プロローグ :第一章 モンシデムシ :第二章 ヒラタクワガタ :第三章 フンコロガシ :第四章 クマゼミ :第五章 アキアカネ :第六章 ヒラタシデムシ :第七章 エンマコオロギ :第八章 カネタタキ :第九章 ミノムシ :エピローグ :

第七章 エンマコオロギ (1)

前へ 次へ

2003/10/01 Wed.

 久しぶりに「あの夢」をみた。
 小学校にあがった頃から数年の間に繰り返しみた夢。
 空にわきあがる黒い雲。
 雨は降っていないはずなのに、ばらばらと聞こえ続ける低くて不思議な音。
 足元には一面に撒き散らされた小さな星のかけらがきらきらと輝く。
 その間を細長い蛇がくねくねとのたうっている。
 立ち並んだ枯れ木がてんでばらばらな方向に傾いているので、自分の身体がまっすぐなのかどうかわからない。
 本を開いて伏せたように、屋根だけが地面にのっている奇妙な家。
 舞い上がる砂ぼこり。ひびの入った地面から湧き出す水。
 それらの光景が目の前から後ろへと流れていく。
 鼻につんとくるにおい。目がちくちくと痛くて涙がにじむ。
 夢の世界で僕は何かを恐れている。たぶん、この次におこる何かにおののいている。 

 目を覚ましたと気がつくのに少し時間がかかった。外はまだ薄暗い。
 小学六年の頃からは見なくなって、すっかり忘れていた夢。なぜ今頃になって思い出したんだろう。
 それからはまんじりともせず布団をかぶってのたうっていた。頭は冴えてしまったのに身体はだるくて動けない。目覚ましの音を何度も止めてからやっと起きだし、のろのろと着替えて味のしない朝食をとった。

 空はどんよりとして昨日よりもさらに湿度が高い。それでも、かなりの数の生徒達が長袖に衣替えしていた。
 キアは冬服の上着まで着込んで詰襟をきっちり留めていた。
 袖と裾の丈を補整してもらったので、一学期のようにぶかぶかした印象はない。壬生先生の手仕事だ。
 僕がそばに行くと、むっつりした顔でささやいた。
「風向きが悪い。気ぃつけや」
「いやな予感でもするのかい?」
「雑魚どもがはちきれそうになっとう。ここんとこ、外では息をひそめよるからな。まるで鮫が通んのをやりすごそうとしてるみたいやけど。あっちもこっちも抑えきれるもんやない」
 腹にずんと重いものを感じた。
 江坂は堂島さんの動きに感づいているんだ。尻尾をつかまれないように統制をかけているのだろうが、末端の連中は彼ほど慎重ではない。
「とくにこんな天気の日には、妙に調子こいたんが、いらんことしよる」
 教室の反対側には数名の女子がかたまり、携帯で気象情報をチェックしながら暴風雨警報早く出ろと騒いでいた。
 窓の外から幹を揺らす木々の音が聞こえてくると、ふだんはおとなしい生徒達ですら、なんとなくそわそわと落ち着かなくなるようだ。
 
