江戸時代の外食・醤油文化

江戸食文化の定着(3),歌舞伎芝居と食事

■江戸の娯楽、歌舞伎芝居
江戸時代には、庶民の娯楽と呼べるものは少なく、わずかに歌舞伎芝居、人形浄瑠璃芝居、興業相撲、浮世絵、大衆向けの貸本等があるくらいであった。
芝居小屋の「江戸三座」(中村座、森田座、市村座)は、町奉行所から歌舞伎興行を許された格式の高さを誇り、「大芝居」とも言った。一方、寺社の境内などで小屋掛け興行する一座は「宮芝居」、または「小芝居」と呼ばれ。大芝居とは格段の差があった。
庶民の娯楽のなかでも歌舞伎芝居見物は、庶民や武士といった身分の隔てなく、江戸の人々にとって最大の娯楽であった。このように、高級志向の江戸三座と競う形で、いろいろな場所にあった寺社境内や広小路の気軽に安い料金で見られる芝居小屋で江戸っ子は芝居を楽しんでいた。

江戸三座の芝居小屋周辺は芝居町といい、芝居茶屋をはじめ、巾着屋、菓子屋、煙草屋、食事処などで賑わい、観客目当てのお店が軒並み揃っていた。お金に余裕のある見物客は、まずは芝居茶屋に部屋をとり、そこから芝居見物に出かけて幕間に茶屋に戻って料理を食べ、着替えをして芝居を観に戻るなど、1日かけて芝居を楽しんでいた。当時、芝居の興行は明け六つ(午前6時頃)に始まり、暮れ七つ半(午後5時頃)までだったため、芝居見物は丸一日がかりだった。

芝居茶屋の客、富豪の商家や大名の留守居役、宿下りの御殿女中、上級武士の家族たちは赤い毛氈(もうせん)が敷かれた「棧敷(さじき)席」や食事を手配してくれる芝居茶屋を通して頻繁に芝居見物に通ったが、一般庶民には芝居観劇の木戸銭(見物料)が高く「土間席」でも贅沢だった。それでも、庶民は芝居見物のために何ヶ月もお金を貯めて、当時の錦絵や浮世絵に描かれた人気役者を一目見ようと芝居見物に来ることに憧れていた。

歌舞伎の人気演目『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』 歌川國貞画

■歌舞伎芝居の改革
江戸芝居は寛永年間以前は柴井町にあり、寛永元年(1624)猿若勘三郎か京都からきて、江戸日本橋中橋付近に大鼓櫓をあげ、猿若芝居と称して興行し中村座と呼んだ。この芝居小屋は寛永9年長谷川町に、慶安4年(1652)に吉原の側の堺町に移った。また山村座(後の中村座)の山村又三郎は寛水11年(1634)に泉州堺から日本橋葺屋町に移り、能狂言と役者と舞子の現今の男女合同劇を始めた。
その他操り人形の木偶芝居(でぐしばい)があり、日本橋吉原は年中賑わいをみせた。吉原は明暦4年(1657)に浅草に移転した。芳町の芝居小屋は残って相変らず繁昌していたが山村座が「江島・生島事件」で正徳4年(1714)に廃座を命ぜられた。天保12年(1814)12月7日中村座の楽屋より出火し、葺屋町の芝居小屋と商家を焼いた。これを理由として老中水野越前守は、奢侈淫風の巷と化した芝属興行界の改革にのり出した。

天保13年(1842)、天保の改革の一環として、庶民の娯楽の代表であった歌舞伎も、その取締りの対象となった。天保12年(1841)、中村・市村両座の火災を機に、老中の水野忠邦は江戸の市街地、堺町の中村座・葺屋町の市村座・木挽町の森田座にあった幕府公認の江戸三座と称される芝居小屋を郊外の浅草の聖天町へ移転させ、その地を猿若町(さるわかちょう)と改名した。
ほかにも河原崎座(天保14年.1843に移転)や文楽、人形浄瑠璃の芝居小屋、芝居茶屋なども移転した。町名は、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎(のちの初代中村勘三郎)の名から「猿若町」と命名された。なお、江戸三座(元櫓,もとやぐら)が休座する時は、かわりの劇場が興行権を代行する「控櫓(ひかえやぐら)」の制度が認められ、中村座には都座、市村座には桐座、森田座には河原崎座がそれぞれ控櫓と定められた。

