるもの、町人はかけそば、武家は寒中でも盛りそば、大店の旦那は種入りのうどんか蕎麦であった。

■江戸蕎麦とは
蕎麦は、古くは室町時代に、そば粉を熱湯で練り汁をつけて「蕎麦がき」として食べられてきた。その後、寛文年間(1661-1673)に「蕎麦切り」と呼ばれる細長く切った蕎麦が登場し、蒸して食べる(蒸し蕎麦)ようになった。文化文政期(1804-1830)には、銚子や野田の関東醤油が江戸市中に出回り始めていた。江戸の主流となった濃い口醤油の普及から醤油とカツオ出汁、煮きり酒などを混ぜてつくられる「つけ汁」が発達する。
「蕎麦切り」につなぎ(小麦粉)を使うことも蕎麦を茄でる調理法が主流になるのも元禄年間(1688-1704)以降であり、江戸後期には茹でた蕎麦(茹で蕎麦)をつけ汁につけて食べるようになる。やがて「蕎麦」といえば「蕎麦切り」を指すようになった。「蕎麦切り」を如でた汁は「蕎麦湯」と呼ばれる。これを飲む習慣は元禄年間の信濃に始まり、江戸に広まったのは寛延年間(1748-51)といわれている。

■「蕎麦切り」の初出
江戸で「蕎麦切り」が初めて記されたのは慶長19年(1614)の『慈性日記』とされており、小伝馬町の東光院で蕎麦切りが振る舞われたと記載されている。蕎麦切りとは、つゆを付けてから食べる蕎麦である。
『慈性日記』慶長19年(1614)2月3日に、「常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多く候てもとり(戻り)候。ソハキリ振舞被申(まうされ)候也」とある。 … 近江・多賀大社の(尊勝院)慈性は、常明寺へ行った後、薬樹・東光と三人で(江戸の)町の風呂に入りに行くが、人が多く、入らずに戻り、常明寺でそば切りをご馳走になった。「薬樹」というのは近江・坂本の薬樹院久運のこと、「東光」とは江戸・小伝馬町の東光院詮長のことである。

柳亭種彦著の『還魂紙料(かんこんしりょう)』文政九年(1826)をみると、慳貪(けんどん)の章をもうけて慳貪について記している。「寛文辰年(寛文4年,1664年)けんどん蕎麦切りといふもの出来て、下々買喰。貴人には喰者なし云々」とある。
慳貪とは“けち”のことで、「蕎麦切りにもあれ、飯にもあれ、盛切て出し、かはりをもすすめざるをけんどんといふなり。……」と記している。
そして、寛文4年(1664)の江戸および近郊に起こった事柄をまとめた『武江年表』には、蕎麦を器に盛り付けただけの便利で安い「慳貪(けんどん)蕎麦切り」が登場する。四代将軍家綱の寛文年間(1661~73年)に、そば粉をこねて現在のように細長い麺にした蕎麦切(そばきり)ができた。この頃から、一杯ずつ盛切りにした蕎麦を汁につけて食べる「蕎麦切り」は、江戸の外食文化として定着を始めたと推測されている。

■「二八蕎麦」の初出
新美正朝の『八十翁疇昔話(ハチジュウオウ ムカシバナシ)』享保十七年(1732)に、「寛文辰年(寛文4年,1664年)、けんどんうどん、そば切と云物出来、下々買ひ喰ふ。中々侍衆の前へ出し見る事もなし。(貴人には喰ふものなし) 是も近年は歴々の衆も喰ふ。結構なる座敷へ上るとて、大名けんどん杯と云ふて拵(こしら)へ出す。」とあり、これが樫貪の初出であり、当初、葭簀(よしず)張りの簡単な店で売られていたようで、蕎麦は「下々」の庶民が食べるものであったようだ。

■蕎麦切りの”つけ汁”の変遷(煮抜き汁=味噌、蕎麦つゆ=醤油)
江戸時代前期(1603~1651)の醤油が普及する以前の「うどん」「蕎麦切り」は、つけ汁を用いて食した。江戸初期に書かれた料理本『料理物語』には、「生垂(なまだれ)にかつほを入、せんじこしたるもの也」「味噌五合、水一升五合、かつほ二ふし入せんじ、ふくろに入たれ候、汲返(くみかえ)し汲返三返こしてよし」と記述があり、味噌を煮詰めて作る「煮貫き(にぬき)」汁であった。
・・・<「垂れ味噌」は、味噌に数倍の水を加えて煮出したのち、布袋に入れて垂れてきた(漉した)もの。これの火を入れないものが「生垂れ」。「煮貫き」は、生垂れに削った鰹節を入れて煮詰め、漉したもの。>

江戸中期の元禄(1688年~)の頃になると、銚子や野田の関東醤油が江戸市中に出回りはじめていた。また、元禄10年(1697)の『本朝食鑑』の蕎麦切りの記述では、「つけ汁を用いる。汁は垂れ味噌汁一升と好い酒五合を拌匀(かきま)ぜ、乾鰹の細片(かけら)四・五十銭(重さの単位)を加え、半時あまり煮る。慢火(ぬるび)では宜しくなく、緩火(とろび)で煮るのが宜しい。煎熟(よくに)たら塩・溜醤油で調和し、それから再び温める必要がある。別に大根汁・花鰹・山葵・橘皮(みかんのかわ)・蕃椒(とうがらし)・紫苔(のり)・焼味噌・梅干などを用意して、蕎切(そばきり)および汁に和して食べる。 大根汁は辛辣いのが一番よい」とある。
つまり、蕎麦切りのつけ汁は垂れ味噌の汁・酒・乾鰹の細片で出汁(煮貫き)をとり、塩・溜醤油で味付けをした。そばの薬味は、大根汁・花鰹・わさび・蜜柑の皮・唐辛子・のり・焼味噌・梅干などが用意されて、椀ひとつに蕎麦・汁・薬味を混ぜ合わせて食べる。そばの薬味は辛い大根汁が好まれたと書かれている。



