江戸時代の外食・醤油文化

江戸外食文化の始まり

■江戸外食文化の始まり
日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り(ふりうり)」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」であった。続いて、振売りから発展した料理を提供する「屋台」(持ち歩き形式)や店舗を構え商品を提供する「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれる形態ができ、煮売茶屋がさらに発展して「料理茶屋」になり、この料理茶屋がさらに、贅(ぜい)をこらした高級料理茶屋の「料亭」へと進化した。

江戸時代初期、江戸の町には飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657)年以降といわれている。井原西鶴の『西鶴置土産』によると明暦の大火後、浅草金竜山〈待乳山〉門前の「茶屋」が緑茶で炊いた奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆など)を器に盛って客に供した茶漬飯を「奈良茶飯(ならちゃめし)」と名付けたとある。この後、江戸市中に多くの奈良茶茶屋(ならちゃぢゃや)が広まった。一般的に奈良茶茶屋が「料理茶屋」の元祖といわれている。

「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」、浅草寺の境内には「正直蕎麦」という蕎麦屋ができた。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。屋台から店内で飲食させる「居見世(いみせ)」が現れ、蕎麦屋、 鰻屋(蒲焼き)、鰻飯屋(丼飯)、すし屋、天ぷら屋などの外食店ができた。ちなみに、うなぎを蒲焼きで食するようになったのが元禄時代(1688~1703)以降、天ぷらの串揚げは天明年間(1781~89)に登場し、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも「天ぷら」が出されるようになる。江戸前握りずしは文化・文政期(1804~30)に江戸の町に登場したといわれている。

■明暦の大火」と外食産業の基盤の誕生
江戸は267年の町に49回の大火に見舞われているが、その中でもっとも被害か甚大だったのが4代将軍家綱の時代の『明暦の大火(振袖火事)』であった。明暦三年(1657)1月18日未の刻(14時ごろ)から2日間にわたって燃え続けたという。大火は本郷・小石川・麹町の3ヵ所から連続的に火災か発生し、瞬く間に広がった。江戸城の本丸・天守が焼け落ち、外堀以内のほぼ全域を焼き尽くし、江戸市中の大半を焼失した。死者数は諸説あるが、3万から10万人と言われており、江戸史上屋大の火災となっている。
当時の江戸の町人人口は、明暦三年(1657)に約28万人と推定されている。これに武家人口50万人を加えると、江戸の総人口は約78万人となる巨大都市だった。(享保六年(1721)には、町人人口が約50万人、武家人口50万人で、江戸の総人口は約100 万人となる)

明暦の大火後、大火に対する都市防火政策の一つ として火除地(ひよけち)が設置された。火除地と同様に、防火目的として「広小路、広道、火除堤」なども設けられた。都市防火政策の火除地が江戸城や幕府の重要施設、大寺院を大火の延焼経路から遮断するように配置されると、当初は空地として防火機能 に特化した空間であったものが、徐々に茶店や見世物等の諸施設が設けられ、庶民が商業や娯楽等の場として複合的に利用するようになった。

明暦の大火
『江戸火事図巻』 田代幸春 画(明暦の大火の画)
この火災についての記録である「むさしあぶみ」には次のように書いてある。「諸人にげまどひて、炎にこがされ、煙にむせび、又は大名小名の家々に日ころとしごろひざうして立飼れたる馬ども、いくらというかずしらじ、家々に火かゝれば、すべきかたなく、綱をきりて追はなしやられしかば、此馬ども人と火におどろき、逸散にかけ出し、あまたむらがりたる人の中にかけこみ、行つまりて、人と馬とおしあひ、もみあいたれば、これにふみころされ、うちたをされ、火にやかれ、煙にむせび、あそこ爰堀溝に、百人、弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしという所もなし、火しづまりて後つぶさにしるし付たれば、をよそ十万二千百余人とぞかきたりける。」


奈良茶飯

■外食産業のきっかけ「奈良茶飯」
明暦の大火(1657年)以降、江戸で外食産業のきっかけとなったのが、浅草金龍山の門前にできた「奈良茶飯屋」だと言われている。奈良茶飯は、煮出した茶に大豆・小豆などを入れて塩味で炊いた茶飯に汁や煮豆を添えたといわれている。これが江戸時代に庶民の間に広まって、江戸の町中に多くの奈良茶飯屋ができた。この流行ぶりは江戸市中だけにとどまらず、あちこちの宿場でも奈良茶飯を提供する店ができた。

