江戸時代の醤油文化


文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」の一部

江戸外食文化の始まり

■江戸外食文化の始まり
日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り(ふりうり)」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」であった。続いて、振売りから発展した料理を提供する「屋台」(持ち歩き形式)や店舗を構え商品を提供する「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれる形態ができ、煮売茶屋がさらに発展して「料理茶屋」になり、この料理茶屋がさらに、贅(ぜい)をこらした高級料理茶屋の「料亭」へと進化した。

江戸時代初期、江戸の町には飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657)年以降といわれている。井原西鶴の『西鶴置土産』によると明暦の大火後、浅草金竜山〈待乳山〉門前の「茶屋」が緑茶で炊いた奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆など)を器に盛って客に供した茶漬飯を「奈良茶飯(ならちゃめし)」と名付けたとある。この後、江戸市中に多くの奈良茶茶屋(ならちゃぢゃや)が広まった。一般的に奈良茶茶屋が「料理茶屋」の元祖といわれている。

「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」、浅草寺の境内には「正直蕎麦」という蕎麦屋ができた。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。屋台から店内で飲食させる「居見世(いみせ)」が現れ、蕎麦屋、 鰻屋(蒲焼き)、鰻飯屋(丼飯)、すし屋、天ぷら屋などの外食店ができた。ちなみに、うなぎを蒲焼きで食するようになったのが元禄時代(1688~1703)以降、天ぷらの串揚げは天明年間(1781~89)に登場し、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも「天ぷら」が出されるようになる。江戸前握りずしは文化・文政期(1804~30)に江戸の町に登場したといわれている。


奈良茶飯

明暦の大火から30年ほどたった元禄六年 (1693年) に出版された『西鶴置土産』には『近キ比、金龍山ノ茶屋ニ一人五分ヅヽノ奈良茶ヲ仕出シケルニ、器ノキレイサ色々調ヘ、サリトハ末々ノ者ノ勝手能コト也、中々上方ニモカヽル自由ナシ云々』とあり、ちかごろ浅草金竜山の茶屋で一人前、銀五分の奈良茶飯を売りだしたが、こぎれいな器に盛り付け、町人たちによろこばれている。上方には、こんな便利な飯屋はないと書かれている。(銀目五分は、約28文から30文)

『料理献立早仕組』飯之部、天保四年(1833年)に記述の「奈良茶飯」では「いかにもよきせんじ茶をとくとくとせんじて飯の水かげんにして焚こと世にしれるごとくなれども、塩にて味を付たるは悪し、たとえば壱升の飯なれば中盒(なかかさ)さに醤油一はい酒一杯入れて焚くべし、風味格外なり」とある。

また、『守貞漫稿』嘉永六年(1853年)の五生業、茶漬屋の項には「茶漬屋 茶漬飯の略也」、「右の奈良茶、皇国の飲食屋の鼻祖とも言うべし、今世江戸諸所に種々の名を付け、一人分三十六文、或は四十八文、或は七十二文の茶漬飯の店、挙て数べからず」とあり、飲食店の元祖と記している。


屋台見世・居見世(店舗)の食事処の登場

■江戸の町の拡大と外食の始まり
江戸時代初期、武士も庶民も外食する習慣はなかったとされ、江戸の町には飲食店がなく、店舗(屋台見世)を構えて料理を提供する料理屋が現れ始めたのは、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(1657年)以降といわれている。江戸城本丸、天守閣、二の丸まで焼き尽くした明暦の大火で江戸の町は3分の2が焼失した。焼失した大名屋敷五百、蔵九千余、橋六十、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、片町八百町、死者十万七千余人といわれる。明暦の大火を契機に、隅田川を越えて、本所・深川が開発されるなど、江戸の拡大が進んだ。

その焦土復旧作業のために諸国から職人が集まり、江戸の町に気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができた。(明暦の大火を経て大江戸が形成されるにつれて江戸の人口は、約15万人(寛永年間1624-44)から35万人(寛文年間1661-73)に増加したといわれる)煮売り屋が繁盛するにつれ、寛政年間(1789-1800)には、店先で酒が飲める「煮売り酒屋」ができ、その後、店内で煮物の肴の他に飲酒(居酒といった)をさせる「煮売居酒屋(居見世)」ができた。


