プロローグ :第一章 モンシデムシ :第二章 ヒラタクワガタ :第三章 フンコロガシ :第四章 クマゼミ :第五章 アキアカネ :第六章 ヒラタシデムシ :第七章 エンマコオロギ :第八章 カネタタキ :第九章 ミノムシ :エピローグ :

第四章 クマゼミ (1)

前へ 次へ

2003/08/01 Fri.

 リビングの掃き出し窓にまぶしい朝日が射しこみ、クマゼミがしゃわしゃわと無節操に鳴きわめきだした。
 僕は金魚の餌やりとプランターの水やりのあと、トーストを食べながらのんびりと新聞に目を通した。
 ミルクティーを飲み干しておもむろに時計を確かめ、サンバイザーをかぶって外に出た。
 梅雨が明け、洗われたみたいに青く透明になった空。山の向こうからむくむくと頭をもたげる白い雲。ミツバチがせわしなく頭上を飛んでいく。
 庭木の緑はいちだんと濃く、道ばたのヨモギやノゲシの丈は高く、ぼうぼうと好き放題に茂っている。肩や胸が太陽の熱で火照ってくると、僕まで光合成しているみたいに心地よい。

 ひとりでに足取りが軽くなって、僕は飛び跳ねるように坂道を走り出した。アスファルトの上でくっきりとした影が躍る。
 国道をわたったところでキアがひょいと後ろについた。
 朝の仕事を終えたばかりだろうに、やすやすと僕を追い越し、振り向いて笑った。
 追いかけっこをしながら古い住宅地を駆け抜けた。今日の目的地は漁港と海水浴場にはさまれた海岸だ。