この頃に、「蕎麦切り」のつなぎに小麦粉が普及するのに従って、蕎麦は茹でて出されるようになり、「だし」の普及とともに、江戸では主に「鰹節」が使われ、上方では主に「昆布」が使われるようになる。濃い「だし」を取るために、江戸では「鰹節」が主に使われるようになったとされている。江戸では「鰹節」の出汁のきいた煮貫き汁に、「大根おろし」や「陳皮(みかんのかわ)」「とうがらし」の薬味を入れて食べる蕎麦は格別のものだったらしい。

「蕎麦つゆ」は江戸時代の後期、文化年間(1804年頃)に完成された。江戸の蕎麦つゆの出汁は、主に鰹節(枯れ節)であり、醤油は関東地廻り醤油(濃口醤油)を使用した。蕎麦つゆ(出汁 + かえし)が出来てから、「蕎麦と汁とを和える」食べ方から別れて「蕎麦をつゆの出汁につける」食べ方が生まれた。

■かけ・もり・ざるの始まり
そば粉を練り熱いお湯に入れ固めた「そばがき」を細く切り出したものを「蕎麦切り」と呼ばれた。蕎麦とは、もともとは冷や汁に浸して食べるものであったが、江戸時代中期、元禄(1688〜1704)の頃に、冷たい蕎麦につけ汁をそのままぶっかけて食べる「ぶっかけそば」が広まり、それが「ぶっかけ」となる。「ぶっかけ」は立ったまま食べられるように冷やかけにして出したとされる。江戸時代後期、寛政(1789〜1801)の頃には、そばを温め、熱い汁をかけて食べる「かけ」蕎麦となった。



そして、蕎麦と汁を別々に出して蕎麦を器に盛り付け、汁に浸して食べる蕎麦は「もり」と呼ばれるようになる。「ざる」蕎麦は、江戸中期に深川洲崎にあった店舗蕎麦屋の「伊勢屋」が、もりを蒸籠(せいろ)や皿でなく竹ざるに盛って「ざる」蕎麦と称して売り出したのが始まりといわれる。当時は蕎麦を入れる「器の違い」が、もり蕎麦とざる蕎麦の違いであった。


■江戸庶民の蕎麦
蕎麦が普及し始めた江戸時代当初において蕎麦というものは庶民が食べる「下賎な食事」として、武士など身分の高い者達からは敬遠されていた。天秤棒を担いで物を売り歩くのを、棒手振り(ぼてふり)や振売りとも云い、蕎麦も天秤棒を担いだ物売りが町中を売り歩いた。そして、寒い夜や夜遅くになって、小腹が空いた時に庶民が重宝したのが道具を担いで売り廻る担ぎ屋台の「夜そぱ売り」の蕎麦屋であった。

『近世職人尽絵詞』 鍬形蕙斎(くわがたけいさい)
「夜そば売り/夜鷹蕎麦(江戸),夜なき蕎麦(京坂)」 文化年間(1804年〜1818年)、夜そば売りの期間は、陰暦9月から雛の節句である3月3日までと限られていたが、寛政(1789‐1801)末以降は期限が延びた。

江戸時代、幕府は火災を恐れて「屋台」で火を使い売り歩く「振売り」は原則禁止されていた。貞享三年(1686年)には『饂飩、蕎麦切、其外何に不寄、火を持ちあるき商売仕候儀、一切無用に可仕候、居ながらの煮売り焼売は不苦候』の禁令が出されている。「うどん、蕎麦など何によらず、火を使う移動販売を禁止する、一定の場所で商売をする場合はかまわないが、火の元には十分に注意をするように」と、うどん蕎麦切りその他火を持ち歩く商売を禁止する御触書が出された。

さらに、元禄二年(1689年)には『頃日、煮売の者火を持あるき商売仕り候よし相聞き候。前廉御触れなされ候通り、饂飩蕎麦切その外何によらず、火を持あるく商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候』とうどん・蕎麦・その他の火をもって調理などする行商を禁止した。
これは火事の危険性を考慮したものである。しかし、そば担い屋台は、夜間外出の難しかった当時にあっても夜鳴き蕎麦を売り歩き、人々から重宝された。この頃、蒸し切り蕎麦(もりそば)が一杯六~七文、蕎麦切り(ぶっかけそば)が一杯十六文である。
しかし、江戸庶民の蕎麦の嗜好は押さえられず、元禄期(1688-1703年)には蕎麦の名店もでき、また、行商の担ぎ商いの「夜そぱ売り(※)」も次第にその数を増していったようである。当時は薪代(燃料費が非常に高かったので、自炊するより外食のほうが安上がりで便利であった。また、残り火が火事の原因となることが多く、自宅での火の取り扱いを控えていたことも外食文化が根づいた背景といえる。(:背丈の半分ほどの高さの縦長の荷箱二つを担ぎ棒の前後に振り分けて担ぐ荷売りで屋台の一種)

うどん・蕎麦は屋台の代表でもあった。蕎麦切りは庶民の食べ物となり「年越しそば」は元禄年間(1688-1704年)に登場している。このように、江戸中期(1651~1745)の時代は料理を提供する担ぎ商いの行商の振売りや担い屋台、屋台見世が社会的に無視できないほどの規模で存在していたことがうかがえる。また、江戸中期には「だし、醤油」などの調味料の向上もあり蕎麦の普及に拍車をかけることになる。うどん・蕎麦は、屋台の代表でもあった。