 三限目の終了間際、住之江の母親が駐車場に現れた。空模様と息子のいる部屋とを見比べながら、そそくさとプリウスを運転して出て行った。
 これまで母親が席をはずす時には教師が交代で番をしていたはずなのだが、この日に限って引き継ぎがうまくいかなかったらしい。
 四限目、一年C組は本館二階の音楽室に移動することになっていた。チャイムが鳴ってもまだ半数ほどの生徒しか揃わなかった。
 一階廊下や階段あたりからざわざわと物音が聞こえてきたとき、最初は遅れた生徒達がふざけているのかと思った。
 それにしては走りまわっている人数が多い。せっぱ詰まった悲鳴のようなものが聞こえる。おかしいと思ったときには騒ぎは音楽室のすぐ外まで迫っていた。
 甲高い悲鳴が廊下にこだました。
「やめて。助けてぇええ」
 叫びながら飛び込んできたのは住之江だ。譜面台をひっくり返し、同級生を突き飛ばしながら、ばたばたとゆるい段差を走って教室の奥につきあたった。五線譜のペイントされた黒板にべたっと張りついて大きくあえいだ。
 あとから入室しようとした女子生徒が、長い髪を後ろからつかまれてのけぞり、そのまま尻餅をついた。ばさばさと床に落ちたノート類を踏み散らかして、ふたりの男子上級生が乗り込んできた。
 キアがさっと立ち上がった。僕はあわてて後ろからその腕にしがみついた。直後に後悔した。また投げ飛ばされる……。
 首をすくめて身構えたが、何事もおこらなかった。キアは肩越しに僕を見つめただけだった。
 一年生たちが凍りつくなか、淡路ともうひとり同じくらいごつい体格の二年生は、出入り口を少し入ったところで脇に寄って立ち止まった。名前を知らないほうがドラムセットを蹴飛ばして派手な音をたてた。
 住之江は必死の形相であたりを見まわしたが、まともに頭を働かせていないのは明らかだった。わけのわからないことを口走りながら壁づたいによろよろと移動し、今通ってきたばかりのドアを抜けて出ていこうとした。
 すれ違いざまに淡路がその襟首をつかんだが、すぐに投げだすように手を離して耳障りな笑い声をあげた。
 廊下の向こうから何人ものはやし立てる声が聞こえた。
 住之江の後を追って、騒音は三階に移動していった。
 捕まえることなんか、はなから考えてない。逃げまわるやつの反応をおもしろがっているだけなんだ。
 僕の手のなかでキアの腕にぐっと力がこもった。
 僕はその耳に顔を寄せてささやいた。
「待ってくれ……」
「ほっとくんか」
「先生を呼ぶのが先だ。ひとりで先走るな……」
 何か言いかえそうとしかけて、キアはひくりと小鼻を動かし眉をひそめた。
「……燃えとう」
「え……」
 思わず手の力をゆるめてしまった。キアは僕の腕をふりほどいて廊下に走り出た。壁際の火災報知機に拳骨を叩きつけ、その下の消火器をつかみあげて階段を駆けのぼった。
 けたたましい非常ベルの音が学校中に響きわたった。
 キツネ狩りを見物しに集まってきていた野次馬たちが、ぎょっとしてあたりを見まわした。
 キアを追って三階の廊下を走った僕は、家庭科室の手前で真っ黒な煙と猛烈な刺激臭に襲われた。
 煙のなかから目を赤く腫らした上級生達が飛び出してきた。
「冗談やないで!」
「あのボケ、まじ、いってもとうわ」
 僕の肩にぶつかったことも無視して悪態をつきながら逃げていった。
 キアは臆さず消火器のピンをぬいてかまえると、黒煙のなかにずんずんとわけいった。すぐに家庭科室の入り口とおぼしきあたりからガスの噴出する音が聞こえてきた。
 僕はといえば、建材の焦げる臭いをかいだとたんに麻痺したように動けなくなってしまった。背後に他の生徒達が追いついてきた。あるものは事態に仰天して回れ右をし、あるものは興奮して大声をあげ、その場は騒然となった。大混乱からなんとか抜け出さなければと、重い一歩ふみだしたところで身体がぐらりと傾いた。
 後にして思えば床にころがったグラスかなにかを踏んで足をすべらせただけだったのだ。しかし、そのときの僕にはまるで地面が揺れ動いたように感じられた。昨夜の悪夢が目の前の黒煙に重なり、うずまきながら押し寄せてきた。たまらず顔を覆って膝をついた。
「おい、どないした?」
 いきなり肩をつかまれて飛び上がった。目の前には泥の筋を残した白っぽい床。煤と埃が喉をふさぐ、いがらっぽい空気。あの人がいない。僕を置いてどこかへ行ってしまった。取り残された。泣きたいくらい心細くなって、気持ちのままに走り出した。ここでじっとしているようにと言い含められたことなどすっかり忘れていた。いない人を呼びながらドアからドアへ渡り歩き、ふらふらと廊下を伝って下の階へ、隣の建物へ……。
「烏丸!」
 野太い声に怒鳴りつけられて我に返った。ここはどこだ?
 僕は雑草と枯れ草がいりまじる地面にはいつくばってあえいでいた。
 ここは中学校だ。いつのまにか旧校舎裏の茂みに来ていた。どこかでけつまずいて腹這いになったまま移動してきたらしい。振り向けば旧校舎あたりから僕のいるところまで、押し倒された雑草の跡がぐねぐねと蛇のように続いていた。
 玉出先生が数メートル離れて立ち、幽霊にでも出会ったような顔をして僕のようすをうかがっていた。
「おい……どないした……気分悪いんか……俺がわかるか?」
 なんとか上半身を起こした。消防車のサイレンが聞こえる。ぐんぐん近づいてくる。では火事は現実なのだ。
「大丈夫……です……ちょっと煙を吸ったかも……」
 立ち上がろうとして本館が視野にはいった。三階の窓からもくもくとわきあがる黒煙。僕はまた悲鳴をあげてその場にうずくまった。
「おい!」
 まっすぐに駆け寄ってきた玉出先生の身体がふいにつんのめった。
 とっさに右手をついて支えようとしたはずが、腕ごとずぶっと地面にめりこんだ。倒れた勢いのまま、顎が穴の縁にごんっとぶつかり、首が後ろ向きにあり得ない角度で折れ曲がって、そのままずるずるとずり落ちていった。
 最後に僕を見た先生の目は人形のように虚ろだった。
 僕はへたりこんだまま嘔吐して……そのあとのことは記憶していない。

