江戸時代の醤油文化


文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」の一部

江戸前寿司と醤油

「すし」の名
寿司は紀元前4世紀頃の東南アジアで誕生したといわれており、日本へ伝わったのは平安時代と考えられている。
「すし」の語源は江戸時代中期、元禄12年(1699年)に編まれた『日本釈名(にほんせきめい)』や享保2年(1717年)『東雅』の語源辞書で、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。
「すし」は「鮨」の字があてられるが、近畿では「鮓」が使用される。
現在よく見かける「寿司」の字は、江戸時代の当て字といわれる。
「寿司」は「寿(ことぶき)に司(つかさど)る」にかけた意味。また、賀寿(長寿)の祝いの言葉を意味する「寿詞(じゅし)」に由来するとの説もある。

平安時代の『延喜式』の「巻第二十四 主計式」には諸国からの貢納品が記されており、鮒鮨、年魚鮓、阿米魚鮓などの字が見られる。
『延喜式』には酢,鮨の文字が158件出現するが、そのうち原料が記されているものとしては、フナ・アワビ・イガイ・ホヤ・アユ・アメノウオ・サケ・オオイワシ・タコブネ・雑魚の魚介類のほかに、イノシシ・シカの哺乳類のスシと雑鮨、手綱鮨がある。
(『延喜式』の雑鮨、手綱鮨、平城京の出土木簡にある煮汗酢の実態は不明)これらのすしの原料の内で、鮎では大和と紀伊が、猪、鹿では紀伊の名がみられる。

延喜式(主計)にて鮓を貢納する諸国の食材は淡水魚が中心で、地域的には九州北部(筑後,筑前)・四国北部・畿内(河内,摂津,近江)などの西日本がほとんどを占め、それ以外では北陸の一部(現在の富山あたり)だけである。
東海から関東、甲信越や北陸では貢納する諸国の名が見当たらない。
当時の詳しい製法を知る資料には乏しいが、魚(または肉)を塩と発酵用の素材であった飯で漬け込み熟成させ、食べるときには飯を除いて食べる、なれずし「ホンナレ(本成れ)」の寿司と考えられている。(参考文献:国立民族学博物館・他)

わが国のすしの原型ナレズシから江戸前寿司へ
室町時代の『蜷川親元日記』(1473年-1486年)に「生成(ナマナレ)」という寿司が登場する。漬け込む期間を短くし魚の発酵を浅く止め、これまで除かれていた飯も共に食した寿司のことである。
そして1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになる。寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、魚を自然発酵させずに飯に酢を混ぜ、魚の他、野菜や乾物などを用いて食する寿司、「早すし」が誕生することになる。
江戸に上方の「押し鮨」が17世紀の末頃、京都から伝えられ、江戸時代に入っても、立売り屋台や振売りでさかんに売られていた。
握りずしは江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1829年)に出現する。

すしの屋台
「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」の一部



江戸前握りずしの誕生

江戸前の握り寿司が登場したのは江戸時代の後期、18世紀に入った頃の江戸で、新鮮なネタで寿司を客の前で即席で握るという発想で生まれた。この「握ったすし」を「江戸前寿司」と言ったという。
庶民の食文化が発達した江戸時代、醤油、味噌とともに酢も庶民の食生活に普及した。
この時代、江戸の町には屋台を中心とする外食産業が普及し、その中で「握りずし」が世に登場する。元禄のころには酢を使うことが一般的になり、その後、文政年間に酢飯と生魚を合わせて握る「握りずし」が生まれた。
それ以前は寿司といえば、関西が発祥の押し寿司だけであったが、町人文化が栄えたこの時期、江戸の町に多く見られた屋台で、江戸前浜の海で獲れた魚介類と海苔を寿司ネタとして使った。この江戸発祥の寿司を「江戸前寿司」という。