猿若町の出入り口は南、北と南東の三カ所のみで木戸が設けられていた。町内は芝居小屋や芝居茶屋だけでなく、役者や歌舞伎興行に関わる人々も住んでいた。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地「猿若町」に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈は吉原を含め、こうして江戸随一の娯楽の場へと発展していった。



■江戸庶民と芝居観劇
大芝居と呼ばれる歌舞伎芝居には、当時の大商人や役人、奥女中、中堅以上の町人たちの富裕層が頻繁に芝居見物に通い、三日がかりの豪勢な芝居見物をしていたと言われている。一方、庶民は木戸銭(見物料)が高くて、なかなか歌舞伎芝居の見物もできずに、当時の錦絵や浮世絵に描かれた人気役者を一目見ようと芝居見物に来ることに憧れていた。
このため、庶民は、市ヶ谷八幡社・湯島天神社・芝神明社などの寺社の境内などに建てられた芝居小屋で行われる小さな興行の「小芝居」を楽しんだ。小芝居(宮地芝居とも云う)は、歌舞伎より安く手軽に行けて役者との距離も近いので庶民の人気を集めた。

■芝居茶屋
江戸時代の芝居茶屋は、芝居小屋の周囲にあって、芝居見物客のために木戸札(客席)を予約したり、見物人の案内、茶菓子や酒肴・食事など飲食の接待をするところで、客はこの茶屋にあがって飲食等をしてから芝居見物に行った。
当時の茶屋には等級があり、大茶屋、小茶屋、水茶屋の区別があった。大茶屋は「表茶屋」ともよばれ、芝居小屋内の一角、または隣接地・向い合わせに位置し、座敷や調度品を備えて、一流の料理屋の格式を持つようになり、茶屋に料理番を置いて料理を拵えて客に出していた。この「大茶屋」は江戸留守居役などの上級武士、宿下がり(休暇)中の御殿女中や豪商などの富裕な人々に利用された。

簡単な店構えで庶民を迎え入れた「小茶屋」は芝居小屋の裏手にあり一般向け食事処である。小茶屋のなかには、接客用の店構えのない仕出し専門のものもあり、こうした茶屋では「出方(でかた)」とよばれる接客業者を専属で抱えていた。出方は訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。「水茶屋」は主として場内の飲食物を扱うところである。


『東都名所 芝居町繁栄之図』 天保後期/1830-44年 歌川広重
猿若町は江戸で最も賑やかな街である。『東都名所 芝居町繁栄之図』には、通りの左手に歌舞伎の櫓(やぐら)が揚げられた芝居小屋が並び、通り左手前から中村座、中央に市村座、奥が河原崎座(森田座)である。通りの右手には「芝居茶屋」が並び茶屋の2階から外を眺める人が描かれている。


芝居小屋・茶屋前を埋め尽くす大勢の民衆。芝居見物の武士や町民などの人々、大皿料理を運ぶ仕出し屋や蕎麦屋「福山」のかつぎ、出前蕎麦の赤い蒸籠も見える、山本と名が入った煙草盆か提げ重箱(酒肴・盃・皿入れ)と銚子(急須形酒器)を持った「山本屋」の茶屋女中、高坏(たかつき)の器に饅頭を載せた茶屋女中、重箱を重ねて担ぐ仕出し屋の男、赤い毛氈(もうせん)を肩に掛け敷物(半畳ござ)を手に持つ男、敷物を肩に掛けて見物客を案内する出方(でかた)とよばれる男衆などが描かれており、朝から晩までたくさんの人が行き交わる賑わいが描かれている。


『東都繁栄の図 猿若町三芝居図』歌川広重画 嘉永7年(1854年)3月。角切銀杏の座紋の櫓(やぐら)は「中村座」を示す。芝居小屋の隣には芝居茶屋が軒を並べ、まさに江戸三座が賑っている様子が描かれている。

■歌舞伎芝居見物/上級の客と一般庶民
当時の歌舞伎芝居の演目は、ふつう年に4、5回変わり、役者は各座ごとに決まっていた。歌舞伎役者は各芝居小屋と1年契約(11月から翌年の10月まで)を結んでおり、年に1度10月に役者の顔ぶれが入れ替わった。
このため、11月は芝居の世界では顔見世の特別の月となり、毎年恒例の「顔見世狂言(かおみせきょうげん)」が陰暦11月(上方は12月)に行われた。「顔見世狂言」の興行は、江戸三座(中村座・市村座・守田座)の舞台に登場する役者たちのお披露目であり、絵姿入りの「顔見世番付」も発行されて人々がこぞって歌舞伎小屋へと向かった。