明暦の大火から30年ほどたった元禄六年 (1693年) に出版された『西鶴置土産』には、『近キ比、金龍山ノ茶屋ニ一人五分ヅヽノ奈良茶ヲ仕出シケルニ、器ノキレイサ色々調ヘ、サリトハ末々ノ者ノ勝手能コト也、中々上方ニモカヽル自由ナシ云々』とあり、ちかごろ浅草金竜山の茶屋で一人前、銀五分の奈良茶飯を売りだしたが、こぎれいな器に盛り付け、町人たちによろこばれている。上方には、こんな便利な飯屋はないと書かれている。(銀目五分は、約28文から30文)

料理書に見る「奈良茶飯」の作り方では、
  • ①『今古調味集』天正八年(1580)の料理書の飯の部に「素良茶飯  随分能煎茶をとくと煎出して飯の水かげんにして焚なり、但し塩にて味を付たる時悪し、たとヘ一升の米ならば中盒(なかかさ,飯盒の中蓋)に醤油一盃酒一盃入て焚べし」
  • ②『料理献立早仕組』飯之部、天保四年(1833)に記述の「奈良茶飯」では「いかにもよきせんじ茶をとくとくとせんじて飯の水かげんにして焚こと世にしれるごとくなれども、塩にて味を付たるは悪し、たとえば壱升の飯なれば中盒(なかかさ)さに醤油一はい酒一杯入れて焚くべし、風味格外なり」
と記述されている。

また、『守貞漫稿』嘉永六年(1853年)の五生業、茶漬屋の項には「茶漬屋 茶漬飯の略也」、「右の奈良茶、皇国の飲食屋の鼻祖とも言うべし、今世江戸諸所に種々の名を付け、一人分三十六文、或は四十八文、或は七十二文の茶漬飯の店、挙て数べからず」とあり、飲食店の元祖と記している。

■江戸時代の人気食「奈良茶飯」 河崎万年屋/奈良茶飯の図
 

「奈良茶飯」黒豆・小豆・栗入りの茶飯、シジミの赤だし、奈良漬(神奈川県立歴史博物館)

「万年屋」は、明和年間(1764-72)、十三文均一という安価で旅人に食事を出す一膳飯屋であったが、文化・文政の頃(1804-29)には、茶飯一人前四十八文で大いに繁昌したという。しかし、その後の庶民の旅への関心の高まり、川崎大師参詣者の増加によって、川崎宿内第一の茶屋に発展し、宿泊所としての施設も整え、江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う。
文久年間の記録からみると、その規模は、当時の旅籠や茶屋のなかで最大ともいえるものであった。万年屋は、二階屋の表屋敷と別屋敷の二棟があった。表屋敷一階は間口11間半(約20.9m)、奥行12間(約21.8m)、畳数91、坪数123、二階は38畳20坪。別屋敷一階は間口5間半(約10m)、畳数27畳半、坪数24、同二階は36畳24坪であった。

■『東海道中膝栗毛』の”奈良茶飯”
名物の奈良茶飯とは、少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗などに季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものとされている。その繁栄の様子は、東海道の名所を絵画化して案内することを主眼とした『東海道名所図会』(寛政9年・1797)に「河崎万年屋・奈良茶飯」として挿絵に見え、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九、享和2年・1802)では、弥次郎兵衛と喜多八のふたりが、この万年屋で”奈良茶飯”の食事を取っている。
東海道中膝栗毛には、『六郷の渉(わたし)をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける』と出てくる。 江戸時代、多摩川の上流を入間川と呼び、下流を六郷川と呼び習わしていた。六郷の渉(わたし)とは、多摩川の下流にあった東海道における八幡塚村と川崎宿間の「渡し場」で渡し賃は、正徳元年(1711)以降は1人10文、荷物1駄15文、ただし、武士や僧侶は無賃だったという。
六郷川(多摩川)を越えて川崎の宿に入った弥次・喜多が、有名な万年屋で掛軸の鯉の滝のぼりを『この道中の茶屋では、どこでも床の間にひからびた花が活けあるな。 ほら、弥次さん。見てみろ、あの掛け軸。ありゃなんだ』 『ありゃ、お前、鯉の滝のぼりよ』『こりゃまた、鮒がそうめんを食ってるのかと思った』『ほら、無駄口をたたかないで、早く食え。汁がさめてしまう』『おや、いつのまに。どれどれ』などと無駄口を叩きながら、名物の奈良茶飯を奈良漬と一緒にお茶漬けにして、さらさらと食べるという昼食時の場面である。


