江戸時代の外食・醤油文化

江戸食文化の定着(2),江戸中期から後期

江戸時代半ば以降に普及した握り寿司やウナギ、天ぷらなども、初めは江戸庶民の手軽なファストフードの屋台として登場した。いずれの料理も当初は、上方(関西)で生まれたものが、江戸において洗練され「江戸前料理」として発展した。
江戸では天ぷらといえば魚に限った呼び名で、野菜揚げとは区別されていた。江戸には、魚貝の宝庫ともいえる豊潤な江戸前の海と巨大な生鮮市場の魚河岸があったこと、さらには関東風の濃い味を好む味覚形成に大きな影響を与えた関東地廻り醤油(濃口醤油)や味醂、酢、白砂糖などの調味料、鰹を中心とする出汁が普及したことが、江戸前料理の完成に大きな役割を果たした。

関東の地廻り醤油(濃口醤油)は関西の醤油より小麦を多用した香りの豊かさが特徴である。江戸前料理の味の基本になっているのは、関東で醸造された濃口醤油だった。がっしりとした濃さは蕎麦のつゆにむき、鰻の蒲焼きのタレもこってり味になり、天ぷらの「てんつゆ」もできた。寿司の味を引き締め、握りずしが隆盛するなど、江戸の食文化は濃口醤油によって完成されていった。

江戸の四大名物料理

江戸の四大名物料理といえば、「そば」「うなぎの蒲焼」「天ぷら」「握り寿司」があげられる。
これらの料理の書物による初出は、“1614年(慶長) 『磁性日記』 蕎麦切り/1640年(正保) 『料理物語』 うなぎ蒲焼/1748年(寛延) 『料理歌仙の組糸』 天ぷら/ 1829年(文政) 『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』 握り寿司の川柳句「鮓のめし 妖術という 身でにぎり」「握られて 出来て喰付く 鮓の飯」” である。これらは、濃口醤油・酢・白砂糖・味醂などの調味料の普及とともに、江戸中期から後期にかけて、屋台や料理屋などで江戸の味として受け入れられていった。

■関東の「醤油」が「江戸の食文化」を花開かせた。
江戸時代の前期には全国の大名が江戸に屋敷を構えた。彼らを支えるため関東一円から集まった職人や出稼ぎの独身男性者の食事場として、手軽にすぐ食べられる食事が好まれ、そばや寿司、おでん、天ぷらなどの屋台が誕生する。調味料の基本である醤油も江戸庶民は、京・大坂から運ばれてくる「下りもの」に頼っていた。
江戸も中期になると関東でも醤油が醸造されるようになる。関東の醤油は関西のものより小麦を多用した香りの豊かさが特徴の「濃口醤油」であって、それが上品な上方風とは異なる江戸独自の味を生むきっかけとなった。「江戸の食文化」は濃口醤油の流通量がふえるのに合わせて完成されていった。

寿司は押し寿司の原形(飯に酢と小魚を加えた「早すし」)から、東京湾の魚介類を使用した握り寿司が生まれ、蕎麦もこの時期に外食として定着する。また醤油が庶民の生活に普及すると、それまで屋台だった店舗が、そば屋、寿司屋、天ぷら屋、居酒屋などの形態をとる料理店が増えた。寿司屋やうなぎ屋なども、やや高級な店が宝暦(1751年)から天明期(1781-89年)ごろから増え始めた。天ぷら屋は立食い屋台から座敷を設けた天ぷら屋ができたのは、幕末の文久頃(1861~)からである。

江戸後期には、うなぎの蒲焼に濃口醤油と味醂を合わせた江戸前のタレがつくられて江戸の味ができあがり、蒲焼が現在のような形になった。江戸前の鰻蒲焼は手軽さも売りだったため幕末まで主として屋台で売られていた。
日本では長らく肉食は禁じられていたが、猪料理のももんじ屋の料理屋が出現、幕末から国内に外国人が増えたことで肉食禁忌の感覚が次第に薄れていき、味噌や醤油で味付けられた牛肉を食材に取り入れた牛鍋屋もできた。

江戸後期の料理屋は、江戸市中に乱立するようになり、中庭を置き、離れや二階座敷を設けて、独自の空間を演出する高級料理屋の料亭が出現するようになった。その他、町中には、料理茶屋、飯屋、蕎麦・うどん屋、寿司屋、鰻屋、茶漬け屋、どじょう汁屋、天ぷら屋のほか屋台や小屋掛けの食事処があふれ、代金さえ払えば、誰でも自由に飲み食いができた。

      

屋台寿司(見世)と寿司屋(居見世)

■居見世
江戸の町では廉価な飲食産業や外食産業、一膳飯屋や屋台の食い物売りが軒を連ねるにいたった。すし商もその例外ではない。江戸前の握り寿司は初めは屋台の店で出されたが、もちろん握り寿司が流行る前から寿司屋が存在した。やがて、一部の握り寿司は江戸時代末期から高級な店舗(居見世)と廉価な屋台にわかれて発展した。
江戸前寿司は、屋台を除けばほとんどが持ち帰りや出前専門の寿司屋で、店で食するところは数えるほどしかなかった。寿司屋で、普通の店とは『内店』と呼ばれる店でる。あらかじめ客から注文を受けて、すしを握り、出前するか持ち帰りの寿司を作る商法であり、店で客に食べさせることはしなかった。

『守貞謾稿』に「江戸は鮓店はなはだ多く毎町12戸、蕎麦屋12町に1戸あり、酢屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世はもっぱらこれを置かず、又ヤタイミセのみて売るも多し」とある。
このように、名のある寿司店は屋台を置かず、普通の店はもっぱら屋台を置いているし、屋台だけで売る寿司屋も多い、というのである。屋台ではなく店構えの座敷で食事のできる有名(高級)な寿司屋には、華屋与兵衛の「与兵衛ずし」や堺屋松五郎の「安宅松の鮓(すし)」などがあり、いずれも高級な寿司屋であり、一時期には一個三匁も五匁(300~500文)もする高い鮨であった。