『踊形容江戸絵栄(おどりけいようえどえのさかえ)』 安政五年(1858)、三代歌川豊国 安政五年七月 市村座上演の『暫(しばらく)』

芝居見物には二通りあり、「芝居茶屋」を通して入る上級の客と木戸から入る一般の客がいた。長屋に住むような人たちは普通に入口で木戸銭を払い、安い大衆席に案内された。これらは切落(きりおとし)向桟敷(むこうさじき)などの席で、切落は土間の最前列、向桟敷は舞台正面の二階にある席で、前方の左方を「引船(ひきふね)」、それ以外の桟敷前方を「前桟敷」、奥の方を「追込(おいこみ)」と言い、一番安い追込で十文程度である。
芝居茶屋を通して入る上級の客の一番上等な席は「棧敷(さじき)」で、一般の客は中等席の「平土間(ひらどま)」が普通だった。「桟敷」とは平土間より一段高い客席で、芝居茶屋を通じてのみ客席を確保できる高価な座席のことで、上客向けのものであった。桟敷には上桟敷・下桟敷(うずら桟敷)があり、二階の上桟敷の方がより高価な客席である。二階の上桟敷は、ほとんど茶屋によって買い占められていたらしい

芝居小屋の内部は、舞台正面が平土間の枡席で、4~6人が座れる二寸五分程の角材で区切った仕切り枡(ます)の土間席となっていた。平土間の両横で、下桟敷の前に土間よりも一段高くなっている仕切り枡が「高土間」の枡席である。小屋の左右の位置には、江戸中期から二層になった板間の「桟敷」席がある。そして最下等の席が、舞台正面の二階の立見席が「向桟敷」で、通称「大向こう」と呼ばれ、役者の声がよく聞こえない安い席であった。
また、浮世絵には舞台上の席が舞台下手(左側)後方に描かれている。これを「羅漢(らかん)台」(一階)や「吉野」(二階)などと言い、上演中は常に役者の後ろ姿を見ることになる下級の席で、随時設置される「追い込み」の席である。羅漢台や吉野は舞台を後ろから見ることになるので安価な大衆席となっていた。





■江戸歌舞伎座(市村座)の収容人数
「嘉永年間(1848-1854)に刊行された喜田川守貞の「守貞漫稿」に享和3年(1803)発行の「芝居訓蒙図表」所載の劇場の観客席の配置と、その料金が紹介されている。(中略)入場定員を推定すると…中村座や市村座では満席として1338名…文化・文政期(1804-1930)の江戸市村座の復元図から推定すると1286名となり、多数の観客を収容できる規模を持っていたのである。」・・・白鴎女子短大論集「歌舞伎の収支計算」宮内輝武

白鴎女子短大論集「旅芸人の収支計算-Ⅱ興行編」宮内輝武、にある"化政期(1804-1830)の市村座1286名の内訳"を示す。
(桟敷配置説明の数値は以下であるが、合計数は1261名となり、1286名と差異がある)
・西下桟敷(うずら桟敷):96名
・東高土間:108名
・西高土間:114名
・東下桟敷:108名
・平土間(升席):475名
・大首(花道横の割残った席):10名
・追込場(客席後部):50名
・東上桟敷(2階):96名
・西上桟敷(2階):96名
・向桟敷(2階):108名

■歌舞伎芝居の値段
 【文化13年(1816)『世事見聞録』に「いかほど倹約しても、桟敷にては金一両二分より安く出来ざるなり、米三俵余に当るなり」とある】
 【天保4年(1833)『三葉草』 桟敷35匁、高土間30匁、平土間25匁 【銀60匁=1両、銭6,000文=1両(化政期)、銀1匁は銭100文】
 【安政5年(1858)7月の市村座 桟敷40匁、高土間35匁、平土間30匁 【銀60匁=1両、銭6,000文=1両(化政期)、銀1匁は銭100文】