屋台見世・居見世(店舗)の食事処の登場

■江戸の町の拡大と外食の始まり
江戸時代初期、武士も庶民も外食する習慣はなかったとされ、江戸の町には飲食店がなく、店舗(屋台見世)を構えて料理を提供する料理屋が現れ始めたのは、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(1657年)以降といわれている。江戸城本丸、天守閣、二の丸まで焼き尽くした明暦の大火で江戸の町は3分の2が焼失した。焼失した大名屋敷五百、蔵九千余、橋六十、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、片町八百町、死者十万七千余人といわれる。明暦の大火を契機に、隅田川を越えて、本所・深川が開発されるなど、江戸の拡大が進んだ。

その焦土復旧作業のために諸国から職人が集まり、江戸の町に気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができた。(明暦の大火を経て大江戸が形成されるにつれて江戸の人口は、約15万人(寛永年間1624-44)から35万人(寛文年間1661-73)に増加したといわれる)煮売り屋が繁盛するにつれ、寛政年間(1789-1800)には、店先で酒が飲める「煮売り酒屋」ができ、その後、店内で煮物の肴の他に飲酒(居酒といった)をさせる「煮売居酒屋(居見世)」ができた。

煮売り酒屋(辻売り屋台)/歌川広重画 「浄るり町繁花の図」嘉永5年(1852)
店先で酒を立ち飲みする武士。大皿・小皿には酒の肴の煮豆や煮しめが盛られている。提灯の「せうちう」とは焼酎のこと。


■ 江戸の火事防止で屋台文化が始まる
明暦の大火(振袖火事,1657年)の後、江戸の各所に火災の延焼や飛び火をを防ぐための火除地(ひよけち)や広小路(ひろこうじ)と呼ばれる空地が設けられた。元禄期にかけて市中に大小の火除地が数多くつくられた。特に面積が最も大きくなるのは享保期1716~1736年で、江戸の中心部に少なくとも五万人を収容できる空間が広がっていたという。

明暦の大火後につくられた両国橋の両岸にまとまった面積を持つ火除け地が「両国広小路」で、そのほか、小川町・外神田・江戸橋・永代橋西詰・新大橋西詰・芝愛宕下・宮方門前・芝赤羽・浅草・本郷筋・上野などに広小路がつくられた。
火除地としての機能を持つ広小路は恒久的な建造物を建てることが禁じられた。しかし、往来の激しい橋詰や、多くの参拝者を集める寺社門前に設置された広小路には、移動や撤去の可能な床店が建ち並んでいた。これらの空間(広場)を江戸の下層庶民たちは盛り場的な営業地とすることより、露天商である屋台見世(床見世)・葭簀張(よしずばり)の茶店や、流れ巡業を行う芝居や見世物小屋、髪結い床、相撲などの興行を見せる仮設の施設が次々と建てられ、さらに、屋台が固定化した「小屋掛・居見世」「飯屋」など、あらゆる飲食店が軒を並べ、庶民の食事処として登場してくる。


町人地(橋詰)に立地する火除地、両国では夏の納涼が盛大なものとして東都第一と評され、筋違橋では江戸の二大天下祭である神田祭の巡行路に指定されセレモニーの場として利用されるようになった。 さらに筋違橋橋詰では幕府の御用市場に指定されていた青物市場が開かれ両国橋橋詰では浅草寺の三社権現祭の神輿渡しが行われるように、いずれも 商業や娯楽などの場として多様な利用が見られる賑わいであった。



■屋台を利用する人々
江戸は参勤交代の武士やその奉公人・出稼ぎ人などの独身男性の多い町(男女比は男性が女性の1.5倍)であり、すぐに食べられ小腹を満たす安価な蕎麦などの手軽な屋台料理などの外食が発達した。
江戸の町の庶民の多くは長屋住まいである。寛文四年(1664)の『昔々物語』には「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者(庶民)はこれを買って食べたが、貴人(富裕層)には食べる者がないという記述があり、長屋住まいの庶民に屋台料理が定着していた様子がみられる。
屋台で食べる立ち食いであった鮨(4~8文)や天ぷら(1串4~6文)、天秤棒で屋台をかついで来て食べさせた蕎麦(一椀16文)、家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩くうなぎの蒲焼き(1串16文)。これらの外食文化をつくったのは、馬子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事に従事するその日暮らしの庶民であった。