江戸時代後期、文化二年(1805年)頃の『熈代勝覧(きだいしょうらん)』絵巻に描かれている寿司屋
寿司屋の障子看板に「寿しや 玉鮓 庄兵衛」と書かれており、店脇に掲げられた旗竿には「玉寿し」と書かれている。


歌川豊国『見立源氏花乃宴』‐寿司‐ 安政2年(1855年)
絵の題『見立源氏はなの宴』は、長編合巻(物語)『偐紫(にせむらさき)田舎源氏』の一場面を抽いた錦絵である。
桜が咲き乱れる吉原遊郭で、主人公、田舎源氏(足利光氏)に花魁が寄り添い酒を注ぐ酒宴の光景。二人の前に華やかに並ぶ料理の数々。これらの料理は、右から桶の中に積み重ねられた握りずし、酒麩(さかふ―酒で煮た麩)、簀子(すのこ)の上に盛られた紅白の刺身(赤は鮪、白が鯛かヒラメ)、脇に大根おろし、生防風(しょうぼうふう)、山葵(わさび)らしい3種の薬味。二つの器(猪口)の中は刺身につける醤油と煎り酒、左端に少し見えるのは重箱に入った伊達巻。

白木の「出前桶」の中の寿司は「重ね盛り」となっている。描かれている寿司は、下が玉子巻、上が握りずしの海老に、アジかコハダ。そして玉子焼らしい握りには、楊枝が刺してある。海老の下に見えるピンク色の握りは、海老のおぼろ(そぼろ)と思われる。

■吉原遊郭と鮨売り
江戸時代の末頃出版された『守貞漫稿』に、押ずしの売価は四寸四方の鮨で四十八文、小口に切っての販売もされた。「一筥(はこ)凡十二に斬て四文に売る」とあり、一篭12に切って4文で売るとあるので、1個ならば4文、一篭ならば48文である。具は鳥貝・卵焼き・鮑・鯛等。酢飯の中に椎茸を混ぜ込むこともあるという。その他にも、海苔巻も当時からあったようである。
吉原では、頭に手拭を吉原冠りに締めて粋でいなせな姿の鮨売りは、白木の長手の箱を肩にかついで、「すしやァ こはだのゥすゥしィ」などと美声をもって呼び歩いた。江戸時代中期の宝暦年間(1751~1764年)頃までのすし売りの〝鮓〟は、すぐにその場で漬けて客の求めに応じたのではなく、数日漬け込んだ「なれ鮨」[※1]であった。

江戸前の名産とされていたアジに対し、コハダは同じ江戸前の魚でも下魚扱いされていた。それが、すしダネに用いられるようになると評価が一変した。江戸時代後期のコハダ・アジの「当座鮨」[※2]について、小川顕道の『塵塚談』(文化11年[1814])にはこうある。「河豚(ふぐ)・鰶魚(このしろ)=コハダ、我ら若年の頃は武家は決して食せざりしものなり。鰶魚(このしろ)はこの城を食ふといふ響きを忌(いみ)てなり。 (中略) 鰶魚は今世も士人以上は喰はざれども、魚鮓(すし)にして士人も夫人も賞翫しくらふ。河豚も乾ふぐは貴富も少しもおそれず喰ふ。鰶魚のすしに同じ」とあって、コハダ(鰶魚)はすしと出あって、代表的な寿司ネタとなった。また、江戸時代幕末の嘉永・安政年間(1848~1860年)には、握り鮨が浸透していくにつれて、市中でコハダの鮨を売り歩くというスタイルが生まれた。

(※1:ナレズシには馴酢,熟酢,馴鮨,熟鮨の漢字があてられる。 ※2:「当座鮨」は早ずしともよばれ、桶で馴(な)らすことをせずに、飯と具を桶に入れてちょっと押さえ漬けるようにして、そのまま食べるもので、簡便さを狙った鮨である。)

■日本に「出前」や「仕出し」が定着したのは江戸中期から後期である。
「出前」という言葉の出前の「出」は、店から作った料理が出る、前は、1人「前」、2人「前」の分量を表している。江戸時代中期、日本で最初に出前方式を始めたのは、寛文年間(1661-72年)、江戸の吉原にできた店だという。遊廓の夜食用にと、そばの出前が始まった。これらの店は「けんどんそば切り」と呼ばれた。「慳貪(けんどん)」とは「出前」の意味である。「そば切り」は、そばがきをうどん風に細く切ったもので、現在のそばの前身のようなもの。これが大人気となり、出前も盛んになっていった。

「仕出し」は「仕」と「出」の字が含まれている通り、「作って」「出す」=出前・配達料理 の意味である。1824年に書かれた『江戸買物独案内』という書物によれば、高級料亭などで多く「仕出し」が行われていたようである。
享保期(1716-35年)に初めて吉原遊郭内に「台の物」と呼ばれる夜食料理の仕出しをする「台屋」(遊郭専門の仕出し屋)が登場する。吉原の仕出しの特徴は「台の物」といわれるもので、卓袱台ぐらいの大きさの台に、魚や料理を豪華に盛り付けた皿や鉢を並べて、台ごと配達していた。文政期(1818-29)から遊郭外の仕出し屋なども生まれ、飲食商売は大繁盛した。

幕末頃になると、寿司屋、蕎麦屋、うなぎ屋といった出前が充実するようになる。庶民は慳貪箱で運ばれるうどんや蕎麦など、大名や大店の家族は大八車に載せられた料理や食材で「出前」「仕出し」を利用していた。江戸時代の仕出しは、町衆とともに育った文化ともいえ、大店の主人が昼間、仕出し屋にさまざまな料理を注文すると夕方には料理が届けられた。やがて、商家ではお祝い事や法事などの時には料理を仕出し屋に頼み活用されるようになった。