■歌舞伎芝居見物と飲食
江戸時代の芝居は、朝早くに幕が開き、日没には終演となった。江戸時代の大芝居(歌舞伎)は、現在と違って長丁場。舞台は「明かり窓」からの自然光を利用したので、朝六ツ(午前六時)の夜明けの開演一番太鼓とともに始まり、終演が暮七ツ半(午後五時)の日暮れまで続く一日掛りの興行であった。このように、幕間があるとは言え、朝から晩まで丸一日芝居を観劇する観客は、途中何度か食事をとることになる。幕間に裕福な人は朝昼晩と3食を芝居茶屋の座敷に戻って膳で食べるが、通常、庶民は昼食に笹折の弁当であった。

客のなかには、芝居茶屋を通して仕出し弁当を注文する者もあったが、一人前二汁五菜などという豪華な膳で、庶民にはなかなか手が出せないものだった。そんな状況をみて、芝居茶屋が桟敷、枡席の客に用意した弁当が「幕の内弁当」である。また、客の注文によっては弁当ではなく簡単に茶漬だったりもした。
歌舞伎などの芝居小屋で、菓子・弁当・鮨(すし)のことを、その頭文字をとって「かべす」と呼ばれた。歌舞伎芝居の幕間(まくあい)の食事として、上席の客や枡席の客にも、芝居茶屋や仕出し屋の出方(でかた)から届く小さな握り飯にお菜を添えた「幕の内弁当」があった。そして、饅頭や羊羹などの菓子、寿司、茶、酒なども芝居見物に不可欠の楽しみであった。

芝居町の仕出し屋「万久(まんきゅう)」は「幕の内」の名で弁当を作り、芝居の食事の仕出をした店である。「万久」は間口5間、奥行20間の店で、芝居のある日は朝早くから仕事にかかり万久と印の入った重箱に入れて運び入れた。幕の内弁当の中身は、六寸重箱(18cm四方の箱)に、小さい握り飯を少し焼いたものが10個、おかずは卵焼き・蒲鉾と、煮物のこんにゃく、焼き豆腐、里芋、干瓢(かんぴょう)などで、一人分銭百文ほどの値段であった。(その頃の万久の「幕の内弁当」は、“蒲鉾長芋焼豆腐、干瓢椎茸露自含、一重見舞幕之内、味薄遭知万久甘”とある)


『東都高名会席尽 万久・髭の意休(ひげのいきゅう)』歌川国貞(1852年)に描かれた料理屋「万久」と万久の「幕の内弁当」。
『守貞漫稿』には、芳町の万久という店が弁当を「幕の内」と称して売り始めたと記されている。同書には当時の幕の内弁当の内容が次のように紹介されている。「中飯、江戸は幕の内となづけて、円扁平の握り飯十顆を、僅かに焼くなり。これに添ふるに焼鶏卵、蒲鉾、蒟蒻、焼豆腐、干瓢、以上これを六寸重箱に納れ、人数に応じ、観席に運ぶを従来の例とす。もっぱら茶屋にて製す」


『守貞謾稿』に記述がある江戸時代の「幕の内弁当」を再現したもの。幕の内弁当の内容は、握飯10個、蒟蒻、焼豆腐、干瓢、里芋、蒲鉾、卵焼。
「幕の内弁当」という名は、江戸時代、芝居と芝居の間の休憩時間である幕間(まくあい)を「幕の内」といい、“「幕の内」に食べるお弁当”という意味で使われたことに由来している。






芝居茶屋や出方(でかた)からの料理を桝席や桟敷席への届け、朱塗り椀を届ける男衆たち…『踊形容江戸絵栄』より一部拡大

『踊形容江戸絵栄』に描かれている酒器を仔細に見ると『守貞謾稿』に記述がある「燗徳利」「近世銚子」「中古の銚子」である。
 ・燗徳利  江戸、近年、式正にのみ銚子を用ひ、略には燗徳利を用ふ。燗めそのまま宴席に出すを専とす。
 ・近世銚子 専ら小形なり。ちろりにて燗め、これに移すなり。料理屋・娼家ともに必ず銚子を用ひ、燗陶を用ふるは稀なり。
 ・中古の銚子 鉄大形なり。また蓋も大なり。



描かれている料理の大半は、桝席・桟敷席共に大皿に盛られている。幕の内弁当は描かれていないが、桟敷席には桟敷席の手すりに赤い毛氈(もうせん)が掛けられ、煙草盆や四段の重箱が置かれている。また、2階の上桟敷を支える柱と二本の横格子が渡された下桟敷が描かれていて、下桟敷は別名、鶉(うずら)とよばれた。鶉の前がふつうの土間より一段高くなった席の高土間である。『踊形容江戸絵栄』には、茶屋の名が入った煙草盆や朱色の椀が所々に描かれている。朱色の椀は、酒の肴(さかな)の吸物と思われる。当時の居酒屋メニューにも酒の肴として吸物があった。