 玉出先生は校舎からフェンスに向かってまっすぐ走った。そこにはピアノ線のループが仕掛けられていて、足を引っかけて倒れ込むはずの位置に落とし穴が掘られていた。頭ひとつ分のずれは先生と僕らの身長差だ。トラップを仕掛けたやつは青池へ出入りする僕らを狙っていたのだ。
「先生ならもう病院へ運ばれたで」
 返事がかえってきたことではっとした。
 いつから声に出してしゃべっていたのだろう。
 そろそろと頭をもたげると、すぐ隣にキアの顔があった。
「……死んじゃったかと思った。助りそうなの?」
「ちょうど救急車が着いたとこやったからな。間におうたと思う」
 僕らは資材置き場のビニールシートに背中をくっつけ、折り曲げた足の先をフェンスに掛けて座りこんでいた。フェンスの鉄線と丈の高い雑草の向こうに事故の現場が見えた。
 見慣れた草っぱらに黒々と口を開けた穴が異様だった。
 キアは先生が運び出されてから、草のなぎ倒された跡をたどってきたのだろう。こんな狭いすきまにわざわざ一緒にもぐりこんで、僕を見守ってくれていたんだ。
 旧校舎が風や喧噪を遮っているからだろうか。世間の物音は何となく遠く聞こえた。僕らのいるこのすきまだけ、流れる時間が異なるような気がした。
 もそもそと姿勢をかえようとしてキアの胸に肘をぶつけてしまった。
「あ、ごめん」
 キアはほっと表情をゆるめて僕の肩に手をおいた。
「やっと落ち着いたか」
「そんなに長いことパニクってたのかな」
「いや。時間にしたら五、六分やったと思うけど……」
 すまないと言いたげに首をかたむけた。
「助けを呼んどんは聞こえとったんや。もっと早う来たかってんけど、住之江を引きずり出すんに手間取ってもてな……」
 僕は喉がからからに乾いているのに気がついた。
「僕……他にも何か変なこと口走ってた?」
 キアは返事をためらった。つまりは、いろいろ聞かれてしまったということだ。
 疑問がふくらむ前に、はぐらかしてしまおうと思った。
「ばかみたいだろ。ゴムとかプラスチックの焼ける臭いにてんで弱くてさ。臭覚神経がどっかで誤配線されてんじゃないかって……」
「火事だけやないやろ」
 冗談ぽく話したつもりだったが、勘の鋭い友達はごまかせなかった。
「ラス。お前、震災の話がでるたんびに……」
「言っただろ!地震なんか知らないって。僕は……」
「最初のどーーんは知らへんかもな。けど、その後はどうやねん」
「その後……」 
「火事がひどなったんは、夜が明けてからや。水が出えへんとか、騒がれだしたんもな」
「……」
「地震はただの始まりやった……」
 今まで誰にも話したことはなかった。誰かに聞いて欲しい気持ちがこんなに強くなったこともなかった。話の行き着く先を恐れる気持ちもこれまでになく強くなっていたが。
 僕が黙りこくっても、キアは辛抱強く待っていた。
「小さい頃にみた夢が……」
 しぶしぶ話し始めたら、喉が痛んで声がかすれた。
「本当にあったことだと気がついたのは……四年生のことで……」
 社会見学で訪れた震災記念館だった。
「砕けて散らばった窓ガラスとか、傾いた電柱から垂れ下がった電線だとか、壁が崩れて瓦屋根だけ残った家だとか……」
 あれは幼児の空想ではなくて。
「でもその時は、前にも見たことがあるって気がしただけかもって。被害の写真から夢の中身をこじつけただけってことも……」
「自分に嘘つくな」
 キアの声は静かだったが、毅然として容赦なかった。
「四歳のチビが……そこまではっきり覚えてるわけない……」
「俺は覚えとう」
 キアは大事なものをすくい上げるように、胸の前で両手をそろえた。
「希(のぞみ)が冷となったんも、ばあちゃんの目が開かんようなったんも。歳なんて関係あるか。俺は忘れへん」
 そのまま握りしめた拳の関節が白かった。
「お前も、忘れたふりなんかするな」
 僕はかたく目をつぶって生唾を飲み込んだ。
「誰かの背中にしがみついていた。自転車に乗せられてたんだと思う。がたがたの道を走っていた。頭のすぐ上でばらばらとすごい音がして……ヘリコプターだったのかな。石の粉みたいなほこりや煤が舞い上がって、目と喉がひりひりした」
 前後のことはまるでわからない。アルバムから一枚だけ抜き取られた写真のように宙ぶらりんの光景。
 身震いして目を開けた。思い浮かぶのはいつもここまでだ。その先を思いだそうとするたびに僕の心は震えあがって動かなくなってしまう。
「お前は、そこにいた。忘れるな、お前がどっから来たか」
 うなずきながらも胸がざわついていた。
 烏丸聡は小学校に入学するまで関東で生まれ育った。地震のことなんてじかに知っているはずがない。
「僕が震災を体験しているなら、常浜に住んでいた烏丸聡は僕じゃないのか?」
 僕には四歳以前の記憶がほとんどない。幼すぎたせいであやふやなのだと思っていたけれど、ひょっとしたらその頃の僕は父さんや母さんとは一緒に暮らしていなかったのかもしれない。
「それなら僕はいったい何者で、どこから来たんだ?」
 僕の「両親」は本当に僕の両親なのか、それとも……。
 キアはしっかりと僕の肩をつかんで離さなかった。
 真剣な両の目がまっすぐに僕をみつめていた。
 動悸がだんだんおさまって、息苦しさがましになった。
 僕はキアの手に自分の手を重ねた。
「戻ろう。みんなが捜してるかもしれない」


前へ 次へ
第六章 ヒラタシデムシ (1) に戻る