屋台蕎麦から蕎麦屋(居見世)へ

細長い麺状の蕎麦が食べられるようになったのは、室町から江戸時代の初期の慶長年間から寛永年間(1596-1644年)といわれている。それまでは、古くは粒のまま粥(かゆ)にし、あるいは蕎麦粉をねっていわゆる蕎麦掻き(そばがき)として食べていた。この頃はまだ茹でて食べるわけではなく、蒸して食べることが主流であった。この「蕎麦がき」に対して、江戸時代中期の蕎麦は「蕎麦切り」と呼ばれて蕎麦を茹でる「麺」として食べるようになる。当時、「蕎麦切り」は庶民的な食べ物として職人や商人など、江戸っ子を中心に大人気となった。やがて「蕎麦切り」の方が主流となり、「蕎麦」といえば「蕎麦切り」を指すようになった。
現在私たちが口にしている蕎麦は江戸時代中期に、蕎麦切り・蕎麦つゆ・薬味・器・盛り方・食べ方など、それぞれが形に成り始め、江戸時代後期に完成したとされている。現在一般的に使用されている「蕎麦」という呼び方は蕎麦切りが省略されたものである。


蕎麦がきのつくり方、『料理山海郷』寛延三年(1750)によれば、「そば粉常のそば練りのごとく鍋にて堅くねりて、其の上へ水一ぱい入れ、そばのあく汁をとる為也。湯をすて、其の後練り直すべし。杓子にて練るは悪しし、女竹きせるのらうほどに(竹の太箸で素早く)切り練るべし。是にては鍋にもつかず、よき也。膳を出すに、白湯熱く沸かし椀に入れ、右のそば練り玉子ほどづつ取り、湯に浮けて出す。かうとう(ゆずと薬味の意味)は常のそば切のごとし。汁はかつを水出しして、その後醤油を加え加減するなり。水多くては汁薄くなる也。よくよく心得べし」とある。

江戸での蕎麦の普及には、店を構えた蕎麦屋だけでなく、担ぎ売りする屋台の「夜そば売り」が大きく貢献していた。貞享年間(1684~1688)には既に麺類の夜売りが行なわれていたという。江戸時代は、火を扱う屋台で売り歩く夜蕎麦売りは原則禁止されていたが、江戸の市中から屋台の夜蕎麦売りは姿を消すことがなかった。
この「夜そば売り」は、江戸では「夜鷹(よたか)蕎麦」と呼ばれていた。夜鷹蕎麦は「かけそば」専門で、その扱いも不衛生であったといわれるが、宝暦(1751~1764)の頃になると、担い屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら歩く「風鈴そば」売りが登場した。

「風鈴そば」は「夜鷹そば」との差別化をはかるために、夜鷹そばの"かけそば"一点ばりに対抗して、きれいな大平椀(おひらわん)に"かけそば"を盛り、その上に"種物(たねもの)の竹輪(ちくわ)か竹輪麩"をのせた「しっぽくそば」を売り歩いていた。この風鈴そば売りは、夜そば売りより若干品質の高いものを少し割高に売る屋台で、呼び声をだすかわりに、屋台の屋根に吊るした風鈴の音で蕎麦屋がきたことを告げていた。この頃の風鈴そばの場合は、荷台に一つか、二つの風鈴を吊るした市松模様の屋根のある屋台を担って、行燈に「二八そば」と表記し、そば一杯を十六文で売り歩いた。



夜そば売りが重宝されたのは、一定の場所に店を構えるのではなく、自由に場所を移動できる担い屋台での商売であったこと。しかし、江戸時代末期になると「屋台蕎麦」は次第に消えていく。天明七年(1787年)の蕎麦屋の店舗数は65軒(名店案内「七十五日」に掲載された蕎麦屋)。これが、江戸末期の1860年には3763軒になっていたという記録が残されている。これは江戸後半から店構えの「蕎麦屋」が増加したことが一因である。高級店は座敷を設け、「手打」あるいは「生蕎麦」を看板にして、二八蕎麦との格差を強調していた。昔は製麺機がなかったから、どちらも手打ちに変わりがないが、精製の意味をこめて「手打」といっていただけである。けれども、幕末になると二八蕎麦屋までが手打・御膳生蕎麦を名乗り、店構えだけでは両者を区別できなくなった。


蕎麦つゆの歴史をたどると、醤油以前の蕎麦つゆは、味噌と水を合わせてこした「生垂れ」、生たれを加熱して煮詰めてこした「垂れ味噌」で、それに薬味のみかんの皮、大根汁、ワサビなどを加えて蕎麦を食していた。
江戸時代初期の蕎麦つゆは、「たれみそ」と呼ばれる味噌の垂れ汁と“大根の汁”を溶いたものに、鰹節、大根おろし、山葵(わさび)、ネギよりも辛味が強いとされる浅葱(あさつき)などの薬味を入れた蕎麦つゆであった。江戸時代の中期には味噌の垂れ汁に「溜醤油」が加えられるようになる。さらに関東地廻りの「濃口醤油」に「鰹の出汁」が加えられたのは、江戸時代後期と考えられている。
醤油が普及していなかった江戸時代中期には、茹でた後に冷ました麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食べる「ぶっかけそば」が普通だった。安価な地廻り醤油(濃口醤油)が普及し、たっぷりの熱い出汁の中に麺を入れて食する「かけそば」になったのは江戸時代末期近くであった。

■蕎麦屋(店)
町人文化が花開いた江戸時代中期、江戸には多くの蕎麦屋が店を構えた。江戸の町において蕎麦がうどんより食べられるようになったのは、18世紀中頃からだといわれている。安永五年(1776)に刊行された黄表紙『うどんそば化物大江山』に、「江戸八百八町に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」といわれるほどになった。江戸時代中期から後期にかけて商業地や城下町などに店が開かれているが、蕎麦屋の数は町場に1~2軒というものだったようである。