「汁と吸物は同じような汁物ですが、飯に添えるのが汁で、酒の肴として供するのは吸物と定義されています。江戸時代料理書には、汁の部と吸物の部は区別して記載されており、汁は飯に添える副菜なので味は濃いめにし、吸物は酒に合うよう軽く薄めの味にして綺麗につくり、供する時機を大切にするとしています。このようなことから、絵の中の朱塗りの椀は酒の肴の吸物と思われます。」・・・大江戸芝居年中行事/松下幸子千葉大学名誉教授

■うな丼と歌舞伎
江戸歌舞伎が最盛期を迎えた江戸では小屋の所有者が興行権を握り、「太夫元」と称し大きな権力を持ち、其の下に「張元」が実際の運営を行い、太夫元に継ぐ権限を持つのは出資する「金主(きんしゅ)」と呼ばれる者であった。この中村座の金主であった大久保今助が鰻丼の発明者といわれている。
江戸時代後期、現在の「うな丼」の元祖は、文化年間(1804~17年)頃に生まれた。どんぶりに熱い飯を盛って、飯の間に蒲焼きをはさんだ「鰻めし」が、芝居小屋で賑わう日本橋葺屋町(現在の東京人形町)の鰻屋「大野屋」から登場する。うな丼の元祖、うなぎ飯は「江戸時代、江戸歌舞伎中村座の金主、大久保今助が、注文した鰻が冷めないように、丼にご飯ではさんで入れ、蓋をして運ばせた」のがうな丼の始まりとされる。

うなぎ飯は宮川政運の『俗事百工起源』(元治~慶應)によれば、江戸・堺町で大久保今助が考案したとされている。

「うなぎ飯の始並に蒲焼の事、うなぎ飯の始は文化年中、堺町芝居金主大久保今助より始る。(中略)此今助常に鰻を好み、飯毎に用ふれども百文より余分に用ひしことなしと。いつも芝居へ取寄用ひし故、焼ききましに成しをいとひて、今助の工夫にて、大きなる丼に飯とうなぎを一処に入交ぜ、蓋をなして‥用ひしが、至て風味よしとて、皆人同じく用ひしが始なりと云ふ。」

と、うなぎ蒲焼好きの芝居の金主(資金を出す人)が、簡便と焼きさまし防止の効果をねらって開発したとしている。
歌舞伎見物の客相手に大久保今助は、葺屋町で鰻蒲焼を売っている「大野屋」に飯の上に蒲焼をのせた「鰻めし」を作らせたのである。商才に長けた大久保今助は、歌舞伎見物の客相手に大野屋に作らせた「鰻めし」を売って大儲けをする。のちに今助は、商売で得た金を水戸藩に献金し、武士に取り立てられる。その商才は、武士になってもいかんなく発揮され、水戸藩・勘定奉行や勘定吟味役などの要職を就いたといわれる。

 
うな丼の元祖”と考える「ふきや町がし うなぎめし」
鰻の味を損なわないように、古い箸は使わず割り箸を添える。風俗書『守貞謾稿』によると、うなぎの脂のついた木箸は洗っても汚れがなかなか落ちないので初めて、使い切りの割り箸(引き裂き箸)を使うようになったと言われている。

■かべすの客
枡席の一般の客は「かべす」を席まで運ばせた。「かべす」とは、「かし(菓子)」,「べんとう(弁当)」,「すし(鮨)」の三つの品の頭文字をいっしょにして〈かべす〉といった。芝居茶屋を通して見物する桟敷の上客に対し、茶屋を通らずに木戸から入って出方に案内されて平土間で見物する一般客を「かべすの客」とよんだ。この〈かべすの客〉は、入場料込みで、酒肴は取らないまでも、席につくと茶屋から茶に菓子、寿司や弁当が次々と運ばれた。
芝居茶屋が出していた菓子は「饅頭」「羊羹」や「編笠餅(あみがさもち)」などで、見物で上気した客に特に喜ばれたのが、水菓子と呼ばれる果物。なかでも蜜柑が人気であった。(編笠餅は、新粉に砂糖と小豆餡を入れて二つ折りにした形が編み笠に似ていることからついた名前)