江戸前の海の多用な魚貝を握りずしとして成立させるために、江戸の後背地、利根川や江戸川の海運によって成長した野田や銚子の濃口醤油や酢の醸造場の発展もあった。
濃□醤油(関東地廻り醤油)は、これまでの上方の下り醤油とは異なり、小麦を使うことにより香りの高い醤油となり、江戸前の魚料理に合う醤油であった。
江戸の町には早ずし等と言われ屋台の握り鮨屋が既にあったとされている。
その中から財を蓄えた商人や宵越しの銭を持たない江戸っ子気質に後押しされ高級を売り物にする鮨店が店を構えるようになった。
江戸の両国・回向院門前(両国広小路)にあった「興兵衛ずし」もその一軒であった。

江戸時代の屋台すし屋(江戸後期の写真)
江戸・向島、隅田川沿い


江戸後期の歌川広重の鮨絵


『守貞謾稿』によれば「握りずし」が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には上方にも、「江戸ずし」を売る店ができた。天保の末年(1844年)には「稲荷寿司」を売り歩く「振売り」も現れたという。

『守貞漫稿』にある寿司の図




握りずしの始祖「華屋与兵衛」

江戸前寿司は、白米であるシャリの上に魚の切り身をのせた「握りずし」で、考案したのは本所元町のすし屋『華屋与兵衛』(はなやよへい)といわれている。
「握るすし」というのは華屋与兵衛以前にもあった。 しかし、それは、小さく握った飯の上に魚を貼り付け、箱の中で笹の葉で仕切りをして押しをかける「箱ずし」であった。
華屋与兵衛は、この手間と押し付けることで魚の脂分が抜け出てしまうのをきらった。
与兵衛は、その場で「握り早漬け」という、握った酢飯に、下ごしらえした魚の切り身をのせただけで、すぐに食べられる「握り寿司」を編み出した。
当初は、岡持ちを持って街中を歩き売りしていたが、人気が出て繁盛すると現在の墨田区両国に屋台を出して、客の目の前で寿司を握って商売を始めた。
その後「華屋」という店を構え、「与兵衛寿司」として売り出した。これが評判を呼んで、他にも握り寿司を出す店が江戸中に広がった。

写真は「華屋与兵衛の鮓」を再現した模型

華屋与兵衛は、いろいろ試みた末に、酢でしめた握り飯の上に江戸前で取れる新鮮な魚の切身をのせ、それを掌で握りしめて客に出した。
魚を下ごしらえした上で、酢飯にのせることや、わさびを挟むやり方も与兵衛の考案になるという。
しかし、当時わさびを入れるのはマグロとコハダだけだったようである。 こうして誕生した握りずしは、手軽な屋台料理として江戸っ子にもてはやされて瞬く間に江戸市中に拡がった。

当時の握りずしは大きく、今の握りが一口で食べられるのに対し、当時の握りは「一口半」から「二口」もあり、口にほうばるぐらいの大きさがあったという。
握りずしの屋台では、ツケ台に大きな握りずしを並べて置いてあり、江戸っ子は2個、3個を買い、立って食べるという立ち食い形式が一般的であった。
後に、その大きさでは食べにくいと言うことで二つに切って供したのが、二貫ずつ出す寿司のはじまりと言われている。

『偲ぶ与兵衛の鮓』 小泉清三郎著
 
左上から、小鯛、その下がミル貝、キス、イカの輪切り(胴体にシャリを詰めて輪切りにした寿司)。小鯛の横が白魚、その下の赤いのがマス、コハダ、下にアジ、海苔細巻き、赤貝。右上が鮎の姿寿司、その下が厚焼き玉子と海苔太巻き、下に車エビ、サバの押し寿司。

『偲ぶ与兵衛の鮓』画では、イカの輪切り、白魚、厚焼き玉子、車エビのシャリには、米飯の中に海苔やしいたけを甘辛く刻んだものと白身魚やエビを調味して炊いたオボロを混ぜている。

浮世絵を元に江戸前寿司を再現してみました (東京 日本すし学院 川澄 健)
左上から、小鯛、白魚煮付け、しめさば、稚鮎の姿酢じめ、白ぎす酢じめ、づけ鮪、車海老、煮いか、小あじ、赤貝、サバずし