『花の御江戸』北尾正美画 天明3年(1783)/上野山下の二八そば屋の絵

麺状の蕎麦は江戸時代中期から後期にかけて、つなぎを使った製麺技術が発達して製法に工夫が加えられ、小麦粉を“つなぎ”にするようになった。それ以来、つなぎを使う蕎麦が主流になった。
江戸時代の後期には、蕎麦粉と小麦粉を混ぜた「二八そば」が広く出回り、現在のように茹でる蕎麦が主流となった。江戸中期には今の蕎麦の形ができ、主な客層は町人であったが、武士が来るような高級蕎麦屋も現れ、つなぎを使わない十割蕎麦などを上等な器で提供していた。
当時、武士は「盛り蕎麦」を好み、町人は「かけ蕎麦」を好み、農民は蕎麦ではなく、「うどん」を好んで食べていたという話もある。
また、いつの頃からか暖簾会系そば屋の「砂場(すなば)」「更科(さらしな)」「藪(やぶ)」を「江戸蕎麦御三家」と呼ぶようになる。これらの暖簾会系の元店が誕生したしたのも、室町時代後期(安土桃山時代)から江戸時代初期で、「砂場」は天正十二年頃(1585)、大坂城築城のための砂利置き場近くに発祥したとされる。
江戸蕎麦御三家と呼ばれる大坂が起源の「砂場そば」や信州生まれの「更科そば」などは、武士に重宝されたため、上品な味わいで商人の客が多かったという。江戸生まれの「藪そば」のつゆは濃いめだったようで江戸庶民に受け入れられたようである。

幕末期の万延元年(1860)には、蒸籠(せいろ)に盛られた蕎麦を座敷で食べさせる江戸市中の蕎麦屋(店)が3,760余軒もあったというから、当時のその盛況ぶりが知られる。蕎麦屋は、1,2町(1町は約109m)ごとに1軒あったと言われている。それとは別に屋台も多く出ていた。それでも江戸の街では、すし屋の方が多く蕎麦屋はその半分の数であったという。

■蕎麦屋の出前

『そばや乃かつぎ 関花助』/文久二年(1862) 画、〝かつぎ〟は蕎麦屋の出前

料理を配達して客前に届け運ぶ人を「かつぎ(出前持ち)」という。「かつぎ」は、天秤で蕎麦を担ぎ町を駆け抜ける威勢のいい粋な姿は江戸の華でもあったと伝えられる。すでに、享保(1716~36年)の頃は、『蕎麦切りゆでて、紅がら塗りの桶に入れ、汁を徳利に入て添きたる』(還魂紙料)とある。
そば屋の「かつぎ」は、茹でた蕎麦・つゆ・薬味などを入れた「慳貪箱」に天秤棒の格好(出前)で運んだ。当時の神田橋のあたりの蕎麦屋では、饂飩を入れる桶へ蕎麦を入れて運んだという。

■蕎麦屋酒
江戸の庶民が蕎麦屋で酒を飲むという江戸文化があった。「蕎麦前」とは、蕎麦屋で蕎麦切りを食べる前に呑む酒のことである。江戸時代の幕末のころは、「蕎麦屋酒」と云って蕎麦店は酒を飲む場所として多くの庶民に利用されていた。江戸っ子達は日本酒と蕎麦という組み合わせを楽しんでいたようで、人気のあった蕎麦店は仕事帰りの独身の職人たちが酒を飲みに行く憩いの場でもあった。そもそも、蕎麦屋は庶民が酒を飲みに行くところであった。蕎麦屋には上酒が置いてあったとされている。

紀州田辺藩の医師 原田某が幕末に記した江戸勤番中の見聞記『江戸自慢』には、「必蕎麦屋には酒あり、しかも上酒なり」とある。蕎麦屋は酒を飲むにも重宝であった。また、「鉢に入れ、汁をかけしを掛(カケ)と言い、小さき蒸籠に盛り、素麺の如く食うを盛(モリ)という」、「蕎麦屋に入と、盛か掛かと問ふ事極リなり、己が好ミに任せ、早く答をする事なり」とあるから、「かけ」と「もり」の二つが蕎麦屋の定番であるようだ。
短気な江戸っ子を迎えるにあたり、蕎麦店はまず種物に使う食材をささっと調理して出す。例えば、蒲鉾に山葵と醤油を添えた「板わさ」、炒った蕎麦の実と江戸甘味噌を使って焼きあげる「焼き蕎麦味噌」、“そば汁”を使った「出汁巻き玉子」など独特の肴がたくさんあった。こうした酒肴に蕎麦を出す前の酒を「蕎麦前」とも呼ばれていた。


■蕎麦屋の「品書き」と「酒」
蕎麦屋の品書きは江戸時代にすでに確立されていた。ただし、蕎麦の種類も当初は「もり」と「かけ」であったが、さらに具を乗せる「種もの」へと品数が多くなっていく。二八蕎麦は店を構えた蕎麦屋で品書きが定着したのが、概ね天保以降で、蕎麦の品書きが出揃ったのは幕末近くになってからであった。こうして蕎麦は江戸で勢力を拡大していき、江戸時代末期の万延元年(1860)には江戸市中の蕎麦屋は3760店を数えたという。


江戸末期の『守貞漫稿(1837~53)』 蕎麦屋の品書きには、御膳大蒸籠(ごぜんおおせいろう=大盛り蒸し蕎麦)四十八文、そば十六文、あんかけうどん十六文、あられ二十四文、天ぷら三十二文、はなまき二十四文、しっぽく二十四文、玉子とじ三十二文、そして上酒一合が四十文である。このほか、鴨南蛮、親子南蛮、小田巻はいずれも三十六文としている。
種物(たねもの)ではバカ貝の柱をいれた「霰(あられ)そば」や「しっぽくそば」は寛延(1748~51)頃からあった。焼き海苔をもんで散らした「花巻そば」は、海苔の香りを味わうため、おろしワサビが決まりでネギをつけない。短冊に切ったネギを入れるのが「なんばん」でネギと油揚げを入れた蕎麦は大坂の「きつね」よりも江戸がずっと早く、夜そば売りが始めたものである(文化三年『船頭深話』)。ネギに鴨肉を加えたのが「鴨南蛮」だが、ネギを煮ないで焼くか、胡麻油でいためるのが定法とされている。「天ぷらそば」は文政(1818~30)頃に創作され、芝海老のかき揚げであった。
『守貞漫稿』に記述がないが、玉子を使用するそばの種ものに「おかめそば」がある。おかめそばは幕末頃に江戸下谷の蕎麦屋が考案した種ものとされているが、当初の頃の具の基本は島田湯葉(髪)、マツタケ(鼻)、かまぼこ二枚(両頬)とされ、玉子焼きを使うようになるのは後のことらしい。