■蕎麦屋(店)
居見世(店)の「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめたのは、享保(1717年以降)の頃からといわれ、それまでは「慳貪(けんどん)屋」といい、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商っていた。『反古(ほぐ)染』(天明年間)によれば、「享保の頃うんどん蕎麦切、神田辺にて二八即座けんどんと言ふ看板を出す。うんどん蕎麦切、好みに従ひ即座に出す。殊の外流行。」 神田橋のあたりでは、饂飩を入れる桶へ蕎麦を入れて運んだという。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。
そして、寛延四年(1751)脱稿の『蕎麦全書』で、「江戸中蕎麦切屋の名目の事」のなかに、多くの蕎麦屋の名目が挙げられ、そこの部分に「一等次なる物にはニ八、二六そば処々に有り。浅草茅町一丁目に亀屋戸隠ニ六そば、和泉町信濃屋信濃そば、大根のせんを添へ遣す。」として「二八そば」や「二六そば」を名目にする蕎麦屋が所どころにあると記している。

二八蕎麦切り屋(蕎麦屋)の絵、江戸中期の『絵本江戸土産』宝暦三年(1753年) より「あさ草なみ木町(並木町)」
この絵は浅草「浅草寺」の門前町の並木町で営業する蕎麦屋の尾張屋が描かれている。左上の瓦塀が浅草寺である。この絵には、次の文字が見られる。
・酒屋の看板に生田諸白(もろはく)」 … 上等の酒を江戸時代は、この名で呼んだ。
・蕎麦屋の看板には「うんどんや」と「二八そば切り」、店の暖簾には「おわりや(尾張屋)」


江戸では、享保期の中頃(1720年代)に、蕎麦屋が多数できて饂飩(うどん)よりも蕎麦が好まれた。蕎麦屋がうどん屋を圧倒するようになったのは、寛延年問(1748~1751)とみられており、この時期に屋台の蕎麦屋が急増した。このことは、安永5年(1776)に刊行された黄表紙(戯作絵本)『饂飩 蕎麦 化物大江山(うどんそば ばけものおおえやま)』/恋川春町には、「江戸八百八町に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」とある。この黄表紙には、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、うどんが主流だった江戸初期から次第に蕎麦が普及して江戸中期頃には、江戸っ子の嗜好がうどんから蕎麦へ変わったようである。また、当時の江戸では蕎麦屋がうどん屋よりも多かったことが分かる。


すし(寿司、鮨)

江戸独特の「握り寿司」は江戸が発祥で、江戸時代後期の文化(1804-1818年)の初め頃に“握り寿司”が登場するまで「すし」といえば上方風の「“箱ずし”(押し寿司)」であり、振り売りなどで売られていた。
すしを上方(関西)では「鮓」の文字、江戸では「鮨」の文字を書く 。 握りすしは江戸前の魚は旨いを意識して、あえて「鮨」の文字をすしとして使った。一方、 「寿司」は「寿を司る」という意味から江戸時代に生まれた縁起文字で、江戸末期ころから「寿司」「寿し」の表現が使われてきた。

江戸時代幕末から明治初期(1872年頃)に撮影されたとみられる寿司屋台の写真

■寿司の成り立ち
『すしは、古くから日本各地で様々なかたちで作られてきた。塩漬けにした魚を米と漬け込んで発酵させる「熟れ鮨(なれずし)」は、魚を保存するために生まれた寿司のかたちだ。 江戸時代に入ってから「酢」が普及し、飯に酢を加えることで、米の発酵を侍たずに作る「早ずし」が考案され、「押しずしや箱ずし」が作られるようなった。 しかし、なれずしは最低3か月、早ずしもできあがるまで数日を要した。より時間をかけずに作り、すぐに食べることができるのが江戸で生まれた「握りずし」だった。 (中略)  すしは、まずは料理屋で作られるようになり、出前で屋敷や宴席に運ばれたようだ。そして屋台でのすし屋が普及し、庶民たちの気軽な食べ物として親しまれるようになる。その後、今に通じる高級すし屋が登場する。』 … 『浮世絵に見る 江戸の食卓』より引用

寿司そのものの起源は奈良時代にさかのぼる。酢を使わない「なれずし」が、元来の姿で、滋賀県の琵琶湖沿岸に伝わる「鮒ずし」が現在にまで伝わる唯一の例となる。「なれずし」は飯と一緒に漬け込むが、発酵した飯は酸っぱすぎるので、食べるのは魚のほうだけであった。飯もいっしょに食べる「生なれずし」が誕生したのは室町時代のことである。この時点でもまだ酢は使用していなかった。
漬け込む期間が短くて済むようにと、酢を用いるようになったのは江戸時代に入ってからである。「桶漬け」に始まり、「箱漬け」から「箱ずし」、さらには「押しずし」へと、漬け込む時間はさらに短く、作業もどんどん単純化されていった。江戸時代に入ると漬け込む期間も3、4日にまで短縮された。それの行き着いた先に登場したのが、具と酢飯をなじませることなく、酢で調味した飯に「味つけした魚」をのせて握るだけの「握りずし」である。これが考案されたのは文政年間(1818~30年)、発案者は「華屋与兵衛」との伝承がある。

早すし

■酢と寿司
酢が調味料として一般に広まったのは江戸時代になってからである。酢が味噌、醤油とともに庶民の食生活にも普及し、様々な合わせ酢や、それまでの「なれずし」などの「発酵すし」とは異なった、飯に酢を混ぜて作る上方の「押しずし」や「握り寿司」などの「早ずし」が広まったのが江戸時代中期である。
早ずしは穀物を発酵させず、代わりに酢で酸味をつけたすしの総称で、押しずしや握り寿司もこれに当たる。このころは、高価な米酢が一般的であったが、江戸時代末期になって、江戸前寿司の「握りずし」のすし飯に合う酒粕から造った安価な「粕酢(かすず)」(赤酢ともいう)が使われるようになった。