 堤防に刻まれた狭い階段をのぼり、テトラポッドの上をとびとびに伝って反対側に降りる。防波堤が肋骨のように突きだした間に砂利や土砂がたまっていて、空き缶だのペットボトルだの壊れたハンガーだの柄のとれたポリバケツだのがコウボウシバにからまって散乱していた。
 ゴミを踏まないようにすりぬけて波打ち際まで歩いた。
 引き潮時なので幅一メートルほどの砂浜が姿を現し、沖一文字の防波堤の前には、それなりに青い海が広がっていた。
 キアはTシャツを脱ぎ捨てると、膝から下を切り落としたジーンズとスニーカーを履いたまま、ざぶざぶと海にはいっていった。足が届かなくなると、ぷかりと身体を浮かし、腕をのばして泳ぎだした。
 頭と肩口が波間に見え隠れしていると思ううちに、すっと頭が沈んでそろえた両脚がぴんと水面に直立した。その脚も串を通すようにすんなりと下がって消えた。
 一分ほどしてざばりと顔をあげ、ひゅうと息を吸ってまた潜る。
 僕は砂浜を両手で掘り返して、うにうにと出てきたウジのようなムシをつかまえた。ユムシの仲間だろうけど、大きさは僕の小指の先くらいしかない。延べ竿にテグスをむすび、先っちょの釣り針にムシをひっかけた。潜っているキアのじゃまにならないあたりまでちゃぶちゃぶと波を踏んで歩き、防波堤の根元めがけて竿を振った。
 水底をこするくらいのつもりでゆっくりとたぐり寄せてみた。何もかかっていなかったのでもう一度投げ込んだ。今度は引きがあったと思ったら、釣り上げたのはポリ袋だった。
 キアがざばざばと波を蹴散らして戻ってきた。
 腹をひっこめてジーンズをぐいと裏返すと、小石のような巻き貝がひとつかみ、ぼとぼとと砂浜にこぼれ落ちた。
「ニシや」
 コンクリの破片の上に貝をのせて小石で殻をたたきわり、ぷるぷるした身をそのまま口に含んだ。磯の香りと甘い肉の味が舌から鼻にぬけた。
 僕はゴミの中から側板のへこんだ三段ボックスを拾ってきて、棚板を踏み壊した。
 ぎらつく太陽の下でルーペをかざし、新聞紙に火をつけて合板を炊きくべた。塗料のこげる刺激臭がつんとたちのぼった。
 胸がぞわっとして、あわてて身をひいた。
「これじゃあ貝は焼けないなあ」
「持って帰って味噌汁にいれたらええで」
 キアは脱いだジーンズをぎゅっと絞ってひろげ、たき火にかざしてひと振りした。
「ゴミが増えたな。七、八年前にはもっと魚もおってんけどな」
「そんな昔のこと、知ってるの?」
「俺はこのへんで生まれてんで。六歳で引っ越してん」
「へえ。入れ違いだね。僕は小学校にあがるときにこっちへ来たから」
 道理で土地勘があるわけだ。
 川の中州に草っ原に牛小屋に養鶏場。この二週間ほどのあいだに僕が教えてもらった遊び場を数えるには両手の指がいる。
 それでも震災後の宅地開発のせいで、同じくらいの数の穴場がつぶされたとキアは言う。
「そんなに小さいときから、ひとりで出歩いてたの?」
「四つぐらいまでは親父に連れまわされてたな。ここの海も、自転車の前に乗せられて坂をおりてきた……」
 キアはそこで口ごもった。
「……住之江とは連絡取れたんか?」
 僕は板きれをもう一枚たき火に放り込んだ。
「電話しても出るのはいつもお母さんだし。塾も車で送迎されてるし。とりつく島もないよ」
 キアはちょっと口の端をまげた。Tシャツを頭からかぶり、生乾きのジーンズに足を通した。
「そろそろ戻るわ。昼の手伝いを始めんと」
 僕は放り込んだばかりの板きれをたき火から蹴り出してつきかけた火を踏み消した。
「なんか、販売店の奥さんにこき使われてないか?ちゃんと給料もらってる?」
「ただ飯食わしてもうとうぶんやからな」
 以前から気になってはいた。キアはどうやら、ちゃんとした契約書を取り交わさずに働いているらしい。父親は息子のバイトを気にかけていないんだろうか。
 僕はキアの家族のことを何も知らない。たまに探りをいれても何も教えてはもらえない。
 さっきのようにぽろっと話がこぼれることはあるけれど、それもすぐに切り上げられてしまう。
 残り火に砂と海水をかけて帰り支度をしている間に、どこからか、けたたましい音楽が聞こえてきた。
 堤防にあがるとドラムスやキーボードの音がさらにやかましく響きわたった。騒ぎの出所はコンクリの斜面沿いに停車した、あざやかなレモンイエローの大型乗用車のようだ。
 助手席のシートを倒して寝そべっていた男の人が、半開きのドアを革靴のつま先で押し開き、ひょこりと降りたった。
 中肉中背。ほとんど白くみえるほど脱色した髪に深紅のメッシュ。生成のサマースーツは、たぶん麻だろう。車に負けないくらい派手な黄色のシャツと紫色のネクタイにぎょっとしたが、トータルでみると、それなりに着こなしている。僕らを見上げた顔は思ったより若かった。
 どこかで見かけた気もするが、とっさには思い出せなかった。
 男の人はクマバチが飛び込みそうなほど大きく口をあけてあくびをし、目尻をこすってもう一度こちらを向いた。
 まるで珍しい動物を初めて目にしたように僕らをじろじろと観察していたが、やがてきれいに揃った白い歯をみせて屈託なく笑った。
 そうして僕らが地面に降りるより先に、またするりと車内に戻っていった。
 乗用車は耳を壊しそうな排気音をたてて急発進し、タイヤを軋ませながら方向転換して海沿いの道を走り去った。
「なんだったんだ、今の」
 キアは僕の当惑にはこたえず、眉間に皺をよせて車の走り去った方角をにらんでいた。

2003/08/02 Sat.