「上酒」とは文字通り、上等の酒とかよい酒という意味である。江戸では下り酒と関東の酒(地回り)の双方が消費されてたが、圧倒的に評価が高く人気のあったのは下り酒で運ばれる灘の酒が高級品とされていた。『守貞満謾稿』にも灘の酒が最上だったとしている。したがって、江戸時代後期の蕎麦屋の上酒とは、灘の下り酒であった。江戸の蕎麦屋がいつ頃から酒を売るようになったかは分かっていないが、元禄三年(1690)刊の噺本『鹿子ばなし』に浅草のそば屋が出てくる。ただし、夜そば売りのような屋台のそば屋では、酒は売ってはいけなかった。なお、文政(1818~30年)の頃には、蕎麦屋を兼業する酒屋も登場していた。


■蕎麦のつなぎ(小麦粉)
- 江戸と紀州の蕎麦比べ - (竹内誠『江戸社会史の研究』弘文堂より)
江戸の蕎麦について、紀州田辺藩の医師 原田某が幕末に記した江戸勤番中の見聞記『江戸自慢』で紀州と江戸の食べ物の味くらべを記している。
蕎麦では、「(江戸の)蕎麦は鶏卵を用いず 小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く 胸につかへ 三盃とは食ひがたし 汁の味は至極美にして 若山(和歌山)の蕎麦を江戸汁にて食わば 両美相合して 腹の裂けるを知らず食にや有らん」とある。このことからも当時の紀州では、蕎麦は玉子つなぎであったこと、一方江戸には「まじりなしの生蕎麦」と言われるような評判の良い蕎麦もあったが、大半が小麦粉つなぎの割合の多い蕎麦で、そば粉一升・小麦粉四升(1対4)や1対3などもめずらしくなかった町場蕎麦屋の時代背景がうかがえる。

また紀州の湯浅は、醤油誕生の地ともいわれて江戸時代には92軒もの醸造業者がある醤油の名産地でありながら、まだつゆの味が不味かったこともわかる。江戸のほうはすでに、醤油や味醂を使った洗練された蕎麦つゆが出来上がっていたのである。味醂はもともと蜜淋酒(酎)とも書かれた甘い飲用酒であった。『守貞漫稿」』は味醂についてこんな記述がある。「美淋酒は多く摂津の伝法村にて醸す 然れども京阪では用いること少なく 多くは江戸に漕して諸食物醤油と煮る」とあって当時流行しだした鰻の蒲焼きのたれや蕎麦つゆなどにも使われだしたことを記している。さらに、『江戸自慢』には「鉢に入れ 汁をかけしを掛(カケ)と言い 小さき蒸籠に盛り 素麺の如く食うを盛(モリ)という」とある。この文面から、紀州では冷たく食べるセイロに盛ったモリはめずらしかったことがわかる。」


うなぎ屋台(見世)から鰻屋(居見世)へ高級化

■屋台から鰻屋へ
関東での濃口醤油の普及により、「江戸前の四天王」と呼ばれる鰻・天麩羅・蕎麦・鮨の屋台文化が生まれ、 この中でも、いち早く屋台から料理屋で提供されるようになったのが鰻であった。 蒲焼きは、かつては下賤の食べ物といわれ、屋台から興った大衆食であったものが、江戸を代表する高級食になっていった。
最初は棒手振りや道辻の屋台見世、つまり露天売りで一串16文で買える庶民の食べ物だった蒲焼きが、享保年間頃(1716~1735)には、辻番小屋風の粗末な店構えの鰻屋が登場している。今のように蒲焼にする鰻を割いて開く技法は、江戸中期に上方から江戸に伝わったとされている。 1700年代半ば過ぎ頃になると、屋台は次第に衰退して客が座敷に上がれるような鰻専門の料理茶屋が増え始める。


■江戸前うなぎ
江戸前という言葉から思い浮かぶのが、江戸前寿司である。江戸前とは、江戸の前(江戸湾)でとれたものの総称とされているが、江戸前を冠するものの第一は、「江戸前寿司」ではなく「うなぎ」であった。
江戸中期の方言辞典「物類称呼」(1775年)には「江戸にては浅草川・深川辺の産を江戸前とよびて賞す」とある。鰻は河川や近海などに生息する。隅田川や江戸の湾内で獲れた鰻を「江戸前うなぎ」と言った。当時は江戸前うなぎに対して、遠方から運ばれた鰻を「旅鰻」と称した。鰻はそのくらい江戸の人々に好まれていた。

江戸前の蒲焼きでは、宮戸川(浅草川)で獲れるうなぎが最高とされ ていた。画は、橋場のあたりでのうなぎ獲りの風景。

■蒲焼屋はじまる
江戸に「うなぎ屋」が登場するのは江戸中期の享保(1716~1736年)の頃で、京や大坂から「蒲焼き」の調理法が伝わったのもこの頃からである。江戸時代前期、京や大坂でウナギを焼いたものに、当時普及し始めた醤油を付けて焼く方法が生まれ、その時に、うなぎのぶつ切りから裂いて焼く、現在のような蒲焼きの姿が誕生した。江戸時代中期になると、関東でも(濃口)醤油の生産が盛んになり、また三河国(愛知県東部)から安価な味醂も入るようになって甘辛い醤油ベースのタレが完成し、うなぎの蒲焼きがつくられるようになった。
天保四年(1833)の風俗の変化を記した『世のすがた』(著者不詳)によると、「うなぎの蒲焼は天明のはじめ(1780頃)上野山下仏店にて、大和屋といへるもの初て売出す、その頃は飯を此方(自分)より持参せしと聞、近来はいつ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり」とあり、上野下谷の仏店(ほとけだな)の大和屋・上総屋でうなぎ蒲焼が売り出されたが、当時は客が飯を持参して蒲焼を食べたという。天明年間には、蒲焼が江戸で流行し始め、蒲焼単体の販売であったものが、次第に飯をそえて売るようになったことがわかる。