■押しずし
江戸初期の寿司と言えば、寛政期(1790年代)までは大坂から伝来した「押しずし」が主たるものであった。「押しずし」は、酢飯を箱に詰め、その上にすし種の魚貝をのせ、落しぶたをして上からおもしをかけて数時間押すという箱ずし(押しずし)である。

江戸の習慣、食文化についての記録書の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、「筥鮓(はこずし)」というのは「方四寸ばかりのごとき筥(はこ)に飯と酢と塩を合せ、まづ半ばをいれ、醤油煮の椎茸を細かにきりこれを納れ。また飯を置き。その上に鶏卵やき、鯛の刺身、鮑の薄片を置きて縦横十二に斬る」と説明している。ここで、「筥鮓」というのは、四角の木枠の中にすし飯を詰めて、具を乗せて、蓋をしめて、手で押さえた押し寿司である。当時の「押しずし」は、4寸(42.4cm)四方の寿司で48文。小口に切っての販売もされた。寿司の具は鳥貝・卵焼き・鮑・鯛など。酢飯の中に椎茸を混ぜ込むこともあるという。

■巻きずし
海苔巻き寿司も当時からあり、巻寿司を海苔で巻くようになったのは、江戸の浅草が発祥と考えられている。安永五年(1776)の料理本『新撰献立部類集』には、巻寿司として「すだれに浅草海苔 … を敷いて上に飯を置き、魚を並べて、すだれごと巻く」と書かれている。(文政七年(1824)の『江戸買物獨案内』に浅草海苔の店として、江戸における海苔の名店、6店のうち4店が浅草にあったという)
また、『守貞謾稿』には、「浅草海苔巻あり、巻ずしと云ふ。飯中椎茸と独活(うど)を入れる。」とある。

■稲荷ずし
稲荷ずしが生まれたのも江戸時代で、当時の風俗が描かれた『守貞漫稿』には、名古屋が発祥の地で、江戸では天保年間末に現れたとある。稲荷寿司は天保1845~46年に江戸で大流行し、暮れから夜にかけて往来のはげしい辻々で商われた。稲荷寿司は「低廉」を理由に天保の改革の贅沢禁止令の中で生き残り、同様の趣旨から実施された江戸歌舞伎の江戸払いにともない、干瓢巻きとともに歌舞伎の幕間弁当として急速に地方に広がったともいわれる。


■すし売りと屋台
江戸時代の寿司屋は、ほとんどが屋台か担ぎ売りであった。屋台では、あらかじめ寿司を握って並べておき客はそこから選んで好きな寿司を食べたらしい。このため、寿司を屋台で売るだけではなく、寿司を箱に入れて担ぎ、売り回る(振売り)こともあった。
鮨の担ぎ売りは、白木の長手の箱を何枚も肩に担いで『すしや、コハダのすウし』と呼び声を上げながら売り歩いた。担ぎ売りの鮨ネタには、まぐろの鮨もあったが、代表的な鮨といえば、コハダの鮨であった。値段も安く一個四文でもあり、庶民は安価なコハダの鮨を買い求めた。
稲荷ずしも担ぎ売りか屋台であった。最初の頃の稲荷ずしの中身は寿司飯ではなくおからであり、後にキクラゲや干瓢を刻んで混ぜたご飯を入れるようになった。

■屋台のすし屋のスケッチ
『守貞謾稿(もりさだまんこう)』に、屋台のすし屋のスケッチと説明がある。「屋台」とは、屋根があって物を売る台を備え、一応移動が可能な店のつくりをいう。

屋台のすし屋 幅:六尺、奥行き:三尺、
江戸時代の寿司は今と違って屋台で食べるもので、客は木箱に並べられた作り置きの中から好きなものを選んで食べていた。当時の「握りずし」はまだ飯の量が多く、口の大きな人でもひと口というわけにはいかなかった。また、身分の高い人や裕福な人は食べず、もっぱら庶民の食べ物であった。
その頃の寿司の店は、多くは屋台風で、片流れの屋根をつけ、前と両側に油障子を立て、その中でツケ台に「握りずし」を置いて、客は立食の形式であった。客は握られた寿司を手に取り、大きなどんぶりに入った醤油をつけて、口に放り込んだ。このような屋台の寿司屋が普及し、庶民の気軽な食べ物として親しまれるようになる。
すし屋台の復元

喜田川守貞の『守貞謾稿』嘉永六年(1853)の「出し見世・床見世」の項には、次のように記述がある。
『江戸にてはヤタイミセ(屋台店)と云ってはなはだ多し 屋体見世すえみせにて不要の時他に移す … 屋体見世は鮓、天麩羅を専とす 其他皆食物の店のみ也 粗酒肴(さかな)を売るもあり 菓子飴餅等にあれども鮓と天麩羅の屋体見(世)は夜行繁き所には毎町各三四ケあり』とある。
大まかな意味は以下のようになる。
屋台は江戸にたいへん多く、据え店で不要の時に他へ移す。寿司と天ぷらを売る屋台が多い。その他の屋台もあるが、みな食べ物の屋台だけである。酒肴を売る屋台や菓子や餡餅を売る屋台などもあるが寿司と天ぷらの屋台は、夜でも人の往来の多い所には1町に3、4か所ある。

■握り寿司のネタ
江戸では、寿司の主流が、次第に「押しずし」から「握りずし」へと遷っていった。「押しずし」が、江戸では「握りずし」のみになったことや寿司のネタが、『守貞謾稿』という文献で次のように述べられている。