■上級の客の芝居見物
上級の客である裕福な人々(江戸留守居役などの上級武士、宿下がり(休暇)中の御殿女中や豪商など)たちは、まず大茶屋を通して、特等席の桟敷(さじき)を予約した。歌舞伎芝居は、夜明けの一番太鼓とともに入場が始まるため、前夜のうちに駕籠を用意して、夜が明けてから悠々と芝居小屋に乗り込んだ。
桟敷の客は直接芝居小屋に行かずに、まずは芝居茶屋へ上がり一服して、茶屋の二階座敷で湯茶の接待と軽い朝食を食べ、福草履という白い鼻緒の草履を履いてから、茶屋の若い衆に案内されて、桟敷専用口から入る。芝居小屋の自分たちの桟敷席に案内された。
席に着くとき、桟敷席の手すりには茶屋の貸し出す赤い毛氈(もうせん)が掛けられ、最初に茶屋から煙草盆・茶と茶菓子・番付が届けられる。菓子は高坏(たかつき)に載せて出された。さらに酒と口取(くちとり)肴、次に刺身または肴、煮物が席に運ばれてくる。中飯とよばれる昼には幕の内弁当、昼過ぎには鮨折詰(押ずしと巻物ずしの詰め合わせ)と老舗の菓子が出された。彼らは幕間にしばしば芝居茶屋に引き揚げて、身体を休めたり、酒を飲んだり食べたりしてくつろいだ。そして、終演後には茶屋の二階座敷に戻ると夜食を食べるか、酒宴を催してひいきの役者や芸者衆を招いたという。
江戸時代の風俗を詳細に記載した『守貞謾稿』によれば、江戸の芝居茶屋の夜食は非常に高価であり、また、芝居茶屋は芸者を抱えず、芝居茶屋の近所に置屋があり、そこから呼んだという。茶屋の帰りには、茶屋の若い者が提灯をつけて、猿若町の角まで送ることが慣例になっていた。

■勤番武士の芝居見物
天保十三年(1842)、豊後国臼杵藩士・江戸詰中日記から「四月二十九日、はじめて芝居見物に出かけたので座席の様子や出された料理をかなりくわしく書いている。七人一枡の桟敷は狭いと書き、「まず茶に菓子、八寸に乗り参り、白さとう物なり……」とある。(中略)わざわざ白さとう物というのは岡藩の例のように、さとうが添えてあったのかもしれない。料理は「重箱に丸いつき出し・油揚げとうふ・いかの煮付け・昆布・しいたけ・廿ばかりの握り(飯)、鉢に大さぱくずかけ、相応の取り今わせ、竹の子、これはめしの菜なり、すし一鉢、酒を尋ね候えども申しつけず」。ともかく、幕の内弁当の語源になっている芝居茶屋の料理がよくわかる。七人で二十ばかりの握り(というのが型で押した)幕の内握りだろうと思われる。」・・・文芸社「勤番武士の心と暮らし-参勤交代での江戸詰中日記から」著者: 酒井博、酒井容子


大名の芝居見物

大和郡山藩二代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)の隠居生活の日々を綴った『宴遊日記別録』には、芝居見物の「食」のことが詳細に書き残されている。この歌舞伎の観劇日記によると、安永二年(1773)には11月6日市村座、13日森田座、26日中村座の江戸三座の芝居見物をしている。

11月26日の歌舞伎見物には、10人の供を連れて中村座初演「御贔屓勧進帳(ごひいき かんじんちょう)、浄瑠璃・色手綱恋の関札(いろたづなこいのせきふだ)」の歌舞伎狂言を観劇している。26日の顔見世興行中の芝居茶屋「松屋」での幕間の食事は以下のようであった。

  朝食は、茶漬け、牡蛎(かき)と卵におせち料理の定番であった慈姑(くわい)を添えた煮物、梅の紫蘇(しそ)巻き。
  昼食は、茶飯、豆腐と海苔の汁、鰈(かれい)の焼き物、椎茸(しいたけ)・芹(せり)・肉の煮付け。
  夕食は、蕎麦、椎茸入りのつみれ汁、慈姑(くわい)とはんぺんの煮物、はりはり大根のお浸し。

この日の観劇は堺町の中村座で、近くの芝居茶屋「松屋」で食事、芝居を終演まで堪能、屋敷は駒込染井の江戸下屋敷(現在の駒込六義園)にあり、午前5時出発し、午後10時過ぎ帰着したとある。


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