■蒲焼の付け飯がはじまる
蒲焼屋は、入り口の障子や行燈に「江戸前大蒲焼」と大書していた。元禄時代(1688~1704年)の初め頃の蒲焼きから、本格的な鰻料理屋の「江戸前の大蒲焼き」が登場するのが、明和から天明年間(1764~88年)の頃であり、蒲焼きと飯を別々に出す「江戸前大かばやき、附めし」という形で売られていた。江戸っ子は江戸前のうなぎの蒲焼を日本一だと自慢し「大蒲焼」と呼んだ。この頃から登場した杉の「割り箸」によって「江戸前大蒲焼き」の看板を出す店が飛躍的に増加した。

黄表紙『三世相郎満八算(さんぜそうろうのまんぱちさん)』の「江戸前 大浦焼」の看板。(歌川豊国・寛政9年・1797年)
障子と看板には「大蒲焼 附けめし」と書かれ、蒲焼きにご飯を付けて売る店の様子。1800年前後には、蒲焼きにご飯を付ける店も登場してきている。
「江戸前 大蒲焼」の看板を掲げた店頭で、うちわを持ったおかみさんが客に言う。「わらはがもとには旅てふ物は候らハず 皆江戸前の筋にて候」、絵のおかみさんはこう自慢しているのだ。「うちの店では旅鰻は出してませんよ。すべて江戸前です」

■鰻屋の誕生
蒲焼と飯を一緒に出す鰻飯屋は、文化年間(1804-17年)に誕生した。天保(1830~)の初めになると、一町に二、三軒あるところはあっても、一町にないところはないというぐらい多くなっている。
一方、江戸前の蒲焼は辻売り屋台が盛んで、辻売りは幕末まで盛んであった。この蒲焼は一串十八文ぐらいと安く、庶民に広く普及していく。また辻売りの一種で、両国川の舟で焼いて両国の夕涼み舟に売る蒲焼もあった。

随筆集『明和誌』(1822年)には、「近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永、天明の頃よりはじまる」とあり、安永期(1772-81年)ごろから始まった風習とうかがえる。鰻の効能を記しているのが、同じく江戸時代中期の元禄8年(1695年)に書かれた『本朝食鑑』である。『本朝食鑑』によると、鰻は「疲れを除き、腰や膝を温め、精力を盛んにし、風邪を治す」とある。


『東海道五十三図会 荒井 名ぶつ蒲焼』より部分/嘉永末年 歌川 広重
<街道名物・浜名湖のうなぎ> 東海道、荒井(新居)宿の旅籠の仲居が、浜名湖の名物、うなぎの蒲焼きを客に供している場面である。茶碗にご飯と蒲焼きを入れ、お茶を注いで茶漬けにするところを描いている。
うなぎ人気は町人文化が栄えた江戸の町だけではなく、江戸時代になると街道も整備され、寺社参詣ブームで人の往来が盛んになり「浜名湖においしいうなぎがある」と浜名湖うなぎが東海道筋で評判となる。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『あら井(新居)の駅に支度とゝのへ、名物のかばやきに腹をふくらし…』とある。


『東海道五十三次 原 大蒲焼』葛飾北斎
江戸の日本橋から13番目の宿場町「原宿」(静岡県富士市)は、富士山を一望できる小さな漁村で、うなぎの蒲焼きが名物であったという。

■江戸後期のうなぎ屋
幕末の江戸市中には多くの鰻屋があり、嘉永元年1847年の『江戸酒飯手引草』には、江戸前蒲焼店が90軒あげられている。また、嘉永五年(1852年)に「江戸前大蒲焼」の見立番付と言う物が出されており江戸に有った221軒もの鰻屋の名前が記載されている。他にも、嘉永年間(1848~54)の「うなぎ屋」の見立番付では、約200軒の江戸のうなぎ屋が挙げられていて、うなぎが江戸でいかに好まれていたかがうかがえる。

しかし、蒲焼の主流が丼であったわけではない。『守貞漫稿』でも、京坂では鰻屋で「うな丼」を兼ねて売るが、江戸では、名のある鰻屋ではうな丼を売らず、中以下の鰻屋がうな丼を兼ねて売るか、うな丼を専ら売るとしている。さらに、「生業下」の鰻の蒲焼売りの項目で、名のある鰻屋では「京坂は鰻をさきて大骨を去り、首尾全体にて焼之、而後斬て腕に盛り、焼之時鉄串を用ひ、串を去て椀に盛る。江戸は大骨を去り、鰻の大小に応じ二三寸に斬り、各竹串二本を貫き、焼て串を去り皿に盛る」とある。

『守貞漫稿』にあるように、江戸後期の蒲焼きは、うなぎを開いて骨を取り除き、2~3 本の串を通していかだのようにして、それを焼き上げる調理方法になった。(味付けも、この頃になって広く普及し始めた醤油や砂糖を使ったものに変わっていった。)江戸のうなぎ屋は主に、「蒲焼」と「うな丼」とを客に提供していた。ただし、名店と呼ばれるうなぎ屋は、ご飯は出しておらず「蒲焼」のみを売っていた。そして、京坂では漆塗りの太平椀で、江戸ではうなぎ蒲焼を陶器の皿に盛りて出していた、と説明している。



『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』(中川芳山堂著、1824年)は、大坂から江戸に出向く商人向けの本で、2600店が「いろは」順に記載され、飲食の部には148店が掲載されている。 『江戸買物独案内』の別冊「飲食之部」には、「御料理」「七色茶漬」「あわ雪」「女川なめし」「御膳蕎麦」「鰻蒲焼」「寿し」「餅志るこ」に分類された飲食店が屋号と紋、店主の名前、住所が書かれてあり、鰻屋では22店の名が掲載されている。