○「すしのこと、三都とも押鮓なりしが、江戸はいつ此(ごろ)よりか押したる筥(はこ)鮓廃し、握り鮓のみとなる。筥鮓の廃せしは五、六十年以来やうやくに廃すとなり。」

○「また江戸にても、 原(もと)は京阪のごとく筥(はこ)鮨。近年はこれを廃して握り鮨のみ。握り飯の上に鶏卵やき・鮑・まぐろさしみ・海老のそぼろ、小鯛・こはだ・白魚・蛸(たこ)等を専らとす。その他なお種々を製す。」

○「江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮長のままなり。 以上、大略、値八文鮓なり、その中、卵焼は十六文ばかりなり。これに添うるに新生姜の酢漬、姫蓼等なり。隔などには熊笹を用い、また鮓折詰などには鮓上に熊笹を斬ってこれを置き鮓となす。京阪にては隔てにはらんを用い、添物には紅生姜といいて梅酢漬を用う。」


江戸時代の代表的な握り寿司ネタとしては、「車えび、芝海老そぼろ、白魚、こはだ、玉子焼き、あなごの甘煮、まぐろの刺身」などがあった。これらの握りずしの価格は全て1個八文で、玉子焼きのみが十六文であった。これに生姜の酢漬け”ガリ”も添えられ、また間隔には熊笹を用いていた。まぐろは、江戸時代には油っこくて下品な安い魚だと思われていた。それを握り寿司に使うようになったので、握り寿司が庶民的な食べ物だというイメージがますます強くなっていった。


天麩羅(江戸初期~中期~後期)

江戸には魚貝の宝庫ともいえる豊潤な江戸前の海と巨大な生鮮市場の魚河岸があった。江戸では天ぷらといえば魚に限った呼び名で、野菜揚げとは区別されていた。江戸前の魚介を使ったものを「天ぷら」と呼び、それ以外の野菜を揚げた料理は、上方では「あげもの」、江戸では「胡麻あげ」と呼ばれて区別された。そして、天ぷらの流行を支えたのが、江戸中期以降の菜種油・胡麻油の食用油や小麦粉の生産増であり、江戸中期頃から庶民の食べ物として普及していった。
てんぷらの「天麩羅」という漢字の表記は、天保七年(1836)頃に編纂された『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)に、「天麩羅」という漢字表記が江戸後期(天明初期頃の1781年)~幕末に生まれたと書き添えられている。

■天麩羅(天ぷら)
天ぷらは、慶長年間(1596~)には京都で非常に流行っており、油を大量に使う天ぷらは庶民の口には入らぬ高級料理であった。上方てんぷらは、衣に卵、砂糖、塩を用いたようである。タネは野菜が中心で、油はゴマ油、大豆油、綿実油など植物性のものが使われた。
ちなみに、関西では天ぷらは「つけ揚げ」と呼ばれ、はんぺん(魚のすり身)を揚げたものが「てんぷら」と呼ばれていた。この「上方てんぷら」が江戸に伝わったのは17世紀の初め、江戸幕府が開府して間もない頃だと言われている。
しかし、江戸の初期には油を使ったいろいろな南蛮料理の揚げもの総称を「天ぷら」と呼んでおり、その形態、調理法も種々あったが、江戸時代中期以降になると、江戸前でとれた小魚を使った魚の衣揚げを「天ぷら」と呼ぶようになった。

江戸で「天ぷら屋台」を出すようになったのは、江戸中期の天明五年(1785)からである。庶民の食べ物としての天麩羅が江戸庶民の口に入るようになるのは天明年間で、屋台天ぷらは1串4文と記されている。その頃すでに人気のあったウナギの蒲焼が200文していたから天ぷらはあまり上等の食べ物ではなかった。屋台の天ぷら屋にとってのお客といえば丁稚や武家屋敷の下男たちであったようで、それらの様子は江戸時代後期の滑稽本に多く登場してくる。
江戸の町に、「天ぷら屋台」が登場するようになったのは、天明年間(1781~89)とされている。天ぷらは油と火を扱うため、当時はほとんどが屋外で営業していた。最初の天ぷらはよしず張りの屋台で売っていたようである。



天ぷらの作り方を示した文献上の初出として、寛延元年(1748年)の料理書、出雲寺和泉掾(いずもじいずみのじよう)刊の『料理歌仙の組糸』がある。同書には、以下のように記されている。
「てんふらは何魚にても饂飩(うどん)の粉まぶして油にて揚げる也。但前にある菊の葉てんぷら、また、牛蒡、蓮根、長芋その他にても天ぷらにせん時は、饂飩の粉を水、醤油とき塗付で揚げる也。直にも右の通りにしてもよろし、また葛の粉能くくるみて揚げるもなお宜し」
つまり、この記述見ると、「天ぷらはどんな魚でもうどん粉(小麦粉)をまぶして油で揚げればいい。その他にも菊の葉、牛蒡、蓮根、長いもなどをうどん粉を水と醤油で溶いたものに付けて油で揚げれば天ぷらになる」とある。そして、天ぷらの味つけも醤油だけになっている。とあるのが天ぷらの文献上の初出とされる。
(出雲寺和泉掾:江戸時代前期の本屋、版元。明暦3年(1657)京都の書店をつぎ、江戸日本橋に支店をかまえ、幕府の御書物師となる。)


『近世職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば)文化三年(1806)の天ぷら屋台見世(店)