 うだるように暑い午後が続いていても、日没の時間は少しずつ確実に早くなっている。
 僕は刻々と暗くなっていく空の下で、児童公園の脇の歩道をゆっくりと歩いていた。
 マテバシイの若木が公園の周囲を縁取るように植えられていて、その外側には歩道との境界線上に側溝が掘られている。U字型のコンクリートブロックが埋め込まれた溝の中を、懐中電灯で照らしながら見てまわった。
 落ち葉やゴミが溜まったあいだに時折がさがさと動くものがいる。それをつまみあげては手近な木の幹にとまらせてやった。クマゼミの幼虫は鎌形の前肢とか細い中後肢をじたばた動かしたが、樹皮に触れるとしっかりとしがみついて幹をよじ登っていった。
 五、六匹くらいサルベージしただろうか。一匹が僕の腰くらいの高さのところで動かなくなってしまった。
 こんなところにいたら周囲から丸見えだ。鳥がねぐらに帰っても、トカゲや猫の類はいくらでもうろうろしているのに。
 公園をぐるりと一周して戻ってきたときにも、そいつは同じ場所にじっとしていた。
 すっかり日は暮れたが、街頭の灯りに照らされて、幼虫の泥をかぶった背中がはっきりと見えていた。
 腰を落として観察を続けていたら、背後に誰かが近づく気配がした。
 てっきりキアだと思って確かめもせずに話しかけた。
「セミの羽化、見たことある?」
「セミノウカ?なんやそら。ここで見れるんか」
 返ってきたのは聞き慣れないしゃがれ声だった。
 驚いて振り向くと、若い男の人と目が合った。昨日、海辺で見かけた人だ。
 僕のとまどいをよそに、男の人はまた白い歯をみせてからっと笑った。
「さっきから見とってんけど、ようわからんかってな。ここでいったい何しよんや。何か拾い集めとったんか?」
 僕は背をのばして相手と向き合った。ノースリーブの黄色いTシャツにじゃらじゃらと鎖をぶらさげたカーキの綿パン。一見ラフに見えて仕立ては良い服だ。その手のブランドものか何かなんだろう。
 ずっと見られていたと知ってちょっと気持ち悪かったが、男の人は何の悪気もくにこにこ笑いかけてくる。邪険な態度をとるのも気が引けた。
「地面から出てきたセミの幼虫が、ときどき側溝に落ちてしまうんですよ。拾い上げて木にとまらせてやってました」
 男の人は不思議そうにあごをしごいた。
「セミぃ?あの毎朝騒いどうやつか。なんで助ける必要があんねん。それでのうても、やかましいてかなわんのに」
 不必要に大きな声を出されて、僕は首をすくめた。
「待ち合わせの間に、ちょっと気にかかっただけです。目の前で死なれるのもいやだから」
「そんなもんかいな。で、さっき言うとった『センノーカ』って何や」
「羽に化けると書いて『羽化』ですよ。幼虫が今から脱皮して大人のセミになるんです」
 僕はさっきからぴくりとも動かない幼虫を指さした。
「それをじーっと見てる気ぃか。ひまやな」
「始まってしまえば一時間ほどのことです」
 話をしている間に、幼虫の背中に細い亀裂が生じていた。
 こいつは時間が差し迫っていたので高所へ登ることを断念したのだろうか。
 僕は黙礼して話を切り上げ、マテバシイの根元に膝をついて幼虫をじっと見つめた。
 男の人は立ち去ろうとしなかった。両膝に手をおいて僕の肩越しにのぞきこんできた。
 亀裂は徐々にひろがり、茶色く乾いた殻の中から白くみずみずしい身体がゆっくりゆっくりと盛り上がってきた。胸部に続いて大きな目のついた頭が現れた。
 殻を離れた上半身が大きくのけぞった。六本の脚が胸部の内側に畳まれているのがあらわになった。腹部の先だけでぶらさがっているので今にも落ちそうに見える。頭の下のふたつのこぶがゆるゆるとほどけてひろがり始めた。