華屋与兵衛は福井藩の出身である。九歳の時に江戸・蔵前の札差「板倉屋清兵衛」方に下男奉公に入り、十数年間勤め上げ、二十数歳で板倉屋を退いた。
その後は古道具屋、干菓子屋等々と何度かの商売を変えた末に握りずしを考案したと伝えられている。
文政年間(1818年~1830年)に当時住んでいた本所横綱の近くで毎夜、松井町界隈の岡場所を夜明けごろまで握りすしを売り歩き、尾上町(両国回向院前)に小さな店を構え「與兵衛(よへえ)ずし」の看板を上げたという。
この店が「松が鮓」と同じく武家屋敷からの注文も多く 『こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮨 客も諸とも手を握りけり』(安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」)という狂歌があるくらい江戸中の評判となった。

■ 天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』に書かれた「與兵衞鮓」について。
『與兵衞鮓』 作:向両国元丁 『流行鮓屋町々在 此頃新開两國東 路地奥名與兵衛 客来争坐二間中』・・・「江戸の町々に、はやりのすし屋があるが、最近、両国東の路地奥に与兵衛鮓というのが出来て、 二間(ふたま) ほどの店だが客が席を争っている」

「與兵衛(よへえ)ずし」の店は、深川安宅六軒堀の堺屋松五郎の「安宅(あたけ) の松が鮓」(松の鮓とも表記)と並ぶ贅沢鮓となり、竈河岸(へっついがし)の「笹巻毛抜鮨(ササマキ ケヌキスシ)」とともに「江戸三鮨」と謳われた。
江戸三鮨の有名なすし屋は、屋台ではなく店構えであった。(笹巻毛抜鮨とは、ネタを塩づけにして酢でしめた後、毛抜きで小骨を抜き、熊笹の葉で巻いたもの)

「守貞謾稿 巻之六(生業下)」』(嘉永6年-1853刊)には、『毛ぬきずしと云うは、握りずしを一つづゝくま笹に巻きて押したり。価一[つ]六文ばかり。毛ぬきずしの他は貴価のもの多く、鮨一つ価四文より五、六十文に至る。』とある。


天保の改革と高級すし

当時は、まだ「屋台の寿司」が中心で庶民の胃袋を支えた。鮨屋店 「与兵衛ずし」や「安宅の松が鮓」のように立派な店舗を構え、職人を多く抱えた寿司屋は主に富裕層を相手にした高級店であった。
高級店の寿司は、町民などの庶民が食べられるような値段ではなく、寿司一人前が2両とも3両とも言われる値段で、豪商や幕府の高官などが食事や土産物として利用していたという。

第12代将軍、徳川家慶の老中水野忠邦が行った質素・倹約を命じた「天保の改革」の一連の奢侈(しゃし)禁止令で、贅沢品を販売したことで衣類の仕立屋、下駄屋、小間物屋等がおとがめになり、高価な寿司を売った鮓屋200人余りが召し捕えられた。
江戸の三大鮨屋店「與兵衛ずし」「松の鮨」「笹巻き毛抜鮨」 の中では、華屋与兵衛、堺屋松五郎の両名共に手鎖(てぐさり)の刑に処せられている。

堺屋松五郎の「松が鮓」(屋号は「砂子鮨(いさごずし)」)について、次のような記録がある。
『近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、小判三両に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし』(松浦静山(1760~1841)『甲子夜話』

歌川国芳 『縞揃女弁慶』
「安宅(あたけ)の松が鮓」の図

画中に添えた狂歌は次のとおり。
梅屋『をさな子も ねだる安宅の松の鮓 あふぎづけなる袖にすがりて』


当時流行の「弁慶縞(べんけいじま)」の衣装を身にまとう女性。
その手の小皿には、酢で〆たコハダの押しずしに、卵巻きずしをのせ、上に海老の握り鮨をのせている。
折箱には「あたけ 松のすし」と書いてあり、これは当時の立派な寿司店「安宅(あたけ)の松が鮓」である。

■ 天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』に書かれた「安宅松鮓」
『安宅松鮓』 作:御舩蔵 『本所一番安宅鮓 高名當時莫可并 權家進物三重折 玉子如金魚水晶』・・・「本所一番安宅のすしは、名が高く当時他に並ぶものもなかった。当時の権勢のある家が進物に使うのは「松のずし」の三重の折り詰めで、玉子は金のようで、魚は水晶のようであった」