■屋台の天ぷら
江戸には様々な屋台が並び、天ぷらは屋台の中でも蕎麦・寿司と並んで人気が高く、「江戸の三味」(江戸料理、江戸の郷土料理)と呼ばれたそうである。天ぷらは「天ぷら屋」と呼ぶ立食いの屋台見世(店)で、一串、四文程度の手頃な価格で売られる江戸庶民の食べ物であった。
天ぷらは、江戸前で取れた芝エビや貝柱、穴子、コハダなどの魚介を丁寧におろし、背わたを取るなど、下ごしらえをきちんとした「江戸前」の仕事をほどこして、魚介ネタに一切れ一切れ竹串を刺し、天ぷらの衣も厚く、胡麻油でゆっくりと時間をかけて揚げた。そして、天ぷらを美味しく食べるため編み出されたのが天つゆと大根おろしの組み合わせであった。
天ぷらを食べるときは串をつけたまま、壺に入った天つゆ(醤油をだしで割り、大根おろしを入れたもの)につけて立食いする大衆的な料理であった。文久頃の天ぷらの種(ネタ)としては、当時の風俗を描いた大津絵に、蛤むきみ、貝柱、あなご、こはだ、するめいか、海老、等が書かれている
天ぷら屋台の復元
当時の「天ぷら屋台」の復元写真、大皿に盛られた串さし天ぷらと天つゆの壷

■屋台見世と居見世(店)の天ぷら屋
天ぷら料理は火と油が使われるので、天ぷらは高温の胡麻油による火災を心配して、屋内ではなく屋台で売られた。守貞謾稿の『近世風俗史』には、「屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。其の他、皆、食物の店なり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に置く」とある。このように、庶民は日々の食事に必要なものを購入して食していた。こうした、移動せずに売るのを「立売り」と言い、屋台の
「屋台見世(鮨や天ぷらといった立ち食いの店)」と「乾見世(ほしみせ:台付きの板を広げて商品を並べる店)」とがあった。
江戸の天ぷら屋は幕末になるまで辻売り屋台の立食いだけで、ちゃんと座る場所を設けた本格的な居見世の「天ぷら屋」ができたのは、文化頃(1804~)からであり、天ぷら店として店舗を構えるようになったのは幕末(安政期1854~1859年)近くであった。慶応頃(1865~)以後には、庭もあり、畳に座って食べられる高級料理屋の「天ぷら屋」が登場してきた。


■高級料亭、お座敷天ぷらの金麩羅と銀麩羅
屋台で庶民向けに登場した天ぷらは江戸末期に変化が訪れた。天ぷらは立ち食いの安価な食べ物で、身分の高い層の人には「下手な食べ物」と敬遠されてきた。しかしこうした人たちにも、粋を凝らした贅沢な天麩羅が豪商や上流の武士が利用する天ぷら料理の専門店や高級料亭(即席料理茶屋)でも出されるようになった。天ぷらが料理店やお座敷でも食されるようになったのは、高級食材であった卵黄と小麦粉で衣を作った「金ぷら(金麩羅)」が登場した文化期(1804~18)頃から江戸時代末期のことである。
また、お座敷天ぷらも文久の頃(1861~1863年)に登場する。文久三年(1863)に浅草黒船町の福井扇夫という人が、「鮮ぷらの出揚げ」という名で大名屋敷などにネタとなる魚介と器具を持ち込み、客の目の前で天ぷらを揚げて出したのが、ちまたで「大名天麩羅」と呼ばれるようになり、これがお座敷天ぷらの起源とされている。

高級天ぷら「金ぷら(金麩羅)」/「す田町 金ぷら」

金ぷら(金麩羅)について、『江戸名物詩』(天保7年,1836) には「金麩羅仕出 深川櫓下(やぐらした) 金麩羅ノ名ハ海邉ニ響ク。會席料理、品ナ最モ鮮シ」と謳われ、金麩羅の名が深川辺で広く知れ渡るようになった。当時貴重な玉子を使った天ぷらの別名である「金麩羅」が、屋台料理ではなく料理茶屋の店で提供される「会席料理」であることがわかる。


当世流行の料理屋・金プラ屋・寿司屋・蕎麦屋等の店舗などをランキングした『江戸流行細撰記(さいせんき)』嘉永6年(1853)には、「金プラ屋ごま」として、櫓下柳屋や中村屋、三河屋、小倉屋など25軒の金ぷら屋が載っていて、店名にの下には「御ひとりまへ 百文より五十六もん ねだん いろいろ てがるにござります」と記されている。

具材・油・衣にこだわった「金ぷら(金麩羅)」と「銀ぷら(銀麩羅)」は、江戸時代末期の江戸両国柳橋の深川亭文吉が考案者で、「金ぷら」は、小麦粉(更科そば粉で衣を作って卵黄を溶き混ぜて金色に似せたという説もある)をゆるくといた衣に玉子の卵黄だけを使い、「銀ぷら」は卵白(卵の白身)を加えたものである。また、揚げ方も「銀ぷら」は厚めの衣の天ネタを胡麻油で揚げて白金色に仕上げるのに対し、「金ぷら」は薄衣で揚げ油は胡麻油でなく椿油で揚げるので、卵の黄味の色が衣に鮮やかに出て綺麗な「黄金色」であった。当時、高価な卵を使うことによって屋台料理の天麩羅とは一線を画し、こうした天麩羅は屋台ではなく、お座敷で食べられたと言われる。
座敷を構える天麩羅店では、今のように箸を使い天つゆに付けて食す形になって来たとされる。屋台の天麩羅は串に刺さっていて、壺に入った天つゆにつけるが、料理屋の天麩羅では串に刺す必要がなく、錦絵に遊女が金色の金麩羅を箸で食べる様子が見られる。


天ぷら料理「金ぶら」と「銀ぷら」、写真「料理昔ばなし(再現!江戸時代のレシピ)」、天ぷらタネは車海老、めごち、さす、小柱、芝海老、穴子、いか、細く切った干しするめ。