『江戸買物独案内 飲食之部』中川芳山堂 編 文政七年(1824)鰻屋の屋号と紋、店主の名前、住所が書かれている。


■うなぎ蒲焼の出前
『守貞謾稿』には、鰻の蒲焼、「江戸にては家にて焼たるを岡持と云手桶に納れ携へ巡る」とある。その際に用いられたのが黒塗の手桶である。

黒塗の手桶で、運んでいる間に鰻の蒲焼が冷えないように、「江戸鰻屋より諸戸に蒲焼を運ぶ多く右図の如く黒塗手桶に入れて携ふ蓋の下に白紙一枚を挟む 京坂にては大平椀にて運ぶ」、「又近世大阪にて鰻器を製す長六寸許幅三寸五分許高さ五寸許印籠蓋にて内に銅凾を累ね銅凾掛子と云是又蓋あり掛子に鰻を納れ大銅凾に沸湯を納むさめざるに備ふ江戸にも近年学之 京坂も鰻やには用ひず」とあり、温かいまま持ち運ぶ工夫がなされた。
銅製の凾(はこ)に熱湯を入れ、その上に、同じく銅製の掛子(懸子)を重ね、その中に鰻を納れる。勿論、こうした工夫は、その場で食べる鰻屋では不要のものである。

鰻屋は繁盛したと見えて、中には、「江戸神田の深川屋と大坂の鳥久は得意の人に非れば現金にていかなる富者にも不売之又己が心に合ふ鰻無之時は数日も休業す」というように、得意先だけを相手にし、気に入った鰻が無いと休業する者もいたようである。

■江戸中期の蒲焼の焼き方とタレ
うなぎを「割いてから焼く」という料理方法で、最も古い文献は『和漢三才図会』(1712年)になり、次のように記載されている。「中くらいの鰻を割いて腸をとり、四、五片に切って串に刺し、醤油か味噌を付けて焼く」。また、『増補食物和歌本草』(1723年)には、焼いた蒲焼の調味料として「やきうなぎは山椒みそよし醤油にて」と記されている。このように初期の蒲焼は、醤油や味噌を使ったり、小さく切って串に刺していた。

『茶湯献立指南』巻四〔元禄九年(1696年)刊〕には、『鰻かば焼 うなぎは大なるにあく事はなし 背よりたちひらき二処串にさしあふるべし 醤油をかけル』と、背開きにして醤油を掛けて焼く方法が紹介されている。『増補食物和歌本草』(1723年)には、やきうなぎは山椒みそよし醤油にて、、、、と記されている。
また、享保13年(1728)に発行された『料理網目調味抄』や、寛政12年(1800)の『万宝料理秘密箱』には、現在のものと近い蒲焼きの調理法が書かれている。このことから、タレを使った鰻の蒲焼きは、江戸時代中期以降にうまれたものとされる。タレもはじめは醤油に酒をあしらったものであったが、文政頃から味醂を加えるようになった。ちょうど江戸に関東の濃口醤油や味醂が普及した時期である。
文化・文政から嘉永年間(1804~54年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえる。これには、天明年間(1781~89年)に銚子で開発された濃口醤油が関係している。


歌舞伎絵『役者尽くし』一勇斎国芳画(歌川国芳) 天保2年(1831) 
天保2年11月歌舞伎の顔見世で初代沢村訥升(とっしょう)の襲名披露が行われた。浮世絵『役者尽くし -かばやき 沢村訥升-』には、大きな包丁で腕に絡みついた鰻を割いている露店の鰻屋の沢村訥升が描かれている。背後の文字には「かばやき」と書かれており、さばいた鰻を横にある炭火で焼いて販売していたことがわかる。天明から寛政の時期になって、本格的な「江戸前の大蒲焼き」が登場する。天明年間(1781年~1789年)千葉県銚子や野田などの濃口醤油が流通してうなぎ蒲焼きの流行に拍車をかけた。

■江戸後期の蒲焼の焼き方とタレの工夫
嘉永六年(1853年)の「守貞謾稿」には、『鰻蒲焼売り、京師は、諸具ともに担い巡りて、阡陌(せんぱく)に鰻をさき、焼きてこれを売る。江戸にては家にて焼きたるを、岡持と手桶に納れ、携え巡る。けだし京坂大道売りのかばやきは、大骨を去らず、一串価六文。江戸は大骨を除き去りて、一串十六文に売る』とあり、蒲焼を売る商いもあった。
また、『守貞漫稿』嘉永六年(1853年)での鰻の裂き方として、「鰻屋」の項では『京坂は背より裂きて中骨を去り、江戸は腹より裂いて中骨及び首尾を去り、よきほどに斬りて小竹串を一斬り二本で横に貫き醤油に味醂、酒を加えて焼き磁器の平皿にて出す。山椒を添えたり』とある。
また、一方では「鰻蒲焼売り」の項には『京坂は鰻の腹を裂き、江戸は背を裂くなり』との記述されている。蒲焼のタレの記述は『焼く時に付けるたれは、江戸は醤油にみりんをまぜ、京坂は醤油に諸白(もろはく)酒をまぜる。』とある。



蒲焼のタレもそれまでは醤油に酒をあしらったものであったが、そのころから味醂を加えるようになった。ちょうど江戸に関東の濃口醤油や味醂・砂糖が普及した時期である。味醂を加えることで蒲焼の味や香りや照りが格段によくなり新しい江戸前の味が生まれた。そしてこの時期に確立されたうなぎの蒲焼きと言う料理法は、当時から現在まで変わらず続いている。
味醂が調味料として登場するのは、江戸後期、天明五(1785)年に出版された『萬寶料理秘密箱』という料理本である。この本以後に出版された料理本には、「味醂に醤油」を加えた調味料がたくさん出てくるようになる。 「醤油」と「味醂」による両味、あまからのタレができたのは、江戸後期頃のことと推測されている。