■ 明和2年から天保11年(1765-1840)『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』書かれた「安宅松鮓」について、江戸時代中期から幕末までの川柳・狂歌集には、『おはしたの口へはいらぬ松の鲊』の1句がある。 安宅(あたけ) の松が鮓は、使用人は口にすることができないくらい高価だったということである。


握りずし

握りずしは、押し寿司から派生し、文政年間(1818-30)に江戸に広まったと言われる。
握りずしは、関西での寿司の「なれずし」(甘酢で味付けした米飯に開いた生魚を載せて一晩寝かせ発酵させ出したもの)とは違い、飯に酢を混ぜ、魚だけでなく野菜・乾物などを用いて江戸独自の手法で作られた寿司である。

すぐに食べられる事から当時は握りずしは「早ずし」「握り早漬け」と呼んだという。
当時、拳ぐらいの大きさがあった握りずしが庶民に広まったのは江戸時代後期である。

守貞謾稿の江戸の握りずしについての記述
『すしのこと、(略)三都とも押鮓なりしが、江戸はいつ比よりか押したる筥(はこ)鮓廃し、握り鮓のみとなる。(略)筥鮓の廃せしは五、六十年以来やうやくに廃すとなり。
江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮長のままなり。
以上、大略、価八文鮓なり、その中、玉子巻は十六文ばかり也。これに添ふるに新生姜(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。』 

握り鮓のマグロについての説明には『刺身及びこはだ等には、飯の上、肉の下に山葵を入る』とある。
寿司に付合せの「ガリ」を添えることや、酢飯にワサビを載せ、その上に具(タネ)のせていたことがわかり、ほとんど現代の握り鮨と同じである。

握りずしが普及したのは、米酢よりも値段が安く、酒粕を利用した三河の粕酢(かすず)の甘味や旨みがすし飯に合うことがきっかけとなった。
粕酢(かすず)は、それまでの米酢とは異なった、こくのある風味と濃厚な色を備えた酢で、大坂ずしのようにみりんや砂糖を加えなくても塩と酢のみの調味でおいしいすし飯ができ、生魚の味を引き立て、この味は江戸っ子の好みに合致していた。

江戸時代の握りずしを復元した「早すし」

ふつうの握り寿司(手前)の2倍の大きさの早すし。

「早すし」は大きく、1個に使う握りずしに使うシャリは、今の時代は米が20グラムぐらいに対して、江戸時代のは50グラムぐらいの大きさとなる。
江戸時代は酒粕から作る粕酢(赤酢)をシャリに混ぜているので酢飯は赤みがある。
また、酢飯には粕酢の味も付いており、また、ネタの魚貝類にも酢締めや、醤油漬け、火を通すなど処理を施すなどでネタに味が付いており、醤油をつけずに食べていたとも云われている。


江戸時代の寿司ネタ

この時代の握りずしのネタはだいたいが塩漬けしたあとに酢漬けにしたもの。冷蔵保存技術のない江戸時代でもあり、寿司ネタの鮮度維持のため、「酢でしめる」、「茹でる」、「炙る」といったネタに手を加え、日もちするように工夫がなされた。

酢締めは、コハダやサバなどの青魚特有の生臭味を取るため、また穴子やタコなどはそれぞれに合う味付けで茹でるといった手間をかけます。
寛永年間(1640年頃)に、濃口醤油(関東地廻り醤油)が普及してからは、たれに漬け込むといった「漬け(ヅケ)」が行われた。
寿司ネタのマグロは足の早い(腐りやすい)魚だったので、鮮度が落ちるのを防ぐ目的で、マグロの赤身を湯引きして醤油(味醂との合わせ汁)に漬け込み、醤油の塩分で日持ちさせるといった手間をかけるようになった。

マグロの脂身、つまり「トロ」は脂っ気が邪魔して醤油をはじいてしまうので「漬け(ヅケ)」にできずに捨てていた。あまり脂の強いのは「下等」で「下賤」だという日本文化特有の思考もあった。