■京・大坂の天ぷらと江戸の天ぷら
守貞謾稿『近世風俗史』(1837年)によれば、『京坂にててんぷらと云、油をもちざるを半片と云也。江戸には此天麩羅なし、他の魚肉、海老等に小麦粉をねり、ころもとし、油揚げにしたるを天ぷらと云。此天麩羅京坂になし。有、之はつけあげと云』、『この天麩羅一つ四文にて、毎夜売り切れるほど也、さて、一月も経たざるうち近所処方に天麩羅の店できて』と記されている。
このように、上方では魚のすり身を丸めて揚げたものを「はんぺん」といって「天ぷら」と呼ばれていた。それに対して、江戸では江戸前の海や河川で採れた魚介類を「すり身」にせず、衣を付けて油で揚げた「天ぷら」を食していた。

団扇絵『園中八撰花・松』/歌川国芳、弘化末1847年頃
海老の天ぷらを食べる女性が描かれた江戸時代の団扇。天麩羅は箸ではなく串や楊枝で刺して食べるものだったらしい。


うなぎ蒲焼

■ うなぎ蒲焼の形態
江戸時代の前半までは、蒲焼きは「うなぎの丸焼きのぶつ切りを串にさしたもので、塩焼きや味噌焼き」にして食べるもので、その「姿形」が「蒲(がま)の穂」に似ており、その蒲(がま)が蒲(かば)に代わり「蒲焼き」とよばれた。また、そうした食べ物は、下賤の食べ物として、武士やそれなりの家の人間は食べなかった。
うなぎが、多くの庶民の口に入り始めたのは、元禄期(1688-1707年)に流通しつつあった濃口醤油の「掛け焼き」からのようである。現在の鰻の蒲焼に近いもの(丸焼きだけではなく、裂いて売る)が元禄時代から享保時代に出てくる。この時期から、丸焼きだけではなく、裂いて売ることも始まっている。享保13年(1728年)に出版された『料理網目調味抄」の中に、醤油や酒を使ったウナギ串が記されており、味は現在の味に近かったとされている。



■うなぎ蒲焼の初出
うなぎの蒲焼きの初出は、正保年間(1640年代)に書かれた『料理物語』である。『料理物語』には、「諸国名産として、東海道浮島原に鰻の蒲焼きあり、石部の鱒汁、スッポンは大坂において好まれる」とある。また、同書には、鰻の料理法として、「なます、さしみ、すし、かばやき、こくしょう、杉やき、山椒みそやき」などが挙げられており、さしみの解説部分には、「鰻は白焼きにして青酢を用いる」とある。
 また、上方(関西)で刊行された堀江林鴻著の『好色産毛(こうしょくうぶげ)』(元禄時代 1688-1707)という本には、京都四条河原の夕涼みの画に、「うなぎさきうり/同かばやき」と記した行灯を置いた露店が描かれているという。ウナギを串に刺した蒲焼きらしきものと「うなぎさきうり」という看板、露店のうなぎ売りの行灯が本の挿絵に見られる。この元禄時代から、丸焼きだけではなく、ウナギを裂いて売ることも始まっているようだ。これが江戸に伝わったと思われる。それは江戸の中期以降で、1750年前後ではないかということが推測される。
 『大草家料理書』(室町時代)では、「鰻膾」のことを「醤油を薄くして鰻にかけ、少しあぶって切る。また、熱湯で拭ってもよい」とある。さらに同書では、京都方面でのうなぎの蒲焼き、もしくは、焼いた上で酢に漬けた鮒寿司のような料理を指す言葉に「宇治丸(うぢまる)」鮓というのがあるが、その説明として、「宇治丸は、鰻の鮓にて古く名高きもの、京都 宇治川のウナギ寿司のことを宇治丸という」、「宇治丸かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也」とある。


■うなぎ蒲焼の値段
江戸で蒲焼を売るようになったのは、元禄年間(1688~1704)の末頃から正徳年間(1711~16)にかけてのことである。江戸の蒲焼き専門の鰻屋の草分けは、下谷上野の仏店(ほとけだな)にあった「大和屋」だという説がある。ただし、これは店舗というほどのものではなく、いわゆる屋台であったようである。
江戸時代のうなぎの値段は、「屋台で売られていた蒲焼は一串16文であったが、料理茶屋で食べれば一皿200文であった」とされている。担ぎ売りや屋台では、そばと同じで一串16文で売っていた。また、宝永6年(1756)頃には江戸に、うなぎ床見世(店)のうなぎ蒲焼専門店が現れてきている。うなぎ蒲焼の価格は、客が二階に上がって座敷で食べるような場合は一皿(大串なら一本,小串の場合は4〜5本)で200文が相場であった。ご飯の上に鰻をのせた「どんぶり」も登場するようになり、値段は同じく200文。しだいに庶民的な食べ物から、贅沢なご馳走となっていった。


近藤清春『神社仏閣 江戸名所百人一首』/享保13年(1728年)


■うなぎ蒲焼の調理
元禄時代(1688〜1703)にウナギを開いて焼いて醤油と酒で味付けする「うなぎ蒲焼き」が上方で発達し、正徳年間(1711-15年)に江戸に伝わり、専門店が登場し、江戸で蒲焼き文化が広まったといわれている。ウナギのさばき方や調理法は関西では、ウナギの腹から開いて焼くのが主流だったが、江戸では背中から開き、蒸してからタレをつけて焼く。身はふんわりとやわらかく、外は香ばしく仕上げるのか江戸流である。
その当時、鰻屋は江戸前大蒲焼き、または江戸名物と言っていた。江戸前大蒲焼きの先駆けとなったのは、江戸の深川あたりのようで、深川八幡を中心とした門前町屋には早くから、「江戸前大蒲焼き」を名乗ったうなぎを専門に扱う鰻屋が数店、並んでいた。