■土用の丑(うし)と蒲焼
鰻は、万葉集にも「夏痩せによし」と詠われ、力のつく魚として古くから日本で食されてきた。「土用の丑」の日に、鰻を食べる習慣が始まったのは江戸時代の中期以降から始まったらしい。「土用丑の日」を決めたのは、博物学者の平賀源内(1728~1779年)という説がある。
『土用丑の日』に鰻を食べる習慣ができた由来は諸説あるが、江戸時代、鰻屋がうなぎが売れないで困っていることを博物学者の平賀源内に相談したところ、丑の日といって記した引札(ひきふだ,広告文)「本日丑の日」、「土用丑の日、鰻の日。鰻は腎水をまし、精気を強くし、食すれば夏負けすることなし」という張り紙を店先に貼ることを平賀源内が発案し、これが功を奏して、鰻屋は大繁盛になったというのが定説のようである。しかし、発案者は平賀源内(1728~79)ではなくて、大田南畝【蜀山人】(1749~1823)だという説もある。

『江戸年中風俗之絵(えどねんじゅうふうぞくのえ)』、1840年・天保11年頃の作とされる。
鰻屋、「今日 うしの日」の文字が見られる。丑(うし)の日に「う」の付く物(うどん・うり・梅干など)食べると体に良いとの言い伝えがあり、「うなぎ」が合致したと考えられている。

■鰻飯の誕生
土用の丑の風習とともに、江戸時代に生まれたのが、「うな丼」である。
うな丼は、文化年間(1804-18)に日本橋堺町の芝居小屋から始まったとされている。文化・文政から嘉永年間(1804-54年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえた。これには、天明年間(1781-89年)に江戸という大消費地を控えた野田、銚子で開発された関東地廻り醤油(濃口醤油)が関係していた。

現在の「うな丼」の元祖は、文化年間(1804~17年)頃に生まれた。どんぶりに熱い飯を盛って、飯の間に蒲焼きをはさんだ「鰻めし」が、芝居小屋で賑わう日本橋葺屋町の鰻屋「大野屋」から登場する。それ以後、次第に鰻屋でも鰻めし(うな丼)を出すようになったという。「元祖鰻めし」の看板を掲げていた大野屋では、鰻飯が一杯六十四文から売り始めたが、後には百文、二百文の高級品となった。

うなぎ飯の始並に蒲焼の事、宮川政運の『俗事百工起源』(元治~慶應)に、
「うなぎ飯の始は文化年中、堺町芝居金主大久保今助より始る。(中略)此今助常に鰻を好み、飯毎に用ふれども百文より余分に用ひしことなしと。いつも芝居へ取寄用ひし故、焼ききましに成しをいとひて、今助の工夫にて、大きなる丼に飯とうなぎを一処に入交ぜ、蓋をなして‥用ひしが、至て風味よしとて、皆人同じく用ひしが始なりと云ふ。」
と、うなぎ蒲焼好きの芝居の金主が、簡便と焼きさまし防止の効果をねらって開発したとしている。

文化・文政(1804~29年)の頃、江戸の鰻屋の発案で初めて「割り箸」が使われた。当時、割り箸は「引き裂き箸」「割りかけ箸」と呼ばれた。
割り箸について、『守貞護稿』(1853年)の「鰻飯」の項に『必ず引き裂き箸を添ふるなり。この箸、文政(1818~29年)以来此より、三都ともに初め用ふ。杉の角箸半を割りたり。食するに臨んで裂け分けて、これを用ふ。これを再用せず。浄きを証すなり。鰻飯のみにあらず、三都諸食店往々これを用ふ。かへつて名ある貸食店(りょうりてん)には用ひず。これ元より浄きが故なり。』このように、うなぎ飯には割箸を添えるという。また、割箸は再利用しないから清浄であると云っている。


『新版御府内流行名物案内双六』/画:一英斎芳艶(弘化4~嘉永5)
「ふきや町がし うなぎめし」の図

「鰻飯、京阪にて、まむし、江戸にて、どんぶりと云う。鰻丼飯の略なり・・・江戸にては右の名ある鰻屋には不売之中戸以下の鰻屋にて兼之或は専之」(守貞漫稿)とある。「鰻丼物(うなぎどんぶりもの)」を略して「どんぶり」といった。今日では「うなどん」と呼ぶものである。これは、上等な鰻屋では提供せず、中等以下での取り扱いであると云っている。
京都大阪では「まぶし」、江戸では「鰻丼飯」の略として単に「どんぶり」という呼称が一般的であったと記されている。うなぎどんぶりめし=うなどん。「どんぶりめし」「どんぶり」ともいう。



鰻飯『江戸鰻飯百文と百四十八文 二百文下図の如く蕣(むくげ)形の丼鉢に盛る・・・必ず引き裂き箸を添ふるなり。(略)鰻飯のみにあらず三都諸食店往々これを用ふ。』、「引き裂き箸」とは、現在の「割り箸」のことである。

江戸時代の風俗を詳細に記載した『守貞謾稿』(1853年)の「鰻めし」には次のように記されている。
江戸 鰻飯 百文と百四十文、二百文。
 下図の如く 蕣(あさがお)形の丼鉢に盛る
 鉢底に熱飯を少をいれ
 其の上に小鰻首を去り
 長(た)け三四寸の物を焼きたるを五六つ
 並べ 又熱飯をいれ 其の表に又
 右の小鰻を六七置く也
 小鰻骨を去り 首も除き 尾は除かず
文久に至り 諸価頻りに騰揚し
鰻魚も亦(また)これに准ずるにより 此(この)丼飯と云ふ物も
百銭、百四十八銭を売る家は最も稀となり
大略二百文のみとなる。

「どんぶり」という「鰻丼飯」の製法は、丼に熱い飯を少量入れ、鰻の首を落として骨は取り除くが、尻尾を付けたまま焼いた小振りの鰻(長さ3~4寸=9~12cm)を5~6匹並べる。その上に、また熱い飯を入れ、またその上に小振りの鰻を6~7匹並べると、作り方をやや詳しく説明しており、初めて「鰻丼(うなどん、うなぎどんぶり)」という言葉がでてくる。また、現在のうな丼と違って用いる鰻が小さいようだ。この鰻飯が幕末の安政(1854~59年)の頃から、大衆相手の食べ物として、熱い飯を丼に盛って蒲焼きを上に載せる庶民向けの「うな丼」となり登場した。

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