江戸時代のレシピ通りに復元した「握り寿司」(江戸時代のすしダネ)

「早すし」のネタは、アナゴ、マグロの漬け、エビ、コハダ(酢漬け)、イカの印籠(2切れ)。
エビは塩ゆでにして酢に漬けシャリには海苔が入っている。イカの印籠のシャリには、シイタケ、海苔、エビのおぼろの混ぜご飯である。

『守貞漫稿』にある、当時の握りずしの寿司ネタは、卵焼き・アナゴ・シラウオ・ヒラメ・コハダ・貝類などが使われた。
海苔巻き(細巻き)や玉子巻きなども一緒に商われていた。このうち、ズケマグロとコハダを握る時のみ、間にワサビがはさんであった。付け合わせはヒメタデや酢ショウガであり、盛り合わせる時の仕切りにはクマザサの葉を用いたという。

今日の寿司ネタの筆頭格であるマグロは、江戸時代の初期まで、マグロは庶民には一般的に食され、高級魚であるタイやヒラメなどと比べると、マグロと言えば赤身で脂身は「アブ」と呼ばれ低級魚の扱いであったが、江戸末期の天保三年(1832)から寿司ネタとしてマグロを食べることが増えていった。


現在の寿司との違い

江戸っ子が屋台でつまむ握りずしは「一貫一口半」といわれるほど、ネタに対して飯が格段に大きかったという。
現在の握りずしは生魚を使い、握りのサイズが「一口」サイズに小さくなったのが明治後期である。
江戸時代の握りずしは「一口半」サイズで、ネタも生物を使わず、醤油に漬け込んだ「ヅケ」や「塩漬けし酢漬け」にしたもの、煮たり焼いたりと調理を加えていた。

また、つけ醤油は使わなかった。 当時の寿司は、今よりは味が濃くて砂糖が高価で使えないので塩が多く使われた。酢は粕酢(赤酢)を使用した。
「江戸前」寿司と言ったら、マグロの漬け(づけ)や酢で〆たコハダ、煮物など、ひと手間を加えたものが正しいとされる。

  1. 1.シャリ自体の味が重要とされ、酢も酸味の強い粕酢を使用しておりシャリの色は醤油に浸したような薄赤い茶色、塩も多めで塩辛いものであった。
  2. 2.一口で食べられる今の握り寿司の2~3倍と大きかった。すしの握り(しゃり)は大きく、一口では食べにくいので、包丁で二つに切って供するようになった。これが「2貫づけ」の起源となった。
  3. 3.江戸時代は生のネタはなかった。保存技術がなかったこともあり、ネタは生ではなく煮たり醤油や酢で漬けたり塩を利かせたりと必ずひと手間加えていた。すしダネにはすべて調味が施しており、つけ醤油は不要であった。当時のネタの数はだいたい10種類以内だった。
  4. 4.江戸人には小鰭や鯵などさっぱりとした魚が好まれ、現代もっとも人気のあるトロのマグロは脂が多いと嫌われた。江戸町民にとってマグロと言えば赤身であり、トロは犬猫の餌や料理に使っても汁の具(ネギマ汁)程度だった。
  5. 5.現在、鮨種としてもっとも人気がある鮪は好まれず、醤油に浸け込んだヅケにして使われた。


※:寿司の原点となる「熟れ鮨(なれずし)」は米や麦などの穀物を炊き上げて、その中に魚などを詰め込乳酸菌の力で乳酸発酵させた発酵食品の一種です。
熟れ鮨の「ズシ」の字を見て判るように、昔は寿司を「鮨」もしくは「鮓」と書いていました。『魚へんに旨い』、『魚へんに酢っぱい』と書いていたのです。
乳酸発酵によって、米などの穀物が持つでんぷんや糖質は分解されてドロドロになります。
この時乳酸菌は酢酸などを生成し、ビタミンと酸っぱさを加えていきます。
この酸っぱさが不思議と魚と米を結びつけ、美味にすることを知った日本人は鮨・鮓を寿司へと昇華していくのです。


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