うなぎ蒲焼きの味付けに、醤油と酒、そして、味醂という甘みのある調味料を使うようになったのが「江戸前のうなぎ蒲焼き」である。正徳2年(1712)発刊の『和漢三才図会』には次のように記してある。「馥焼(かばやき):中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油(醤油)あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。


「辻売り鰻屋の図」
辻売りの蒲焼売りは「江戸前蒲焼」の看板を掲げて、蒲焼を焼いているが、傍らに(丸い網状の)笊(ソウ=かご)が積み重ねられ、半切桶の上には庖丁とまな板が置かれている。辻売りの蒲焼売りは、店を持たず路上で鰻をその場で裂いて蒲焼にしている。売値は蕎麦と同じ十六文で食べることができた。


■江戸前の大蒲焼き
江戸前うなぎを、蒲焼きにして食べるのは、江戸初期のころから行われていた。江戸前うなぎは、深川、神田川、蔵前でとれた天然ウナギのことをいった。江戸の外(利根川水系)でとれたウナギは、川運で江戸に送られて「旅うなぎ」や「江戸後」(えどうしろ)と言われ、江戸前のうなぎよりも安かった。

深川うなぎについて、『江府名産並びに近在近国』享保二十年(1735)に、江戸府内の名物”うなぎ”について次のような記述がある。「深川鰻、大きなるは稀也。中小の内小多し。甚(はなはだ)好味也。池ノ端鰻、不忍の池にてとるにあらず、千住、尾久の辺よりもて来るよし、すぐれて大きく佳味也。」
寛延四年/宝暦元年(1751)の『新増江戸鹿子』では「深川鰻、名産也、八幡門前の町にて多く売る。池の端、不忍池にて採るにあらず、千住、尾久の辺より取来る也、但し深川の佳味に及ばずと云ふ。」となり、時代が進み深川うなぎの味が一段と良くなっているようである

元禄前後(1688)の頃に、江戸の町にはうなぎ蒲焼の小屋掛け程度の屋台店が登場したと思える。享保年間から寛永年間頃には、辻番小屋風の粗末な店構えの鰻屋が登場しているが、まだ、鰻屋というものが無かった。
「江戸前」を売り物にして売るようになったのは、宝暦年間(1751~64)のころからという。そして、天明(1781~)から寛政(1789~)の時期になっていよいよ、本格的な「江戸前の大蒲焼き」が登場する。加えて、「附けめし」というご飯付きの形での販売と、この頃から登場した「割り箸」によって、「江戸前大蒲焼き」の看板を出す店は飛躍的に増加した。


■ 鰻屋(うなぎ蒲焼店の登場)
座敷のある店舗の形態を構えた「鰻屋」が登場するのは天明年間(1764-81年)の初めごろである。天明年間には、蒲焼単体の販売であったものが、しだいに飯をそえて売るようになった。
江戸のウナギは辻売り(屋台店)が盛んで、当初は辻売りばかりで定まった家に店を構えた鰻屋というものは、天明年間まで無かった。天明七年(1787)に広告ばかり集めた『七十五日』の中には「鰻屋」の名前として”鰻御蒲焼 尾張町すゝき”、”江戸大蒲焼 牛込赤城前木村屋”、”同所裏門前神田屋”、その他数軒を挙げている。

安永六年(1777)刊の三都の名物評判記『富貴地座位(ふきじざい)』には、江戸名物料理の部に「江戸前鰻、やげん堀、深川」とあり、両国の薬研堀(やげんぼり)に店構えの鰻屋があったと考えられる。寛政・享和の頃(1789~1804)でも、江戸回りや江戸市中にも鰻屋はまだ少なかったようだ。この時代の鰻屋はあまり料理をしなかった。せいぜい肝吸物ぐらいであった。
鰻丼というか、「うなぎめし」ができたのは文化年間(1804~18)のころである。鰻丼のはじめは、堺町の芝居小屋の金主であった大久保今助が、大好物の蒲焼を出前してもらう際に、すぐに冷えてしまわないようにと、飯の間にうなぎを挟むようにして保温の工夫したことがきっかけだったという説もある。


『近世職人尽絵巻』鍬形蕙斎 画/文化3年(1806年)刊 1800年初め頃の「鰻屋」の様子。(店でのうなぎ蒲焼売り)
奥には、出前用の岡持も見える。書入れには、「わらはがもとには旅てふ物は候はず、皆江戸前の筋にて候」とある。つまり、この店では、「旅うなぎ」などと呼ばれる地方産のうなぎではなく、江戸前のものを使っているということだ。また、「うなぎ(鰻)はうまき(旨き)の相通にして、かばやき(蒲焼)は、か(香)はよ(能)きの相通なり。中にも、みや戸川より出るをめでて、江戸前という。」の書も記述されている。書の中に江戸前の蒲焼きでは、宮戸川(浅草川)で獲れるうなぎが最高とされていた。

江戸前とはウナギを意味した。越谷吾山著『物類称呼』安永四年(1775)に、江戸前鰻と旅鰻の違いとして「江戸にては浅草川深川辺の産を江戸前とよびて賞す。他所より出すを旅うなぎと云う」と書いてある。
つまり江戸では浅草川(隅田川の吾妻橋から下流の別称)や深川で捕れるうなぎを江戸前と称してもてはやし、江戸前でないうなぎは旅うなぎと言っている。当然、江戸前鰻と旅うなぎでは値段に大きな差があった。江戸前鰻が蒲焼一皿200文に対して、辻売りの旅うなぎは12~16文だったという。

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