 さかさまにぶらさがったままどれくらい時間がたっただろう。セミは前触れなしにくいっと身体を起こし、前脚で脱いだばかりの殻につかまった。するりと腹部がぬけて、成虫の全身が姿をあらわした。
 僕の肩に手を置いた男の人が、深いため息をついた。
 うす緑の羽がさらにひろがり、透明度を増して輝いた。
「烏丸!」
 鋭い声に呼ばれてはっとした。
 道路の角にたったキアが、険しい目でこちらをにらんでいた。
「どうしたの……」
 僕の肩に置かれていた手がすっと動いて首すじにまわされた。圧力は全然かかっていなかったが、なでられた感触にぎくりとした。
 キアがダッシュしてきて僕の肩をつかむのと、男の人が飛びのくのがほとんど同時だった。力まかせに引き寄せられてバランスを崩し、僕はキアの胸に抱きかかえられるように倒れ込んでしまった。
 男の人は軽やかなステップを踏んで後ろへさがり、道路に尻餅をついたキアとその上に乗った僕を見て楽しそうに笑った。
「ええなあ。セミもおもろかったけど、君らもええ味しとうで。ほんまに西中始まって以来の秀才と淡路を蹴倒したケンカ屋なんか?」
 腹の底がずんと冷たくなった。この人は僕らの噂を知っている。いったい……
 キアは僕を脇にどけて、今にもつかみかからんばかりに身構えた。彼がにらみつけていたのは目の前の黄色いTシャツの男ではなく、その背後にひっそり立った四十がらみの男性だった。
 くたびれた半袖のワイシャツにチャコールグレーのスラックス。地味ないでたちでもサラリーマンには見えない。キアを見かえす眼光が鋭すぎるのだ。
「多聞(たもん)。ほんまにこいつか?」
 若いほうの男に聞かれて、年上の男がうなずいた。
「近寄らんでくださいよ。噛みつきますよって」
「ケモノ扱いすんな!」
 キアが叫んだ。男の醒めた表情に変化はなかった。
「犬なみに吠えとろうが」
 キアはこいつと知り合いなのか?
 若いほうは肩をふるわせてひくひく笑い続けていた。
「おもろいやんか。お前に笑かされるとは思わんかったで」
 キアはきつい目をそちらに向けた。
「お前が、江坂か」
「えっ……」
 僕はぎょっとしてもう一度若い男の顔をまじまじと見た。江坂なら校内ですれちがったり、遠くから姿をながめる機会はあったはずなのに。髪を脱色して私服を着ただけで、目の前の男はとても中学生には見えなかった。
 江坂の笑みに初めて邪気がさした。
「今日はここまでや。まあ、これからもよろしゅうな」
 多聞に手で合図してそのまま立ち去ると見せて、いきなり振り向いて羽化したばかりのクマゼミをつかみとり、側溝のコンクリにたたきつけた。
「ああっ」
 僕は我を忘れて道路にはいつくばり、腕をのばした。手遅れだ。すくいあげたものは、ほんの数秒ぴくぴくと脚を動かしていたが、まもなく命をもたないぶよぶよの塊と化した。
「羽化はきれいやったよ。けど、やっぱりセミはうるさいわ」
 江坂はけろりと言い放つと、多聞を引き連れて今度こそ歩き去った。
 公園の向こう側で急発進する自動車の音が聞こえた。
 僕は側溝のわきに呆然とへたりこんでいた。あたりが静かになってからのろのろと顔をあげると、キアが僕の手元を見つめていた。
 僕が手のひらに載せた塊を見つめていた。
 その顔は凍りついたように表情がなく、セミの死骸と同じくらい青白かった。
 キアが見ていたのはセミでも僕でもなかった。僕はこの顔を知っている。前にも見たことがある。一番大切なものを失くした人の顔。
 うわんと耳鳴りがして気分が悪くなった。どうして僕がそんなことを知っている?どこでそんなものを見た?
 キアがさきに我に返って僕の腕をつかんだ。僕の顔色も同じくらい青ざめていたのだろう。公園の静寂をやぶってヤブキリが無遠慮に鳴き始めた。

前へ 次へ
第三章 フンコロガシ (1) に戻る