天ぷら屋台店(辻売り屋台)
1串4文。頭巾を被り、庶民に混じりながら忍んで屋台に通う武士の姿が描かれている。
鍬形蕙斎「近世職人尽絵巻」東京国立博物館蔵

■屋台の種類
屋台には2 種類あり「担い屋台」と「辻売り屋台」があった。担い屋台は天秤棒で小さな屋台を肩に担ぎ、町々を移動しながら商売をする。辻売り屋台は、寺社の境内や門前・道端・あき地など、人の大勢寄る所へ仮設の店舗(屋台見世(やたいみせ))を組立てて移動せずに商う屋台を出して売る。「振り売り」形式の担い屋台は蕎麦や鰻蒲焼・田楽・甘酒などが、「立ち売り」形式の辻売り屋台は天麩羅や鮨が多かった。
「二八蕎麦」という言葉が文献に登場するのは、享保(1716~36)の中頃である。だし、醤油などの調味料の向上が蕎麦の普及に拍車をかけた。担い屋台の「二八そば」一杯は、16文で寛文年間(1661~73年)に値段が決まり、幕末の1864年頃まで16文で約200年間変わらなかった。蕎麦は担い屋台の代表でもあった。

守貞謾稿の『近世風俗史』(1853)には「屋体見世(やたいみせ)すゑみせにて不要の時他に移す。屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。鮨と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各三,四ヶあり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に屋台見世を置く」と書いてある。屋台は鮨・天麩羅などを扱い、夜中でも人の往来の多い所には各町に数店が出ていた。

■屋台から料理屋へ
屋台見世の「てんぷら屋」では、飯つきで一人前が二十四文からせいぜい四十文で商われたという。嘉永年間になると、天ぷら屋台見世もしだいに高級化していき、安政年間(1854~1859年)になると、店構えの天ぷら店(居見世)が現れる。そして、天ぷらは、高級感のある立派な建物を建て、食事の提供だけではなく庭の雰囲気を座敷から楽しむことができる料理茶屋、今でいう料亭でも出されるようになった。

享保年間(1716~36年)以降に「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめた。それ以前は「慳貪(けんどん)屋」と呼ばれ、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商うのが普通であった。享保年間の中頃(1720年代)には蕎麦屋が増え、江戸ではうどんよりも蕎麦が好まれるようになった。このころから夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようにもなっている。蕎麦屋は時代とともに店を構えるところが増えて、座敷をつくり、なかには立派な茶屋のようなそば屋も出現した。


向島、秋葉神社門前の料理茶屋「平岩」
鯉料理の有名な料理屋。天明期(1781‐89)

江戸時代は、17世紀を江戸前期(1600年~)、18世紀を江戸中期(1700年~)、19世紀を江戸後期(1800年~)として、3つの時期に分かれる。江戸初期の中頃に料理店(屋台見世)、江戸中期から料理屋(居見世)が出現し、追々に飯屋、蕎麦・うどん屋、寿司屋、うなぎ屋、茶漬け屋、天ぷら屋、さらには猪料理のももんじ屋などまでが開業した。江戸後期の1804年(文化元年)における江戸町奉行の調査では、江戸市中の食い物屋の数は約6,160軒に達したという。ちなみに、江戸時代末期1860年(万延元年)の調査では、夜鷹そば屋を除く江戸の蕎麦屋の数は約3,760軒であった。


どじょう鍋(料理茶屋)

料理屋(居見世)の鍋料理としては、江戸初期の『料理物語』(1643年)に、煮物の部に鍋焼があり、「なべ焼、みそ汁にてなべにて其まま煮候也。たい、ぼら、こち、何にても取あはせ候」とあって、みそ汁で煮る鍋料理であった。
江戸時代後期には、座敷に七輪や鍋を持ちだして食べるようになり、塩や味噌が主体だった調味料に濃口醤油やみりんが加わり、鍋料理が確立していく。江戸後期の「小鍋立て」の鍋料理の代表は「ねぎま鍋」「どじょう鍋」「あなご鍋」「しゃも鍋」「ぼたん鍋」などである。中でも一般的だったのが、どじょう鍋であった。鍋の値段は、鰌(どじょう)汁・鯨汁が一椀十六文、鰌鍋(どじょうなべ)四十八文である。(※:銭一文=江戸前期から中期で約20円~25円、江戸後期で約30円に相当)
また、江戸時代末期の幕府医官、喜多村直寛(香城)の随筆『五月雨草紙』には“竹輪・椎茸・野菜の煮染め、つみれ汁、飯、香の物”を1食百文で食べさせる定食屋も登場している。


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