■江戸の火事防止で屋台文化が始まる
明暦の大火の後、江戸の各所に火災の延焼を防ぐための火除地(ひよけち)や広小路(ひろこうじ)と呼ばれる空地が設けられた。恒久建築物は禁じられたが、これらの空間(広場)を江戸の下層庶民たちは盛り場的な営業地とすることより、露天商である屋台見世(床見世)・葭簀張(よしずばり)の茶店、流れ巡業を行う芝居や見世物小屋、屋台が固定化した「小屋掛・居見世」「飯屋」ができ、庶民の食事処として登場してくる。


煮売り酒屋(辻売り屋台)
店先で酒を立ち飲みする武士。大皿・小皿には酒の肴の煮豆や煮しめが盛られている。提灯の「せうちう」とは焼酎のこと。


■屋台を利用する人々
江戸は参勤交代の武士やその奉公人・出稼ぎ人などの独身男性の多い町(男女比は男性が女性の1.5倍)であり、すぐに食べられ小腹を満たす安価な蕎麦などの手軽な屋台料理などの外食が発達した。
寛文四年(1664)の『昔々物語』には「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者(庶民)はこれを買って食べたが、貴人(富裕層)には食べる者がないという記述があり、長屋住まいの庶民に屋台料理が定着していた様子がみられる。屋台で食べる立ち食いであった鮨(4~8文)や天ぷら(1串4~6文)、天秤棒で屋台をかついで来て食べさせた蕎麦(一椀16文)、家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩くうなぎの蒲焼き(1串16文)。これらの外食文化をつくったのは、馬子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事に従事するその日暮らしの庶民であった。


天ぷら屋台店(辻売り屋台)
1串4文。頭巾を被り、庶民に混じりながら忍んで屋台に通う武士の姿が描かれている。
鍬形蕙斎「近世職人尽絵巻」東京国立博物館蔵


■屋台の種類
屋台には「担い屋台」と「辻売り屋台」があった。担い屋台は天秤棒で小さな屋台を担ぎ、町々を移動しながら商売をする。辻売り屋台は、寺社の境内や門前・道端・あき地など、人の大勢寄る所へ仮設店舗(屋台見世(やたいみせ))を組立てて移動せずに商う屋台を出して売る。「振り売り」形式の担い屋台は蕎麦や鰻蒲焼・田楽・甘酒などが、「立ち売り」形式の辻売り屋台は天麩羅や鮨が多かった。
守貞謾稿の『近世風俗史』には、『屋体見世(やたいみせ)すゑみせにて不要の時他に移す。屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。鮨と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各三,四ヶあり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に屋台見世を置く』と書いてある。 屋台は鮨・天麩羅などを扱い、夜中でも人の往来の多い所には各町に数店が出ていた。


■屋台から料理屋へ
屋台見世の「てんぷら屋」では、飯つきで一人前二十四文からせいぜい四十文で商われたという。嘉永年間になると天ぷら屋台見世もしだいに高級化していき、安政年間(1854~1859年)になると、大きな店構えの天ぷら店が現れ、料亭でも出されるようになった。

担い屋台の「二八そば」一杯は、16文で寛文年間(1661~73年)に値段が決まり、幕末の1864年頃まで16文で約200年間変わらなかった。
享保年間(1716~36年)以降に「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめた。それ以前は「慳貪(けんどん)屋」と呼ばれ、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商うのが普通であった。享保年間の中頃(1720年代)には蕎麦屋が増え、江戸ではうどんよりも蕎麦が好まれるようになった。


向島、秋葉神社門前の料理茶屋「平岩」
鯉料理の有名な料理屋。天明期(1781‐89)

料理屋(居見世)の鍋料理としては、江戸初期の「料理物語」(1643年)に、煮物の部に鍋焼があり、「なべ焼、みそ汁にてなべにて其まま煮候也。たい、ぼら、こち、何にても取あはせ候」とあって、みそ汁で煮る鍋料理であった。

江戸時代後期には、座敷に七輪や鍋を持ちだして食べるようになり、塩や味噌が主体だった調味料に醤油やみりんが加わり、鍋料理が確立していく。江戸時代後期の「小鍋立て」の鍋料理の代表は「ねぎま鍋」「どじょう鍋」「あなご鍋」「しゃも鍋」「ぼたん鍋」などである。中でも一般的だったのが、どじょう鍋であった。鍋の値段は、鰌(どじょう)汁・鯨汁が一椀十六文、鰌鍋(どじょうなべ)四十八文である。(※:銭一文=江戸前期から中期で約20円~25円、江戸後期で約30円に相当)


どじょう鍋(料理茶屋)


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